The Archives

次の時代へアーカイブ

ヒストリーオブ山下達郎 第22回 77年〜78年、IT’S A POPPIN’ TIMEへ

<シングル盤「PAPER DOLL」がボツになってるんだ>
SPACYからIT’S A POPPIN’ TIMEへの時期は、あまり自分の仕事をしてないかな。「PAPER DOLL」のレコーディングを77年10月にやっているね。他の仕事で特徴的なところでは、77年6月頃だったと思うけど、マザー・グースのプロデュースかな。その他にも、スタジオでコーラスものはけっこうやっている。あとはCMもね。
ライヴはまあまあ。あと、大滝さんのレコーディングでシリアポール。10月に中原理恵に2曲書いてるね。10月27日まで書いていて、28日にレコーディングしている。ようやく曲のオファーが少しづつくるようになった、という感じかな。でも、まだ散発的だね。
77年7月31日、下北沢ロフトで「スペシャル・ジャム」、これは山岸(潤史)に声掛けられたやつ(同所で7、9、11、12月と5回開催)。キーボードは緒方泰男で、彼は僕が美奈子のバックをやっていた時代の知り合い。ドラムは最初はユカリだったけど、その後、りりィの旦那の西(哲也)さんとか、ジョニー吉長とか。そういう人たちとやっていた。確かにセッション・ライヴは意外とやってたね。
で、「PAPER DOLL」のレコーディングだけど、小杉さんがシングル盤を出そうって言うんで、10月26日にモウリ・スタジオで「PAPER DOLL」と「2000トンの雨」の2曲を録ったんだ。坂本くん、ユカリ、田中章弘というメンバーで。
ところがレコード会社の会議で落とされたんだ。昔は編成会議っていうのがあって、制作部長の元で、演歌からロックからクラッシックまで、全ての制作ディレクターが集まって、試聴するの。ああだこうだ言って、これは出しましょう、これはダメとか。それで「PAPER DOLL」は見事にボツになった。それがGO AHEAD!に入ってる「PAPER DOLL」と「2000トンの雨」なんだよ。
この時期が、僕自身の活動にとっては一番底の時代だね。でも、生活のためにCMはけっこうやってた。IT’S A POPPIN TIMEの最後に入ってる「Marie(マリー)」って曲は、資生堂のCMでね。一人多重コーラス。あの頃は自分でドラムを叩いていたのも多いんだよ。セブラ・パスカラー(文具)なんてのがあって、15秒だったから、寺尾(次郎)だけベースで呼んで、あとは全部一人多重。
   
<僕が人をプロデュースした初作品がマザー・グース
77年で一番印象的な仕事が、マザー・グースだね。初めてプロデュースのオファーをもらって、やった仕事だったから。マザー・グースは金沢の女の子3人組で、東芝のエクスプレス・レーベルからそれまでに2枚のアルバムが出ていた。アルバムは吉川忠英さんとラストショウが手掛けていたんだけど、僕のいた音楽出版社のスタッフから、僕のプロデュースでシングルを1枚作って欲しいとオファーがあったんだ。
インディアン・サマー」というファーストアルバムに入っている「貿易風にさらされて」という曲を出版社が気に入ってて、それと「パノラマ・ハウス」というセカンドに入っている「マリン・ブルー」という曲とのカップリングでプロデュース・アレンジしてくれないか、って。確かセカンドは、ユーミンがジャケットを描いていた。で、林立夫と細野さん、鈴木茂、それと坂本くんでレコーディングした。なので元のアルバムのテイクとは全然違う。
マザー・グースは高校の同級生で作ったグループで、リード・ヴォーカルの子が書く曲が、とてもセンス良かったんだよね。本人たちの作詞、作曲。すごくソフィスケートされた曲なの。だからアルバムのフォークっぽいアレンジよりも、もうちょっとモダンな方がいいんじゃないかと思って、フィフス・アヴェニュー・バンドみたいな感じを狙った。A面はコンボ指向のアレンジで、彼女たちがライブでやってる、コーラスのハーモナイズをフィーチャーするのが最善だと思ったので、そのままのコーラス・アレンジでオケに乗せた。B面の「マリン・ブルー」はストリングスの入った、もう少し広がりのあるアレンジなんだけど、本人たちはステージではギター2本とヴォーカルで歌ってて、間奏でメンバーがハーモニカを吹くんだよね。そういう部分も活かそうと思って、間奏にそのままハーモニカをフィーチャーしている。このシングル・ヴァージョンはマザー・グースのアルバムが紙ジャケ再発されたときに、ボーナストラックとして入っている。
