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ヒストリーオブ山下達郎 外伝8 小杉理宇造インタビュー

<あの人とやってみたいな、それが達郎さんの最初の印象ですね>
僕はRCAで日本のロックをやりたかったんです。でも、日本のロックの分布図が分からなかったんで、牧村憲一さんに会いに行った。そしたら牧村さんが、荻窪ロフトでシュガー・ベイブの解散ライヴ(76年4月)があるから観に来ないかって。それが最初で最後に観たシュガー・ベイブw ライヴは素晴らしかった。歌が上手い人だなあと思った。ギターもうまいと思ったし、何よりもおしゃべりが素晴らしい。普通のミュージシャンっていう雰囲気はしなかった。僕は声の良い人が好きなので、やっぱりあの人とやってみたいな、っていうのが最初の印象ですね。それはいまだに変わらない。
だいたい同時期に見ていた人が桑名正博さんで、彼ももうソロになっていました。僕は歌が上手いことと、かっこいいというのが、アーティストを選ぶ基準だと思いますね。
CIRCUS TOWNのレコーディングでは、達郎さんからこういうメンバーでと言う提案が出て、僕は無から有を得るのは大変ですけど、質問されたら答えられるので。ボールは投げられた方が受け取りやすいですし。目の前のテーマをどう解決するかってことだけで、絶対にうまくいくとも思っていないし、ダメだとも思っていない。
まず、やるべき事は達郎さんから出された答案用紙に、答えを入れていくこと。つまりそれは、イコール、動かなきゃダメと言うことですよね。まず第一関門は、チャーリー・カレロというアレンジャー・プロデューサーをセッティングすること。住所も電話番号もわからない。だけどアメリカに電話すればわかるだろうと、RCAインターナショナルに電話したんです。向こうも「なんだこいつ」って思ったでしょうね。でも「I’m working for Tokyo RCA」って言ったら、教えてくれたんです。それで電話をかけた。自宅に。チャーリー・カレロはもっと驚いて「なんで俺なんだ」みたいな。「なんで東京から電話してきたんだ?」「実は、自分がこれからやろうと思う新人アーティストが、あなたのファンで、とても高名なアレンジャー・プロデューサーであるあなたと、ぜひお仕事をしたいと思ってる」「え?俺、東京で有名なの?」「いやあ、僕はよく分からないんだけど、ウチのアーティストがそう言ってて。お会いしに行きたい」と。それで本当にわずか数日で、ニューヨークに行っちゃったんですよね。
だからテーマがあれば、それに乗っかって動けば良い。ダメならダメで、ごめんなさいっていうことで。
で、第一関門突破。第二関門は達郎さんの作ったミュージシャンのリストを出したら、「これはわかる」とか「なんで、このベーシストなんだ?これじゃないよ、ベースは本当は」っていう話をチャーリー・カレロとして、80%は多分達郎さんの思い通りのミュージシャン。20%はチャーリーが「こっちの方が良い」と言うミュージシャンになったんです。
ミュージシャンへのコンタクトは全部チャーリーがやった。僕がコンタクトを取ったのはチャーリーだけ。彼からすれば、もうそんなの楽勝って感じのメンバーだったんじゃないでしょうか。
    
<NYで音が出てきた、グルーヴがすごかった>
NYのスタジオで一番に印象に残ったのはチャーリー・カレロがピアノを弾けないってこと。どうやってアレンジしてるんだろうって。これが一番びっくりした。それと音が出てきた時もびっくりして、ひっくり返りそうになった。嘘だろこんなの、生まれて初めて生で聴いたって感じですね。もう感動、グルーヴがすごかった。達郎さんの求めてるのはこれなのか、って思いましたね。
それと午前中からセッションしたのもびっくりした。会社員じゃないだから。夜中から始まって朝までやるのが、我々の慣例でしたから。それが逆転したからびっくりした。それにスコアがすごかった。なんとなくコードがあって、要するに決まり事があってというわけじゃなくて、びっしり譜面が書いてあるのを見て、嘘だろロックなのに、って思った。ドラムのフィルまで譜面があってね。それでグルーヴが出て、素晴らしい。NYは本当にそうでした。
