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ヒストリーオブ山下達郎 第6回 自主制作アルバム(2)1972年

ADD SOME MUSIC TO YOUR DAYを巡る試行錯誤

<レコーディングは全部自己流だった>
とにかく製作費を作るためにバイトしたんだよ、13万5,000円。ノルマがひとり35,000円だったかな。曲はディスカッションで決めたんだ。A面をビーチ・ボーイズの曲にして、B面をその他のロックンロールやポップソングのナンバーにしようって決めて、いろいろ話し合ってね。最初はビーチボーイズの♪ ADD SOME MUSIC TO YOUR DAYも入れる予定だったの。ところがあまりに難しくて、レコーディングができなかった。だからアルバムタイトルだけが残ったんだよね。
フォーク系の人は少しあったかもしれないけれど、自主制作レコードというもの自体、当時はあまりなかったからね。あらゆる意味でこのアルバムが非常に進んでいたのは確かだよ。だからみんなびっくりしたんだ。
東芝にルートがついて、19センチ/秒、2トラックのステレオでレコーディングしたテープを持って、溜池の東芝スタジオにいったんだ。そこで38センチ/秒、2トラックにコピーしたあと、1曲ごとに白み(曲間のインターバルを作るために録音テープに挟み込む白色のテープ)を入れて、曲間を決めてみたいな作業やった。
まぁ要するに最高のレコーディングごっこだったんだよ。全部自己流。だってプロのレコーディングの現場なんて見たこともないし、参考になるような資料もあまりなかったから。前回にも言ったようにオーディオマニアの友人からとか、全てが聞きかじりの知識。
2トラックで唯一可能なのは、元の音の上に新しく加えていく、サウンド・オン・サウンドって言うやり方だけなんだ。まず演奏をテレコに録音してカラオケに相当するものを作る。その音を聞きながら、コーラスやボーカル、あるいは別の楽器を演奏して、これをミキサーで元の音とミックスして別のテレコに録音するの。
前にも言ったようにTEACSONYのテープレコーダーを使ったんだけど、ティアックの方が値段が高くて従って音が良かったんで、初めはティアックを録音専用、ソニーを再生専用にしてたんだけど、テープ・スピードが微妙に違っていたのでだんだん音のピッチが高くなってしまう。これはやばいって言うんで、2つのレコーダーの間で交互に録音する方式に変えたら、今度はSN(音のクリアさ)がどんどん劣化して、いろいろ大変だったんだよ。
並木の家という場所はあったけど、お金がなかったからね。だから本多信介にアンプを借りたり、エコーがないどうしようかと言ってた時に村松邦男くんがふらっと遊びに来て「村松くんエコーチェンバー持ってたよね?」って。村松くんは結構楽器を持っていたんだ。♪Wendyや、♪Don’t Worry Babyのギターにかかっているエコーは村松くんから借りたELKのテープエコーチェンバーを使ってるのね。で、歌のエコーは前に言ったみたいにテープレコーダーの再生ヘッドを使ったフィードバックループで作っている。完全に一から十まで我流だよ。

<並木の家のおかげでアルバムができた>
アルバムを作ったメンバーではまず鰐川己久男。鰐川は並木の高校の同級生で同じ学年なんだけど、彼は中学生の時に胸を悪くして一年かぶってるんだよ。だから学年は同じなんだけど彼の方が年齢が1つ上なの。
それから武川伸一も並木の高校の同級生で、彼は小さい時からエレクトーンを習っていたから、それでキーボードがちょっと弾けるのね。
で、彼らの関係の知り合いに沖っていうのがいて、彼はのちに現代美術のアーティストになった。今ではその筋では結構知られている存在だよ。
この沖の友人が金子辰也で、この自主制作アルバムのカバーデザインを担当するんだけど、この縁が続いて、後にシュガーベイブのソングスのジャケットを金子に頼むことになる。
あと石川は中学生の頃からやっていたアマチュアバンドのメンバー。中学時代のメンバーは僕と並木と高山と石川、この4人で始めたの。
その後にもう1人入って、5人になったんだけど、そいつは高校に入った後に辞めちゃって、その代わりに鰐川が入ったの。だからADD SOME MUSIC TO YOUR DAYの正式メンバー(山下、並木、鰐川、武川)4人のうち僕を除く3人は同じ高校の同級生なんだ。
