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ヒストリーオブ山下達郎 第26回 エアーレーベル発足とムーングロー(1979年)

<「愛を描いて」は僕にとって初めてのタイアップ・シングル>
79年4月5日シングル「愛を描いて- Let’s Kiss The Sun -/潮騒」発売。このシングルがソロデビューして2枚目というw かつ、初めてタイアップが付いた。というか、タイアップが付いたので、シングルが出せた。当時も今と同じで、シングルはタイアップがなければヒットする確率はごく低かった。でも、我々のジャンルはタイアップなんて取れなかったから、アルバム主体といえば聞こえはいいけど、ようするにシングルヒットなんて望めない環境だったの。テレビにも出してもらえなかったしね。
そういう状況を打ち破ったのが、サザンオールスターズとツイストだった。あとはうちの奥さん。この辺りから、それまでの歌謡曲型のプロモーション形式に、ようやくロック関係のフィールドが乗っかれるようになってきた。
広告代理店にしても、芸能界にしても、現場スタッフは30代前半から40代の人が中心なのはいつも同じだけど、当時の30代前半はいわゆるベビーブーマー団塊の世代の人たちで、彼らが現場で少しづつ裁量権を持ち始めた時代なんだよね。だから、その世代の人たちが支持する音楽が、クローズアップされていくようになる。それが次の世代で、また新しいスタイルに移っていく、ということの繰り返しなわけ。
だから放送作家とか、ディレクターとか、そうした現場の人材っていうのは、常に30代とか40代の人が核になってて、その人たちの嗜好性がマーケットに反映される。小杉(理宇造)さんもまさにそういう世代なんだよね。「愛を描いて- Let’s Kiss The Sun -」はJALの沖縄キャンペーンソングで僕にとっての初めてのタイアップ・シングル。
シングルのタイアップは、ヒットには大きな要素だったけど、僕はそういうタイアップとは違ったコマソン(コマーシャル・ソング)の仕事をしていた。今も昔もコマソン専門でやる人は、ちょっと違う括りで見られるけど、あの当時の僕は、コマソンは作れるけど、それはあくまでコマソンで、それを自分の作品としてタイアップで使うとか、そういうことは出来なかった。IT’S A POPPIN’ TIMEに入ってる「MARIE」っていうアカペラの曲は資生堂のCM曲だけど、あれは別にタイアップじゃないんだよ。コマソンに作ったものを、自分用にフル・ヴァージョンにしているだけ。今から考えると不思議な時代というか、ヒットにそれほど固執してないというかね。そもそも分からなかった、というのもあるね。
「Let’s Kiss The Sun 」はシングルを意識したよ。コマソンと同じだもの。あの頃は歌い込みっていうのをやらされて、CMのテイクでは「オキナワ〜」って言葉が、歌詞に入ってるんだよね。「LOVELAND, ISLAND」の時も、CMテイクでは「サントリ〜ビール」って歌っている。だから、コマソンの延長っていう感覚だったんだよね。代理店のスタッフもフィルムの監督も、それまでのCMの仕事でよく知ってる人だったし。だから僕は普通のタイアップとは逆の入り口から入ってるんだ。
CMというと、79年にはコカコーラがあった。あれも一種のタイアップなんだけど、コカコーラの「カモン・イン・コーク」っていう曲は、トランザムチト河内さんが作っていて、それを5組で競作するっていう話だったの。僕は「人の曲を歌うのは嫌だ」って断ったんだけど、間に入っていたスタッフが勝手にOKしちゃって、僕が断るとスポンサーに出入り禁止になるって、代理店に泣きつかれた。それでどうしようかと困って、他の人たちと違う感じにするために、アカペラでやったの。厳密に言えば、あれは歌わされているんだけど、それが怪我の功名で、最終的に結構評判になった。それは、僕がずっとCMをやっていて、やり方が分かっていたから。他の人と違うやり方が功を奏したっていうか。
だけど「Let’s Kiss The Sun」の頃、RVCはそういう意味では歌謡曲の会社だったから、テレビ以外のプロモーション施作をほとんど持ってなかったし、僕もライヴをそれほどやってなかったから、チャート100位にも入らない、っていう結果だった。「Let’s Kiss The Sun」のCMには、山下達郎のクレジットは入った。資生堂のCMとか、コカコーラの時もクレジットは出ていた。78年頃からテロップが出る時代になってきたんだよね。それ以前は、吉田拓郎ぐらいの人でも名前が出なくて、口コミで広がっていく感じだったんだけど、それが時代と共にだんだんあざとくなっていったんだね。
    
<「Let’s Kiss The Sun」はなかなか曲が出来なかった>
僕は今だって、何がヒットするか分からないって思ってる。どうしてこの曲がヒットするんだろう、って、オリコンのベストテンに入った曲を聴いてね。