ロサンゼルスに行くと逆にフリーな、そこでみんなでなんとなく譜面書き始めて、ちょっとリハーサルしながらって感じだった。達郎さんにとってはその対局を一度に見られた、東と西の文化を一度に経験できた事は良かったでしょうね。
ロスでミュージシャンの変更が起きた時、全部僕がクビにしていくわけ。「お前明日から来なくていいから」って。そしたら「俺、ダメなの?」って明るいわけ。「だめなんだよ」と。いつも達郎さんのせいにして「わかってないんだよー」ってw「俺はお前の演奏が好きだよ」なんて言いながら「わけわかんないこと言うだろ。だから明日は来なくていいから」って。それで他のミュージシャンにギタリストを替えてくれと。そういう感じでしたね。
コーラスも最初違ったんですよ。今思い出すと黒人のコーラスだったのが、達郎さん気に入らなくて。僕はいいじゃん、そこそこいけるよ、って思うんだけど、ダメなんです。困っちゃって誰を呼ぶか話しているところに、ジェリー・イエスターとか、そういう名前が出たら、達郎さん興奮し始めて、嘘だろって。「ジェリーでいいの? じゃあすぐ呼ぶ」「明日? OK!」みたいな。ビジネス的なNYとは逆に、本当にフレンドシップで楽しくやっていたのがロサンゼルスでしたね。
達郎さんのジャッジは尊重しましたよ。今に至っても、全て達郎さんのジャッジです。だけど彼は直接言わないから、まあ言う場合もあるけど。特にアメリカでは語学の問題もあるんで、基本的に採用、不採用に関して、採用は彼が言うかもしれないけどね、「お前なかなかいいじゃん」とか。だけど「明日から来るな」って言うのは僕の仕事。
仕事を受ける時も、受けるか受けないかは達郎さんがジャッジする。相談はしますよ。だけど、音楽的には僕は相談を受けたことないんじゃないかな。NYでやりたいって言うのは彼で、それをセットアップするのが僕の仕事。セットアップして音楽を作っていく中で、人間的なフィーリングが悪いとか、ハモリが悪いとか、なんとなく違うって言う時は僕の出番。伝達する仕事だし。ネガティブな要素に関しては、僕サイドですね。別にポジティブな良いところばかりを達郎さんがとってるんじゃなくて、最終的な決断は全部、達郎さんです。僕はそういう意味では優柔不断で、いいじゃん、あのギターでもおかしくないぜ、って言う方だから。でもそこで絶対に嫌だっていうのが達郎さん。結果的には彼が正しいって思ってるから。
それはシュガー・ベイブを見た時からですね。あとは彼に人間として触れて、RCAに遊びに来てくれたり、話していくときに、やっぱり信念があるから。例えばなんとなく、まぁこのギタリストでもベーシストでもいいじゃないって、僕なんか思っちゃうの。でも達郎さんはわかると思ってるんです。だから絶対に譲らない。それがやっぱり良い形になって現れてるんですよね。達郎さんは職人気質だからARTISANというアルバムを作ったように、どちらかと言うと完璧主義者で、真剣に物事に対して取り組んでいる。僕は楽観主義者だから、どっちでもいいんじゃないっていう部分があるし、僕は否定するっていう事は人生においてもあんまりない。だから、僕の話になっちゃいますけど、ある意味対極の、達郎さんとジャニーズを、同じようなマインドでできるんです。普通はできそうもないじゃないですかw
僕の仕事を例えて言えば、彼が曲を作った、でもやっぱり初めはヒットしないわけですよ。じゃあどうしたらいいか? それもまた質問なんですよね。テレビには出ない、一般紙にもあまり出ない、ラジオは出る。ラジオだけでヒットが出る時代だったとはいえ、それでシングルヒットが作り出せるような生易しい時代じゃなかった。でも「それじゃあヒットは作れないんだよね」って言ってしまったら、普通じゃないですか。いや、参ったな、どこのパズルを埋めようか、っていうのが、コマーシャルソングのタイアップに変化していくわけです。
