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ヒストリーオブ山下達郎 第25回 ブレイク前夜 、79年の大阪と「ピンク・キャット」

<BOMBERが売れ始めたから、大阪に来てくれ>
1979年1月、次のシングル「愛を描いて〜LET’S KISS THE SUN」のレコーディングをしていて、4月に発売だね。この79年初めは、けっこう頻繁に大阪にプロモーションに行った。クールスのレコーディングが終わって、直ぐくらいに、大阪のプローモーション担当だった石原くんに「BOMBERが売れ始めたから、来てくれ」って言われて行ったの。
当時はOBCラジオ大阪)で、栗花落(つゆり)光(ひかる)さんっていう、今はFM802の役員をやっている人が、ラジオ制作をしていて、「ジャム・ジャム・イレブン」っていう深夜放送があった。もう少し後の79年半ばくらいになると、ラジオに毎週出るようになった。特に「ジャム・ジャム・イレブン」は、スターキング・デリシャスの大上(おおがみ)留利子さんとか、マーキーっていうディスコのDJの人のところにも出たね。彼がマーキーで僕がタツローだから、タツマキ・コンビって言って、そういうのはずいぶんとやった。
あとはアン・ルイスがレギュラーをやっていた番組。ハイヒール・モモコの番組とか。ラインナップとしてはそんな感じかな。うちの奥さんも「ジャム・ジャム・イレブン」のレギュラーをやってた。その頃はまだ付き合う前だったけど。ちょうど「UNIVERSITY STREET」が出る頃で、そのレコーディングもこの頃だったんだよね。
大阪でのメディアの反応は(以前と)全然違ってた。78年にIT’S A POPPIN’ TIMEで大阪キャンペーンをやった時は、全くケンもホロロだったけど、石原くんが入ってからはアプローチを変えて、深夜放送とディスコ周りをやるようになった。BOMBERはディスコで毎日かかっていて、全盛期のアメリカ村でもかかりまくっていたから。狐につままれた、っていつも言ってるけど、本当に何が何だか分からなかった。僕はディスコなんてものに、およそ縁がなかったし、70年代初めのMUGENとか新宿のサンダーバードとか、生バンドのディスコ時代には時々聴きに行ってたけど、プロになってからは全く無縁だった。アン・ルイスの仕事をするようになってから、ツバキハウスとかに連れて行かれるようになって、80年くらいになると、流石にディスコの知識も蓄積されたけどね。
全盛期は、毎週大阪に行ってた。FM大阪OBC、ABC(朝日)、MBS(毎日)、要するにラジオ一辺倒だった。あの頃にお世話になったディレクターは、みんな今でも仲がいい。番組が終わって、夜中に屋台で、ラジオのディレクターと酒飲んだりね。懐かしいな。とにかくGO AHEAD!は大阪のシェアが東京を上回ったというか、半分以上が大阪で売れたんだよね。それが完全にブレイクのきっかけになった。
ハイヒール・モモコさんはごく常識的な人だったよ。ヤンキーのお姉さんだから、とても気遣いがあって、そういうところでクールスとの経験が生きてくるんだよ。ヤンキーっていう言葉を僕に教えてくれたのは、大上留利子さんでね。僕がツッパリっていうと、「それは大阪ではヤンキーって言うんですわ」って。「ヤ・ン・キ・ー」ってちゃんと発音の仕方まで教えてくれた。大阪のラジオだからって、特に意識はしていなかったよ。みんないい人だったしね。深夜のDJをやっていた人たちは、芸人さんでも音楽好きな人たち、たくさんいたからね。そういうことを考えて、セットしてくれていたから、下ネタ専門のお笑い芸人のゲストに入ることは、まずなかった。
当時の芸人さんでは、太平サブロー・シローさんのシローさんが特に僕を応援してくれた。シローさんはいつもライヴに来てくれていたし。とにかくあの当時の大阪には独自のラジオ文化があった。あの時に培った人間関係というは大きいな。
