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ヒストリーオブ山下達郎 第35回 83年後半「スプリンクラー」から「WHITE CHRISTMAS」

<ノー・タイアップのシングルを出してみたかった>
83年9月28日、シングル「スプリンクラー/PLEASE LET ME WONDER」発売。これは、ノー・タイアップのシングルを出してみたかったんだ。 やっぱり”夏だ、海だ、達郎だ”からの脱却という動きの一環で、少し秋口の発売で、LPに入ってなくて、ツアーの中で演奏して、どういう反響になるのかっていう。それでも、オリコン34位まで上がった。あの頃は今と違って、30何位に入るのは大変なことだったから、十分だと思ったけど。でも、ムーン(レコード)のスタッフからは大ブーイングだった。「曲が夏っぽくない」っていう。 とにかく口を開けば、夏っぽいか夏っぽくないか、そればっかり。お前ら、それしか価値観はないのかよ、っていう。そういう時代だった。だからイメージっていうのは、恐ろしい。
スプリンクラー」の録音はMELODIESのレコーディングをやった直後、新曲として、アルバムとは完全に分けていた。自宅でフルサイズのデモを作って、珍しく詞も全部上げて、結構やる気だったの。レコーディング現場では、ちょうどMELODIESの時に2台のマルチ・トラックを同期させて、調走させるシンクロナイザーが入ってきた。それでダビングが随分楽になった。ただ当初、六本木のソニースタジオには、まだ24チャンネルのテープレコーダーは各スタジオ1台づつで、もう1台は16チャンネルだった。
なので、最初はその同期システムで24チャンネルと16チャンネルのレコーダーを並走させた。それで合計40トラックになった。79年以降はリズムトラックは24チャンネルのレコーダーで録ってたんだけど、24チャンネルのレコーダーはヘッドの幅が狭いので、それ以前の16チャンネルのレコーダーに比べて、音のダイナミック・レンジが狭い。だったら昔みたいに16チャンネルでリズムを録って、24チャンネルをダビング用にすればいいんじゃないかと。そうすればリズムセクションのダイナミック・レンジが昔のように確保できるから。で、「スプリンクラー」は16チャンネルでリズムトラック、ダビングとかは24チャンネルで録って、シンクロさせてる。だから、太くて良い音がしてるんだ。でも84年のBIG WAVEからは、16チャンネルは廃棄されて使われなくなって、24チャンネルが2台になった。スプリンクラーは、そういう分岐点の作品なんだ。どういうシングルかと言えば、暗い歌だけどw 
あの頃、曲のデモはローランドの808(ヤオヤ/TR-808 リズムマシン)で作ってたんだけど、808とシンセベースを同期するソフトがあって、それが結構重宝したんだ。ティアックのカセットの4チャンネルでデモを作ったんだけど。欲しかったフェンダー・ローズを買って。それからほとんどの曲をローズで作ったかな。
アルバムを作るときは、5曲か6曲を並行してレコーディングして、アレンジを考えていったりすると、ちょっと散漫になる時がある。でも、シングル1曲のためにやると、結構集中できる。で、そのリズム録りは青純と広規と僕の3人だけでやってて、割とシンプルなレコーディングだった(B面はベースのみ伊藤広規が参加)。それはMELODIESの「あしおと」とか「メリー・ゴー・ラウンド」と同じなんだけど。だから集中力のベクトルが、全然歌謡曲のスタジオ仕事じゃない。カルトな感じですよ。
    
<「スプリンクラー」の舞台は、表参道の地下鉄の入り口>
スプリンクラー」の(セールス)結果は、こんなものかな、という感じ。 僕は本来はアルバム・アーティストなので。だからシングルは、あくまでもアルバムのための呼び水でしかなくて、そういう意味では、チャート成績はそんなに良くない、常に。「高気圧ガール」で17位とか、「あまく危険な香り」が12位。ベストテン・ヒットのシングルなんて、90年代までは4曲しかない。「RIDE ON TIME」と「GET BACK IN LOVE」と「エンドレス・ゲーム」と「ヘロン」。でもシングルのエアプレイは、全部アルバムにフィードバックされた。
その辺が伝わりにくいのは、90年代の、あのミリオンセラー・ラッシュが悪いんだよね。数字至上主義というより、基本的に何も分かってないんだよ、コンテンツを語ることが全くないから。そんなの昔からだから、今更ぶつぶつ言ってもしょうがないんだけどね。
とにかく、このシングルで(自分にこびりついたイメージの)夏とかリゾートじゃない路線、シンガーソングライターとして意識して、自分で詞を書き始めた。
歌詞の舞台になった表参道の地下鉄の入り口って、今も変わらずあるけど、自分の中では、情景的にとても強いものがあった。あの時代の表参道の賑わいっていうか、それが池袋育ちの自分にとっては、非常にモダンだったんだね。それと、僕が行ってた美容院が、83年だったかな、表参道に引っ越したんだ。そこにひと月にいっぺんくらい通うでしょ。そこに行くと、表参道が窓からちょうど見えるんだよね。その眺めは大きかったかな、今から考えると。その意味では、僕は職業作家じゃないので、詞のアイデアはいつもそういうところから生まれてた。で、作詞にも少し自信を持ててきたっていうか、そうなると人の作品も結構注視するようになった。それまではどちらかというと、女性の作詞の方が目に入ってきてた。
ユーミン松任谷由実)とか、ずば抜けてたからね。でも自分で作詞するようになって、男の作詞家を注視するようになって。そういう意味で、あの時代の詞で素晴らしいと思ったのは、忌野清志郎とか大塚まさじとか、昔ながらで加川良とか、ああいう人たちの方が、職業作家より優れていると思った。フォークの流れの、割とキャリアのあった人たちだね。男の場合、何か都市のファッション性みたいなものを、歌のセールスポイントにするっていう姿勢が嫌いなの。生活の歌なんて、たくさんあるんだから、他と違った生活の歌にしてほしいとか、そういうのがすごくあって。だから、ジャクソン・ブラウンか何かの感じに、もっと日本的な温度を加えたような歌にならないか、と思って作ったのが、「スプリンクラー」だった。
スプリンクラー」っていうタイトルは、大阪フェスティバルホールに隣接していたホテルのエレベーターを降りると、”スプリンクラー制御弁”っていう看板があって、そこからとったんだけどね。それがどうして表参道の歌になるかと言えば、イメージの飛躍だけど、壊れたスプリンクラーというイメージが、雨とくっつく、とか、そういうのがだんだん広がっていったんだ。
あとは、あの頃ツアーメンバーを全面的に替えて、リズムが5人編成から6人編成になって(82年10月から青山、伊藤、椎名、野力奏一、中村哲)、ちょっと厚くなったから、その分いろいろなことができるようになった。83年に、ツアーのチケットを前売りで売り切れるようになって。そういう時期だからルーティーンっていうか、毎年毎年やるスケジュールが固まってきた。4ヶ月レコーディングをやって、4ヶ月ライヴをやって、後は4ヶ月プロモーションをやるってね。
  
<観客が立つようになったのが、ちょうど83年ごろだった>
82年秋からのツアーで大きく変わったことと言えば、リハーサルひとつにしても、箱根や河口湖で合宿形式でするようになった。それまではお金がないから、合宿もへったくれもない。コーラスもずいぶんオーディションして、そこまで超絶的にうまいわけじゃないけど、言う通りにやってくれる人たちに参加してもらって。そういう欲求を、少しずつ具体的に実現できるような環境になってきた。結果、本当の意味でのツアーっていうか、セットをちゃんと作ってとか、そういう今に至るやり方で、ここから動き始めた。
舞台監督が就いて、ステージセットの設計者もいて、照明も替えて。だからスタッフが全部変わったの。で、(舞台監督として)ヒロシ(末永博嗣/現ステージ・プロデューサー、元ごまのはえ)が、いよいよ本格的に入ってくるようになった。そういうスタッフの変化も大きい。要するにツアーの動員が良くなって、お客が入ってきたので、待遇が改善されたんだ。泊まるホテルとかのグレードも改善されて、少し楽になった。
ステージのことで言えば、最初の頃80〜81年は地方に行くと、お客さんがこっちのやってることがよくわからない。まず、裏声で歌う男の歌手っていうのを観たことがない。インプロヴィゼーションの長い演奏なんてのもね。そういう意味では、あの時期、精力的にツアーやっていた経験が今につながっていると思う。今考えてみると、それはとても大きいね。もし何年もあのツアーをしてなかったら、早晩行き詰まっていたと思う。ただ当時は、そんな意識もへったくれもなかった。だって、この先どうなるかわからないんだもの。だから「いずれ僕は制作の人間になるんだ」って思ってはいたけど。
かといって、あまり先のことなんて考えてなかった。僕に限らず、そんな人、誰もいなかったと思うよ。とにかくムーンを作ったから、回さなきゃいけないしね。まだ、まりやも休業中だったし。僕ひとりで、稼がなければいけない時代だったから。その自覚はありましたよ、村田(和人)くんが客が呼べるようになるには、もう少し時間がかかるなと思っていたし。当時ムーンで安定してお客さんを呼べるのは僕だけだったから、自覚はありました。
このツアーの手ごたえと言えば、何せお客はお馴染みよりも、一見さんの方が多い時代だからね。RIDE ON TIMEを聴いて、来てくれるお客さん。時期的にはFOR YOUやMELODIESのあとだからね、CIRCUS TOWNの曲もやってたし。それまでのアルバムの曲は一通りやってた。そうそう客が盛り上がって立つようになったのが、ちょうど83年頃だった。それまでは中野サンプラザ大阪フェスティバルホールではあったけど、地方に行ったらそういう事はまだなくて、それがだんだん広がっていった。そうなると煽りのパターンとかできてくる。馬鹿なことたくさんやったからね。青山純伊藤広規のソロも結構長くなるようになって、3時間コースが定着した。クラッカーもあの頃から全国的に広がっていった。
時代はいわゆるニューミュージック勢が、全国ツアーをやるようになって来た時だった。僕は幸運だったのはね、僕らの世代のお客さんてUターン世代なんだよ。みんな東京とか大阪の大学から、ちょうど故郷に戻る時期だった。僕が30歳だったって事は23〜24歳のユーザーでしょ。その人たちが故郷に帰って、結婚して、子供を産むっていう、ちょうどそんな時代だったから。だからローカルな所でも、そんなに違和感なくコンサートができたんだよ。今はそういう状況がないから、地方のツアーが大変なんだよね。テレビの情報しかないから、ギャップが大きい。でも、僕の時代は実際に東京のライヴシーンで僕らを観てたとか、そうした経験をして、故郷に帰ってるような人が結構いたからね、やっぱりUターンのプラスっていうか、それはすごく感じた。
地方では、それまでずっとラジオやタウン誌で、地方プロモーションやってきて、そういう人脈があるから、きちっとエアプレイとかしてくれる。そういうのは本当に大きい。僕らが今も生き残っていられる大きな要因は、テレビメディアを使ったプロモーションとは違うやり方を、あの時代に一から構築せざるをえなくて、それをみんなで模索した結果だと思ってる。テレビもラジオも、有線もあったし、雑誌、ラジオでも、音楽が売れた時代だから。それは今の時代は全く不可能だもの。
今(2014年)はそういうのをやっても、メディア自体が弱いから、機能しない。あの時代は、景気も今よりずっと良かったし、音楽業界の活況もアイドル全盛だったけど、ロックやフォークだって、大いに盛り上がっていた。みんなが試行錯誤しながら、それぞれに盛り上がっていた時代だったからね。 例えばフュージョン系にしても、カシオペアやスクエアから渡辺貞夫さんまでたくさんいて、きれいに音楽マーケットが成立していた。そういう状況じゃないと、やっぱりムーブメントになりえないんだ。
音楽が文化のフロント・ラインだった、そんな時代だったわけだから、それは今とは状況が違うよね。お客だって、いろんなものを見て、比較して楽しんでいたし、そういうものにお金を払おうという意思もあったよね。
   
<あの頃は音楽の力がはっきりあった>
この83年の暮れには「クリスマス・イブ」のピクチャー・レコードが発売されてる。 あれは小杉さんが「せっかくクリスマス・ソングがあるんだから年末に限定でもいいからやらないか」って言ったから、じゃあピクチャー・レコードかなって。雪の結晶の絵でね。あれのミソは何といっても、B面に「WHITE CHRISTMAS」のアカペラを入れたことなの。結構インパクトがあるだろうって、狙いでね。
もともとあのアカペラはMELODIESが出たときのツアー用に作ったんだ。ライヴでの初演で、ON THE STREET CORNERから(選曲した)アカペラを歌った後に、そのまま「WHITE CHRISTMAS」のショートバージョンのアカペラにつなげて、そこから「クリスマス・イブ」に移行するアイデアだった。これは絶対にウケると思った。ステージが暗転して、メンバーには動かないようにと指示して。それで「クリスマス・イブ」に入ると、それはもう熱狂的だった。ところが、初演の神奈川県民ホールでは、その「クリスマス・イブ」のイントロがPAのミスでフロントからコーラスの音源が出てなくて、でも、その時は本当の初演だから、お客さんはそういうものだと思って聴いていた。で、間奏でブレイクしたら音が出てなくてシーンと沈黙があって……w そういうこともありました。
で、その「WHITE CHRISTMAS」の素材をピクチャー・レコードのB面にして、限定2万枚で出した。 だからあれはほんとに純粋な音楽的企画性っていうか。だけど、あのピクチャー・レコードはレコード店の店員たちがほとんど買ってしまって、店頭にあまり出回らなかったというw
ピクチャー・レコードへのこだわりはあんまりない。ピクチャー・レコードは普通のレコードより音が悪いからね。でもまあ販促目的だから。飾って楽しむものっていうか。でも企画性としては素晴らしかったと思うよ、自画自賛だけど。いま「オンスト2」に入っている「WHITE CHRISTMAS」は、後にデジタルで録り直したものなんだ。最初に録ったものは、アナログマルチをつないで作った。ワンフレーズずつ歌って、それを個別に録って、そのマルチテープをつなぎ合わせた。ブレス(息継ぎ)をちゃんと組み立てて、それにエコーをかければ、繋いだなんて全くわからなくなる。だけどそうは言っても、テンポの緩急が完璧にはいかなくて、それで、86年に打ち込みのテンポデータを作って、デジタルで録り直した。それで細かいところが完璧に揃った。そしたらうちの奥さんに「あまり合いすぎてて、面白くない」って言われたけどw 
ライヴではその「WHITE CHRISTMAS」から「クリスマス・イブ」の流れがあまりにウケたので、その翌年は「SILENT NIGHT」にして、その後もたくさんバリエーションが生まれた。でも、最初の動機は、単にフォー・フレッシュメンのスタイルをやってみたかっただけで。フォー・フレッシュメンのヴォイシングは、高校時代から結構研究していて、かなりの量の採譜もしていたんだけど、それを実際に生かせる場ってなかなかないんだよね。ジャズじゃないので。あの「WHITE CHRISTMAS」は絶好のチャンスだと思ってね。いわゆるフォー・フレッシュメンのオープンヴォイシング。イントロの段取りとか、結構考えた。
それまではいわゆるドゥーワップで、スリー・パートのシンプルなハーモニーだったけど、こっちは和声がはるかに複雑だし、歌唱の難易度も高い。そもそもひとりアカペラで、フォー・フレッシュメンをやろうなんていうのが、とんでもなく奇想天外な試みなんだよねw でも、それもさっき言った、引き出しを増やすという作業の一環だったんだ。だから、なるべく拡げられるところは拡げて、それで差別化を図ったということなんだね。
「WHITE CHRISTMAS」の許諾は、すごくうるさいよ。出来たものを向こうに送って、聴いてもらって、使用許可をもらうの。あの「WHITE CHRISTMAS」をシンコーミュージック草野昌一さんが聴いて。当時、草野さんは「WHITE CHRISTMAS」の日本の出版権を取るのが夢だったんだよね。で、シンコーがついに獲得した時に、僕のところに日本語詞のオファーが来た。「オンスト2」を作った時に、草野さんに呼ばれて食事したことがあって、「あれは非常に良い」と喜んでくれた。なんたって漣健司(さざなみけんじ/草野昌一さんの訳詞家としてのペンネーム)さんだからね。そういうところも、洋楽的なものをやることによって、日本の音楽出版社の人とも接点ができたというか。それはなかなか有意義な体験だった。
許諾については、ディズニーなんかも曲の解釈にはすごくうるさい。過度にアヴァンギャルドなアプローチはダメだし、下品なものは絶対に許可が降りない。だけど、一旦許諾が出たら、そんなに使用料は高くない。要するに曲の格調を下がるような事はさせない、っていうことなんだよね。「WHITE CHRISTMAS」は特殊中の特殊でね。あの一曲のための出版社があって、スタッフは3人しかいないっていう。あれはすごいよね。まぁ歴史上一番売れた楽曲だからね。
クリスマスソングの定番と自分のクリスマスソングを結びつける。でもあの頃はまだ音楽マーケットが豊かだったから、そういうアイディアがちゃんと浸透したけど、今はそんなことをやっても一人相撲だもん。今だって結構いいことやってる人はたくさんいるんだけど、それが届かない。あの頃は、音楽の力がはっきりあったんだよね。大滝詠一さんの「イエロー・サブマリン音頭」だって、あれは大滝さんの趣味が反映されたものだけど、考えている事は僕と同じなんだよ。人と違うことをやろう、っていうね。
でも、今の人は、人と同じことをやろうと努力してる感じだよね。カヴァーソングの選曲のやり方とか。それは、僕らのあの時代の価値観とは、全く相反するものになってしまっている。
【第35回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第34回 アルバムMELODIES(83年6月8日発売)

