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ヒストリーオブ山下達郎 第25回 ブレイク前夜 、79年の大阪と「ピンク・キャット」

<BOMBERが売れ始めたから、大阪に来てくれ>
1979年1月、次のシングル「愛を描いて〜LET’S KISS THE SUN」のレコーディングをしていて、4月に発売だね。この79年初めは、けっこう頻繁に大阪にプロモーションに行った。クールスのレコーディングが終わって、直ぐくらいに、大阪のプローモーション担当だった石原くんに「BOMBERが売れ始めたから、来てくれ」って言われて行ったの。
当時はOBCラジオ大阪)で、栗花落(つゆり)光(ひかる)さんっていう、今はFM802の役員をやっている人が、ラジオ制作をしていて、「ジャム・ジャム・イレブン」っていう深夜放送があった。もう少し後の79年半ばくらいになると、ラジオに毎週出るようになった。特に「ジャム・ジャム・イレブン」は、スターキング・デリシャスの大上(おおがみ)留利子さんとか、マーキーっていうディスコのDJの人のところにも出たね。彼がマーキーで僕がタツローだから、タツマキ・コンビって言って、そういうのはずいぶんとやった。
あとはアン・ルイスがレギュラーをやっていた番組。ハイヒール・モモコの番組とか。ラインナップとしてはそんな感じかな。うちの奥さんも「ジャム・ジャム・イレブン」のレギュラーをやってた。その頃はまだ付き合う前だったけど。ちょうど「UNIVERSITY STREET」が出る頃で、そのレコーディングもこの頃だったんだよね。
大阪でのメディアの反応は(以前と)全然違ってた。78年にIT’S A POPPIN’ TIMEで大阪キャンペーンをやった時は、全くケンもホロロだったけど、石原くんが入ってからはアプローチを変えて、深夜放送とディスコ周りをやるようになった。BOMBERはディスコで毎日かかっていて、全盛期のアメリカ村でもかかりまくっていたから。狐につままれた、っていつも言ってるけど、本当に何が何だか分からなかった。僕はディスコなんてものに、およそ縁がなかったし、70年代初めのMUGENとか新宿のサンダーバードとか、生バンドのディスコ時代には時々聴きに行ってたけど、プロになってからは全く無縁だった。アン・ルイスの仕事をするようになってから、ツバキハウスとかに連れて行かれるようになって、80年くらいになると、流石にディスコの知識も蓄積されたけどね。
全盛期は、毎週大阪に行ってた。FM大阪OBC、ABC(朝日)、MBS(毎日)、要するにラジオ一辺倒だった。あの頃にお世話になったディレクターは、みんな今でも仲がいい。番組が終わって、夜中に屋台で、ラジオのディレクターと酒飲んだりね。懐かしいな。とにかくGO AHEAD!は大阪のシェアが東京を上回ったというか、半分以上が大阪で売れたんだよね。それが完全にブレイクのきっかけになった。
ハイヒール・モモコさんはごく常識的な人だったよ。ヤンキーのお姉さんだから、とても気遣いがあって、そういうところでクールスとの経験が生きてくるんだよ。ヤンキーっていう言葉を僕に教えてくれたのは、大上留利子さんでね。僕がツッパリっていうと、「それは大阪ではヤンキーって言うんですわ」って。「ヤ・ン・キ・ー」ってちゃんと発音の仕方まで教えてくれた。大阪のラジオだからって、特に意識はしていなかったよ。みんないい人だったしね。深夜のDJをやっていた人たちは、芸人さんでも音楽好きな人たち、たくさんいたからね。そういうことを考えて、セットしてくれていたから、下ネタ専門のお笑い芸人のゲストに入ることは、まずなかった。
当時の芸人さんでは、太平サブロー・シローさんのシローさんが特に僕を応援してくれた。シローさんはいつもライヴに来てくれていたし。とにかくあの当時の大阪には独自のラジオ文化があった。あの時に培った人間関係というは大きいな。
同じようなことは大阪以外でもいろいろあって、岡山の山陽放送には河田さんというディレクターがいて、駅前のサテライトスタジオで、いきなり3時間くらいの生番組を企画してくれたり、福岡KBCの岸川さんは76年から知り合いだったけど、その頃にはもうブレイクの予感はしていたんだろう、「いよいよだね」と言われたりね。だから、ラジオを通じて大阪に馴染んだというか、でもやっぱりライヴだね、
それまでの大阪のライヴって、それこそ74年に行った時になるから、まあ、京都ではトラウマになったけど。その時の大阪の方は、言語面の恐怖とかはあったけど、ライヴ自体はそうでもなかった。むしろそのあと、76年に吉田美奈子のバックで「GO ROCKING FESTIVAL」という、雑誌GOROのイベントライヴを、大阪厚生年金でやった時の方が、強烈に記憶に残っている。その時の出演は、大上さんのスターキング・デリシャスと、憂歌団と美奈子というラインナップだった。美奈子の出番が最後で。会場に着いて楽屋入りしたら、舞台関係か放送関係の人かな、とにかく関係者だろうけど「おはようございます」って入ってきて、「あんな、今日はスタッフ全員、大上さんのために来てるやから、あんたたちは勝手にやって、勝手に帰ってな」というような内容のことを言われてね。まあ、その時代の関西ブルースとかの空気は知ってたけど、でもずいぶんな言い方だな、と思ったね。
それが79年に「BOMBER」が流行り出した時に会ったのは、まったく違う人たちなわけ。ディスコのDJとか、須磨で遊んでるサーファーとか、今まで知っていた人たちとは人種が違う。日本のフォークとロックと言われるような流れで育って来た人たちとは、全然違う、まったく新しい流れだね。音楽の聴き方やライフスタイル、色々なものが80年代に向けて変化した。アメリカ村や丘サーファー。
個人的見解では、そんなふうに大きく変わった要因は、ウォークマンとカーステレオだと思う。ウォークマンはアウトドアに音楽を持っていけるという、初の軽便なメディアだった。それとカーステレオ。カーステレオでFMとカセットが聴ける。その二つがすごく大きかったんじゃないかな。カセットテープの普及と、カーステレオとウォークマン、それらが70年代末、爆発的に広がった。
ちょうどその頃、RCAの宣伝マンのアイデアで、小林克也さんがハワイのKIKIというラジオ局のDJに扮して、彼のナレーションで僕の曲を繋いだ「COME ALONG」というプロモーションレコードを作ったけど、着眼点はそういうところにあったわけでね。あの「COME ALONG」を店頭でオンエアしたのが、すごく効果的だった。あの時の大阪の戦略はね、そういうものの先取りだったんだよね。だから、そこからしばらく”夏だ、海だ、達郎だ”になるわけでね。本当に当時の須磨の海岸では、みんな「BOMBER」を聴いてたって言われた。当時、彼らは高校生、大学生で、あれから30年経って。彼らは「BOMBER」からMELODIES(83年6月発売)までの4年くらいの間に、僕を聴き始めた。それが、僕の一番コアなファンになっているんだね。
  
<関西では僕が「BOMBER」でいきなり出てきた感じだったんだと思う>
「BOMBER」以前と、それ以降のファン。当時の僕にしたら非常にストレンジだったけど、でも、正直”それ以降”のお客さんの方がいいな、と思ったんだよ。
「GO ROCKING FESTIVAL」の楽屋に入って来たような人たちより、こっちの方が素直で、ずっといいやって。で、79年6月からのツアーの時には、東京はそれまでと全く同じお客さんだったけど、大阪サンケイホールでは一曲目「ついておいで」のイントロが始まった時に、ギャーって盛り上がって、なんだこれは、って思った。そこから明確に、流れが変わったんだよ。だいたいディスコのプロモーションなんてものが初めてだったし、しかもそれが「BOMBER」で。僕はこういう新しいリスナーの流れで、この先はいくんだなって思ったよ。
元からのファンの反発、っていうのも、それなりにあったけどね。RIDE ON TIMEの時がピークだったけれど。この頃でも、たとえば79年夏にアマチュア・コンテストのゲストで出た時、演奏してたら、一番前の女性から「どうしてそんなメジャー路線に走るんですか」って言われたりねw マイナーなままでいて欲しい人というのは、いつの時代にもいてね。売れたら裏切り者になるわけさw あの頃、僕の私設ファンクラブのような人たちがいて、その会報に書いてあったGO AHEAD!の評なんて、いいことなんかひとつも書いてないの。「散漫な内容」「プロデューサーは他に任せた方がいい」とか。
それ以来、僕はコアなファンと称するものに全くシンパシーをなくしてね。同時にファンクラブにも関心を失って、90年代まで作らなかったんだよ。でも、自分の出自を考えれば、そういうお客の存在も、また不可避だったんだよね。やっぱり、荻窪ロフトから出て来たアングラ・バンドマンなんだもの。
あれからもうずいぶん時が経つのに、そういうウダウダ言う客は今でもいてね。だったら、聴かなければいいのに、買わなければいいのに、と思うんだけどね。きっとウダウダ言うそれ自体が、自己目的化してるんだろうけど、こっちもいい歳だし、あっちもいい歳だし、お願いだからもうそういうのはいい加減やめてくれないかな、と思ってる。
まあ、とにかく大阪では、そういうのからガラッと変わって、イキがった評論家ごっこが全然なかった。もともと大阪には僕のファンが少なかったから、来た人たちも全然違ってたんだ。それは実に面白かったね。終演後、楽屋口に人があふれて、表に出られなかった、なんて、まるでアイドル並みの時代もあったんだよ。でも、ちゃんと音楽はわかっている人たちだったからね。ダンス・ミュージックとかリゾート・ミュージックとか、生活の中で、音楽を聴くようになった時代のお客さんだから、それまでと反応は違っていたけど。
特に大阪はね、不思議だけど、同じファンでも何かこう、空気が違うというか。道を歩いていたり、食事をしてるときに声をかけて来る人なんか「達つぁん、何しとんの、今日は仕事なん?」って。それで「サインもらおうかな」とか、えらくフレンドリーでね。でもそれだけ。しつこいこと、くどいことは一切なし。それは今でも変わらないね。
他の地方に行くと、自転車で追いかけられる、なんてのはあったよ。東京なんかだと気取ってるから、そういうことはないけど、最近は銀座なんか歩いてると、声を掛けてくるのはほとんどがファンクラブのメンバーw この間、大阪に文楽を観に行って、トイレから出てきたら、男の人が「サインしてくれって」って来たから、文楽のプログラムにサインしてあげたけど、あの人もきっとファンクラブの人だね。そうじゃないと、街で会ったってわからないと思うよ、テレビに出てないから。
あの時代、大阪のコンサートに来ていたお客は、関西ブルースと僕の関係なんか知らないからね。ディスコで「BOMBER」を聴いて、GO AHEAD!を聴いて、という衒い(てらい)のないお客ばかりだったからね。それこそディレクターの人たちだって、僕と山岸潤史が知り合いだとか、そんなこと一切わかってない。シュガー・ベイブに関しては、気になっていたという人も居るけれど、あまり興味ない人がほとんどだった。むしろ、福岡とか北海道の人の方がSONGSに対する認識はあった。大阪は大都会で、そこに起きているムーブメントの規模が大きいから、シュガー・ベイブに対する認識なんて、それほどなかったんだよね。
そんなことで、関西では、僕がムーブメントとして、そんなに注目されていなかったがゆえに、僕が「BOMBER」でいきなり出てきた、という感じだったんだと思う。
「BOMBER」のヒットは元々は石原くんが仕掛けたんだけど、でもそういう仕掛けって、笛吹けども踊らず、っていうのがほとんどだからね。でも、ディスコのDJが乗ってくれたんだよね。彼らも洋楽ばっかりじゃダメだ、という問題意識はあったんだって。で、これだったら、洋楽と対抗できるサウンドだから。それに日本語だし。だからディスコでかけて、啓蒙的にやっていこうと、乗ってくれたんだね。それでツアーをやって、今はこういう流れに乗っていくしかない、と思うのは当然でしょ。それで作ったのが、MOONGLOW(79年10月発売)なんだよね。だからMOONGLOWは全レパートリーをライヴで演奏した、ただ1枚のアルバムなんだ。他のどのアルバムにも、1〜2曲はやってない曲があるから。
  
<「ピンク・キャット」はアン・ルイスのスタンス改革に少しは貢献したと思うよ>
「ピンク・キャット」(79年8月発売)のプロデュースは小杉さんが仕掛けたの。アンのプロデュースで、僕の名前を売ろうって。それまでアンのことはほとんど知らなかった。「グッドバイ・マイ・ラブ」とか。ユーミンが書いた「甘い予感」とかくらいの知識。
正直言って、最初にオファーが来た時には、僕じゃない方がいいんじゃないか、と思ったんだ。やっぱり「グッドバイ・マイ・ラブ」の人だし、もうアンは根っから芸能人だから。僕はそれまでThe芸能界なんて、ほとんど見たことも聞いたこともなかったから、一緒にいると気が狂いそうになるんだよね。だって天津甘栗を買おうとしてサイン、キヨスクに寄ればサイン、みたいなさ。
新宿ルイードとか、ラ・セーヌとかに彼女のライヴを観に行くと、司会がいるんだ。昔の歌謡曲のセオリーで、一曲終わると「はい、アンちゃんの新曲でした。ところで昨日はどこかに行ったそうだけど…」みたいな感じでね。
で、彼女に「この先どんな音楽やりたいの?」って聞いたら、「歌謡ロック」だって言う。それだったらさ、僕じゃない方がいいんじゃないか、って。でもね、なんで僕のところに来たかっていうと、アンはディスコ少女だから、大阪のディスコで「BOMBER」を聴いたんだって。これカッコいいっていうんで、僕にプロデュースの話がまわってきた。どうしようかなと思ってさ。じゃあ、今までの歌謡路線一辺倒だったのを、劇的に変えようかなと思って、意図的にオーヴァー・プロデュースにしたの。作業は、曲を集めるところから始まって、アレンジして、サウンドポリシーを決めることもやるけど、なんたって芸能界だから、曲もいろんなところから、あれ使え、これ使え、と言われて。そういう交通整理も大変だった。
自分で書いたのは「シャンプー」だけ。「アイム・ア・ロンリー・レディ」(79年6月発売)というシングルがあるので、これは入れてくれ、と言われて。それはリミックスしたり。あとは美奈子とか桑名くんに書いてもらったりしたの。
それからセリーヌ・ディオンのBecause You Loved meなんかで知られるダイアン・ウォーレンの曲も使ってるんだ。当時、彼女はアラン・オディと契約していた音楽出版社の所属で、アランが「彼女は才能があるから聴いてくれ、なかなか売れないので、諦めて故郷に帰る、って言ってる」って送って来たデモの中に、けっこう良い曲があって、「JUST ANOTHER NIGHT」という曲を使うことにした。これが彼女にとって、最初にレコードになった作品なんだ。大ヒット作家になるのは、この後なんだよ。彼女はこれがきっかけで、もう一度頑張る気になって、その後の大成功につながったと、アランから聞いてる。
あと他にも「シャンプー」の詩は、新人だった康珍化(カン・チンファ)が書いてたり、エピソードは多いアルバムなんだよね。アルバムタイトルは本当は「ピンク・プッシー・キャット」なんだけど、ビクターがどうしてもダメだということで「ピンク・キャット」になった。
このアルバムをいま聴くと、あれがアン・ルイスに本当に合っていたかどうかは分からないけど。でも、彼女のスタンス改革に寄与したという意味では、少しは貢献したと思うよ。
その意味では、大いに彼女にプラスになったのは、その後にやったシングルの「恋のブギ・ウギ・トレイン/愛・イッツ・マイ・ライフ」(79年12月発売)だと思う。なんでそんなにディスコが好きなのに、ディスコ・サウンドが一曲もないんだ、と思って作ったんだ。もろディスコじゃなきゃダメだよ、って言って作ったのが「恋のブギ・ウギ・トレイン」なの。そういう機会がないと、ああいう曲は作らないし。あれがなかったら、彼女が歌謡曲路線から離れて「ラ・セゾン」まで行かなかっただろうね。コレはシングルだけだったけど、僕に頼むと予算が掛かり過ぎるということで、それから先をやらなかったんじゃないかな。その後、僕には声が掛からなかったからねw 
でも、僕自身、ここいら辺りから大忙しになるから、オファーがあっても出来なかったな。
【第25回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第24回 クールスNY録音と、大阪での「BOMBER」ヒット 78〜79年

