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ヒストリーオブ山下達郎 第31回 アルバムFOR YOU(1982年1月21日発売)

<あえて「LOVELAND, ISLAND」はシングルを出さないことにした>
あの頃は、毎年アルバムを出していたので、81年の夏には、もうレコーディングは始まっていたと思う。81年のうちに出すつもりでいたけど、 あの年はツアーのスケジュールがあまりに厳しくて。ツアーを春と秋と2回やってたからね。結果、1981年はソロ・デビューして初めて、アルバムの出ない年になった。
アルバムの発売は遅れて、80年1月だったけど、曲はもうステージでやれる準備ができていたからね。FOR YOUの曲はほとんどライヴと同じリズム隊で録ってるから、そういうことがやれたんだ。80年12月末の中野サンプラザと、翌81年1月の大阪フェスティバルホールのステージは「SPARKLE」で始まって、途中で「YOUR EYES」や「Morning Glory」、新しいアルバムの曲をたくさんやってる。あと「LOVELAND, ISLAND」もね。それはアルバムが出るという予定でステージ構成をしたので、そうなった。「LOVELAND, ISLAND」はCMソングだったので、巷ではそれ以前から既に流れてた。もっともシングルは切らなかったけどね。
FOR YOUでシングルを切らなかったのは、あの時代の流行で、タイアップ曲をあえてシングルカットせず、アルバムの中に入れることでアルバムの売り上げを増やす、シングル盤を出さないことによってアルバムにつなげる、っていうのが流行っていた時代だった。それは小杉さんが思ったほど、RIDE ON TIMEのアルバム(のセールス)が伸びなかったというのもある。RIDE ON TIMEはシングルはすごく売れたのに(50万枚)、アルバムは思ったほどではなかった。それが小杉さんとしてはちょっと不満だった。
だからあえて「LOVELAND, ISLAND」はシングルを出さないことにして、もちろん広告代理店は(出してくれって)ブツブツ言ってたけどね。
  
<70年代末から80年代の頭は、オーディオ的にベストの時代だから>
代理店には嫌な顔されたけど、その戦略のおかげでFOR YOUは、1月という不利な発売時期にもかかわらず、ヒットアルバムになった。いつの時代にも売り上げ増加を狙うテクニックはいろいろあってね。でも、それは一面的なものじゃない。制作や宣伝はもちろん、営業面の対策も重要だった。当時も今も売り上げを増やす裏技はあって、かなりえげつない方法もある。それは今でも存在してて。AKBみたいなねw
ただ結局、どんな方法論にしろ、メーカーの企業力の大小には左右されるんだよね。僕はシュガー・ベイブの時代から大きなレコード会社に所属したことがない。それが逆に自分の寿命を伸ばしてきた部分もある。大企業だったら、とっくに契約切られてるか、売りつくされて終わってた。いつも小さな会社だったので、不利なところもあったけど、必要以上の無理をしないで済んだ。そのかわり宣伝力や営業力の不足を補うために、工夫もしなくてはならなかった。
だから、前にも言った「仕組みを勉強する必要」っていうのは、そういうことでね。それを知ることによって、こっちもだったらこうすればいいんじゃないのか、っていうアイデアが出て、それが音楽の作品と、どうリンクするのかを考えたしね。全体で戦略を考える。だからシングルを切らなくていんだったら、そうしてみようって。そんなもの。そういったことを含めてミュージック・ビジネスなわけで、何も誇大宣伝を打って、というようなことばかりじゃないの、草の根のね、小さな改良点とか、そういうことが、実はすごく大きいファクターになっていくんだよね。
いつも言うように、RIDE ON TIMEの頃から、ようやく自由に予算が使えるようになった。だから「オンスト」も出せたし。RIDE ON TIMEまではアルバム用にレコーディングする曲も大体10〜13曲くらいで限界だったんだけど、FOR YOUでは17曲録れた。その17曲の中から8曲を選ぶという、非常に贅沢なつくり方ができるようになった。80年から81年にかけては曲もたくさんできた。恨みつらみから解放されて、レコーディングの規制がなくなったから、現金なもので曲ができ始めたw
今現在(2013年)は、まあまあってところ。ここ4、5年、「ずっと一緒さ」くらいからはストックじゃなくて、ほとんど一から書き下ろしているものばかりで。だから結構(曲が)湧いてきているということだろうね。良いコラボや、タイアップが多いということもあるんだろうけど。
だから逆にそういう環境が悪化すると、その反動として創作意欲が減退するという。レコーディングのテクノロジーの変化とかそういう要素だけじゃなくて、様々な要因。人間関係とか。そういう点ではレコーディングやテクノロジーの問題はその時あまりなかったよ。なんたってあの時代は、オーディオ的にベストの時代だから。70年代末から80年代の頭は、すべての意味でのアナログ・レコーディングのピークだからね。
    
