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ヒストリーオブ山下達郎 第23回 78年、POPPIN’ TIMEからGO AHEAD!へ

<新曲はリハ前の2週間で作ったんだ>
IT’S A POPPIN’ TIME(78年5月発売)の新曲は、ライヴをやる2週間くらい前に作ったかな。正確にはリハーサル前の2週間だね。ライヴを想定して「雨の女王」と「シルエット」、あと「エスケイプ」だね。それとカヴァーをやろうということで、ブレッド&バター「ピンク・シャドウ」と(吉田)美奈子の「時よ」をやった。それと別にレコーディングした「スペース・クラッシュ」、資生堂CMをフルヴァージョンでひとりアカペラにした「マリー」。だから新たに書いたのは4曲、あとはアカペラだね。「PAPER DOLL」はこれ以前にレコーディングしてたけど、その時点では未発表なので新曲扱いで計6曲。それと洋楽カヴァーで「Hey There Lonely Girl」があって。だからライヴアルバムの流れとしては、割と理にかなっていると思うんだ。なので、そうした内容でやるには、2枚組じゃないとダメだったんだよ。
当日の演奏曲順で言うと、アナログ盤のB面は「WINDY LADY」から始まるけど、あの演奏の前に「わーっ」と声が入ってるでしょ。あれはアナログ盤には入ってなかった1曲目の「LOVE SPACE」が終わった後の歓声なの。2002年のリマスターCDにはボーナストラックとして入ってるけどね。
3曲目が「素敵な午後は」で、そのあとが確か「雨の女王」。ここら辺からちょっと違ってくるんだけど。アルバムの曲順が、あの並びになったのは、新曲やカヴァーをA面にしたかったからで、実際はB面の中頃にA面のライヴ曲が入ってくる感じだね。実際のライヴで、アタマから新曲をやってもしょうがないからね。だから、実際の現場では、ライヴが始まってしばらくしてから「今日はライヴレコーディングをしています。アルバムのために新曲をやります」って言ってるの。C面、D面は、ほぼあの流れかな。「SOLID SLIDER」の前あたりに、これもアナログには入ってなくて、CDのボーナストラックになってるラスカルズの「YOU BETTER RUN」のカヴァーをやってるね。
ライヴのリハは3〜4日間だったかな。リハでやったのはほとんど新曲のみ。だって既に一年ほどやってるメンバーだったから、既成の曲はもう慣れてるし。そもそもライヴアルバムで行けるなと思ったのは、彼らはスタジオミュージシャンの集合体なので、いつもは譜面なしじゃ演奏してくれないんだけど、あの頃には「CIRCUS TOWN」や「SOLID SLIDER」はもう皆ほとんど譜面なんか見てない。パターンミュージックだからね。だから、これくらいまで行けば、ライヴを録っても大丈夫だなと思ってね。
メンバーとの関係はすごく良かったよ。でもこの後から少しづつ、たとえば坂本くんがYMOにシフトしたりとか、ちょっとづつ皆が別の方向を向き出して行くんだよね。一人一人は技術的に非常に高いけど、全体の協調性とか必然性っていうのは、元々そんなになかった人たちだからね。あくまで僕個人の人選だったから。
メンバーからのピットイン・レコーディングの感想? あの人たちはね、僕の作品とか歌に関して、当時は感想らしい感想を言ったことがないんだ。ポンタだけかな。ポンタは「これは気持ちいい」とか時々言うことがあったけど、他の人たちは、あとになったら色々言ってくれたけど、その頃はほとんどなにも感想を聞いたことがない。まあ、それは東京特有のツッパリっていうか、特にあの時代のミュージシャンの空気っていうかね。あの頃は本当にミュージシャンに気を使っていた。特にスタジオ・ミュージシャンにはね。それがなくなるのは80年代に入って、自前のリズムセクションを得てからだね。
     
<「ピンク・シャドウ」はあのメンバーじゃなければ、ああいうアレンジにはしなかった>
日本語カヴァーで「ピンクシャドウ」を選んだのは、好きだったから。あと、正直なところ、あの曲のオリジナルアレンジがあまりピンとこなかったんだ。あの曲だったら、もっといい展開が作れるんじゃないかと思って。オリジナルは、良く言えばレイドバックしてるんだけど。でも、あの曲はもっとスピード感のある、ダイレクトなアレンジにした方が映えると思って、ああいうふうにしたんだ。
