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ヒストリーオブ山下達郎 第32回 82年「あまく危険な香り」とベスト盤、RCA/AIRイヤーズの終わり

<ドラマのオファーが来なければ「あまく危険な香り」は世に出なかった>
82年1月発売のFOR YOUからのシングルカットはなかったけれど、この年の4月5日にドラマ主題歌「あまく危険な香り」をリリースしてる。FOR YOU発売の直後だね。これがオリジナル曲としては、RVC最後のリリースになる。これはFOR YOUのアウトテイクなの。とはいえ、FOR YOU用に作っていたというわけではなくて、あくまでもFOR YOU制作時期のレコーディングという意味で、その時点では、あまりダビングも詰めてなかった。元々は誰か大人の歌手に歌ってもらおうと思って、フランク永井さんあたりを想定して書いたの。実際に82年6月にフランク永井さんに提供したシングル「WOMAN」がリリースされてるけれども、この「あまく危険な香り」を書いた前年の時点では、そんな話は具体的に何もなかった。
だから完全に夢想なんだけど、 例えば菅原洋一さんとか、フランク永井さんとか、水原弘さんとか、ああいうバリトンのちょっと洋楽的なテイストを持っているシンガーに、歌ってもらおうと思って書いたの。76年にカムバックしたルー・ロウルズみたいな感じで作ろうっていう、作家的な発想で書いた曲だったんだけど、小杉さんが曲を聴いて「これは良い、山下くんが自分でやれ」って。
でも、この曲はFOR YOUに収録する候補曲ではなかったの。FOR YOUはもう既に曲があふれていて、全然入らなかったから。前にも話したけど、RIDE ON TIMEからFOR YOUの頃は、もう湧いてくるように曲がどんどん作れたし、レコーディングも予算を気にせず。たくさんできるようになって、合わせて30曲近く録ってたからね。 本当に、それまで作れなかったのが嘘みたいに、一気に出るっていう感じだった。だから80年代の僕の活動には、その余録がずいぶんあったんだよ。
だから、TBSからドラマの主題歌の話が来たときには、この曲があると思って、引っ張り出した。今でもそういうことがあるんだよ。今はモチーフで持っていて、それを企画に合わせて、曲として仕上げていく、っていうやり方をするけど、「あまく危険な香り」は、もうトラック自体が出来てた。詞はあとから考えたけどね。ドラマのオファーが来なければ、あの曲はあの時期に、世に出る事はなかったね。もう一つ、ちょうどRVCとの契約切れのタイミングだったという理由もある。日本のレコード業界には協約があって、レコード会社を移籍したら、1年間は新しいレコード会社からは、作品が出せないんだ。だから、このタイミングで出しておかないと、ほとぼりが冷めるまで出せないから、あの曲を出すためには、ギリギリのタイミングだったんだよ。ドラマとの関係もあるから、出さないわけにはいかないしね。
その頃は、まだRVCとは契約をどうするかっていう話し合いが続いてはいたけど、すでにエアーレーベルにいたスタッフは、ほとんどムーンレコードに移っていて。82年4月に村田和人くんのデビュー曲「電話しても」が出て、ムーンレコードの活動も、もう本格的に始まってたしね。
僕だけじゃなく、奥さんも同じように移籍したんだけど、あの頃の業界の評価からすると、竹内まりやは既にピークを過ぎてたというか、最盛期より売り上げが落ちていたから、レコード会社としても、もうこの先は無い、っていう評価が本音だと思う。 まりやは84年に「VARIETY」でカムバックしたけど、その時だって業界全体では、物好きなダンナがレコードを出させた、くらいの受け取り方だったからね。当時は売り上げが一旦落ちたら復活は難しかったし、まして女性シンガーが結婚してカムバックなんて、できっこないという時代だったから。事実そうだったし。
当時の常識で考えれば、そういった状況で売り上げが元に戻るなんて事は、ありえないことだったんだよね。でも、そのありえないことが起きた。だから、やっぱりあのあたりで時代が変わっていったんだよ。
   