沖と金子は美術学校の友達同士、この2人は美術系だった。つまり石川くん以外は全部並木の人脈だね。
武川は連獅子みたいな髪をしててね。こいつもちょっと変わったやつでママス&パパスとかやっぱりそういうコーラス系が好きでね。鰐川は前に言ったみたいにギターの鬼だったけど、武川はポップス・ファンだね、それほどオタクではない。でも自分で一生懸命コーラスをコピーして譜面を作ったりが好きなやつでね。
やっぱり並木の家という「場」がものすごく重要だったね。あの場所があったおかげでこれができたんだ。並木の家の周囲もこの時代になるとかなり家も立て込んできて、さすがに夜中にドラムを叩けなくなっていたから、昼間のうちに録音したの。大学に入ったけど鰐川以外は学校なんか殆ど行ってなかったからね。
難航したのは演奏そのもの。何しろ下手だったからね。一人一人はそこそこだとしても、各自が自分の演奏をこなすのに必死で、お互いのアンサンブルを考えられるほどの余裕はなかったから。まぁどっちかと言えば楽器のテクニックで勝負すると言うより、選曲とかのコンセプトワークでなんとかしようとしたんだよね。でもたとえ下手でもそういうレコーディングごっこは大好きだったんだよ。そういう素養あったから。
例えば当時の4トラック19センチ/secテープレコーダーでこういう真面目なレコーディングをするときは往復で録っちゃだめだって。片道にしないとクロストーク(別のトラックの音が紛れ込んでしまう現象)が出るからとか、それは知っていたの、聞きかじりだったけど。
ラインの接続でも楽器のフォン・ジャックをオーディオ用のピン・、ジャックにつなぐための変換プラグとかそういうのを買うのですら一苦労だった。秋葉原に行くんだけど高いんだよ、そういう細かいものも。
演奏を一発で録音して、それから歌を録音していく。あと歌いながらグロッケンをやるとかね。B面 1曲目のマンフレッド・マンの♪Semi-detached suburban Mr.Jamesだけは僕と鰐川と武川の3人でリズムを録った後に、レフト、ライト、センターって3回コーラスを入れて、センターのコーラスを入れるときに一緒にリードボーカルをやったの。だからかなりSNは悪いんだけど手間はかかっているんだよ。
このこの曲だけ原曲からアレンジを変えている。アレンジしてみたかったんだよね。その頃って自分で曲を作り始めた時期でもあるからね。編曲にはもともと興味があったんだよ。高校時代からブラバンでは自分でスコアを書いて、ハプニングスの曲を演奏したり、武蔵野美大の友人に頼まれて、学園祭のパーティーでライブをやるなんてことがあって、そういう時にも全く完膚無きまでに曲を変えたりしていたからね。ラヴィン・スプーンフルをハードロックでやるとかね。
いずれにせよこのレコーディングはオーディオ的にはほとんど僕が1人で考えてやっていたね。他の皆んなはそういうところにはあんまり興味がなかったから。

<発想と言う点ではB面の方がよく出来てる>
並木の家にはいいステレオといいテープ・レコーダーがあったんだよね。ステレオはセパレート型のでっかい家具調度品のものもあったし、並木のお兄さんがオーディオ好きだったこともあって、相当ハイグレードな機器で当時としてはかなり良い音で聴けたんだよ。しかも普通の家ではそんなに大きな音では弾けないよね。自分の家だと夜中はヘッドフォンで聴くしかないじゃない。それが並木の家なら夜中でもかなりの大音量で聴けたから。
特に自分が弾き語りを録音するとか、さっき触れたエコーの実践とか、いろいろなトライをどんな時間でも大きな音で弾いて、歌って、弾けたっていうのは何物にも代え難かったね。
今から考えると僕の耳はあれで鍛えられたんだ。もし3、4歳の頃からJBLのスピーカーやマッキントッシュのアンプでずっと聴いていけたらもっといい耳に育つんだろうけどね。並木もあの環境で、お父さんの時代からでっかいステレオでいろんなものを聴いていたから、やっぱりそういう審美眼ができていたんだろうね。加山雄三さんのクロイツァーのエピソードじゃないけどさ。