これが、僕が人をプロデュースした史上初の作品なんだ。まあプロデュースといっても、あの頃の話だからアレンジャーに毛が生えた、名前だけのものだけどね。印税なんてもちろんなかったし、なんちゃってプロデューサーだね。このプロデュースでは、僕にシュガー・ベイブみたいな音を求めてたんだろうね。マザー・グースの子もシュガー・ベイブを金沢で観てたらしいから。マザー・グースのシングルの予算は知らないな。でも、リズムをモウリ・スタジオで1日で2曲録って、ストリングスを1曲分録って、歌入れはフリーダム・スタジオでやって、それで終わり。でも彼女たちにとっては、自分達がステージでやっているままの歌い方で歌えたから、すごく嬉しかったって言ってた。そういう僕のやり方は、今も変わらないからね。
マザー・グースみたいなグループものは、なるべくその子たちがやってるそのままの形を生かして、そこに何を乗せるかっていう考え方でやるのが、一番いい出来になるんだ。僕はバンド上がりだからね。シュガー・ベイブ時代には、とにかく自分でアレンジをやるしかなかったおかげで、アレンジの基礎の勉強が出来たのと、その後はチャーリー・カレロとの出会いだね。それが合わさってる。自分でモノを作る人間が、外部から不必要にああしろ、こうしろと指図されると、意欲が減退しちゃうからね。プロデュースっていうのは実は難しくってね。こちらがどんなに一生懸命やってあげても、相手は「オレは好きな事をやれなかった」ということになったり、何もやらなくても、名前だけ貸して、プロデュースしてもらったんです、ということになったり。八方うまく収まるなんて、なかなかないからね。
マザー・グースのシングルは全く売れなかったけど、いい出来の作品だよ。彼女たちが喜ぶように作れたからね。オケのゴージャスさとか、そういうのもちゃんと作れたし、録音もいいし。それはCMで培ったノウハウなの。結局、編曲のノウハウって場数だからさ。でも、本当の専門はコーラスだったから、コーラスグループをやらせてもらえば、細かいところのボイシングをちょっと直すだけで、すごく良くなるし。そうするとキレイ!とかって喜ぶし。性格もいい子たちだったから。これは実働3日、ごく低予算。でも有意義だったよ。自分のやりたいようにやらせてもらったし、音楽出版社もそれなりに仕事を世話してやろうというか、そういう感じはあったんだろうね。
78年になると、毎月一定の給料を出す代わりに、毎月3本のCMをこなすっていう契約形態になるのね。76年から契約していた音楽出版社とは78年頃に契約更改になるんだけど、この前言ったように、その時には契約を解除しようかというのがあって、それを小杉さんが止めて、続行という話になったんだ。
その出版社からは、昔から作家契約をしろって言われてたんだけど、それは絶対に嫌だった。自由度が縛られちゃうからね。それでまあ、その代わりにCMで給料みたいな形で、それまでの出版社と契約続行になったんだ。
     
<自分がコーラス・アレンジを出来ない仕事はやらなかった>
77年5月にSPACYを出してから、自分のことはしばらく何もやらなくなるんだよね。夏から秋にかけては人とのセッションばかりだね。CMもそれほど多くないし。精神状態はあまり良くなかったね。この頃は経済的に困窮したという記憶は全然ないから、多分それなりに生活は成り立っていたんだとは思うけどね。スタジオ・ミュージシャンっていうか、コーラスは結構やってた記憶があるなあ。
山岸潤史の「ギターワークショップ」もこの年だし、あとは石川セリ太田裕美、ミッキー・カーティスのポーカー・フェイス、アグネス・ラムとか、コーラス仕事は結構やってるね。
あの時代、基本的には自分がコーラス・アレンジを出来ない仕事はやらなかった。他人の譜面でやったのは、78年に岸田智史をやった時くらいだね。行ったら譜面があってね。インペグ屋(ミュージシャン仕出し)に騙されたw 
あとは太田裕美のコーラスを筒美京平さんのご指名で「書き譜でもいいか?」って聞いてきたから「京平さんならいい」って。譜面を渡されて「あなたたちには、あなたたちの音楽があると思うけど、まぁこういうのも世の中にはある、と思ってやってよ」って言われてね。