<クールスのレコーディングで度胸は付くもギャラは無し>
GO AHEAD!(78年12月発売)のレコーディングが終わって、すぐにクールスのニューヨーク・レコーディングへ行った(アルバム「NEW YORK CITY N.Y.」79年3月発売)。
その仕事の結果、ヤンキーが怖くなくなったw ヤンキーというのは関西用語で、東京では当時ツッパリって言ってたけど、とにかくクールスと仕事したおかげで、リーゼントと革ジャンに対する偏見が全くなくなった。それはその後、シャネルズと出会った時なんかに、とても生きたね。
あと、ロックンロールの音作りをあの時代にやれたことも、とても良かった。シュガー・ベイブ時代は日本のフォーク・ロックの初期段階で、自分たちの音楽スタイルを厳しく自主規定しないと、個性化、差別化が出来なかったから、ロックンロールなんてCM以外じゃやらなかった。ソロになっても、あの頃のスタジオ・ミュージシャンはロックンロールをむやみに毛嫌いしてたから、そういう曲調は賛同を得られなかった。意外かつ幸運なことに、クールスはとても演奏力があったんだ。リズムセクションのグルーヴがすごく良かった。そして何よりクールスのメンバーには、ジェームス藤木という優れたメロディメーカーが居た。彼の作品は本当にクオリティが高くてね。ギタリストとしても素晴らしかった。だからスタジオ作業自体はとても楽しめたよ。
予算は分からない。あの当時はプロデューサーといってもあくまでサウンド面だけのことでね(アルバムのクレジットには”SOUND CREATIVE PRODUCER”と表記)。バジェットとか、そういう生臭い問題にはほとんどタッチしてなかった。それどころか、結果的に僕はあのクールスの仕事では、ギャラを一銭ももらえてないんだよ。だから、経験を積んだだけ。あとはNYでレコードを買えただけでw いまだにその辺は、何が何だったのか分からない。マネージメントがいい加減だったんだろうけど、とにかくタダ働きだったことは事実でね。でも、まあ1978年のNYでレコード漁りができたことだけは、あの仕事に感謝してるよ。あの時は、自分の貯金を全部おろして行ったんだ。
ちょうど、エピック・ソニーの堤光生さんがNYに居たので(当時エピックソニー洋楽エグゼクティブとしてNY在住)、彼に中古レコード屋をたくさん教えてもらってね。「山下くんはドゥーワップが好きだから」って連れて行かれたのが、グリニッジ・ビレッジのフリーマーケットみたいな場所にあったレコード屋、というより屋台だね。段ボール箱に入れて売られていたシングルは、全部ドゥーワップで、もちろんオリジナル盤が中心だった。そこに、レコーディングが休みの日曜日ごとに通いつめてね。欲しいの選り分けていると、店の太った白人の親父が「順番を変えるな」って怒るの。「いやこれ欲しいから」って。初めはうさん臭げに見ていたけど、まぁあの当時、20代のロン毛の日本人が狂ったようにドゥーワップのシングルを漁っているんだから、無理もないよね。3回目の訪問くらいから愛想が良くなってきて、そうなると今度はいろんなものを持ってきて「これ持ってるか」「なんだ、こんなものも知らないのか」てな具合でw だけど結構親切に教えてくれるんだ。「これはセカンドプレスだ」とか「これはリプロ(複製)だけど、オリジナルなんてお目にかかれないから、これを買っておいたほうがいい」とかね。そこでトランク2個分のシングルを買った。まだ1枚が3ドル、5ドル位の時代で、そのうえ当時は1ドル180円の比較的円高だったので、たくさん買えた。あの時に買ったものが、今でも僕のメイン・コレクションなんだ。それで所持金は一銭残らずレコードに使って、それでも足りなくて、クールスのスタッフにアドバンス(前借り)してもらって、それでまたレコードを買った。まぁあれがギャラみたいなもんだったかもしれないけど、後から思えば、あの時にもっとアドバンスしてもらえば、よかったんだよなw
レコーディングはプラザ・サウンドという、ラジオシティー・ミュージックホールのビルの7階から8階にあった古いスタジオでやったんだけど、レコーディング期間はそれなりにあったんだよ。
ただ、レコーディングの後半にニューヨークでライブをやる、っていう話が持ち上がってね。CBGB’sか、マクサス・カンサスシティのどっちかでやりたいって。どちらも当時のニューヨークでは、代表的なロックのライブハウスだった。ところが、それがマネージメントの主導権争いから手違いが起こって、ダブルブッキングになってしまった。CBGB’sとマクサスが、同日、同時刻のまま「ビレッジ・ボイス」に出演告知が載ってしまったの。2つのライブハウスは、見開きページ左右でスケジュールが出ていたので、大変なことになった。結局はマクサス・カンサスシティになったんだけど。
でも僕は、お願いだからライブなんかやめてくれ、ってずっと言ってたんだ。レコーディングしていて、歌入れも終わってないんだからって。でも結局やることになって。だけどライブをやるとしたら、楽器は誰が運ぶんだって。スタッフ連れてきてないどころか、基本スタジオでの作業は、ドラムス、ギター、ベースから、僕が全部ひとりでセッティングして、チューニングもしてたんだからさ。で、結局はレンタカーを借りて、それに僕が楽器を積んで運転して、ひとりでライブのセッティングをしてやった。要するにひとりでローディーをやったわけ。クールスの連中はリムジンで乗り付けて、ヌンチャク振り回しながら入ってきたw 
演奏自体はまぁ無事に終わったんだけど、案の定、シンガーが声を枯らしてレコーディングが中断。どうしようもなくて実は1曲、僕が部分的に歌っているんだよ。巻き舌の歌い方を真似してねw そのおかげでレコーディングが3日も押したの。我々の後にスタジオに入る予定だったのが、ロバート・ゴードンだったんだけど、向こうのプロデューサーと交渉して、スケジュールを3日だけ空けてもらった。どうやってやったのか、今では全く覚えてないんだけど、とにかく自分で交渉して、お金まで決めてるんだよね。まさに窮すれば通ず(つうず)でね。それで、ようやくミックスが間に合って、マスタリングもアメリカでやって帰ることになっていたので、ひとりでスターリング・サウンドでマスタリングに立ち会って、ラッカー盤を持って、帰ってきた。たったひとりきりで、よくやったよね。忘れられないよ。ああいう経験をすると、度胸がついて何も怖くなくなる。きっとあの調子で1年くらいいたら、英語も結構しゃべれるようになったんだろうけどねw
結局ああいうのって、放り出されて覚えた仕事だから、決して忘れられないんだよ。これは後で聞いた話なんだけど、クールスがトリオレコードに在籍していた時代に、A&Rを担当した人間は全部で7人くらいいたらしいんだけど、その中で肉体的制裁、つまりヤキを入れられなかったのは、僕だけだったそうw
だって、僕は本当に一生懸命やったからね。おそらく他のA&Rには、彼らの音楽性に対して、素人くさいとか下手だとかで、どこかで馬鹿にしてるとか、そういう部分があったんだろうね。僕はそういう感情は皆無だったからね。確かにスタジオ・ミュージシャンのような上手さはないけれど、そんなものロックンロールには不要だもの。バンドとしてのまとまりもあったし、音楽に対する真摯さもちゃんとあった。だから、それを受け止めて、ちゃんと正面から向き合えば、言うことも聞いてくれた。例えばニューヨークでは9曲録ったんだけど「収録時間が長いから8曲にしたい、そうしないとレコードのカッティング・レベルがしょぼくなる」っていうのを説明するのが、大変だったんだ。ホテルで6対1で話するんだけど、「せっかく録ったのになんで入れないんだ」って言われて、「スターリング・サウンドっていう、アメリカで最も優れたカッティングができる所で、せっかくやるんだから、良い音にしたい」って言うと「カッティングってなんだ」って。でも、最終的には全員納得してくれたよ。
メンバー以外にレコーディングに来てたのは宣伝部長だけで、毎晩どっかで飲んでたw だから僕はプロデューサー兼現場の手配とか、まぁ通訳はいたけど現場の段取りに関してはそんな感じで。僕、そういうの、その前にも後にもたくさんあるんだよ、ひとりでやらされるのって。おかげでいろいろ覚えられたけどね。
   
<すべては「BOMBER」から始まった>
ニューヨークから帰って、すぐに渋谷公会堂のライブだね、初めての渋公、78年12月26日。このときのバックメンバーは豪華と言えば豪華で(POPPIN’ TIMEのメンバー)、どうしてこうなったか、多分リハーサル時間がすごく少なかったから、短時間であげないといけないので、やっぱり譜面に強い人たちって、そうなったんだと思うよ。この時のステージで覚えているのは、3曲目で気管支に唾液が入ってむせて、声が出なくなったり、それは覚えてるなぁ。
この時期の小杉さんの僕に対する路線は、ほぼ全部、桑名くんのやっていたことの踏襲なの。大ホールでワンマンライブをするとかね。桑名くんは中野サンプラザで最初にソロライブを始めたんだけど、最初の頃はかなり動員に苦しんでた。で、その次は僕の渋公。僕のほうも最初はきついと思ったんだけど、1600〜1700人入って、思ったより動員が良かったので、ソーゴーのスタッフも驚いていた。で、内容的にもソーゴーのトップの人が好きな音だったので、本腰を入れてやってくれるようになったんだ。
だから、本当にいろんな意味で、この時期がターニングポイントなんだよね。あとは時代が変わっていく時に、自分の音楽性が持ち上げられて行くのか、沈んで行くのかっていう。それは時代との、ほとんど偶然性なんだ。だって「PAPER DOLL」や「BOMBER」みたいな曲、昔は作らなかったもの。
あとGO AHEAD!では、オリジナル・アルバムでは初めてのカヴァー「THIS COULD BE THE NIGHT」をやったでしょ。カヴァーをやろうということも、当時はかなりプロデューサー的発想だよ。「THIS COULD BE THE NIGHT」はやりたかったんだ。エンジニアが吉田保さんだったでしょ。スペクターっぽい音だったら吉田さんだなって思ったの。78年の前半あたりにウエラのシャンプーのCMをやったのね。結局採用にはならなかったんだけど、その演奏を僕は一人多重でやったんだよ。それはビーチ・ボーイズの「LITTLE SAINT NICK」みたいなオケを目指してて、吉田さんにビーチ・ボーイズの「クリスマス・アルバム」を持っていって、聴かせたの。そしたら、これはオフ・マイクを立てて録ってるんだよって。で、オフ・マイクをドラムに立てて、そのテイクはなかなか良かったんだ。それで、ちょうど76年か77年にイギリスでフィル・スペクターのレアマスター盤が出たでしょ。あれで、生まれて初めて「THIS COULD BE THE NIGHT」を聴いたわけ。いい曲だとは思ったけど、あの曖昧な調性のベースを、もっと普通に戻してやった方が綺麗に仕上がるんじゃないかと思って、それでカヴァーしたんだよね。
レコーディングは音響ハウスで、ちょうど同時期に桑名くんのアルバムを作ってて、僕のセッションの前が桑名くんのリズム録りだった。で、トン(林敏明)のドラムがセッティングされてたので、それをそのまま借りて叩いたの。あの頃はしばしば桑名くんのスケジュールと並行してやっていたからね。
この頃になるとRCAもビューティーペアしかヒットがなかった頃は抜け出しかけてて、まりやがヒットしたり、越美晴ちゃんがヒットしたり、桑名くんが売れてきたりしてたし、なんたってYMCA前夜だからね、(RCA所属の西城)秀樹の。
だけど、多分小杉さんにとって意外かつチャンスだったのは、このあとのMOONGLOW(79年10月発売)の前の頃になると、会社は僕のアルバムが意外と堅いって評価するようになったのね。というのは、返品率が非常に小さいので、グロスはそれほどでなくとも、利益率が結果的に高くなる。あの当時、アルバムというのは単価が高かったので、歌謡曲でも、それほどメガに売れる時代じゃなかった。だけど、しばしば数字かせぎによる過剰出荷の結果、返品が激しくなって、利益率が下がるという。その点、ロック、フォーク、ニューミュージック関係はほとんど返品がなかった。なので、レコード会社がこっちにちょっとシフトしたっていうか。
MOONGLOWがロングセラーになったでしょ。やっぱりシングルよりアルバムが売れると、売り上げ幅が大きいからね。そういうところがちょっと、その後のブレイクの前哨戦というか。そう考えると、色々なことがあったね。
周りが変化し始めた。要するに乗っけられてきた。それまで僕は、完全に自分の意志で作ってるわけ。だけどここからは、特にMOONGLOWは完全な座付きだものね。例えば、ライヴでやれるような曲を作らなきゃいけないとか、ファンク路線で行くとか「BOMBER」が大阪でウケたんで、その延長なんだよね。だから仮にあの時に「潮騒」がウケてたら、ルパート・ホルムスとか、そういうふうになったかもしれないし。それも運命だよね。それまでは1曲たりとも、そういうパイロットっていうか、突出した曲はなかったから。だから全ては「BOMBER」から始まったんだよ(シングル「LET’S DANCE BABY/BOMBER」79年1月発売)。
それまでシングルは出してないからね。アルバム・アーティストと呼ばれてたわけだから。だから「LOVE SPACE」なんかはマニアには評判高かったけど、あれは一般受けする曲じゃないから。それで石原くんはGO AHEAD!(79年12月発売)のプロモーションをやるときに「BOMBER」を聴いて、これをディスコで仕掛けようって、年末から動き始めたんだよね。それが1月になって火が突き出して。だからいろんなファクターが入ってる。面白いよね。
   
<GO AHEAD!はオーディオ的には素晴らしいと思う>
GO AHEAD!のジャケットは、POPPIN’ TIMEと似てるというか、同じなのw 予算も時間もなかった。あの当時はRCAに限らず、レコード会社にはデザインルームっていうのがあって、放っておいたらそこに回される。だけど当時のデザイン部門は、普通の会社員が部署配属でやっていたんで、アマチュアもいいとこだった。ミスプリは日常茶飯事だったし。
だから最初は外部のデザイナーに頼んだんだけど、そっちはそっちでギャラが高くてね。この時代はとにかく予算がなかったので、ペーター佐藤さんに個人的にお願いして、全部やってもらって、イラストも3日で上げてもらったんだよ。だけど、新しいアーティスト写真なんてなかったから、以前の写真の使い回しでイラストを描いてもらったので、同じものを着てるという。よくある話なんだけどさ。でもアイズレー・ブラザースも同じ写真を使って、アルバムを作ってたりするよw そんなふうにGO AHEAD!の時は全てに切羽詰まってたの。自分としては変な気分だった。みんなに言われたもの、まとまりがないって。
でも勢いはある。だってメンバーに気を使ってないからね。「BOMBER」なんて椎名くん、自分で何をやってるのか、分からなかったんだもの。なんでこんな音で、俺が弾かなきゃならないんだってw で、あれよあれよという間にレコーディングが終わっちゃって。でも彼にとって、あれが人生最高のソロだっていうから、人間わからないよね。どう弾くかは指示はしたんだ。でも本人は何をやってるのか、よく分からない。もちろんギターソロのところは譜面じゃないけどね。
あのアルバムは16チャンネルでレコーディングした最後なのね。だからその後の24チャンネルとはダイナミックレンジが全然違うんだよ。いい音してるんだよ。ずっと後になって吉田さんが「いい音してるね」って感心していた。自分で録ったのにねw あとRCAの第一編集室ってすごくシンプルなスタジオで、ラインの引き回しもめちゃくちゃ単純だったの。テレコもマイクに直繋ぎみたいな機材だから、それでかえっていい音がしたんだよ。ドルビーもないし、エコーマシンは1台しかない。オーディオ的には素晴らしいと思う。
あの時代はオーディオ的には非常に優れていたと思う。だから音楽的にも、いろんなスタイルが無理なくやれてる。ファンクから、ストリングスが入ってるバラードから、スペクターサウンドもあるし。今更だけど録音ってすごく重要で、同じ演奏をしていても、録り方で全く印象が変わるから。
このアルバムは本当にアナログ的な音でね。1曲目の「オーヴァーチュア」のアカペラとかもさ、あれも第一編集室で録ってるんだけど、素晴らしい音だと思うよ。あとで他のスタジオで録ったものよりも、全然いい。だから、そういういろんな意味で、過渡期っていうかね。腐りかけの時が一番旨いというw 腐りかけっていうのは、もう自分がやめようと思ってたからね。もうこれで、終わりだと思ってた。「BOMBER」の大阪のヒットがなければ、おそらく絶対に続けてない。だから「BOMBER」のヒットでは、本当に狐につままれた。あれで、客層がガラッと変わったのね。
僕はディスコなんて全く無縁。でもここから先、79年はもうディスコばっかりになったよね。アン・ルイスにしろ、何にしろ。不思議な1年だった。得体の知れない感じ。
ただ、これでレコーディングはいいとして、ライヴは不安だった。やってなかったし。でも昔とった杵柄というか、シュガーベイブ時代の感じを体が覚えてて、ライヴに出て行ったら、出来た。でなければ、渋谷公会堂で一発目なんか出来るわけないよね。運だよね、本当に。小杉さんがひとり頑張っただけっていうか。
GO AHEAD!のセールスは、前の2枚よりは格段に良かった。やっぱりそれは「BOMBER」のせいなの。このアルバムは総数の半分は、大阪で売れたんだよ。それまではほとんど、東京だけの売り上げだったからね。それでツアーに出ろ、という話になってきて。ソーゴーもやる気になってたし、それで79年6月から東京の日本青年館、大阪サンケイホール、名古屋の雲龍ホール、福岡の電気ホールの4か所でツアーをして、その間に次のアルバムのレコーディングを始めたの。
で、ちょうどその頃に青山純伊藤広規が出てきたのね。とあるイベントでにたまたま吉田美奈子が出た時に、二人が出てて、いいのがいると教えてくれた。それでセッションで何回かやって少しづつ練習して、ツアーメンバーを変えて行ったの。本当に運命って不思議なもので、このあたりからブレイクに向けてのぼり調子でずっと行くんだけど、その過程でメンツがそろっていくんだよ。次のMOONGLOWの前にシングル「愛を描いて〜LET’S KISS THE SUN」(79年4月発売)があるね、いよいよタイアップ(JAL日本航空)が始まるんですよ。
       
<”夜ヒット”に出ていたら別のストーリーがあったんだろうね>
そういうふうに売れていくようになると、スケジュール的にもやっぱり、スタジオ・ミュージシャンのリズム・セクションでやってるのは、辛くなるんだよね。リズムをポンタたちでなくしたのは、他にも色々と理由があって。
例えば78年12月にGO AHEAD!を出したときに、フジテレビの「夜のヒットスタジオ」に出るという話があったの。番組側はOKだったんだけど、ミュージシャンのギャラや日程が全く合わなくて、実現しなかった。だからツアーとかそういうものをやるためには、もっと小回りのきく、自前のバンドじゃなきゃダメということになって。だったら、一番やりやすいのはGO AHEAD!の録音メンバー(ユカリ、田中、難波、椎名)だろうって。そこにコーラスで美奈子やター坊に入ってもらって。で、やりながら少しづつメンバーを替えていって、リズムセクションが青山と広規になってから、サックスに土岐さんを入れた。
土岐さんを入れたのは、サックスが欲しかったんだけど、いかにも歌伴専門というサックスは嫌だったのね。これはいつも言ってるけど、基本的に僕はジャズクラブで吹いている人しか、ジャズとして認めない体質なのでね。そういうことがいろいろあって、土岐さんが一番知的というか、上品なプレイをする人だったんで。
で、夜ヒットだけどね、もしフジテレビと予算の折り合いが付いていたら、出てたと思うよ。だって、その予定で進んでたしね。テレビに出たいとか出たくないとか、そんなこと言える時代じゃなかったもの。だからその後は、テレビの歌番組に出ないままでブレイクしたから、もう別にいいやっていう結果論的発想だから。だってCMには出たんだからね、騙されてたけどw
でも、あの時本当に「夜ヒット」に出ていたら、また別のストーリーがあったんだろうね。それも歴史の不思議だけどね。
【第24回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第23回 78年、POPPIN’ TIMEからGO AHEAD!へ