加山さんが子供の頃、名ピアニストのクロイツァーが近所に住んでいて、美しいピアノの音がいつも聞こえてくる、と。ある日その家の前で掃除をしていたおじいさんが、加山さんを家に入れてくれて、ピアノを弾いて聞かせてくれたの。それで加山さんがあそこでピアノを習いたいってお母さんの小桜葉子さんに頼んで、お母さんがお願いに行った。そしたらクラッシックに造詣の深かったお父さんの上原謙さんが「なんてことをするんだ」って怒ったって「あの人か誰か知らないのか」って。それで謝りに行ったら翌日お弟子さんが来て、先生は無理だけれど僕が教えてあげますから、ってそのお弟子さんが教えてくれたんだって。恵まれてるよね。まぁそういうんじゃないと才能なんて育たないんだって。
僕が並木の家に出入りするようになったのが13歳の頃からでADD SOME MUSIC TO YOUR DAYの時には6年くらい経ってるでしょ。その後も22歳くらいになるまで並木の家でなんだかんだで、ほぼ10年間をあそこで過ごしていたんだよね。多い時は週の半分以上いたからさ。ここで歌って、曲を作って、ギターを弾いて、ドラムを叩いてた。
僕にとっては学校に行く何倍もの役に立った自己学習の場だったよね。あの体験がなければ、音楽家としてやっていくのは全く不可能だったね。
ADD SOME MUSIC〜は気にいってる?かと言われれば、今からすれば恥ずかしい方が先だよね。ただビーチボーイズのコーラスのコピーはかなり正確だったから、それには自信があるけどね。だけど発想と言う点では、やっぱりB面の方がよくできているね。コンセプト言う意味で。
僕を含めてあの頃の仲間はかなりダウン・トゥー・アースな音楽、あるいはガレージロック、ビーチボーイズだって元はガレージ・ミュージックだからね。あとはストリート・ミュージック。そういうのが好きだったんだよ。
B面でやっている♪Crazy Words, Crazy Tuneはジャグ・バンド・ミュージックだし、♪Sincerely や♪why do fools fall in loveはドゥーワップでしょ。それとさっき言ったマンフレッド・マンに、エヴァリー・ブラザーズの♪Devoted to you 。
♪Love’s made a fool of youはトム・ラッシュのアレンジからボディー・フラワーに変わっているって言う。これは武川がやりたいって言ったんだよ、彼はトム・ラッシュが好きでさ。変な選曲だよね。でもこの時代では非常にユニークで特異だった。それだけは確かだね。
当時ちょうど日本コロンビアにチェスとかコーラルとか、ブランズウィックとかそういう洋楽レーベルが集結していた時代でね。まさに「アメリカン・グラフィティ」が流行る直前の時代で、長い間聴くことができなかった50年代から60年代初期のアメリカのヒットソングがロックンロール・オリジナルヒットみたいな形でアルバムとしてどんどん出されてた。
当時の当時の日本コロンビアにはきっと熱心なA&Rとか、そういう人がいたんだろうね。それまでの10年近く、ビートルズの登場以降はジャッキー・ウィルソンとかバディ・ホリーなんてどこからも一切出てなかったのが、あの時代、一斉にアルバム化されてた。そういうのをとにかく狂ったように聞いていたの、みんなで。その成果っていうかね。
Lovin’ Spoonfulっていうのは出自がジャグ・バンドでとか、ニューヨークのグリニッジ・ビレッジではジム・ウェスティング・ジャグバンドが人気があってとか、朝妻一郎さんや中村とうようさんのライナーには書いてあったけど、そんなもの聴いたこともない。そしたらあれはヴァンガード・レーベルであれもコロンビアだったな、やはりこの頃ジム・ウェスティング・ジャグ・バンドのベスト盤が出たんだよ。まだ輸入盤屋さんがなかった時代でしょ。
この時より少し前の話だけど、ラスカルズのファースト・アルバムがどうしても欲しくて。日本盤が出てなかったから。
そういう場合の輸入代行をしてもらえる殆ど唯一の場所は、銀座のヤマハだった。店まで行って、書類で申請するんだ。新譜の洋楽アルバムが2千円の時代に、2千700円もとられたね。サラリーマンの初任給が5万円の時代だよ。その上、船便で着くのに3ヶ月もかかるんだ。一生懸命お金を貯めてそれを頼んだのね。で、3ヶ月経って届いて、シールを切って中を開けてみたら、アトランティック・レーベルのロゴが変わっていた。アルバムが発売された時のレーベルじゃなかった。ちょうどその年にアトランティックがレーベルデザインを変えちゃったからだったんだ。それでがっくりきてねw
