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ヒストリーオブ山下達郎 第33回 MELODIESへ、そのアルバム・コンセプト 1982〜83年

<”Sparkling ’82〜’83”ツアーで、ようやく全会場ソールドアウトになった>
ベスト盤は別として、82年4月シングル「あまく危険な香り」から、次作83年6月のMELODIESまで1年あまり、その間はレコーディングもやってたし、ツアーもやっていたので、別に取り立ててブランクという意識はなかった。結婚(82年4月)というのもあったし。
82年10月からは、”Sparkling ’82〜’83”ツアーだね。この時からメンバーを替えたんだ。それまでのリズム・セクションは5人だったけど、キーボードを野力奏一と中村哲の2人にして、6人編成になった。それ以降、ずっと6人編成というスタイルで現在に至っている。サックスを渕野繁雄さんにして、コーラスも全員替えた。この時に村田和人くんに入ってもらったんだ。
あとはこのツアーから、今のようにステージをきちっとセットを組んで、できるようになった。それまで4トン車1台で、楽器とPA機材を運んでいたのが、ここからは10トン車2台で規模が大きくなった。それでようやくちゃんとしたツアーの形態が取れるようになったの。
これは観客動員の結果だね。このツアーでは全部で18本やったんだけど、ようやく全会場ソールドアウトになった。その前のツアーまでは、宮崎とか、お客さんが入りにくいと言われた何か所かは、やっぱり空席があったりした。でもこの時は宮崎も一杯になった。それは覚えている。
でも、僕のツアーが本当にコンプリートでソールドアウトになったのは、この翌年の83年からなんだ。今でも覚えているけど、それまではね、宇都宮なんかだと、公演当日に残券がまだ200前後あって、それが当日券で売れてソールドアウトになる、という感じだったのね。でも、83年12月に宇都宮市文化会館でやった時に、初めて前売りでソールドアウトになった。
とはいえ、この82年のツアーの時は、とりあえず全公演が満員になった最初で、この頃から事前のスポットとか、広告も、イベンターがちゃんとやってくれるようになったのも大きい。それまでは本数は多くても、どちらかといえば単発的なツアーの延長という感じだったけど、ここいらあたりからは、スケジュールも計画的になってきて、他と同じようなメジャーなコンサート・ツアーの形態が、ようやく取れるようになった。それが、この82年のこのツアーだったんだよ。
   
