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ヒストリーオブ山下達郎 第51回 98年8月、7年ぶりオリジナル・アルバムCOZY発売

<リリースとライヴのローテーションが崩れてしまった時代>
ARTISANから7年、ようやく出たという感じ。その間にシングルをたくさん出しているから、サボっていたわけではないけれど、結果、それまでで一番、収録曲数が多くなって、15曲72分のフルボリュームな内容。本当は、そんなにたくさん入れたくなかったんだけど、それでも「BLOW」が入れられなかったから、アナログ盤に入れた。
“DREAMING BOY”が頓挫して、あれ以後はミックスが気に入らなくて、リミックスしてみたり、あとは「ヘロン」みたいに、演奏し直してみたり。そういうジタバタの繰り返しで。シングルで既売の「DREMING GIRL」や「MAGIC TOUCH」とか、90年代半ばの曲は、ほとんどリミックスして、それでようやく出せた。
幸運なことに、ちょうど長野冬季オリンピックがあって、既成曲だった「ヘロン」を、その時にシングルで出し直して(98年1月)、それが久々のベストテンヒットになった(初登場10位)。そういう意味では、CDが売れていた時代で、全体的な市場景気が良かったので、そのおかげもあってプロモーションもちゃんとできた。同じ頃にレコード会社のプロモーションチームが変わって、もともと徳間とかクラウンにいた若い層がワーナーに入ってきて、地方の宣伝スタッフも若返りしたので、それもよかった。あの時は僕も45歳で、同世代がだんだんくたびれ始めた時だからw  若返りは大きかった。
一応このアルバムは100万枚売れて、ゴールドディスク大賞をもらった。僕のオリジナル・アルバムとしては初のミリオンセラー。まあ、それはどうでもいい。70万枚、100万枚だろうと、何がどう違うんだろうと思う。TRESURESはベストアルバムだからミリオンになったのわかるけど。僕は大スターじゃないし、メジャーな存在でもないから。
内容はごった煮だけど「ヘロン」のヒットのおかげで、いい滑り出しだった。80年代から90年代初頭は、ツアーとレコーディングを並行してやっていて、その間にまりやの制作をしていたのが、このあたりで停滞し始めてくる。ライヴがやれないのが、すごくキツかった。それまでのライヴは、基本的にレコードのプロモーションとしての位置づけなので、あくまでのレコードが先行していた。だからレコードが出ないとライヴができないので、この時代はそういうローテーションが完全に崩れてしまっていた。
曲が書けないわけじゃなくて、音が気に入らないとか、それと何より、レコーディングやライヴを一緒にやっていたミュージシャンが、バンドごと他のアーティストに引き抜かれてしまって、あれは特にダメージが大きかった。音楽業界はいつも人材の取り合いで、僕はそういうところが、のんびりしすぎている。フォークシンガーみたいに、ギター1本で弾き語りができればいいけど、僕の音楽は一人ではやれないから。それで、スケジュールがうまく運ばなくなった。2000年代にも同じようなことが起こる。おかげさまでCOZYはよく売れたけど、評論家気取りみたいなお客もたくさんいて、やれ既発曲が多いだの、オーディオ的にどうだのって。くだらない。
1曲目の「氷のマニキュア」は、デモを作った段階ではすごく気に入ってたけど、リズムを録ったら印象が少し変わってしまった。ドラムは青山純の弟子の阿部薫くん。彼はロニー・タットやエド・グリーンが一番好きで、いいドラムを叩いてくれた。最近(2020年)はずっと及川光博さんのバックをやっているみたい。
「氷のマニキュア」はニューヨークでブラスを録ったけど、あまり良くなくて。歌詞の”Cool”の勘違いもあった。最初”Your love is cool”というアイデアを出して、Coolをイカしてるとかカッコいいという意味のつもりだったんだけど、そのまま氷という歌詞になってしまって、直してもらいたかったんだけど、時間がなくて。それは心残り。