<FOR YOUは たくさんの曲の中から選んでるんだ>
FOR YOU(のまとめ方)はある意味、行き当たりばったりだったけど。 でもやっぱり、あのリズムセクションでずっとやってたから。RIDE ON TIMEはああいう形でシングルヒットしたので、そんなにチャラチャラしたアルバムを作れないと思って、ちょっと地味めにって考えた。でもFOR YOUの時は、使っていた六本木ソニーのスタジオがものすごく良い音がしてきたの。ドラムブースも良くてね。 それと僕の茶色のギターが鳴り出してきたのね。81年になってから、それをメインに使うようになって、これでレコードを作りたいと思って、作った。ちょうどその頃「LOVELAND, ISLAND」がサントリービールのCMになるってことになって。
で、その頃シーケンサーが出て来たんだ。シーケンサーというか、通称ヤオヤ(ローランドTR-808)と呼ばれるドラムマシンが世に出て来て、そのヤオヤと同期する、ベースのシンセがあったのね。それにデータを打ち込んで。「LOVELAND, ISLAND」はそれでベースパターンを作って、 ピアノを弾きながらデモテープを作ったんだ。それがちょうど81年の夏。それで82年になって「SPARKLE」が同じサントリービールのCMに使われた。「Morning Glory」はまりやに書いた曲(アルバム「Miss M」収録)のセルフカバー。やっぱり、ライブをやってるってのは大きかったね。声も出てるし、ライヴをしてるとアドレナリンが出るから、曲が書けるんでしょう、おそらくw やっぱり新しいメンバーっていうか、そういうのがあるからね。
大体タイアップの話なんて、そんなに頻繁に来るもんじゃないし。CMはそれ専用のCMソングで。「YOUR EYES」はこれも81年に、うちのカミさんにどうかなって書いたんだけど、あちらのディレクターにボツられて。それで自分でやったw だからFOR YOUはたくさんの曲の中から選んでいるから、非常に良い抽出なんだよね。
   
<業界の構造とかに対する興味が大きくなってきた>
選曲の基準は、単なる出来、不出来で。曲によっては、素材の段階で放り投げてるのもあるし、MELODIES(83年6月発売)に入れた「BLUE MIDNIGHT」はFOR YOUのアウトテイクなんだ。これは作詞も作って、歌も入れて、ミックスまで出来てたんだけど、 その時はストリングスは入ってなくて、ちょっと地味かなと思って、あとでストリングスを入れた。そういうのもあるし。他にFOR YOUの時に録って後から出てきた曲は(直後のシングル「あまく危険な香り」くらいで)あまりないかな。
このアルバムは、ほとんどステージでやったことがある曲で出来てて。あの時代の曲は、やっぱりライヴマターで作ってるからね。その後、だんだんライブでは再現できなくなっていくという、ビートルズみたいな感じになっていった。FOR YOUは「Hey Reporter!」以外は、全部ライヴでやってるね。RIDE ON TIMEは「雲のゆくえに」以外は全部やったかな。MOONGLOWは全曲やってるしね。POCKET MUSIC(86年4月発売)あたりからだね、だんだんライヴで再現不可能になってくるのは。
もちろんFOR YOUは、作る段階からセールスは意識しましたよ。 レーベル作ったんですもん。ちゃんとセールスしなきゃって、スタッフ全員が根性入ってた。そうなるとマーケティングにも関心が及ぶし。ディーラー・コンペティションだとか、ディーラーと直で、いろいろやれるようになってから、ディーラーがいろんなことを言ってくれるんだよね。これも面白いんだ。全然、評論家と違うんだよね感想が。ああいうことをやってくれとか、こういうことをやってくれとか。他にもタウン誌の人や、あと有線放送のプロモーションもその頃はやってたから、有線の人と話すと「オンスト」からシングルを切ってくれとかね。
有線はアルバムだとかけにくいだから有線用にシングルを作ったり。だからまあ、僕が28歳だったでしょ。業界の構造とか、そういうものに対する興味が大きくなってきたというか。それまで知らなかったということかな。
荻窪ロフトの頃には想像もつかないようなことが、たくさん目に入ってきたし。レコード会社のスタッフも、自分の同世代が多くなってきた。現場のセールスマンの意識も、レコード会社に入ってくるぐらいだから、 みんな音楽好きなの。RCAは本来洋楽の会社だし、ホール&オーツとかエアプレイとか、まさにそういう時代だからね。そんな話をしながら、レコード業界がこれからどうなるとか、邦楽をどうやって売っていくとか、お互いに意見交換みたいのがあるじゃない。それまで周囲にいたのは、完全に上から目線の、しかも歌謡曲べったりの人たちばっかりで、ディレクターもGS上がりの人ばっかりで、それがだんだんと変わっていったんだよ。
  