ブレッド&バターは大好きだよ。良い曲が多いし。作品的にブレバタは素晴らしかった。なんであの曲をああいうアレンジにしたかは、もう一つあって、要するに上手いスタジオミュージシャンって、簡単に演奏できるようなアレンジだと真面目にやってくれないの。あの人たちをキリキリ舞いさせるようなアレンジじゃないと、真面目にさせられない。だから「シルエット」とかでも、分数コードとか、変拍子が延々続く、ああいうんじゃないとダメなんだ。彼らの抜群の読譜力と演奏力に対して、音楽としての難易度、演奏の難易度を高めて、これは寝てちゃ出来ないと思わせるくらいでないと。上手いミュージシャンは得てしてみんなそうなんだけどね。
あとはあの時代、スタジオ・ミュージシャンには8ビートは嫌われていてね。16ビートじゃないとバカにするというか。だから、ひたすら16ビートの曲。よく言うけど、座付き作家みたいなもんなんだよ。メンバーを想定して中身を考えていく。完全にそう。だから「ピンク・シャドウ」はあのメンバーじゃなければ、ああいうアレンジにはしなかった。
その後、この曲は青山純伊藤広規たちともライヴでやっているんだけれど、それもまた素晴らしい出来なんだ。よりバンド・サウンドになっていてね。まだCDにはしていないけれど「JOY2」とかチャンスがあれば出したいなと思っている。今のメンバーでも練習してるので、近いうちにライヴで久しぶりに聴けるでしょう。
ともかく、この時代には、どうすればこのメンバーで最大の効果が挙げられるか、ということを考えてやっているの。でも結局、いつもは違う仕事をしている人たちが、寄り合いで集まってくるから、それがスタジオ・ミュージシャンを使うことの限界。スタジオ・ミュージシャンは、どこまで行っても、やっぱり他人の持ち物だから。彼らに求められるのは、その人だけの音じゃない。だけど、こっちは自分だけの音を出したい。だから相手が気づかないうちに、そういうものを構築するにはどうやれば良いのか、考えなくてはならなかった。まあ、それはある程度までは出来たけど、でも、それが本当に自分がやりたいスタイルでは無かった。本当にやりたかったのは、もうちょっとシンプルな発想。それは、あまりうまく言えないけど。
だから、僕はこのリズムセクションよりも、GO AHEAD!(78年12月発売)のリズムセクションの方が好きなんだ。世評はどうであれ、僕はあっちの方が好みなんだよ。「PAPER DOLL」とか「BOMBER」とか、ああいうトラックの完成度の方が、僕は好きなの。でも、まあしょうがないんだよね。同じ技量でも、そこから先は音楽的嗜好になっていくから。それは演奏家として誰が良いとか悪いとかいう問題とは、全く別なんだ。だけど、長い目で見るとね、ちょっとだけ不器用な方が好きなんだよ。そういう方がロックンロールに思えるんだ。
でも、POPPIN’ TIMEみたいに短時間で仕上げることを要求されるセッションは、やっぱりああいったメンバーじゃないと出来ない。それが音楽として本当に好みかっていうと、すごく難しいところだけどね。それは本当に偶然というか、巡り合わせに近いものがある。自分の意見じゃどうにもならない。
例えば、まりやの「元気を出して」なんて難しい事は何もやってない。だけど、何十年聴き続けても、あのトラックはいいトラックなんだよね。それが何でかはわからない。それは自分の作品に限らないことでね。たったこれだけのことしかやっていないのに、どうしていいんだよっていうのがある。その違いを生み出すものが何かはわからないんだよ。
でもまぁPOPPIN’ TIMEの不満を言えば、「エスケイプ」みたいな長い曲だったら、もうちょっとメンバーに、この曲に対する自分の役割みたいなことを表明してもらえたら、もっと良いトラックになったのに、っていうのはあるかな。それはやっぱり思想的な問題なんだよ。今だったら途中でエディットしちゃうかもしれないね。「エスケイプ」は、雑誌を読んでいたら「ナウなシティーボーイとシティーガールのための総合誌」とかそういうキャッチフレーズがあったんだ。大体僕らの音楽は、シティミュージックと言われてたでしょ。それでずいぶんライターと喧嘩したの。「僕はシティミュージックとかニューミュージックじゃないんだ」「なんで?」とか。そういうものが鬱屈しているっていうか。まぁ要するに、あの時代は世の中を恨んでたんだよ。だから10年後の「The War Song」と比べれば違いがわかるでしょ。冷静でしょ。だからその10年は大きいんだよ。本当に「エスケイプ」は頭脳警察みたいなことをやってたんだよ、歌詞的にはさ。明るい感じじゃ全然ないしね。