曲調は、いわゆるブラコンというか、テンポ感が1曲目向きかな、と。ああいったパターンの曲は、80年代だと先にリズムパターンを作って、あとからメロディーを考えるやり方だったのが、90年代になって少し作風が変わってきた。「FRAGILE」なんかもそうだけどFOR YOUの頃から比べると、メロディーの構想があってから、作ってる。80年代の「SILENT SCREAMER」なんか、最初はメロディーなんて全くなくて、レコーディングしてたから。でも「氷のマニキュア」は、ちゃんとサビのメロディーまで作って、始めてる。
なぜかというと、初めから歌詞を人に頼もうと思っているから。そうすると、少し言葉数が多くても、当てはめてくれる。 自分で歌詞を書くと、あまり言葉数が多いのはイヤになるからw  アラン・オデイに頼む時も、自分で書いたら埋め切れないけど、アランだったら大丈夫だというのがある。自分で歌詞を書くと、言葉数が少なくなる。俳句になるw  この頃は、まあ今もそうだけど、言葉を詰めるのが流行っていたから、そういう進め方にしたいと思った。KinKi Kidsの「硝子の少年」も、近藤真彦の「ハイティーンブギ」に比べると、言葉数が多い。そういうのは、時代の趨勢とかも関係している。すでに「kissからはじまるミステリー」みたいなのも作っているし。それに比べたら「DREAMING GIRL」や「ヘロン」なんて、のんびりした譜割り。
曲順はもう既にCDを意識したもので、COZYはアナログだと2枚組になるから。今はアナログ・ブームだけど、あの時代はもうアナログなんて無理だと思っていたし、あの時に作ってるアナログは、一種のサービスだから。A面、B面という発想はなく、考えても10曲目くらいまでで、あとはシングル集。後ろの順番はそんなに重要ではない。
それでもアルバム1曲目、そして2曲目も重要、かなり意識している。アルバム1曲目の出だしは、70年代、80年代初めは、ほとんど分数和音。シュガー・ベイブの「SHOW」が分数和音で、それから「CIRCUS TOWN」「LOVE SPACE」「SPACE CRUSH」「LOVE CELEBRATION」までずっと分数和音。そのあとはサブ・ドミナント(コード)のメジャーセブンスが比較的多くなる。「いつか(SOMEDAY)」「SPARKLE」もそう。だいたい、僕の曲はある時期までは、トニック(主和音)とかトライアド(ドミソ3和音)で始まるものが、ほとんどなかった。分数和音か、メジャーセブンスしか使わない、ドミソだけの曲は絶対に書かない。フックの部分にトライアドで入ったのは「ゲット・バック・イン・ラブ」ぐらいからが、ようやくじゃないか。
   
<大滝さんも、たぶん同じことを言うと思う>
2曲目は「ヘロン」で、これはシングルのリマスターがとても良かったので、シングル・テイクをそのまま使っている。小鐵(こてつ)徹さんのリマスターを超えられなかった。例えばリミックスを何回しても、最初のミックスに全然かなわない、そんなものもある。「アトムの子」がそうだった。これはいわゆる”ウォール・オブ・サウンド”だから、自分がナイアガラをやるとどうやるか、っていう試み。
ただ、リズム隊は5人しかいないし、アコギは2本だけ。つまり、音圧さえ出せれば、スペクター・サウンドに大人数はいらない。デジタルだと、エコーがかかっていても、遠くならないような工夫が難しい。エコーの多い音楽というのは、奥行きとか広がりを出すことが目的だから、よく言えば奥行きがある、悪く言えば音が遠い。ヒップホップみたいなのは、とにかく音を前に出す思想で作っているから、深いリバーブを嫌う。70年代のザ・バンドなんかもリバーブは無い。何故かと言うと、リズム隊を前に出したいから。バリー・ホワイトなんかも、リズム隊はほとんどがノー・リバーブで、逆にストリングスにはびしょびしょにかけることによって、奥行きと近接感、その対比を出す。
ところが後期のスペクターものは、ドラムまでビショビショに入れるから、全部遠くなるw  それが昔からすごく苦手で、もうちょっと前へ出ないか、という意識がすごくあった。トータルコンプのかけ方なんかで、音圧を出していくしかない。「ヘロン」はトライ&エラーで、たまたま上手くいっただけ。大滝さんだってロンバケで上手く行っても、『EACH TIME』では結構大変だった。