達郎さんと話したんだけど「テレビには出ないでしょ。でも、テレビっていうのは音声と画像が合体したものだから、音のほうでテレビが出るのはどう?」「何言ってるの?」っていう話ですよね、彼からすると。でも、それがもしかするとヒットへの早道かもしれない。桑名さんの時も、カネボウとタイアップさせていただいて、見事に成功した。だから、それを考えればいいだけなんです。多分、なんとかしたいのが好きなんですよ。何とか課題をクリアしたいと思うと、何かをしなくちゃいけない。
そんな状況に燃えはしないですよ、苦しむだけ。たとえそれでうまく成功しても、ヒットしたら嬉しいのは一瞬で、ああヒットしちゃったから、次もヒットさせなきゃいけない、まいったなぁ、と。ハードルがもっと高くなるんです。
     
<SPACYはアレンジャーを使ったりせず、全部自分でやったほうがいいと>
CIRCUS TOWNで、とにかく新しいし、すごいものができた。メディアやディーラーの方など、本当に全国津々浦々に行って、音楽好きの人に聴いてもらおう、これだけですよね。そしたらかなり反響があった。とは言っても何枚売れたか、記憶にありませんけど。音楽好きの人には圧倒的に支持された記憶があります。全く売れないお店がある一方で、神戸にあった「アオイ」ってお店では何百枚も売れた。あるところではゼロ。あるところでは30枚とか。やっぱりコア層には支持されるな、というのは分かってたんです。
僕は結構売れたなって感じました。達郎さんとはそのことについて話したんでしょうけど、当時僕たちの仲間のレコードの売り上げは、何千枚というのが普通でしたから。CIRCUS TOWNは2〜3万枚売れたと思うけど、結構売れたなって感じでしたね。次については記憶は曖昧ですけど、僕はとことん新作を発表した方がいいと思ってました。彼は寡作の方なんで、とにかくしょっちゅう書いているということはない。だから生意気ですけど、今度は僕が達郎さんに「新曲をどんどん書いてください」「次のアルバムすぐやりましょう」「まだできないんですか?」って、テーマを与えたと思います。「こういう曲を作ってください」とは言ってないと思います。とにかく作りましょうと。CIRCUS TOWNがこれだけうまくいったから、それを凌ぐものを作りましょう、ファンはいます、という感じですよね。曲がなくともスタジオをブッキングしちゃうんです。そうすると行ってやるしかないって雰囲気になったり。やっぱり目標を掲げると、彼は真面目ですから。もしかすると、小杉になめられられたくないと思っていたかもしれないけど、何でもいいから頑張ってくれればいいんですから。
2枚目がセルフ・プロデュースになったのは、どうせ売れるわけじゃない、だとしたら将来的に自分のスキルに繋がるように、自分で全部責任を持った方がいい。
CIRCUS TOWNはそういう意味では、NYサイドでは達郎さんはシンガーで、LAサイドではミュージシャンなんです。シンガーの山下達郎とミュージシャンの山下達郎、そのふたつは初めからあったんですよね。で、こう言ったら大変失礼ですけど、SPACYでチャーリー・カレロに勝つ事は多分できない。だとしたら、アレンジャーを使ったりせず、全部自分でやったほうがいい。そのほうが納得いくでしょ。達郎さんは本当に探究心とか、向上心がすごい。それまではストレングス・アレンジをしたことがないと思うんです。ロック・ミュージシャンですから。でも、やろうと思う気持ちが強いんですよね。
前にも言ったかもしれないですけど、嬉しかったのは達郎さんがNYでチャーリー・カレロの譜面に異常に興味を持ったこと、興味がなければ、何にもヒントがないですよ。僕が「興味あるならコピーをもらってあげようか? もらってくる?」って聞いたら「うん」て。で、「チャーリー、ちょうだい」って言ったら、「いいとも」みたいな感じでした。もしかすると、彼はそこから勉強しようと思ったのかも。
日本でやってきたシュガー・ベイブや、自分を取り巻く音楽環境との違いを、NYで知ったのかもしれない。それについて話した事は無いけど、今考えるとそうかもしれないですね。あの時の興味が、2枚目のSPACYにつながっていった。
    
