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ヒストリーオブ山下達郎 第50回 Kinki Kidsへの楽曲提供「硝子の少年」(97年7月発売)が大ヒット

<「硝子の少年」は二人の声を聴いて書き直した>
久しぶりのジャニーズへの楽曲提供は、Kinki KidsKissからはじまるミステリー」”キスミス”だった。
僕は本当に初代ジャニーズのファンで、小中学生の頃、初代ジャニーズの活躍を、例えば朱里エイコさんとか、ああいう人たちと同じような感じで、見たり聴いたりしていた。当時は「味の素ホイホイ・ミュージックスクール」(日本テレビ1962〜65年放送)とかも見てたし。だから僕にとっては、初代ジャニーズが、ジャニーズの原風景だった。
中学生の時、文化放送の生電話リクエスト番組「ハローポップス」に参加見学したことがあって、ちょうどその時、偶然にもジャニーズの4人がゲストで来ていた。金魚鉢と呼ばれる、狭い放送ブースにメンバーと一緒に入って、その当時ジャニーズがテレビで歌っていた曲が、僕は好きだったから、それがいつ発売されるかを聞いたんだけど、レコード発売はないと言われた。あとで考えれば、あの時点で既に解散が決まっていた。小杉さんがマッチを担当するようになってから、僕はメリーさんやジャニーさんと知り合って、初代ジャニーズの話も部分的には聞けていた。
2020年にサンソンで”初代ジャニーズ”を特集したけれど、放送した音源はメリーさんにいただいたカセットをリマスターしたもので、音はもうあれしか現存していない。大滝さんも別ルートで手に入れて持っていたけど、昔は著作隣接権の問題で、基本的にオンエアはできなかった。今だったら勘弁してもらえるのでwようやくオンエアすることができた。
初代ジャニーズは1962年結成、和訳ポップスを歌って踊るグループ。デビュー曲は「若い涙」(1964年)で翌年に紅白に出演し「MACK THE KNIFE」を歌った。66年に渡米してLAで歌と踊りのレッスン、さらにバリー・デボーゾン指揮下で16曲レコーディングもする。その中にのちにアソシエイションが歌う「NEVER MY LOVE」(1967年)が含まれていた。このテイクは発売される事はなかったが、録音はジャニーズが歌った方が先だと、そういうお話。
どうしてジャニーズが海外録音に挑めたか。これは昔、青山音楽事務所というのがあって、創始者の青山ヨシオさんは戦後の海外タレント招聘や、トッポ・ジージョのような海外キャラクター・ビジネスの先駆者なんだけど、彼がマイク・カーブ(アレンジャー/プロデューサー)と友達だったので、おそらくその線ではないかと思う。時間がなくて、番組ではそこまで喋りきれなかった。
ジャニーさんに山下達郎を教えたのは、川崎麻世さんだった。小杉さんはレコード会社で制作アシスタントをしている時代に、ジャニーさんと仕事で知り合った。
小杉さんがディレクターとなった後の1979年のある日、ジャニーさんと六本木の交差点でばったり会った。その時いきなり「YOUの最近やってる、あれ。いいね」って言われた。その頃小杉さんは、桑名正博を担当していて「セクシャルバイオレットNo.1」が1位になってたので、桑名くんのことだと思って話してたんだけど、どうも噛み合わない。まさかジャニーさんが山下達郎を知ってるわけないだろうと思って、その時の小杉さんは僕と桑名くんしかやってないから「もしかしたら、それ山下のこと?」「あーそれそれ」「なんで知ってるの」「川崎麻世が教えてくれた」と。それでジャニーさんが気にいってくれた。最初に聴いたのは、MOONGLOWだったらしい。それをヒガシ(東山紀之)に教えたという経緯がある。ソレが始まり。
Kinkiとの関係は、ちょうど小杉さんは96年11月にワーナーを辞めて、スマイルに戻ってきたので、スマイルと掛け持ちで、ジャニーズの仕事を久しぶりにするようになった。そんな時に、ちょうどデビューするとか、しないとかと言ってたのがKinkiだった。それでKinkiの楽曲制作に関わるようになって、曲を誰に、という時に、僕に依頼があったから「kissからはじまるミステリー」を書いたら、ジャニーさんは、まだデビューさせたくないと言って。「硝子の少年」の時も、まだイヤだと言われた。描くビジョンが大き過ぎて、常に満足できないという、まあ彼、独特の粘りというか、こだわりというか。