本音を言えば、昔から僕には、フィル・スペクター周辺のオーディオ技術が、それほど優秀だとは思えなかった。むしろウォーカー・ブラザーズや、イギリスのパイ(PYE/レーベル)やフォンタナ(FONTANA/レーベル)の一連の作品の方が好み。イギリスの方がオーディオ技術は上なので、現代的な鑑賞に耐える部分が大きい。
ゴールド・スター・スタジオはぶっちゃけガレージ・レコーディングで、ミュージシャンの質も、レッキング・クルーと、ニューヨークのミュージシャンにそれほどの差は無い。だけどニューヨークのやつらは自分たちの方が上手いとか、言わない。LAの田舎と1920年代、30年代から音楽があったニューヨークとの歴史観の差でもある。モータウンなんかもデトロイトでやっているうちは個性的だったけど、カルフォルニアに吸い込まれていって、レッキング・クルーがモータウンのレコーディングをやるようになったら、やっぱり同化してしまった。初期の、いかにもデトロイトっぽいっていうものはなくなってしまった。
ニューヨークで録音されたロレイン・エリソンの「STAY WITH ME」なんて、70人くらいのオーケストラ編成でやっているけど、奥行き感ではゴールド・スター・スタジオのぐしゅっ、とした音ではなく、きちっと分離されていて、だけど凄まじく厚い。それこそがワーグナーとか、プッチーニ的なアプローチ。それはジェリー・ラゴヴォイが、よくわかっているから。そういう意味でニューヨークのエンジニアだって、とても優れている。同様にナッシュビルのレコーディング技術も素晴らしい。フィラデルフィアしかり。
スペクターは、オーディオ的にはそれほど優れていたわけではない。発想がユニークだったので、むしろそういう面をもっと評価すべきで。ブライアン・ウィルソンも、あの時代にモノラルでパッとまとめて録っちゃうと、塊にはなるけど、純粋にオーディオ的にはどうか。ベルリン・フィルとか、オーケストラを録る時のマイキングの繊細さ、そういうのに神経すり減らすけれど、一方のロックンロールの場合は、大音量でガッとやって、それで良しとする。エンジニアのラリー・レヴィンも変なやつだから。
そういう、やれゴールド・スターだ、レッキング・クルーだと、実はそんなに金科玉条とするようなものではなくて、要するにオタクの神話で。ビートルズ神話と同じで、ジョージ・マーティンはいかにすごかったとか。そんな至上主義はいけない。スペクターに関しては、それをナイアガラ神話が増長させてしまったというか、こちら側にも責任はあるけど、大滝さんだって、生きてたら同じことを言うと思う、たぶんw
3曲目「FRAGILE」は、2016年にアメリカのタイラー・ザ・クリエイターがカヴァーしてくれた。彼の5枚目のアルバム『IGOR』内の「GONE, GONE / THANK YOU」の後半部分に。
この曲は、もともとはアパレルの三陽商会のCMとして作った曲で、自分でも好きな作品。歌詞を英語で書こうと思って、最初からアラン・オデイに頼んだ。間奏にフリューゲルホーンが欲しかったんで、来日していたランディ・ブレッカーを大阪まで追っかけていって録音した。なかなか、よくできている。音は100%自分で作って、自分で打ち込んだ。編曲自体はオールドスクール。常に、あまり新しくはしないようにしないようにと、作っている。この曲がのちにサンプリングされて、カヴァーされるなんて想像もつかなかった。タイラー・ザ・クリエイターには日本人の友達がいるみたいで、その人が教えたんじゃないかと思う。