いろんな人に曲を書いているのは、作曲してデモテープ作れ、っていつも言われていて、何曲か書いたから。そういうのを出版社がどこかに売り込みに行って、何曲かレコード化されたの、知らないうちに。ピアノとリズム・ボックスだけで、ラララって歌ってるデモテープを作らされて。そういうのが何曲もあったの。雑多な仕事はたくさんしてたな。手帳を見ると、78年の7月ごろまでは自分でスケジュールを書いてたんだけど、そこからパタッと書かなくなるんだよね。ここで事務所が出来たんだね。
77年には事務所がなくて、78年に入って、最初は細野さん、美奈子、僕で事務所を立ち上げたんだけど、うまくいかなくて、その後、今度は小坂忠さんの元マネージャーをやってた人間とかを2人雇って、事務所を作った。それは78年12月にスマイルカンパニーを作るまで続けていた。だから半年位かな。ほんの一瞬だね。でも、クールスのレコーディングなんかはその時のスタッフが持ってきた仕事だし、コカ・コーラもそうだった。
   
<自分としては普通のライヴは嫌だったのね>
六本木ピットインで初めて演奏したのは、IT‘S A POPPIN’ TIME(78年5月発売)のレコーディングの時が初めてだよ。というか、僕がやるまでは、ロック系の歌手はあそこでは誰もやったことがなかった。すべてジャズだったから。あれが六本木ピットインで初めてのシンガー・ソングライターのライヴだったんだ。
あそこでやった一番の理由は、同じビルの上にあるソニーのスタジオとラインがつながってた、それが一番重要だったのね。ピットインでやろうと言ったのは僕。小杉さんがライヴアルバムを録ろうって言うんで、それなら六本木ピットインはどうだろうと。小杉さんがライヴアルバムのプランを言い出したのは「PAPER DOLL」を録った後かな。アルバムの予算が出なかったから。でもライヴだったら1日で録れちゃうからね。だからそれでいこうと考えたんだね。
要するにSPACYの売れ行きがレコード会社の予想を大幅に下回ったんで、僕もブツクサ文句ばっかり言われるのもしゃくだから。それで77年の終わりから78年のアタマにかけてどうするか、ってことで、小杉さんは「もっと作ろうよ、作品を」って、シングルで「PAPER DOLL」をレコーディングしたら、ボツられた。じゃあライヴ・レコーディングで行こうって。77年は比較的ライヴやってたから、抵抗は無かった。メンバーがみんな上手いからね、なんと言っても。所属の音楽出版社も、予算がかけられないから、しょうがないだろうと。
でも、自分としては普通のライヴは嫌だったのね。まだ曲数もそんなにないし。だから1曲目はスタジオ・レコーディングで、一番最後はアカペラで。で、A面は新曲のライヴなんだ。それなりに考えてるんだよ。でも、会社としては1枚ものだと思ってたらしい。それが2枚組になっちゃったんで、それでまたガクっとね。僕は当然2枚組だと思ってたよ。だって「エスケイプ」なんて曲は、あのメンバーでやるんだったら、インプロビゼーションを入れないと面白くないから。それとあの当時はオイルショックの直後で、見開きのダブル・ジャケットが禁止の時代だったから、2枚組にすればそれが出来るから、豪華なものが作れるという狙いがあった。
ライヴ盤のイメージとしてはカーティス・メイフィールドとかダニー・ハサウェイのライヴ盤みたいな感じでやろうと。ピットインでやると言った時から、カーティス・メイフィールドダニー・ハサウェイの、トルバドールとかビターエンドあたりの雰囲気でやりたいと。
2枚組については、小杉さんも見開きジャケというのが目論見だったから。でもレコード会社は焦ったんだよ。だけどしょうがないじゃない。1枚組だったら4曲入りだよ。ライヴ盤で、それではね。だから構成は良く出来てるの。A面は新曲で、B面は既成の曲で、C面は長い曲で、D面は「サーカス・タウン」で終わって、最後にアカペラ。そういうある程度の計画はあったの。早い段階で。
まだソロ3枚目だしアイデアはいくらでもあるから。ライヴ作るんだったらああいう感じにしようって。「スペイス・クラッシュ」のスタジオ予算の確保ができていたか? それは知らないw
  
<ライヴが終わってから、スタジオ録音の曲を入れたいって思った>
不思議なことに、僕はここまで一度もシングルを切ってないわけ。CIRCUS TOWNでは「WINDY LADY」を切ると言って、結局切らなかった。多分、当時の世情で考えたら、「WINDY LADY」なんかシングルで切ったって、売れるわけがないと会社は思ったんだろうね。だって桑名くんはシングル出てるもの。僕はとにかくGO AHEAD!まで1枚も切らなかったということは、小杉さんは切りたかったかもしれないけど、小杉さんもやっぱり派手志向の人だから、ちょっと渋すぎると思ったんだろうね。