<新曲はリハ前の2週間で作ったんだ>
IT’S A POPPIN’ TIME(78年5月発売)の新曲は、ライヴをやる2週間くらい前に作ったかな。正確にはリハーサル前の2週間だね。ライヴを想定して「雨の女王」と「シルエット」、あと「エスケイプ」だね。それとカヴァーをやろうということで、ブレッド&バター「ピンク・シャドウ」と(吉田)美奈子の「時よ」をやった。それと別にレコーディングした「スペース・クラッシュ」、資生堂CMをフルヴァージョンでひとりアカペラにした「マリー」。だから新たに書いたのは4曲、あとはアカペラだね。「PAPER DOLL」はこれ以前にレコーディングしてたけど、その時点では未発表なので新曲扱いで計6曲。それと洋楽カヴァーで「Hey There Lonely Girl」があって。だからライヴアルバムの流れとしては、割と理にかなっていると思うんだ。なので、そうした内容でやるには、2枚組じゃないとダメだったんだよ。
当日の演奏曲順で言うと、アナログ盤のB面は「WINDY LADY」から始まるけど、あの演奏の前に「わーっ」と声が入ってるでしょ。あれはアナログ盤には入ってなかった1曲目の「LOVE SPACE」が終わった後の歓声なの。2002年のリマスターCDにはボーナストラックとして入ってるけどね。
3曲目が「素敵な午後は」で、そのあとが確か「雨の女王」。ここら辺からちょっと違ってくるんだけど。アルバムの曲順が、あの並びになったのは、新曲やカヴァーをA面にしたかったからで、実際はB面の中頃にA面のライヴ曲が入ってくる感じだね。実際のライヴで、アタマから新曲をやってもしょうがないからね。だから、実際の現場では、ライヴが始まってしばらくしてから「今日はライヴレコーディングをしています。アルバムのために新曲をやります」って言ってるの。C面、D面は、ほぼあの流れかな。「SOLID SLIDER」の前あたりに、これもアナログには入ってなくて、CDのボーナストラックになってるラスカルズの「YOU BETTER RUN」のカヴァーをやってるね。
ライヴのリハは3〜4日間だったかな。リハでやったのはほとんど新曲のみ。だって既に一年ほどやってるメンバーだったから、既成の曲はもう慣れてるし。そもそもライヴアルバムで行けるなと思ったのは、彼らはスタジオミュージシャンの集合体なので、いつもは譜面なしじゃ演奏してくれないんだけど、あの頃には「CIRCUS TOWN」や「SOLID SLIDER」はもう皆ほとんど譜面なんか見てない。パターンミュージックだからね。だから、これくらいまで行けば、ライヴを録っても大丈夫だなと思ってね。
メンバーとの関係はすごく良かったよ。でもこの後から少しづつ、たとえば坂本くんがYMOにシフトしたりとか、ちょっとづつ皆が別の方向を向き出して行くんだよね。一人一人は技術的に非常に高いけど、全体の協調性とか必然性っていうのは、元々そんなになかった人たちだからね。あくまで僕個人の人選だったから。
メンバーからのピットイン・レコーディングの感想? あの人たちはね、僕の作品とか歌に関して、当時は感想らしい感想を言ったことがないんだ。ポンタだけかな。ポンタは「これは気持ちいい」とか時々言うことがあったけど、他の人たちは、あとになったら色々言ってくれたけど、その頃はほとんどなにも感想を聞いたことがない。まあ、それは東京特有のツッパリっていうか、特にあの時代のミュージシャンの空気っていうかね。あの頃は本当にミュージシャンに気を使っていた。特にスタジオ・ミュージシャンにはね。それがなくなるのは80年代に入って、自前のリズムセクションを得てからだね。
     
<「ピンク・シャドウ」はあのメンバーじゃなければ、ああいうアレンジにはしなかった>
日本語カヴァーで「ピンクシャドウ」を選んだのは、好きだったから。あと、正直なところ、あの曲のオリジナルアレンジがあまりピンとこなかったんだ。あの曲だったら、もっといい展開が作れるんじゃないかと思って。オリジナルは、良く言えばレイドバックしてるんだけど。でも、あの曲はもっとスピード感のある、ダイレクトなアレンジにした方が映えると思って、ああいうふうにしたんだ。
ブレッド&バターは大好きだよ。良い曲が多いし。作品的にブレバタは素晴らしかった。なんであの曲をああいうアレンジにしたかは、もう一つあって、要するに上手いスタジオミュージシャンって、簡単に演奏できるようなアレンジだと真面目にやってくれないの。あの人たちをキリキリ舞いさせるようなアレンジじゃないと、真面目にさせられない。だから「シルエット」とかでも、分数コードとか、変拍子が延々続く、ああいうんじゃないとダメなんだ。彼らの抜群の読譜力と演奏力に対して、音楽としての難易度、演奏の難易度を高めて、これは寝てちゃ出来ないと思わせるくらいでないと。上手いミュージシャンは得てしてみんなそうなんだけどね。
あとはあの時代、スタジオ・ミュージシャンには8ビートは嫌われていてね。16ビートじゃないとバカにするというか。だから、ひたすら16ビートの曲。よく言うけど、座付き作家みたいなもんなんだよ。メンバーを想定して中身を考えていく。完全にそう。だから「ピンク・シャドウ」はあのメンバーじゃなければ、ああいうアレンジにはしなかった。
その後、この曲は青山純伊藤広規たちともライヴでやっているんだけれど、それもまた素晴らしい出来なんだ。よりバンド・サウンドになっていてね。まだCDにはしていないけれど「JOY2」とかチャンスがあれば出したいなと思っている。今のメンバーでも練習してるので、近いうちにライヴで久しぶりに聴けるでしょう。
ともかく、この時代には、どうすればこのメンバーで最大の効果が挙げられるか、ということを考えてやっているの。でも結局、いつもは違う仕事をしている人たちが、寄り合いで集まってくるから、それがスタジオ・ミュージシャンを使うことの限界。スタジオ・ミュージシャンは、どこまで行っても、やっぱり他人の持ち物だから。彼らに求められるのは、その人だけの音じゃない。だけど、こっちは自分だけの音を出したい。だから相手が気づかないうちに、そういうものを構築するにはどうやれば良いのか、考えなくてはならなかった。まあ、それはある程度までは出来たけど、でも、それが本当に自分がやりたいスタイルでは無かった。本当にやりたかったのは、もうちょっとシンプルな発想。それは、あまりうまく言えないけど。
だから、僕はこのリズムセクションよりも、GO AHEAD!(78年12月発売)のリズムセクションの方が好きなんだ。世評はどうであれ、僕はあっちの方が好みなんだよ。「PAPER DOLL」とか「BOMBER」とか、ああいうトラックの完成度の方が、僕は好きなの。でも、まあしょうがないんだよね。同じ技量でも、そこから先は音楽的嗜好になっていくから。それは演奏家として誰が良いとか悪いとかいう問題とは、全く別なんだ。だけど、長い目で見るとね、ちょっとだけ不器用な方が好きなんだよ。そういう方がロックンロールに思えるんだ。
でも、POPPIN’ TIMEみたいに短時間で仕上げることを要求されるセッションは、やっぱりああいったメンバーじゃないと出来ない。それが音楽として本当に好みかっていうと、すごく難しいところだけどね。それは本当に偶然というか、巡り合わせに近いものがある。自分の意見じゃどうにもならない。
例えば、まりやの「元気を出して」なんて難しい事は何もやってない。だけど、何十年聴き続けても、あのトラックはいいトラックなんだよね。それが何でかはわからない。それは自分の作品に限らないことでね。たったこれだけのことしかやっていないのに、どうしていいんだよっていうのがある。その違いを生み出すものが何かはわからないんだよ。
でもまぁPOPPIN’ TIMEの不満を言えば、「エスケイプ」みたいな長い曲だったら、もうちょっとメンバーに、この曲に対する自分の役割みたいなことを表明してもらえたら、もっと良いトラックになったのに、っていうのはあるかな。それはやっぱり思想的な問題なんだよ。今だったら途中でエディットしちゃうかもしれないね。「エスケイプ」は、雑誌を読んでいたら「ナウなシティーボーイとシティーガールのための総合誌」とかそういうキャッチフレーズがあったんだ。大体僕らの音楽は、シティミュージックと言われてたでしょ。それでずいぶんライターと喧嘩したの。「僕はシティミュージックとかニューミュージックじゃないんだ」「なんで?」とか。そういうものが鬱屈しているっていうか。まぁ要するに、あの時代は世の中を恨んでたんだよ。だから10年後の「The War Song」と比べれば違いがわかるでしょ。冷静でしょ。だからその10年は大きいんだよ。本当に「エスケイプ」は頭脳警察みたいなことをやってたんだよ、歌詞的にはさ。明るい感じじゃ全然ないしね。
六本木PIT INNはすごく演りやすかった。お客も良かったし。あの時は確か外部PAが入ってたんだよ。モニターもあったと思う。メンバーはヘッドフォンでやってた記憶があるな。ビルの上のスタジオから返してね。ライヴは2日間で、採用したのは全部2日目の演奏。1日目と2日目の演奏が極端に違うんだよ。そういう人たちなんだね。
もしPIT INNがまだあったら、またやってみたいと思うね。彼らがいいっていうんだったら、このメンバーでもやってみたいね。
   
<この年の6月にキングトーンズに「LET’S DANCE BABY」を書いた>
2枚組POPPIN’ TIMEのレコードとしての反響は分からないなあ。もうそういうことに関心が無かったから。発売が5月で、この時には全国をまわって、キャンペーンはやってるんだよね。
SPACYの時はキャンペーンやってないからね。CIRCUS TOWNの時はやったけど、SPACYの時には、やれなかったという感じかな。
キャンペーンの反響は、このアルバム内容でしょ、全然だった。ただ、ひとつのターニング・ポイントとなったのは、石原孝くん(のちのムーンレコード創設メンバー)だった。石原くんは元々RCAの洋楽に居たんだけど、POPPIN’ TIMEが出る頃には大阪の宣伝部に移動になってたんだよ。それまでのRCAの大阪の宣伝担当は演歌べったりで、ニューミュージックなんかハナからやる気がない。だから僕に関しても全く何もしてくれなかったんだけど、そこに石原くんが行ったので、小杉さんはこれがチャンスと思ったんだろうね。今でも覚えてるけど、大阪のビジネスホテルで、小杉さんと僕と二人で石原くんを説得して、俺たちをやってくれ、って。そこから石原くんが動き始めて。それがGO AHEAD!(78年12月発売)の「BOMBER」のブレイクに繋がるんだよ。ここが一つの突破口になったんだ。桑名(正博)くんのブレイクも、それなしには語れない。そんな動きがあったのがPOPPIN’ TIMEのプロモーションの時なの。種まきだね。
石原くんがレコードを持って、色々放送局とか行くんだけど、けんもほろろというかね。そこから石原くんが燃えるわけ。彼は結構ファイトマンだから。
POPPIN’ TIMEが出たあと、ある音楽出版社から、ウチと契約しないか、って誘いが来たんだよ。当時契約していた会社が、あんまりやってくれないというのもあって、じゃあ移ろうかと、小杉さんに相談した。
そしたら小杉さんに説教されて、残留ということになった。小杉さんはもともと僕がそんなに売れるとは思ってなかったんだけど、でも「音楽的に自分の好きなことを形にしていこうと思うんだったら、今のままでやった方がいい」って。僕は25歳だったけど、人から説教されたなんてことは殆どなくて、それで色々と考えた。あの時に色々言われたことが、僕と小杉さんの人間関係を強固なものにして、それが現在まで続いている。それが78年7月のことかな。渋谷の公演通りの喫茶店だった。
あとキングトーンズに「LET’S DANCE BABY」を書いたのが6月かな。キングトーンズはJ&Kという、小澤音楽事務所の系列会社に所属していたのね。当時そのJ&Kの人が僕にCMの仕事をくれていたんだけど、どこかのレコード会社に行った時かな、その人の知り合いに偶然会って、「いいところにいた。探してたんだよ」と。「実はキングトーンズのアルバムを作っていて、全曲吉岡治さんが詩を書いてるんだけど、3曲作って欲しい。他の曲は梅垣達志さんで、アレンジも全部梅垣さんなので、曲だけでいいので書いて」って、そのまま詩を渡されて。期日が迫ってるからと、それで大急ぎで3曲書いた。
「LET’S DANCE BABY」「TOUCH ME LIGHTLY」、それにもうひとつ「MY BLUE TRAIN」っていう。で、その頃にGO AHEAD!のレコーディングが始まるんだよ。でもこの頃になると、何故かスケジュール帳に予定が書いてないんだよね。
そうか、事務所だね。事務所を作ったんだ(ワイルドハニー?)。契約していた音楽出版社は、プロダクション業務を行なって無かったので、事務所を作った。数ヶ月しか続かなかったけど。その事務所でやったのが、キングトーンズとクールスなんだね。クールスの仕事は雇った新しいスタッフの一人が持ってきた。
で、9〜10月くらいにGO AHEAD!(78年12月発売)のレコーディングが始まるんだけど、レコーディングメンバーがポンタたちだとギャラが高いから、もっと安いプレーヤーを、という要求が出てきて、それでユカリ(上原裕)と田中(章弘)くんにした。それで下北沢ロフト行ったら、山岸潤史のライヴをやっていて、難波(弘之)くんがキーボード弾いてて、彼はちょっと知り合いだったんだけど、彼のキーボードが良くて。それで「レコーディング手伝ってくれないか」って声を掛けた。僕の人生の中で、自分から声を掛けたっていうのはすごく少ないんだけどね。あと、ギターの椎名和夫くんは昔からの知り合いでね。
それで、ユカリ、田中、難波、椎名の4人でレコーディングしようと。そうすれば、予算がかなり軽減される。要するにメンバーを替えたのは、制作費の問題だったという。別に演奏家としての技量が劣っているわけでも何でもないんだけど、「器用度」が落ちると、スタジオミュージシャンとしてはギャラのランクが低くなるという、不思議な世界。
それが9月頃で、その時点ではアルバムのイメージは全く浮かんで無かった。GO AHEAD!のライナーノーツにも書いてあるけど、全くモチベーションが上がらないの。キングトーンズの3曲も、苦しんで書いた。なかなか出来なくて。発想がわかないんだ。
GO AHEAD!の中で書き下ろしたのは「BOMBER」「潮騒」「ついておいで」「MONDAY BLUE」の4曲かな。「PAPAER DOLL」と「2000トンの雨」はありものでしょ。「LOVE CELEBRATION」は細野さんがプロデュースしていたリンダ・キャリエールのために書いた曲だったし、「LET’S DANCE BABY」はキングトーンズ。確かレコーディング初日に録ったのが「BOMBER」と「ついておいで」で、場所は音響ハウス。リズム録りは音響ハウスで、あとはRCAの第一編集室でダビング。1日だけポンタたちのリズムセクションにして、ポンタ、岡沢さん、松木さん、佐藤くん、SPACYの類似メンバーだね。このセクションで「MONDAY BLUE」と「TOUCH ME LIGHTLY」を録ったんだけど、「TOUCH ME LIGHTLY」は次作のMOONGLOWに回した。
    
<自分のソロでのビジョンが全く出てこなかった>
「このアルバムが最後になる」ってGO AHEAD!のライナーノーツに書いたことは嘘ではなくて「このアルバムも多分売れないだろうな、そしたら、もうこれで終わりだろうな」って思ってたんだよ。そしたらその先は作曲家にでもなるんだろうなと思って。小杉さんはやる気満々だったんだけど、僕はそんな感じで。曲も書けないしね。だからGO AHEAD!はSPACYとは全く制作ポリシーが違うというかね。簡単にしなきゃいけないと思ったのね、曲を。聴いてる方が楽に聴けるというか。今までは曲調が難しすぎると思ったんだよね。
この頃、ツイストとかサザンが出て来ていて。だから、ちょっと分かりやすくしようかなと思って書いたのが「潮騒」とかになって。それを称して作家志向というわけ。(ツイストやサザンが出て来て)このままだと自分の出る番は無くなるだろうな、っていうのは、はっきり分かった。だって、彼らはある意味、歌謡曲の代わりに出て来てるわけだからね。それは時代の趨勢というもので、仕方がないとも思っていたの。
小杉さんがGO AHEAD!でイケると感じたのは、どうだろうねえ、あの人はすごく不思議な人だからね。あの人の計画性って、他の人とは違う。いわゆるロックのA&Rとは毛色が違う。だから、今でもよく分からないところがあるんだけどね。
GO AHEAD!を作り始める頃に、桑名くんの「サード・レディー」がヒットし始めてたんだよね。何しろ小杉さんは、松本隆筒美京平の歌謡曲コンビで、桑名正博をヴォーカリストにしちゃったわけだから。次は、その波が僕に来るのかな、と思ったんだよ。ヒット路線でさ。で、レコーディングが始まる時に言ったんだよ。「僕もあれで行くの?」って。そしたら「君にそんなことできるわけないじゃん。君には君に合ったやり方で行く」って言うの。だから彼の中では、僕は桑名くんみたいに、オリコン1位のメガヒットを出してっていう、そういう存在じゃなかったんだよね。「食べていく分には全く大丈夫だと思ってる」とは言われてたw
で、レコーディングは進行して、ミックスダウンになって、小杉さんが会社から無理矢理に、他の仕事で韓国に行けと言われて、立ち会えなくなったんだよ。ダビングの時は居たけど。ふざけてる!って小杉さんは怒ってたけど、社命だからどうしようもない。だから当時のRCAは、僕のプロジェクトをバックアップするなんていう体制じゃなかったんだ。人がレコードを作ってる最中に、担当A&Rを出張させちゃうんだから。その反面、少しはニューミュージックに力を入れるようになっていて、GO AHEAD!のレコーディングが始まる頃には、竹内まりやもデビューしていたし、越美晴もいた。当時、桑名正博、越美晴竹内まりやで3M作戦とか言ってプロモーションしてた。その流れには、僕は全く取り残されていた。
でも、明らかにここから変わってるんだ。ここがターニングポイントなんだよね。ここまでと、ここからなんだ。シングルでは「RIDE ON TIME」以前と以降。アルバムだとGO AHEAD!の前と後じゃ全然違う。
この頃になると、僕が音楽業界の仕事にある程度、習熟して来たっていうのも事実だけど、とにかく時代が変わりつつあった。ちょうどあの頃は、たとえばユーミンは「紅雀」から「流線型’80」への時代で。ユーミンもいろいろ試行錯誤して、あそこで変わっていくんだよね。細野さんもYMOをスタートさせるし、みんなターニングポイントを迎えているんだよね。逆に言えば、あの変化に無自覚だった者は、時代から取り残されて行かざるを得なかった。そういう何かがあったんだよね。
だから、僕としては、作家で生きていこう、作曲家しかないのかなって覚悟したというか。でも出来れば、レコード・プロデューサーをやりたかったんだよ。でもプロデューサーじゃ日本では生活できないから、作曲家かな、と。それと、もうひとつ重要な幸運があって、自分で意識しないうちに、編曲のノウハウがだいぶ身に付いてきた。SPACY以後、スコアの勉強とか色々やったでしょ。その上にスタジオ・ミュージシャンとの現場で色々もまれて、自分が書いた譜面と、実際の演奏の差異をどう埋めるかっていうね。
あと、坂本(龍一)くんのアカデミックな知識にも、とても助けられた。結果、シュガー・ベイブ時代のように、完全なワンマンで、僕があーせいこーせいと言ってたのから、若干変わってきて、相手の特質とキャッチボールしながら作っていく。ようは編曲家的なセンスが出て来たんだよね。それは、場数以外の何ものでもなくてね。振り返ってみても、あの頃のアレンジって、けっこういい仕事してるんだよ。クールスとか、うちの奥さんの「UNIVERSITY STREET」の「涙のワンサイデッド・ラヴ」や「ドリーム・オブ・ユー」のリアレンジとかもね。けっこう職業編曲家っぽくやれてるんだよね。
それに加えて、ユカリみたいに一緒にバンドでやってた人間も戻ってきたから、それをうまく利用してやってるっていうかね。ユカリは「LOVE SPACE」みたいな16ビートは不得手だから、GO AHEAD!ではそういう曲は完全に抜いてやってるでしょ。そういう判断がだいぶできるようになってたんだよね。
それでも、自分のソロはまた別物でね。もう、ソロで何かをするっていうビジョンが全く出てこない。それはアルバムのキャンペーンの時のイヤな感じとか、そういうことが、積もり重なって来たことも大きいんだ。売れないロックミュージシャンのキャンペーンって、哀しいんだよ。誰も自分のことを知らないっていうのはね。こっちもプライドが高いから、もうごめんだ、ってなる。だから、そういうのはもうイヤだなっていうのも引きずっていたんだ。
レコーディングが終わって、スタジオでマスタリングが終わって試聴した、B面最後の「2000トンの雨」がフェイドアウトしていく時に「ああ、これで終わりかな」と思ったの。それから何週間か後には、クールスのレコーディングでニューヨークに行くし、それでGO AHEAD!のことは忘れちゃった感じなんだよ。
【第23回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 外伝8 小杉理宇造インタビュー