<FOR YOUはアナログ録音の最盛期の輝き>
音質の面ではFOR YOUは異質だった。RIDE ON TIMEとMELODIESは音が似てる。でも、FOR YOUだけ妙に音が抜けてるんだよね。MELODIESはCBSソニーでカッティングとプレスしてるの。それ以前のFOR YOUまでのカッティングはビクターなんだけど、RIDE ON TIMEの時は、ビクターJVCが自社開発したカッターヘッドでカッティングをした。ところがそれがあまり良くなくて、ちょっと音が曇ってる。
で、FOR YOUでは従来のノイマンSX-74っていうカッターヘッドに戻して、カッティングしたんだ。どちらも有名なカッティングマン、小鐵(こてつ)徹さんなんだけど、微妙に音が違うのは、カッターヘッドの差なんだ。マスターテープの差じゃない。
FOR YOUはあの頃のオーディオ・チェック・レコードになるくらい音が良かったんだけど、その一つの理由はFOR YOUの収録時間が短いということ。RIDE ON TIMEとMELODIESはFOR YOU よりも収録時間が長い。その差があるな、と。
で、今回ベストアルバムの「OPUS」(2013)で 曲を、現在の最新リマスター技術で並べてみると、意外とそれほど違わなかった。RIDE ON TIMEの曲もFOR YOUの曲もそんなに質感が変わってないし、「高気圧ガール」なんかでも、そんなに変わらない。録ったスタジオが同じだしね。でも、あの時のアナログ盤ではFOR YOUだけ妙に抜けが良いんだよね。 やってる環境全く同じなんだけど。収録時間とカッティング、それにプレス工程の差だね、今から思うと。特に「SPARKLE」はかなりレベルが入ってるから。おそらく、そういうことだと思う。だからFOR YOUはアナログ録音の最盛期の輝きっていうかね。
音響的にFOR YOUで試みたことは、そんなにない。勝手に相手が変わっていっただけで。でも、やっぱり一番大きいのはリズムセクション。青(山)純と(伊藤)広規で、本当の意味でのレコードを最初に作ったのは、RIDE ON TIMEで。そこから80年の秋、81年の春のツアーでしょ。82年に難波(弘之)くんがツアーから外れるまで、このライヴツアーの成果がFOR YOUなの。それは本当にこのリズムセクションが大きいんだ。あんなにライヴを数やったっていう時期もないし、その間、ひたすらレコーディングをしてたからね。本来は81年の秋ぐらいに出る予定だったけど、何しろツアースケジュールがタイトすぎて、とてもアルバムを完成させられなかったのと、曲をたくさん取ったと言うこともある。RIDE ON TIMEから スマイルカンパニーの現場になったから、予算にも文句を言われないと言うのもあったかな。費用はGO AHEAD!の3倍はかかってるから。お金の心配をしなくていいっていうのは、大きいよね。
ウォークマンやカーステレオの音は全然意識してないけど、この81〜82年ていうのは、世界的な意味でもオーディオのクオリティがピークだった。 レコーダーも16チャンネルから24チャンネルになって、録音ヘッドの幅が狭くなって、ダイナミックレンジが落ちたんだけど、その替わりに録音に使う磁気テープの性能が、すごく良くなってきて。あとはミキシングコンソール、リミッターとかコンプレッサーといった周辺機器がどんどん発展したのが、70年代の終わりくらいから。僕のアルバムで言えば78年GO AHEAD!までが16チャンネルで、MOONGLOWから24チャンネル。だけどCIRCUS TOWNの時にニューヨークでは既に24チャンネルで、録音テープも新しいタイプのものだった。だけどロスではまだ16チャンで、古いタイプの磁気テープだった。そういう地域差があった。
日本では24トラックに統一されたのが、ようやく79年くらいのことだった。とにかくあの時代のレコードは、技術力の進歩と相まって、おしなべてみんな良い音なんだ。大滝さんの「ロンバケ」然り、YMOもそうでしょ。時代を物語ってるよね。だから、そういう歴史に残るような作品がたくさん生まれるのは、オーディオ的なファクターも大きいし、音楽的なムーブメントが熟成したのもあるし、ウォークマンやカーステレオの普及もある。
それからレコード流通がすごく充実してきたことも、メーカーとショップの関係とかもね。ショップも、それまでの歌謡曲じゃない若い音楽が、それこそサザンオールスターズが1位になるとか、81年のレコード大賞が寺尾聡さんの「ルビーの指環」になるとか、それまでとは、はっきり変わってきたわけ。そういう時代だったんだよね。
  