持っていた2ndアルバムの「コレクションズ」はオリジナル・レーベルだったから。だから日本のポリドールからリリースされていたラスカルズのLPは当然ながら発売時のレーベルデザインだった。僕はアトランティックのレコードを結構持っていたからレーベルには詳しかったんだよ。割と当時の日本の洋楽のレコードはオリジナル・レーベルに忠実だったから。それが全然見たこともないレーベルになってるの。ちょうどその端境期だった。
僕の運が悪かっただけ。だからもう2ヶ月でも早く頼んでいれば、きっと古いレーベルで来たんだろうけどね。
古いレーベルの盤はずっと後で買ったよ。ラスカルズは日本盤、アメリカ盤、イギリス盤、シングル、アルバム、モノラル、ステレオ、全部あるw
♪Add some music ~は出来なかった。演奏もそうだけど何しろコーラスがコピー出来ないんだよ。あの曲は70年に出た「サンフラワー」って言うアルバムに入っていたんだけど、あれはステレオが普通のセパレーションじゃなくて、いわゆる疑似ステレオに似た方式で、妙な具合に広がっている。定位があいまいで全然ボイシングが採譜できないの。♪Don’t worry babyが入っているアルバム「シャットダウンVol.2」は真ん中がカラオケ、右がコーラスで、左が歌になっていて、だからコーラスが非常にとりやすい。
そういうレコーディング方式の違いで、曲によってコピーしやすい、しにくいっていうのがあってね。演奏や歌以前にそういうこともあったんだよ。それと僕たちは民主的なバンドだったから、僕ばっかりがリードだとダメだから、鰐川に歌わせようとか、並木に歌わせようとかあってね。でも鰐川が♪Car crazy cutieを歌うのを嫌がってね。本当は歌いたくなかったのか。

<オーディオ的な段取りは実質的に全部、僕だった>
てこずった曲はアカペラかな。実はね、録音したビーチボーイズの「Summer Days & Summer Nights」に入っている♪And your dreams come trueのアカペラは(原曲は)部分ごとに別に録音して、あとで繫いでるんだよね。あの頃はそんなことが皆目わからない。で、この短いアカペラを最後まで通してできないんだよ。何十回録ったかわからない。レコードに入ってるテイクが一番マシなんだけど、それでもおしまいで声がひっくり返っている奴がいる。しょうがないからフェードアウトしてるの、無理矢理。今みたいにプロツールスなんかないから修正もできないしね。
レコーディングは丸2ヶ月って書いてあるでしょ。休んではやり、休んではやり、で、練習してまたやって。並木の家に入り浸り、泊まり込みだよね。
この頃には並木の部屋は母屋から離れたガレージの上で。だからますます音が出しやすい環境になっていた。キッチンを挟んで2部屋あってね。片方が寝室でもう一方がスタジオっていうか、絨毯の上にドラムスを置いてやっていた。下のガレージも利用したんだよ。ガレージは残響があるからね。
2階の部屋に上がるためにコンクリートの階段があったんだけど、マンフレッドマンの♪Semi−Detached〜はその階段の中段ぐらいに立ってハモって、上の踊り場にマイクを立てて録った。そうやって自然のエコーをつけた。
♪And your dreams come  trueのアカペラは下のガレージにテープレコーダーを運んで、そこでステレオのワンポイントマイクで録音したんだよ。オーディオ的な段取りは実質的に全部僕だった。
だから大学に入ってから並木の家には本当に入り浸っていた、ほとんど毎日。着替えに家に帰ると言う感じ。よくそれだけ面倒を見てくれたよね、並木の家の人は。
8月から9月、実質夏休みから少しこぼれて、並木の家からみんなバイトに行くんだよ。まぁ普通の家だったら、もうとんでもないってことになるよね。全く以て恵まれた環境だったよね。
自分でもこんなにまとめて話した事は無いけれど、考えてみたらいろんなファクターがある。
長谷川君と出会っていなかったら、信介はいなかったわけだし。そういう縁がつながって道が出来上がって。
あのアルバムがなかったら、大滝詠一さんも伊藤銀次もないわけだからね。
【第6回 了】