<あの人とやってみたいな、それが達郎さんの最初の印象ですね>
僕はRCAで日本のロックをやりたかったんです。でも、日本のロックの分布図が分からなかったんで、牧村憲一さんに会いに行った。そしたら牧村さんが、荻窪ロフトでシュガー・ベイブの解散ライヴ(76年4月)があるから観に来ないかって。それが最初で最後に観たシュガー・ベイブw ライヴは素晴らしかった。歌が上手い人だなあと思った。ギターもうまいと思ったし、何よりもおしゃべりが素晴らしい。普通のミュージシャンっていう雰囲気はしなかった。僕は声の良い人が好きなので、やっぱりあの人とやってみたいな、っていうのが最初の印象ですね。それはいまだに変わらない。
だいたい同時期に見ていた人が桑名正博さんで、彼ももうソロになっていました。僕は歌が上手いことと、かっこいいというのが、アーティストを選ぶ基準だと思いますね。
CIRCUS TOWNのレコーディングでは、達郎さんからこういうメンバーでと言う提案が出て、僕は無から有を得るのは大変ですけど、質問されたら答えられるので。ボールは投げられた方が受け取りやすいですし。目の前のテーマをどう解決するかってことだけで、絶対にうまくいくとも思っていないし、ダメだとも思っていない。
まず、やるべき事は達郎さんから出された答案用紙に、答えを入れていくこと。つまりそれは、イコール、動かなきゃダメと言うことですよね。まず第一関門は、チャーリー・カレロというアレンジャー・プロデューサーをセッティングすること。住所も電話番号もわからない。だけどアメリカに電話すればわかるだろうと、RCAインターナショナルに電話したんです。向こうも「なんだこいつ」って思ったでしょうね。でも「I’m working for Tokyo RCA」って言ったら、教えてくれたんです。それで電話をかけた。自宅に。チャーリー・カレロはもっと驚いて「なんで俺なんだ」みたいな。「なんで東京から電話してきたんだ?」「実は、自分がこれからやろうと思う新人アーティストが、あなたのファンで、とても高名なアレンジャー・プロデューサーであるあなたと、ぜひお仕事をしたいと思ってる」「え?俺、東京で有名なの?」「いやあ、僕はよく分からないんだけど、ウチのアーティストがそう言ってて。お会いしに行きたい」と。それで本当にわずか数日で、ニューヨークに行っちゃったんですよね。
だからテーマがあれば、それに乗っかって動けば良い。ダメならダメで、ごめんなさいっていうことで。
で、第一関門突破。第二関門は達郎さんの作ったミュージシャンのリストを出したら、「これはわかる」とか「なんで、このベーシストなんだ?これじゃないよ、ベースは本当は」っていう話をチャーリー・カレロとして、80%は多分達郎さんの思い通りのミュージシャン。20%はチャーリーが「こっちの方が良い」と言うミュージシャンになったんです。
ミュージシャンへのコンタクトは全部チャーリーがやった。僕がコンタクトを取ったのはチャーリーだけ。彼からすれば、もうそんなの楽勝って感じのメンバーだったんじゃないでしょうか。
    
<NYで音が出てきた、グルーヴがすごかった>
NYのスタジオで一番に印象に残ったのはチャーリー・カレロがピアノを弾けないってこと。どうやってアレンジしてるんだろうって。これが一番びっくりした。それと音が出てきた時もびっくりして、ひっくり返りそうになった。嘘だろこんなの、生まれて初めて生で聴いたって感じですね。もう感動、グルーヴがすごかった。達郎さんの求めてるのはこれなのか、って思いましたね。
それと午前中からセッションしたのもびっくりした。会社員じゃないだから。夜中から始まって朝までやるのが、我々の慣例でしたから。それが逆転したからびっくりした。それにスコアがすごかった。なんとなくコードがあって、要するに決まり事があってというわけじゃなくて、びっしり譜面が書いてあるのを見て、嘘だろロックなのに、って思った。ドラムのフィルまで譜面があってね。それでグルーヴが出て、素晴らしい。NYは本当にそうでした。
ロサンゼルスに行くと逆にフリーな、そこでみんなでなんとなく譜面書き始めて、ちょっとリハーサルしながらって感じだった。達郎さんにとってはその対局を一度に見られた、東と西の文化を一度に経験できた事は良かったでしょうね。
ロスでミュージシャンの変更が起きた時、全部僕がクビにしていくわけ。「お前明日から来なくていいから」って。そしたら「俺、ダメなの?」って明るいわけ。「だめなんだよ」と。いつも達郎さんのせいにして「わかってないんだよー」ってw「俺はお前の演奏が好きだよ」なんて言いながら「わけわかんないこと言うだろ。だから明日は来なくていいから」って。それで他のミュージシャンにギタリストを替えてくれと。そういう感じでしたね。
コーラスも最初違ったんですよ。今思い出すと黒人のコーラスだったのが、達郎さん気に入らなくて。僕はいいじゃん、そこそこいけるよ、って思うんだけど、ダメなんです。困っちゃって誰を呼ぶか話しているところに、ジェリー・イエスターとか、そういう名前が出たら、達郎さん興奮し始めて、嘘だろって。「ジェリーでいいの? じゃあすぐ呼ぶ」「明日? OK!」みたいな。ビジネス的なNYとは逆に、本当にフレンドシップで楽しくやっていたのがロサンゼルスでしたね。
達郎さんのジャッジは尊重しましたよ。今に至っても、全て達郎さんのジャッジです。だけど彼は直接言わないから、まあ言う場合もあるけど。特にアメリカでは語学の問題もあるんで、基本的に採用、不採用に関して、採用は彼が言うかもしれないけどね、「お前なかなかいいじゃん」とか。だけど「明日から来るな」って言うのは僕の仕事。
仕事を受ける時も、受けるか受けないかは達郎さんがジャッジする。相談はしますよ。だけど、音楽的には僕は相談を受けたことないんじゃないかな。NYでやりたいって言うのは彼で、それをセットアップするのが僕の仕事。セットアップして音楽を作っていく中で、人間的なフィーリングが悪いとか、ハモリが悪いとか、なんとなく違うって言う時は僕の出番。伝達する仕事だし。ネガティブな要素に関しては、僕サイドですね。別にポジティブな良いところばかりを達郎さんがとってるんじゃなくて、最終的な決断は全部、達郎さんです。僕はそういう意味では優柔不断で、いいじゃん、あのギターでもおかしくないぜ、って言う方だから。でもそこで絶対に嫌だっていうのが達郎さん。結果的には彼が正しいって思ってるから。
それはシュガー・ベイブを見た時からですね。あとは彼に人間として触れて、RCAに遊びに来てくれたり、話していくときに、やっぱり信念があるから。例えばなんとなく、まぁこのギタリストでもベーシストでもいいじゃないって、僕なんか思っちゃうの。でも達郎さんはわかると思ってるんです。だから絶対に譲らない。それがやっぱり良い形になって現れてるんですよね。達郎さんは職人気質だからARTISANというアルバムを作ったように、どちらかと言うと完璧主義者で、真剣に物事に対して取り組んでいる。僕は楽観主義者だから、どっちでもいいんじゃないっていう部分があるし、僕は否定するっていう事は人生においてもあんまりない。だから、僕の話になっちゃいますけど、ある意味対極の、達郎さんとジャニーズを、同じようなマインドでできるんです。普通はできそうもないじゃないですかw
僕の仕事を例えて言えば、彼が曲を作った、でもやっぱり初めはヒットしないわけですよ。じゃあどうしたらいいか? それもまた質問なんですよね。テレビには出ない、一般紙にもあまり出ない、ラジオは出る。ラジオだけでヒットが出る時代だったとはいえ、それでシングルヒットが作り出せるような生易しい時代じゃなかった。でも「それじゃあヒットは作れないんだよね」って言ってしまったら、普通じゃないですか。いや、参ったな、どこのパズルを埋めようか、っていうのが、コマーシャルソングのタイアップに変化していくわけです。
達郎さんと話したんだけど「テレビには出ないでしょ。でも、テレビっていうのは音声と画像が合体したものだから、音のほうでテレビが出るのはどう?」「何言ってるの?」っていう話ですよね、彼からすると。でも、それがもしかするとヒットへの早道かもしれない。桑名さんの時も、カネボウとタイアップさせていただいて、見事に成功した。だから、それを考えればいいだけなんです。多分、なんとかしたいのが好きなんですよ。何とか課題をクリアしたいと思うと、何かをしなくちゃいけない。
そんな状況に燃えはしないですよ、苦しむだけ。たとえそれでうまく成功しても、ヒットしたら嬉しいのは一瞬で、ああヒットしちゃったから、次もヒットさせなきゃいけない、まいったなぁ、と。ハードルがもっと高くなるんです。
     
<SPACYはアレンジャーを使ったりせず、全部自分でやったほうがいいと>
CIRCUS TOWNで、とにかく新しいし、すごいものができた。メディアやディーラーの方など、本当に全国津々浦々に行って、音楽好きの人に聴いてもらおう、これだけですよね。そしたらかなり反響があった。とは言っても何枚売れたか、記憶にありませんけど。音楽好きの人には圧倒的に支持された記憶があります。全く売れないお店がある一方で、神戸にあった「アオイ」ってお店では何百枚も売れた。あるところではゼロ。あるところでは30枚とか。やっぱりコア層には支持されるな、というのは分かってたんです。
僕は結構売れたなって感じました。達郎さんとはそのことについて話したんでしょうけど、当時僕たちの仲間のレコードの売り上げは、何千枚というのが普通でしたから。CIRCUS TOWNは2〜3万枚売れたと思うけど、結構売れたなって感じでしたね。次については記憶は曖昧ですけど、僕はとことん新作を発表した方がいいと思ってました。彼は寡作の方なんで、とにかくしょっちゅう書いているということはない。だから生意気ですけど、今度は僕が達郎さんに「新曲をどんどん書いてください」「次のアルバムすぐやりましょう」「まだできないんですか?」って、テーマを与えたと思います。「こういう曲を作ってください」とは言ってないと思います。とにかく作りましょうと。CIRCUS TOWNがこれだけうまくいったから、それを凌ぐものを作りましょう、ファンはいます、という感じですよね。曲がなくともスタジオをブッキングしちゃうんです。そうすると行ってやるしかないって雰囲気になったり。やっぱり目標を掲げると、彼は真面目ですから。もしかすると、小杉になめられられたくないと思っていたかもしれないけど、何でもいいから頑張ってくれればいいんですから。
2枚目がセルフ・プロデュースになったのは、どうせ売れるわけじゃない、だとしたら将来的に自分のスキルに繋がるように、自分で全部責任を持った方がいい。
CIRCUS TOWNはそういう意味では、NYサイドでは達郎さんはシンガーで、LAサイドではミュージシャンなんです。シンガーの山下達郎とミュージシャンの山下達郎、そのふたつは初めからあったんですよね。で、こう言ったら大変失礼ですけど、SPACYでチャーリー・カレロに勝つ事は多分できない。だとしたら、アレンジャーを使ったりせず、全部自分でやったほうがいい。そのほうが納得いくでしょ。達郎さんは本当に探究心とか、向上心がすごい。それまではストレングス・アレンジをしたことがないと思うんです。ロック・ミュージシャンですから。でも、やろうと思う気持ちが強いんですよね。
前にも言ったかもしれないですけど、嬉しかったのは達郎さんがNYでチャーリー・カレロの譜面に異常に興味を持ったこと、興味がなければ、何にもヒントがないですよ。僕が「興味あるならコピーをもらってあげようか? もらってくる?」って聞いたら「うん」て。で、「チャーリー、ちょうだい」って言ったら、「いいとも」みたいな感じでした。もしかすると、彼はそこから勉強しようと思ったのかも。
日本でやってきたシュガー・ベイブや、自分を取り巻く音楽環境との違いを、NYで知ったのかもしれない。それについて話した事は無いけど、今考えるとそうかもしれないですね。あの時の興味が、2枚目のSPACYにつながっていった。
    
<SPACYは成功したと思います>
CIRCUS TOWNのロサンゼルス・サイドは彼そのものですから。セカンドアルバムでの僕らの目的は、ニューヨーク・サウンドみたいなもの。それに達郎さんがどれぐらい挑戦できるか、という感じだったと思います。
SPACYはCIRCUS TOWNと比べると地味だなって。でも、まあいいやって感じでしたけどね。一番大事だったのは彼がセルフ・プロデュースしたっていうこと。ああ、出来るんだってことですよね。
曲目とか、そういうディテールは覚えてないですが、どっかで僕は「詩も全部書いたら?」って言ってるんですね。吉田美奈子さんの詩はとても素敵だったけれど、彼も表現力あるんじゃないかと思ったんです。達郎さんは完全主義者なんだから、自分で全部パズルを埋めていった方がいいんじゃないかと思っただけです。それが良かったかどうかは別として。
販売戦略は1枚目と同じですよ。達郎さんのことを、7つの顔を持つ男とかプロモートしてた記憶があるんです。要するに歌唱・演奏・アレンジ・プロデュース・作詞・作曲…全部やる奴いないよ、日本人で。それに何歳だと思っているの? という感じで、天才・山下達郎を売って歩いたんです。注目してください、って。多分それが僕の宣伝マンとしてのセールストークだった気がします。コア層に対して。コア層にしか行ってない。渋い!素晴らしい!おおー!っていう。
SPACYは成功したと思います。売り上げは大してなかったんですけどね。いきなりヒットはあまりないことだから、やはり積み重ね。多分僕はヒット曲が好きな人なんで、ヒット曲がないアルバムがバカ売れすると思ってないんですよ。
それにシングル・ヒットって当時はなかなか出せなかったんです。だって「夜のヒットスタジオ」とか、そういうのに出られない。お願いに行っても知らん顔されるの、当時ね。出してもらえないし、出すのも怖いし。
     
<PAPER DOLLはヒットしないなって思った(笑)>
シングルにPAPER DOLL。これはシングルがないと、どうしてもオンエア・プロモーションとか、集中的なプロモができないんですよね。アルバム・アーティストとして売っていける可能性は高い。とはいえ、10万売れると思ったことはない。その環境を変えるには、シングルがないと。でないと、ヘヴィー・ローテーションができないんです。
多分最初の頃、自分の記憶ではDJコピーなんてのを作ってました。放送局だけに「シングル・リリースしてないですけど、これをかけてください」って。そうすると宣伝マンの方から「バカ野郎、発売してないものはシングルって言わないんだよ!」って言われて揉めたのは記憶にありますね。そんなのウソつけばいいじゃん。発売してるって言っても、放送局の人たちは買いに行かないじゃん。でもウソはダメだとか。あーだこーだ言いながら、シングルやらなきゃいけないなって、どっかで思ったんですよね。
PAPER DOLLの時は(達郎さんへのリクエストは)ほとんど何も言ってないです。でも「タンタンスタンタン」ってイントロが出た時に、ああヒットしないなって思った。ああ地味ってw だけど本人は詩とか、そういうことを、シングルの時はどうやったらもっと広く理解してもらえるか、って、そういう切り口で、努力してることは確かなんですよ。
「イントロは長くしたらダメよね」とか。「やっぱりエンディングはなきゃ」とか。「間奏もなんでそんなに長いの? 無理だよ」っていうような話は、僕もシングルの時はしてたと思う。ほんとに細かいことは僕は言ったことはないんですけど、そういう投げかけをする。そうすると、彼はそこで一生懸命、我々の期待に答えようと努力はしてくれてた。とは言え、PAPER DOLLは絶対にヒットしないだろうと。
当時は編成会議というのがちゃんと機能してて、宣伝マンとか営業マンとかみんなで検討して、たぶんボツったんでしょうね。だけど僕も別に、そこで戦おうと思わなかったんです。だって、ヒットしないんだもん。
目標はシングル作にアプローチする、それはもう永遠のテーマだなって。でも、達郎さんは一生懸命作ってくれたけど、RCAの宣伝とか営業とかが票を入れてくれなかった。それも真実だなと思った。僕自身、僕が向こう側だったら入れないだろう。だってシングルって、当てるために出すんですよ。これ当たるか当たらないかって言った時に、限りなく当たらない方に近い。
とは言え、僕は運命共同体だから、達郎さんが一生懸命やって、彼の中では良いと思ってるんだから、それを応援しなきゃという気持ちもある。それと一般の人たちが当たらないだろうと言ったら、そりゃそうですよね、って言っちゃう自分もいた。だからボツったことに、僕はそんなにショックはなかったんです。
達郎さんに悪いなという気持ちはあるけれど、まあこれが現実だから。やっぱり、もう少し当たりそうな切り口のもの、次のステップに行くことを理解してもらわなきゃ、という感じで。その辺は達郎さんと話したと思いますよ。でも曲ってみんなアルバムに収録できるじゃないですか。だって自分がいいと思ったら、自分が全部選曲していいわけですから。だから、やったことは決して無駄にはならないんです。
     
<僕にとっての美学はダブルジャケットなんですよ>
次はIT’S A POPPIN’ TIME(78年5月25日発売)ですね。たぶんSPACY(77年4月25日発売)からしばらく間が空いてたと思います。この頃は、なかなか曲を書いてもらえなかった時期だったんです。でも、僕は発信し続けないとファンが逃げると思っていたから、失礼な言い方ですけど、何でもいいから新作を出したかった。でも必然性とか、価値観を感じるものを発表しなければいけないと思ったんですよ。
当時、紙パルプが高騰していて、全世界的にダブルジャケットの禁止令が出ていた。まだアナログ時代。で、このままダブルジャケットがなくなっちゃうのかという心配があった。これが僕にとって一番大きい理由でした。ダブルジャケットのレコードは売れないに決まってると思ってたけれど、どこかで美学がないとイヤだった。僕にとってはダブルジャケは美学。それは前から思っていたんです。
当時、アナログ盤はA面、B面合わせても45分くらいしか収録できなかった。達郎さんのライブは2時間以上あるに決まってるわけですから、編集しても1枚に収録できない。だから2枚にしてダブルジャケットにしたいと、会社と達郎さんを説得したんです。
ダブルジャケットだけでもカッコよかったんです、当時は。イエスサンタナのジャケットが素敵だったという記憶はあります。だから一度やってみたいと。ライヴだったら、レコーディングも1週間で終わる。編集作業は時間がかかるとしても、リハから演奏までコンパクトですむ。当時はそんなに直しもないし、達郎さんのバックは上手いミュージシャンたち、そんな色々なファクターがあってSPACYからPOPPIN’ TIMEに行ったと思います。でも、キーワードはダブルジャケットw 他の人がやれないことをやろう、かっこいいだろう、と。
どんなライヴにするかは、達郎さんにお任せですね。録音当日の六本木PIT INNのステージはすごかった。緊張感と演奏力と。お客の興奮で酸欠が出たくらいですから。本当にチケットがびっくりするくらい取れなくて。ライヴに関しては素晴らしいものがある。ただライヴだけではペイしない、このメンバー、超高い。でもいい意味での一流のメンバーならではの緊張感っていうのがありました。 
   