同じようなことは大阪以外でもいろいろあって、岡山の山陽放送には河田さんというディレクターがいて、駅前のサテライトスタジオで、いきなり3時間くらいの生番組を企画してくれたり、福岡KBCの岸川さんは76年から知り合いだったけど、その頃にはもうブレイクの予感はしていたんだろう、「いよいよだね」と言われたりね。だから、ラジオを通じて大阪に馴染んだというか、でもやっぱりライヴだね、
それまでの大阪のライヴって、それこそ74年に行った時になるから、まあ、京都ではトラウマになったけど。その時の大阪の方は、言語面の恐怖とかはあったけど、ライヴ自体はそうでもなかった。むしろそのあと、76年に吉田美奈子のバックで「GO ROCKING FESTIVAL」という、雑誌GOROのイベントライヴを、大阪厚生年金でやった時の方が、強烈に記憶に残っている。その時の出演は、大上さんのスターキング・デリシャスと、憂歌団と美奈子というラインナップだった。美奈子の出番が最後で。会場に着いて楽屋入りしたら、舞台関係か放送関係の人かな、とにかく関係者だろうけど「おはようございます」って入ってきて、「あんな、今日はスタッフ全員、大上さんのために来てるやから、あんたたちは勝手にやって、勝手に帰ってな」というような内容のことを言われてね。まあ、その時代の関西ブルースとかの空気は知ってたけど、でもずいぶんな言い方だな、と思ったね。
それが79年に「BOMBER」が流行り出した時に会ったのは、まったく違う人たちなわけ。ディスコのDJとか、須磨で遊んでるサーファーとか、今まで知っていた人たちとは人種が違う。日本のフォークとロックと言われるような流れで育って来た人たちとは、全然違う、まったく新しい流れだね。音楽の聴き方やライフスタイル、色々なものが80年代に向けて変化した。アメリカ村や丘サーファー。
個人的見解では、そんなふうに大きく変わった要因は、ウォークマンとカーステレオだと思う。ウォークマンはアウトドアに音楽を持っていけるという、初の軽便なメディアだった。それとカーステレオ。カーステレオでFMとカセットが聴ける。その二つがすごく大きかったんじゃないかな。カセットテープの普及と、カーステレオとウォークマン、それらが70年代末、爆発的に広がった。
ちょうどその頃、RCAの宣伝マンのアイデアで、小林克也さんがハワイのKIKIというラジオ局のDJに扮して、彼のナレーションで僕の曲を繋いだ「COME ALONG」というプロモーションレコードを作ったけど、着眼点はそういうところにあったわけでね。あの「COME ALONG」を店頭でオンエアしたのが、すごく効果的だった。あの時の大阪の戦略はね、そういうものの先取りだったんだよね。だから、そこからしばらく”夏だ、海だ、達郎だ”になるわけでね。本当に当時の須磨の海岸では、みんな「BOMBER」を聴いてたって言われた。当時、彼らは高校生、大学生で、あれから30年経って。彼らは「BOMBER」からMELODIES(83年6月発売)までの4年くらいの間に、僕を聴き始めた。それが、僕の一番コアなファンになっているんだね。
  
<関西では僕が「BOMBER」でいきなり出てきた感じだったんだと思う>
「BOMBER」以前と、それ以降のファン。当時の僕にしたら非常にストレンジだったけど、でも、正直”それ以降”のお客さんの方がいいな、と思ったんだよ。
「GO ROCKING FESTIVAL」の楽屋に入って来たような人たちより、こっちの方が素直で、ずっといいやって。で、79年6月からのツアーの時には、東京はそれまでと全く同じお客さんだったけど、大阪サンケイホールでは一曲目「ついておいで」のイントロが始まった時に、ギャーって盛り上がって、なんだこれは、って思った。そこから明確に、流れが変わったんだよ。だいたいディスコのプロモーションなんてものが初めてだったし、しかもそれが「BOMBER」で。僕はこういう新しいリスナーの流れで、この先はいくんだなって思ったよ。