それでKinkiのためにジャニーズ・エンターテイメントというレコード会社を作って、アルバムとシングル同時発売で『A Album』と「硝子の少年」を一緒に出した。ジャニーさんはシングルデビューじゃなくてアルバムデビューでやりたいと言い出したので、首を縦に振ってもらうには、そこまでやらなければならなかった。シングルはあっという間にミリオンセラーで、そうなるとジャニーさんは途端に「ほら、やっぱりあれはヒットすると思ったんだ」って。そういうとこ、かわいいでしょw  でも、もとより彼らを見出したのは全てジャニーさんの慧眼(けいがん)だし、アイディアと良いひらめきといい、あらゆる意味で普通のマネージメントの常識では計れない人だった。
Kinkiのために最初に書いたのは、キスミスだったけれど、「硝子の少年」に関しては、以前から言っているように、先に書いたのは「ジェットコースター・ロマンス」だった。この曲はKinki3枚目のシングルとして98年に発売された。
明るいやつ、(堂本)剛くんと(堂本)光一くんの声だと、最初はコレなんじゃないかと思って。というのも、デビューするにあたって、ナンバーワンは当然で100万枚がマストだと言われた。ジャニーさんは「ジャニーズで100万枚売れたのはない、悲願だ」と言っていたけど、あとで調べたら、マッチの「スニーカーぶる〜す」は100万枚、売れてる。だから、ミリオンセラーはジャニーズの歴史上なかったわけではないんだけど、ジャニーさんはとにかくそれだけKinkiへの思いが強かったんだろうと。
キスミスを書いた頃、横浜アリーナに彼らのコンサートを観に行ったら、まだデビューもしてないのに1日3回公演で、何日もやっていたんだから、とんでもないことだと思った。その後「ジェットコースター・ロマンス」を書いたんだけど、自分の中ではいまいち普通すぎて、これじゃミリオンいかないなと。じゃあどうすればいいか、って、悩んで。「ハイティーン・ブギ」を書いた時みたいに、こんな時、筒美京平さんだったらどうするかな、と考えた。僕は門前の小僧で、マッチのデビュー当時の、ヒット制作の一部始終を見ていたから。
で、Kinkiふたりの声を聴くと、その濡れた感じが、これはどう見てもマイナーメロだな、と。それで、もう1週間もらって「硝子の少年」を書いた。
    
<自分の立ち位置の大きな指標が、京平さんだった>
日本には歌謡曲と呼ばれる精神風土があって、それもまた伝統芸能に近い特質がある。1960年代の終わりから20〜30年の間、そんな空気の中にいたのが筒美京平さん。
影響を受けたかと聞かれたら、音楽的には全く受けてないけど、僕が圧倒的に影響を受けているのは、彼のライフスタイル。筒美京平という名前は芸名で、マスコミの前には一切出てこない。顔も知られていない。とにかくインタビュー嫌いで、テレビにも出ない。レコード大賞も何度か受賞されているけど、確か尾崎紀世彦さんの「また逢う日まで」(1971)の時だけしか、出てきたことはないんじゃないか。とにかく、そういうメディアに出ることが、本当に嫌いな人だった。確か本も出してない。京平さんのような方が、そういう匿名的なライフスタイルを貫けるのなら、自分にもある程度は可能かと思えた。あのブレなさ。その意味で京平さんは、僕の芸能界での立ち位置を決める上で、大きな指標だった。
京平さんと直接仕事をしたのは、水口晴幸の「Drive Me Crazy」と太田裕美のアルバムでのコーラスの2回だけ。もっともピッピ(水口)の曲を書いてもらった時は、京平さんとは会っていない。小杉さんがオーダーしたので。あれとて京平さんに書いてもらった曲を、完膚無きまでにアレンジして、京平色をなるべく消そうとw
その昔、筒美京平さんのことを”仮想敵”と言ったことがあるけど、それはあくまでも音楽的な話で。人間的には本当に素晴らしい人だった。僕はとても可愛がっていただいた。あの人の音楽家としてのスタンスや物の考え方は、常に不変で、徹底していて、まさに異能の人と言っていい人だった。
職業作家だから、ヒットにはもちろん強固な執着があったけど、それで歴史に名を残そうとか、文化人になろうとか、そういうのは全くなかった。1982年にラジオの番組でインタビューしたことがあるけど、東京の人なので照れ屋だし、おっしゃることがどこまで本音なのか、しばしば話をはぐらかす。そういうところがすごくある。でも仲良くなって、食事も何度かご一緒するうちに、プライベートでは色々と話してくださった。あとになって考えたら、あのラジオ番組の時はこっちも若かったし、やっぱり警戒心とかあって、あまりはっきりしたことも言ってくれなかったんだと思う。あの当時は対外的にも、誰にもそういう態度だったから、あまり面白いインタビューにならなかったのは当然だと。