六本木PIT INNはすごく演りやすかった。お客も良かったし。あの時は確か外部PAが入ってたんだよ。モニターもあったと思う。メンバーはヘッドフォンでやってた記憶があるな。ビルの上のスタジオから返してね。ライヴは2日間で、採用したのは全部2日目の演奏。1日目と2日目の演奏が極端に違うんだよ。そういう人たちなんだね。
もしPIT INNがまだあったら、またやってみたいと思うね。彼らがいいっていうんだったら、このメンバーでもやってみたいね。
   
<この年の6月にキングトーンズに「LET’S DANCE BABY」を書いた>
2枚組POPPIN’ TIMEのレコードとしての反響は分からないなあ。もうそういうことに関心が無かったから。発売が5月で、この時には全国をまわって、キャンペーンはやってるんだよね。
SPACYの時はキャンペーンやってないからね。CIRCUS TOWNの時はやったけど、SPACYの時には、やれなかったという感じかな。
キャンペーンの反響は、このアルバム内容でしょ、全然だった。ただ、ひとつのターニング・ポイントとなったのは、石原孝くん(のちのムーンレコード創設メンバー)だった。石原くんは元々RCAの洋楽に居たんだけど、POPPIN’ TIMEが出る頃には大阪の宣伝部に移動になってたんだよ。それまでのRCAの大阪の宣伝担当は演歌べったりで、ニューミュージックなんかハナからやる気がない。だから僕に関しても全く何もしてくれなかったんだけど、そこに石原くんが行ったので、小杉さんはこれがチャンスと思ったんだろうね。今でも覚えてるけど、大阪のビジネスホテルで、小杉さんと僕と二人で石原くんを説得して、俺たちをやってくれ、って。そこから石原くんが動き始めて。それがGO AHEAD!(78年12月発売)の「BOMBER」のブレイクに繋がるんだよ。ここが一つの突破口になったんだ。桑名(正博)くんのブレイクも、それなしには語れない。そんな動きがあったのがPOPPIN’ TIMEのプロモーションの時なの。種まきだね。
石原くんがレコードを持って、色々放送局とか行くんだけど、けんもほろろというかね。そこから石原くんが燃えるわけ。彼は結構ファイトマンだから。
POPPIN’ TIMEが出たあと、ある音楽出版社から、ウチと契約しないか、って誘いが来たんだよ。当時契約していた会社が、あんまりやってくれないというのもあって、じゃあ移ろうかと、小杉さんに相談した。
そしたら小杉さんに説教されて、残留ということになった。小杉さんはもともと僕がそんなに売れるとは思ってなかったんだけど、でも「音楽的に自分の好きなことを形にしていこうと思うんだったら、今のままでやった方がいい」って。僕は25歳だったけど、人から説教されたなんてことは殆どなくて、それで色々と考えた。あの時に色々言われたことが、僕と小杉さんの人間関係を強固なものにして、それが現在まで続いている。それが78年7月のことかな。渋谷の公演通りの喫茶店だった。
あとキングトーンズに「LET’S DANCE BABY」を書いたのが6月かな。キングトーンズはJ&Kという、小澤音楽事務所の系列会社に所属していたのね。当時そのJ&Kの人が僕にCMの仕事をくれていたんだけど、どこかのレコード会社に行った時かな、その人の知り合いに偶然会って、「いいところにいた。探してたんだよ」と。「実はキングトーンズのアルバムを作っていて、全曲吉岡治さんが詩を書いてるんだけど、3曲作って欲しい。他の曲は梅垣達志さんで、アレンジも全部梅垣さんなので、曲だけでいいので書いて」って、そのまま詩を渡されて。期日が迫ってるからと、それで大急ぎで3曲書いた。
「LET’S DANCE BABY」「TOUCH ME LIGHTLY」、それにもうひとつ「MY BLUE TRAIN」っていう。で、その頃にGO AHEAD!のレコーディングが始まるんだよ。でもこの頃になると、何故かスケジュール帳に予定が書いてないんだよね。