元からのファンの反発、っていうのも、それなりにあったけどね。RIDE ON TIMEの時がピークだったけれど。この頃でも、たとえば79年夏にアマチュア・コンテストのゲストで出た時、演奏してたら、一番前の女性から「どうしてそんなメジャー路線に走るんですか」って言われたりねw マイナーなままでいて欲しい人というのは、いつの時代にもいてね。売れたら裏切り者になるわけさw あの頃、僕の私設ファンクラブのような人たちがいて、その会報に書いてあったGO AHEAD!の評なんて、いいことなんかひとつも書いてないの。「散漫な内容」「プロデューサーは他に任せた方がいい」とか。
それ以来、僕はコアなファンと称するものに全くシンパシーをなくしてね。同時にファンクラブにも関心を失って、90年代まで作らなかったんだよ。でも、自分の出自を考えれば、そういうお客の存在も、また不可避だったんだよね。やっぱり、荻窪ロフトから出て来たアングラ・バンドマンなんだもの。
あれからもうずいぶん時が経つのに、そういうウダウダ言う客は今でもいてね。だったら、聴かなければいいのに、買わなければいいのに、と思うんだけどね。きっとウダウダ言うそれ自体が、自己目的化してるんだろうけど、こっちもいい歳だし、あっちもいい歳だし、お願いだからもうそういうのはいい加減やめてくれないかな、と思ってる。
まあ、とにかく大阪では、そういうのからガラッと変わって、イキがった評論家ごっこが全然なかった。もともと大阪には僕のファンが少なかったから、来た人たちも全然違ってたんだ。それは実に面白かったね。終演後、楽屋口に人があふれて、表に出られなかった、なんて、まるでアイドル並みの時代もあったんだよ。でも、ちゃんと音楽はわかっている人たちだったからね。ダンス・ミュージックとかリゾート・ミュージックとか、生活の中で、音楽を聴くようになった時代のお客さんだから、それまでと反応は違っていたけど。
特に大阪はね、不思議だけど、同じファンでも何かこう、空気が違うというか。道を歩いていたり、食事をしてるときに声をかけて来る人なんか「達つぁん、何しとんの、今日は仕事なん?」って。それで「サインもらおうかな」とか、えらくフレンドリーでね。でもそれだけ。しつこいこと、くどいことは一切なし。それは今でも変わらないね。
他の地方に行くと、自転車で追いかけられる、なんてのはあったよ。東京なんかだと気取ってるから、そういうことはないけど、最近は銀座なんか歩いてると、声を掛けてくるのはほとんどがファンクラブのメンバーw この間、大阪に文楽を観に行って、トイレから出てきたら、男の人が「サインしてくれって」って来たから、文楽のプログラムにサインしてあげたけど、あの人もきっとファンクラブの人だね。そうじゃないと、街で会ったってわからないと思うよ、テレビに出てないから。
あの時代、大阪のコンサートに来ていたお客は、関西ブルースと僕の関係なんか知らないからね。ディスコで「BOMBER」を聴いて、GO AHEAD!を聴いて、という衒い(てらい)のないお客ばかりだったからね。それこそディレクターの人たちだって、僕と山岸潤史が知り合いだとか、そんなこと一切わかってない。シュガー・ベイブに関しては、気になっていたという人も居るけれど、あまり興味ない人がほとんどだった。むしろ、福岡とか北海道の人の方がSONGSに対する認識はあった。大阪は大都会で、そこに起きているムーブメントの規模が大きいから、シュガー・ベイブに対する認識なんて、それほどなかったんだよね。
そんなことで、関西では、僕がムーブメントとして、そんなに注目されていなかったがゆえに、僕が「BOMBER」でいきなり出てきた、という感じだったんだと思う。
「BOMBER」のヒットは元々は石原くんが仕掛けたんだけど、でもそういう仕掛けって、笛吹けども踊らず、っていうのがほとんどだからね。でも、ディスコのDJが乗ってくれたんだよね。彼らも洋楽ばっかりじゃダメだ、という問題意識はあったんだって。で、これだったら、洋楽と対抗できるサウンドだから。それに日本語だし。だからディスコでかけて、啓蒙的にやっていこうと、乗ってくれたんだね。それでツアーをやって、今はこういう流れに乗っていくしかない、と思うのは当然でしょ。それで作ったのが、MOONGLOW(79年10月発売)なんだよね。だからMOONGLOWは全レパートリーをライヴで演奏した、ただ1枚のアルバムなんだ。他のどのアルバムにも、1〜2曲はやってない曲があるから。
  