昔(SEASON’S GREETINGS のレコーディングで)アメリカに行った時、ホテルの若いドアボーイがMELODIESのレコードにサインをしてくれと言うから、なんで知っているんだと聞いたら、友達が聴いていると。前にも言ったかもしれないけど、そういうのが時々ある。韓国から手紙が来たりとか。タイラー・ザ・クリエイターみたいに、ちゃんとライツをクリアにしてやってくれるのは良心的でいいけど、無断使用というのはいくらでもあった。それに抗議しても、なしのつぶて。タイラーの場合はちゃんと連絡が来ていて、クレジットもされている。それでペイの話も、会社を通してやっている。向こうもそれでオーケーだと。別に本人がやっているわけではないけれど、一応こっちもワーナーの契約だから、そういうところはちゃんとしている。それをやらないと、相手によっては法外な値段をふっかけられるから、慎重にやっている、みんな。
4曲目の「ドーナツ・ソング」は最初96年にミスタードーナツのCMソングでオンエアされた。CMはBPMが120しばり、という依頼だったので、コンピューター・ミュージックにした。CMの映像はカバが曲に合わせて踊るというもので、テンポが早かったから、もうちょっとゆったりとしたものにしたいと思い、録り直した。曲は嫌いじゃなかったから。そしたら、ちょうどユカリが復帰して、あれが彼の復帰第一弾。となれば、当然、ニューオーリンズ・ビート。これはなかなかの人気曲で、子供が聴いて喜ぶ。ニューオリンズものなので、ライヴでは間にいろんなものを挟み込むことができる。ユカリのドラムは自家薬籠中で、ピアノも中西康晴くんでナイアガラの常連。
これは渋谷公園通りの歌でもある。昔、公園通りの入り口に喫茶店があって、20歳くらいの頃は、そこでよくデートした。ミスタードーナツは公園通りの上の方にあって、できた頃にはもう喫茶店はなかったけど、その思い出とミスドをミックスしたフィクションw  もうPARCOもあって、PARCOのカフェ”A.I.U.E.O”とか思い出したw  道玄坂にあった遠藤賢司のカレー屋”ワルツ”や南佳孝ムーンライダーズのメンバーのたまり場だった百軒店(ひゃっけんだな)の奥の、ギャルソンへもよく行った。
19歳前後の思い出。ミスドはもっと後にできたから。自分にとってミスドと言えば、公園通り。今はもうないし。でも「ドーナツ・ソング」ひとつでこれだけ思い出すんだから、皆さんもいろいろあるでしょう。ただ、店の中でひたすら曲がかかっていたから、あの当時は近寄らなかったw
   
<曲のイメージを言葉にすると、陳腐になってしまう>
5曲目「月の光」はアルバム書き下ろし。なかなか難しい曲で、90年代の頭くらいには作ってたんだけど、なかなか完成しなくて。これはニューヨークで、元タワー・オブ・パワーのレニー・ピケットにテナー・サックスを入れてもらった。キーボードは佐藤博くんで、彼ならではの得意技というか。だからトラックとしては良い。コード進行も変だからw この頃になると、曲数も200を超えている。そうするとバリエーションが難しくなってくる。自己模倣にならないようにとか、新機軸とか意識する。でもワンパターンにならないようにやってると、どんどん難易度が高くなってくる。”夏だ、海だ、達郎だ”路線で行くと、「愛を描いて」はシンプルな曲だけど、最後の方の「踊ろよフィッシュ」になると、歌も難しいし、曲も変態的になってくる。「月の光」は「FUTARI」なんかと比べても、ぜんぜん難しい。コード進行も複雑化させないと、前作を越えられない、というミュージシャンの業がある、それが果たして、良い結果を生むかどうかは別問題で、スタジオはまだいいとしてステージではどうなるか。この曲も演奏難易度が高く、ライヴでは一度も歌ったことがない。そういう曲は意外と多い。
6曲目「群青の炎-ULTRAMARINE FIRE-」はキリンのCMソング。吉永小百合さんが出演していたCMで、一度だけ正月に流れたけど、その後ボツになってしまった。理由は忘れてしまったけど、いいCMだった。曲を作る段階で、吉永さんの出演は決まってた。映像も見せてもらった。吉永さんからある種の悲しみというか、そういう匂いを感じて。頂点を行く女優、例えば原節子とか、田中絹代もそう。あの頃の女優って、うしろの闇というか、そういうのが見える。女優って、ペルソナ(仮面、内側に潜む自分)だから。最近はそういうのを感じさせる人がいない。いや、いないと言うより、そうできなくなってしまった。
