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2022-08-01から1ヶ月間の記事一覧

ヒストリーオブ山下達郎 外伝5 野口明彦インタビュー

<高校の途中からフォークをやったんです>生まれは東京・中野新橋、淀川浄水場の向こう側です。で、その向こうはもう渋谷本町。渋谷と中野の境目ですね。家からバスに乗って、バス停3つ目で浄水場。中学校の頃にはもう浄水場がなくなって、京王プラザホテル…

ヒストリーオブ山下達郎 第14回 ワンステップ・フェスティバル、そして… 1974年

<見知らぬ人たちからシュガー・ベイブって呼ばれたの、初めてだった> 74年8月8日だったんだね、郡山ワンステップ・フェスティバルに出たのは。4日間ぐらいの野外イベントがあるって言われてたけど、あの頃はいちいちライヴの細かい背景なんか気にして無か…

ヒストリーオブ山下達郎 外伝4 村松邦男インタビュー

<並木の家に遊びに行ったら、たまたま山下が居たんだ> 山下と初めて会ったのは高校時代。 もともとは僕が高校でバンドをやっていて、一年後輩に並木さんが居たの。並木さんは当時、文京高校の学生運動のリーダーをやりつつ、高田中学時代からの仲間の山下…

ヒストリーオブ山下達郎 外伝3 大貫妙子インタビュー

<矢野さんが来たために三輪車は壊れてしまったのw> シュガー・ベイブ以前は、私と男性二人で「三輪車」というフォークグループをやっていて、その三人でデビュー予定だったんです。 その頃私は御茶美(お茶の水美術学院)に通っていたの。音楽は小さい頃か…

ヒストリーオブ山下達郎 第13回 初めての関西ツアー 1974年

<亀渕友香さんのステージの翌日、関西ツアーに出た>74年から75年頃のスケジュール帳が出てきたよ。74年の5月、ライブで生まれて初めて大阪行ったんだよ。よく話に出てくる京都の拾得でライブをやったのが74年5月11日だね。で、大阪へ行く前の日が、前回話…

ヒストリーオブ山下達郎 第12回 1974年、いろいろな出会い

<シングルを意識した♪パレード>74年に風都市に入って新宿西口の貸しスタジオで、1月から練習を週に何回かやらせてもらうようになって♪SHOWのアレンジを進めたり。練習がコンスタントにできるようになって、だんだん曲も書けるようになって来て。特にター坊…

ヒストリーオブ山下達郎 第11回 運命的に人と出会った一年間

<大滝さんは本当にロックンロールの人なんだね>大滝さんへのインタビューはなかなか面白かった。知らないことがずいぶんあった。(鈴木)慶一のCCRってのが一番笑ったな。でも大体認識は同じような感じだね。若干の違いはあるけど別にそれほど本質的なこと…

ヒストリーオブ山下達郎 外伝2 大滝詠一インタビュー

<はっぴいえんど解散でごまのはえをプロデュースすることになった>山下くんとの出会いね。まず、72年9月にはっぴいえんどの解散が決まるんだけど、その少し前に全国ツアーがあって、その最後の方に長崎でのコンサートがあったの、8月5日かな。その時に主催…

ヒストリーオブ山下達郎 第10回 1973.9.21はっぴいえんど解散コンサート

<長門くんが僕を大滝さんのところに連れて行った背景を初めて知ったよ>長門くんのインタビューを読んで、彼が僕を大滝さんのところに連れて行った背景を初めて知ったよ。彼は意外と戦術家だったということが分かった。もうちょっとナイーブな感じかなと思…

ヒストリーオブ山下達郎 外伝1 長門芳郎インタビュー

<マネージャーになるハズが「ディスクチャート」で働くことになった>72年の秋に「ディスクチャート」が出来た時、僕は長崎県対馬に居たの、東京から一回引き上げて。対馬で現場監督、道路を作ってた。親の金でいかせてもらっていた大学を中退しちゃったか…

ヒストリーオブ山下達郎 第9回 シュガーベイブ誕生

<当時、いろんなミュージシャンのライヴを観ていたよ>1972年、行った来日コンサート。ツェッペリン、プロコル・ハルム、テン・イヤーズ・アフター、ジェームス・ブラウン、それから共立講堂で見たフリー。いろいろ観た中であのフリーと、高校1年の時にサン…

ヒストリーオブ山下達郎 第8回 シュガーベイブ前夜 1972〜73年

<ディスク・チャートで新しい音楽仲間と出会う>僕が運送屋でバイトしてた時、他のメンバーも別のバイトをやってた。鰐川のお兄さんがガラスケースのリース会社に勤めていて、僕以外全員そのリース会社でバイトしてた。デパートの売り場、食品売り場や衣料…

ヒストリーオブ山下達郎 第7回 自主制作アルバム(3)ADD SOME MUSIC TO YOUR DAYのエピソード

<充実した“ごっこ”だったアルバム制作>両面に6曲づつで計12曲。収録時間を長くしてしまうと音が悪くなる、ってくらいの知識は本を読んで知ってた。だから片面15分からせいぜい18分、あの時代のアナログLPの普通サイズ。カッティング・レベルの具体的、専…

ヒストリーオブ山下達郎 第6回 自主制作アルバム(2)1972年

ADD SOME MUSIC TO YOUR DAYを巡る試行錯誤 <レコーディングは全部自己流だった>とにかく製作費を作るためにバイトしたんだよ、13万5,000円。ノルマがひとり35,000円だったかな。曲はディスカッションで決めたんだ。A面をビーチ・ボーイズの曲にして、B面…

ヒストリーオブ山下達郎 第5回 自主制作アルバム(1)ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY

<大学では「なんか違うとこに来たな」と思った>大学は全部で4つ、全部法学部を受験、音楽著作権でも勉強しようと思ってたから。運よく3つ目まで合格。でも、3つ目の大学の入学金払い込み期日の翌日が、最後に受けた第一志望の合格発表の日だった。で、…

ヒストリーオブ山下達郎 第4回 高校時代(1968-70年)そしてドロップアウト

<ミュージシャンになろうという気持ちは無かった>ヤング・ラスカルズ、アニマルズ、ビーチ・ボーイズ、、、アニマルズはアレンジ力と演奏力だね。リズムパターンがすごくユニークだったんだよ。♪悲しき願い(Don’t let me be misunderstood)なんてスネア…

ヒストリーオブ山下達郎 第3回 初めてのバンド・中学から高校

<バンドの全員が同じクラスに> 昔はエレキバンドと言うのは実に金のかかるものだったんですよ。アンプ、ギター、ドラム。どれもどうしようもなく高くて。エレキバンドと言うのは実は当時の日本ではアッパーミドル以上のぜいたくな趣味なのね。 エレキを持…

ヒストリーオブ山下達郎 第2回 中学時代 1965-1967

< 運命的だったブラスバンド入部/豊島区立高田中学へ通学 >高田中学は去年(2002年)少子化のあおりで、統廃合されて名前が無くなっちゃった。あの当時は高校受験に有利なように、自分の学区じゃない遠くの中学に住民票を移してわざわざ通うというパターン…