フランク永井さんにはこちらからオファーした>
79年から81年にかけては、とにかく来る日も来る日も、プロモーションだったんだよね。そのプロモーションを全国で動き回っていた時に、例えば新幹線で移動しながら、スタッフといろいろな話をしたんだ、レコードビジネスについてのね。
で、さっきも話したルー・ロウルズとかの話になって、日本ではなんでそういうベテランがカムバックできないんだろう、ベテランがカムバックできるファクターってなんだろう、って話し合ったことがあるんだよね。
その時に出た結論は、全盛期が過ぎてから、音楽以外のことに手を出すとダメなんじゃないか。役者とか、バラエティー番組に出て司会をやったりとかね。そういう人は、どんなに頑張っても、復活はおそらくできないだろう。でも、たとえキャバレーまわりだけだったとしても、純粋に音楽だけで活動を続けている人だったら、ひょっとしてカムバックの可能性があるんじゃないか。そうすると誰だろうってことで、候補として、弘田三枝子さん、フランク永井さん、菅原洋一さん、そういう名前が上がってきたのね。
で、 81年頃に、実際にそのアイディアを具体化してみたくなって、当時のRVCの専務で、ビクター時代に橋幸夫のディレクターだった方がいて、フランク永井さんはビクター芸能だから、その線でお願いしてみれば、何とかなるんじゃないか、言うだけ言ってみようと、それで話してみたの。だから、こっちからオファーしたんだよね。だけど、向こうは半信半疑でね。
フランク永井さんは、その時ちょうど50歳手前だった。僕は28歳。フランクさんは大御所として、もうすでに悠々自適で、月に10日しか仕事をしない。それこそナイトクラブとか、キャバレーの営業仕事をやって、帰りにゴルフをやってくる、みたいな感じで、ゆったりとしていたの。だから、そういう流れを壊すようなチャレンジをしたくない、って感じだったんだ。でもいろいろ説得してね。
もちろん、こちらはアルバムを作りたいと思ってたんだけど、とりあえずシングルにしましょう、ってなって。それで「WOMAN」を書いたんだ。
ベテランのシンガーだから、詞はフランクさんと同世代の、職業作家を数人セレクトして発注したんだけど、これがどうもうまくいかない、全然納得がいかない。「昔は良かった」とか「ピアノバーの止まり木が」だとか、内容が後ろ向きなんだ。そうじゃなくて、もっと新しい世代の言葉を使わないと、曲が生きてこない。まぁ、もっと若い作家に頼めばよかったんだけど、その辺のこっちの考えも、ちょっとステレオタイプだったかもしれない。あと若い作詞家に、僕の意図が分かってもらえるとは、思ってなかったのも事実で。ともかく出てきた詞が全然気に入らなくて、しょうがないから自分で書いた。まだ、そのほうがマシだと思ってね。で、16ビートの曲だったんだけど、あの曲調にフランクさんは、経験がないから怖がっちゃって。胃が痛いって、病院に入院しようか、とさえ思ったんだって。
フランクさんには独自の歌入れスタイルがあって、譜面は全部Cメロ譜(コードとメロディーだけの譜面)で、スタジオではブランデーを片手に、その譜面を見ながら歌う、っていうスタイルなんだ。
ところが、フランクさんは1時間以上遅れて、スタジオに来たのね。ああいう世代の人たちは、我々の時代の16ビートと呼ばれるものを、本当にものすごく怖がっているのね。だから16ビートの曲だって言うと、いじめとか、そういう感覚になってるわけ。だから「全然そうじゃなくて、これ要はラテンですから。昔のルンバとか、バイヨンの、スネアが半分になってるだけですから」てな具合にいろいろ説明して、説得したの。そしたら「うーん、そう言われると確かにね」とかってw 急に納得してくれてね。それで歌ってくれた。
「WOMAN」はいろいろがんばって、サントリーのCMのタイアップを取ってきたりして、オリコン30位台に入った。フランク永井さんがオリコンチャートに入ったのは、77年の「おまえに」以来だから5年ぶりで、「夜のヒットスタジオ」に出たのは7年ぶりだった。