<常に差別化なんだよ、考えていることはね>
このアルバムから自分で詞を書くようになって、レコーディングのメンバーも全部固定されて来たから、この辺りのことは結構鮮明に覚えている。それ以前の、スタジオ・ミュージシャンでレコーディングしていて、今日誰と、とかやっていた時代だと、純粋に曲がどうだったとか、そういう記憶はあるんだけど、アレンジの段取りがどうだったかとかは、意外と覚えていない。でもRIDE ON TIME、FOR YOU、MELODIESの3枚は、同じセクションでやっているから、経過をよく覚えている。 それにMELODIESはFOR YOUと比べて、圧倒的に、一曲に対してかかっている人間の数が少ないんだ。自分でやっている部分が多いの。だから、なおさら明確に覚えている。
レコーディングをスタジオ・ミュージシャンでやってると、結局、他の人が作っている音と似てしまうんだ。当時はスタジオ・ミュージシャン全盛時代だったでしょ。それこそ当時のウエストコースト・ロックじゃないけど、演奏に誰が参加してるとか、そんなのが日本でも売りになった。僕も70年代にソロになってしばらくは、ポンタに岡沢(章)さん、松木(恒秀)さん、佐藤(博)くん、坂本(龍一)くんといったメンツで、レコーディングしてたんだけど、当時はどこに行っても、ポンタ、岡沢だったの。そうなると純粋に詞と曲、編曲だけじゃ、特色を打ち出し切れないんだよ。
だから、どうしても自前のセッション・メンバーが欲しかった。その前のシュガー・ベイブの時はバンドだったから、当然、他の人はそのメンバーではやっていなかったから、音の特徴は出てたんだよね。GO AHEAD!の時は予算がなくて、ギャラの高いプレイヤーを使えなかったので、ユカリ(上原裕)と田中章弘、難波くんに椎名くんというメンバーが中心になったんだけど、でも結果的にそっちの方が、今聴いても音としての個性があるんだよ。
だから、そういうスタンスに戻りたい、というのが、ずっとあった。じゃ、どうしようかって時に、たまたま青山純伊藤広規が出てきた。何より彼らは読譜力があったの。椎名くんもそうだし、難波くんも譜面は完璧。そうすると曲の仕上がりもすごく早くなるんだ。
それと、MELODIESでは自分で作詞をしようとか、8ビートのロックンロールをやろうと思ったんだけど、8ビートって本当に個性が出しにくいから、他と違う色合いを出そうとすると、必然的に一人多重とかになっていくんだよね。MELODIESの次のBIG WAVEなんてモロそうでしょ。だから、スタジオミュージシャン全盛の時代に、音世界をどう個性化するかを考えてたらこうなった、というのが一番大きな理由なんだよね。
だから、常に差別化なんだよ、考えてることはね。ただ最初の頃は、考えてはいても、なかなか思うようにはできなかった。だけどこの頃から、ある程度レコーディングに予算もかけられるようになったし、トライ&エラーもできるようになった。同じ曲でも違うテイクを録ることができる。その分制作費もかかるし、時間もかかるんだけど、それで個性化が進められるようになったんだよね。同じ頃に一世風靡した細野さんのYMOも、やっぱりそういう個性化の動きと言えると思うし、すべてそうなんだと思うよ。ただスタジオ・ミュージシャンを呼んでレコーディングして、はい出来た、っていうことを続けていくと、差別化はできない。だからそういう時のプロデュース感覚って言うのかな。
何度も言うけど、ここからどうするのか。30歳を超えたロックという展望が見えない。フォークと違って、制作費がかかる。歌謡曲シンガーのように”営業”には行けないしね。その結論として、僕の場合レコーディングもそうだけど、やっぱりツアーをやらないとダメだって思ったんだ。そうじゃないと、サザンオールスターズとかツイストとか、年間何十本もライヴをやっている人たちは、とても太刀打ちできないからね。そういうところから始まって、自分なりの方法論をだんだん考えていったの。
そうするとギターのレコーディングでも、例えばまりやの「元気を出して」の時は、僕が生ギターを弾いたんだけど、本当に4小節ごとに弾いてはやめて、またやって、みたいなさ。スタジオ・ミュージシャンに頼んだら15分で弾けることを、延々1時間以上かかってやってる。でも、スタジオ・ミュージシャンに頼むよりも、その方が個性的な音が作れるわけ。そういうのに近いんだ。
スタジオの技術も進んできて、僕が自分でドラムを叩いても、アナログのレコーダーでもパンチイン(一部だけ録音をし直すこと)が、すごくきれいにできるようになったし、テープの切り貼りもできるようになった。だから、そういう技術を駆使すれば、ヘタウマが形になるようになったんだ。それとは逆に「高気圧ガール」みたいな曲は、青山純たちのテクニックがないと、できない。そういうふうに、表現の幅が出てきたんだよね。
  
<このままやっていったら、絶対にダメだと思った>
自分の音楽の個性化。でも、僕のはムーブメントじゃないからね。1979年あたりからYMOのテクノが全盛になった頃は、ある意味で恐怖したっていうかな。テクノクラート・ミュージックというか、機械が人間を規定する。今のボーカロイドじゃないけど、ああいうものに感じるのと同じような恐怖感が、あの頃はあったんだ。
だから、自分は絶対にシーケンサーは使わないぞと思った。実際、僕がシーケンサーを使ってレコーディングしたのは「風の回廊(コリドー)」(85年)が初めてだった。それまではシンセベースも何も、全部手弾きだった。シンセサイザーもなるべく使わないで、生でやってやろうっていう、そういう意識はすごく大きかった。
だったら、どうやって個性化していくかということで、例えばギターを5本重ねるとか、コーラスをどんどん厚くしていくとか、そういう方法論を考えていかないと、いわゆる平凡なニューミュージックのアレンジになっちゃう。それじゃあYMOのムーブメントには絶対太刀打ちできない。僕らがやっているのは決して流行の先端じゃないけど、それだからこそ、誰もやれていない音が出ないとダメなんだ。多分、大滝(詠一)さんも「ロンバケ」の時は、同じような考えでやっていたと思う。
曲を作って歌うだけじゃなくて、編曲に興味がある人間は、細野さんたちがやったことにものすごく憧れるか、恐怖するか、どっちかだった。僕がやっているのは歌謡曲じゃないので、音楽的な先進性とか、前衛性っていう部分では勝てなくても、他とは違う独自性を打ち出さないとダメだっていう事はその頃から考えていたからね。そういうことが、MELODIESにはすごくよく出ているんだ。
FOR YOUのときには、絶対にこのままやっていたらダメだと思った。なぜかっていうとそういう音世界って、あの時のトレンドを結構吸収していたものだったから。僕としてはMOONGLOWからFOR YOUという流れは、時代のトレンドを吸収してやっていたんだけど、でも本当の時代のトレンドは、やっぱりテクノだったんだよ。だからMOR(Middle Of The Road)ミュージックで、時代のトレンドと、音楽的に拮抗できるように個性化をするには、どうするかっていうことを、ものすごく考えてた。まぁ時代がそういう感じだったから、それに自分が反応したっていうかね。
CIRCUS TOWNは、あの時代に売れたのが2万枚とか言われてたけど、もしも25万枚売れてたら、その先はどうなっていたか、わからない。多分そうなっていたら、当然その路線を踏襲していたと思う。シュガー・ベイブでも、もしヒットが出ていたとしたら、当然その自己模倣をしてたでしょ。だって20〜22歳くらいで他にできないよね。だから若い頃に売れた人たちは、そういう感じで、自己模倣を続けることを強制されることになるから、後になって「あれは僕の音楽じゃなかった」とか言い始めるわけでね。売れた時にどういう選択をするか、だよね。
僕の(2枚目のアルバム)SPACYは、完全にCIRCUS TOWNのチャーリー・カレロの譜面に倣(なら)ってやったから、ああなった。でも、売れなくてIT’S A POPPIN’ TIMEの後、これが最後だと思って作ったGO AHEAD!。これを、これから作曲家でやっていくためのカタログの一つにしよう、とかね。それなりに考えて作ったわけ。でもBOMBERがヒットしたんで、その路線に全部合わせて作ったのが、MOONGLOWなんだよ。だから分かりやすいよね。
でも、こんな風に言うと、そこまでして売りたいのかって言われる。当たり前だよ、売れたくなくて始めた奴なんて、誰もいなくてさ。でも、今みたいに「とにかく1位を獲りたい」とか、そういうんじゃない。少なくとも自分の音楽を何らかの形で認知されたいとか、そういうものを、20代の初めに持たないで始める奴がいたら、お目にかかりたいよ。まあ、おかげさまでRIDE ON TIMEがヒットして、FOR YOUも(セールスが)良かったけど、これでまたアンヴィバレントなものがあってね。MELODIESを作る時、ここで押し流されたら大変だなと思うから、揺り戻しになるから。だから当座、どこに焦点をおけばいいのかなと思うと、やっぱりメロディー的にもバリエーションがたくさんある、GO AHEAD!みたいな形で、アルバムを作るほうがいいと思ったんだよね。
     
<8ビート復活、ター坊に「絶対に自分で詞を書いた方が良い」と言われた>
(MELODIES内の)「悲しみのJODY」も「クリスマス・イブ」も、8ビートのロックンロールなんだ。MELODIESには8ビートを復活させようというコンセプトがあった。シュガー・ベイブの時代、8ビートをやると、ヒップなメディアからはまず馬鹿にされた。古いってね。フォークの世界だったら別に構わないんだけど、僕の周りは、テクニック至上主義の業界だったから。しょうがないから、もうちょっと16ビートの曲をやろうと思って、メンバーも替えて「WINDY LADY」を作ったんだ。
それで、ソロになった後はCIRCUS TOWNからずーっと16ビート路線で行ってたでしょ。で、逆にスタジオ・ミュージシャンでは8ビートはやれない。普通の8ビートの、それこそ「クリスマス・イブ」みたいな曲を、スタジオ・ミュージシャンでレコーディングしたって、ああいう音にはならない。それに8ビートっていうと当時のスタジオ・ミュージシャンは馬鹿にして、「なんだこれは」って、いい加減に演奏されるのがオチだからね。スタジオ・ミュージシャンを使うんだったら、彼らをきりきり舞いさせるようなアレンジにしなければいけない。スタジオ・ミュージシャンを真面目に演奏させるための楽曲っていうかね。
でもね、いつまでそんなことをやればいいんだと思ってね。そんな時に、折良く青純と広規が出てきてくれたおかげで、自分のリズム・セクションを持って、それだったら絶対に8ビートをやりたいと思ったの。彼らはロックンロールもうまいから。
僕は76年から82年までほとんど16ビートとか、それに準ずるような曲調しか作ってこなかったんだ。その方が音楽的に高級だとみなされる、そういう時代に生きていたからね。でも本当のことを言えば、8ビートのメロディーの方が日本語詞には乗る。 16ビートは本当に詞が乗りにくい。しょうがないから「SPARKLE」でも何でも、初めにパターンを考えて、後からそれに合うメロディーを考えて作ったんだ。でも、それじゃあ本当の意味で詞は突き詰められない。詞は、やっぱり何を歌いたいのか、というある程度のアウトラインを考えて、それにメロディーをはめていかないといけない。
だから、自分で作詞しようと思った時から、絶対に8ビートを復活させなきゃダメだと思ってた。「クリスマス・イブ」にしろ、「悲しみのJODY」にしろ、みんなそういう目論見で作っている。そうしないと詞の情緒をしっかりと表現することができないというか。
アルバムMELODIESが、詞を本当に考えて作ろうと思った、一番最初のアルバムだからね。82年の終わりごろから、詞のモチーフを本気で考えるようになった。それまでは、詞なんてちゃんとやってなかった、というかそこまでの精神的余裕がなかった。
シュガー・ベイブの時代なんて、本当に適当な感じで詞を書いてた。自分にそれほど作詞の才能があると思ってなかったし。でもある時、ター坊(大貫妙子)に「あなたは絶対に自分で詞を書いたほうがいい」って言われたんだよね。あの時、彼女に背中を押されなかったら、詞のことなんて、おそらく考えなかったよ。あの時はそうかなあ、と思ったんだけど。今思い返すと、その意味がよくわかるけどね。
でも、シュガー・ベイブの時代から、大学ノートに詞を書きとめることは、ずっとしてたんだよ。例えば「2000トンの雨」なんかは、そのノートから言葉を拾って書いたんだ。そういう詞のスケッチみたいなものは、結構たくさんあったから、メロディーを作るときにそういうものを見ながら、自分で歌詞を書くんだったら、どういう感じにしようかって、半年間くらい、いろいろああでもない、こうでもないって考えてた。そういう意味では、MELODIESは結構計画的だったんだ。
その他にMELODIESの根源にあったのは、FOR YOUで広がっていた”夏男、山下達郎”っていうパブリック・イメージをどう減らしていくか。あとは、現役でやれる時間が残り少ないんだったら、もうちょっと自分の原点に戻って、それでどれぐらいできるかのトライしよう、って。そういうことが盛り込まれたアルバムなんだ。ちょうどRVCからムーンにレコード会社を移籍するから、そういうイメチェンをするにはいい機会っていうのもあったしね。
でもあの頃はね、できたものを聴いて、みんないろいろ言うんだ。褒めてくれる人ももちろんいたけど、逆に「失望した」とか「イメージが違う、もっと夏っぽくならないのか」という批判も多かった。スタッフでも言う奴がいたよ。MELODIESの後、83年9月に出したシングル「スプリンクラー」なんか、「なんですか?これ」って言われたw「全然夏っぽくないじゃないですか」って。スタッフだってそんな感じだったからね。だからMELODIESが発売されて1位を獲った時は、本当に一安心だった。
「メリー・ゴー・ラウンド」は結構自分では好きなんだ。この曲はアイズリー・ファンクなんだけど、あの当時、あんな曲調にあんな詞を乗っけるなんて発想はなかった。それこそ、海の向こうで、ああいう音楽をやってる人は全部、「今夜俺とメイク・ラブしようぜ」みたいな歌しかなかった。あんな、あるんだか、ないんだかわからない夜中の遊園地なんて設定はありえない。大体夜中の遊園地なんて真っ暗で、こんな話あるわけないんだ。でも、この歌にはあたかも「メリー・ゴー・ラウンド」に明かりが入っているかのような、そういうイリュージョンを持たせたかったんだよね。そういう形にしたかったの。でも、今から考えると、よくこんなメロディーやリズム・パターンにあんな詞を乗っけたな、っていう気はするけどね。でもやってみたかったの。

だから、ある意味ピンク・フロイドとか、ムーディー・ブルースとかに近い世界観があってね。ピンク・フロイドなんて非常に荒唐無稽なところがある。「この曲でこの詞かよ」みたいなところがね。イギリス的というか耽美的っていうか。アメリカでもパールス・ビフォア・スワインとか、ベルベット・アンダーグラウンドの初期の作品とか、トーキング・ヘッズとか、それに近いものがあるけどね。でもそういうのだって、大体UKからの影響だよね。
僕はUKには本当に影響されているんだ。60年代末のサイケの時代だね。特に詞はね。ムーディー・ブルースなんかは、すごいなといつも思ってた。「IN SEARCH OF THE LOST CHORD(失われたコードを求めて)」や「A QUESTION OF BALANCE」あたりの詞の持って行き方とかね。「RIDE MY SEE-SAW」なんて典型的でね。「メリー・ゴー・ラウンド」のような詞は、確かにそういうものに、ものすごく影響されているね。
30歳くらいになると、だんだん自分のスタイルが定まってくるっていうか。特にあの時代は、もうそのくらいでも遅いくらいでしょ。20代の半ばくらいで、これは俺の音楽だ、って決めないと競争に勝てないっていうか。
   
<MELODIESの方向転換がなかったら、今の僕はない>
シンガー・ソングライターとしてのスタンス、そこは押し出したからね。だって結局そういう道しかないと思ったから。今更言ってもしょうがないんだけど、MELODIESの時のレコーディング環境が90年くらいまで継続されていたら、その後の作品も全然出来が違ってたと思うけど、85年にデジタルが出てきて、そこで運命が変わってしまったんだよ。 デジタル・レコーディングとの格闘だね。
ただ作詞作曲というか、作品を作るという部分での方向転換に関しては、MELODIESでやった事は絶対に正しかったって、今でも思っているよ。MELODIESのあの方向転換がなかったら、今の僕はないからね。それはもう確実に言える。
だけどMELODIESが出てから、89年に「クリスマス・イブ」がヒットするまでの何年間かは、やっぱりそれ以前のお客さんたちの中に、抵抗があったのは事実で。それはシュガー・ベイブからソロになったときの抵抗と、同じような感じなんだ。そういう時期は何度かあった。SPACYとかを聴いてた人たちが、RIDE ON TIMEを聴いた時の抵抗とか。それと同じようなことがRIDE ON TIMEやFOR YOUの時から、MELODIES以降の時にもあったんだよ。ファンは新しいものに抵抗を感じる。でもね、88年に「僕の中の少年」が出た時、 その年の「ミュージック・マガジン」の年間アルバムのベスト4位だったんだよ。すごいストレンジな感触だったんだけど、でもその時に、この5年間でやってきた事は間違ってなかった、と思ってね。まぁそれでいいかなって。MELODIESは、そのとっかかりだったからね。
スタッフの戸惑いなんかは、全く気にしなかった。これしかない、と思ってやったからね。とにかく、それでダメだったらしょうがない。あそこで”FOR YOUパート2”みたいなものを作っちゃったら、自分が満足できないし、そんなのイヤだもの。
リスナーや観客とのズレ、芸能界ではよくあるけどね、客はワーッと乗ってるけど、本人は全くやる気がないとかね。そういう人がたくさんいるじゃない。ほらジャズのインプロビゼーションは、観客の期待を50%は叶えて、50%は裏切るのが最高だって言うし。表現というのはみんなそうなんだよ。その時に、確信犯的な決断がすごく必要なことってあるんだよね。僕にも何回かそういうことあったけど。もちろん成功したこともあれば、失敗したこともある。でも、失敗したとしても別に後悔はしないな。そんなもんだと思ってるし。
ひとつだけ言える事はFOR YOUの後、あのまま行ってたら、僕は絶対に終わってた。もちろんそういう決断をしていくことがいいのか悪いのかって事は、その時にはわからないことがほとんど。だからといって、流されて行って、気がついたら何もなくな、っていうのは嫌だったからね。
あの頃シンガー・ソングライターとしての音楽を打ち出していた人は、男ではあまりいなかったと思う。女性だと、ユーミンは少し前に出した「紅雀」(78年)で、そういうことをやっていた。あれはすごく優れた作品だと思ったよ。意図は、僕がやろうとしたことと同じだったんだ。
美奈子も「FLAPPER」(76年)の後に「TWILIGHT ZONE」(77年)を出していた。 そういう変化の時期っていうのは、必ずあるんだと思う。そういうイメージチェンジをどんなふうにやっていったらいいか、っていうのを、結構真面目に考えたんだ。その意味で手ごたえはあったよ。売り上げはFOR YOUより良かったからね。
MELODIESについての一番最初の取材が、天辰保文(あまたつ・やすふみ)さんで、天辰さんに「クリスマス・イブ」を聴かせたら「これはすごい」って言われたんだ。あとレコーディング中だけど「クリスマス・イブ」のアカペラ間奏を一日がかりで作って、それをカセットに入れて持って帰って、まりやに聴かせたら、「これはすごい」って。そんな感じで、これは結構大丈夫かなって思った事は何回かあったけどねw
あの当時は1年に1枚アルバムを出してた時代でしょ。アナログLPだから10曲入りだよね。今みたいにCDだと1枚で15曲以上入るから、それはそれで1つの完成した作品として作るのは、大変な作業だけど、あの頃はアルバムって、曲数が少ないこともあって、常に次への通過作業みたいなものだったからね。今年出して、次はまた来年っていう。だから内容も、少しずつ進化してはいけばいいっていう話だから。で、後はライヴがちゃんと機能している時代で、レコードプロモーションとしてのライヴの存在がちゃんとあったから、それがすごく大きかった。82年のFOR YOUのツアーは20本くらいだったけど、翌年から30本になって、コンサートの本数も多くなっていったから、それはすごくMELODIESを後押ししてくれた。
    
<その曲を特徴づける楽器を決めないとダメなんだ>
MELODIESのレコーディングは結構長くやってた、1年くらい。ダラダラと。コンセプトはFOR YOUが出た後に考えてた。82年の夏くらいかな。