<SPACYは成功したと思います>
CIRCUS TOWNのロサンゼルス・サイドは彼そのものですから。セカンドアルバムでの僕らの目的は、ニューヨーク・サウンドみたいなもの。それに達郎さんがどれぐらい挑戦できるか、という感じだったと思います。
SPACYはCIRCUS TOWNと比べると地味だなって。でも、まあいいやって感じでしたけどね。一番大事だったのは彼がセルフ・プロデュースしたっていうこと。ああ、出来るんだってことですよね。
曲目とか、そういうディテールは覚えてないですが、どっかで僕は「詩も全部書いたら?」って言ってるんですね。吉田美奈子さんの詩はとても素敵だったけれど、彼も表現力あるんじゃないかと思ったんです。達郎さんは完全主義者なんだから、自分で全部パズルを埋めていった方がいいんじゃないかと思っただけです。それが良かったかどうかは別として。
販売戦略は1枚目と同じですよ。達郎さんのことを、7つの顔を持つ男とかプロモートしてた記憶があるんです。要するに歌唱・演奏・アレンジ・プロデュース・作詞・作曲…全部やる奴いないよ、日本人で。それに何歳だと思っているの? という感じで、天才・山下達郎を売って歩いたんです。注目してください、って。多分それが僕の宣伝マンとしてのセールストークだった気がします。コア層に対して。コア層にしか行ってない。渋い!素晴らしい!おおー!っていう。
SPACYは成功したと思います。売り上げは大してなかったんですけどね。いきなりヒットはあまりないことだから、やはり積み重ね。多分僕はヒット曲が好きな人なんで、ヒット曲がないアルバムがバカ売れすると思ってないんですよ。
それにシングル・ヒットって当時はなかなか出せなかったんです。だって「夜のヒットスタジオ」とか、そういうのに出られない。お願いに行っても知らん顔されるの、当時ね。出してもらえないし、出すのも怖いし。
     
<PAPER DOLLはヒットしないなって思った(笑)>
シングルにPAPER DOLL。これはシングルがないと、どうしてもオンエア・プロモーションとか、集中的なプロモができないんですよね。アルバム・アーティストとして売っていける可能性は高い。とはいえ、10万売れると思ったことはない。その環境を変えるには、シングルがないと。でないと、ヘヴィー・ローテーションができないんです。
多分最初の頃、自分の記憶ではDJコピーなんてのを作ってました。放送局だけに「シングル・リリースしてないですけど、これをかけてください」って。そうすると宣伝マンの方から「バカ野郎、発売してないものはシングルって言わないんだよ!」って言われて揉めたのは記憶にありますね。そんなのウソつけばいいじゃん。発売してるって言っても、放送局の人たちは買いに行かないじゃん。でもウソはダメだとか。あーだこーだ言いながら、シングルやらなきゃいけないなって、どっかで思ったんですよね。
PAPER DOLLの時は(達郎さんへのリクエストは)ほとんど何も言ってないです。でも「タンタンスタンタン」ってイントロが出た時に、ああヒットしないなって思った。ああ地味ってw だけど本人は詩とか、そういうことを、シングルの時はどうやったらもっと広く理解してもらえるか、って、そういう切り口で、努力してることは確かなんですよ。
「イントロは長くしたらダメよね」とか。「やっぱりエンディングはなきゃ」とか。「間奏もなんでそんなに長いの? 無理だよ」っていうような話は、僕もシングルの時はしてたと思う。ほんとに細かいことは僕は言ったことはないんですけど、そういう投げかけをする。そうすると、彼はそこで一生懸命、我々の期待に答えようと努力はしてくれてた。とは言え、PAPER DOLLは絶対にヒットしないだろうと。
当時は編成会議というのがちゃんと機能してて、宣伝マンとか営業マンとかみんなで検討して、たぶんボツったんでしょうね。だけど僕も別に、そこで戦おうと思わなかったんです。だって、ヒットしないんだもん。