だけどフランクさんは当時、シングル1枚A・B面で70万円で作ってたんだって。つまりバンドやオーケストラと一緒に、一発録りだよね。ところが「WOMAN」はA・B面で250万円かかった。それでも「あまく危険な香り」より安かったんだよ。僕も気を遣って、安上がりにしようと思ってやったんだけど、それでもビクター芸能の人が腰を抜かしちゃって、これでアルバムをやったらどれぐらいになるんだろうってw
それで、アルバムは向こうから断ってきたんだ。当時はこっちも忙しかったから、まぁしょうがないや、って諦めてね。それで、僕はツアーに入ったでしょ。そしたら「WOMAN」がチャートに入ったもんだから、今度はビクター芸能の方から、ぜひアルバムをやってくださいって言ってきた。でも、もう無理。ツアーが始まっちゃったからね。あの時にアルバムをやっていたら、かなり面白いものができたと思うけど、まあ縁だからねそういうのは。
「WOMAN」は詞の問題を除けば、サウンドは自分では結構よく仕上がったと思ってるよ。ただ、僕の作るものがフランクさんの本来のテイストとは違う、ってことは知ってるからね。僕は歌謡曲の世界を知らないから、そういう意味でのヒット曲は書けない。
謡曲サイドの人に対して、僕がやってたのは一種のショック療法でね。アン・ルイスの「ピンク・キャット」(79年)とか。こういうものもできます、っていうか、その人にとっての未来への布石みたいな、ちょっと寄り道して、新しい可能性を示すようなね。アン・ルイスなんかの場合は極端にそれをやったけど、その結果、以後の歌謡ロック的な路線に、つながったと言えるんじゃないかな。いつもそうなの。大昔の黒木真由美や、中原理恵のアルバム曲を頼まれたりしたのも、そういう、いわゆる歌謡曲のセオリーとは違った角度からの曲を、望まれたんだよね。僕が書いたからシングルで100万枚売れるとか、そんなことを初めから誰も考えていないし、僕もそんなものがやれるわけがない。
だから、ちゃんとしたスタンスの違いが確認できていれば、良い仕事ができるんだ。そこで予算の問題とか、そういうキナ臭いなものが出てくると、良くないんだよね。
だから、この「WOMAN」では、僕がイニシアチブをとって、レコーディングも六本木のソニースタジオで全部やった。でもまあイニシアチブといっても、RVCもビクターの子会社っていうか、ビクターが出資してる会社だからね、スタッフはみんな元ビクターだから。(仕上がりについては)まあ30年かかって、わかるものがあるんだよ。今から見ると、例えばサザンオールスターズの「いとしのエリー」は、オリコンで1位を獲ってないとかさ。でも、サザンの曲はみんな覚えているけど、その時の1位の曲が何だったかなんて、今は誰も知らないでしょ。だからヒットなんてそんなもの。特に日本の流行歌なんてそんなものでね。初動でどうだ、とか、そんなの長い目で見たら、たいしたことないんだよ。
この歳になって振り返ってみると、あの時代に限らず、作品のポテンシャルに宣伝マネジメントがついていけなかったっていうか、そういう例はいくらでもある。
1980年を挟んだ、あの頃のアナログ・レコーディング全盛期の時代に、僕らみたいな年間数十本ライブをこなしているリズム・セクションのサウンドで演奏すれば、それは良いものができる。それは結局、その後のコンピューター時代に、どんどん瓦解していくことになるけど、あの状態がもう4、5年続いていたら、もっともっと良い作品ができたと思う。アナログ・レコーディングがもっと成熟していったと思うよ。
でも、その音楽を世の中にどう出すかっていう、ノウハウが足りなかった。音楽を世の中に出すための受け皿として、一番強力なのは、今も昔もテレビなんだけど、昔の「夜のヒットスタジオ」や「ザ・ベストテン」のような番組の頃から、テレビの音楽番組の価値観っていうのは、僕みたいなのには、全くついていけなかった感じがするね。本当なら、何の作為もなしに、ただ音楽を流すだけでいいんだよ。それで音楽は理解できるし、良い悪いもはっきり出るんだ。でも、そういう音楽番組は、テレビではほとんどない。
ずいぶん前の事だけど、NHKで「エドサリヴァン・ショウ」をやってて、その時はジェームス・ブラウンが出てたんだけど、いわゆる有名人が、それについて解説するわけだ。その横に若いおネエちゃんがいて、その子が「私はジャニス・ジョプリンが個人的好きなんですが、ジャニスの歌い方もジェームス・ブラウンに影響受けてるんでしょうか?」って。そんなのNHKの食堂でやれ、って雑誌に書いたことがある。そんな話をしてる2分半でロイ・オービソンがもう一曲聴けるだろうって。