だけどSPACYは全然売れなかったんだけど、「プレイヤー」とかそういう音楽雑誌では、評判が良かったアルバムなの。ヤクルトホールのライヴで、あんなに人が来るなんて、小杉さんは全く想像してなかったから、それでライヴ・アルバムだったのかもしれねいね。今考えると。その後のライヴ動員も良かったし、小杉さんもそういうのを見てたから。それかな。
まあ動員力といっても1,000未満だもの。もっとも今(08年)は逆にアルバムが50万枚売れても、動員が苦しいっていう人もいるしね。ライヴハウスしか入らないという人もいるし。時代かなあ。でも、自分としてはそんなものだと思ってたんだよね。
例えば今の時代尺度から見れば、ライヴの構築パターンとか、セオリーとか、まだそんなに習熟してない時代だから、それほど明確な価値観もなかったけど、シュガー・ベイブの経験から40分じゃ自分のやりたいことは完結できないと思ってた。
だから野音で40分やっても全然消化不良で、物が飛んで来て終わりだけど、下北沢ロフトで2時間やって15曲全部並べれば、そこではお客が納得した。そういうライヴの流れ方を自分なりに見せる場合には、ある程度の時間が必要だと考えてた。あとは音のバリエーションね。それは自分の「売り」だと思ったから。シュガー・ベイブのライヴでも途中でラスカルズの曲をやったり、そういう遊びっていうか、そういうサウンドの変化づけが、ター坊もいたし、色々あるでしょ。だからサウンドの引き出しがたくさんあるというのは、実は重要なことで。
だから、ヤクルトホールのSPACY発売コンサート(77年5月)の時に、もう「三ツ矢サイダー’76」をやって、すごくウケたし。それから、ビーチ・ボーイズのGOD ONLY KNOWSもやってるんだね。それもけっこうウケた。そういうものは、シュガー・ベイブ時代のライヴから培ってきたものがあるから。シュガーベイブの時なんてボビー・ダーリンが死んだら「ドリーム・ラヴァー」を演るとか、そんな事ばっかりやってたから、そういうバリエーションが、自分のライヴには必要だと思ってた。だからIT’S A POPPIN’ TIMEには入ってないけど、ピットインのステージでも途中で弾き語りとかやってるしね。
そういうことで、レコードもバリエーションが無いとダメだから、ライヴだけじゃイヤだと思って。1曲目はスタジオレコーディングの「スペイス・クラッシュ」にした。実は実際のステージ1曲目は「LOVE SPACE」で、アルバムもあれで始めても良かったんだけど、あの頃はとにかくひと月に一回くらいしかライヴやってないから、声が出てないの。シュガー・ベイブから2年経ってるでしょ、思うようにハイトーンが伸びない、だから「LOVE SPACE」の出来が非常に不満でね。それで考えたのが、あの1曲目だったの。だからそれは、ライヴが終わってから考えた。アルバム1曲目はスタジオ・レコーディングを入れたいって。最後はアカペラにしようっていうのは、最初から決めてたんだけど。最初に持ってくる曲は「LOVE SPACE」しかないけど、それもちょっと弱い。
だから「スペイス・クラッシュ」から始めて、2曲目が「雨の女王」。それだったらライヴとはいえ、新曲ばかりのA面になるから、新鮮だし、良い感じだと思ったんだよ。
           
※以下、IT’S A POPPIN’ TIME、78年5月発売当時の販促パンフ用コメント。
上記インタビュー内容と比較すると、本音とのギャップが垣間見える、、、
「僕のアルバムもやっと3枚目になりました。今回はライブ・レコーディングを中心とした、しかも2枚組という大変な(?)ものになってしまいました。本来、僕にはライブ・アルバムという発想も、ましてや余程のことがない限り、2枚組などという恐ろしい(??)考えなどあるはずがなく、事の成り行きというものは、誠に不思議だと言わざるを得ません。
