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ヒストリーオブ山下達郎 第27回 アルバムMOONGLOW(79年10月21日発売)

<MOONGLOWではステージで再現できる曲を最優先にしようって考えた>
GO AHEAD!を(78年12月20日に)発売した時に、一度だけ渋谷公会堂でやったライブ(12月26日)は、村上秀一、岡沢章、松木恒秀、坂本龍一難波弘之というメンツでね。で、年が明けて小規模なツアーをするんだけど、以前からホール・ツアーはスタジオ・ミュージシャンではギャラが高くて、とても無理だったから、ツアーはGO AHEAD!のレコーディング・メンバーで、となった。それならそのメンバーで、もう一度レコーディングもしようと、MOONGLOWは上原ユカリ、田中章弘、難波、椎名和夫というメンバーが主だった。「TOUCH ME LIGHTLY」はGO AHEAD!のアウトテイクなので、ポンタたちが演奏していて、「RAINY WALK」はアン・ルイスのアルバムのアウトテイクを買い取ったものなので、細野さんと高橋幸宏なんだけど、他の曲は新しいメンバーでレコーディングした。
で、そのメンバーでツアーを少しづつ始めたわけなんだけど、リズム・セクションが譜面に弱いのと、曲のタイプによって、得意、不得意があった。それで思うように曲が演奏できなくて、困ったなと思ってる時に、青山純伊藤広規に出会ったのね。彼らは読譜力も演奏力も非常に高くて、79年12月のツアーから入ってもらった。そこからいろんな曲ができるようになったの。
MOONGLOWでは、ライヴで演奏することを第一に考えた。だからこのアルバムは、僕の中で唯一全曲ライヴでやっている。他のアルバムには、ライヴでできない曲が何曲かあるけど、MOONGLOWは全曲ライヴのレパートリーになっている。
結果論だけど、全ての曲を青山と広規が演奏できたから。あの二人はそういう意味で非常にフレキシビリティがあって、どんな曲のタイプでもできてしまう。そういう人は、それまでなかなか居なくてね。ポンタにしてもユカリにしても、得手、不得手があったんだけど、青山はどんなものでもこなせた。それはすごくラッキーだった。79年の夏に彼らが出てきたというのが、実に運命の分かれ道。
あのままユカリと田中でやっていたら、バンドらしくはなるけど、ステージの構成なんかはもっと大変だったと思う。今だから言えるんだけど、70年代までは自分が満足できる構成で、ステージをやったことはないもの。全部、過不足があった。
今(2011年)はそういう意味では器用なミュージシャンを揃えているので、いろんなタイプの曲をできるけど。それもあの時から30年間、いろいろ試行錯誤した結果でね。
で、ツアーをやるようになるから、アルバム・プロモーションも、ツアーと連動する。僕もレコード・プロデューサーの端くれだから、だったらステージで再現できる曲を最優先にしよう、と考えたの。当時出たフォリナーのアルバム「HEAD GAMES」だったと思うけど、ライヴを意識しているっていうか、すごくアンビエンス(ライヴの音場感)の多いアルバムでね。そういうやり方がいいかなと思って。それなりに戦略的に考えていた。
GO AHEAD!までは、レコードが出て営業所まわりをしても、出られるラジオ番組さえあまりなかった。それがMOONGLOWからは、状況が少しずつ改善され始めて、それでまずは、地方のタウン誌とローカルのAM局、NHKのラジオ、それと有線放送をターゲットにするようにした。まだFMは4大都市のみで全国規模ではなかったので。NHKでは「FMリクエストアワー」という夕方の番組があって、それは各ローカル地区での生放送だった。NHKに行く前に有線周りをして、その番組のゲストに行く。そういうことをずっとやった。
    
< レコーディングがタイトで、最後の1週間くらいは毎日徹夜>
全曲ライヴで出来るようにするためには、演奏しやすさと歌いやすさ。簡単なパターンというか、だから割と音は薄いんだよね。基本的には5リズムの一発録り。それにストリングスとブラスを入れる。
でも、そういうパターンが、コンピューター・レコーディングになって崩れてくる。だからアルバム「僕の中の少年」の曲は、半分以上がライヴでは演奏不可能で、「蒼氓」と「GET BACK IN LOVE」、それと「ネオ東京ラプソディー」ぐらいしかやったことがない。「僕の中の少年」はテープがなきゃできないから、ほとんど無理で。「踊ろよ、フィッシュ」も、パターンが複雑すぎて無理だしね。そう考えるとGO AHEAD!も全曲は無理だね。