目標はシングル作にアプローチする、それはもう永遠のテーマだなって。でも、達郎さんは一生懸命作ってくれたけど、RCAの宣伝とか営業とかが票を入れてくれなかった。それも真実だなと思った。僕自身、僕が向こう側だったら入れないだろう。だってシングルって、当てるために出すんですよ。これ当たるか当たらないかって言った時に、限りなく当たらない方に近い。
とは言え、僕は運命共同体だから、達郎さんが一生懸命やって、彼の中では良いと思ってるんだから、それを応援しなきゃという気持ちもある。それと一般の人たちが当たらないだろうと言ったら、そりゃそうですよね、って言っちゃう自分もいた。だからボツったことに、僕はそんなにショックはなかったんです。
達郎さんに悪いなという気持ちはあるけれど、まあこれが現実だから。やっぱり、もう少し当たりそうな切り口のもの、次のステップに行くことを理解してもらわなきゃ、という感じで。その辺は達郎さんと話したと思いますよ。でも曲ってみんなアルバムに収録できるじゃないですか。だって自分がいいと思ったら、自分が全部選曲していいわけですから。だから、やったことは決して無駄にはならないんです。
     
<僕にとっての美学はダブルジャケットなんですよ>
次はIT’S A POPPIN’ TIME(78年5月25日発売)ですね。たぶんSPACY(77年4月25日発売)からしばらく間が空いてたと思います。この頃は、なかなか曲を書いてもらえなかった時期だったんです。でも、僕は発信し続けないとファンが逃げると思っていたから、失礼な言い方ですけど、何でもいいから新作を出したかった。でも必然性とか、価値観を感じるものを発表しなければいけないと思ったんですよ。
当時、紙パルプが高騰していて、全世界的にダブルジャケットの禁止令が出ていた。まだアナログ時代。で、このままダブルジャケットがなくなっちゃうのかという心配があった。これが僕にとって一番大きい理由でした。ダブルジャケットのレコードは売れないに決まってると思ってたけれど、どこかで美学がないとイヤだった。僕にとってはダブルジャケは美学。それは前から思っていたんです。
当時、アナログ盤はA面、B面合わせても45分くらいしか収録できなかった。達郎さんのライブは2時間以上あるに決まってるわけですから、編集しても1枚に収録できない。だから2枚にしてダブルジャケットにしたいと、会社と達郎さんを説得したんです。
ダブルジャケットだけでもカッコよかったんです、当時は。イエスサンタナのジャケットが素敵だったという記憶はあります。だから一度やってみたいと。ライヴだったら、レコーディングも1週間で終わる。編集作業は時間がかかるとしても、リハから演奏までコンパクトですむ。当時はそんなに直しもないし、達郎さんのバックは上手いミュージシャンたち、そんな色々なファクターがあってSPACYからPOPPIN’ TIMEに行ったと思います。でも、キーワードはダブルジャケットw 他の人がやれないことをやろう、かっこいいだろう、と。
どんなライヴにするかは、達郎さんにお任せですね。録音当日の六本木PIT INNのステージはすごかった。緊張感と演奏力と。お客の興奮で酸欠が出たくらいですから。本当にチケットがびっくりするくらい取れなくて。ライヴに関しては素晴らしいものがある。ただライヴだけではペイしない、このメンバー、超高い。でもいい意味での一流のメンバーならではの緊張感っていうのがありました。 
   
<日本でどうしてもアルバム・アーティストを育成してみたい>
僕は出来上がったものの感想は言わないんです、全く。聴かないですもん。このライヴもコア層に向けて。ラジオ局の人たちに聴かせながら、全国駆け回りました。だって演奏はすごいに決まってるじゃないですか。びっくりするようなメンバーが、コーラスを含めてやってくれて、こんなライヴが出来るの?って。でもそのライヴは、全国津々浦々ではお聴かせ出来ない。だからひたすら、ほらすごいでしょプロモーションでした。