<日本でどうしてもアルバム・アーティストを育成してみたい>
僕は出来上がったものの感想は言わないんです、全く。聴かないですもん。このライヴもコア層に向けて。ラジオ局の人たちに聴かせながら、全国駆け回りました。だって演奏はすごいに決まってるじゃないですか。びっくりするようなメンバーが、コーラスを含めてやってくれて、こんなライヴが出来るの?って。でもそのライヴは、全国津々浦々ではお聴かせ出来ない。だからひたすら、ほらすごいでしょプロモーションでした。
でも、そこからシングルヒットが生まれるとも思っていない。とにかくコアをきちんと固めて、積み上げるってことでは、SPACYからPOPPIN’ TIMEという流れは、地味だったけど一貫性があったとは思いますね。2枚組については、だってライヴだから必然性があると、何となく会社を説得した記憶がありますね。でも、たぶんSPACYよりも売れないだろうな、とは思いました。
ヒット曲がない人はライヴ・アルバムは出せない、そんな慣例のようなことは考えなかったです。ミュージシャン山下達郎はライヴ・アーティストとしてもこれだけ素晴らしい、それを一貫してコアなファンに対してアピールする、大売れすることは本当に思ってなかったので、アルバム・アーティストとして、長く出来る人が憧れだったんです。
それは22、3歳の時に初めてアメリカに行った時に、グリニッジ・ヴィレッジのライブハウスに行くと、みんなコンサートできるんですよ。日本の当時の歌謡曲の歌手たちは、シングルヒット1曲で勝負していて、持ち歌があまり無かった。だからアルバムデビューって言葉は、70年代初頭の日本には無かったんです。
だから、日本でどうしてもアルバム・アーティストを育成してみたいと思ったんです。だからシングルがなければ売れないっていうのも、やってから言い出したことで、日本のロックを始める時には、シングルの価値なんて考えて無かったんですよ。
でも、アルバム・デビューするってことはコンサートができるということなんですね。コンサートができる人は、少なくとも15曲は演奏しなくちゃいけないですから。でも、歌謡曲の人たちは、シングルが当たってからアルバムを出す、という流れ。僕は別に、歌謡曲の逆をやってたわけじゃなくて、限りなく欧米のミュージシャンに近いものを出したかったんですね。その部分で達郎さんは、CIRCUS TOWNからSPACY、そしてPOPPIN’ TIMEと、ひとつもズレてないんですよ。
ただ、欲が出てきた僕は、どうしてもシングルヒットが欲しくなりました。それまでは、あまりシングルヒットにこだわってないんです。でもGO AHEAD!の時に、これはアイドルだって歌える曲だなって思ったんですよ、特に「BOMBER」は。だから、GO AHEAD!で見えたんです。これで当たると。「BOMBER」はCIRCUS TOWNのA面の派手さがあったんじゃないですかね。僕はステジオで聴いて、「来たー!いけたな」って感じでした。
    
<GO AHEAD!が色んな意味で分岐点だったかもしれないですね>
僕は時々スタジオに遊びに行くんです。ずっとスタジオには居ないディレクターでしたから。どういうものやってるのかな、と。だって、僕はレコーディング前にデモテープ聴かせてもらったことないですから。だからスタジオに行って、僕の表現力で言うと、地味だなあとか、おお来てるなとか、いい感じじゃん、とか。それをチェックしに行って、応援する感じでしたね。「BOMBER」とかは「来たぞー!」って感じでした。
渋谷公会堂で初めてコンサートをやったのもその時期で、これで勝負できると思ったんでしょうね。ソーゴー東京に行って「山下達郎というのがいて」って説明したら(後に社長になる)黒田さんは音も聴かないで「どこでやりたいんだ?」と。出まかせに「渋谷公会堂」って答えたら、「12月20日か26日に空いてるからやれ」「はい、わかりました」って。
それを達郎さんに言ったら怒られて。「渋谷公会堂なんか満杯にできるはずないじゃん」「大丈夫だよ、やんなきゃ。だってもう受けちゃったんだから。断れないよ」「ふざけないでよ、人に相談もしないで。ライヴは俺のもんだんだよ。なんで勝手なことするんだよ」って、結構怒っていた記憶があります。でも僕は「しょうがないよ。だってブッキングしちゃったんだもん。やるっきゃないよ」って、そんなやりとりしましたね。だからGO AHEAD!が色んな意味で分岐点だったのかもしれませんね。
渋谷公会堂はもちろんソールドアウトにはなっていなかった。開演前に達郎さんと、緞帳をそっと開けて見たんですよ。足が震えた。でも2階までお客さん入っていたんですよ。やったー!すげーって思ったことを今でも鮮明に覚えてます。ああ、来るぞ、って感じですね。ヒット曲が出るぞ、というのではなくて、時代に向かってヒットする可能性があるな、って感じたんですね。だからGO AHEAD!まではミュージシャン山下達郎の形成時期ですね。渋く3万〜5万売れてれば良い。でも達郎さんの場合は、スタジオ時間が長かったんです。
スタジオ代やミュージシャンのギャラが一番高い時代で、僕の記憶では、当時の原盤はフジパシフィックさんが持ってましたけど、それが回収できなかったんですよね。レコード会社的には大丈夫だったんですけど、フジパシフィックさんからすると、多分何万枚か売らないと採算が取れない。だからGO AHEAD!までは回収できてないと思います。だからと言って、フジパシフィックさんからは一言も文句言われたことはないですが。
僕が達郎さんにいつも数字についての小言を言ってたから、彼もそれは気にしていたかもしれないですね。リクープ(費用回収)できて初めて、フジパシフィックさんに投資してくれてありがとうと言えるけど。投資してもらっても俺たちは返してない、というような話はしてたかもしれない。
でも、だからといって、スタジオ時間短くしてください、ということはない。とことんやればいい。でも、作品が売れないと、投資家たちには失礼なことになる。それとも時間を短縮、バジェットを圧縮したりして自分の場所を守っていくか。どっちの選択をするのも達郎さんの決断だから、というメッセージをしてたんでしょう。
でも、ミュージシャンとしてすごいという評価は確実にあった、それは一作目から。SPACYも地味だと言われてるけど、アレンジを全部自分でやっちゃって、CIRCUS TOWNから1年も経ってないのに。この人、言えば何でも出来ちゃうかもしれない、ってことですよね。
正直に言うとPOPPIN’ TIMEまでは、この人はヒットを出せないんだなって思ってました。素晴らしいミュージシャンとして、5万枚をキープできるような人だろうって。圧倒的に、コアなファンにはウケるのは分かってました。だけどGO AHEAD!のスタジオに入った時に、いけちゃうかも、って思ったんです。GO AHEAD!が、僕をも変えてくれた。欲が出た。
      
<一番大切なのは、アーティストとアーティストたちが作ったサウンドなんですよ>
やっぱり自分がやってるアーティストが、プロモーションが悪かったから売れなかった、って言われたくないじゃないですか。元はと言えば、達郎さんと出会ったのだって、たまたま日本のロックをやりたいと思って、会いに行ったのが牧村憲一さんで、牧村さんがシュガー・ベイブのライヴに呼んでくれた。それを見て、良いと思って、何とかしたいと思った。そしたら宿題が出来たんで、それをやれば次に進めると。それがうまく進んだ。
でも色々やるんですけど、一番大切なのは、アーティストとアーティストたちが作ったサウンドなんですよ。作品が悪かったら、売れるはずがないんです。
ただ、作品が良いのに売れ損なうっていうこともある。その時に僕らは嫌だなって思う。作品が悪かったら、言い逃れというか、言い訳はいくらでもできる。だって、あれで売れるはずないでしょ、て。評論家の人だって、いくらでも言えちゃう。でも、作品が良いと自分たちが感じたのに、一般の人に届かなかったときに、何か罪の意識を感じるんです。少なくとも次の場所へ運ばなきゃ、と思いますよね。もう3歩先とか5歩先。でも、次の場所にたどり着くと、次の目的の地図が見えてくるわけですよ。果てしないけれど、それをやってたら良い作品に巡り会えて、結局当たるわけですよ。だから、例えば同じボリュームで、同じ条件でタイアップしたって、ヒットする楽曲とヒットしない楽曲とかありますから。結局、最後は曲の力なんですよ。アーティストのキャラクターによって、どうバックアップしていくかが見えてくる。十人十色だと思う。もちろんテレビの主題歌を取れたら幸せだし、大きなコマーシャルタイアップが取れたら、ヒットへの近道というのは変わらないけれど。でも、やっぱりアーティストによって、それぞれ違うんじゃないですかね。
     
<僕の仕事は作り手に対するリスペクトから始まってるんですね>
僕の場合はクリエイティブじゃなくてマーケティング的で、どうしたらこのアルバム、このミュージシャンを数多くの人に知ってもらえるか、それをビジネスとして成立させるか、っていうのがテーマですよね。それがカラオケ時代だったら、カラオケを中心とした戦略を考えるだろうし、インターネットになればインターネットの戦略を考えざるを得ないし。だからその時代に、どうやったら多くの人に届けられるか。でも、それだけじゃ売れない。すべては作品力とアーティストの力です。
達郎さんで言えば、作品力とグレードに関してはこの人はいくなと。でも多分ヒットはないな、と思いました。達郎さんはヒットを避けて通る道を、選んでたような気がします。彼は一般の人と勝負していない。自分の仲間と、ミュージシャンに対してメッセージを送り続けている、と僕は感じてた。だから難しかった。POPPIN’ TIMEまでは僕から見ると、同世代とか、先輩の日本のミュージシャンたちに対する戦いだったんじゃないか、って感じがします。その時には売れないなと。でもすごい人だから、いろんなスキルは磨いたほうがいいし、経験したほうがいいし、っていうスタンスでしたね。
その時点で、達郎さんは30歳を過ぎて食っていけるミュージシャンなんて思っていませんでした。僕だってディレクターをいくつまで出来るか、なんて考えたことないし。でも達郎さんは30歳を超えても、アレンジャーとしてはやれるかな、って。ヒット曲を書く人ではなかったから、作曲家として生きていけるとは思わなかった。まずアレンジャー。あとはプロデューサー。でも当時は印税が取れるプロデューサーはいなかったから、会社に入ってくれたら、良いディレクターやプロデューサーになってくれるだろうなと思ってました。
会社員ですから、当然人事異動はあります。人事異動、僕はいつも悩んでましたよ。半年に一回、人事異動が出るたびにドキドキして。その理由はヒット曲が出ないから、いつでも移動させられるというのと、俺って洋楽もできそうだし、宣伝マンなんか向いてそうだな、そんなうぬぼれもあって、宣伝部に行かされるんじゃないかって、それが怖かったんですよ。
宣伝部は嫌じゃないんだけど、僕がレコード会社に入りたかったのは、自分がミュージシャンをやってたときのトラウマがあって、アーティストを育てられなかったら、そのトラウマが消えないんです。宣伝マンじゃダメなんです。作るってことなんですよね、売るだけじゃなくて。だから(僕の仕事は)作り手に対するリスペクトから始まってるんです。
ミュージシャンの時に馬飼野康二さんが曲を書いて、僕が詩を書いて、みんなで演奏して、ディレクターのところにもっていくと「バンドマンがどうして曲書いてるの? ふざけないでくれ」って。歌手として契約したんだから曲なんか書く必要ないって。それでもレコード会社の言いなりになって、一生懸命頑張った。でも、それが天国行きの切符だったはずなのに、地獄行きだった。売れない、プライドは傷つく。キャバレー周りしてカッコ悪い。
そういう紆余曲折を経て、27歳で初めて制作マンになるわけですから、制作としてアーティストたちの出口を作れなければ、自分は人間としての価値を損なうかも、というトラウマを背負ってたんでしょうね。だから制作でアーティストの出口を作ってあげたいと。
会社という機構の中に、新しい風を起こすことが自分のテーマだったんでしょう。自分が現役の時に散々だったから、ミュージシャンの言うことを少しでも聞いてあげられる、そんなディレクターが一人や二人いても良いじゃないか、と思ったからなったんで、達郎さんをどうするかって問題よりも、僕の価値観がどこにあるかって、ことだったんでしょうね。
背負ったトラウマは十分消えました。十分消えたけど、本当にヒット曲を出すのは大変で。そしてスター・アーティストを育成するのは至難の業で、これは運命とも言えるくらい大変なことです。
【外伝8 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第22回 77年〜78年、IT’S A POPPIN’ TIMEへ

<シングル盤「PAPER DOLL」がボツになってるんだ>
SPACYからIT’S A POPPIN’ TIMEへの時期は、あまり自分の仕事をしてないかな。「PAPER DOLL」のレコーディングを77年10月にやっているね。他の仕事で特徴的なところでは、77年6月頃だったと思うけど、マザー・グースのプロデュースかな。その他にも、スタジオでコーラスものはけっこうやっている。あとはCMもね。
ライヴはまあまあ。あと、大滝さんのレコーディングでシリアポール。10月に中原理恵に2曲書いてるね。10月27日まで書いていて、28日にレコーディングしている。ようやく曲のオファーが少しづつくるようになった、という感じかな。でも、まだ散発的だね。
77年7月31日、下北沢ロフトで「スペシャル・ジャム」、これは山岸(潤史)に声掛けられたやつ(同所で7、9、11、12月と5回開催)。キーボードは緒方泰男で、彼は僕が美奈子のバックをやっていた時代の知り合い。ドラムは最初はユカリだったけど、その後、りりィの旦那の西(哲也)さんとか、ジョニー吉長とか。そういう人たちとやっていた。確かにセッション・ライヴは意外とやってたね。
で、「PAPER DOLL」のレコーディングだけど、小杉さんがシングル盤を出そうって言うんで、10月26日にモウリ・スタジオで「PAPER DOLL」と「2000トンの雨」の2曲を録ったんだ。坂本くん、ユカリ、田中章弘というメンバーで。
ところがレコード会社の会議で落とされたんだ。昔は編成会議っていうのがあって、制作部長の元で、演歌からロックからクラッシックまで、全ての制作ディレクターが集まって、試聴するの。ああだこうだ言って、これは出しましょう、これはダメとか。それで「PAPER DOLL」は見事にボツになった。それがGO AHEAD!に入ってる「PAPER DOLL」と「2000トンの雨」なんだよ。
この時期が、僕自身の活動にとっては一番底の時代だね。でも、生活のためにCMはけっこうやってた。IT’S A POPPIN TIMEの最後に入ってる「Marie(マリー)」って曲は、資生堂のCMでね。一人多重コーラス。あの頃は自分でドラムを叩いていたのも多いんだよ。セブラ・パスカラー(文具)なんてのがあって、15秒だったから、寺尾(次郎)だけベースで呼んで、あとは全部一人多重。
   
<僕が人をプロデュースした初作品がマザー・グース
77年で一番印象的な仕事が、マザー・グースだね。初めてプロデュースのオファーをもらって、やった仕事だったから。マザー・グースは金沢の女の子3人組で、東芝のエクスプレス・レーベルからそれまでに2枚のアルバムが出ていた。アルバムは吉川忠英さんとラストショウが手掛けていたんだけど、僕のいた音楽出版社のスタッフから、僕のプロデュースでシングルを1枚作って欲しいとオファーがあったんだ。
インディアン・サマー」というファーストアルバムに入っている「貿易風にさらされて」という曲を出版社が気に入ってて、それと「パノラマ・ハウス」というセカンドに入っている「マリン・ブルー」という曲とのカップリングでプロデュース・アレンジしてくれないか、って。確かセカンドは、ユーミンがジャケットを描いていた。で、林立夫と細野さん、鈴木茂、それと坂本くんでレコーディングした。なので元のアルバムのテイクとは全然違う。
マザー・グースは高校の同級生で作ったグループで、リード・ヴォーカルの子が書く曲が、とてもセンス良かったんだよね。本人たちの作詞、作曲。すごくソフィスケートされた曲なの。だからアルバムのフォークっぽいアレンジよりも、もうちょっとモダンな方がいいんじゃないかと思って、フィフス・アヴェニュー・バンドみたいな感じを狙った。A面はコンボ指向のアレンジで、彼女たちがライブでやってる、コーラスのハーモナイズをフィーチャーするのが最善だと思ったので、そのままのコーラス・アレンジでオケに乗せた。B面の「マリン・ブルー」はストリングスの入った、もう少し広がりのあるアレンジなんだけど、本人たちはステージではギター2本とヴォーカルで歌ってて、間奏でメンバーがハーモニカを吹くんだよね。そういう部分も活かそうと思って、間奏にそのままハーモニカをフィーチャーしている。このシングル・ヴァージョンはマザー・グースのアルバムが紙ジャケ再発されたときに、ボーナストラックとして入っている。
これが、僕が人をプロデュースした史上初の作品なんだ。まあプロデュースといっても、あの頃の話だからアレンジャーに毛が生えた、名前だけのものだけどね。印税なんてもちろんなかったし、なんちゃってプロデューサーだね。このプロデュースでは、僕にシュガー・ベイブみたいな音を求めてたんだろうね。マザー・グースの子もシュガー・ベイブを金沢で観てたらしいから。マザー・グースのシングルの予算は知らないな。でも、リズムをモウリ・スタジオで1日で2曲録って、ストリングスを1曲分録って、歌入れはフリーダム・スタジオでやって、それで終わり。でも彼女たちにとっては、自分達がステージでやっているままの歌い方で歌えたから、すごく嬉しかったって言ってた。そういう僕のやり方は、今も変わらないからね。
マザー・グースみたいなグループものは、なるべくその子たちがやってるそのままの形を生かして、そこに何を乗せるかっていう考え方でやるのが、一番いい出来になるんだ。僕はバンド上がりだからね。シュガー・ベイブ時代には、とにかく自分でアレンジをやるしかなかったおかげで、アレンジの基礎の勉強が出来たのと、その後はチャーリー・カレロとの出会いだね。それが合わさってる。自分でモノを作る人間が、外部から不必要にああしろ、こうしろと指図されると、意欲が減退しちゃうからね。プロデュースっていうのは実は難しくってね。こちらがどんなに一生懸命やってあげても、相手は「オレは好きな事をやれなかった」ということになったり、何もやらなくても、名前だけ貸して、プロデュースしてもらったんです、ということになったり。八方うまく収まるなんて、なかなかないからね。
マザー・グースのシングルは全く売れなかったけど、いい出来の作品だよ。彼女たちが喜ぶように作れたからね。オケのゴージャスさとか、そういうのもちゃんと作れたし、録音もいいし。それはCMで培ったノウハウなの。結局、編曲のノウハウって場数だからさ。でも、本当の専門はコーラスだったから、コーラスグループをやらせてもらえば、細かいところのボイシングをちょっと直すだけで、すごく良くなるし。そうするとキレイ!とかって喜ぶし。性格もいい子たちだったから。これは実働3日、ごく低予算。でも有意義だったよ。自分のやりたいようにやらせてもらったし、音楽出版社もそれなりに仕事を世話してやろうというか、そういう感じはあったんだろうね。
78年になると、毎月一定の給料を出す代わりに、毎月3本のCMをこなすっていう契約形態になるのね。76年から契約していた音楽出版社とは78年頃に契約更改になるんだけど、この前言ったように、その時には契約を解除しようかというのがあって、それを小杉さんが止めて、続行という話になったんだ。
その出版社からは、昔から作家契約をしろって言われてたんだけど、それは絶対に嫌だった。自由度が縛られちゃうからね。それでまあ、その代わりにCMで給料みたいな形で、それまでの出版社と契約続行になったんだ。
     