曲調はいわゆるスウィートソウルの世界なんだけど、死のメタファーを歌った曲でもある。亡くなった人、失われたものへの鎮魂歌。失恋の歌ではなくて、その先の。群青の炎、魂が燃えている、そんなイメージ。夜が明けて、空が白んでくる。心の中の描写。だから「FOREVER MINE」(2005年)なんかと同じ発想。死のメタファー、無常観、そういうのが好きで。こうやって曲のイメージを言葉にすると、陳腐になってしまう。
この頃、録音に使っていたガットギターがあって、クラシックギターの先生に借りていたんだけど、初めて借りたのは、まりやの「AFTER YEARS」(1987年)の頃かな。以来、この頃まで、ガットギターといえば、そればっかり使っていた。ほんとにいい音するギターなんだけど、だんだんフレット音痴になってきて、それでいつの間にか、借りなくなってしまった。フレットのマークも付いていない、スペイン製のプロ用のものだった。
7曲目は加山雄三さんの「BOOMERANG BABY」のカヴァー。いつか加山さんのカヴァーをやろうと思っていて。加瀬邦彦さんとはコーラスの仕事で、昔から知り合いで。加瀬さんが経営していた銀座のケネディハウスというライブハウスがあるんだけど、そこには月一回、加山さんがノーギャラで出ていた。たまたま、そこに観に行った時に、お前も何かやれと言われて、ワイルドワンズ植田芳暁さんのドラムを借りて、ハイパー・ランチャーズと一緒に「ドライビング・ギター」でドラムを叩いた。加山さんとノーキー・エドワーズのライヴ(98年8月赤坂BLITZ)では「BOOMERANG BABY」と「美しいヴィーナス」を一緒に歌った。「BOOMERANG BABY」のようなレコーディングは、一人多重でやらないと意味がない。スタジオ・ミュージシャンじゃ個性が出ない。この時、ドラムを新しく買った。ユカリに貸したソナーライト(SONER LITE)が返ってこなくて、それでラディック(Ludwig)のドラムを買った。吉田保さんにはエコーをかけすぎないように、と言ってw  我ながら良い出来。
加山さんの存在はアイドルとか、そんな陳腐なもんじゃない。僕らの中学時代、加山さんは圧倒的だった。中学2年の時に映画「アルプスの若大将」(1966年)を池袋東宝で封切りで、満員だったから通路の階段のところに座って、観た。夕暮れのアルプスのゲレンデの斜面で、ガットギターを弾きながら「モンテローザ」を歌う場面を見て「ああ、こんな生活があるんだ。天は二物を与えず、と言うけど、二物を与えられる人がいるんだ」と思った。スポーツ万能だし、ピアノが弾けるし、絵は描けるし、そんな不公平な話があるかって、若い頃、加山さんに酔っ払って絡んだことがある。加山さんは笑ってたけど、後から聞いたら、スターの息子だ、って、いじめられることもあったと。
あと、加山さんのことで言えば、なんで僕が歌謡曲に対して一線を引いたかという、決定的な瞬間があって。それが「君といつまでも」がレコード大賞を獲れなかった事件。あの年、1966年は、誰が考えたってレコード大賞加山雄三の「君といつまでも」で決まりだった。だけど所属レコード会社が新興勢力だったんで、他が総出で、潰しにかかった。僕はあの時に、歌謡曲メディアというものを見切って、そこから洋楽に一気にシフトしていった。許容できたのはサブカルチャーとしてのGSぐらいで、それぐらい僕にとって大きなことだった。
加山さんの音楽は、いわゆる湘南サウンドとか、そんなファッション用語を超えた存在で。英語で歌ったアルバムもあって、あの時代に一人多重もとっくにやっているし、それなんか、もろインディーズの音がしている。いわゆる歌謡曲のスタジオ・ミュージシャンの音じゃない。加山さんはギターもうまいから。それに加えて岩谷時子さんの歌詞、語感がすごく気持ち良い。加山さんはそういう意味で先駆者。
加山さんとの交流はこの時期くらいからだけど、まりやは慶應だから、そのつながりもあって、ずいぶん昔から可愛がってもらっていた。桑田佳祐くんが企画した加山さんの80歳のお祝いの会(2017年4月/ブルーノート東京)でも、ステージに呼ばれて「BOOMERANG BABY」を歌った。昔からアルバム1枚にカヴァー1曲みたいな思惑があったので、COZYでは、昔からやりたかったこの曲をカバーした。