でも、そこからシングルヒットが生まれるとも思っていない。とにかくコアをきちんと固めて、積み上げるってことでは、SPACYからPOPPIN’ TIMEという流れは、地味だったけど一貫性があったとは思いますね。2枚組については、だってライヴだから必然性があると、何となく会社を説得した記憶がありますね。でも、たぶんSPACYよりも売れないだろうな、とは思いました。
ヒット曲がない人はライヴ・アルバムは出せない、そんな慣例のようなことは考えなかったです。ミュージシャン山下達郎はライヴ・アーティストとしてもこれだけ素晴らしい、それを一貫してコアなファンに対してアピールする、大売れすることは本当に思ってなかったので、アルバム・アーティストとして、長く出来る人が憧れだったんです。
それは22、3歳の時に初めてアメリカに行った時に、グリニッジ・ヴィレッジのライブハウスに行くと、みんなコンサートできるんですよ。日本の当時の歌謡曲の歌手たちは、シングルヒット1曲で勝負していて、持ち歌があまり無かった。だからアルバムデビューって言葉は、70年代初頭の日本には無かったんです。
だから、日本でどうしてもアルバム・アーティストを育成してみたいと思ったんです。だからシングルがなければ売れないっていうのも、やってから言い出したことで、日本のロックを始める時には、シングルの価値なんて考えて無かったんですよ。
でも、アルバム・デビューするってことはコンサートができるということなんですね。コンサートができる人は、少なくとも15曲は演奏しなくちゃいけないですから。でも、歌謡曲の人たちは、シングルが当たってからアルバムを出す、という流れ。僕は別に、歌謡曲の逆をやってたわけじゃなくて、限りなく欧米のミュージシャンに近いものを出したかったんですね。その部分で達郎さんは、CIRCUS TOWNからSPACY、そしてPOPPIN’ TIMEと、ひとつもズレてないんですよ。
ただ、欲が出てきた僕は、どうしてもシングルヒットが欲しくなりました。それまでは、あまりシングルヒットにこだわってないんです。でもGO AHEAD!の時に、これはアイドルだって歌える曲だなって思ったんですよ、特に「BOMBER」は。だから、GO AHEAD!で見えたんです。これで当たると。「BOMBER」はCIRCUS TOWNのA面の派手さがあったんじゃないですかね。僕はステジオで聴いて、「来たー!いけたな」って感じでした。
    
<GO AHEAD!が色んな意味で分岐点だったかもしれないですね>
僕は時々スタジオに遊びに行くんです。ずっとスタジオには居ないディレクターでしたから。どういうものやってるのかな、と。だって、僕はレコーディング前にデモテープ聴かせてもらったことないですから。だからスタジオに行って、僕の表現力で言うと、地味だなあとか、おお来てるなとか、いい感じじゃん、とか。それをチェックしに行って、応援する感じでしたね。「BOMBER」とかは「来たぞー!」って感じでした。
渋谷公会堂で初めてコンサートをやったのもその時期で、これで勝負できると思ったんでしょうね。ソーゴー東京に行って「山下達郎というのがいて」って説明したら(後に社長になる)黒田さんは音も聴かないで「どこでやりたいんだ?」と。出まかせに「渋谷公会堂」って答えたら、「12月20日か26日に空いてるからやれ」「はい、わかりました」って。
それを達郎さんに言ったら怒られて。「渋谷公会堂なんか満杯にできるはずないじゃん」「大丈夫だよ、やんなきゃ。だってもう受けちゃったんだから。断れないよ」「ふざけないでよ、人に相談もしないで。ライヴは俺のもんだんだよ。なんで勝手なことするんだよ」って、結構怒っていた記憶があります。でも僕は「しょうがないよ。だってブッキングしちゃったんだもん。やるっきゃないよ」って、そんなやりとりしましたね。だからGO AHEAD!が色んな意味で分岐点だったのかもしれませんね。