<自分がコーラス・アレンジを出来ない仕事はやらなかった>
77年5月にSPACYを出してから、自分のことはしばらく何もやらなくなるんだよね。夏から秋にかけては人とのセッションばかりだね。CMもそれほど多くないし。精神状態はあまり良くなかったね。この頃は経済的に困窮したという記憶は全然ないから、多分それなりに生活は成り立っていたんだとは思うけどね。スタジオ・ミュージシャンっていうか、コーラスは結構やってた記憶があるなあ。
山岸潤史の「ギターワークショップ」もこの年だし、あとは石川セリ太田裕美、ミッキー・カーティスのポーカー・フェイス、アグネス・ラムとか、コーラス仕事は結構やってるね。
あの時代、基本的には自分がコーラス・アレンジを出来ない仕事はやらなかった。他人の譜面でやったのは、78年に岸田智史をやった時くらいだね。行ったら譜面があってね。インペグ屋(ミュージシャン仕出し)に騙されたw 
あとは太田裕美のコーラスを筒美京平さんのご指名で「書き譜でもいいか?」って聞いてきたから「京平さんならいい」って。譜面を渡されて「あなたたちには、あなたたちの音楽があると思うけど、まぁこういうのも世の中にはある、と思ってやってよ」って言われてね。
いろんな人に曲を書いているのは、作曲してデモテープ作れ、っていつも言われていて、何曲か書いたから。そういうのを出版社がどこかに売り込みに行って、何曲かレコード化されたの、知らないうちに。ピアノとリズム・ボックスだけで、ラララって歌ってるデモテープを作らされて。そういうのが何曲もあったの。雑多な仕事はたくさんしてたな。手帳を見ると、78年の7月ごろまでは自分でスケジュールを書いてたんだけど、そこからパタッと書かなくなるんだよね。ここで事務所が出来たんだね。
77年には事務所がなくて、78年に入って、最初は細野さん、美奈子、僕で事務所を立ち上げたんだけど、うまくいかなくて、その後、今度は小坂忠さんの元マネージャーをやってた人間とかを2人雇って、事務所を作った。それは78年12月にスマイルカンパニーを作るまで続けていた。だから半年位かな。ほんの一瞬だね。でも、クールスのレコーディングなんかはその時のスタッフが持ってきた仕事だし、コカ・コーラもそうだった。
   
<自分としては普通のライヴは嫌だったのね>
六本木ピットインで初めて演奏したのは、IT‘S A POPPIN’ TIME(78年5月発売)のレコーディングの時が初めてだよ。というか、僕がやるまでは、ロック系の歌手はあそこでは誰もやったことがなかった。すべてジャズだったから。あれが六本木ピットインで初めてのシンガー・ソングライターのライヴだったんだ。
あそこでやった一番の理由は、同じビルの上にあるソニーのスタジオとラインがつながってた、それが一番重要だったのね。ピットインでやろうと言ったのは僕。小杉さんがライヴアルバムを録ろうって言うんで、それなら六本木ピットインはどうだろうと。小杉さんがライヴアルバムのプランを言い出したのは「PAPER DOLL」を録った後かな。アルバムの予算が出なかったから。でもライヴだったら1日で録れちゃうからね。だからそれでいこうと考えたんだね。
要するにSPACYの売れ行きがレコード会社の予想を大幅に下回ったんで、僕もブツクサ文句ばっかり言われるのもしゃくだから。それで77年の終わりから78年のアタマにかけてどうするか、ってことで、小杉さんは「もっと作ろうよ、作品を」って、シングルで「PAPER DOLL」をレコーディングしたら、ボツられた。じゃあライヴ・レコーディングで行こうって。77年は比較的ライヴやってたから、抵抗は無かった。メンバーがみんな上手いからね、なんと言っても。所属の音楽出版社も、予算がかけられないから、しょうがないだろうと。
でも、自分としては普通のライヴは嫌だったのね。まだ曲数もそんなにないし。だから1曲目はスタジオ・レコーディングで、一番最後はアカペラで。で、A面は新曲のライヴなんだ。それなりに考えてるんだよ。でも、会社としては1枚ものだと思ってたらしい。それが2枚組になっちゃったんで、それでまたガクっとね。僕は当然2枚組だと思ってたよ。だって「エスケイプ」なんて曲は、あのメンバーでやるんだったら、インプロビゼーションを入れないと面白くないから。それとあの当時はオイルショックの直後で、見開きのダブル・ジャケットが禁止の時代だったから、2枚組にすればそれが出来るから、豪華なものが作れるという狙いがあった。
ライヴ盤のイメージとしてはカーティス・メイフィールドとかダニー・ハサウェイのライヴ盤みたいな感じでやろうと。ピットインでやると言った時から、カーティス・メイフィールドダニー・ハサウェイの、トルバドールとかビターエンドあたりの雰囲気でやりたいと。
2枚組については、小杉さんも見開きジャケというのが目論見だったから。でもレコード会社は焦ったんだよ。だけどしょうがないじゃない。1枚組だったら4曲入りだよ。ライヴ盤で、それではね。だから構成は良く出来てるの。A面は新曲で、B面は既成の曲で、C面は長い曲で、D面は「サーカス・タウン」で終わって、最後にアカペラ。そういうある程度の計画はあったの。早い段階で。
まだソロ3枚目だしアイデアはいくらでもあるから。ライヴ作るんだったらああいう感じにしようって。「スペイス・クラッシュ」のスタジオ予算の確保ができていたか? それは知らないw
  
<ライヴが終わってから、スタジオ録音の曲を入れたいって思った>
不思議なことに、僕はここまで一度もシングルを切ってないわけ。CIRCUS TOWNでは「WINDY LADY」を切ると言って、結局切らなかった。多分、当時の世情で考えたら、「WINDY LADY」なんかシングルで切ったって、売れるわけがないと会社は思ったんだろうね。だって桑名くんはシングル出てるもの。僕はとにかくGO AHEAD!まで1枚も切らなかったということは、小杉さんは切りたかったかもしれないけど、小杉さんもやっぱり派手志向の人だから、ちょっと渋すぎると思ったんだろうね。
だけどSPACYは全然売れなかったんだけど、「プレイヤー」とかそういう音楽雑誌では、評判が良かったアルバムなの。ヤクルトホールのライヴで、あんなに人が来るなんて、小杉さんは全く想像してなかったから、それでライヴ・アルバムだったのかもしれねいね。今考えると。その後のライヴ動員も良かったし、小杉さんもそういうのを見てたから。それかな。
まあ動員力といっても1,000未満だもの。もっとも今(08年)は逆にアルバムが50万枚売れても、動員が苦しいっていう人もいるしね。ライヴハウスしか入らないという人もいるし。時代かなあ。でも、自分としてはそんなものだと思ってたんだよね。
例えば今の時代尺度から見れば、ライヴの構築パターンとか、セオリーとか、まだそんなに習熟してない時代だから、それほど明確な価値観もなかったけど、シュガー・ベイブの経験から40分じゃ自分のやりたいことは完結できないと思ってた。
だから野音で40分やっても全然消化不良で、物が飛んで来て終わりだけど、下北沢ロフトで2時間やって15曲全部並べれば、そこではお客が納得した。そういうライヴの流れ方を自分なりに見せる場合には、ある程度の時間が必要だと考えてた。あとは音のバリエーションね。それは自分の「売り」だと思ったから。シュガー・ベイブのライヴでも途中でラスカルズの曲をやったり、そういう遊びっていうか、そういうサウンドの変化づけが、ター坊もいたし、色々あるでしょ。だからサウンドの引き出しがたくさんあるというのは、実は重要なことで。
だから、ヤクルトホールのSPACY発売コンサート(77年5月)の時に、もう「三ツ矢サイダー’76」をやって、すごくウケたし。それから、ビーチ・ボーイズのGOD ONLY KNOWSもやってるんだね。それもけっこうウケた。そういうものは、シュガー・ベイブ時代のライヴから培ってきたものがあるから。シュガーベイブの時なんてボビー・ダーリンが死んだら「ドリーム・ラヴァー」を演るとか、そんな事ばっかりやってたから、そういうバリエーションが、自分のライヴには必要だと思ってた。だからIT’S A POPPIN’ TIMEには入ってないけど、ピットインのステージでも途中で弾き語りとかやってるしね。
そういうことで、レコードもバリエーションが無いとダメだから、ライヴだけじゃイヤだと思って。1曲目はスタジオレコーディングの「スペイス・クラッシュ」にした。実は実際のステージ1曲目は「LOVE SPACE」で、アルバムもあれで始めても良かったんだけど、あの頃はとにかくひと月に一回くらいしかライヴやってないから、声が出てないの。シュガー・ベイブから2年経ってるでしょ、思うようにハイトーンが伸びない、だから「LOVE SPACE」の出来が非常に不満でね。それで考えたのが、あの1曲目だったの。だからそれは、ライヴが終わってから考えた。アルバム1曲目はスタジオ・レコーディングを入れたいって。最後はアカペラにしようっていうのは、最初から決めてたんだけど。最初に持ってくる曲は「LOVE SPACE」しかないけど、それもちょっと弱い。
だから「スペイス・クラッシュ」から始めて、2曲目が「雨の女王」。それだったらライヴとはいえ、新曲ばかりのA面になるから、新鮮だし、良い感じだと思ったんだよ。
           
※以下、IT’S A POPPIN’ TIME、78年5月発売当時の販促パンフ用コメント。
上記インタビュー内容と比較すると、本音とのギャップが垣間見える、、、
「僕のアルバムもやっと3枚目になりました。今回はライブ・レコーディングを中心とした、しかも2枚組という大変な(?)ものになってしまいました。本来、僕にはライブ・アルバムという発想も、ましてや余程のことがない限り、2枚組などという恐ろしい(??)考えなどあるはずがなく、事の成り行きというものは、誠に不思議だと言わざるを得ません。
当初僕が考えていたのは、「一発録り」でアルバムを作ることでした。すなわち、現在普通のレコーディングで行われている、リズム・セクション、次にもろもろの装飾的楽器(例えばパーカッション)、ストリングスにブラス、コーラス、そして最後に歌を録音するといったやり方ではなく、リズム・セクションとコーラスと自分の歌を同時に録音し、それだけでいっちょうあがり、というアルバムを作りたかったのです。このことに関して理由はいろいろあり、詳しくは述べませんが、早い話が”Circus Town”, ”Spacy”と続いて、また少し違うことをやりたかったと言う、いつものへそまがり根性からだと思ってください。
そんなわけで初めはスタジオでレコーディングをする予定だったのですが、誰かが、それならいっそのこと、観客を呼んでスタジオ・ライブにすればいいじゃないか、と言い出し、今度は他の誰かが、ライブをやるんだったらコンサートホールがいい、と言い、それじゃあ全部平行して打診してみて、一番やりやすい方法でやってみようということになり、最終的に六本木ピット・インでのライブ・レコーディングという結論に達するまでには、結構時間がかかってしまいました。このようなわけで、今回のアルバムは一般のライブ・アルバムとは少々違ったニュアンスを含んでいると言えます。
普通日本で制作されるライブ・アルバムは、アーティストのエンターテイメント、すなわちステージでの躍動や観客の熱狂(ちょっと大げさかな?)、レコードで出せない感じを求めるために作られます。もっとひどいときには、いわゆる枚数消化のために作られる場合すらあります。
僕の今回のアルバムは、先ほど述べたような理由で、それらのどれにも当てはまりません。もちろんライブですから、来ていただいた人たちが満足できるような努力はしていますが、まず第一に違うのは、未発表曲に重点を置いたことです。前にも述べたように初めこのアルバムは1枚ものとして企画されました。僕はそれをほとんど新曲で固めるつもりでした。正確に申しますと新曲が6曲、今までのアルバムに入っている曲が2曲、そしてスタジオ録音が1曲、計9曲入りのアルバムにしようというのが当初の予定だったのです。
ところが全部終わって聞いてみると演奏時間が予定を大幅にオーバーして(まさか本番の時にストップウォッチで測るわけにはいきませんから)、とても9曲では入らないことがわかりました。色々と相談した結果、予定に入っていない曲の中にも出来の良いものがたくさんあったこともあって、2枚組にしようじゃないか、ということになった次第なのです。
ですからこのアルバムは、全14曲中9曲が新曲です。うち1曲はアメリカの曲ですが。トラック・ダウンにあたっては、拍手その他をできるだけ抑える方針をとっています。たとえライブでも、レコードはレコードとして成立させなければならない、というのが僕の考え方です。「ライブのためのレコード」ではなく「レコードのためのライブ」でなければならないと思うからです。コンサートの現場では視覚的な部分も大きな比重を占めています(あまり視覚的な部分の自信は無いですが?!)。しかし、レコードを作る作業にまで、それを持ち込んでは、至極自己満足的なものしかできません。したがって、曲によってはフェイドアウトしているものもありますし、1曲だけ歌を録り直しました。
さて、僕のライブパフォーマンスについて少し触れておきましょう。今回のアルバムでバックを務めてくれているミュージシャンたちは、ここ1年ほどずっと付き合ってもらっています。彼らは皆様よくご存知の、日本でも有数のセッションマンたちですが、彼らとステージをやるときは、あまり色々と約束事をせずに、できるだけ楽に演奏してもらうことにしています。そうした方が、彼ら一人ひとりの特色が自然に出てくると考えたからで、僕個人としては非常に満足した結果が得られています。したがって僕のステージは比較的地味な(渋い!)、統一された色彩になりました。このアルバムのB面を貫いている感じが、僕のこのメンバーとのひとつの成果だと思っています。特に”Windy Lady”に関してひと言申し添えれば、この曲はシュガー・ベイブ時代からのレパートリーですが、このメンバーで演奏されているヴァージョンが、最も僕の考えに近いものなのです!
最後にもうひと言。アルバムの最初と最後に2曲のスタジオ録音が収めてあります。最後の曲は昨年の夏に、資生堂のCMで使われたもので、アカペラ、つまり無伴奏のコーラスであり、自分一人でダビングしたものです。これらの2曲は次の、ひょっとするとその次になるかもしれませんが、きたるべき僕の意欲作(自分で言ってるから世話はない)の予告編だと思ってください。内容はーーーそれはできてからの御楽しみ。」
【第22回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第21回 スペイシー(1977年5月25日発売)

<次を作りたいって思ったこと、80年くらいまではあまり無いんだ>
1977年のアタマは1、2月が(吉田)美奈子の「トワイライト・ゾーン」で、それが終わって大滝さんのストリングス・アレンジ、たぶんシリア・ポールだったと思うけど、それをやって、その後にSPACYだから、割と忙しいことは忙しい。
あの頃は、自分の作品がそんなに売れてたわけじゃ無いから、僕みたいに副業で食べてる人は、けっこう居たと思うよ。それでこの時代あたりから、シンガー・ソングライターとスタジオ・ミュージシャンの棲み分けは、大きくなっていったような気はするね。
まだ実家に住んでたからね、練馬の。あの時代、23〜24歳の頃はスタジオにはしょっちゅう遅刻するし、ほんといい加減だったw まあ僕に限らずツアーが嫌で、東京駅に来なかったなんていう人の話もあったし。だけど僕の場合は不思議なことに、CMの時は絶対に遅れなかった。他人の仕事だとちゃんと行くし、大丈夫なんだけど、自分の仕事だとダメなのw
責任のあり方って言うかな。ファーストアルバムを作ったから、次はセカンド、という前進思考もあまりなかったしね。次を作りたいって思ったこと、実は80年くらいまでは、あまり無いんだ。ON THE STREET CORNERのあたりからかな。RIDE ON TIMEがヒットして、これでア・カペラが作れると思ったから。GO AHEAD!なんて、小杉さんにお尻叩かれて、ようやく作ったアルバムだものね。
あの頃は契約していた音楽出版社をやめたかったりとかもあって、なおさらだった。他の出版社から誘いが来てて、そっちへ行こうかなって思っててね。そういう人に言えないような細かい事情が、色々あったんですよ。まだ20代の小僧だからね。もっとも事情という点では今(2008年)だって色々あるけどw
小杉さんはとにかく行動力のある人だから。それに彼とは話のウマがよく合ったんだ。小杉さんのことを何も知らない人だと、しばしば本当にアバウトに見えるところがあって。確かに実際アバウトなところも多いんだけどw でも、すごく誠意のある人なんだ。NYとロスでCIRCUS TOWNを作った時も、えらくブロークンな英語なんだけど、物事を仕切っていく感じがすごかった。NOをちゃんと「NO」と表明できる力。何でもないことのようだけど、それが誰でもできそうで、実はできない。そういうところはたいしたもんだと思ってた。
小杉さんは元々サッカーの選手になりたくて、高校に推薦で入ったんだけど、サッカー部は坊主にならなきゃいけない、っていうんでやめて、野球部に変わって、その後ブラスバンドに引き込まれて、そこからドラマーを目指して、馬飼野康二さんと一緒にGSバンドをやったんだけど全然売れなくて、20歳までに目が出なければやめろ、っていう兄貴の言いつけを守って、20歳でやめて、NYの大学に行って、途中で帰ってきて、音楽出版社に入って、でもどうしてもレコード会社のディレクターになりたくってRCAに入って、っていう人でw
初めて会った頃は、バンダナしてヒゲをたくわえてて、ダビデの星のペンダントを付けて、アルパカのジャケットに蛇皮のロンドンブーツっていうスタイルだった。もう、誰が見たってヒッピーだよねw 小杉さんのことは、最初はレコード会社のディレクターということでしか見ていかなったけど、70年代の末から、それ以上の役割になって行った。
とにかく70年代は、結果的にだけど小杉さんが常に「次、作ろう」ってしつこいくらいに要求して来たので、しょうがなく作った、っていうのが正直なところで。特にIT’S A POPPIN’ TIMEとGO AHEAD!は完全にそうだった。SPACYの時はまだ編曲のスコアを書くのが面白かったから、どんなアレンジにしようかって、それで一所懸命だった。低予算でも限られた中でどういう曲を書くか、っていうアイデアがすごくあったし。もっとも、それは売れる売れないとは、全く別だったけど。手抜きが出来ない性格だから、始まればやるけど、でも怠惰な性格だからw 始めるまでは、あまりやる気が起きなかったんだよね。
とはいえ、例えば「ソリッド・スライダー」なんかは坂本(龍一)くんとやっていて、あの長尺のソロは当時そんなもんだと思ってたけど、今から考えると、坂本くんはとても上手かったし、そういう部分では上手いミュージシャンと一緒にやれていたのは幸運だった。人にはとても恵まれていたと思うね。自分ではあまりモチベーションが上がっていなくても、そういう人たちが、結果的にいい演奏で助けてくれた。
だから「ラブ・スペイス」にしても何にしても、あのメンツであの演奏でなかったら、ああいう感じにはならなかったしね。それは計算が上手い具合にはまったというか、予想以上のものが出来たのね。
   