原盤権もRIDE ON TIMEのシングルまではPMP(パシフィック音楽出版、現在のフジパシフィック音楽出版)だったけど、RIDE ON TIMEのアルバムからはスマイルになっていたから、制作予算もFOR YOUの時代からはたっぷり使えるようになっていたから。それまではアルバム制作費が1,000万円でもお金のかけすぎだって言われたけど、例えば制作費が2,500万円だったとしても、たった2倍半になっただけなんだよ。お金をかけたとしても、売り上げが見込めるんだったら、それを相殺すれば良い話なんだ。そういう事は今までも散々言ってきたけど、結局レコード会社も原盤会社も事業計画だから、許してくれなかった。そういうことを言うと「あんただけが(所属)ミュージシャンじゃない」って言われる。でも自社原盤だったら、そんなこと関係ないからね。
実質のレコーディング時間は、MELODIESは割と短いかもしれない。曲も事前に揃っていたし。12、3曲かな。この時はね、FOR YOUの(曲数の)3分の2くらいはやってると思うけど。でもね、今と比べたら、どんなに長いったって、結局リズム録って、それにパーカッションか何かダビングして、後は弦を入れるか、ブラスを入れるかして、コーラスを入れたら終わり。後は別に何もないんだもの。今はマシンでやるか、生ドラムでやるか、マシンでやるならキックの音はどうするのか、の決定から始まって、やっぱり生でも一回やってみようとか、ループでやってみようとか、エレピの音はこれじゃなくてとか、選択肢が多すぎるよね。昔はエレピの音といっても、もうローズかウーリッツァーくらいしかなかったんだもの。
当時のレコーディング・セッションは1日、ワンセッションで2曲。下手したら1日3曲なんて日もあった。だからリズム録りはすぐに終わる。一人多重でやるのは、一日で撮らないとダメだしね。だからレコーディング自体、それこそリズム取りは延べ10日とか、それぐらいで全然取れちゃうの。それから永遠、ああでもない、こうでもない、っていうのが始まるんだよ。アレンジもそこからが大変。特にその曲を特徴をつけるためのが楽器を何にするかっていうのを決めないと、ダメなんだ。音色をね。
例えば「クリスマス・イブ」だったら、あのイントロのギターの音とか、コーラスの段取りだとか、「ひととき」だとトーキング・モジュレーターとかね。それは今でもそうだけど、その曲を聴いたときに特徴として耳に起こる音色っていうか、それを決めないと曲の個性が出ない。そういう作業をしないと、流れ作業の歌謡曲みたいな個性のないものになってしまう。今流行っている曲の多くは、曲を特徴づける音色も何も、全部ソフトシンセで個性がないから、カラオケだけでは判別がつかないし、歌もピッチ補正の繰り返しで、結果みんな同じような印象になってしまうんだよね。何かひとつでもいいから、例えばモジュレーションされたハープの音とか、そういうイントロひとつでもあれば、その曲はそういう色になるんだけど。今は何でもソフトシンセの既製品だから、なかなか違いが出せない。
   
<作った直後はダメなんだよ、自己評価ができないの>
アルバムを作ってるときは「クリスマス・イブ」の位置付けなんて考えてない。だって、あれは何度も言うように、うちの奥さんが「PORTRAIT」(81年)を作るときに書いた曲なんだよね。 それを当時のまりやのA&Rがボツにした。その人はロックンロールが嫌いだったから。じゃぁ自分でやってみようかなってことで、MELODIESに入れたんだ。MELODIESの30thアニヴァーサリー・エディションのボーナストラックに「クリスマス・イブ(Key In D)」っていうのが入ってる。あの曲のキーはAなんだけど、Dで歌ってるマルチテープがあった。倉庫で発見してね。それをリミックスして、ボーナストラックにした。このキーDでは裏声で歌ってる。最初はクリスマスの曲じゃなかったし、詞と曲も同時に書いてたんじゃない。メロディーとコード進行はあったんだけど、 それをある程度重ねていって、あのギターを5、6本、真ん中で重ねるっていうのは、村田(和人)くんのレコーディングでやった時に思いついたノウハウなんだけど、それをそのまま使ってね。そんな感じでアレンジをやっていく中で、この曲は何かバロックの感じがいいのかなと思ってね。バロックの曲だったら、クリスマスの曲かな、っていうアイデアが出て、それであの詞にたどり着いた。
そういう具合にオケが完成に近づくにつれて、曲のテーマ付けも決まっていく。その間、前段階ではどういう曲になるか分からないから、キーが高いのと2つテイクを録ってたんだね。で、キーがDのテイクは、仮メロを裏声で歌ってるんだけど、なんと「クリスマス・イヴ」の歌詞で歌ってるんだよね。 という事は、ある程度のところまで、どっちにしようか悩みつつやってたんだね。
このアルバム、一曲目の「悲しみのJODY」は裏声で歌っているから、もし(アルバム最後の)「クリスマス・イブ」のキーがDのテイクを選んでいたら、最後の曲も裏声になっていたかもしれないんだよね。今考えると、間奏に使った「パッヘルベルのカノン」の音域が、たまたま僕のAの歌とドンピシャだったから、それでキーがAのテイクにしたんだと思う。だからアルバムにおける「クリスマス・イブ」の位置って言っても、それは作って発売されてから後の話でね。発売されて「これはいい」と言われたりしてからなんだよ。作った直後はダメなんだ。自己評価ができないの。
  
<アルバムの中でキーになる曲は、やっぱり「高気圧ガール」なんだ>
アルバムの軸、やっぱりMELODIESは「高気圧ガール」でしょう。シングル曲だし。今現在は「クリスマス・イブ」になっちゃうけどね。MELODIESは前2作に比べるとすごく作家的なアルバムだからね。シンガーソングライターというより作家的なんだよ。もうやりたいことをやって、行けるところまで行ってみようという。だから曲をたくさん作って、たくさん録ってたけど、そこからセレクトされたのが、レコーディングがよくできた曲、歌いやすそうな曲、あとは自分で詞を書くから、詞が乗りそうな曲。そういういくつかのセレクトのファクターはあるけど、非常にバラエティに溢れている。
でもアルバムの中で、何が一番キーになるかと言えば、やっぱり「高気圧ガール」なんだよ。色々と考えて作った曲でね。「LOVELAND, ISLAND」から始まったトロピカル路線、ラテンリズムの曲と言うことで、我ながら非常によく出来たと思った。他にもいろいろファクターがあって、まずアカペラでスタートしている。日本語の曲で、ああいったアカペラでスタートしている曲というのも、なかなかなかったし、いわゆるポリリズムというか、複合リズムのパターンも非常にうまく構築できた。コピーライターの眞木準さんが作った「高気圧ガール」というコピーも良かったしね。CMを前提として作った、先行タイアップ・シングルで。30thアニヴァーサリー盤のボーナストラックに、これのロング・バージョンが入ってる。
RIDE ON TIMEはアルバム・バージョンを作ったでしょ。でも、あれはシングルと別テイクなんだ。別テイクだとやっぱり良くないんだよ。その反省を踏まえて、同じレコーディング・バージョンなんだけど、シングルはラテンとアカペラのヴォーカルで入るのね。でもロング・バージョンの方は、純粋なアカペラで始まる。僕がライヴの時に使ってる、あのイントロね。アカペラでスタートして、エンディングは、シングルはフェードアウトしてるんだけど、ボーナストラックの方はイントロに戻ってからフェードアウトする。だからシングル・バージョンより30秒くらい長い。それをアルバム・バージョンにしようと思って、ミックスまでして、ちゃんとマスターも作った。だけどイントロがアカペラだけで始まると、ちょっとインパクトが弱い。やっぱりシングル・バージョンのインパクトには負ける。あと収録時間が長くなるので、その30秒のカッティングタイム超過が嫌だから、結局シングル・バージョンをそのまま入れることにしたんだ。まぁいろいろ考えたんだよ。で、このアルバム・バージョンのテープもどこかに行ってしまって、長いこと発見できなかったんだけど、今回倉庫に眠ってたのをついに発見して収録できたと言うわけ。
   
<曲順の効果とかはもう結果論でしかないんだ>
MELODIESがバラード・アルバム的というのはどうかなあ。 僕はもともとアップの曲が少ないんだよ。今のCDみたいに全20曲みたいな感じだと、もっといろんな曲が入るんだろうけど、アルバム1枚で10曲、時間も40分位でしょう。今の感覚で言うと、ちょっと物足りない感じもあるんだけど、昔はそうじゃなかったからね。昔は片面17〜18分だからその間、精神集中して聴いて。それをひっくり返して、17〜18分のB面を集中して聴くという、あのパート1、パート2の世界で、ものを伝えようとしていたわけだよね。
だから、聴く方の心構えが違うんだよ。カセットテープをカーステレオで聴くにしたって、片面23分だから、46分テープを使って、アルバムの表裏を入れて、ちゃんとひっくり返して聴けるように作るわけだよね。ソフトを、わざわざカセットテープで買う人もたくさんいて。やっぱり、音楽の鑑賞態度が全然違う。
でも、そういうことを思い出せと言ってもなかなか難しいしね。だから曲順の効果とか、そういうものはもう結果論でしかないんだよ。でもとにかく「悲しみのJODY」を裏声で始めて、ああいう流れでアルバムを作ろうというのは確信犯だったね。なんたって片面20分前後で収めなきゃならないから、どう頑張ったって5、6曲しか入らない。両面で12曲入らないからね。結局10曲しか入れられないんだったら、どうするんだ、ってなる。どうバリエーションを作るか。でもGO AHEAD!を作った時だって「散漫だ」って言われたんだよね、作風が。「ひとりの人間が、こんなにあっち行ったりこっちに行ったりしたらいかん」と地方局のディレクターとかに言われたよ。それは何を基準に言ってるか全然わからない。根拠がわからない。
僕は日本のミュージシャンでは、最もトータル・アルバムが好きな人間だって自負しているから。人生で一番好きなアルバムはほとんどがトータル・アルバムで、リチャード・ハリスの「A TRAMP SHINING」とか、マーヴィン・ゲイの「WHAT’S GOING ON」や、ラスカルズの「ONCE UPON A DREAM」とか。そんなアルバムばかり聴いて育っているから。でも、日本はそうじゃないんだ。日本は外来文化なので。僕自身は引き出しの多さとか、作家性の方が重要だと思ったから、そっちの方に向いていたんだ。それをとらまえて、統一感がないと言うんだよね。たった10曲で。あの頃は本当にそういうことをね、新聞社とか地方局の人によく言われたよ。
自分の範疇超えてるからだと思うよ。特に新聞の文化部の記者なんて、クラシックはクラシック、ジャズはジャズ、みたいにカテゴライズで全部やってるから、それから外れたりクロスオーバーするのがダメなんだろうね。だからYMOみたいなのがわかりやすい。これは何をやりたいのかっていうのが一目瞭然でしょ。でも、僕は何をやりたいのかっていうのがわからない、と。大滝さんも、ずいぶんそういうこと言われたじゃない。
   
<今と違って、思った音が思った以上に出た>
移籍第一弾アルバムという意識は強かったね。あとFOR YOUがあれだけ売れたことも、やっぱり自分の自信になってるし、何よりリズム・セクションが安定したことと、レコーディング環境。

1982年から83年の六本木ソニースタジオの音。ニーヴのコンソール、スチューダーの24チャンネルのレコーダーと、マスターレコーダー。アンペックス456のハイ・バイアステープ。EMTの140プレート・リバーブのあの音。もう今と違って、思った音が思った以上に出るんだ。それが、あの時代の音楽をあそこまでにした勝因で、それはテクノロジーと不可分で、もう我々の努力とかじゃないの。この頃はナチュラルな自分たちの演奏が、きれいにマイクで録られて、それがテープにうまく入って、エコーやトータルリミッターの質も良い時代で、欲しかったロックンロールの音に仕上がってくるという、そういう全てのものがうまく転がっていった時代だから。MELODIESは曲調は若干地味なんだけど、そういうものが十分にサポートしてくれたんだよね。
あえて地味というか、チャラチャラさせたくないというか。RIDE ON TIMEもそうだったんだ。FOR YOUはその反動というか、たくさん録った中でのベストトラックを選んでいるから、やっぱり派手好みになるというかね。でもこれからはFOR YOUとは違うんだっていう、これからは自分はそういう事はしないんだっていう意思表明をしないとダメだと思ったの。それがプラスと出るか、マイナスと出るかわからなかったけど。
A面3曲目の「夜翔(Night-Fly)」からの曲の流れは、わけわかんないよね。まぁ大体「GUESS I’M DUMB」を入れるなんてのもバカだよねw すごいレアなシングルで、ようやく手に入れたから、今度はカヴァーしたくなるという。まあ、ただの道楽だよねw でもこの頃は、確実に1年に1枚、アルバムが出てたから、こんなこともやれたんだよね。この後、リリース・タームがドーンと空いていくと、カヴァー曲もガクッと減る、それはもう仕方ない。
MELODIESの内容は、要するにやりたかった。それだけ。あとは洋楽のリスナーにアピールするっていうか、ニューミュージックとは違うんだっていうアピールかな。こういうことを言うと必ず「お前だってニューミュージックだろう」って言われるんだ。ポピュリズムだからね。まあしょうがないんだよ、それは。いつの時代もそうだし。テレビの歌番組の最前線でやってる人は、流行の実感とかあるんだろうけど、我々はそうじゃないから。
だから、日本の音楽人口が何百万人かいるとして、どこのターゲットにどれくらいの量、どれくらいの質を目指すか、だよね。そういう情勢分析がきちっとできていれば、例えばCDのセールスがそれほど多くなくたっていいんだ。数少ないけど、そういう人ってずっといるんだよね。例えばブルーハーツなんて、そうだったじゃない。あれはあれで全くいいんだ。忌野清志郎さんも、多分それに近いものがあったんだよ。そういう人たちは美しいんだよ。ジタバタしない。
メディアは、すぐに何百万枚売ったとかそういうことばかり言うよね。そんなもの音楽で決められるわけないのに、まだやってる。だからAKBが史上最高売り上げだとか、ああいう馬鹿なことを言うわけで、今も昔も何も変わってないんだよ。
【第34回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第33回 MELODIESへ、そのアルバム・コンセプト 1982〜83年

<”Sparkling ’82〜’83”ツアーで、ようやく全会場ソールドアウトになった>
ベスト盤は別として、82年4月シングル「あまく危険な香り」から、次作83年6月のMELODIESまで1年あまり、その間はレコーディングもやってたし、ツアーもやっていたので、別に取り立ててブランクという意識はなかった。結婚(82年4月)というのもあったし。
82年10月からは、”Sparkling ’82〜’83”ツアーだね。この時からメンバーを替えたんだ。それまでのリズム・セクションは5人だったけど、キーボードを野力奏一と中村哲の2人にして、6人編成になった。それ以降、ずっと6人編成というスタイルで現在に至っている。サックスを渕野繁雄さんにして、コーラスも全員替えた。この時に村田和人くんに入ってもらったんだ。
あとはこのツアーから、今のようにステージをきちっとセットを組んで、できるようになった。それまで4トン車1台で、楽器とPA機材を運んでいたのが、ここからは10トン車2台で規模が大きくなった。それでようやくちゃんとしたツアーの形態が取れるようになったの。
これは観客動員の結果だね。このツアーでは全部で18本やったんだけど、ようやく全会場ソールドアウトになった。その前のツアーまでは、宮崎とか、お客さんが入りにくいと言われた何か所かは、やっぱり空席があったりした。でもこの時は宮崎も一杯になった。それは覚えている。
でも、僕のツアーが本当にコンプリートでソールドアウトになったのは、この翌年の83年からなんだ。今でも覚えているけど、それまではね、宇都宮なんかだと、公演当日に残券がまだ200前後あって、それが当日券で売れてソールドアウトになる、という感じだったのね。でも、83年12月に宇都宮市文化会館でやった時に、初めて前売りでソールドアウトになった。
とはいえ、この82年のツアーの時は、とりあえず全公演が満員になった最初で、この頃から事前のスポットとか、広告も、イベンターがちゃんとやってくれるようになったのも大きい。それまでは本数は多くても、どちらかといえば単発的なツアーの延長という感じだったけど、ここいらあたりからは、スケジュールも計画的になってきて、他と同じようなメジャーなコンサート・ツアーの形態が、ようやく取れるようになった。それが、この82年のこのツアーだったんだよ。
   
<僕のステージはダンスとかもないから、もっと演劇的な世界にしたかったんだ>
まだこの頃は、照明やステージセットに対して、 そんなにこだわってはいなかった。でも、希望は出してたよ。82年のツアーのセットは缶詰だったかな。プランナーが来て「こういうのはどうか」「これじゃ嫌だ」とかね。この頃はユーミンのステージに象が出たりして、ステージ演出がだんだん派手になっていった時代だったけど、それでもまだステージセットへの考え方は、今とは違っていたから。バリライトもまだなかったし、ステージの奥から客席に向かって明かりを飛ばす”目つぶし”とか、スモークなんていうのが、まぁ一番派手と言えば派手なステージ演出だったんだけど、僕は「目つぶしや、火や煙をやらないステージにしてくれ」って言ったんだよね。僕のステージはダンスとかもないから、どちらかと言えば割とスタティック(静的)な作りというかね。ピンク・フロイドみたいに大掛かりなものも嫌だし、もっと演劇的な世界にしたかったんだ。ちょうど照明も、戸谷光宏さんっていう演劇畑の人、美輪明宏さんとかの舞台を手がけている人だったのは、幸運だった。
で、92年のツアーまでの照明は戸谷さんで、94年の”山下達郎SINGS SUGAR BABE”のステージから、今の小川幾雄さんになった。小川さんも演劇畑が主で、野田秀樹さんの夢の遊眠社をはじめ、たくさんやっている人で、たぶん今、日本で一番売れている照明プランナーの一人だと思う。つまり、僕の82年以降のステージの照明は、全て演劇関係の人にお願いしてるんだ。演劇の人の照明は、コンサートをやっている人の照明プランと全然違うからね。そこは割と早くから考えてたんだよ。
いわゆるロックのライヴでの、ピカッ!ドン!ワーッ!っていう世界じゃなくて、時間の経過っていうか、例えば夕暮れから夜になる変化を表すとか、 そういうことをしたかったんだ。芝居のセットって、そういう作り方をしているでしょ。だから、演劇の中のどこか一場面のような、例えば公園だとか、遊園地にしようとか、そんな感じで考えていったんだ。でもこの時代は、まだもうちょっと抽象的で、例えばでっかい朝食テーブルとかね。あれはどっちかっていうと、アメリカン・モダンアートの(クレス・)オルデンバーグとかの、巨大志向の作品の影響だったりもするんだけど。この82年のツアーの舞台も、缶詰の缶があって、そこに全員が乗っているという。あれはやっぱりモダンアートのジャスパー・ジョーンズとか、そういう世界に影響されてる。
セットについては、こっちがアイディアを言うと、美術家がそれに対して、どうですかって出してくる。そんな感じで作っていくんだけどね。でも、この年は良かったけど、83年のツアーでは、森から始まって、海に転換するっていうイメージを舞台で作ったんだけど、あれは大失敗だったw そういう試行錯誤を経て、今があるんだ。
それ以前のツアーでは予算がないから、そんな舞台演出的な話はできなかった。何しろ4トン車1台きりだから。せいぜいじがすり(舞台に敷きつめる黒布)と、ステージ効果といっても、風船があって、それが膨らむとかね、後ろから光を当てると、透過する偏光シートを使って、その中に照明を押し込むとか。そういう非常に消極的な仕掛けしかなかった。後はミラーボールを三色くらいの光で照らして、カラフルにするとか、そんな程度。フィルムをちょっと使ったな。「スペース・クラッシュ」の間奏にアポロ13号のフィルムを流したりね。そういう、ごくありきたりなステージだった。
僕は80年秋から81年の春までで、約70本コンサートをやってるんだけど、その当時はお客さんが、どこもいっぱいというわけじゃなかった。そういう段階では、ちゃんとしたセットを作るのは、予算の関係で無理だった。もっとも、その後の僕のツアーだって、今に至るまでそんなに、予算的に野放図にやってるわけじゃないけどね。あくまでホール・コンサートだから、セットはあくまで主じゃなくて、従だもの。
今はアリーナクラスやドームクラスのライヴでは、セットとかプロジェクションのような特殊効果に、金をかける競争になっていて、いくらお金があっても足りない、っていうのが現実だから。長いことツアーやってると、メンバーの間とか、スタッフとメンバーとの関係とか、いろいろ出てくるんだよ。まぁそういう問題は、僕に限らず、誰もが抱えているんだけどね。でも最近の10年くらいは、そういう人間関係も結構に慎重に考えるようになって、スタッフの選び方とかもきちっとやってるから、あんまりトラブルは無いけど。それは経験だよね。こっちも若いから、そんなに言えないしね。今は「嫌なら辞めて」とか言えるけどね、昔は、ね。
   