だけど、はっきりライヴを意識して作った MOONGLOW、RIDE ON TIME、FOR YOUの3枚は、 ほぼ全曲ライヴでやれるんだよ。
僕はバンド上がりだから、基本的にはレコードでもステージでも同じ音がする、というのが理想だった。その頃、僕はブラック系の音楽をずいぶん聴いていて、Barry Whiteのライヴなんか観に行くと、ストリングスとブラスは日本人で、リズムセクションも1.5流のステージ・バンドで、レコードとの違いにがっかりした。それに比べるとコモドアーズとかアース・ウィンド&ファイアーのステージはレコードと同じ音がしていて、どうせならあっちの方がいいと思っていたから。
MOONGLOWは 当時出てきた大阪の聴衆の嗜好に寄っているの。だからブラコンで、しかもライヴでやれる曲っていう。だから自分は座付き作者なんだよ。ブラコンで、ライヴでやれるなら、こんな曲だろうっていう感じ。だから、あのアルバムが好きか嫌いかって言ったら、実はあまり好きじゃない。レコーディング自体がものすごくタイトなスケジュールで、最後の1週間くらいは毎日徹夜だった。徹夜で歌入れをやっていたら、声が割れてきて、ヒビが入っているような変な声になった。しょうがなくて発売をひと月遅らせた。 予算的には、スタジオ時間は前よりだいぶ自由になってた。GO AHEAD!の時は、本当にカツカツだったからね。
でも、当時はもっと贅沢にスタジオ使っていた人なんて、たくさんいたから、そういう人たちほどには、まだお金を使えなかった。
当時はアルバムが10万枚売れたら大ヒットで、7万枚売れれば 1年食べられた時代だから。でも僕はそれまで、7万も売れなかったからね。10万枚の壁を越えられるようになってから、お金のかけ方も変わってきたけど、それまでは嫌味を言われながら、やってました。
レコーディングに来るのは、小杉さんだけで、他の人が来るのも嫌だったから、スタジオの前に入室禁止って書いたりしてね。当時のレコード会社は、誰も僕なんかに期待してなかったから。でも、そんな会社にも、だんだん若い人が入ってきて、23 、4歳のセールスマンなんかは、僕らがやっているような曲を聴いているから、周囲の環境も少しずつ変わっていった。まあ会社の役員の人たちは、変わらなかったと思うけど。現場のセールスや宣伝の人たちは若返っているから、そういう人たちが数字をつけてくれたり。
あとはシンパシーを持ってくれるレコード店も出てきて、そういうお店が火をつけてくれるとかね。レコード店の力は強いから、お店へのプロモーションに力を入れて、この頃からディーラー・コンペティションになるものを始めたんだ。そして、地方からの底上げをすごくやった。ここから81〜82年くらいまでは有線、地方局、地方のタウン誌が全盛期だった。タウン誌では大体、女子大生くらいの子がインタビューに来るから、手とり足とり説明してね。少し後のRIDE ON TIMEの頃になると、女性誌のan-an やnon-no、JJとかもやったよ。 信じられないかもしれないけど、CanCanの同行取材なんかもやった。 そういう草の根運動はずいぶんやりましたよ。
    
<テープレコーダーもこのアルバムから24トラックになった>
完成したMOONGLOWを、さっきあまり好きじゃないと言ったのはね、レコーディング環境を改善しようとスタジオを替えたのが、裏目に出たことが大きかったからなんだ。だからそれはSONGSを思い出すんだよね。SONGSって後から聴くと、そうでもなかったんだけど、終わったときの印象がいたく悪かったの。レコーディング環境が劣悪だったからね。 
MOONGLOWの時も、替わったスタジオの音が気に入らなかったり、ミックスもあまり納得いっていない。だけどアナログだから、今みたいにもう一回やり直す、ということができない。それで、もうワンテイク録りたいという要求を実現するには、どうしたらいいかっていう、トライ&エラーをのちに目指すようになる。