<だいたいは2テイクくらいでOKだった>
あの頃はスタジオ・ミュージシャンなんてのは、見知らぬ人間にはみんな無愛想だった。ティン・パン・アレイの人たちも無愛想だったけど、それ以上に(大村)憲司とか大仏(高水健司)なんて、もろ職人気質だし、空気が怖くて、とても人間関係なんて作れなかった。松木(恒秀)さんも東京人らしいベランメエな人だったから、何かというと「あいつ生意気だ、ポンタ、ヤキ入れろ」w そういう世界だった。
ポンタはそんな中で、そういうところがすごく優しい人でね。ずいぶん助けてもらったよ。SPACYのレコーディングでも、松木さんは初対面の細野さんが気に入らなくてさ、愛想が悪いって。まあ松木さんが気に入る人なんて、あまりいないんだけどw それをポンタが一生懸命とりなしてね。
細野さんのベースって、パッと見はまったりとして、地味なの。だけど、次第にじわじわとくるベースだから、あの良さが初対面の5分や10分でわかるわけもないからね。細野さんは本当に優秀なベーシストだからね。フレーズのバリエーションの豊富さといったら、驚くべきものでね。そういう部分は短時間のスタジオじゃ、なかなかわからないもの。SPACYの解説でも書いてるけど「キャンディ」のセッションの間に、あの人がピアノでコードを確認している姿を見た時には「この人は研究熱心な人だな」と思ったよ。本当の音楽家だよね。時代もそういう空気に満ちてたんだよね。
今はそういうのが希薄になってしまった。とにかくスタジオでは知らない者同士は、ほとんど口をきかない。それは今でもそうさ。ニューヨークのセッションは、フレンドリーな人とそうじゃない人が両極端だった。ミュージシャン同士も、見知った間柄と、そうでないのとでは感じが違ってたな。日本だって、いつも一緒にやってるメンバーだったら和気あいあいとしてるけど、SPACYの場合は初対面がいたからね。
何度も言うように、僕の妄想から生まれたセッションだからね。それは他人行儀だよ。みんな黙っていて、ポンタが一生懸命それをとりなすの。その上、みんな僕より年上だったしね。細野さんが6つ上でしょ。佐藤君はもっと上(実際は細野さんと同年)、松木さんが5つ上、ポンタが2つ上。僕が圧倒的に若かったんだよね。僕のひとつ年下となると美奈子、ユーミン、ター坊とか居たけどね。
若いアレンジャーもいないかな。まして歌を歌うやつが詞や曲を作ったり、編曲しても、自分で弦やブラスのスコアまで書くってのは、あまりなかったよね。今でもそんなにはいないでしょ。
テイクのOKはもちろん僕が出した。「もうワンテイクやりましょう」って。そういうところで、ぐずぐず言う人たちじゃなかったよ。だけど、大体は2テイクくらいでOKだったから。「ラヴ・スペイス」ではエンディングで細野さんが間違ってるんだけど、そんなの関係ないの、別に。グルーヴが良いんだから。本人も直すとも言わないし、誰も何も言わない。
          
<ポンタと細野さんをくっつけたらどうなるか、聴いてみたかったんだ>
SPACYの曲は割と早く出来たかなw ある程度プレイヤーを想定して。ちゃんとスコアを書いて、それでレコーディングしたから。今みたいなコード譜じゃない。すべてパート譜だった。全くCIRCUS TOWNの真似で、書き譜でキーボードの押さえ方まで書いてある。チャーリー・カレロからの学習、それを踏襲してね。
もっとも、ストリングスは完全な素人だから、いろいろああでもない、こうでもないっていうのがあったけど。吉沢さんていう指揮の方がいてね。その人がすごく親切で、ずいぶん助けてもらった。そう考えればSPACY以来丸10年、他の人に弦とブラス(のアレンジ)頼んだことがほとんどないな。書きたかったんだね、自分で。
今聴くと「アンブレラ」のストリングスとかへんてこだけど、あんなの今はできないからね。シュガー・ベイブの時代のストリングスなんて、まったくの我流でさ。そこいらで売っている参考書とかでやったんだけど、その分、結構キテレツのアイデアがあるんだよね。でも、これもありがたいことに周りの友人で、編曲の知識のある、例えば坂本くんなんかは、そういう素人芸を否定しなかったし、ずいぶんいろいろと教えてもらった。そのおかげでアバンギャルドなモノにも結構知識を持てたし。
一方の佐藤君は、もともと関西エリアのミュージシャンだったけど、鈴木茂ハックルバックあたりからティン・パン・アレイと関わりができた。僕は佐藤くんが関西で活動していた時代から、彼のピアノがすごく好きだったんだ。74年かな、シュガー・ベイブでまだ野口明彦がドラムだった時代に、新宿に「サムライ」っていうピットイン系列のライブハウスがあって、そこで2回ほどやったんだ。2回目の時に大阪から「オリジナル・ザ・ディラン」と言って、トン(林敏明)のドラム、田中(章弘)のベース、石田長生くんのギター、それに佐藤くんというリズムセクションに、西岡恭蔵さんや大塚まさじさんあたりから始まって、入道だとか、ホトケだとか、いろいろな関西ヴォーカリストが、入れ代わり立ち代わり乱入してくるって言う、一種のセッション・ユニットだったんだけど、僕はそのリズムセクションに、とてつもないカルチャーショックを受けた。特に石田くんのギターと佐藤くんのピアノには驚愕したんだ。演奏力の凄さね。一晩、悩んだもんね。
その後、佐藤くんはトンや田中とハックルバックに参加して、そこからティン・パン・アレイにも加わるんだけど、ティンパン時代の佐藤くんて、本当にカミソリみたいな演奏態度でさ。スタイルもまるでダニー・ハサウェイだったから、なんで日本人にこんなことができるんだろうって。彼は作曲、編曲にも秀でていて、美奈子のRCAでのファーストアルバムの「レインボー・シー・ライン」っていう彼の曲で、そのピアノを聴いて、いつか是非お願いしようと思ってた。口数の少ない、愛想の悪いオヤジなんだけど、上手かったもんなぁ。ユカリと同じで、自分の思い通りにしか演奏できない。人に合わせられないというか、不器用なんだけど、他の誰にも弾けないピアノなんだよ。しかもピアノは完全な独学と来てる。SPACYでは3曲弾いてもらったけど、使ったテイクは2曲だった。残りは坂本くんが2曲、彼には他にもダビングでいろいろ頼んでいる。あと残り「ダンサー」や「アンブレラ」なんかは自分で弾いてる。
佐藤くんとはこれ以降、ここぞ!と言う重要なポイントにはいつも頼んでいる。特にバラードはね。最近でも(竹内)まりやの「明日のない恋」(2007)とか、還暦越しても、全く衰えていない。あの人は、僕より歳がすごい上なので、当時はとてもミステリアスで、人を寄せ付けないオーラというか、そういうのが強かったけどね。今ではすっかり丸くなって、ドリカムのバンマスやってるw
まぁあの頃はみんな尖ってたよね。今から考えるとポンタ、松木さん、細野さん、佐藤くん、よくこのメンツでやってくれたよね。でも、まぁそれが目論見だったんだから。細野さんはエンディングとか間違えたり、全然そういう意味ではスタジオな人では無いから。もっともそんなことに限らず、誰も譜面なんかろくに見てやしないw 結局スタジオ・ミュージシャンといえども、本当に優秀な人たちなら、そんなにコテコテに譜面に書かなくとも、ある程度自由裁量を残した方が良い結果が生まれる、そういうことなんだ。で、これ以降譜面がどんどん簡単になっていくw
細野さんとも、元はあまり交流もなかったんだけど、シュガー・ベイブのマネージャーだった長門芳郎くんがティンパン(の事務所)にいたでしょ。76年初めに長門くんの結婚式で、細野さんと一緒に長崎に行ったんだよね。その時4日間くらい細野さんと一緒にいて、色々と話をして。その時も、別に思い切り打ち解ける、というほどでもなかったけど、でもまぁその辺からかな。
細野さんはどんなドラムでも大丈夫なの。だってミッチ(林立夫)とか、ユカリともできるし(高橋)幸宏でも、ポンタでも、要するに、誰でも大丈夫なんだよ。はっぴいえんど時代には松本隆さんでしょ。実はリズム・セクションではベースの方が牽引役なんだよ。ドラムとベースで一見ドラムの方が華やかでリードしてるように見えるけど、実はベースの方が重要でね、ベースがイニシアチブを握っている方が、良いリズムセクションの場合が多い。ベーシストってキャッチャーなんだよね。ピッチャーの方が派手だけど、バッテリーは優秀なキャッチャーなしには成り立たないからね。夫婦と同じで、ベースは女房役だから。細野さんはそういうところがすごいよ。ある意味日本で最高のベーシスト、世界に出したって遜色は無い。
そのうえ細野さんは楽器扱いの天才だからね。インテリな人だから、いろいろ他にも興味あるんだろう。だからYMOになるんだと思うよ。細野さんは当時の僕にとっては、かなり年上だったし、はっぴいえんどというステータスも大きかった。どんなにすごいミュージシャンでも、その人とパーマネントにやりたいかって言ったら、それは無理だなっていうのがある。だからSPACYの時に、これは千載一遇のチャンスだと思ったんだ。ポンタと細野さんをくっつけたらどうなるか、っていうのも、すごく聴いてみたかったんだ。
音楽の世界っていうのは、東京生まれか、田舎で育ったか、金持ちなのか、貧乏人なのか、中卒なのか、東大を出ているのか、階層とか階級とか、出自の違いなんて全く関係なく、そういった属性の格差より、音楽性のレベル、表現技術の力量っていうのが、もうどうしようもない格差となって立ちはだかる。
下手な人は、上手い人とはできない。一緒に演奏できる身の丈、資格っていうのが厳然とあってね。音楽での意思疎通、音の中で言いたいことが言えないと、音楽ではコミュニケーションが取れない。それでもね、悲しいことに、人間の相性っていうのはいかんともしがたくてね。同じ技量の人たちが、みんな仲良しになれるわけでもない。そこで再び属性のしがらみが顔を出す。
まぁそれはともかく、もうちょっと予算があったら、違う順列組み合わせでもできたんだろうけど。でも、ここから何年間か、そういう模索をして、いろいろ試したんだけど、結局スタジオ・ミュージシャンとやることの限界、っていうのがやっぱりIT’S A POPPIN’ TIMEあたりから出てきてね。スタジオ・ミュージシャンというのは時間単位で雇用する、短期決戦型の職業演奏家。だけど、彼らも人間なので、今僕が言ったみたいな人間のウマが合うみたいなことが必ずある。一見しがらみのない仕出し屋みたいに呼ばれてきた仕事でも、あいつは嫌いだとか、あいつとあいつは仲が悪いとか、そういうことを結局、誰が気にするかって言ったら、バンマスなわけだよね。結局長いことやって、だんだん人間関係の軋轢が出てきて、あいつを替えろ、とか始まって、そのストレスが溜まってくると、行き着く先は、自分のパーマネントバンドを持ちたい、と。
さらに何よりの最大の問題は、スタジオ・ミュージシャンは誰でも雇えるが故に、音を独占できない。つまりサウンドの個性とか、差別化が作りにくくなる。どこに行っても、誰もがポンタや岡沢(章)さんのベースでレコーディングしてるから、結局、今のマシン・ミュージックと同じことになってしまう。僕はバンド上がりだから、自分だけの音じゃないと嫌なんだ。
そこの結論に行くまでに、だいたい2年ぐらいかかってるんだよね。これらの2つの問題は自分の作品のオリジナリティーを考える上で、やがて非常に大きな問題になっていった。
      
<CIRCUS TOWNとSPACYは段取りを整えるための実験作>
ミュージシャンの技量を考える上で、CIRCUS TOWNとSPACYの時代は、実に貴重な教訓を与えてくれた。SPACY(77年4月25日発売)を出した後に野音開きのライヴに出たんだよ。
4月29日だね。その時には、知人の紹介で知り合ったドラムとベースに坂本くんのキーボード、それに僕の4人でリハーサルを始めたんだけど、練習スタジオで2日やっても、出来に全然満足出来ないの。僕はそれまでライヴでスタジオ・ミュージシャンを使おうなどとは、夢にも思ってなかった。だって、ステージのギャラがめちゃくちゃ高かったから。だけど、背に腹はかえられない。しょうがなく中野サンプラザ野口五郎だったか、あいざき進也だったかのステージをやってる大仏に会いに行って、直接交渉してスケジュールをもらった。ポンタにも同じようにして、それで再び練習スタジオでリハやったら、4曲が15分で出来ちゃった。そこで考えが変わったんだよね。これはスタジオ・ミュージシャンとかの問題ではなくて、絶対に一流を使わないとダメだと思った。CIRCUS TOWNでも同じような体験をしたけど、やっぱりミュージシャンの一流、二流って厳然としてしてあるんだと。それを予算とか時間とか、そういう問題で妥協しちゃいかん、ていうね。ソロになった1年くらいで痛感した。
だからCIRCUS TOWNとSPACYの2枚は、そういう意味では、行動的な習作というか、音楽自体よりも、それを作るためのいろいろな段取りというか、ライヴも含めてね、段取りを整えるための実験作ってことなんだね。だからコーディネーションでもって、すごくクオリティが左右されるっていう。当たり前なんだけどね。やってみて、わかることがたくさんあった。そういうことの学習として、すごく役だったんだ。
で、運が良かったのは、事務所がすごく脆弱だったこと、レコード会社も無関心だったから、そういうケアをする人が誰も居なくて、交渉を一人でやったこと。それでわかったんだよね。楽器を自分で運ぶとか、そういうことより、もっと大事なことがあるって。だからSPACY以降のライヴはスタジオ・ミュージシャンに頼むことにした。いくらギャラが高くても、結局上がりが早いし、クオリティも高いから、そっちの方が得だってことが分かって。
そこからポンタ、大仏、松木、坂本のリズムセクションで、時々ライヴをやるようになった。途中からベースが岡沢さんに代わって、その結果がIT’S A POPPIN’ TIMEになる。そういうとっかかりっていうかね。そこまで、バンドをやめてから1年ちょっとなんだね。その間に「トワイライト・ゾーン」で良い経験をして、そこで吉田(保)さんと出会って、吉田さんがエンジニアをやって、ストリングスの録音とかに関わりだして。NIAGARA MOONや「夢で逢えたら」のスコアを書いている時分は、まだそんな裏側の事なんて、何もわからなかったから。若い頃っていうのは1年、2年でスポンジみたいに。どんどんいろんなことを吸収していくからね。機材の入れ替わりも、当時は日進月歩だった。僕がCMを始めた頃は、まだ卓が4チャンネルだったけど、77年には16チャンネルで取れるようになって、すぐに24チャンネルになる。そういう進歩の時期だった。
      
<会社に戻ってマスターを渡したのが朝9時だった>
スケジュールのタイトさならCIRCUS TOWNよりもSPACYだね。だって、自分で全部作ってるんだもの。当時RCAは、渋谷の宮益坂上の朝日生命ビルというプレハブ・ビルの中にあってね。そこに第一編集室、略して「一編」と呼ばれる小さなレコーディング・スタジオがあった。既成のスタジオは、予算がなくてとても使えなかったから、レコーディングはそこでやってたのね。スタジオはいろんな人と共用だったから、集合時間は12時〜17時と、18時〜23時に分けられていた。その上、保険会社のビルだったからセキュリティーがすごく厳しくて、23時を過ぎる場合は前日に稟議書(りんぎしょ)を出さないと、使わせてくれない。だから1日5、6時間しかレコーディングができない。だから、ますますタイトになる。歌入れなんか、間に合いやしない。
ミックスダウンの最終日、つまりマスター納入の締め切り日、まだ大量に作業が残っていた。18時からミックスを始めたけど、全く間に合わなくて、深夜に既成の貸しスタジオに移って、そこで朝の3時に「朝のような夕暮れ」にシンセを入れたいって言ったら、スタッフがみんな呆れてね。だって、入れたかったんだもんw 会社に戻ってマスターを渡したのは、朝の9時だった。でも、SPACYの時は本当にノー・プロモーションと言っていいよ。チラシ1枚で、取材もほとんどなかったし。
5月27日、ヤクルトホールでのセカンドアルバム発売記念コンサート。この時は、お客はよく入ったな。600人のキャパに880人も入れてたんだよね。スシ詰め。しかも事務所の方針で、招待はたったの二人w この時に「三ツ矢サイダー’76」の一人アカペラを初めてやったの。それがめちゃくちゃウケたんだよ。これはいいなと思って、そこからドゥーワップの多重に発展していく。
ライヴはこれ以降も時々やるけど、僕の場合、幸運なことに、東京ではいつもお客はいっぱい入ってた。それはシュガー・ベイブ以来ずっとで、それだけはありがたかったな。人のライヴに行くと1,000人のホールに100人とか平気であったから。この時はGOD ONLY KNOWSをステージでやってさ、間奏の大仏のベースソロが素晴らしくて。「ラブ・スペイス」でのポンタのプレイも良かった。覚えているのはそんなことばかりで、歌の出来とか全然覚えてないw 
声が出ていたのかとか、そういう自分への評価が全然残ってなくて、ただひたすら段取りだけ考えて、やっていたというかね。セットリストも覚えてないし。アンコールは何をやったのかなあ。「DOWN TOWN」はこの頃、やってなかったしね。なぜか嫌がったんだよ、みんな「DOWN TOWN」を。GO AHEAD!が出て、渋谷公会堂でライヴをやる78年暮れまで「DOWN TOWN」はステージで出来なかった。スタジオ・ミュージシャンのお好みじゃなかったんだ。
【第21回 了】