8曲目「夏のコラージュ」は、トヨタカリーナのCMソングで、アルバム発売直前のタイアップだった。これもすごく好きな曲で、いわゆる”ビーチもの”だけど「土曜日の恋人」のミックスがうまくいかなくて、あのビートで、もう1曲書きたかった。。割とうまくいったから、ライヴでもやってみたいんだけど、これもなかなか演奏難易度が高いw
イメージとしては鎌倉あたりの海辺の道のカーブを曲がるところ。それが第一京浜京葉道路だと風情がない。やっぱり湘南。オープンカーに女の子を乗せて、というのに憧れがあっても、いざとなると結構恥ずかしいし。車がポルシェやフェラーリランボルギーニとかだったら、なおさら。でも発想や妄想は自由だからw  歌詞の中の“若さや時間はいつか消えてしまう”というフレーズは、モラトリアムへの憧れというか未練。フォーエバーヤングみたいなこと、45にもなれば考える。この曲は歌詞に関しては、語らなくていいw   具体性は言わない。事象は語っているけど、情動は何も語らない。それは僕の作詞の傾向だけど、大滝さんはそれすらも嫌う。でも、そうすると歌詞が書けなくなる。ほとんど情景を語らない人だった。でも気持ちはわかる。
日本のポピュラー・ミュージックはひたすら歌詞、歌詞、歌詞で、作詞優先だから。だけど僕は、音楽の世界はあくまでも言葉と音のコラボというか、そういうものじゃないとつまらない。そんなに歌詞が最優先なら、詩人になればいい。あまり言葉でものを言い切ってしまうと、音はどうなるのか。僕の音楽はダンス・ミュージックではなくて、リスニング・ミュージックだから、目をつぶって、ヘッドホンで聞いて、情景というか、色彩が浮かばないとダメなんだ。耐用年数を上げるにはそれがしかない。あまり具体的なものが出てしまうと、陳腐になってしまう。「プラスティック・ラブ」には”流行りのディスコ”が入ってなければよかった、っていうようなw  まあ、でもそれは結果論。
9曲目「LAI-LA -邂逅-」は94年にNHKドラマ(赤ちゃんが来た)の主題歌として書いたもの。これも「いつか晴れた日に」と同じで、一発録り、ダビングしない、そういうのを作りたいなという一時期があって。でもこちらの方が「いつか晴れた日に」よりは素直な作り。ライヴでもやりたいんだけど、時期を逸している。ちょっと地味なので、3人ライヴでやろうと思ったこともあるけれど。まあ、そのうちやれればいいなと。シンガー・ソングライター的というか、ケニー・ランキンみたいな感じ。これも「群青の炎」と同じガットギターで弾いている。一方「いつか晴れた日に」は買ったばかりのマーチンを弾いている。
10曲目「STAND IN THE LIGHT-愛の灯-」は96年のシングル、フジテレビのキャンペーンソング。好きな曲なんだけど、この前も言ったように、イントロとエンディングが長い。もっとコンパクトにすればよかった。これもライヴでやったことがないけど、アルトのまりやだとトップノートが出ないから。あ、ハルナちゃんと歌えばいいのか。演奏的には大丈夫だと思うし。
  
<ワンパターンでは絶対に生き残れない>
11曲目「セールスマンズ・ロンリネス」は街で見た情景で。子供が小さい頃に、近所のハンバーガー・ショップに行って。ある日、窓際にサラリーマンが一人いて、背中が泣いているようだった。それを見てひらめいた。本当に寂しそうだった。バブルがはじけて、好景気が一瞬にして、どこかへ行ってしまった時期だった。98年は平成不況の真っ只中だったけど、これはそれより前に作った。その時のことをノートに書き留めていて、それをもとに作った曲。だから珍しく詞が先。間奏のSEは、実はその店での音を使っている。エンディングの街の雑踏も店の前で録った。リアリズムと言ったら、それまでだけどw  DATウォークマンが出てきて録音がデジタルになったから、音質が飛躍的に向上して、いろんなところで録りまくった。雷がなったら表に出て、傘をさして、雨が傘に当たって流れる音を録ったり。いろいろ努力して、SEを録音した。これは多分、昼間の2時とか3時とか、それぐらいの時間のことだったと思う。