<MELODIESでは、せめてGO AHEAD!くらいまで戻ってみよう、って思った>
今回(2013年)MELODIESの30周年記念盤を出したときに、そのライナーノーツとかツアーのパンフにも結構書いたんだけど、FOR YOUがかなり売れたでしょ。だからFOR YOUが出て、この(82年10月からの)ツアーが始まる頃っていうのは、とにかく「夏だ、海だ、タツローだ!」のピークだったの。この時は地方に行ってライヴをやって、プロモーションをやって、ラジオに出て。それがFOR YOUが出てから、夏を超えても延々続いたんだよね。で、これはなんかおかしいなと思って。だって、その2年か3年か前には、そんなこと全然なかったんだから。それが「COME ALONG(80年3月カセットで発売)」あたりからだんだん始まって来て、全国に波及するのが数年かかるわけで。
とにかくイメージというものは「夏といえば山下さん」「夏は好きなんですか?」「夏はやっぱりサーフィンとかやるんでしょ」って、毎日そうだから、大丈夫かなと思ってきてね。このまま行くと、どうなるんだろう、って。それに僕が売れたことで、似たような売り方の人も出てくるじゃない。そういう人たちとも一緒にされたくないし、どこかで差別化を図らなきゃダメだろうと思ったの。
あとは、やっぱり僕が30歳になるというのがすごく大きかったよね。 この頃ってちょうど30歳手前だったでしょ。当時は30歳を境にして落ちていくっていうのが、普通だったからね。30歳過ぎて、ロックなんかやれないよって。それは同世代のみんなが、同じことを思ってたんだよね。「Don‘t Trust Over Thirty」、30歳以上を信用するなって言ってたのが、自分が30歳になっちゃうわけだからね。だから30歳から先の展望どうしようかっていう事は、みんな真面目に考えてたんだよ。何度も言うように、僕はそんなに長く現役は続けられないと思ってたから。 あと何年か現役をやるとしたら、このまま夏男で3 、4年現役をやって、「売り上げ落ちましたね」っていうふうになって終わるのは、絶対にイヤだった。それにおかげさまで、例えばレコーディングの環境とか、バンドの状況とか、そういうものはシュガー・ベイブの頃頃と比べると、革命的に改善されていたのね。折しも82〜83年の、デジタル前夜のアナログ・レコーディングのスペックっていうのは、最高と言っていいくらいのクオリティだったから、制作条件では言うことがなかった。だったら今、何をやりやろうかという時に、じゃぁ昔に戻ろう、もうちょっと昔の、内省的な感じにしよう、せめてGO AHEAD!くらいまで戻ってみよう、って思ったのね、それがMELODIESのコンセプトになったんだよ。
そのコンセプトが見えたのが、82年の夏くらい。レコーディングの準備を始める頃に考え出して、そのためにはどういう曲を書こうかっていうので「悲しみのJODY」から始まって、すべてそういう意識で書いたの。
で、曲もそうなんだけど、シュガー・ベイブの時に自分は何をしたかったか、考えると、音楽的な問題はあるけど、スタンスってすごい重要じゃないかと思ったの、自分が何の歌を歌うとかね。例えばはっぴいえんどの作品は確かに優れているとは思うけど、僕自身はああいう曲を歌いたいと思った事は無い。それじゃ何を歌いたいのかって言ったら、もっとすごく個人的でシンプルな心象風景。抽象的な心象風景を歌うのが、好きだったんだ。私でもそういうのが好きだったし。だったら、そういうものに戻るのなら、もっと詞についても考えるべきじゃないかと思ったんだ。
   
<自分の本来に戻って、どれぐらいできるか、トライをしようと思った>
さっき言ったみたいに、レコーディングやライヴを取り巻く状況は、ものすごく良くなっていた。一つ一ついろいろなことが改善されてきている中で、後は何が不足かって言ったら、自分の好きな言葉かな、と思ったの。それまでの曲作りは(吉田)美奈子とずっとやってきたんだけど、女の人の物の見方と、男の人のそれっていうのはやっぱり違うので、男の視点の歌がもっともっと欲しいと思った。それはシュガー・ベイブの頃からずっと考えていたことなんだけど、そういうことを本気でやりたいんだったら、自分で詞を書くしかないと思ったの。結果、MELODIESでは 全曲自分で詞を書いた。
日本のフォークやポップなものの作詞ということでは、女性には優れた人がたくさん居たんだけど、男性では自分にとって魅力的なものがあまり見当たらない時代だった。あの時代のポップ界は、もう松本隆さんの天下でね。ポップミュージックにおける、作詞としての個性っていうものを見た時に、松本さん以外に誰も居ないんだ。
もうちょっとロックンロール寄りだと、忌野清志郎さんとか、男の人でも独立独歩の人がいたんだけど、ポップミュージックの分野だと、既成の職業作家に頼む人が多かった。それって何か変じゃないかなと思ってね。自分が75年ぐらいに考えていたポップ・ミュージックっていうのは、あの頃はみんな稚拙でも、自分で詞を書いていたよね。でも、それがだんだん通用しなくなって来てるっていうのかな。サザンオールスターズの桑田くんなんかもいたけど、でも桑田くんの詞は、僕と全然世界が違うしね。
じゃあ自分はどうしようかなって、そのことは随分考えたんだよ。 シュガー・ベイブの時代から作詞のアイデアノートはずっと持っていたのね、いろいろ書き込んでいて、例えば「2000トンの雨」とかは、そのノートからのヒントで作ってるんだけど、そういうのが結構あるの。だからそのノートを見てね、自分で詞を書くんだったら、どういう詞にしようかって、半年くらい色々考えてたんだ。そういう意味ではMELODIESは結構計画的というか、逆に確信犯的に作り始めているんだ。
でも、その根源となっているのは、”夏男”から離脱する方向と、この先、現役でいられる期間が残り少ないんだったら、もうちょっと自分の本来に戻って、どれぐらいできるかってトライをしようと思った。それがMELODIESというアルバムなの。ちょうどレコード会社も移籍するから、イメージチェンジするにも良い機会だと思ったしね。

それからこの頃、ラジオが始まったね。83年4月から3年間、POCKET MUSICが発売される直前まで続いた。NHK-FMサウンドストリート」、木曜日だったね。

【第33回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第32回 82年「あまく危険な香り」とベスト盤、RCA/AIRイヤーズの終わり

<ドラマのオファーが来なければ「あまく危険な香り」は世に出なかった>
82年1月発売のFOR YOUからのシングルカットはなかったけれど、この年の4月5日にドラマ主題歌「あまく危険な香り」をリリースしてる。FOR YOU発売の直後だね。これがオリジナル曲としては、RVC最後のリリースになる。これはFOR YOUのアウトテイクなの。とはいえ、FOR YOU用に作っていたというわけではなくて、あくまでもFOR YOU制作時期のレコーディングという意味で、その時点では、あまりダビングも詰めてなかった。元々は誰か大人の歌手に歌ってもらおうと思って、フランク永井さんあたりを想定して書いたの。実際に82年6月にフランク永井さんに提供したシングル「WOMAN」がリリースされてるけれども、この「あまく危険な香り」を書いた前年の時点では、そんな話は具体的に何もなかった。
だから完全に夢想なんだけど、 例えば菅原洋一さんとか、フランク永井さんとか、水原弘さんとか、ああいうバリトンのちょっと洋楽的なテイストを持っているシンガーに、歌ってもらおうと思って書いたの。76年にカムバックしたルー・ロウルズみたいな感じで作ろうっていう、作家的な発想で書いた曲だったんだけど、小杉さんが曲を聴いて「これは良い、山下くんが自分でやれ」って。
でも、この曲はFOR YOUに収録する候補曲ではなかったの。FOR YOUはもう既に曲があふれていて、全然入らなかったから。前にも話したけど、RIDE ON TIMEからFOR YOUの頃は、もう湧いてくるように曲がどんどん作れたし、レコーディングも予算を気にせず。たくさんできるようになって、合わせて30曲近く録ってたからね。 本当に、それまで作れなかったのが嘘みたいに、一気に出るっていう感じだった。だから80年代の僕の活動には、その余録がずいぶんあったんだよ。
だから、TBSからドラマの主題歌の話が来たときには、この曲があると思って、引っ張り出した。今でもそういうことがあるんだよ。今はモチーフで持っていて、それを企画に合わせて、曲として仕上げていく、っていうやり方をするけど、「あまく危険な香り」は、もうトラック自体が出来てた。詞はあとから考えたけどね。ドラマのオファーが来なければ、あの曲はあの時期に、世に出る事はなかったね。もう一つ、ちょうどRVCとの契約切れのタイミングだったという理由もある。日本のレコード業界には協約があって、レコード会社を移籍したら、1年間は新しいレコード会社からは、作品が出せないんだ。だから、このタイミングで出しておかないと、ほとぼりが冷めるまで出せないから、あの曲を出すためには、ギリギリのタイミングだったんだよ。ドラマとの関係もあるから、出さないわけにはいかないしね。
その頃は、まだRVCとは契約をどうするかっていう話し合いが続いてはいたけど、すでにエアーレーベルにいたスタッフは、ほとんどムーンレコードに移っていて。82年4月に村田和人くんのデビュー曲「電話しても」が出て、ムーンレコードの活動も、もう本格的に始まってたしね。
僕だけじゃなく、奥さんも同じように移籍したんだけど、あの頃の業界の評価からすると、竹内まりやは既にピークを過ぎてたというか、最盛期より売り上げが落ちていたから、レコード会社としても、もうこの先は無い、っていう評価が本音だと思う。 まりやは84年に「VARIETY」でカムバックしたけど、その時だって業界全体では、物好きなダンナがレコードを出させた、くらいの受け取り方だったからね。当時は売り上げが一旦落ちたら復活は難しかったし、まして女性シンガーが結婚してカムバックなんて、できっこないという時代だったから。事実そうだったし。
当時の常識で考えれば、そういった状況で売り上げが元に戻るなんて事は、ありえないことだったんだよね。でも、そのありえないことが起きた。だから、やっぱりあのあたりで時代が変わっていったんだよ。
   
フランク永井さんにはこちらからオファーした>
79年から81年にかけては、とにかく来る日も来る日も、プロモーションだったんだよね。そのプロモーションを全国で動き回っていた時に、例えば新幹線で移動しながら、スタッフといろいろな話をしたんだ、レコードビジネスについてのね。
で、さっきも話したルー・ロウルズとかの話になって、日本ではなんでそういうベテランがカムバックできないんだろう、ベテランがカムバックできるファクターってなんだろう、って話し合ったことがあるんだよね。
その時に出た結論は、全盛期が過ぎてから、音楽以外のことに手を出すとダメなんじゃないか。役者とか、バラエティー番組に出て司会をやったりとかね。そういう人は、どんなに頑張っても、復活はおそらくできないだろう。でも、たとえキャバレーまわりだけだったとしても、純粋に音楽だけで活動を続けている人だったら、ひょっとしてカムバックの可能性があるんじゃないか。そうすると誰だろうってことで、候補として、弘田三枝子さん、フランク永井さん、菅原洋一さん、そういう名前が上がってきたのね。
で、 81年頃に、実際にそのアイディアを具体化してみたくなって、当時のRVCの専務で、ビクター時代に橋幸夫のディレクターだった方がいて、フランク永井さんはビクター芸能だから、その線でお願いしてみれば、何とかなるんじゃないか、言うだけ言ってみようと、それで話してみたの。だから、こっちからオファーしたんだよね。だけど、向こうは半信半疑でね。
フランク永井さんは、その時ちょうど50歳手前だった。僕は28歳。フランクさんは大御所として、もうすでに悠々自適で、月に10日しか仕事をしない。それこそナイトクラブとか、キャバレーの営業仕事をやって、帰りにゴルフをやってくる、みたいな感じで、ゆったりとしていたの。だから、そういう流れを壊すようなチャレンジをしたくない、って感じだったんだ。でもいろいろ説得してね。
もちろん、こちらはアルバムを作りたいと思ってたんだけど、とりあえずシングルにしましょう、ってなって。それで「WOMAN」を書いたんだ。
ベテランのシンガーだから、詞はフランクさんと同世代の、職業作家を数人セレクトして発注したんだけど、これがどうもうまくいかない、全然納得がいかない。「昔は良かった」とか「ピアノバーの止まり木が」だとか、内容が後ろ向きなんだ。そうじゃなくて、もっと新しい世代の言葉を使わないと、曲が生きてこない。まぁ、もっと若い作家に頼めばよかったんだけど、その辺のこっちの考えも、ちょっとステレオタイプだったかもしれない。あと若い作詞家に、僕の意図が分かってもらえるとは、思ってなかったのも事実で。ともかく出てきた詞が全然気に入らなくて、しょうがないから自分で書いた。まだ、そのほうがマシだと思ってね。で、16ビートの曲だったんだけど、あの曲調にフランクさんは、経験がないから怖がっちゃって。胃が痛いって、病院に入院しようか、とさえ思ったんだって。
フランクさんには独自の歌入れスタイルがあって、譜面は全部Cメロ譜(コードとメロディーだけの譜面)で、スタジオではブランデーを片手に、その譜面を見ながら歌う、っていうスタイルなんだ。
ところが、フランクさんは1時間以上遅れて、スタジオに来たのね。ああいう世代の人たちは、我々の時代の16ビートと呼ばれるものを、本当にものすごく怖がっているのね。だから16ビートの曲だって言うと、いじめとか、そういう感覚になってるわけ。だから「全然そうじゃなくて、これ要はラテンですから。昔のルンバとか、バイヨンの、スネアが半分になってるだけですから」てな具合にいろいろ説明して、説得したの。そしたら「うーん、そう言われると確かにね」とかってw 急に納得してくれてね。それで歌ってくれた。
「WOMAN」はいろいろがんばって、サントリーのCMのタイアップを取ってきたりして、オリコン30位台に入った。フランク永井さんがオリコンチャートに入ったのは、77年の「おまえに」以来だから5年ぶりで、「夜のヒットスタジオ」に出たのは7年ぶりだった。
だけどフランクさんは当時、シングル1枚A・B面で70万円で作ってたんだって。つまりバンドやオーケストラと一緒に、一発録りだよね。ところが「WOMAN」はA・B面で250万円かかった。それでも「あまく危険な香り」より安かったんだよ。僕も気を遣って、安上がりにしようと思ってやったんだけど、それでもビクター芸能の人が腰を抜かしちゃって、これでアルバムをやったらどれぐらいになるんだろうってw
それで、アルバムは向こうから断ってきたんだ。当時はこっちも忙しかったから、まぁしょうがないや、って諦めてね。それで、僕はツアーに入ったでしょ。そしたら「WOMAN」がチャートに入ったもんだから、今度はビクター芸能の方から、ぜひアルバムをやってくださいって言ってきた。でも、もう無理。ツアーが始まっちゃったからね。あの時にアルバムをやっていたら、かなり面白いものができたと思うけど、まあ縁だからねそういうのは。
「WOMAN」は詞の問題を除けば、サウンドは自分では結構よく仕上がったと思ってるよ。ただ、僕の作るものがフランクさんの本来のテイストとは違う、ってことは知ってるからね。僕は歌謡曲の世界を知らないから、そういう意味でのヒット曲は書けない。
謡曲サイドの人に対して、僕がやってたのは一種のショック療法でね。アン・ルイスの「ピンク・キャット」(79年)とか。こういうものもできます、っていうか、その人にとっての未来への布石みたいな、ちょっと寄り道して、新しい可能性を示すようなね。アン・ルイスなんかの場合は極端にそれをやったけど、その結果、以後の歌謡ロック的な路線に、つながったと言えるんじゃないかな。いつもそうなの。大昔の黒木真由美や、中原理恵のアルバム曲を頼まれたりしたのも、そういう、いわゆる歌謡曲のセオリーとは違った角度からの曲を、望まれたんだよね。僕が書いたからシングルで100万枚売れるとか、そんなことを初めから誰も考えていないし、僕もそんなものがやれるわけがない。
だから、ちゃんとしたスタンスの違いが確認できていれば、良い仕事ができるんだ。そこで予算の問題とか、そういうキナ臭いなものが出てくると、良くないんだよね。
だから、この「WOMAN」では、僕がイニシアチブをとって、レコーディングも六本木のソニースタジオで全部やった。でもまあイニシアチブといっても、RVCもビクターの子会社っていうか、ビクターが出資してる会社だからね、スタッフはみんな元ビクターだから。(仕上がりについては)まあ30年かかって、わかるものがあるんだよ。今から見ると、例えばサザンオールスターズの「いとしのエリー」は、オリコンで1位を獲ってないとかさ。でも、サザンの曲はみんな覚えているけど、その時の1位の曲が何だったかなんて、今は誰も知らないでしょ。だからヒットなんてそんなもの。特に日本の流行歌なんてそんなものでね。初動でどうだ、とか、そんなの長い目で見たら、たいしたことないんだよ。
この歳になって振り返ってみると、あの時代に限らず、作品のポテンシャルに宣伝マネジメントがついていけなかったっていうか、そういう例はいくらでもある。
1980年を挟んだ、あの頃のアナログ・レコーディング全盛期の時代に、僕らみたいな年間数十本ライブをこなしているリズム・セクションのサウンドで演奏すれば、それは良いものができる。それは結局、その後のコンピューター時代に、どんどん瓦解していくことになるけど、あの状態がもう4、5年続いていたら、もっともっと良い作品ができたと思う。アナログ・レコーディングがもっと成熟していったと思うよ。
でも、その音楽を世の中にどう出すかっていう、ノウハウが足りなかった。音楽を世の中に出すための受け皿として、一番強力なのは、今も昔もテレビなんだけど、昔の「夜のヒットスタジオ」や「ザ・ベストテン」のような番組の頃から、テレビの音楽番組の価値観っていうのは、僕みたいなのには、全くついていけなかった感じがするね。本当なら、何の作為もなしに、ただ音楽を流すだけでいいんだよ。それで音楽は理解できるし、良い悪いもはっきり出るんだ。でも、そういう音楽番組は、テレビではほとんどない。
ずいぶん前の事だけど、NHKで「エドサリヴァン・ショウ」をやってて、その時はジェームス・ブラウンが出てたんだけど、いわゆる有名人が、それについて解説するわけだ。その横に若いおネエちゃんがいて、その子が「私はジャニス・ジョプリンが個人的好きなんですが、ジャニスの歌い方もジェームス・ブラウンに影響受けてるんでしょうか?」って。そんなのNHKの食堂でやれ、って雑誌に書いたことがある。そんな話をしてる2分半でロイ・オービソンがもう一曲聴けるだろうって。
だから日本の音楽番組って、後で尾ひれをつけるために、音楽を引っ張り出してるだけなんだ。 勇気がないんだね、視聴率という悪魔のおかげで。結局、一般視聴者に理解してもらうという名目で、そういう余計なものを入れるんだろうけど、一般視聴者なんていないんだよ。だって音楽番組見てる人は、音楽を知って見てるんで、知らない人は初めからそんなの見るわけがない。視聴率の神話はなんて、とっくに崩壊してるのにさ。1分1秒のレイティングなんか気にしたってしょうがないと思うよ。
まぁでも、それはしょうがないことなんだけどね。30年前からそうだったんだから。
   