79年だったら、僕が聴いてたのはアースウインド&ファイヤーとか、エモーションズとかでしょ。そういうのだったら分かるけど、なんでこの曲が一位になるのか、って思うことが多い。結局それは、その人がテレビに出てるとか、当時のヒット曲は、やっぱりほどんどがタイアップだったんだよね。僕たちがそういうことに無頓着というか、無関心なだけであって、セオリーとか、基本的にそういう構造は何も変わってないんだよね。
「Let’s Kiss The Sun」は明るくしようと思ったの。単純に明るくしようと。それまでの僕の曲の中でみても、この曲はとても明るい。で、長くない。4分ジャスト。だからそういう、純粋に編曲家的な発想で。
どういうメロディラインだったらヒットするとか、分かっている人もいるんだけど、分かっている人だって、それは論理的なものじゃない、感覚的なものなの。だって、ぴんからトリオの「女のみち」があんなに売れるなんて、誰も分からないよね。で、「女のみち」がヒットすると、同じ路線の曲が何曲も出て来て、みんなそれなりにヒットする。でも、なぜ売れたかは分からないんだよね、時々そういうのがあるでしょ。
こちらのフィールドだって、例えば「アメリカンTOP40」は、誰でも聴いて、意識していた。だから歌謡界でなくとも、ヒットソングを書きたいという妄想はあるんだよ、みんな。僕に限らず、そういう妄想は誰でも持っているんだけど、いざそれを現実化、具現化しようとすると、とても難しい。ほとんどの人は、その妄想を現実にする努力や訓練をせずに、ただのシュプレヒコールで終わってしまう。レコードが出たら、ぐんぐんチャートを駆け上がるって妄想はあるけど、望むだけで実現すりゃ、誰も苦労はしない。レコード会社のマーケティング、プロダクションのノウハウ、そういうものが複雑に絡み合って、それに偶然も加味されて、ヒットが生まれる。ある時にはゴリ押しで。それは今でも全く変わらない。
僕も「アメリカンTOP40」を聴いていたから、ヒット曲の雰囲気というか、そういうものは自分なりに持っていたんだけど、それが日本の風土にどれだけ合うかについては、ほとんど絶望的だった。「Let’s Kiss The Sun」がチャートに入らなかったことについては、特に(感想は)無いよ、絶望的展望だったからねw あの曲は突貫工事だったんだ。とにかくできなくて、できなくて。今日にでもテープができないと、誰かの首が飛ぶ、っていう瀬戸際まで行ったんだよね。
その頃、僕は練馬に住んでいて、練馬から車で渋谷にあったレコード会社に向かってたんだけど、しょうがない、できませんでしたって土下座して謝ろうと思ってた。それが、今でも覚えているけど、原宿にあったパレフランスの前で信号待ちしてた時に、パッと出て来たんだよ。「フライング・オール・デイ」っていうフックのところが。それで60秒のフックを作って、その晩にAメロ、Bメロを作って、それで間に合ったんだ。
あの頃、とにかく曲が出来なかった。GO AHEAD!からMOONGLOWの頃、あの時代が一番出来なかったな。78年にキングトーンズの曲を3曲、詞先で書くのが本当に時間がかかって、ひと月なんてものじゃなかった。やる気がなかったんだよね、ようするに。
結局、契約とか実務的な問題が色々あったり、レコード会社も、早く出ていけ、みたいな世界だったから。それこそ、サザンやツイストの活躍が始まった時期だったからね。あの人たちが出て来たのは78年の前半でしょ。うちの奥さんも、そのすぐ後に出て来た。そうなると70年型ロック・フォークはもうお呼びじゃなかった。特にロックはね。
フォークはその頃、一定程度の成功を収めていたから。彼らは年間100本単位のライヴという基盤があって、全国のイベンターと組んで、テレビを使わずにやれてたわけでしょ。僕らはそういうライヴも出来なかったから。
個人的には、この頃はCMやスタジオ仕事で、それなりに食べられるようになってきたから、余計にそういうことを思ってたかもしれないね。食べられなかったら、もっと必死にやっていたかもしれない。CMとスタジオの仕事である程度食べられて、レコードもそこそこ買える。そうすると労働意欲がなくなってくるというかね。
     
<MOONGLOWのレコーディングと「Let’s Kiss The Sun」は全く関係ない>
「BOMBER」以降、今まで見たことのないお客さんが出て来たでしょ。その人たちの方が自分の信条には合ってるなと思った。
小杉さんが桑名くんに一生懸命やっているのを見て、次は自分の番かなとはずっと思っていたの。それをどういうやり方でやるのか、よく分からなかったんだけど、とにかくシングルを書けと。契約していたフジパシフィックと1982年まで契約を延長したから、シングルを書け、って、せっつかれたの。フジ自体も原田真二とかオフコースのヒットが始まっていた。その当時、一番の非採算部門が僕だったからw そういうことを要求された。だから「Let’s Kiss The Sun」は完全にフジパシフィックがらみのタイアップで。
その後、スマイルカンパニーという自分のオフィスが出来て、RVCにはエアー・レコードというレーベルが出来た。レーベルと自分のオフィスが立ち上がったので、そこで少しスタンスが固まったというか。