テープレコーダーもGO AHEAD!までは16トラックだったけど、このアルバムからは24トラックになった。でも、その24トラックっていうのが、ハイファイじゃないわけ。24トラックレコーダーは、16に比べて音に力がなかったんだ。16トラックと同じ幅のテープで、24トラックにしてるから構造的に無理がある。しょうがないからドルビーとか、トータルコンプレッサーをかけるようになる。GO AHEAD!までは、トータルコンプなんていう発想自体がなかった。ナチュラルでよかった。それで十分、音圧が取れた。
それが24トラックになってから、できなくなった。そのトータルコンプのオーバーコンプレッションの感じが、最初はすごく嫌いだったんだよ。ハードの変化による問題がもう出てきた。でも仕方ないんだよ。テープもそれまでスコッチの206を使っていたのが、アンペックスの456というハイファイのテープに代わっていく。それは1にも2にも、トラックが増えた分、細くなった音をいかに入出力レベルで底上げするかということ。
でもそうすると結果、音が歪みっぽくなる。入りで6デシ、出で6デシ、計12デシベル稼げるってメーカーは豪語してたけど、そうすると音が歪むんだよ。ローとハイが妙ににじむ。
卓はAPIで すごくハイクオリティになっているし、スピーカーも2ウェイだったのが、3ウェイのJBL4325になっていて、それがいつの間にか、タッドとかウエストレイクのビルトイン・スピーカーになる。 そういう変化に慣れるのが大変だった。デジタルに変わった時と同じようなメディアの変革があった。
でも、当時はそういう問題は、エンジニアのせいじゃないかと思ってたんだけど、 今考えると、24トラックになったことも非常に責任があったんだね。本音を言うと、僕はRIDE ON TIMEのマスターテープもあまり好きじゃないんだ。FOR YOUでようやく納得できるようになったかなと思ったら、すぐデジタルになった。
だから、エンジニアも試行錯誤をして、やっと音がまとまってくると、また機械が替わるという繰り返しなんだよ。それがしゃくにさわるっていうかね。だからFOR YOU(82年)やBIG WAVE(84年)はね、オーディオとして非常に良いクオリティをしている。だけどBIG WAVEが最後のアナログで、それから先何年か、デジタルで試行錯誤を繰り返すことになる。
MOONGLOWの曲は それなりに愛着あるし、リスナーでも、これが好きな人が多いからね。特に現場の宣伝マンとかは「また、ああいうの作ってくださいよ」って言う。逆にRIDE ON TIMEのアルバムはちょっと地味だって言われた。MOONGLOWでも十分に地味だと僕は思うけどね。
    
ウォークマンは聴く方だけじゃなく、作り手側にも大きな価値があった>
トレンドを取り入れないと、ヒットパターンはできない。だけど僕は、人がやっていないトレンドをやるしかないと、MOONGLOWでは思ったの。だから例えば「永遠のFULL MOON」はマイアミのマラコ・レーベルのドロシー・ムーアとか、そういう感じの路線で。「RAINY WALK」はアン・ルイスのアウトテイクなんだけど、完全にシカゴのR&B。「STORM」はフィリーサウンドのバリエーションみたいなもので、「FUNKY FLUSHIN’」は完全にあの当時のウェストコーストのポリリズム・ディスコだからね。 でもあの時代の日本では、確実に誰もやっていなかった。
YMOの全盛期だったから、テクノはみんなやってるけど、こういうマニュアルのポリリズム・ファンクなんて誰もやっていなかった。それを全て「BOMBER」の延長線と考えたんだよ。こういうものって欧米では非常にトレンドだったけど、日本ではまだ、全然注目されていなかった。そういう意味では、結構穴を狙ったっていうか。だから、嫌いなファクターっていうのはそこなのかな。あんまりトレンドを追うのは嫌なので。だから割り切っていると言われれば、割り切っているんだけど、割り切って作ってこれかよっていう。日本的な尺度、歌謡曲的な尺度で言えば、こんなマニアックなことやってて、何が割り切ってるんだってことになるけど。
もう一つ、ウォークマンが出てきたというのも大きいね。実はウォークマンは聴く方だけじゃなくて、作り手側にも大きな価値があってね。ウォークマンを車に乗って聴くと、情景とともに聴くことができる。そうすると、家の窓を見ながら書く時と、全然違うものができるわけ。マイティ・スパロウとか、そういう昔聴いてたものが、違う環境の中で喚起されるっていうかね。アイズリーもアウトドアで聴くと、インドアで聴くとのとは全然違うの。