だから日本の音楽番組って、後で尾ひれをつけるために、音楽を引っ張り出してるだけなんだ。 勇気がないんだね、視聴率という悪魔のおかげで。結局、一般視聴者に理解してもらうという名目で、そういう余計なものを入れるんだろうけど、一般視聴者なんていないんだよ。だって音楽番組見てる人は、音楽を知って見てるんで、知らない人は初めからそんなの見るわけがない。視聴率の神話はなんて、とっくに崩壊してるのにさ。1分1秒のレイティングなんか気にしたってしょうがないと思うよ。
まぁでも、それはしょうがないことなんだけどね。30年前からそうだったんだから。
   
<「ハイティーン・ブギ」は、マッチの歌い癖を一生懸命研究した>
82年6月フランクさんの「WOMAN」発売と同じ月、近藤真彦の「ハイティーン・ブギ」発売。この年の4月6日が僕の結婚式だったんだけど、その翌日に作詞の松本隆さんと打ち合わせをしたので、よく覚えているよ。
マッチは小杉さんがディレクターだったので、ずっと近い存在だった。小杉さんとしては、山下達郎にマッチのシングルを書かせたいというのは、かなり前からあったようで、アルバムは1位を獲れたけど、当時は僕のような音楽が、シングルで1位を取れるような時代じゃなかった。でも作曲家としてならシングル1位を狙えるじゃないかなって。前年の末、マッチがレコード大賞新人賞を「ギンギラギンにさりげなく」で獲った直後で、全盛期だったからね。ヒットさせなければならないというプレッシャーは、もう大変だった。それまでマッチのシングル曲は、全て筒美京平さんだったから、マッチは初めて京平さんさん以外の作家で、シングルを出すわけで、僕のプレッシャーは相当なものだった。
ハイティーン・ブギ」は曲先だね。 あれはもうとにかくマッチの歌い癖を 一生懸命研究して。コミックの映画化の主題歌で、ヤンキーの話だから、ロックンロールの曲じゃなきゃならない。「ハイティーン・ブギ」とKinKi Kidsの「硝子の少年」は、必死というレベルの力が入っている。1位が決まっている曲っていうのは、すごいプレッシャーがあるから。だから、あれを10曲書けと言われても、僕にはとても無理。実は僕は、若いアイドルに書いた曲って、全部で10曲もないんだ。アルバムに書いてるとかもないし。特に女の子のアイドルはほとんどない。歌のレンジが狭いので、表現が圧倒的に制限されるから、基本的にあんまり好きじゃなかったんだ。
アイドルをやるんだったら、そんなに売れない人でも、上手いシンガーに書きたいから。84年だけど、円道一生くんをやったみたいな、ああいうやつ。RVCの仲良しのディレクターに頼まれて、彼の歌を聴いていたら、ウィルソン・ピケットみたいで。サザン・ソウルは自分にはできないけど、曲なら書けるから、まぁ作家志向だね。そういうことが色々とやれていた時代だったしね。 レコーディングもスタジオに入って、4リズムで録音してから、かぶせて終わり、っていう時代だったから、今とは比べ物にならない速さだったしね。コーラスを入れて、弦を入れて、ブラスを入れて、っていうのも、極端に言えば3日で出来たから。もう、今はそういう事は全く不可能だけれどね。それに人に書いた曲の方が、真面目にやってるっていうところもあるからw
今(2013年)でも、アイドル曲のオファーはあるけど、やる暇がない。精神的に余裕がない。自分のと、まりやのをやるので精一杯だもの。それに、まだプロツールスが完全にクリアできてるとも言えないし。いまだに自分が思った音にならなくて、しゃくにさわる。今、みんな同じ音がしてるじゃない、あの音、イヤなんだよ。それで良しとすれば楽なんだけど、そうじゃない音をプロツールスで作ろうと思うと、大変なの。
ハイティーン・ブギ」は 自分で言うのもナンだけど、会心のモノだと思う。80年代半ばにあった、マッチのファンによる作品人気投票で、2位だった時は嬉しかったな。あと最近マッチが小杉さんに、僕の「ハイティーンブギ」と「MOMOKO」の2曲は「なんで、あんなに歌いやすいんだろう。この歳になって歌うと、よくわかる」って言ったんだって。それは歌いやすいように作ってるからねw