そうか、事務所だね。事務所を作ったんだ(ワイルドハニー?)。契約していた音楽出版社は、プロダクション業務を行なって無かったので、事務所を作った。数ヶ月しか続かなかったけど。その事務所でやったのが、キングトーンズとクールスなんだね。クールスの仕事は雇った新しいスタッフの一人が持ってきた。
で、9〜10月くらいにGO AHEAD!(78年12月発売)のレコーディングが始まるんだけど、レコーディングメンバーがポンタたちだとギャラが高いから、もっと安いプレーヤーを、という要求が出てきて、それでユカリ(上原裕)と田中(章弘)くんにした。それで下北沢ロフト行ったら、山岸潤史のライヴをやっていて、難波(弘之)くんがキーボード弾いてて、彼はちょっと知り合いだったんだけど、彼のキーボードが良くて。それで「レコーディング手伝ってくれないか」って声を掛けた。僕の人生の中で、自分から声を掛けたっていうのはすごく少ないんだけどね。あと、ギターの椎名和夫くんは昔からの知り合いでね。
それで、ユカリ、田中、難波、椎名の4人でレコーディングしようと。そうすれば、予算がかなり軽減される。要するにメンバーを替えたのは、制作費の問題だったという。別に演奏家としての技量が劣っているわけでも何でもないんだけど、「器用度」が落ちると、スタジオミュージシャンとしてはギャラのランクが低くなるという、不思議な世界。
それが9月頃で、その時点ではアルバムのイメージは全く浮かんで無かった。GO AHEAD!のライナーノーツにも書いてあるけど、全くモチベーションが上がらないの。キングトーンズの3曲も、苦しんで書いた。なかなか出来なくて。発想がわかないんだ。
GO AHEAD!の中で書き下ろしたのは「BOMBER」「潮騒」「ついておいで」「MONDAY BLUE」の4曲かな。「PAPAER DOLL」と「2000トンの雨」はありものでしょ。「LOVE CELEBRATION」は細野さんがプロデュースしていたリンダ・キャリエールのために書いた曲だったし、「LET’S DANCE BABY」はキングトーンズ。確かレコーディング初日に録ったのが「BOMBER」と「ついておいで」で、場所は音響ハウス。リズム録りは音響ハウスで、あとはRCAの第一編集室でダビング。1日だけポンタたちのリズムセクションにして、ポンタ、岡沢さん、松木さん、佐藤くん、SPACYの類似メンバーだね。このセクションで「MONDAY BLUE」と「TOUCH ME LIGHTLY」を録ったんだけど、「TOUCH ME LIGHTLY」は次作のMOONGLOWに回した。
    
<自分のソロでのビジョンが全く出てこなかった>
「このアルバムが最後になる」ってGO AHEAD!のライナーノーツに書いたことは嘘ではなくて「このアルバムも多分売れないだろうな、そしたら、もうこれで終わりだろうな」って思ってたんだよ。そしたらその先は作曲家にでもなるんだろうなと思って。小杉さんはやる気満々だったんだけど、僕はそんな感じで。曲も書けないしね。だからGO AHEAD!はSPACYとは全く制作ポリシーが違うというかね。簡単にしなきゃいけないと思ったのね、曲を。聴いてる方が楽に聴けるというか。今までは曲調が難しすぎると思ったんだよね。
この頃、ツイストとかサザンが出て来ていて。だから、ちょっと分かりやすくしようかなと思って書いたのが「潮騒」とかになって。それを称して作家志向というわけ。(ツイストやサザンが出て来て)このままだと自分の出る番は無くなるだろうな、っていうのは、はっきり分かった。だって、彼らはある意味、歌謡曲の代わりに出て来てるわけだからね。それは時代の趨勢というもので、仕方がないとも思っていたの。
小杉さんがGO AHEAD!でイケると感じたのは、どうだろうねえ、あの人はすごく不思議な人だからね。あの人の計画性って、他の人とは違う。いわゆるロックのA&Rとは毛色が違う。だから、今でもよく分からないところがあるんだけどね。