<「ハイティーン・ブギ」は、マッチの歌い癖を一生懸命研究した>
82年6月フランクさんの「WOMAN」発売と同じ月、近藤真彦の「ハイティーン・ブギ」発売。この年の4月6日が僕の結婚式だったんだけど、その翌日に作詞の松本隆さんと打ち合わせをしたので、よく覚えているよ。
マッチは小杉さんがディレクターだったので、ずっと近い存在だった。小杉さんとしては、山下達郎にマッチのシングルを書かせたいというのは、かなり前からあったようで、アルバムは1位を獲れたけど、当時は僕のような音楽が、シングルで1位を取れるような時代じゃなかった。でも作曲家としてならシングル1位を狙えるじゃないかなって。前年の末、マッチがレコード大賞新人賞を「ギンギラギンにさりげなく」で獲った直後で、全盛期だったからね。ヒットさせなければならないというプレッシャーは、もう大変だった。それまでマッチのシングル曲は、全て筒美京平さんだったから、マッチは初めて京平さんさん以外の作家で、シングルを出すわけで、僕のプレッシャーは相当なものだった。
ハイティーン・ブギ」は曲先だね。 あれはもうとにかくマッチの歌い癖を 一生懸命研究して。コミックの映画化の主題歌で、ヤンキーの話だから、ロックンロールの曲じゃなきゃならない。「ハイティーン・ブギ」とKinKi Kidsの「硝子の少年」は、必死というレベルの力が入っている。1位が決まっている曲っていうのは、すごいプレッシャーがあるから。だから、あれを10曲書けと言われても、僕にはとても無理。実は僕は、若いアイドルに書いた曲って、全部で10曲もないんだ。アルバムに書いてるとかもないし。特に女の子のアイドルはほとんどない。歌のレンジが狭いので、表現が圧倒的に制限されるから、基本的にあんまり好きじゃなかったんだ。
アイドルをやるんだったら、そんなに売れない人でも、上手いシンガーに書きたいから。84年だけど、円道一生くんをやったみたいな、ああいうやつ。RVCの仲良しのディレクターに頼まれて、彼の歌を聴いていたら、ウィルソン・ピケットみたいで。サザン・ソウルは自分にはできないけど、曲なら書けるから、まぁ作家志向だね。そういうことが色々とやれていた時代だったしね。 レコーディングもスタジオに入って、4リズムで録音してから、かぶせて終わり、っていう時代だったから、今とは比べ物にならない速さだったしね。コーラスを入れて、弦を入れて、ブラスを入れて、っていうのも、極端に言えば3日で出来たから。もう、今はそういう事は全く不可能だけれどね。それに人に書いた曲の方が、真面目にやってるっていうところもあるからw
今(2013年)でも、アイドル曲のオファーはあるけど、やる暇がない。精神的に余裕がない。自分のと、まりやのをやるので精一杯だもの。それに、まだプロツールスが完全にクリアできてるとも言えないし。いまだに自分が思った音にならなくて、しゃくにさわる。今、みんな同じ音がしてるじゃない、あの音、イヤなんだよ。それで良しとすれば楽なんだけど、そうじゃない音をプロツールスで作ろうと思うと、大変なの。
ハイティーン・ブギ」は 自分で言うのもナンだけど、会心のモノだと思う。80年代半ばにあった、マッチのファンによる作品人気投票で、2位だった時は嬉しかったな。あと最近マッチが小杉さんに、僕の「ハイティーンブギ」と「MOMOKO」の2曲は「なんで、あんなに歌いやすいんだろう。この歳になって歌うと、よくわかる」って言ったんだって。それは歌いやすいように作ってるからねw
そういうものもね、もっと若い頃にいろんな仕事をこなしながら、曲を書いた経験が生きてるっていうか。あと、コーラスをやってたときの、コーラスがリードヴォーカルに勝たないようにしなきゃいけない、とか。そういうことって、結構あったから。そういったノウハウが、やっぱり生きたんだよね。ロックンロール・スピリットとか、そんなにかっこいいもんじゃないけど、やっぱりああいうアイドル歌謡とか、歌謡曲への、ひとつのアンチテーゼとして、こっちは始めたんだよね。だから、マッチじゃなきゃやらないよ。マッチは小杉さんがやっていたから、ポリシーがわかる。ずっと見て知ってるからできるけど、おニャン子(クラブ)やれとか言われたって、できるわけがないもの。Aという歌手、Bという歌手、Cという歌手、 何がどう違うのか全然わからない。差異がわからないのに、曲なんかできないでしょ。それを筒美京平さんに言ったら、なんかニコニコ笑ってるだけでねw
   
<82年あたりから、計画的な全国ツアーが組めるようになった>
82年7月、初のベストアルバム「GREATEST HITS!OF TATSURO YAMASHITA」発売。これはRVCとの契約が切れるので、作ったの。これが契約枚数クリアの最後だったから。 だから「あまく危険な香り」を入れるためのリリースだね。アナログ盤の時代ですから。
でも、グレイテスト・ヒッツって言ったって、ヒット曲はRIDE ON TIMEしかないw だから洒落だよね。ベストオブ〜はイヤだから。選曲は100%自分。あとから考えると、もうちょっと……でもあんなもんでしょう。CDになってから「LOVE SPACE」入れたり、「9 MINUTES OF TATSURO YAMASHITA」をボーナス・トラックにしたけど、アナログ盤はアルバム片面6曲しか入らないからね。
この年のツアーは、年1回に戻った。年2回やったのは、80年と81年だけ。セットもなければ、少量のPAを楽器と一緒に、4トン車1台だけで運んでたんだ。こっちもあの頃は、そんなもんだと思ってやってたからね。地獄のロードだった、本当に。82年あたりからようやく本格的に動員が良くなってきて、計画的な全国ツアーが組めるようになった。今でも覚えてるけど、83年までは、例えばホールがキャパ2,300あったとしたら、当日は残券が300くらいあってね。それが、当日券で売れて、ソールドアウトになるっていう感じだったんだけど、83年のMELODIESのツアーかな、宇都宮で、初めて前売りで全部売り切った。それをよく覚えている。それからはずっと、割と安定してやってるけど。
でもね、最初のうちは、春秋、春秋と続けていると、少し減ったりするものなの、飽きられてね。そういう浮き沈みを経て、2〜3年やると安定してくる。それが当時の新人にとっての、ライヴの成功パターンだったんだけど、今はどうなのかな。今はなかなか、そこまでやれないかも。人件費も機材費も、高騰してるから。あの頃は、まだ人件費もギャラもみんな安かったから、数をやれたんだよ。
この頃のRVCとの関係で言うと、こっちは芸人だから、そんなにあからさまには来ないんだけど、でもエアーレーベルを作ってからは、そこからはもう、宣伝のセクションが全然別でしょ。そういうことに対する反感っていうのはあったな。「オレたちがやってきたものを、横から取りやがって」という感覚はあったかと。スタッフ同士の軋轢っていうか。お互いにレコード会社の社員で、音楽好きだし。でも、僕なんかがそう思ってなくても、今までの宣伝だって、「オレたちだって頑張ったんだ」っていう自意識があるわけで。まぁこっちも自分の歴史に鑑みた、色々があるからね。若かったっていうのも、もちろんあるし。どっちにしろ移籍するっていうのは決まってたから、みんな少しずつ家財道具をまとめて。そういう時代だった。日常的に険悪だったとか、そういうんじゃなくて、そもそも勤めてる場所が違うからね。それに僕自身は別に、個人的にどうっていう事は無いから。移籍するっていうのも、僕が移籍したいって言ったわけじゃないからね。別にあのままその後のBMGでずっとやっててもよかったんだけど、前にも話したけど、色々あったからね。まぁそういう事は、いつの時代にもあるけど。
     
<RVCを離れることにそんなに感慨はなかった>
正直に言うとね、ソロになってから所属していたRVCというレコード・カンパニーに対する愛情があるかと言ったら、そんなにはないんだ。当時はレコード会社がすべてのファクターじゃなかったからね。音楽出版社PMP(パシフィック音楽出版/現・フジパシフィック音楽出版)にしても、契約はシュガー・ベイブ時代からの延長で、 ソロになっても原盤出版契約が続いていた。まぁ、あの当時のレコード制作予算はものすごくかかるんで、個人じゃ出せないし。あの時代の1,000万てすごいからね。高い機材を買うのだって、お金を出すところは原盤会社で、レコード会社はそういう事は引き受けないわけ。
だから、お金がかかる割には儲からないっていうのが、いわゆるロック、フォーク、ニューミュージックだから、音楽出版社サイドからすれば、そこを我々が支えたっていう自負とか、自意識があったとは思うんだけど、こっちは支えてもらったなんて意識は、そんなにないのね。だって、給料くれたわけじゃないもの。レコードが売れないから、印税なんてそんなにないでしょ。そもそも曲書いたからって、ヒットするわけじゃないからね。だからそんなに感慨はなかったんだよ。
そう考えると、レコードが売れるようになるまで、僕にとっての一番の収入源はコーラスのスタジオ・ミュージシャンと、CM作家として、なんだよね。 その意味でON(アソシエイツ音楽出版)の大森(昭男)さんを初めとして、僕にCMの仕事をくれた広告代理店、「ミュージシャンは名刺を持つな」と、 僕にアドバイスをくれた広告代理店の人、そういう人に対する恩義の方が、圧倒的に強いんだよ。だって、食べさせてくれたんだもの。そういう意味での愛情は、レコード会社に対してはそんなにないんだよね。現場の人間とは交流してるけど、結局、我々の音楽に対するシンパシーがないっていうか、歌謡曲サイドの人の中には、廊下で会うと「あ、まだ君いたの、もうとっくにいなくなったと思ってたよ」とかねw そういうのがあるわけですよ。そういう意味ではソロになりたての頃は、シュガーベイブの事務所の延長でやってたんだけど、ライヴでもヤクルトホールとか、600から1,000人ぐらいのとこだけど、ちゃんとお客さんも入ってたから。だから、別に助けてもらった覚えはない、っていうのが正直なところでw 自分で独立独歩で食ってきた、っていいう意識があるなあ。シュガーの時からそれは幸運だったけど、山下洋輔さんや向井滋春さんと同じ事務所にいて、それなりに回って行けたんだよね。
CMは個人的に仕事が来て、やってたし、そういう人脈がまた仕事を回してくれたりしてたから。そういう意味では、別に困ってなかったっていうか。自分のレコードが売れなかった以外はねw
結局、食べられなければしょうがないからね。別に家が裕福で、パラサイトしてても食べられるんだったら、それでもいいけど、僕は貧乏人の息子だから、とにかく食べなきゃいけないし、シュガー・ベイブ時代に最初に所属した風都市だって、給料も一銭もくれなかったからね。ひどい話だよね。今みたいにバイトが潤沢にある時代でもなかったし。不景気で、オイルショック(73年、78年)だからね。
だから、自分の音楽が売れないのはいいんだよ、それはしょうがないことだから。だけど、マネージメントが嘘を言って金を出さない。(現場に)行ったら、楽器がない、みたいな。そういうサブカルチャーを隠れ蓑にした世界は、ほんとにイヤだった。 だから、あんな風都市なんて事務所より、僕らが出ていた(ライブハウスの)ロフトの方が全然コンセプトがしっかりしていて、ロフトの平野(悠)くんは嘘は言わないし、チャージバックはきっちり払ってくれたしね。同じサブカルチャーでも、そういうことだったらいいんだよ。たとえ、それがどんなにしょぼくても我慢するけど、契約して金を払わないのはひどいだろうって。そういう思いが、僕の根源にはあるんだ。
【第32回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第31回 アルバムFOR YOU(1982年1月21日発売)

<あえて「LOVELAND, ISLAND」はシングルを出さないことにした>
あの頃は、毎年アルバムを出していたので、81年の夏には、もうレコーディングは始まっていたと思う。81年のうちに出すつもりでいたけど、 あの年はツアーのスケジュールがあまりに厳しくて。ツアーを春と秋と2回やってたからね。結果、1981年はソロ・デビューして初めて、アルバムの出ない年になった。
アルバムの発売は遅れて、80年1月だったけど、曲はもうステージでやれる準備ができていたからね。FOR YOUの曲はほとんどライヴと同じリズム隊で録ってるから、そういうことがやれたんだ。80年12月末の中野サンプラザと、翌81年1月の大阪フェスティバルホールのステージは「SPARKLE」で始まって、途中で「YOUR EYES」や「Morning Glory」、新しいアルバムの曲をたくさんやってる。あと「LOVELAND, ISLAND」もね。それはアルバムが出るという予定でステージ構成をしたので、そうなった。「LOVELAND, ISLAND」はCMソングだったので、巷ではそれ以前から既に流れてた。もっともシングルは切らなかったけどね。
FOR YOUでシングルを切らなかったのは、あの時代の流行で、タイアップ曲をあえてシングルカットせず、アルバムの中に入れることでアルバムの売り上げを増やす、シングル盤を出さないことによってアルバムにつなげる、っていうのが流行っていた時代だった。それは小杉さんが思ったほど、RIDE ON TIMEのアルバム(のセールス)が伸びなかったというのもある。RIDE ON TIMEはシングルはすごく売れたのに(50万枚)、アルバムは思ったほどではなかった。それが小杉さんとしてはちょっと不満だった。
だからあえて「LOVELAND, ISLAND」はシングルを出さないことにして、もちろん広告代理店は(出してくれって)ブツブツ言ってたけどね。
  
<70年代末から80年代の頭は、オーディオ的にベストの時代だから>
代理店には嫌な顔されたけど、その戦略のおかげでFOR YOUは、1月という不利な発売時期にもかかわらず、ヒットアルバムになった。いつの時代にも売り上げ増加を狙うテクニックはいろいろあってね。でも、それは一面的なものじゃない。制作や宣伝はもちろん、営業面の対策も重要だった。当時も今も売り上げを増やす裏技はあって、かなりえげつない方法もある。それは今でも存在してて。AKBみたいなねw
ただ結局、どんな方法論にしろ、メーカーの企業力の大小には左右されるんだよね。僕はシュガー・ベイブの時代から大きなレコード会社に所属したことがない。それが逆に自分の寿命を伸ばしてきた部分もある。大企業だったら、とっくに契約切られてるか、売りつくされて終わってた。いつも小さな会社だったので、不利なところもあったけど、必要以上の無理をしないで済んだ。そのかわり宣伝力や営業力の不足を補うために、工夫もしなくてはならなかった。
だから、前にも言った「仕組みを勉強する必要」っていうのは、そういうことでね。それを知ることによって、こっちもだったらこうすればいいんじゃないのか、っていうアイデアが出て、それが音楽の作品と、どうリンクするのかを考えたしね。全体で戦略を考える。だからシングルを切らなくていんだったら、そうしてみようって。そんなもの。そういったことを含めてミュージック・ビジネスなわけで、何も誇大宣伝を打って、というようなことばかりじゃないの、草の根のね、小さな改良点とか、そういうことが、実はすごく大きいファクターになっていくんだよね。
いつも言うように、RIDE ON TIMEの頃から、ようやく自由に予算が使えるようになった。だから「オンスト」も出せたし。RIDE ON TIMEまではアルバム用にレコーディングする曲も大体10〜13曲くらいで限界だったんだけど、FOR YOUでは17曲録れた。その17曲の中から8曲を選ぶという、非常に贅沢なつくり方ができるようになった。80年から81年にかけては曲もたくさんできた。恨みつらみから解放されて、レコーディングの規制がなくなったから、現金なもので曲ができ始めたw
今現在(2013年)は、まあまあってところ。ここ4、5年、「ずっと一緒さ」くらいからはストックじゃなくて、ほとんど一から書き下ろしているものばかりで。だから結構(曲が)湧いてきているということだろうね。良いコラボや、タイアップが多いということもあるんだろうけど。
だから逆にそういう環境が悪化すると、その反動として創作意欲が減退するという。レコーディングのテクノロジーの変化とかそういう要素だけじゃなくて、様々な要因。人間関係とか。そういう点ではレコーディングやテクノロジーの問題はその時あまりなかったよ。なんたってあの時代は、オーディオ的にベストの時代だから。70年代末から80年代の頭は、すべての意味でのアナログ・レコーディングのピークだからね。
    
<FOR YOUは たくさんの曲の中から選んでるんだ>
FOR YOU(のまとめ方)はある意味、行き当たりばったりだったけど。 でもやっぱり、あのリズムセクションでずっとやってたから。RIDE ON TIMEはああいう形でシングルヒットしたので、そんなにチャラチャラしたアルバムを作れないと思って、ちょっと地味めにって考えた。でもFOR YOUの時は、使っていた六本木ソニーのスタジオがものすごく良い音がしてきたの。ドラムブースも良くてね。 それと僕の茶色のギターが鳴り出してきたのね。81年になってから、それをメインに使うようになって、これでレコードを作りたいと思って、作った。ちょうどその頃「LOVELAND, ISLAND」がサントリービールのCMになるってことになって。
で、その頃シーケンサーが出て来たんだ。シーケンサーというか、通称ヤオヤ(ローランドTR-808)と呼ばれるドラムマシンが世に出て来て、そのヤオヤと同期する、ベースのシンセがあったのね。それにデータを打ち込んで。「LOVELAND, ISLAND」はそれでベースパターンを作って、 ピアノを弾きながらデモテープを作ったんだ。それがちょうど81年の夏。それで82年になって「SPARKLE」が同じサントリービールのCMに使われた。「Morning Glory」はまりやに書いた曲(アルバム「Miss M」収録)のセルフカバー。やっぱり、ライブをやってるってのは大きかったね。声も出てるし、ライヴをしてるとアドレナリンが出るから、曲が書けるんでしょう、おそらくw やっぱり新しいメンバーっていうか、そういうのがあるからね。
大体タイアップの話なんて、そんなに頻繁に来るもんじゃないし。CMはそれ専用のCMソングで。「YOUR EYES」はこれも81年に、うちのカミさんにどうかなって書いたんだけど、あちらのディレクターにボツられて。それで自分でやったw だからFOR YOUはたくさんの曲の中から選んでいるから、非常に良い抽出なんだよね。
   
<業界の構造とかに対する興味が大きくなってきた>
選曲の基準は、単なる出来、不出来で。曲によっては、素材の段階で放り投げてるのもあるし、MELODIES(83年6月発売)に入れた「BLUE MIDNIGHT」はFOR YOUのアウトテイクなんだ。これは作詞も作って、歌も入れて、ミックスまで出来てたんだけど、 その時はストリングスは入ってなくて、ちょっと地味かなと思って、あとでストリングスを入れた。そういうのもあるし。他にFOR YOUの時に録って後から出てきた曲は(直後のシングル「あまく危険な香り」くらいで)あまりないかな。
このアルバムは、ほとんどステージでやったことがある曲で出来てて。あの時代の曲は、やっぱりライヴマターで作ってるからね。その後、だんだんライブでは再現できなくなっていくという、ビートルズみたいな感じになっていった。FOR YOUは「Hey Reporter!」以外は、全部ライヴでやってるね。RIDE ON TIMEは「雲のゆくえに」以外は全部やったかな。MOONGLOWは全曲やってるしね。POCKET MUSIC(86年4月発売)あたりからだね、だんだんライヴで再現不可能になってくるのは。
もちろんFOR YOUは、作る段階からセールスは意識しましたよ。 レーベル作ったんですもん。ちゃんとセールスしなきゃって、スタッフ全員が根性入ってた。そうなるとマーケティングにも関心が及ぶし。ディーラー・コンペティションだとか、ディーラーと直で、いろいろやれるようになってから、ディーラーがいろんなことを言ってくれるんだよね。これも面白いんだ。全然、評論家と違うんだよね感想が。ああいうことをやってくれとか、こういうことをやってくれとか。他にもタウン誌の人や、あと有線放送のプロモーションもその頃はやってたから、有線の人と話すと「オンスト」からシングルを切ってくれとかね。
有線はアルバムだとかけにくいだから有線用にシングルを作ったり。だからまあ、僕が28歳だったでしょ。業界の構造とか、そういうものに対する興味が大きくなってきたというか。それまで知らなかったということかな。
荻窪ロフトの頃には想像もつかないようなことが、たくさん目に入ってきたし。レコード会社のスタッフも、自分の同世代が多くなってきた。現場のセールスマンの意識も、レコード会社に入ってくるぐらいだから、 みんな音楽好きなの。RCAは本来洋楽の会社だし、ホール&オーツとかエアプレイとか、まさにそういう時代だからね。そんな話をしながら、レコード業界がこれからどうなるとか、邦楽をどうやって売っていくとか、お互いに意見交換みたいのがあるじゃない。それまで周囲にいたのは、完全に上から目線の、しかも歌謡曲べったりの人たちばっかりで、ディレクターもGS上がりの人ばっかりで、それがだんだんと変わっていったんだよ。
  