<僕のステージはダンスとかもないから、もっと演劇的な世界にしたかったんだ>
まだこの頃は、照明やステージセットに対して、 そんなにこだわってはいなかった。でも、希望は出してたよ。82年のツアーのセットは缶詰だったかな。プランナーが来て「こういうのはどうか」「これじゃ嫌だ」とかね。この頃はユーミンのステージに象が出たりして、ステージ演出がだんだん派手になっていった時代だったけど、それでもまだステージセットへの考え方は、今とは違っていたから。バリライトもまだなかったし、ステージの奥から客席に向かって明かりを飛ばす”目つぶし”とか、スモークなんていうのが、まぁ一番派手と言えば派手なステージ演出だったんだけど、僕は「目つぶしや、火や煙をやらないステージにしてくれ」って言ったんだよね。僕のステージはダンスとかもないから、どちらかと言えば割とスタティック(静的)な作りというかね。ピンク・フロイドみたいに大掛かりなものも嫌だし、もっと演劇的な世界にしたかったんだ。ちょうど照明も、戸谷光宏さんっていう演劇畑の人、美輪明宏さんとかの舞台を手がけている人だったのは、幸運だった。
で、92年のツアーまでの照明は戸谷さんで、94年の”山下達郎SINGS SUGAR BABE”のステージから、今の小川幾雄さんになった。小川さんも演劇畑が主で、野田秀樹さんの夢の遊眠社をはじめ、たくさんやっている人で、たぶん今、日本で一番売れている照明プランナーの一人だと思う。つまり、僕の82年以降のステージの照明は、全て演劇関係の人にお願いしてるんだ。演劇の人の照明は、コンサートをやっている人の照明プランと全然違うからね。そこは割と早くから考えてたんだよ。
いわゆるロックのライヴでの、ピカッ!ドン!ワーッ!っていう世界じゃなくて、時間の経過っていうか、例えば夕暮れから夜になる変化を表すとか、 そういうことをしたかったんだ。芝居のセットって、そういう作り方をしているでしょ。だから、演劇の中のどこか一場面のような、例えば公園だとか、遊園地にしようとか、そんな感じで考えていったんだ。でもこの時代は、まだもうちょっと抽象的で、例えばでっかい朝食テーブルとかね。あれはどっちかっていうと、アメリカン・モダンアートの(クレス・)オルデンバーグとかの、巨大志向の作品の影響だったりもするんだけど。この82年のツアーの舞台も、缶詰の缶があって、そこに全員が乗っているという。あれはやっぱりモダンアートのジャスパー・ジョーンズとか、そういう世界に影響されてる。
セットについては、こっちがアイディアを言うと、美術家がそれに対して、どうですかって出してくる。そんな感じで作っていくんだけどね。でも、この年は良かったけど、83年のツアーでは、森から始まって、海に転換するっていうイメージを舞台で作ったんだけど、あれは大失敗だったw そういう試行錯誤を経て、今があるんだ。
それ以前のツアーでは予算がないから、そんな舞台演出的な話はできなかった。何しろ4トン車1台きりだから。せいぜいじがすり(舞台に敷きつめる黒布)と、ステージ効果といっても、風船があって、それが膨らむとかね、後ろから光を当てると、透過する偏光シートを使って、その中に照明を押し込むとか。そういう非常に消極的な仕掛けしかなかった。後はミラーボールを三色くらいの光で照らして、カラフルにするとか、そんな程度。フィルムをちょっと使ったな。「スペース・クラッシュ」の間奏にアポロ13号のフィルムを流したりね。そういう、ごくありきたりなステージだった。
僕は80年秋から81年の春までで、約70本コンサートをやってるんだけど、その当時はお客さんが、どこもいっぱいというわけじゃなかった。そういう段階では、ちゃんとしたセットを作るのは、予算の関係で無理だった。もっとも、その後の僕のツアーだって、今に至るまでそんなに、予算的に野放図にやってるわけじゃないけどね。あくまでホール・コンサートだから、セットはあくまで主じゃなくて、従だもの。
今はアリーナクラスやドームクラスのライヴでは、セットとかプロジェクションのような特殊効果に、金をかける競争になっていて、いくらお金があっても足りない、っていうのが現実だから。長いことツアーやってると、メンバーの間とか、スタッフとメンバーとの関係とか、いろいろ出てくるんだよ。まぁそういう問題は、僕に限らず、誰もが抱えているんだけどね。でも最近の10年くらいは、そういう人間関係も結構に慎重に考えるようになって、スタッフの選び方とかもきちっとやってるから、あんまりトラブルは無いけど。それは経験だよね。こっちも若いから、そんなに言えないしね。今は「嫌なら辞めて」とか言えるけどね、昔は、ね。
   
<MELODIESでは、せめてGO AHEAD!くらいまで戻ってみよう、って思った>
今回(2013年)MELODIESの30周年記念盤を出したときに、そのライナーノーツとかツアーのパンフにも結構書いたんだけど、FOR YOUがかなり売れたでしょ。だからFOR YOUが出て、この(82年10月からの)ツアーが始まる頃っていうのは、とにかく「夏だ、海だ、タツローだ!」のピークだったの。この時は地方に行ってライヴをやって、プロモーションをやって、ラジオに出て。それがFOR YOUが出てから、夏を超えても延々続いたんだよね。で、これはなんかおかしいなと思って。だって、その2年か3年か前には、そんなこと全然なかったんだから。それが「COME ALONG(80年3月カセットで発売)」あたりからだんだん始まって来て、全国に波及するのが数年かかるわけで。
とにかくイメージというものは「夏といえば山下さん」「夏は好きなんですか?」「夏はやっぱりサーフィンとかやるんでしょ」って、毎日そうだから、大丈夫かなと思ってきてね。このまま行くと、どうなるんだろう、って。それに僕が売れたことで、似たような売り方の人も出てくるじゃない。そういう人たちとも一緒にされたくないし、どこかで差別化を図らなきゃダメだろうと思ったの。
あとは、やっぱり僕が30歳になるというのがすごく大きかったよね。 この頃ってちょうど30歳手前だったでしょ。当時は30歳を境にして落ちていくっていうのが、普通だったからね。30歳過ぎて、ロックなんかやれないよって。それは同世代のみんなが、同じことを思ってたんだよね。「Don‘t Trust Over Thirty」、30歳以上を信用するなって言ってたのが、自分が30歳になっちゃうわけだからね。だから30歳から先の展望どうしようかっていう事は、みんな真面目に考えてたんだよ。何度も言うように、僕はそんなに長く現役は続けられないと思ってたから。 あと何年か現役をやるとしたら、このまま夏男で3 、4年現役をやって、「売り上げ落ちましたね」っていうふうになって終わるのは、絶対にイヤだった。それにおかげさまで、例えばレコーディングの環境とか、バンドの状況とか、そういうものはシュガー・ベイブの頃頃と比べると、革命的に改善されていたのね。折しも82〜83年の、デジタル前夜のアナログ・レコーディングのスペックっていうのは、最高と言っていいくらいのクオリティだったから、制作条件では言うことがなかった。だったら今、何をやりやろうかという時に、じゃぁ昔に戻ろう、もうちょっと昔の、内省的な感じにしよう、せめてGO AHEAD!くらいまで戻ってみよう、って思ったのね、それがMELODIESのコンセプトになったんだよ。
そのコンセプトが見えたのが、82年の夏くらい。レコーディングの準備を始める頃に考え出して、そのためにはどういう曲を書こうかっていうので「悲しみのJODY」から始まって、すべてそういう意識で書いたの。
で、曲もそうなんだけど、シュガー・ベイブの時に自分は何をしたかったか、考えると、音楽的な問題はあるけど、スタンスってすごい重要じゃないかと思ったの、自分が何の歌を歌うとかね。例えばはっぴいえんどの作品は確かに優れているとは思うけど、僕自身はああいう曲を歌いたいと思った事は無い。それじゃ何を歌いたいのかって言ったら、もっとすごく個人的でシンプルな心象風景。抽象的な心象風景を歌うのが、好きだったんだ。私でもそういうのが好きだったし。だったら、そういうものに戻るのなら、もっと詞についても考えるべきじゃないかと思ったんだ。
   