GO AHEAD!を作り始める頃に、桑名くんの「サード・レディー」がヒットし始めてたんだよね。何しろ小杉さんは、松本隆筒美京平の歌謡曲コンビで、桑名正博をヴォーカリストにしちゃったわけだから。次は、その波が僕に来るのかな、と思ったんだよ。ヒット路線でさ。で、レコーディングが始まる時に言ったんだよ。「僕もあれで行くの?」って。そしたら「君にそんなことできるわけないじゃん。君には君に合ったやり方で行く」って言うの。だから彼の中では、僕は桑名くんみたいに、オリコン1位のメガヒットを出してっていう、そういう存在じゃなかったんだよね。「食べていく分には全く大丈夫だと思ってる」とは言われてたw
で、レコーディングは進行して、ミックスダウンになって、小杉さんが会社から無理矢理に、他の仕事で韓国に行けと言われて、立ち会えなくなったんだよ。ダビングの時は居たけど。ふざけてる!って小杉さんは怒ってたけど、社命だからどうしようもない。だから当時のRCAは、僕のプロジェクトをバックアップするなんていう体制じゃなかったんだ。人がレコードを作ってる最中に、担当A&Rを出張させちゃうんだから。その反面、少しはニューミュージックに力を入れるようになっていて、GO AHEAD!のレコーディングが始まる頃には、竹内まりやもデビューしていたし、越美晴もいた。当時、桑名正博、越美晴竹内まりやで3M作戦とか言ってプロモーションしてた。その流れには、僕は全く取り残されていた。
でも、明らかにここから変わってるんだ。ここがターニングポイントなんだよね。ここまでと、ここからなんだ。シングルでは「RIDE ON TIME」以前と以降。アルバムだとGO AHEAD!の前と後じゃ全然違う。
この頃になると、僕が音楽業界の仕事にある程度、習熟して来たっていうのも事実だけど、とにかく時代が変わりつつあった。ちょうどあの頃は、たとえばユーミンは「紅雀」から「流線型’80」への時代で。ユーミンもいろいろ試行錯誤して、あそこで変わっていくんだよね。細野さんもYMOをスタートさせるし、みんなターニングポイントを迎えているんだよね。逆に言えば、あの変化に無自覚だった者は、時代から取り残されて行かざるを得なかった。そういう何かがあったんだよね。
だから、僕としては、作家で生きていこう、作曲家しかないのかなって覚悟したというか。でも出来れば、レコード・プロデューサーをやりたかったんだよ。でもプロデューサーじゃ日本では生活できないから、作曲家かな、と。それと、もうひとつ重要な幸運があって、自分で意識しないうちに、編曲のノウハウがだいぶ身に付いてきた。SPACY以後、スコアの勉強とか色々やったでしょ。その上にスタジオ・ミュージシャンとの現場で色々もまれて、自分が書いた譜面と、実際の演奏の差異をどう埋めるかっていうね。
あと、坂本(龍一)くんのアカデミックな知識にも、とても助けられた。結果、シュガー・ベイブ時代のように、完全なワンマンで、僕があーせいこーせいと言ってたのから、若干変わってきて、相手の特質とキャッチボールしながら作っていく。ようは編曲家的なセンスが出て来たんだよね。それは、場数以外の何ものでもなくてね。振り返ってみても、あの頃のアレンジって、けっこういい仕事してるんだよ。クールスとか、うちの奥さんの「UNIVERSITY STREET」の「涙のワンサイデッド・ラヴ」や「ドリーム・オブ・ユー」のリアレンジとかもね。けっこう職業編曲家っぽくやれてるんだよね。
それに加えて、ユカリみたいに一緒にバンドでやってた人間も戻ってきたから、それをうまく利用してやってるっていうかね。ユカリは「LOVE SPACE」みたいな16ビートは不得手だから、GO AHEAD!ではそういう曲は完全に抜いてやってるでしょ。そういう判断がだいぶできるようになってたんだよね。
それでも、自分のソロはまた別物でね。もう、ソロで何かをするっていうビジョンが全く出てこない。それはアルバムのキャンペーンの時のイヤな感じとか、そういうことが、積もり重なって来たことも大きいんだ。売れないロックミュージシャンのキャンペーンって、哀しいんだよ。誰も自分のことを知らないっていうのはね。こっちもプライドが高いから、もうごめんだ、ってなる。だから、そういうのはもうイヤだなっていうのも引きずっていたんだ。
レコーディングが終わって、スタジオでマスタリングが終わって試聴した、B面最後の「2000トンの雨」がフェイドアウトしていく時に「ああ、これで終わりかな」と思ったの。それから何週間か後には、クールスのレコーディングでニューヨークに行くし、それでGO AHEAD!のことは忘れちゃった感じなんだよ。
【第23回 了】