<FOR YOUはアナログ録音の最盛期の輝き>
音質の面ではFOR YOUは異質だった。RIDE ON TIMEとMELODIESは音が似てる。でも、FOR YOUだけ妙に音が抜けてるんだよね。MELODIESはCBSソニーでカッティングとプレスしてるの。それ以前のFOR YOUまでのカッティングはビクターなんだけど、RIDE ON TIMEの時は、ビクターJVCが自社開発したカッターヘッドでカッティングをした。ところがそれがあまり良くなくて、ちょっと音が曇ってる。
で、FOR YOUでは従来のノイマンSX-74っていうカッターヘッドに戻して、カッティングしたんだ。どちらも有名なカッティングマン、小鐵(こてつ)徹さんなんだけど、微妙に音が違うのは、カッターヘッドの差なんだ。マスターテープの差じゃない。
FOR YOUはあの頃のオーディオ・チェック・レコードになるくらい音が良かったんだけど、その一つの理由はFOR YOUの収録時間が短いということ。RIDE ON TIMEとMELODIESはFOR YOU よりも収録時間が長い。その差があるな、と。
で、今回ベストアルバムの「OPUS」(2013)で 曲を、現在の最新リマスター技術で並べてみると、意外とそれほど違わなかった。RIDE ON TIMEの曲もFOR YOUの曲もそんなに質感が変わってないし、「高気圧ガール」なんかでも、そんなに変わらない。録ったスタジオが同じだしね。でも、あの時のアナログ盤ではFOR YOUだけ妙に抜けが良いんだよね。 やってる環境全く同じなんだけど。収録時間とカッティング、それにプレス工程の差だね、今から思うと。特に「SPARKLE」はかなりレベルが入ってるから。おそらく、そういうことだと思う。だからFOR YOUはアナログ録音の最盛期の輝きっていうかね。
音響的にFOR YOUで試みたことは、そんなにない。勝手に相手が変わっていっただけで。でも、やっぱり一番大きいのはリズムセクション。青(山)純と(伊藤)広規で、本当の意味でのレコードを最初に作ったのは、RIDE ON TIMEで。そこから80年の秋、81年の春のツアーでしょ。82年に難波(弘之)くんがツアーから外れるまで、このライヴツアーの成果がFOR YOUなの。それは本当にこのリズムセクションが大きいんだ。あんなにライヴを数やったっていう時期もないし、その間、ひたすらレコーディングをしてたからね。本来は81年の秋ぐらいに出る予定だったけど、何しろツアースケジュールがタイトすぎて、とてもアルバムを完成させられなかったのと、曲をたくさん取ったと言うこともある。RIDE ON TIMEから スマイルカンパニーの現場になったから、予算にも文句を言われないと言うのもあったかな。費用はGO AHEAD!の3倍はかかってるから。お金の心配をしなくていいっていうのは、大きいよね。
ウォークマンやカーステレオの音は全然意識してないけど、この81〜82年ていうのは、世界的な意味でもオーディオのクオリティがピークだった。 レコーダーも16チャンネルから24チャンネルになって、録音ヘッドの幅が狭くなって、ダイナミックレンジが落ちたんだけど、その替わりに録音に使う磁気テープの性能が、すごく良くなってきて。あとはミキシングコンソール、リミッターとかコンプレッサーといった周辺機器がどんどん発展したのが、70年代の終わりくらいから。僕のアルバムで言えば78年GO AHEAD!までが16チャンネルで、MOONGLOWから24チャンネル。だけどCIRCUS TOWNの時にニューヨークでは既に24チャンネルで、録音テープも新しいタイプのものだった。だけどロスではまだ16チャンで、古いタイプの磁気テープだった。そういう地域差があった。
日本では24トラックに統一されたのが、ようやく79年くらいのことだった。とにかくあの時代のレコードは、技術力の進歩と相まって、おしなべてみんな良い音なんだ。大滝さんの「ロンバケ」然り、YMOもそうでしょ。時代を物語ってるよね。だから、そういう歴史に残るような作品がたくさん生まれるのは、オーディオ的なファクターも大きいし、音楽的なムーブメントが熟成したのもあるし、ウォークマンやカーステレオの普及もある。
それからレコード流通がすごく充実してきたことも、メーカーとショップの関係とかもね。ショップも、それまでの歌謡曲じゃない若い音楽が、それこそサザンオールスターズが1位になるとか、81年のレコード大賞が寺尾聡さんの「ルビーの指環」になるとか、それまでとは、はっきり変わってきたわけ。そういう時代だったんだよね。
  
鈴木英人さんには直接交渉しに行った>
FOR YOUのジャケットは、 実は僕はイラストを永井博さんに頼もうと思ってたの。そしたら大滝さんの「ロンバケ」が出てきて、びっくりした。先に永井さんの絵が使われていたから。永井さんとは知り合いだったから、ジャケットを頼もうとずっと思ってたんだけど、そういうことになっちゃったから、別の人にしようということでね。
当時、僕はイラストが好きで「年鑑日本のイラストレーション」という本を毎年買っていて、その中で一番好きだったのが鈴木英人さんで、それじゃあと言うので、直接交渉しに行ったら、アルバムのジャケットはやったことがないって言うんで、大当たりだった。で、あのジャケットになった。注文は特にしなくて、好きなようにしてくださいって。音を聴いてもらって、そしたらあれが出てきた。大滝さんのロンバケにしてもFOR YOUにしても、ああいうビジュアルは時代の趨勢でしょう。
でも、あの時は、もういろんな販促活動をやってたからね。フットワークも軽かったし、FOR YOUのジャケットの絵を使った、販促用のピクチャーレコードを作ってね。それが「9 MINUTES OF TATSURO YAMASHITA」。あれはとても話題になったけど、あの時代はああいった販促的な企画の効果が、とても大きかった。「COME ALONG」も元は79年に作った販促用のレコードで、あれは僕じゃなくてスタッフのアイデアだった。「9 MINUTES OF TATSURO YAMASHITA」は僕のアイデアだけど、そういう寄り道っていうのかな。だって「オンスト」も寄り道だし、「COME ALONG」はカセットだけの発売(80年3月)だったけど、あれだって10万本売れたんだから。あれも寄り道だしね。そういうのがうまいこと、点と点が線になって行くように、線が面になって、そういう連携効果があったよね。
だから、制作サイドからも販促サイドからも、いろいろなアイデアが出るし。「COME ALONG」も「9 MINUTES OF TATSURO YAMASHITA」も、完全に販促的なアイテムだから。それこそジャケットだって、店頭対策という意味では販促的に、すごく大きな要素だからね。そういうものが、いろいろちゃんと動いてくれると、やはりきちんと成果が出るんだよ。
輸入盤専門ショップが日本のレコードを扱い始めたのも、大滝さんや僕のレコードからと聞いてる。 それも新しい流れだったんだね。そういうマーケティングの面からの、あの時代の分析ってあまりないから。YMOの「ソリッドステートサバイバー」が79年。その辺からサバイバルゲームが始まってるんだよ。それまでの歌謡曲の分業的な流れが、だんだん力を失ってきて、自作自演主義的になっていく。だから80年のレコード大賞ベストアルバム賞がYMOと長渕さんと僕のMOONGLOW、そう考えると層が厚い時代だったよね。
FOR YOUは82年のオリコンの年間アルバム売り上げ2位。1位は中島みゆきさんの「寒水魚」だった。

そんなメディアミックスの到来で、夏だ、海だ、達郎だ、になって行く。

【第31回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第30回 ON THE STREET CORNER(80年12月5日発売)

<一人アカペラは一日で全部録らなきゃならない>
アカペラ・アルバムの構想は以前からあった。一番最初に一人アカペラでドゥーワップをやったのは、79年のFLYING TOURのライヴでだった。その時に、ジェスターズの「THE WIND」をやったのが、既成のドゥーワップをステージでやった最初だと思う。その前は「三ツ矢サイダー」のCMとか、「MARIE」(IT’S A POPPIN TIME収録)とか、そういうので、それらしいことはやってたけど、本当のドゥーワップは初めて。それが結構ウケて、その次のライヴではムーングロウズの「MOST OF ALL」だったかな。そういう感じでステージ用に作ったソースが「ON THE STREET CORNER(以下オンスト)」の元になってる。77年頃からそういう一人アカペラを実験的に試みていて、まあいけるかなと思って始めた。
でも、一人アカペラをいざやる段になって練習すると、テイクを重ねていく過程でタテの線(フレーズやブレスのタイミング)がズレるの。それは人間の持つリズム感の特質でね。ドンカマ(リズムマシン)を聴きながら、重ねていくんだけど、気分でやっていると、初めはどうしてもノリが前のめりで、ツッコミ気味になる。そのうちにだんだんドンカマとタイミング合ってきて、そうなると、歌い始めた時のタイミングとズレが生じる。なので、それを初めから終わりまで、同じタイミングで揃えるという訓練をかなりやった。 完全にできるようになるまで、本当に1年ぐらいかかったよ。ハーモニーの部分とベースのコンビネーション、例えば「高気圧ガール」みたいに上のコーラスのリフと、下のベースが違う曲は、とりわけ難しい。特に日を改めると、 絶対に合わないんだよね。
だから、1日で全部を録らなきゃならない。今日はここまでにして、明日はその残りをやるということが出来ないんだ。タイミングがずれてしまって、絶対に合わない。体調は同じでも、今日のバイオリズムと、明日のバイオリズムが違うんだと思う。だから、どんなものでも1日で完成させないとダメで。実際に「オンスト2」に入れた「YOU MAKE ME FEEL BRAND NEW」みたいなすごく凝った曲でも、1日で録ってるのね。「クリスマスイブ」の間奏も1日で。
歌(リード・ヴォーカル)は独立のノリでいいから、大丈夫なの。でもコーラスの3声とかは、絶対に1日でやり切っちゃわないと、完璧に合うという事は絶対にない。特にベースと上の関係はね。ハネてる曲なんて、もっとそうだよ。これはいまだにそう。だからやり直す場合は、初めから全部。これはフィジカルの問題でね。 だってそうじゃなきゃ、例えば体操なんかは、いつだって最高難度の技を出せるでしょ。フィギアスケートでも、4回転ジャンプできる日と、できない日があるじゃない。それと同じようなことなんだ。
重ねる回数は、増やそうと思えばいくらでも増やせるんだけど、一人アカペラっていうのはそんなに増やしても厚みは変わらない。一番問題なのは、全部自分の声だから声の波形が同じでしょ。同じ波形を重ねていくと、高周波変調っていう、干渉(うなり)が同じところで生じて、共振する現象が起こるんだ。ビーって鳴るとか。それを抑えるのが、すごく大変なの。映像で言うモワレ(しま模様)みたいなもので。それは声だけじゃなくて、フルートとか単純波形の楽器は特に出やすい。フルートは特にきれいなサインウェーブ(正弦波=雑音のない綺麗な波形)に近い楽器だから。サインウェーブをむやみに重ねていくと干渉して変な音になるのね。だから、波形を変形させるエフェクター、例えばリング・モジュレーターってそういう効果を使ってるんだけど、それと同じようなことが起こるんだ。エンジニアの吉田保さんは最初それで、すごく苦労したって言ってた。高周波変調を防ぐためにリミッターをかけるとか、EQ(イコライザー)を調整するとかね。あとは歌い方もトーンを整えるとか、フレーズのお尻をちゃんと揃えるとか、そういうところを本当にシビアにやらないと綺麗には仕上がらない。
「オンスト2」に入っている「ホワイト・クリスマス」は、その前に出ていた「クリスマス・イブ」のピクチャーレコードに入っていたテイクとは違っていて、ピクチャーレコードのテイクはアナログレコーダーで録ってて、フレーズを一節ごとに別に歌って、それをあとでテープで繋げてる。そうしないとテンポの微妙な変化が作れなかった。でも「オンスト2」のテイクはデジタル録音なので、シーケンサーを使って、テンポの変化をあらかじめ構築できるようになった。
その結果、4パートの12声、それの細かい部分、例えば歌い出しの♪I’m dreaming 〜ChristmasのSの着地なんかが、完璧に合うようになった。そうしたらウチの奥さんに「合い過ぎてる」って言われた。シーケンス・ミュージックは、その合い過ぎが良いんだけど、生楽器至上主義の人にとっては、その合い過ぎがイヤだっていうこともあるんだよね。
だから。それこそ76年の「三ツ矢サイダー」から始めて、ずっとやっているうちに、一人アカペラをやる上での問題点みたいなものがいろいろ出て来て、それを研究してクリアしていったの。エンジニアの側もそうだし、こっちの歌い方も工夫して。特にタテの線を揃えるのにはかなり訓練しないといけない。でも、訓練していくと面白いもので、楽器のクリックの合わせ方も見えてくるし、リズム感も良くなってくるの。それで「オンスト」を作りたくなって来たんだ。
   
<「オンスト」はここしか出すタイミングがないと思った>
最初の「オンスト」が出たのは80年12月だけど、その1年前からステージでドゥーワップをやっているからね。「THE WIND」に「MOST OF ALL」、フォーシーズンズの「ALONE」と、もう一曲なんかあったな。「THAT’S MY DESIRE」は78年12月の渋谷公会堂の時からあった。それに何曲か足して「オンスト」を作ろうと思ったんだけど、レコード会社は「こんなもの、売れるわけがない」と言う。「それよりCM(ソング)アルバムを出せ」って。大滝さんの「ナイアガラCMスペシャル(77年3月発売)」が売れてたので、「お前もやれ」と。だから「それよりも(僕の)アルバムなりシングルを売ってください。そうしたらCM全集なり、なんなりとやってあげます」って答えた。78〜79年頃の話かな。
それで、そろそろブレイクの兆しが出て来た頃に、ブレイクしたら絶対に「オンスト」を出すぞ、と思ってたんだ。で、シングルのRIDE ON TIMEがヒットして、9月に(その)アルバムが出た。その直後の12月に「オンスト」を出すことに、みんな結構反対したのね。「オリジナル・アルバムの売れ行きに影響が出るから、止めろ」って。でも、ここしか出すしかタイミングがないと思ったの。
僕はこのアルバムを出すのは、絶対にクリスマス時期じゃないとダメだ、と思ったんだ。年が明けて暖かくなってからじゃダメだと。それに、そんなにヒット曲なんて続くと思わなったからね。RIDE ON TIMEのヒットは絶対にフロックだって。だから、このチャンスに絶対「オンスト」を出すんだと思って、すごく急いで作ったから、初回盤は実際の曲順と、レーベルの記載が間違ってたり、いろいろあった。
初回は限定盤だったけど、ヒットが出るとレコード会社は現金なもので、その時に売れるものは、何でも数字を乗っけようとする。だけどアカペラのアルバムなんて、そんなに売れるわけないじゃない。だから限定7万枚にしたんだ。それはあっという間に売り切れた。案の定、追加してくれって言ってきたけど、僕は断ったんだ。会社は僕に黙って3万枚くらい追加プレスしたらしいんだけどw
まあ今から考えると、確かにもうちょっと後にしていれば、RIDE ON TIMEのアルバム売り上げが、もう少し伸びたかな、とも思うけど、当時は気が急いでいるっていうか。27歳でね。あの頃のミュージシャンの寿命は30歳って言われてたし、結婚すると人気が陰るとかね。芸能界的だけど。そういう1980年だった。
   
福田一郎さんの言葉は確かにその通りだと思った>
結果的に「オンスト」は、僕のヘヴィ・ユーザーを固めることにはなったのかもしれない。でも「オンスト」をプロモーションする時には、そもそもドゥーワップってなんだ、っていう説明をするのが大変でね。面白い話をいろいろ覚えてる。
「ニューヨークタイムス」の記者が、インタビューしたいと言って来て。その人は日本語がちょっと話せたの。日本駐在員だったのかな。確か「プレイボーイ」か「平凡パンチ」にページを持っていて、その人がインタビューに来た。彼が聞いて来たのは、ようするに「何で日本人なのにドゥーワップなんだ?」って。こっちは「じゃあ、何で日本人がドゥーワップやっちゃいけないんだ」って、そういうやりとりで。その人はポール・サイモンのハイスクールの同級生だそうで、NY生まれの白人なんだけど、「あなたのドゥーワップは全然泥臭くない。ストリート・ミュージックとは違う」と。「それはあなたの生まれ故郷の話でしょ。僕は日本人で、そういう文化のないところで、これをやっているんだ」って。いちいち全部がそういう論争で。記事はすごく褒めて書いてくれたんだけど、でもその時は、日本人の言うロックとかそういうものを、完全に上から目線で見てるこの人よりも、僕の方がドゥーワップをよっぽど理解できてる、と思った。僕のそういった反論に、彼は分かったような分からないような、変な顔してるんだよねw その人にとってみたら、そういう答えが出てくるのが意外だったのかもしれない。それはすごくよく覚えている。
他にはね、「オンスト」が出た直後の80年12月26日から28日の3日間、中野サンプラザでライヴをやったのね。その時のアカペラは、ダブスの「CHAPLE OF DREAMS」をやったんだけど、とにかく気持ちが急いでいるから「オンスト」の曲をやらなかった。もうその先に行ってたんだ。で、そのステージを観た福田一郎さん(1925-2003)と何日か後に食事したんだけど、その時に福田さんが「山下くんねえ、やっぱりアルバムが出たら、お客はね、出たばっかりのアルバムの曲を聴きたいだろうなって、この老人は思うんだよ」って。それは確かにその通りだと思った。グッド・サジェスチョンだなって。色々な場面で意見をくれる音楽評論家はいるけど、僕が本当に共感できることを言われたのは、殆どそれ一回きりだね。流石に福田一郎、だと思って。なかなかそういう見地で意見を言ってくれる人はいないから。
この80年に一番思ったのは、僕は76年デビューだけど、それまでルックスのことなんて一度も言われたことがなかったの。ところがRIDE ON TIMEがヒットした途端にそんな話が始まって、なるほどこれが芸能界なんだなあ、って思ったね。それと前にも話した、突撃カメラマンの恐怖とかね。そういうものに巻き込まれないためにも、「オンスト」みたいなもの、「BIG WAVE」もそうだけど、そういう芸能界的価値観に対置させるものを、常に作り続けなきゃダメだという危機感は、そこから発してるんだよ。やっぱりブレイク、ヒットのお釣りというか反動っていうか、みんな多分、そういうのを味わってると思うんだけど。
そうなるとやっぱり、どれだけ引き出しを持っているかなの。でも最近(2013年)はそういうことすら教えないというか、みんな引き出しが出来きらないうちから、息切れしていくんだ。もっと先に行けばいいのに。見ていて何か違うと思う。
例えば今、カヴァー(アルバム)が流行っているけど、同じカヴァーするにしても、もっとやり方があるだろうと思う。例えば、誰も知らないカヴァーだったら、オリジナルアルバムと呼べるものを作れるのに、なんでみんな知ってる曲ばかりカヴァーするんだろうね。知ってる曲じゃないとポピュリズムにアピールできないからかな? カラオケの延長みたいなもの? 昔はカラオケなんてなかったからね。
    