この曲は完全にサラリーマンへの応援歌。バブル後の営業の辛さは、痛いほどよくわかる。セールスマンとか営業の仕事って、実家のお店やレコード会社で見ていて大変だなと、いつも思っていた。昔は地方の小都市にある小さなレコード店だと、支払いは現金なんだけど、店主と一晩酒に付き合わないと、数万円の売り上げでも絶対に払ってくれないとか、そういう話を散々セールスマンから聞かされていたから。聞いた知識を題材に、どう歌にしようかと考えて。よくある設定だけど、ハンバーガ屋を舞台にして書いてみた。あの店にはお世話になったし、いろいろ思い出もあるからレジの女性とかに教えてあげればよかったなとも思う。
12曲目「SOUTHBOUND#9」は95年、日産スカイラインのCMで流れたもの。とにかく”南に逃げる”という発想があって。 僕の作る歌のテーマは、常に”都市生活者の疎外”なので、年から暖かい南の島、例えばプーケットとか、そういう常夏の楽園みたいな所へ逃げたいという願望。南へ、って歌詞の下書きにメモで書いてあった。で、南でどうするんだ、って、そういう歌w  レコーディングの時は青山純の体調が悪くて、結局ドラムは島ちゃん(島村英二)になった。
13曲目はシングル「DREAMING GIRL」、この曲についてはさんざん話したけど、ここでは98年リミックスを収録している。ミックスも含めて、ここまでよく詰めることができたと思う。
14曲目「いつか晴れた日に」は、シングルのカップリングでギター1本のStand Aloneバージョンを入れているように、ギターの弾き語りでシンプルなオケを作りたかったから(Stand Alone Ver.はのちにRARETIESに収録)。この曲もやっぱりキー設定を誤った。半音高かった。本当はFマイナーで行くべきだったんだけど、ギターの都合でF#マイナーでやってしまった。しばらくライヴをしていないので、それでレコーディングをすると70年代のキー近くなってしまう。いつまで声が出るか分からないから、出るうちにやってしまおうと。それが良くない。2000年代はキー設定を抑えて抑えてやるようになって、ライヴでもちゃんとできるようになったけど、90年代はダメだった。
アルバムの最後、15曲目「MAGIC TOUCH」は93年のシングル、収録したのは98年リミックス。
この頃はトラックはそのままでテンポを速めるというのは正気の沙汰ではなかったけど、一番性能の良いテンポ・コントロールのソフトを使って、6時間半くらいかけて、テンポアップさせた。テンポは上がるがピッチは変わっていない。デジタルだからできること。そうすると、なんでオリジナル・テンポのものもボーナス・トラックで入れてくれないのか、と言われる。でもこのテンポのバージョンがいいから入れたわけで。歌のキーの設定と同じで、レコーディングでのテンポ設定も、いつもだいたい(決定が)遅い。
このアルバムは一言で言うと、GO AHEAD!と同じで、作家性のアルバム。GO AHEAD!の時も作るのに苦労した。作曲面ではなくて、状況面でのトラブルが創作面に影響する。そういう状態だと、作家性が強くなる特色がある。でもGO AHEAD!と違うところは、シングルをたくさん出しているから、半分ベストアルバムみたいなファクターもある。当時はそれで既発曲が多いなんて文句も、散々言われたけど、やかましいw  非常に作家的な側面があるから、作品集というか。そういう意味では『僕の中の少年』とは、全く違う。音楽的な引き出し、バリエーションも多い。生き残るには、多くの引き出しが必要だから。ワンパターンでは絶対生き残れない。
この時、僕は45歳で、普通に考えたら、例えば演歌だったら、どうしても”営業”の方に行く。新譜は”営業”で売るためのもの。だけどCOZYは出荷が100万枚を超えて、オリジナル・アルバムとしては一番多くなった。だから、すぐに、例えば2年後にでも、新しいアルバムを出せればよかったんだけれども。もともと怠け者だから、またもや7年待たせることになる。
【第51回 了】