事務所は78年12月に出来た。その時はまだスマイルカンパニーじゃなくて、ワイルドハニーという名前でね。そこからマネージャーが付いて、コンサートもやるようになる。それまでは事務所もなかったし、マネージャーもあってなきが如しだったけど、少しスタッフが出て来て、RVCの宣伝マンだった人が、マネージャーになって、少しづつビジネスらしき形態になっていった。それでも、まだ25、26歳の話だから、何が何だかよく分からなかったんだけど、今から考えるとそういう話なの。
シングルの後にアルバムの準備、だからMOONGLOWのレコーディングと「Let’s Kiss The Sun」は全く関係ない。「Let’s Kiss The Sun」はMOONGLOWのB面最後に入ってるけど、あれだけはアルバムと関係なく作っている。MOONGLOW(79年10月発売)はエアー・レコードの第1弾なんだけど、予定よりひと月遅れたんだ。
  
<レーベルを作ることによって、制作宣伝の自由度が増す時代だった>
エアーができた経緯で言えば、そもそもあの当時、わりとみんながレーベルをつくりたがっていた。経理的な問題や、宣伝費のフィードバックなどレーベルを作ることによって、制作宣伝の自由度が増す時代だったんだよ。
当時RVCの邦楽には1課と2課があって、歌謡曲は1課、僕のようなロック・フォーク系は2課だった。当然1課の方に投下する宣伝枠の方が大きいから、不満が募る。それがレーベルになれば、最初からきちっと宣伝費の枠を作れて、実績があれば、更に上乗せもしてくれるシステムだったと記憶してる。エアー・レコードには最初は僕と浜田金吾がいて、後から何人か入れたけど、結局僕らが抜けてしまったので、レーベル名はしばらく残ってたけど、最後には消滅したんじゃないかな。
あの頃、小杉さんは近藤真彦を担当する直前だった。小杉さんは元々ロック寄りのA&Rマンで、歌謡曲とは関係なかったんだけど、ジャニーズとの縁があったので、たのきんトリオが大ブレイクした時に、小杉さんに白羽(しらは)の矢が立って、「マッチを獲得しろ」となった。
彼はエアーレーベルの宣伝費に実績をフィードバックして欲しいという交換条件を出した。かくしてマッチはRVCと契約して、大ヒットを連発したけど、会社の上層部は小杉さんとの約束を果たさなかった。それがのちに、僕らがRVCを辞める原因ともなった。
まあそういうビジネス的な経緯があって、桑名くんが1位を獲ったとか、そういう追い風もあって、小杉さんは自分のレーベルを立ち上げて、レコード会社のいちディレクターからステップアップしようとしたわけ。そんな思惑が重なっていた時期が、79年の「Let’s Kiss The Sun」からMOONGLOWへの時代だったんだ。
そんなわけでエアーレーベルは小杉さんの戦略から生まれた。実際にCIRCUS TOWN、SPACY、GO AHEAD!とセールスはジリ貧だったんだけど、MOONGLOWではリリースとツアーをリンクさせた活動を始めたり、いろんな可能性が生まれつつあったのと、あとは何度も言うけど、時代だよね。ウォークマンの時代が始まっていて、そこに大阪から火がついたディスコとアウトドア・ミュージックの時代の波が、ちょうどうまい具合に乗っかったっていうかね。そういう波に乗って、MOONGLOWは1年間じわじわと売れ続ける、というパターンになったんだ。
更にMOONGLOWは、80年のレコード大賞のアルバム賞をもらった。YMOがブレイクしていたり、サウンド思考がある程度評価される時代になっていたこともあるんだと思う。当時はレコ大のアルバム賞は3枚選ばれていて、その年はYMO「ソリッド・ステイト・サバイヴァー」と長渕剛さんの「逆流」、それにMOONGLOWだった。
前作のGO AHEAD!のセールスはRVC的には全然満足できるものじゃなかった。それでも次が出来たのは、レーベルになったから。小杉さんは桑名くんでブレイクが始まっていたから、会社に対してそういうアピールは出来た。小杉さんはそういうところはポジティヴだからね。GO AHEAD!は当時3万6千枚くらいの売り上げだったんだけど、RVCは歌謡曲の会社で、シングルヒットが評価のすべてだった。
実はRVCの売れっ子だった歌謡系の人たちも、シングルは20〜30万枚売れて、ベストテンに入るけれど、アルバムセールスは、僕らとあまり変わらなかった。そこそこ売れたとしても、一定の期間が過ぎると返品がドッと来る。
ところが専門的な話になるけど、RVLの8000番台っていうのが、RVCではいわゆるロック、フォーク、ニューミュージックのカタログなんだけど、このジャンルだけ異常なほど、返品率が低いということが分かったの。
78年当時のRVCはどん底でね。ビューティー・ペアのヒットでかろうじて食ってる時代だった。それこそ今の節電じゃないけど、オフィスの蛍光灯を半分消して、トイレットペーパーを無くして、みたいなことまでやっていた。それで収支を徹底的に見直したら、RVL-8000番台が非常に効率が良いことが分かった。それでこのジャンルに力を入れようということで、”3M作戦”が始まったの。桑名正博、越美晴竹内まりやをプッシュした。でも、それに僕は置いてかれてw 
エアー・レーベルが始まった時代はそういう感じだった。
【第26回 了】