<いろいろなものの蓄積が80年にひとつ、結晶するんだ>
面白いもので、ちょうどいい時に青山純伊藤広規が出現して、バンドも固定のメンバーになったけれど、それまでにいろいろなメンツでやってきて、僕がアレンジしてた。ブラスとか弦(ストリングス)とか。そこでいろいろトライ&エラーがあったんだよね。その上での究極のメンツになったというか、そこでドンと来た。
実はRIDE ON TIMEのアルバムにはストリングスが入ってないんだよ。ストリングスが入ってないアルバムって、僕の中では珍しい。何故かと言ったら、やっぱり僕はコンボ(小編成のバンド)の方が好きなんだったんだけど、コンボだけでは説得力が持ち切れないとなると、ストリングスにいくんだよね。今のレコーディングって、みんなそうじゃない。だからRIDE ON TIMEにストリングスが一つも入ってないというのは、それだけリズム隊に自信があったからなんだね。でも、それはそれまでのトライ&エラーの結果。
そこからFOR YOU(82年1月発売)に行くんだけど、そこでもブラスとか、パターンの組み上げ方っていうのが、それまで3年くらい、ああでもない、こうでもないって、やったことが一挙に出てくる。「オンスト」も全く同じことで、コーラスをずっとやって来たでしょ。曲をいろいろ書いていく場合、コーラスは大きなファクターだったし、シュガー・ベイブが解散してから、スタジオ仕事では吉田美奈子とふたりでコーラスをやってたけど、男のパートは僕一人でやるから、 必然的に一人コーラスになっていくんだよね。
そういった、いろいろなものの蓄積が80年にひとつ、結晶するんだ。時の運というものは面白いもので。だから、なんで「オンスト」作ったのかって、みんなに聞かれたんだけど、この時、ここで出しておかないと、もう二度と出せないだろうって思ってたからなんだ。
「オンスト」のレコーディングにはそれほど時間もかからなかった。だってステージ素材として、何曲かはもう完成してたからね。
「オンスト」はアルバムRIDE ON TIMEが完成したした後、六本木ソニーのスタジオで録ったんだ。六本木のソニースタジオのスケジュールは、一日2セッションになっていて、昼の12時から夜6時までのセッションと、夜7時から終わりなしのセッションの二つだった。RIDE ON TIMEの時は夜7時から終わりなしでずっとやってたんだけど、「オンスト」のときには、美奈子が夜の部でレコーディングをやっていたので、僕は12時から夜6時までのセッションしか取れなかった。それで「オンスト」のレコーディングを一日一曲で作っちゃわないとだめだから、12時から夜6時で、ずーっと突貫工事でやってたら、風邪ひいた。
(社内からは反対の声もあった)「オンスト」の発売に対して、小杉さんは「いいんじゃない?」って感じだった。エアーレーベルとしては、数字がつくから事業計画が伸びるじゃない。だからアイテムもたくさんあるほど良い。ユーミンにしても美奈子にしても、ある時期すごく短期間で3枚くらい続けて出しているんだけど、それは何故かと言うと、エサ箱(レコード店のアーティスト別コーナー)を作りたいんだよ。小杉さんもね、エサ箱にたくさんのアイテムが入っていた方が良い、っていう人だから。レコード会社ってそういうもんなんだよ。
   
<アランに発音を矯正された数週間はカルチャーショックだった>
80年の「オンスト」は、86年に「オンスト2」を出すときに「オンスト1」として再発売された。実は「オンスト」は歌詞の聞き取りが、いまいち不正確な部分があったのと、僕の英語の発音が悪いところも多かった。僕の英語は耳学問だから、あの時点ではあまり正確な発音じゃなかった。それをBIG WAVE(84年6月発売)の時にアラン・オデイに徹底的に矯正された。それで「オンスト2」を作るときに、1の方も歌を全部入れ直した。 だから今流通している「オンスト1」は歌を入れ直したバージョンなんだ。歌が不満なんじゃなくて、英語の発音がまずかったから入れ直した。それが一番大きな理由。アランに発音を矯正された数週間はけっこうカルチャーショックだった。 英語の発音の基礎っていうのを、30歳を超えてようやく仕込まれたんだよね。うちの奥さんに言わせたら「今頃わかったの?」ってことになるんだろうけど。そういう話をした事は無いけど、うちの奥さんは高校生の時、留学する前の一年間、東京に通って、英語の先生についてたんだけど、最初はABCの発音から始めるんだって。なにそれって思ったんだけど「A」って言うと「違う!」。「B」って言うと「違う!」って言われる。それがカルチャーショックだったんだって。
外国人が、そんなことを厳密にやってるとも思えないんだけど、でもアランは「君は日本人だから、ちゃんとやらなければダメだ」って言う。一時が万事そういうことでね。Beachなんかだと「”ch”をちゃんと言え」とか「”The”はなんのためにある?」とかね。アランは厳しいんだw「日本人はみんなLとRの発音ばっかり気にするけど、もっと重要なことがある」って。「日本人は冠詞の”a”とか“the”とかが弱い」とかね、そういうことをいろいろ指摘された。その時のアランはすごかったよ。
一番言われたのは、僕はラティーノ(米国に住んでいる、スペイン語が母国語の中南米出身者やその子孫)の英語に近いんだって。Summerとかの”er”や、Throatとか。日本語の子音の発音がスペイン語に近いのかな。そういう言語学的な英語の世界っていうのは、84年にアランに徹底的にやられるまで、大して関心もなかった。僕の英語なんて、完全に雰囲気英語だったからね。でも、うちの奥さんみたいに、自分ではできるけど、人には教えられないっていう人もいてね。彼女は自分ではSummerの発音ができるんだけど、人にこうしなさいとは言えないわけ。「私は通訳じゃない」っていつも言うけど。アランはね、けっこう先生的なところがあって、とにかくやっつけられた。それで「オンスト」の最初の(歌)を改めて聴くと、これではダメだな、ということでね。
僕の英語を褒めてもらえるというのは、それはアランのおかげ。英語の発音にはコツがある。だからそのコツが一回わかればできるんだ。でも、僕の発音が完璧だっていうのは、あくまでも教材的な英語なんだよね。それだけが良いってことじゃない。だってラッパーの英語は完璧じゃないでしょ、ちゃんと思いが伝われば良い。「それってマジ?」なんて、それは日本語かっていう。でも、伝わるからね。
   
<「ハイティーン・ブギ」のときにはもう移籍は決まっていた>
80年といえば近藤真彦、マッチのデビュー。80年の終わりが「スニーカーぶる〜す」で。82年に僕は「ハイティーン・ブギ」をやった。この時には僕のレコード会社移籍は決まってた。表立っては発表してないけど、 役員は全部知っているという状況。
80年から81年、その頃小杉さんはもう歌謡曲はやりたくなかったらしいんだけど、RVCがマッチを獲ろうということになった時に、小杉さんがジャニーズと関係があったので、マッチが来たら、小杉さんがディレクションをやるって話になったのね。 でも無条件では嫌だから、プロモーション・フィーのフィードバックと、RCAのスタジオを立てるっていう条件を出した。結局マッチが来て、小杉さんがディレクションをしたんだけど、その約束は守られなかった。それが81年のこと。それでRCA(RVC)を辞めたんだ。
レーベルの特質というのはいろいろあるんだけど、基本的には独立採算で、予算は他の部署とは別枠になっている。で、それに見合った自由裁量権を持っているの。でも当時のエアーレーベルには、そこまでの自由は許されなかった。RVCは外資だから、アメリカ側がOKすればいいはずなんだけど、当時の日本的な企業体質がそれを許さなかったのかな。やっぱり独占したいから囲い込みをするっていうか、そういう体質があった。それで日本のレコード会社はダメになっていったんだけどね。エアーレーベルはスタッフが10人足らずだったし、なんたってRVCは演歌や歌謡曲の勢力が強かったから。それに加えて、社長交代とかいろんなファクターがあってね。だから「ハイティーン・ブギ」をやる頃には、そういうところにいてもしょうがない、って状況になっていったんだよ。
       
<コンサートでは音を全部ラインで出すことにした>
80年の終わりから81年の頭は、いちばんツアーをやったとき。あのツアーは本当に過酷だったからね。だって4連チャンで乗り打ち(連日違う場所でのライヴ)とかさ。それこそ朝の8時40分の電車に乗って、3時間揺られてその街について、会館の食堂でカツカレー食べて、リハーサルをやっての繰り返しでしょ。で、ホテルは狭いビジネスホテルで、毛布1枚の乾燥しきった部屋。あの頃の機材車が4トン車1台だったんだよ。4トン車1台だとセットなんてもちろん無理だし、何よりPAが十分に積めない。ウーハー(低音用スピーカー)が片側4発しか積めないのね。ウーハーが片側4発じゃ、 札幌厚生年金会館ホール(現ニトリ文化ホール)とかの2,000人以上の会場だと、とても音がうしろまで届かない。それをどうしようと、椎名(和夫)くんと二人で考えて、音をアンプじゃなくて全部ラインで出すことにした。マイクで録るのはドラムとピアノだけにして、ギター、ベース、キーボード類は、全部ラインで直接、卓に送って、音を出した。楽器からPAに直に繋いでるから、効率が良い。要するに音量を稼げる。結果アンプを使わないことになるから、余計な音の回り込みがなくなった。
あの時代のモニターマンは田島(啓資)くんていう人で、今はアルフィーPAセクションの社長をやっているけど、彼は僕が人生で知っている中でも、one of the bestモニターマンだった。アンプから音を出さずに、ステージ上のモニタースピーカーからの音だけで、ライヴがやれた。 そういう音場が作れたの。彼は本当に上手かったから、それでやれたんだ。ステージ上の余計な音の回り込みがないから、本当に洋楽のライブみたいな音がした。客席への音出しをやっていたPAミキサーの長曽我部(久)くんもうまかったし。
  
< ライヴは根気強く、何回もやっていこうと思ってた>
地方の客の入りは、全然(ダメ)だった。 いつも言ってるけど、1,700席の会場で1,200人くらいの入り。全国的にそうだった。新潟のように最初からいっぱい、時折そういう場所もあったけど、やっぱり宮崎とか熊本だとか1,500のキャパで1,000人。金沢の厚生年金ホール(現・本多の森ホール)は 1,700席なんだけどそこで600人だったのね。今でも覚えてるけど、守衛さんが出てきて「今日はよく入ってるな」って。他はもっと入ってなかったんだねwそんなもんだったんだよ。
お客さんの入りがそうでも、一所懸命やってましたよ。オフコースがライヴごとに200人、300人、400人と増やしていった話とか、アリスが年間320本ライブをやった話とか、そういうのは死ぬほど聞いてるからね。初めはそういうもんなんだ、やっぱり本数をやらなきゃダメなんだって、全国のイベンターが全員、異口同音(いくどうおん)に言ってたから。 だから、根気強く何回もやっていこうと思ってたよ。でもね、後で桑田佳祐くんとそういう話をしたことがあるんだけど、サザンオールスターズも、春と秋にツアーをやってた時代には、宮城県民会館(現・東京エレクトロンホール宮城)で2日やると、1日目は2階席に空席があったって。やりすぎだったんだね。だけど、それを超えないと本当の意味で、お客さんが入るようにはならないんだ。そういうセオリーが、昔ははっきりあったの。だからセオリーにのっとってやって、駄目だったから、そこで止めるとかね。そういう見切りもはっきりしてたんだ。今はそういうことがファジーっていうか、計画性とか戦略が全然ない。多分ライヴをわかってないんだよね、みんな。
昔ほどみんなライヴの本数をやっていないというか、できないんだよ。経費が昔より一桁が増えてるからね。とにかく諸経費が高騰している。イントレ(足場)や照明や何かの機材とか、凝った演出とか、そういう経費が上がりすぎているので、ホールツアーを10本やってもペイしない。かといって、チケット代をやたら高くもできないし、今は景気も悪いからスポンサーもつけられないでしょ。下手すると、やればやるほど赤字になる。悪循環なんだ。あの時代、景気が良かったのか悪かったのかわからないけれど、そんなふうにみんな戦略を立てながらやってきて、本当にお客が入るようになった。今はそういうプロセスすっ飛ばして、結論だけで始めちゃうんだよね、みんな。そこからライヴが変になってきたんだよ。
今ドームコンサートでも、経費のかかりすぎで、利益が出る事はほとんどないって言うからね。でも、なぜそれでも、みんなドームでやるかっていうと、 ビッグスターというイメージ。どっちがセットに金がかかっているかというような競争意識。セットを豪華にしないとお客さんが来ないっていう恐怖感。そういうもので競い合ってるから、後戻りできないんだろうね。
これもいつも言ってるけど、50本、60本のライブを全国のイベンターと組んで、くまなく回していくっていう、今の僕のやり方みたいなのは、もう旧態然としたスタイルだけど、こういう形が一番健全で、 全員ハッピーなんだよ。セットにお金がかかってますね、って言われるけど、こういう規模でやっていれば、ある程度投資しても、ちゃんと利益が出るんだよ。そういう現実を誰も言わないけど。
   
< ライヴをやりながらマーケティングを勉強した>
この頃は、最終的に僕は、スタッフになると思っていたからね。だからホール・ツアーをやっているときは、いつも実券がどれだけ売れただとか、動員がどうだったかってことも、教えてもらってた。例えば、1,700席のホールで1,200枚しか売れてなかったら、タダ券でいいから動員をかけて、絶対満席にしろって、事務所が言うことが多いんだ。
でも僕のライヴでは動員を一切かけなかった。「今日は実券が何枚出てる」っていう情報を、必ず教えてくれたんだけど、それは小杉さん達が、将来僕がスタッフになった時、ものを作るときの実質的な原価を、把握している必要がある、その勉強になるからって。
でも当時、僕と同じようなことをやっている例は、 全くなかった。逆にチケットの実売枚数なんか、出演者に教えちゃダメだって言われてた。ステージから降りるときには、みんな拍手で迎えて、気持ちよくさせとけばいいって。実際に、ある事務所の社長に言われたことがあるんだ。「うちのあいつには絶対教えるなよ」って。ステージの原価計算とか、ギャラをいくらとってるとか、パーセンテージがどうだとか、そういうビジネス的な真実を絶対に教えちゃいけないって、釘を刺されたことがある。それは事務所の経営方針の違いだから、そっちはそうでもこっちは違うんだって。
結局、僕はそうやって教えられていくと、コンサート・ツアーってもののマーケティングが理解できるようになる。ミュージシャンのギャラから始まって、機材費、会館の費用とかの制作費、そういうものが把握できるようになるわけ。レコードに関しても、ライヴ会場の即売はどういう仕組みになっているのか、とかね。各地のホールでのレコード販売権をどのレコード店が持っているかとか。そういうことを、現地のセールスマンに習うんだ。
当時僕は27、8歳だったでしょ。 現地のセールスマンも同じくらいの歳の人が多かったの。僕はディーラー・コンベンションという、小売店の人たちとのミーティングを79年から始めてたから、セールスマンも大体みんな顔見知りではあるんだけどね。地方にプロモーションに行くと、例えば博多の営業所だと、セールスマンが博多にいるのは、月の内5日か6日ぐらいなんだよ。 あとはみんな九州各地を回っている。当時は店の数が多かったから、各テリトリーで、月に20日くらい、 安い宿に泊まって、集金や受注をしながら周って行くの。ライヴの即売には、そういう人たちが来るんだ、ご当地のセールスマンだからね。そういう人たちと、宮崎とか鹿児島の屋台で飲むと、いろんな話を聞かせてくれるの。どこのお店がどうだとか。「じゃあまた明後日の鹿児島でね」とか「じゃあ、また秋にね」とかそういう感じで、彼らとは長い付き合いがある。そういうところで、僕は勉強したんだ。なんでそんなことを勉強したかっていうと、将来のためだったの。それだけじゃなくて、すごく面白い体験だったけどね。
そういうことをするミュージシャンは珍しいと思う。だからね、よくインタビューで「1位獲った気持ちは?」とか聞かれるんだけど、そんなの全くないの。「なんでそんなに平常心で、何事もなかったようにいられるんですか?」とかね。だけど、僕はそういうことで興奮したりするような教育を、受けてこなかったんだよ。どんなに頑張ったって、1位を獲れないこともあるし、思いがけずラッキーってこともある。それをいちいち人と握手なんかしたってしょうがない。だから、僕は本番15秒前に舞台袖で、みんなで輪になってとか、そういう事は絶対にしないし、できない。それが平常心と言うなら、そうなんだろうけどね。特にマスコミと呼ばれる人たちは「1位獲ってどうですか」とか「フェスで3万人集まってどういう気持ちですか」って聞いてくるけど、そんなのないのよ。音作ってるのと、演奏してるので精一杯なんだから。
でも、そういう反応って多分わかってもらえないんだろうね。そうやって自分がサバイブできているのが不思議だけど。でも、僕はそういう教育を受けてきたので、ものに対して無駄な感動とか、無駄な落胆をしなくて済んだ。それで精神的に、そんなアップダウンがなかったんだ。だからものを作れたんだ。精神的にダウンすると作れなくなるからね。 自分の責任じゃない所でダウンしたら、ダメじゃない。だからインターネットで罵倒されて、それで作るのをやめる人がいるっていうのは、よくで理解できる。
僕の時代は、それがなくて済んだのは大きいな。だけど、僕の場合なんかまだ良い方で、セールスマンなんか、ほんとに大変なんだよ。足を使ってシコシコ周るしかない。店側の選択とメーカーの戦略は違う。売れなかったら返品だし、売れて欠品すれば怒られる。あの経験がなかったら、そんなこと知らなかったからね。そういうことも現場のセールスマンが酒呑んで、話してくれるから。RVCの本社に行ったって、良い事しか言われないし。だからそれこそ消化率とかさ、そういう話を新しく来たスタッフに話すと、奇異な目で見られるんだよ、「なんでタレントがそんなこと知ってるんだ」って。
逆に、みんなが知らなさ過ぎるの。 そういうことを教えないほうが、うまく使えるからね。売れてないから、そういうことを知っても関係ない、という気分もあるかもしれない。でも、そういうことに対しての疑問が出てきたのは、売れない頃に印税を全くもらえないとか、給料もらえなかったとか、そこいら辺からだからね。「ぴあ」に取材された「100Qインタビュー」で、「若いミュージシャンにアドバイスすることがあるか」って言うから、「契約関係だけはちゃんと勉強しておけ」「お金のことをおろそかにすると、大変なことになるから、ちゃんと勉強しろ」って答えた。そんなこと言ったって、わかるやつはなかなかいないんだけどね。
【第30回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第29回 80年、ブレイクと交際宣言、そして芸能界