渋谷公会堂はもちろんソールドアウトにはなっていなかった。開演前に達郎さんと、緞帳をそっと開けて見たんですよ。足が震えた。でも2階までお客さん入っていたんですよ。やったー!すげーって思ったことを今でも鮮明に覚えてます。ああ、来るぞ、って感じですね。ヒット曲が出るぞ、というのではなくて、時代に向かってヒットする可能性があるな、って感じたんですね。だからGO AHEAD!まではミュージシャン山下達郎の形成時期ですね。渋く3万〜5万売れてれば良い。でも達郎さんの場合は、スタジオ時間が長かったんです。
スタジオ代やミュージシャンのギャラが一番高い時代で、僕の記憶では、当時の原盤はフジパシフィックさんが持ってましたけど、それが回収できなかったんですよね。レコード会社的には大丈夫だったんですけど、フジパシフィックさんからすると、多分何万枚か売らないと採算が取れない。だからGO AHEAD!までは回収できてないと思います。だからと言って、フジパシフィックさんからは一言も文句言われたことはないですが。
僕が達郎さんにいつも数字についての小言を言ってたから、彼もそれは気にしていたかもしれないですね。リクープ(費用回収)できて初めて、フジパシフィックさんに投資してくれてありがとうと言えるけど。投資してもらっても俺たちは返してない、というような話はしてたかもしれない。
でも、だからといって、スタジオ時間短くしてください、ということはない。とことんやればいい。でも、作品が売れないと、投資家たちには失礼なことになる。それとも時間を短縮、バジェットを圧縮したりして自分の場所を守っていくか。どっちの選択をするのも達郎さんの決断だから、というメッセージをしてたんでしょう。
でも、ミュージシャンとしてすごいという評価は確実にあった、それは一作目から。SPACYも地味だと言われてるけど、アレンジを全部自分でやっちゃって、CIRCUS TOWNから1年も経ってないのに。この人、言えば何でも出来ちゃうかもしれない、ってことですよね。
正直に言うとPOPPIN’ TIMEまでは、この人はヒットを出せないんだなって思ってました。素晴らしいミュージシャンとして、5万枚をキープできるような人だろうって。圧倒的に、コアなファンにはウケるのは分かってました。だけどGO AHEAD!のスタジオに入った時に、いけちゃうかも、って思ったんです。GO AHEAD!が、僕をも変えてくれた。欲が出た。
      
<一番大切なのは、アーティストとアーティストたちが作ったサウンドなんですよ>
やっぱり自分がやってるアーティストが、プロモーションが悪かったから売れなかった、って言われたくないじゃないですか。元はと言えば、達郎さんと出会ったのだって、たまたま日本のロックをやりたいと思って、会いに行ったのが牧村憲一さんで、牧村さんがシュガー・ベイブのライヴに呼んでくれた。それを見て、良いと思って、何とかしたいと思った。そしたら宿題が出来たんで、それをやれば次に進めると。それがうまく進んだ。
でも色々やるんですけど、一番大切なのは、アーティストとアーティストたちが作ったサウンドなんですよ。作品が悪かったら、売れるはずがないんです。
ただ、作品が良いのに売れ損なうっていうこともある。その時に僕らは嫌だなって思う。作品が悪かったら、言い逃れというか、言い訳はいくらでもできる。だって、あれで売れるはずないでしょ、て。評論家の人だって、いくらでも言えちゃう。でも、作品が良いと自分たちが感じたのに、一般の人に届かなかったときに、何か罪の意識を感じるんです。少なくとも次の場所へ運ばなきゃ、と思いますよね。もう3歩先とか5歩先。でも、次の場所にたどり着くと、次の目的の地図が見えてくるわけですよ。果てしないけれど、それをやってたら良い作品に巡り会えて、結局当たるわけですよ。だから、例えば同じボリュームで、同じ条件でタイアップしたって、ヒットする楽曲とヒットしない楽曲とかありますから。結局、最後は曲の力なんですよ。アーティストのキャラクターによって、どうバックアップしていくかが見えてくる。十人十色だと思う。もちろんテレビの主題歌を取れたら幸せだし、大きなコマーシャルタイアップが取れたら、ヒットへの近道というのは変わらないけれど。でも、やっぱりアーティストによって、それぞれ違うんじゃないですかね。
     