ヒストリーオブ山下達郎 第20回 サーカスタウンからスペイシーへ

<CIRCUS TOWNは自分探しのレコードだった>
1976年10月25日CIRCUS TOWN発売。アルバムの一般的な評価という部分では、実はあまり実感が無かった。ミュージシャンからの反応は概ね好意的だったけど。シュガー・ベイブの時と比べても。CIRCUS TOWNは自分探しのレコードだったから、自分の中ではある程度の成果とは思えたけど。不満な部分ももちろんあった。
一番不満だったのは、やっぱり歌。歌入れに時間が掛けられなくて、2日で全曲上げてるからね。その上、生まれて初めてのアメリカで、精神的にビビってたし。英語なんてほとんど喋れなかったから、相手の言ってることもよくわかんなかったし。僕がもし帰国子女かなんかだったら、ずいぶんと違ってたかも知れないけど、サブカルチャー出身だもの、生きてる世界が狭いからね。
後になってつくづく思うのは、スタジオの中でしか生きてなかったんだよね、それまで。ライブといったって、あくまでライブハウスじゃない。ライブハウスの中なんて狭くて閉鎖的だもの。
だからツッパてったところはある。客だって変なのがたくさん居たしね。普通、ステージ出て行っていきなり「佐渡おけさ、やれ」なんて言うか? 僕は結構そういうところマジだったから、心では「それで洒落てるつもりかよ、面白くねえよ、そんなの」って思ってた。それが80年代近くまで続くのね。「帰っていいよ!」って、よく口にしていたけど、半分は本気だったんだよ。少ない人数だと、さらにそれが常連だったりすると、客が演奏する側に、自分の好みを強要することがあるんだ。客の甘えというより独善だね。俺は特別だっていう意識。
とはいえ、日本に戻って来てライブをやろうにも、パーマネントバンドが無かった。シュガー・ベイブ解散後に下北沢ロフトで(76年7月30日、31日)初めてソロ・ライブをやった時に客があまり入らなくて、それが結構ショックだったんだよね。結局ライブハウスの世界ですら、人気なんてそんなもんだと思って。それに(上原)ユカリがこのときにはバイバイ・セッションバンドのメンバーだったから、実質的に使えなかった。その後、寺尾(次郎)も(音楽業界から)足を洗っちゃうし。だから、この時期にライブをほとんどしてないのにはいろんな理由があるけど。
77年にSPACYが出た後、野音でポンタ(村上秀一)たちとやるまでは(吉田)美奈子のバックバンドの寄せ集めとかでやってたの。そのレベルだとCIRCUS TOWNはとても難しくてできない。そんないろんな理由があってライブできなかったんだよ。
とは言え、ライブが好きなわけでは決してなかったんだ。シュガー・ベイブの時だって、やらなきゃならないからやってた。対バンと張り合うとか、そういうのがすごく嫌だった。あとイベントだと客ダネの悪さとかね。ようやくライブが好きになってくるのは、レコードがブレイクして、ワンマンでツアーがちゃんと成立するようになってからだね。
    
<僕にしたら、2万というのはすごく売れた感覚があった>
CIRCUS  TOWNについて、小杉さんにとってはかなりの努力の産物だったから、それは喜んだよ。ただこれは、小杉さんの性格なんだけど、基本的に出来上がったものには興味がない。あの人は自宅で僕のレコードをターンテーブル乗せたことが一度もない。彼にとっては常に、企画段階が最重要なの。企画とか、後はタイアップ、そういうものが決まったら、精神的にはもうできたと同じ。あの人は昔からそういう人なんだ。
彼は制作ディレクターだったんだけど、具体的なスタジオ作業にはあまり興味がなかった。この企画でこう作ろうとか、そういうプランニングが第一で、音楽制作のミックスダウンだ、なんだと言うような細かい作業は苦手だった。だから、出来上がったものに対する感想はそんなにない。それ以前の段取りが良ければ、結果も悪いはずがないと。
だから、デモテープにはすごくシビアだし、鋭いよ。制作ディレクターであると同時に、プロデューサー、コーディネーターの特質も強いんだ。とにかく僕と小杉さんがなんで30年以上も一緒に続いてるかと言うと、タイプが正反対だからなんだ。僕は制作的な、チマチマした作業を最終点まで見届ける忍耐力があったから、彼は制作面ではどんどん僕に任せきりになっていた。GO AHEAD!あたりになると、小杉さんはスタジオにはほとんど来ないで、有線でレコードをかけるとか、何かの宣伝企画とかね、そういう方に力を入れていた。
僕には事務所もなかったし、宣伝スタッフもいなかったから、彼が宣伝マンの代わりもやってた。それに、まだ社内では一介のディレクターだったから、他の制作仕事もやらされてたしね。アイドル歌手とかやらされるわけ。それが僕のレコーディングの真っ最中だったりするから、ミックスの時に韓国に行ってたり。その間、スタジオでは僕と吉田(保)さんの2人だけでね。でも、そのおかげで僕もそういうレコード制作のノウハウ、編成表の書き方を覚えたりとか、何が幸いになるか、わからないよね。CIRCUS TOWNが2万枚超えたっていうのは聞いた。オリコンは50位くらいだったかな。
その数字についても、やっぱりエレックとは違うなって。だってSONGSは100位にも入ってないもの。宣伝費もろくに出なかったし。メジャーな会社だと、ちゃんとやってくれるんだなあと思ったよ。
僕にしたら、2万と言うのはものすごく売れたという感覚があった。だってあの当時ロック系の音楽で売り上げ最高峰は、あっこちゃん(矢野顕子)の「ジャパニーズ・ガール」で3万何千でしょ。そんなものだもん。だから上出来だと思った。もっともレコード会社側は、かなり期待はずれだったんじゃないかな。大きな制作費がかかったからね。だからもっと売れてしかるべき、ということだったんだろうね。だけど今から考えたら、別に事務所に力があるわけじゃないし、バンドも持ってないからライブはできないしさ、何よりこういう音楽に対して、レコード会社もプロモートの具体的な展望や方策が、よくわかってなかったんだよ。あの頃は、どこにもそんなものだった。
CIRCUS TOWNの達成感? 難しい問いだね。でもエレック時代とは明らかに違うと言うのはあったよ。何しろ、SONGSは店頭で見たことすらなかったからね。CIRCUS TOWNはちゃんとポスターがレコード店に貼られていたもの。
前回も話したように、地方プロモーションもそれなりにしたし、取材もしたけど、すごく好意的に捉えてくれる人と、全然わからないって反応の人と、はっきりと二派に分かれてた。だって、当時の日本の流れから全く外れた作品なわけじゃない。チャーリー・カレロなんて日本じゃ誰も知らないし。もちろんグローバルに言えば、アメリカの最先端のスタジオ環境でレコーディングされたものであるはずなんだけど、日本での知名度がないから、非常に不可解なものとして捉えられているっていう。だけどそれでも、シュガー・ベイブの時よりはマシかなって。あの頃はそれよりも、CMとか外の仕事がコンスタントに入ってきて、ようやく食えるようになってきた。そっちの方が精神面では良かったかな。
    
<事務所を辞めたけど、CMで食いつないでた>
76年後半、とりあえず契約していた音楽出版社PMP(パシフィック音楽出版/現フジパシフィック)が、作家契約をすれば給料はくれるって言うんだけど、それは何のことはない、印税の前払いなのね。それに日本で作家契約なんてやったら、ひとつの会社に縛られて他では書けなくなるから、作家契約はやめて、その代わりにCMのノルマを作って、その見返りで給料をもらえるシステムになったの。月に3本やって、そのギャラが月給になるという、今から考えると変な契約だけどね。
ようやく75年くらいからCMで何とか食えるようになったから、CMやコーラスのスタジオ・ミュージシャンをやって、あとは時々作曲の依頼が来て書いたり、PMPに曲を渡したりね。それでも忙しいというほどでは無かったけどね。あとは10月(25日)にCIRCUS TOWNが出た頃には、当時のマネージャーとうまくいかなくなったの。
今も昔もサブカルチャーの世界ではレコードづくりの制作的な問題よりも、契約とかギャラとかのビジネスやお金に関する知識が圧倒的に不足している。畢竟(ひっきょう/結果)、金銭トラブルがしょっちゅうある。シュガー・ベイブの時にかなり懲りてたから、CIRCUS TOWNの時には、後々トラブルにならないためにも、マネージャーに契約をちゃんとしてくれと何度も言ったんだけど、そういう問題には無頓着だった。何かそういう事柄を語るのが、品のないことみたいに考えていたんじゃないかな。
例えば、作曲した曲の出版契約書が来ないから、音楽出版社に問い合わせると、とっくに送ったって。そしたら、マネージャーの机の引き出しにしわくちゃになって入っていたり、実務感覚が全く無かったんだよね。
で、そのマネージャーと別れて、完全なフリーになった。レコード制作に関しては、契約していた音楽出版社と担当ディレクターの小杉さんで続けることになった。それまでは小杉さんはあくまでもレコード会社のディレクターだったんだけど、ここから徐々に関係が深くなっていくんだ。小杉さんは元々音楽出版社の出身だから、契約と権利に関してはエキスパートだった。それが後々とてつもない力になっていくんだよね。77年以降のことだけど。
事務所をやめてから、僕はPMPRCA預かりの身で。でも、CMの仕事がコンスタントに来たので、それで何とか食いつないでいた。CMは広告代理店から直接家に電話で依頼が来て、自分で打ち合わせに行って。当時の僕のCMは「ONアソシエイツ」と「PMP」と、J&Kという音楽出版社の子会社で制作会社の「グローバル」、その3社がメインだった。
76年12月23日、福岡での学園祭出演。この時はユカリと寺尾、キーボードが緒方(泰男)と、ギターが徳ちゃん(徳武弘文)かな。これ、博多のどこかの大学の学園祭だったんだけど、ライヴ自体は普通のホール(福岡県立勤労青少年文化センター)でやったの。このライヴのための急造バンドだった。学園祭は2日間あって、ムーンライダースとか美奈子とか、あとは忘れた。僕は初日に自分のステージをやって、翌日は美奈子のバックをやった。あの時は「ウィンディ・レイディ」とか「ラスト・ステップ」とか何曲かやったかな。
終わって楽屋でタバコを吸ってたら、中年のオジサンが入ってきて、「君のCIRCUS TOWNというアルバムがすごく良くて、ライヴをやるっていうから観に来た」って。それがKBCラジオ九州朝日放送)の岸川均(ひとし)さんだった。その時から岸川さんとの関係が始まったんだけど、そういう人間関係が少しづつ出来ていったんだ。
   
<美奈子の「トワイライトゾーン」がSPACYの伏線になった>
セカンドアルバムについては、小杉さんが早く次を作ろうって。70年代はいつも小杉さんがせっついていたんだ。内容についてはもう僕にお任せだよね。曲を書いて、聴かせてくれって。実際にSPACYの録音が始まるのは77年の2月26日かな。この頃に大滝さんのストリングス(・アレンジ)をやってるよね、確か「青空のように」だと思うけど。
それと美奈子の「トワイライト・ゾーン」だよね、1、2月はそれがあって、大滝さんの弦をやってそれからSPACY。だから割と忙しかったんだね。
トワイライト・ゾーン(77年3月25日発売)」というアルバムは、ポンタと大仏、松木(恒秀)さんと(大村)憲司が参加して、キーボードは美奈子自身が弾いて、一発録りでやってるの。それに7管のブラスと、あとはストリングスを入れて、レコーディングはモウリ・スタジオでリズムと弦、ブラスを録って、細かいダビングと歌入れはRCAとアルファでやった。
彼女は75年にRCAと契約して、76年のアタマにRCAでの3枚目「フラッパー」を出したんだよね。だからRCAでは彼女が先輩になる。「フラッパー」に関わった延長で「トワイライト・ゾーン」になって。
「フラッパー」の時は、僕は単に曲を提供する人間で、リズム・セクションに関しては矢野(誠)さんにお任せだったから。その頃は僕はまだ、ポンタとかああいうスタジオ・ミュージシャンたちと人間的な接点をほとんど持ってなかった。だけど、美奈子からの要請で「トワイライト・ゾーン」では僕がオーケストレーションをやることになった。このアルバムのお陰でポンタとか大仏とか、そういう人たちと知り合いになったというか、一緒に仕事をするようになって、それがSPACYの伏線となったんだ。
僕がスコアを書いて、バンドがスタジオの中にいて。僕は演奏しなくて、ディレクションだから。だから「トワイライト・ゾーン」がなかったから、その後たぶんポンタとかそういうチョイスは出てこなかったね。その前から上手いとは思ってたんだけど、スタジオ・ミュージシャンという人種は、僕みたいなバンド上がりとは違って、テクニックはすごいけど、無愛想だったり、人当たりが悪かったり、仕事がしにくい印象が強かった。
唯一、ポンタは最初からすごくフレンドリーな人で、そのおかげでずいぶん助かった。逆に松木さんは最初はとにかく怖い人で、打ち解けるまでには時間がかかったけど、でも、松木さんのギターは好きだったから、色々勉強になったし、教えもくれた。まあ、そもそも「トワイライト・ゾーン」というアルバムはその前の「フラッパー」が、美奈子本来の路線とは違っているんじゃないかというところから始まっているんだよ。
美奈子のデビューアルバム「扉の冬」(1973年/トリオレコード)の頃と、ずいぶん方向が違って来ていた。「扉の冬」に戻った方がいいんじゃないか、っていう制作意図で「トワイライト・ゾーン」が始まったんだよ。アルファレコードとしては、美奈子をエンターテイメント界のスターにしたかったから、RCAとの契約後は、そうした色合いの強い作品を作ろうとしたんだよね。だから「フラッパー」はアルバムとしてはすごく優れているとは思うけど、アルファのエンターテイメント感が強く出ているというかね。アルファの感覚っていうのは、全然ロックンロールじゃない。あの時代にそぐってないというか、新しい時代に適応してなかった。
アルファという会社は、元々は慶應大学の音楽サークル出身で、みんな楽器ができるというという感じの人たちが作った集団なんだよ。だけどそれは、あくまでもビッグバンドかモダンジャズで、ロック感覚はゼロだった。
コンサートを企画するのも日比谷公会堂とか、一時代前の感覚で、なんか「サウンドイン”S”」(74〜81年放送)的な匂いが強いという印象が、アルファには強かったね。
僕もアルファからは契約しないかって何回も誘われて、本当に行く寸前までなったこともあるんだけど。でも縁がなくて、結局契約はしなかった。美奈子の場合、「フラッパー」は歌手としての吉田美奈子を使ったコンセプト・アルバムだけど、彼女は元来はシンガー・ソングライターだからね。そこのギャップをどうするかっていうのが、大きなテーマとしてあったんだよね。あの時は「夢で逢えたら」をシングルに切るか切らないかと揉めてた。
夢で逢えたら」をシングルカットしていたら、ヒットはしていただろうけど、そこから先の重心はどこに置くんだ、って言うね。何がよくて、何が悪いかわからないけど、あの時点では「トワイライト・ゾーン」の路線のほうが絶対に正解だと思ったね。まあ純粋に音楽的で考えれば、どちらも遜色は無いから、インかアウトかって言う問題なんだけどね。
     
<ポンタたちと、ユカリたちのユニットを使い分けたんだ>
CIRCUS TOWNはとにかく自分探しのためのコンセプトだったからね。シュガー・ベイブの価値観から抜けるための、ひとつの通過儀礼だった。これはたからシンガー・ソングライターの作品とはあまり言えないんだよね。
SPACYもCIRCUS TOWNの延長と言う意味では、シンガー・ソングライター的ではないはずなんだけれど、結果的にそう聞こえると言うのは、今から考えると、特にB面なんだけど、低予算で制作費をかけられないんで、コンパクトに作らざるを得なかったために、非常に内省的なサウンドになっているんだ。でも本来の僕の習性からするとGO AHEAD!なんかの方が普通なんだよね。
「ラブ・スペイス」「素敵な午後は」「ダンサー」「アンブレラ」の4曲はポンタたちのユニットで、2曲目に入っている「翼に乗せて」と「ソリッド・スライダー」は同じ日にとっていて、それは坂本(龍一)、田中(章弘)、(上原)ユカリ、それに僕っていうメンバー。これはあの頃CMをやるときのセクション。
その後の「ペーパー・ドール」とかも同じ陣容で、「2000トンの雨」もそう。アオジュン(青山純)たちが出てくるまでは、ポンタたちとのユニットと、ユカリたちのユニットを交互に使い分けていたのね。
アルバムのレコーディングにしても、例えばクールスのレコーディングとかはユカリたちだったけど、中原理恵のはポンタって言う、そういう曲の傾向に合わせたやり方だね。でもひとつ言えるのは、ドラムはほとんどポンタとユカリだけで、ベースはポンタだと大仏か岡沢(章)さん、ユカリだと田中、ベースも数人しかいない。キーボードは坂本くんか、佐藤(博)くんだから、僕の使ってたリズム・セクションはほんのわずかなの。
2つのユニットは曲調で使い分けた。ユカリはジェイムズ・ギャドソン的な16ビートが苦手で、逆にそういうのはポンタの得意技。逆にユカリはポリリズムのような独特なビート感を持ってる。それぞれに個性というか、独特のタイム感があって、それを活かしたかった。だから1曲目の「ラブ・スペイス」なんか、これをポンタが叩いたらどうなるか、って言うのを想定して作った曲だからね。ああいう16ビートっていうのは、ポンタの自家薬籠中のものだから、そこに細野さんのベースを合わせたらどうなるか、って言うことをやってみたかった。だからもう完全に座付き作家だよね。
SPACYのCD解説にそういった要点を書いてあるけど、とにかく短時間でレコーディングしなきゃいけなかった。1日2曲ずつ、5日間しかスタジオ予算が取れない。それで10曲録らなきゃいけない。お試しなんてことができなかった。リハーサルの予算もないし。でも何とか10曲、アルバムに入れなきゃいけないから。そういう時代だったんだよ。
だけど、それで得られる満足度は限られている。だから僕がよく昔言ってた「作ったものを聞きたくない」っていう、もっとこうしたかった、ああしたかったっていうのが、常に積み残しで状態で。そんな形でやらざるを得なかった。
カツカツのスケジュールだから、当然押せ押せになって、最終ミックスは1日に4曲ぐらいあげなきゃいけない、というような。
だからSPACYはCIRCUS TOWNのノウハウをどう受け継ごうかとスタートしたんだけど、予算がなかったので、少々形が変わったんだよ。スポンサーの音楽出版社も、大した予算はくれなかった。一方では、原田真二とかすでにブレイクした人たちも出ていたからね。彼らに比べたら全く売れてなかったし、金を出す方からすれば当然だよね。僕みたいなスタンスのミュージシャンは、みんな同じような境遇だったんじゃないかな。
【第20回 了】