鈴木英人さんには直接交渉しに行った>
FOR YOUのジャケットは、 実は僕はイラストを永井博さんに頼もうと思ってたの。そしたら大滝さんの「ロンバケ」が出てきて、びっくりした。先に永井さんの絵が使われていたから。永井さんとは知り合いだったから、ジャケットを頼もうとずっと思ってたんだけど、そういうことになっちゃったから、別の人にしようということでね。
当時、僕はイラストが好きで「年鑑日本のイラストレーション」という本を毎年買っていて、その中で一番好きだったのが鈴木英人さんで、それじゃあと言うので、直接交渉しに行ったら、アルバムのジャケットはやったことがないって言うんで、大当たりだった。で、あのジャケットになった。注文は特にしなくて、好きなようにしてくださいって。音を聴いてもらって、そしたらあれが出てきた。大滝さんのロンバケにしてもFOR YOUにしても、ああいうビジュアルは時代の趨勢でしょう。
でも、あの時は、もういろんな販促活動をやってたからね。フットワークも軽かったし、FOR YOUのジャケットの絵を使った、販促用のピクチャーレコードを作ってね。それが「9 MINUTES OF TATSURO YAMASHITA」。あれはとても話題になったけど、あの時代はああいった販促的な企画の効果が、とても大きかった。「COME ALONG」も元は79年に作った販促用のレコードで、あれは僕じゃなくてスタッフのアイデアだった。「9 MINUTES OF TATSURO YAMASHITA」は僕のアイデアだけど、そういう寄り道っていうのかな。だって「オンスト」も寄り道だし、「COME ALONG」はカセットだけの発売(80年3月)だったけど、あれだって10万本売れたんだから。あれも寄り道だしね。そういうのがうまいこと、点と点が線になって行くように、線が面になって、そういう連携効果があったよね。
だから、制作サイドからも販促サイドからも、いろいろなアイデアが出るし。「COME ALONG」も「9 MINUTES OF TATSURO YAMASHITA」も、完全に販促的なアイテムだから。それこそジャケットだって、店頭対策という意味では販促的に、すごく大きな要素だからね。そういうものが、いろいろちゃんと動いてくれると、やはりきちんと成果が出るんだよ。
輸入盤専門ショップが日本のレコードを扱い始めたのも、大滝さんや僕のレコードからと聞いてる。 それも新しい流れだったんだね。そういうマーケティングの面からの、あの時代の分析ってあまりないから。YMOの「ソリッドステートサバイバー」が79年。その辺からサバイバルゲームが始まってるんだよ。それまでの歌謡曲の分業的な流れが、だんだん力を失ってきて、自作自演主義的になっていく。だから80年のレコード大賞ベストアルバム賞がYMOと長渕さんと僕のMOONGLOW、そう考えると層が厚い時代だったよね。
FOR YOUは82年のオリコンの年間アルバム売り上げ2位。1位は中島みゆきさんの「寒水魚」だった。

そんなメディアミックスの到来で、夏だ、海だ、達郎だ、になって行く。

【第31回 了】