筒美京平さんの作曲技法はみんな研究しているだろうけど、もっと奥のほうに持っている日本の芸能に対する愛憎半ばする思いというか。歌謡曲って愛憎の交差点で、演奏家も作詞家も、特に作曲家は、大衆蔑視とか、ビジネスとしての成功欲求とか、いろんなものがドロドロとないまぜになって、歌謡曲というジャンルが形成されている。
あと京平さんを語る上で重要なのは、山のように仕事をする中で、多くの編曲者や作詞家を育てたという、そういうプロデュース能力。僕は、彼をそんなふうに見ていたので、Kinkiのような僕が専門外の分野を手がけるときに、しかもプレッシャーのある時に、京平さんだったらどうするか、と考えた。その一番大きな契機が「ハイティーン・ブギ」と「硝子の少年」だった。

    

<ギターとストリングスの音以外、全部ひとりでやった「硝子の少年」>
僕はいわゆるシティ・ポップと呼ばれるような曲を書けと言われて、もう300曲は書いたし。でも、こういう「硝子の少年」みたいなのは、100曲は書けないけど、10曲くらいなら書けるから。できれば、あまり書きたくけどw  運良くKinkiのふたりは歌唱力があったので、チャレンジできた。
当時は剛くんが歌がうまい、というのが事務所の評価で、世間もそうだったけど、でもキスミスなんか聴いてみると光一くんもちゃんと通る声。声のマイク乗りがイイ。音程はちょっと不安定だったけど、音圧は剛くんに負けていない。それに二人とも、とても濡れた声をしている。だったら光一くんにだって、彼の声をちゃんと生かせば、うまくいくんじゃないかと思って、それでデュエットだから、交代で歌ってもらうことにした。
キスミスの歌入れに付き合った時のA&Rのやり方に疑問があったので、「硝子の少年」のレコーディングは、僕がひとりで歌入れのディレクションをやった。剛くんは2時間かからなかった。光一くんはその倍くらい。彼には時間をかなりかけたけど、声は全然へたらなかった。喉が強い。
これももう時効だと思うから言うけど、最初ベテランの大御所エンジニアにお願いしたミックスが、どうしても納得いかなくて、深夜に一人でこっそりミックスし直した。だからあれ、実は僕のミックスで。でも、その方は大人で、僕のことをすごくわかってくれていて、そんな事では怒らなかった。これが他の人だったら、どうなっていたか、わからない。
作詞の松本隆さんも、これに関してはヒットポテンシャルがあると踏んだので、めずらしく何も言わなかった。「硝子の少年」というタイトルに、光GENJIのシングルも「ガラスの十代」だったから、周りはそれに結構抵抗があったみたいだけど、関係ないと突っぱねて。ただ、ジャニーさんがなかなか納得しないので、Kinkiの二人がとにかく不安になってしまう。無責任な外野からも暗いとか、踊れないとか、古いとか、そんなことばっかり言われたw  しょうがないから二人には、その時彼らは17、8歳くらいだったけど「この曲は君たちが40歳になっても歌えるから。今日とか明日とかの話じゃなくて、歌を歌うというのは一生のことだから、歳をとってからでも歌える曲は、すごく大事なんだよ」って話して、励ました。いま図らずもそうなってる。それぐらいは考えて作ってる。僕の音楽は耐久性が勝負だから。その時のトレンドで、3年で忘れられるような曲だったら、いくらだって書ける、と言いたいところだけど、それだって、そう簡単じゃないけどw  
ともかく自分が好きなものは、常に耐久性のある音楽だから。いいか悪いか、どれだけ耐久性があるか、普遍性のある音楽か、それはあとから証明される。今になっても、ちゃんと聴けるかどうかは歌はもちろん、演奏や編曲やエンジニアリングの要素が、お互い深く関連している。同じ時代の音楽でもダメなものはダメだし。例えば1961年に作られた「STAND BY ME」。同じ年のスティーブ・ローレンスなんかと比べると、普遍性が段違いで、今の時代でも全然遜色ない。あれも最大の貢献者は、やっぱり録音エンジニアのトム・ダウドの存在。あのベース音はトム・ダウドだから録れた。