当初僕が考えていたのは、「一発録り」でアルバムを作ることでした。すなわち、現在普通のレコーディングで行われている、リズム・セクション、次にもろもろの装飾的楽器(例えばパーカッション)、ストリングスにブラス、コーラス、そして最後に歌を録音するといったやり方ではなく、リズム・セクションとコーラスと自分の歌を同時に録音し、それだけでいっちょうあがり、というアルバムを作りたかったのです。このことに関して理由はいろいろあり、詳しくは述べませんが、早い話が”Circus Town”, ”Spacy”と続いて、また少し違うことをやりたかったと言う、いつものへそまがり根性からだと思ってください。
そんなわけで初めはスタジオでレコーディングをする予定だったのですが、誰かが、それならいっそのこと、観客を呼んでスタジオ・ライブにすればいいじゃないか、と言い出し、今度は他の誰かが、ライブをやるんだったらコンサートホールがいい、と言い、それじゃあ全部平行して打診してみて、一番やりやすい方法でやってみようということになり、最終的に六本木ピット・インでのライブ・レコーディングという結論に達するまでには、結構時間がかかってしまいました。このようなわけで、今回のアルバムは一般のライブ・アルバムとは少々違ったニュアンスを含んでいると言えます。
普通日本で制作されるライブ・アルバムは、アーティストのエンターテイメント、すなわちステージでの躍動や観客の熱狂(ちょっと大げさかな?)、レコードで出せない感じを求めるために作られます。もっとひどいときには、いわゆる枚数消化のために作られる場合すらあります。
僕の今回のアルバムは、先ほど述べたような理由で、それらのどれにも当てはまりません。もちろんライブですから、来ていただいた人たちが満足できるような努力はしていますが、まず第一に違うのは、未発表曲に重点を置いたことです。前にも述べたように初めこのアルバムは1枚ものとして企画されました。僕はそれをほとんど新曲で固めるつもりでした。正確に申しますと新曲が6曲、今までのアルバムに入っている曲が2曲、そしてスタジオ録音が1曲、計9曲入りのアルバムにしようというのが当初の予定だったのです。
ところが全部終わって聞いてみると演奏時間が予定を大幅にオーバーして(まさか本番の時にストップウォッチで測るわけにはいきませんから)、とても9曲では入らないことがわかりました。色々と相談した結果、予定に入っていない曲の中にも出来の良いものがたくさんあったこともあって、2枚組にしようじゃないか、ということになった次第なのです。
ですからこのアルバムは、全14曲中9曲が新曲です。うち1曲はアメリカの曲ですが。トラック・ダウンにあたっては、拍手その他をできるだけ抑える方針をとっています。たとえライブでも、レコードはレコードとして成立させなければならない、というのが僕の考え方です。「ライブのためのレコード」ではなく「レコードのためのライブ」でなければならないと思うからです。コンサートの現場では視覚的な部分も大きな比重を占めています(あまり視覚的な部分の自信は無いですが?!)。しかし、レコードを作る作業にまで、それを持ち込んでは、至極自己満足的なものしかできません。したがって、曲によってはフェイドアウトしているものもありますし、1曲だけ歌を録り直しました。
さて、僕のライブパフォーマンスについて少し触れておきましょう。今回のアルバムでバックを務めてくれているミュージシャンたちは、ここ1年ほどずっと付き合ってもらっています。彼らは皆様よくご存知の、日本でも有数のセッションマンたちですが、彼らとステージをやるときは、あまり色々と約束事をせずに、できるだけ楽に演奏してもらうことにしています。そうした方が、彼ら一人ひとりの特色が自然に出てくると考えたからで、僕個人としては非常に満足した結果が得られています。したがって僕のステージは比較的地味な(渋い!)、統一された色彩になりました。このアルバムのB面を貫いている感じが、僕のこのメンバーとのひとつの成果だと思っています。特に”Windy Lady”に関してひと言申し添えれば、この曲はシュガー・ベイブ時代からのレパートリーですが、このメンバーで演奏されているヴァージョンが、最も僕の考えに近いものなのです!
最後にもうひと言。アルバムの最初と最後に2曲のスタジオ録音が収めてあります。最後の曲は昨年の夏に、資生堂のCMで使われたもので、アカペラ、つまり無伴奏のコーラスであり、自分一人でダビングしたものです。これらの2曲は次の、ひょっとするとその次になるかもしれませんが、きたるべき僕の意欲作(自分で言ってるから世話はない)の予告編だと思ってください。内容はーーーそれはできてからの御楽しみ。」
【第22回 了】