そういうものもね、もっと若い頃にいろんな仕事をこなしながら、曲を書いた経験が生きてるっていうか。あと、コーラスをやってたときの、コーラスがリードヴォーカルに勝たないようにしなきゃいけない、とか。そういうことって、結構あったから。そういったノウハウが、やっぱり生きたんだよね。ロックンロール・スピリットとか、そんなにかっこいいもんじゃないけど、やっぱりああいうアイドル歌謡とか、歌謡曲への、ひとつのアンチテーゼとして、こっちは始めたんだよね。だから、マッチじゃなきゃやらないよ。マッチは小杉さんがやっていたから、ポリシーがわかる。ずっと見て知ってるからできるけど、おニャン子(クラブ)やれとか言われたって、できるわけがないもの。Aという歌手、Bという歌手、Cという歌手、 何がどう違うのか全然わからない。差異がわからないのに、曲なんかできないでしょ。それを筒美京平さんに言ったら、なんかニコニコ笑ってるだけでねw
   
<82年あたりから、計画的な全国ツアーが組めるようになった>
82年7月、初のベストアルバム「GREATEST HITS!OF TATSURO YAMASHITA」発売。これはRVCとの契約が切れるので、作ったの。これが契約枚数クリアの最後だったから。 だから「あまく危険な香り」を入れるためのリリースだね。アナログ盤の時代ですから。
でも、グレイテスト・ヒッツって言ったって、ヒット曲はRIDE ON TIMEしかないw だから洒落だよね。ベストオブ〜はイヤだから。選曲は100%自分。あとから考えると、もうちょっと……でもあんなもんでしょう。CDになってから「LOVE SPACE」入れたり、「9 MINUTES OF TATSURO YAMASHITA」をボーナス・トラックにしたけど、アナログ盤はアルバム片面6曲しか入らないからね。
この年のツアーは、年1回に戻った。年2回やったのは、80年と81年だけ。セットもなければ、少量のPAを楽器と一緒に、4トン車1台だけで運んでたんだ。こっちもあの頃は、そんなもんだと思ってやってたからね。地獄のロードだった、本当に。82年あたりからようやく本格的に動員が良くなってきて、計画的な全国ツアーが組めるようになった。今でも覚えてるけど、83年までは、例えばホールがキャパ2,300あったとしたら、当日は残券が300くらいあってね。それが、当日券で売れて、ソールドアウトになるっていう感じだったんだけど、83年のMELODIESのツアーかな、宇都宮で、初めて前売りで全部売り切った。それをよく覚えている。それからはずっと、割と安定してやってるけど。
でもね、最初のうちは、春秋、春秋と続けていると、少し減ったりするものなの、飽きられてね。そういう浮き沈みを経て、2〜3年やると安定してくる。それが当時の新人にとっての、ライヴの成功パターンだったんだけど、今はどうなのかな。今はなかなか、そこまでやれないかも。人件費も機材費も、高騰してるから。あの頃は、まだ人件費もギャラもみんな安かったから、数をやれたんだよ。
この頃のRVCとの関係で言うと、こっちは芸人だから、そんなにあからさまには来ないんだけど、でもエアーレーベルを作ってからは、そこからはもう、宣伝のセクションが全然別でしょ。そういうことに対する反感っていうのはあったな。「オレたちがやってきたものを、横から取りやがって」という感覚はあったかと。スタッフ同士の軋轢っていうか。お互いにレコード会社の社員で、音楽好きだし。でも、僕なんかがそう思ってなくても、今までの宣伝だって、「オレたちだって頑張ったんだ」っていう自意識があるわけで。まぁこっちも自分の歴史に鑑みた、色々があるからね。若かったっていうのも、もちろんあるし。どっちにしろ移籍するっていうのは決まってたから、みんな少しずつ家財道具をまとめて。そういう時代だった。日常的に険悪だったとか、そういうんじゃなくて、そもそも勤めてる場所が違うからね。それに僕自身は別に、個人的にどうっていう事は無いから。移籍するっていうのも、僕が移籍したいって言ったわけじゃないからね。別にあのままその後のBMGでずっとやっててもよかったんだけど、前にも話したけど、色々あったからね。まぁそういう事は、いつの時代にもあるけど。
     