同じ理屈で「硝子の少年」は曲、編曲、ミックスは、絶対にこれじゃないとダメだと思った。トラックの構築は佐橋くんがガットギターで参加しているのと、ストリングス以外は、打ち込みから、コーラスから、ストリングスアレンジまで、全部ひとりでやったもので、ほとんど人が介在してない。だけど、あんなに売れるとは思わなかった。ある程度は行くと思ったけど。シングルが出た後に、横浜アリーナのライブを観に行ったんだけど、アンコールで「硝子の少年」のカラオケが流れてきたら、観客が全員合唱するんだ。あれはすごかった。
「硝子の少年」はKinKi Kidsのデビュー・シングルとして1997年7月21日にアルバムと同時リリースされ、オリコン初登場1位。シングル・チャート100位以内に31週間ランクインするロングヒット。Kinkiには松本さんとの共作で4曲提供して、最初のキスミスはシングルになっていない。「硝子の少年」と「ジェットコースター・ロマンス」は2枚目のアルバム「B album」に収録。そのあと「HAPPY HAPPY GREETING」が88年12月発売。
  
<新たなスタジオ、プラネット・キングダムが完成>
Kinkiのレコーディングは、ちょうど完成したプラネット・キングダム(プラキン)でやった。プラキンで最初にレコーディングしたのが「硝子の少年」だと思う。アルバムCOZY(1998)は超難産で、作業はずっとダラダラ続いていた。ブラキンは狭いから、生リズムが録れない。だからリズム隊を録るには、他へ行く必要があった。「硝子の少年」はマシン・ミュージックなので、基本はすべてプラキン。佐橋くんのギターとストリングスはビクタースタジオで録った。
プラキン自体ができたのは96年だったけど、稼働は97年からで、完成時期と使い始めた時期にズレがある。プラキンは機材的には良いスタジオなんだけど、いわゆるプライベート・スタジオなので、何しろ手狭。スマイルガレージはストリングスも録れる広さがあったのに。その辺は小杉さん、あまり細かいことを考えない人だから。トータルではスマイルよりもお金はかかっている。その頃はケーブルとか凝り始めた時期だったので、床下に這わせたケーブルを全部変えたり。卓も当時の最先端になった。スタジオができた当時は、まだテープの48チャンネル・デジタル・テレコで。それが2000年くらいになると、プロツールスに変わって、そこで、また困ることになる。とにかくプラキンでは、リズム隊の録音などは外だけど、ミックスダウン関しては、もうずっとここでミックスしている。
プラキンが完成したからと言って、全ての問題が解決したわけじゃない。そんなに簡単な問題じゃない。それでも、70年代、80年代は、スタジオというのは、どこもほぼ同じモニタースピーカーで、場所は違ってもシステムは大体同じ。テレコは2、3種類だし、モニターも2、3種類しかない。スモール・モニタースピーカーはオーラトーンで、それがヤマハのNS-10Mになって。
今(2020年)では10軒スタジオがあったら10軒ともシステムが違う。それが惑わせる原因で、その上、今はGarageBandで作った曲が、グラミーを獲れる時代になっちゃったから、それはしょうがない。
   
<「ヘロン」「いつか晴れた日に」と続き、COZYへ>
98年1月にシングル「ヘロン」発売。キリン・ラガービールの長野冬季五輪イメージソングで、久々のベストテンヒットとなった。元々は93年のTBS朝の情報番組「ビッグモーニング」のテーマソングに作った曲だったけど、その時はシングルを出さなかった。その時のサウンドが、全然気に入らなかったから。だからマリンバとかキーボード、パーカッションはそのまま残して、ドラム、ベース、ギターを録り直して、ようやくまともな音になった。最初に録ったバージョンでミックスしたやつを出したら、今頃は全然鑑賞に耐えなかったと思う。そういうことをみんな病気だと言うけどw  「ヘロン」のエンジニアは吉田保さん。大エコー大会だから、嬉々としてやってくれたw
「ヘロン」は5人での演奏なので、大滝さんのやり方とは違う。90年代、デジタルの時代になったら、4リズムでも同じ音圧は出せるので、そんなに厚くしなくとも大丈夫だった。逆に音を厚くすればするほど、デジタルは面白くなくなっていく、そういうところのさじ加減が難しい。例えばギターが4本とか、そういう必要はない。フィル・スペクターのノウハウが絶対じゃないから。
だって、ウォール・オブ・サウンド作ってる人って、そこまでヒステリックに楽器編成にはこだわってない。それこそ、Fontanaレーベル時代のキキ・ディーの初期シングルとか、普通のリズム隊だから。ウォーカー・ブラザースもそう。そんなに大人数ではやっていない。