そのちょっと前に、ウォークマンの前身にあたるモノラルのポータブル・カセットプレイヤーが出て、それを知り合いのPAエンジニアが改造して、再生ヘッドをステレオに換装して、アンプの出力を上げて、それに当時出たばっかりの重低音増幅ヘッドホンをつないだ。それを僕らの仲間内では皆が持っていて、きっと何十台も作られたんだと思う。僕もMOONGLOWの頃は、すべての音楽をそれで聴いていた。そのレコーダーをソニーの人が見て、ウォークマンを作った、っていうのが、僕らの意見なんだけど、いい音してたんだよ。そういうハードウェアのファクターって大きいんだよね。
収録曲はアルバム発売前からライヴで演奏してた。「SUNSHINE〜愛の金色」なんかね。やっぱりMOONGLOWが転換点だからね。GO AHEAD!からRIDE ON TIMEに行くまでの転換点。だから非常に特殊な出来をしているんだよね。今聴くとバラバラなGO AHEAD!の方が焦点が定まっているっていうか。だからMOONGLOWって自分のアルバムじゃないような気がするんだね。
    
<できた曲はそのアレンジで通すのが筋だと思う>
MOONGLOWをつくったことで、かなり変化が起きた。それまでよりも、ファンキーな路線になった。それまではどっちかと言ったら、インプロヴィゼーション主体の音楽だったけど、それに比べたらファンクな、もっとコンパクトなものになったから。
「YELLOW CAB」なんて、とにかくステージでやることしか考えてなかった。何をやりたかったかって言うと、楽器交代。スティーヴィー・ワンダーが全部の楽器を自分でやっているのを見て、やってみようと思ったんだ。本当はシュガー・ベイブでも、そういうことをやってみたかったんだけどね。だから「YELLOW CAB」は女性ファンには全く不評なんだ。でもこのアルバムに10曲入っていたから、ステージのレパートリーも10曲増えた。これは本当に助かった。SPACYなんかの頃は、ライヴの事なんて全く考えてなかった。ライヴとレコーディングの世界を両立させるのは、難しいんだよ。
バンドでやると、作家的な要素が強い人間なので、どこかで飽きる。でもあんまりバリエーションを作りすぎると、今度はバンドの色がなくなっちゃう。長くやっていくには、ライヴでどうするかっていうのは難しいよね。
まぁこの時代は、ソロになって3年目だから当てはまらないけど。一番問題なのはブレイクした後に、どういうバリエーションをつけていくかっていうことだからね。同じものだと、飽きられてしまうから。作品でもそう。だから「オンスト(ON THE STREET CORNER)」とか「BIG WAVE」を 作ったりするんだけど、毎年ライヴを続けていくと、バリエーションをつけていくのは、ほんとに難しいんだよ。でもバリエーションがありすぎても、ダメなんだよね。だからルーティーンを変えないで、バリエーションを変えるって言う。そういう曲芸みたいなことをしなければならない。今はもう歳とったので、そんなこと考えてやってないけど。
それから僕は、ステージではアレンジを変えずに演奏する。他のライヴでアレンジを変えるのが、絶対に嫌なんだよ。ヒット曲メドレーっていうのが、まず嫌なの。よくあるワンコーラスのずつ、ヒットをつないでいく、ってやり方。基本的にどんな曲でも完奏する主義で、それは30年間全く変えていない。
それで、アレンジは曲の一部だからね。だから、全然違うアレンジでやるなんてこと、ちっともえらいと思わない。それは元のアレンジに自信がないか、あるいは本人たちが飽きてるからか、僕にはそういう理由に思える。お客さんが何を聴きに来てるかと考えたら、できた曲は、そのアレンジで通すのが筋だと思う。それが嫌だったら、新しい曲を書けばいいんだよ。レコーディングで完成しても、ライヴで演奏しづらい曲はやらなきゃいい。それはしょうがない。
やっぱりGO AHEAD!からFOR YOUまでのアルバム4枚は、一番ライヴをやってた時代に作った曲で、 だからステージでやりやすいからレパートリーがここに集中するんだよね。
MELODIES(83年)以降、特に「POCKET MUSIC」「僕の中の少年」は コンピューターをどうしよう、ばっかり考えていたから、ライヴでやれるとかやれないとか、もう構ってられない。そういう時代には、やっぱりなかなかライヴでやりやすい曲は作れないんだよ。
【第27回 了】