<RVCを離れることにそんなに感慨はなかった>
正直に言うとね、ソロになってから所属していたRVCというレコード・カンパニーに対する愛情があるかと言ったら、そんなにはないんだ。当時はレコード会社がすべてのファクターじゃなかったからね。音楽出版社PMP(パシフィック音楽出版/現・フジパシフィック音楽出版)にしても、契約はシュガー・ベイブ時代からの延長で、 ソロになっても原盤出版契約が続いていた。まぁ、あの当時のレコード制作予算はものすごくかかるんで、個人じゃ出せないし。あの時代の1,000万てすごいからね。高い機材を買うのだって、お金を出すところは原盤会社で、レコード会社はそういう事は引き受けないわけ。
だから、お金がかかる割には儲からないっていうのが、いわゆるロック、フォーク、ニューミュージックだから、音楽出版社サイドからすれば、そこを我々が支えたっていう自負とか、自意識があったとは思うんだけど、こっちは支えてもらったなんて意識は、そんなにないのね。だって、給料くれたわけじゃないもの。レコードが売れないから、印税なんてそんなにないでしょ。そもそも曲書いたからって、ヒットするわけじゃないからね。だからそんなに感慨はなかったんだよ。
そう考えると、レコードが売れるようになるまで、僕にとっての一番の収入源はコーラスのスタジオ・ミュージシャンと、CM作家として、なんだよね。 その意味でON(アソシエイツ音楽出版)の大森(昭男)さんを初めとして、僕にCMの仕事をくれた広告代理店、「ミュージシャンは名刺を持つな」と、 僕にアドバイスをくれた広告代理店の人、そういう人に対する恩義の方が、圧倒的に強いんだよ。だって、食べさせてくれたんだもの。そういう意味での愛情は、レコード会社に対してはそんなにないんだよね。現場の人間とは交流してるけど、結局、我々の音楽に対するシンパシーがないっていうか、歌謡曲サイドの人の中には、廊下で会うと「あ、まだ君いたの、もうとっくにいなくなったと思ってたよ」とかねw そういうのがあるわけですよ。そういう意味ではソロになりたての頃は、シュガーベイブの事務所の延長でやってたんだけど、ライヴでもヤクルトホールとか、600から1,000人ぐらいのとこだけど、ちゃんとお客さんも入ってたから。だから、別に助けてもらった覚えはない、っていうのが正直なところでw 自分で独立独歩で食ってきた、っていいう意識があるなあ。シュガーの時からそれは幸運だったけど、山下洋輔さんや向井滋春さんと同じ事務所にいて、それなりに回って行けたんだよね。
CMは個人的に仕事が来て、やってたし、そういう人脈がまた仕事を回してくれたりしてたから。そういう意味では、別に困ってなかったっていうか。自分のレコードが売れなかった以外はねw
結局、食べられなければしょうがないからね。別に家が裕福で、パラサイトしてても食べられるんだったら、それでもいいけど、僕は貧乏人の息子だから、とにかく食べなきゃいけないし、シュガー・ベイブ時代に最初に所属した風都市だって、給料も一銭もくれなかったからね。ひどい話だよね。今みたいにバイトが潤沢にある時代でもなかったし。不景気で、オイルショック(73年、78年)だからね。
だから、自分の音楽が売れないのはいいんだよ、それはしょうがないことだから。だけど、マネージメントが嘘を言って金を出さない。(現場に)行ったら、楽器がない、みたいな。そういうサブカルチャーを隠れ蓑にした世界は、ほんとにイヤだった。 だから、あんな風都市なんて事務所より、僕らが出ていた(ライブハウスの)ロフトの方が全然コンセプトがしっかりしていて、ロフトの平野(悠)くんは嘘は言わないし、チャージバックはきっちり払ってくれたしね。同じサブカルチャーでも、そういうことだったらいいんだよ。たとえ、それがどんなにしょぼくても我慢するけど、契約して金を払わないのはひどいだろうって。そういう思いが、僕の根源にはあるんだ。
【第32回 了】