<最初は個人的にどうこうとかは全然なかった>
竹内まりやと)付き合い始めたのは、80年になってから。5月くらいかな。アン・ルイスの「リンダ」のレコーディングを手伝ってくれって、彼女に頼まれたことがきっかけ。80年の5月頃って、ツアーやなんだで忙しかったんだけど、たまたまその日は家にいて、夕方の5時ぐらいに電話があった。いつもは、そのくらいの時間に家にいる事はあまりなくて。家にいても、レコードを聴いてヘッドホンをしてるから、電話に出ないことが多いんだけど、たまたま取ったら彼女で。「今スタジオにいて、アン・ルイスのレコーディングをしているんだけど、アイデアで困ってる。コーラスを入れたいんだけど、協力してくれないか」って。で、1時間くらい後にスタジオに行って、それから6時間ぐらいかけて、夜中まで「リンダ」のコーラスを一人でやったんだ。その頃、生まれて初めて自分の車を買ってて、その車で、彼女を家まで送って行った。それまではプライベートではあんまり関係がなかった。レコーディングでまあ困ってたんだろうね。バンド演奏だけだと、オケに個性が出ないから。でもとにかく、まったくの偶然でしかなかった。
最初に会ったのは、彼女がデビューする前にデモテープを作ってた時で、二度目は、これは何度も言った話だけど、僕が渋谷エピキュラスでリハーサルをやっているところに、誰かが連れてきた。 その時にサイン帳を持ってて、それにサインしてくれって言うので「これからプロになろうっていうのに、人のサインなんかもらうもんじゃない」って説教した。だから、向こうの印象は最悪だったろうね。彼女にしてみたら、多分業界で初めてNOを言われた。僕はその頃からプロ意識が高かったんだろうね。基本的に、今でも人のライブを観に行ったときには、そこの客にサインしてくれって言われても絶対にしない。そういう主義だから。
最初は個人的にどうこうとか、そんな事は全然なかったんだ。それは他の女性シンガーと同じで。ただ音楽の制作に関しては、同じレコード会社だから、それまでもつながりはあったからね。ファーストアルバムの「Beginning」に曲を提供して、2枚目の「UNIVERSITY STREET」では、彼女がピアノの弾き語りで、カセットに入れた曲を持ってきた。それが「涙のワンサイデッド・ラヴ」で、それをどうにかしたいって言うから、アレンジした。あれは一人多重(録音)でやらないと、オケに個性が出ないと思って、ほとんどの楽器を僕がやってる。「ドリームオブユー〜レモンライムの青い風〜」のアルバム・ヴァージョンも、僕がアレンジしてる。「UNIVERSITY STREET」は結構、僕の編曲が多い。でも、それはあくまでも仕事の上だからね。「涙のワンサイデッド・ラヴ」のレコーディングの時は、まりやは現場にいない。だってツアーをやってたり、テレビ出演があったりしたから。だから、あれはリズム・トラックが出来上がってから、聴かせたの。ストリングスを入れる前くらいかな。
   
< ジェットコースターのような本当にすごい一週間だった>
僕にとっての人生の最大の転換期は、1980年7月26日からの一週間なんだ。まりやとのことが、スポーツ新聞で一斉に出た。その次の日、7月27日がニッポン放送主催の「80’s JAM」っていう西武球場イベントで、 8月2日が葉山マリーナのコンサート。ここの一週間というのが、ジェットコースターのような本当にすごい一週間で。これを過ぎたら、急に人生が静かになった。憑き物が落ちたというかね。7月26日からずーっと突風が吹いてた。7月27日の西武球場は、もうレポーターがわーっと押し寄せてきて、大変だった。だから、僕はハイエースの荷台に押し込まれて、上から毛布をかけられて、荷物と一緒に裏側から入った。で、メンバーは表から入ってきたけど、テレビカメラが並んでて、レポーターが「誰が山下さん?」ってw
で、まりやの方は北海道の真駒内か何かでイベントがあって、ステージに出るときに「山下達郎さんとの結婚が決まった竹内まりやさんです」って、トロいアナウンサーが紹介して騒然となったw
西武球場の方のライヴ自体は、別に淡々とやったので、どうという事はなかった。帰る時も裏口から出て、うまくいったと思ったら、カメラマンがたった一人だけ、根性ある奴がいたんだね。そのカメラマン、スタッフが必死でブロックしてくるのに、ファインダーを覗いたまま突進してくる。特攻隊って、こういう感じなのかなと思った。あの時、僕はこういうところにいちゃいけない、こういうところで生きられる人間じゃないと思った。 ある意味で、最大級の恐怖を感じた瞬間は、あの時だったかもしれない。恐怖っていうのは、何も暴力だけじゃない。あれはすごかった、あの不気味な恐怖感は。
8月2日に葉山マリーナでライヴをやった時も、レポーターやカメラマンがたくさんいて、ライヴが終わってから、そういう芸能マスコミ向けのスピーチを、しなきゃならなくなった。その頃はまだ27歳で、まっすぐだったから、趣意書っていうのかな、アジテーションみたいにしゃべり始めたら、前にいたカメラマンが「こっち疲れてるんだから、演説はいいから早く撮らせろよ」って。ああ、これが芸能の世界なんだなって思った。だから、あそこで僕のスタンスは決まったの。あれがなかったら、ひょっとして結構チャラチャラした芸能人になってたかもしれないw
向こうは勝手に来るからね。事務所も弱小だし、嫌だなんて言えない。大変な事は他にもあって、その8月2日の葉山のライヴで共演予定だったシャネルズが、直前に出られなくなった。さらにその週に、レコード集めでとてもお世話になっていた、大阪のフォーエバー・レコードの宮下(静雄)さんが亡くなったり、とにかく毎日何かがあった。その締めくくりが8月2日で。あの年、1980年はものすごく寒い夏だったんだ。日照がほとんどなくて、毎日冷たい雨でね。8月2日も午前中から晩まで土砂降りで、もしシャネルズが予定通りに出ていたら、楽器のセッティングを変えなきゃならなかったから、おそらく演奏不可能で中止になっていたかも。開演のときには、もうステージ上にかなり水が溜まっている状態だった。
そんな状況で、僕らが何故やれたかっていうと、当時から楽器はラインで直つなぎ、アンプを一切使ってなかったからなんだ。本番中はエフェクターが、水の上にプカプカ浮いてる有様なんだけど、それでもライン出しだったから、何とか音が出てた。PAマルチケーブルは火花がスパークしてたし、照明のピンスポットは、開演15分で雨に濡れてショートとして飛んじゃって、そこから先はピンスポットなし。メンバー各自の上に、ビーチパラソル立てて、雨をしのいで、サーチライトをステージに投光して、それでライヴをやった。
演奏は夕方4時過ぎからで、そんな状態でも4時間15分も演奏したからね。プールの中の方が暖かかったから、多くの観客が水の中で観ていた。幸運なことに、あの頃はライヴをたくさんやってたから、ステージの段取りはどうとでもなった。曲順も決めないで出て行って、何からやろうかって。で、気がついたら4時間以上やってたんだよ。それで、打ち上げにカメラマンとかレポーターが来てて。それに僕が真面目に応対しようとしたら、そのカメラマンの早く撮らせろ、っていう話になる。
今だったら「あんたたちに言うセリフなんてねえよ」くらいは言うだろうけど、あの時はまだ熱血漢だったから、話せばわかるって、真面目な論法で行ったから、ますます悪かったんだね。とりあえず世の中にちゃんと気持ちを伝えようと、そしたらわかってくれるんじゃないか、ってね。でも、それは大きな間違いだった。そうした体験が「Hey Reporter!」っていう歌になるわけでw
結婚したのは、それから2年後。82年の4月に結婚するんだけど、まあ色々とお互いの家族間の準備とかあったから。僕は29歳で、彼女が27歳で結婚したから、今ならごく普通だけど、あの頃はそれでも遅いって言われたんだよね。だから8月2日は結婚宣言じゃなくて交際宣言。まぁでも交際するっていったって、その前から基本的な性格とか、そういうものは知ってるからね、別にね。
8月2日が終わって静かになった。といっても、それはあくまで自分の精神的な生活の話で。芸能関係の方も、そこから後は、僕の方はあんまり関係なくなって。だって僕はテレビに出ないから。でも、大変なのは彼女の方。当時、竹内まりやは、まだ半分アイドルみたいな扱いだったから、いろいろ大変だった。で、81年の終わりに彼女は休業するから、そこまで1年半くらい。僕の方は取材っていっても音楽雑誌だけで、一般誌なんてやらなかったし。事務所もそういう話題は受け付けなかった。そういう話は、むしろ彼女の方が引き受けてくれていた。まあ、それが結婚まで続くわけです。
   
<シングルはともかく、アルバムがCMの写真じゃイヤ>
シングルRIDE ON TIMEは5月発売だったけど、80年は1月から仙台、山形とツアーに出た。あの頃はソーゴー(コンサート・イベンター)も転換期でね。それまでは演歌・歌謡曲が中心だったんだけど、ロック路線に変えようとしていた。だけど、ソーゴーはそれまでの演歌路線がたたって、なかなか思うようにいってなかった。結果、あの当時のソーゴーで80年代前半の数年を支えたのは、僕と高中(正義)くんなんだよね。イベンターはいっぱいあったけど、僕のライヴはそれまでは、地方はおろか東京でも買ってくれなかった。で、ソーゴーが桑名(正博)くんである程度成功したので、僕も、っていうことだったんだけど、始めてみると、地方でもそれなりにお客さんが入ってくれた。それでソーゴーも、その後のロック路線に切り替えられた。
ツアーの合間でのレコーディングだったけど、アルバムRIDE ON TIMEの曲はライヴで色々と試せたから。「夏への扉」はすでにライヴでやってたし、レコーディングは1時間かからなかった。ワンテイクでOK。青山と広規が入ってきたから、けっこう5人でリハーサル・スタジオに行って、パターンの練習をしてた。「いつか(Someday)」なんかもパターンを試して、ああでもない、こうでもないって。「DAYDREAM」もやってるうちに、広規がベースのパターンを思いついて、それに青山が色付けして、それに椎名(和夫)くんが乗せて、っていう感じ。だからヘッド・アレンジなんだけど、上がりがものすごく早い。基本的なポリリズムのパターンを提示すると、それに彼らが色付けをする。時代だね、やっぱり。六本木ソニースタジオの音も良かったし。 エンジニアの吉田保さんも、あの頃はまだリヴァーブ少なめで、コンテンポラリーな音を作っていた時代だから。このアルバムは(制作)期間が短かったし、次作のFOR YOU(82年1月発売)になると、 また長期戦になって、曲数が多くなって17曲も録ったのは、生まれて初めてだった。予算が潤沢になったのと、自分の所の原盤出版になったからだね。
アルバムRIDE ON TIME(の録音)は収録数ぴったりだったかな。全曲ほぼ同じリズム・セクションで録ったのは初めてで、これは後にも先にもこのアルバムだけ。とにかく集中力があった。長いツアーで組み上がったアンサンブルというのもあったけど、本当に良い状態だったね。
小杉さんが言っただろうけど、ジャケット事件ね。このアルバムでは、CM写真を使ったジャケットにする、っていう契約だったの。小杉さんがそれを忘れた。それで困って、フェイスカバーをつけるという寝技を思い付いた。小杉さんそういうところは天才だからね。 僕はまあいいやって。そうするしかない。逆に僕は、そんなので相手は大丈夫なのかなと思ったけど、そういうところも、小杉さんは天才的。なんか妙に、みんな納得して帰っていくんだよね。後でよく考えたら、納得できなかったりするんだけど。厳密に考えたら、それが契約通りかどうか、わからないけど。でもジャケットは一生残るけど、CMは時が経ったら、記憶の彼方だから。実際にそういう例があるから。いずれにせよ、CM出演したそのままのビジュアル・ジャケットなんて冗談じゃなかった。シングルはともかく、アルバムのジャケがCMの写真じゃ絶対にイヤだもん。
ジャケのデザインは、MOONGLOWの時にはペーター佐藤がニューヨークに行ってて居なかったから、奥村(靫正/ゆきまさ)さんに頼んで。その流れで、RIDE ON TIMEも奥村さんに頼んだ。奥村さんは才能のある人で、このジャケットも嫌いじゃないよ。
   
<”芸能人を見る視線”というのを生まれて初めて味わった>
シングルRIDE ON TIMEはチャート3位。 5月の中頃か末だったか、椎名夫妻と3人で、銀座の日曜のホコ天に行ったの。人生でそれまで、人目っていうのを意識した事は一度もなかった。確かにこの商売をやってると、サインしてくれとかあるけど、それはあくまで身近な客の話で。いわゆる一般的な芸能人を見る視線というのを、生まれて初めてその日に味わったんだよね。
椎名くんの奥さんがメガネを直すって言うんで、メガネ屋に行ったら、なんか人が寄ってきて「あんた、昨日テレビ出てたでしょ」って。極めつけはツアー先の高松のキオスクで、どっかのおばさんが「あんた、あんた、ほら、誰だっけ、ほら」って。「ああ、これか」って思った。 そういうのと、あのスポーツ新聞の騒動が重なって、僕はしばらく対人恐怖症だったことがある。家を一歩も出られないというほどじゃないけど、完全に脱却するまでに結構(時間が)かかった。
芸能界に対するネガティブ・インパクトって、あれで強烈に刷り込まれたから。やっぱりヒットするっていうのは、こういう事なんだなと思った。
桑名くんがその昔、顔をマフラーでぐるぐる巻きにしてレコード会社に来て、「歩けへんねん、どないしよう」って。その少し前アン・ルイスのアルバムをやったときに、彼女と数日一緒に行動したことがあって、3日で気が変になりそうだった。キヨスク行ってサイン、天津甘栗でサイン。僕はそういうノリに全くついていけなかった。
そういうのが、気持ち良い人もいるんだろうけどね。だから芸能人て、騒がれると鬱陶しいけど、全く騒がれないと不安になる。そこを行ったり来たりしてるっていうかね。でも僕はその後、徹底してテレビに出ないでやってきたでしょ。そうすると、銀座のど真ん中で「達郎さん!」とか声かけられても、ほぼ100%ファンクラブの人だからw
まぁそれでもこの歳になるとね、もうずいぶん長いことやってるので、この間、高松で讃岐うどんを食べてたら、「あれ、誰か知ってる」って、おばさんがみんなに教えて回ってる。そういう事はあるけどね。そういうことを最初に体験したのは、1980年のあの時期なんだ。
   
<80年発売、水口晴幸「BLACK or WHITE」をプロデュース>
水口晴幸くんはクールスから独立したあとに、エアーと契約した。小杉さんはああいうの、好きだからね。ちょうど青純や広規と始めた頃で、RIDE ON TIMEのちょっと後だったけど、ギタリストの北島健二くんが、二人の古い友達だから参加してくれてね。あの時の北島くんは抜群だったね。彼もアレンジのセンスがあって、佐藤博さんみたいなところがあった。いろいろフレーズのアイデアを考えてくれるんだよね。そのひらめきが素晴らしいの。
そういえば1曲目の「Drive Me Crazy」は筒美京平さんの曲なんだけど、あれはもうアレンジで代理コード使いまくって、残っているのはメロディだけという状態なんだけど、京平さんはけっこう喜んでくれるんだよね。そういうことをしても、怒らないの。音楽家としても、大きな人なんだよね。
それと勝新太郎さんの「警視-K」(80年10月〜12月放送、全13話)だね、ドラマの音楽を担当した。僕は、ドラマの主題歌の話が来たのは、水口くんをドラマに出すためのバーターかなって、ずっと思ってたの。でも、そうじゃないみたい。小杉さんに聞くと、日本テレビのプロデューサーが、僕にオファーしてきたんだそう。勝さんの番組だから、それで僕は一度勝さんに会いに行って。それまで一面識もなかったからね。
勝さんのことは「座頭市」「悪名」「兵隊やくざ」と、一応一通り観てるからね。あの頃は、まだ日本映画に耽溺しているわけでもなかったけど、とりあえず大映で勝さんが出ていた映画は、名画が多いので、それなりに観ていた。「薄桜記」や、大映オールスター「忠臣蔵」の赤埴源蔵(あかばね げんぞう)とか。でも、それ以上の事はあまり知らなかった。長唄三味線の杵屋(きねや)の御曹司であるなんて、全然知らなかった。だから、あくまで映画俳優としてだよね。で、赤坂東急か、ヒルトンだったか忘れたけど、ホテルに会いに行って。
「警視-K」っていうのは非常に実験的なドラマで、ネオリアリズムみたいなところがあるんだけど、12話1クール分の予算を、1話で使い切っちゃったんだよね。初回用の録音っていうのを音響ハウスでやったんだけど、そこになぜか、勝さんが来てね。なんか色々と始まって、広規がベースで遊んでいたら、「それだ、それ」って入ってきて、「それだ。録るぞ!」って始まって。2時間半ぐらいそんなことをやって、大丈夫なのかなと思ったけど。その時のソースが、FOR YOUのボーナストラックに入ってるような、ああいうやつなんだけどね。
結局、勝さんには三回しか会っていない。最初の打ち合わせと、そのレコーディングの初日と。三回目は「警視-K」をやっているときに、勝さんがオールナイトニッポンに1日だけ出たことがあって、深夜の1時から3時で生放送をやったの。それに来い、って言われたんだよ。で、行ったんだよね。そしたらスタジオの壁に銀座のお姉さんがずらっと一周、張り付いてて。勝さんがブランデーだかウイスキーだか飲みながら、ウダウダ言ってるんだけど、「山下くん、そこにコンガがあるから、それを叩け」って。「俺が机を叩くから、それに答えろ」って。夜中の2時半に、俺は一体何やってんだって思いながら叩いてたw 番組が終わって、「いやー楽しかった。じゃあ飯を食いに行こう。キャンティ空けてあるから」って。夜中の3時過ぎに(飯倉の)キャンティに、金色のロールスロイスで乗り付けるの。金色のロールスロイスだよw そんなものがあるんだね。それに乗っけられて、キャンティに行ってね。訳がわからないでしょ。とにかくすごかったよ。
ああいう人の面倒を見てる、勝さんのマネージャーは偉いと思ったね、ホントに。耐える一方でしょ。あれは良い体験だったな。同じベテランでも、フランク永井さんの時とは全く違って、音楽的なものは何にもなかったけど、勝さん自体のオーラがすごかった。その後、あんな経験は無いもの。
僕は今も、役者さんとはほとんど接点がなくてね。ほんの数えるほどしかない。あるとしたら、脚本家とか監督とかの方なのね。「ENDLESS GAME」(90年)をやった時は、あれはテレビドラマの主題歌で、原作が連城三紀彦さんの「飾り火」なんだけど、脚本が荒井晴彦さんていう有名な脚本家だったんだ。そういう人とは話が合って、ドラマの打ち上げで、それこそ朝の7時まで酒を飲んだ記憶がある。僕はそういうドラマの打ち上げに参加しても、俳優とジョイントする事は滅多にない。常にプロデューサーとか、脚本家、監督とテーブルを同じくする結果になる。スタンスがそっちのほうに近いからだろうね。それで山中貞夫の話とかで盛り上がるんだw
僕は「警視-K」の主題歌が「My Sugar Babe」じゃなくても、いいんじゃないかと言ったんだけど、小杉さんが「いや、時間がないので、これで」って。いい加減なんだw こんな地味な曲でいいのかなって、僕は思ったけど。
ドラマの音楽については、ちゃんと別録音、テレビサイズで作ってたからね。RIDE ON TIMEとは別テイクで。でも、これはヒットしないよなって、自分でも思ったけどね。シングルは切ったんだけど、もうちょっと違う曲でもよかったよね。でもまぁ、あの頃は、小出しにするのが美学だったりしたからね。
あの頃は、そういうリリース・スケジュールをどうするかとか、シングルを切るとかいう事は、みんな小杉さんの意思だったからね。僕は「これをシングルに切りたい」って言った事は無いから。一応FOR YOUまでは小杉さんが現場をやっていたから、FOR YOUの時に(アカペラの)インタールードを入れようと言ったのは、小杉さんのアイデアなんだよ。
RIDE ON TIMEのCDのボーナストラックに、インストが入ってるんだけど、あれはレコードの時にも入れようかと思ってたものなの。だけど収録時間が増えてしまうから、やめたのね。それを小杉さんが、もったいないと思ってて。FOR YOUの時にも、インストを入れようかという話になったの。でも、どうせならインストより、アカペラの方がいいんじゃないかって。それで、あのFOR YOUのレコードに入っているインタールードを作ったの。そういうアイデアは、小杉さんあの頃はすごくあったんだよ。今は全くないけどねw
【第29回 了】