スペクターの録り方は、アンビエンスも含めた一発録りだから。4ch、8chになってきたら、そういうのはなくなる。ブライアン・ウィルソンに迷いが出たのは4ch、8chになってから。3chとか、マルチトラックも、モノラルでやっている時はそうでもなかった。『PET SOUNDS』は4chだから、まだ良かったんだけれど『SMILE』はそろそろ8chに移行しつつある時代で、そういう想像はある。変なミックスがたくさん出るというのは、チャンネル数が多いからで。『SURFER GIRL』の時は3chで、あれしかないから、ゲイリー・ルイスみたいに、左にあったドラムを真ん中にするとかが、せいぜい。ベンチャーズもそうだけど、もともと2トラックか3トラックだから。常に時代、時代でテクノロジーなり、ソフトもハードも変わっていき、当然良いところも悪いところもあるんで、悪いところをリカバーするのには、何年かかかる。だから「ヘロン」は4年、待ってよかった。4年前は”鳴かないでHERON”というタイトルだったけれど、シンプルな方がいいと思って。タイトルがくどいというのは、僕の癖で、「アトムの子」が最初は”アトムの子等”だったり、その時はまりやに「アトムの子」の方がシンプルで良いじゃない、と言われて。
「ヘロン」はキーが高い。90年代に入って、僕も40代になって、声がいつまで持つかという不安や気分もあるから、できるうちにやろうと、やたらと”高い高い病”になってしまっていた。「ヘロン」はその極致。低めでやっても面白くない。この曲はやっぱりキーがCでやらないと。そういうところの見栄というか、声はいつまでも続かないと思うから、せめてレコードではそういうものを残しておこうと。よくライヴでも言ってるのは、これ1曲だけ今、ステージで歌えと言われたらやれるけど、いつもの3時間のライヴツアーの中でやると言われたら、絶対に無理だから。 「愛を描いて-Let's kiss the sun-」だって3時間のライヴで、ラストで歌うのは辛い。昔からメンバーが嫌がる。ブロックコードで、それもアンコールで延々とやるという。よく青山純が「勘弁して」って、言ってた。キックの4つ打ちというのは非常に体力を要する。それを3時間やった後にやるのかよ、って。
4月にはシングル「いつか晴れた日に」が発売。小杉さんが(96年11月に)ワーナーを辞めて暇になったからw、次から次へとタイアップをとってきた。「いつか晴れた日に」は草なぎ剛くん主演のドラマ(TBS「先生知らないの?」)主題歌。この曲は新機軸だと思ったんだけど、これがまた売れなかった。歌詞の”雨は斜めの点線”というフレーズは素晴らしいと思った。松本隆さんはいわゆる職業作詞家というより、詩人に近い。うまく言えないけど、谷川俊太郎とか、そういう意味での詩人。自分の空気とスタイルと語法みたいなものがある。
      
【前レコード会社との訴訟問題について/経緯】
1997年6月「GREATEST HITS! OF TATSURO YAMASHITA」を再リリース。オリジナルは82年に発売された同名ベスト。
この作品は山下の移籍後、山下の意思と無関係に84年、86年、90年にそれぞれCD化されたが、90年の再発では、アルバム用に編集された楽曲が、全て別音源に差し替えられる事態が発生した。山下はこれら一連の発売が、勝手になされることは認識はしていたが、当時レギュラーをやっていたFM番組「プレミア3」へのリスナーからの投書で、90年発売盤に関して、その内容のひどさを知った。
相手レコード会社には本作担当者らしきものもいなく、ただ積み上げられたマスターを機械的にエンジニアが作業していき、DJ小林克也の声もそのままのヴァージョンが混在するなど、でたらめの内容、トータル40分が60分近くになっていた。
小杉氏が即訴訟を決断し、製品回収と販売差し止めを求めた。95年に和解が成立し、一旦店頭から回収。
97年、山下本人監修によるデジタル・リマスタリング、および自身によるライナーノーツと曲解説付き、さらにアルバム『FOR YOU』発売時に制作されたプロモ用素材「9 MINUTES OF TATSURO YAMASHITA」に「LOVE SPACE」「SPARKLE」の計3曲をボーナス・トラックとして追加収録。さらにジャケットも作り直され、リリースとなった。
【第50回 了】