<自分の本来に戻って、どれぐらいできるか、トライをしようと思った>
さっき言ったみたいに、レコーディングやライヴを取り巻く状況は、ものすごく良くなっていた。一つ一ついろいろなことが改善されてきている中で、後は何が不足かって言ったら、自分の好きな言葉かな、と思ったの。それまでの曲作りは(吉田)美奈子とずっとやってきたんだけど、女の人の物の見方と、男の人のそれっていうのはやっぱり違うので、男の視点の歌がもっともっと欲しいと思った。それはシュガー・ベイブの頃からずっと考えていたことなんだけど、そういうことを本気でやりたいんだったら、自分で詞を書くしかないと思ったの。結果、MELODIESでは 全曲自分で詞を書いた。
日本のフォークやポップなものの作詞ということでは、女性には優れた人がたくさん居たんだけど、男性では自分にとって魅力的なものがあまり見当たらない時代だった。あの時代のポップ界は、もう松本隆さんの天下でね。ポップミュージックにおける、作詞としての個性っていうものを見た時に、松本さん以外に誰も居ないんだ。
もうちょっとロックンロール寄りだと、忌野清志郎さんとか、男の人でも独立独歩の人がいたんだけど、ポップミュージックの分野だと、既成の職業作家に頼む人が多かった。それって何か変じゃないかなと思ってね。自分が75年ぐらいに考えていたポップ・ミュージックっていうのは、あの頃はみんな稚拙でも、自分で詞を書いていたよね。でも、それがだんだん通用しなくなって来てるっていうのかな。サザンオールスターズの桑田くんなんかもいたけど、でも桑田くんの詞は、僕と全然世界が違うしね。
じゃあ自分はどうしようかなって、そのことは随分考えたんだよ。 シュガー・ベイブの時代から作詞のアイデアノートはずっと持っていたのね、いろいろ書き込んでいて、例えば「2000トンの雨」とかは、そのノートからのヒントで作ってるんだけど、そういうのが結構あるの。だからそのノートを見てね、自分で詞を書くんだったら、どういう詞にしようかって、半年くらい色々考えてたんだ。そういう意味ではMELODIESは結構計画的というか、逆に確信犯的に作り始めているんだ。
でも、その根源となっているのは、”夏男”から離脱する方向と、この先、現役でいられる期間が残り少ないんだったら、もうちょっと自分の本来に戻って、どれぐらいできるかってトライをしようと思った。それがMELODIESというアルバムなの。ちょうどレコード会社も移籍するから、イメージチェンジするにも良い機会だと思ったしね。

それからこの頃、ラジオが始まったね。83年4月から3年間、POCKET MUSICが発売される直前まで続いた。NHK-FMサウンドストリート」、木曜日だったね。

【第33回 了】