<僕の仕事は作り手に対するリスペクトから始まってるんですね>
僕の場合はクリエイティブじゃなくてマーケティング的で、どうしたらこのアルバム、このミュージシャンを数多くの人に知ってもらえるか、それをビジネスとして成立させるか、っていうのがテーマですよね。それがカラオケ時代だったら、カラオケを中心とした戦略を考えるだろうし、インターネットになればインターネットの戦略を考えざるを得ないし。だからその時代に、どうやったら多くの人に届けられるか。でも、それだけじゃ売れない。すべては作品力とアーティストの力です。
達郎さんで言えば、作品力とグレードに関してはこの人はいくなと。でも多分ヒットはないな、と思いました。達郎さんはヒットを避けて通る道を、選んでたような気がします。彼は一般の人と勝負していない。自分の仲間と、ミュージシャンに対してメッセージを送り続けている、と僕は感じてた。だから難しかった。POPPIN’ TIMEまでは僕から見ると、同世代とか、先輩の日本のミュージシャンたちに対する戦いだったんじゃないか、って感じがします。その時には売れないなと。でもすごい人だから、いろんなスキルは磨いたほうがいいし、経験したほうがいいし、っていうスタンスでしたね。
その時点で、達郎さんは30歳を過ぎて食っていけるミュージシャンなんて思っていませんでした。僕だってディレクターをいくつまで出来るか、なんて考えたことないし。でも達郎さんは30歳を超えても、アレンジャーとしてはやれるかな、って。ヒット曲を書く人ではなかったから、作曲家として生きていけるとは思わなかった。まずアレンジャー。あとはプロデューサー。でも当時は印税が取れるプロデューサーはいなかったから、会社に入ってくれたら、良いディレクターやプロデューサーになってくれるだろうなと思ってました。
会社員ですから、当然人事異動はあります。人事異動、僕はいつも悩んでましたよ。半年に一回、人事異動が出るたびにドキドキして。その理由はヒット曲が出ないから、いつでも移動させられるというのと、俺って洋楽もできそうだし、宣伝マンなんか向いてそうだな、そんなうぬぼれもあって、宣伝部に行かされるんじゃないかって、それが怖かったんですよ。
宣伝部は嫌じゃないんだけど、僕がレコード会社に入りたかったのは、自分がミュージシャンをやってたときのトラウマがあって、アーティストを育てられなかったら、そのトラウマが消えないんです。宣伝マンじゃダメなんです。作るってことなんですよね、売るだけじゃなくて。だから(僕の仕事は)作り手に対するリスペクトから始まってるんです。
ミュージシャンの時に馬飼野康二さんが曲を書いて、僕が詩を書いて、みんなで演奏して、ディレクターのところにもっていくと「バンドマンがどうして曲書いてるの? ふざけないでくれ」って。歌手として契約したんだから曲なんか書く必要ないって。それでもレコード会社の言いなりになって、一生懸命頑張った。でも、それが天国行きの切符だったはずなのに、地獄行きだった。売れない、プライドは傷つく。キャバレー周りしてカッコ悪い。
そういう紆余曲折を経て、27歳で初めて制作マンになるわけですから、制作としてアーティストたちの出口を作れなければ、自分は人間としての価値を損なうかも、というトラウマを背負ってたんでしょうね。だから制作でアーティストの出口を作ってあげたいと。
会社という機構の中に、新しい風を起こすことが自分のテーマだったんでしょう。自分が現役の時に散々だったから、ミュージシャンの言うことを少しでも聞いてあげられる、そんなディレクターが一人や二人いても良いじゃないか、と思ったからなったんで、達郎さんをどうするかって問題よりも、僕の価値観がどこにあるかって、ことだったんでしょうね。
背負ったトラウマは十分消えました。十分消えたけど、本当にヒット曲を出すのは大変で。そしてスター・アーティストを育成するのは至難の業で、これは運命とも言えるくらい大変なことです。
【外伝8 了】