<「ピンク・キャット」はアン・ルイスのスタンス改革に少しは貢献したと思うよ>
「ピンク・キャット」(79年8月発売)のプロデュースは小杉さんが仕掛けたの。アンのプロデュースで、僕の名前を売ろうって。それまでアンのことはほとんど知らなかった。「グッドバイ・マイ・ラブ」とか。ユーミンが書いた「甘い予感」とかくらいの知識。
正直言って、最初にオファーが来た時には、僕じゃない方がいいんじゃないか、と思ったんだ。やっぱり「グッドバイ・マイ・ラブ」の人だし、もうアンは根っから芸能人だから。僕はそれまでThe芸能界なんて、ほとんど見たことも聞いたこともなかったから、一緒にいると気が狂いそうになるんだよね。だって天津甘栗を買おうとしてサイン、キヨスクに寄ればサイン、みたいなさ。
新宿ルイードとか、ラ・セーヌとかに彼女のライヴを観に行くと、司会がいるんだ。昔の歌謡曲のセオリーで、一曲終わると「はい、アンちゃんの新曲でした。ところで昨日はどこかに行ったそうだけど…」みたいな感じでね。
で、彼女に「この先どんな音楽やりたいの?」って聞いたら、「歌謡ロック」だって言う。それだったらさ、僕じゃない方がいいんじゃないか、って。でもね、なんで僕のところに来たかっていうと、アンはディスコ少女だから、大阪のディスコで「BOMBER」を聴いたんだって。これカッコいいっていうんで、僕にプロデュースの話がまわってきた。どうしようかなと思ってさ。じゃあ、今までの歌謡路線一辺倒だったのを、劇的に変えようかなと思って、意図的にオーヴァー・プロデュースにしたの。作業は、曲を集めるところから始まって、アレンジして、サウンドポリシーを決めることもやるけど、なんたって芸能界だから、曲もいろんなところから、あれ使え、これ使え、と言われて。そういう交通整理も大変だった。
自分で書いたのは「シャンプー」だけ。「アイム・ア・ロンリー・レディ」(79年6月発売)というシングルがあるので、これは入れてくれ、と言われて。それはリミックスしたり。あとは美奈子とか桑名くんに書いてもらったりしたの。
それからセリーヌ・ディオンのBecause You Loved meなんかで知られるダイアン・ウォーレンの曲も使ってるんだ。当時、彼女はアラン・オディと契約していた音楽出版社の所属で、アランが「彼女は才能があるから聴いてくれ、なかなか売れないので、諦めて故郷に帰る、って言ってる」って送って来たデモの中に、けっこう良い曲があって、「JUST ANOTHER NIGHT」という曲を使うことにした。これが彼女にとって、最初にレコードになった作品なんだ。大ヒット作家になるのは、この後なんだよ。彼女はこれがきっかけで、もう一度頑張る気になって、その後の大成功につながったと、アランから聞いてる。
あと他にも「シャンプー」の詩は、新人だった康珍化(カン・チンファ)が書いてたり、エピソードは多いアルバムなんだよね。アルバムタイトルは本当は「ピンク・プッシー・キャット」なんだけど、ビクターがどうしてもダメだということで「ピンク・キャット」になった。
このアルバムをいま聴くと、あれがアン・ルイスに本当に合っていたかどうかは分からないけど。でも、彼女のスタンス改革に寄与したという意味では、少しは貢献したと思うよ。
その意味では、大いに彼女にプラスになったのは、その後にやったシングルの「恋のブギ・ウギ・トレイン/愛・イッツ・マイ・ライフ」(79年12月発売)だと思う。なんでそんなにディスコが好きなのに、ディスコ・サウンドが一曲もないんだ、と思って作ったんだ。もろディスコじゃなきゃダメだよ、って言って作ったのが「恋のブギ・ウギ・トレイン」なの。そういう機会がないと、ああいう曲は作らないし。あれがなかったら、彼女が歌謡曲路線から離れて「ラ・セゾン」まで行かなかっただろうね。コレはシングルだけだったけど、僕に頼むと予算が掛かり過ぎるということで、それから先をやらなかったんじゃないかな。その後、僕には声が掛からなかったからねw 
でも、僕自身、ここいら辺りから大忙しになるから、オファーがあっても出来なかったな。
【第25回 了】