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ヒストリーオブ山下達郎 第54回 2000年夏、まりやのライヴ復帰と『souvenir』発売(11月)

<まりやは18年ぶりライヴだったけど、何も心配していなかった>2000年7月11日、12日で武道館、31日に大阪城ホールで、まりやの18年ぶりライヴとなったTOKYO-FMとfm-osakaの開局30周年記念イベントが行われた。僕にとっては文字通り、生まれて初めての武道館…

ヒストリーオブ山下達郎 第53回 ON THE STREET CORNER1、2再発(2000年1月)とシングル「ジュブナイル」(7月)

<残念なことに、日本ではリイシューにあまり関心がない>1999年11月25日『ON THE STREET CORNER3』が発売され、翌2000年1月26日にオンスト1と2が、パッケージも3に合わせ、リイシューされた。このリイシューは僕の発案だった。僕が言い出さない限り、こ…

ヒストリーオブ山下達郎 第52回 COZYツアーとON THE STREET CORNER3発売(99年11月)

<”伝説ライヴ”に出て大丈夫だと思ったから、ツアーを決めた>1998年8月にオリジナルアルバムCOZYが発売され、その年の10月から翌99年2月まで全48公演のツアーPerformance’98-‘99が始まった。この頃の数年間は、スタジオやミュージシャンについて、トラブル…

ヒストリーオブ山下達郎 第51回 98年8月、7年ぶりオリジナル・アルバムCOZY発売

<リリースとライヴのローテーションが崩れてしまった時代>ARTISANから7年、ようやく出たという感じ。その間にシングルをたくさん出しているから、サボっていたわけではないけれど、結果、それまでで一番、収録曲数が多くなって、15曲72分のフルボリューム…

ヒストリーオブ山下達郎 第50回 Kinki Kidsへの楽曲提供「硝子の少年」(97年7月発売)が大ヒット

<「硝子の少年」は二人の声を聴いて書き直した>久しぶりのジャニーズへの楽曲提供は、Kinki Kids「Kissからはじまるミステリー」”キスミス”だった。僕は本当に初代ジャニーズのファンで、小中学生の頃、初代ジャニーズの活躍を、例えば朱里エイコさんとか…

ヒストリーオブ山下達郎 第49回 95年11月、ムーン時代のベスト・アルバムTREASURES発売

<ベスト・アルバムだからこそ、丁寧に作らなきゃと思った>まりやの『Impressions』がすごく売れたのと、当時はベスト・アルバムがブームで、それで小杉さんが、僕のも出そうと。ムーンのベスト盤はそれまでなかったから。ムーン設立が1982年。僕の移籍は19…

ヒストリーオブ山下達郎 第48回 94年10月スマイルガレージ閉鎖、スタジオジプシーの時代へ

<スタジオで音が鳴ってくれないのが、本当に辛かった>1994年は5月に”SINGS SUGAR BABE”が終わって、まりやの『Impressions』を7月にリリース。あとはずっとレコーディングをしてた。ホームスタジオのスマイルガレージが、湾岸地区の再開発の影響で10月に閉…

ヒストリーオブ山下達郎 第47回 94年4月発売、SONGSリマスター盤と”SINGS SUGAR BABE”

<”SINGS SUGAR BABE”というアイデアは以前からあった>1994年1月にシングル「パレード」発売。これは「ポンキッキーズ」(フジテレビ)のエンディング・テーマになったので、シングル発売となった。この曲はシュガー・ベイブ時代のナンバーで『NIAGARA TRIA…

ヒストリーオブ山下達郎 第46回 クリスマス企画アルバムSEASON'S GREETINGS(93年11月発売)

<過去の経験則がだんだん踏襲できなくなって来た>ARTISANのツアーが91年暮れから92年、その頃からまた、だんだん思うようなレコーディングができなくなって来た。まりやの『QUIET LIFE』(1992)が終わってから、シングル「MAGIC TOUCH」へ(93年6月発売)…

ヒストリーオブ山下達郎 第45回 ツアーPERFORMANCE ’91-’92と『QUIET LIFE』(92年10月発売)

<ツアーメンバーが安定したし、体も鳴っていたから、やりやすかった>ARTISANのツアーPERFORMANCE ’91-’92から、難波(弘之)くんが戻った。彼はレコーディングメンバーだし、そのままツアーもできるから楽で。あとはコーラスのトップをCINDYから高尾キャン…

ヒストリーオブ山下達郎 第44回 1991年6月アルバムARTISAN発売

<ARTISANは不満のほとんどない珍しいアルバム>デジタル・レコーディングにも慣れ、作品作りもほとんどコンピュータを使ってやっているので、曲想が広がった。そうなると逆に、生楽器でやる演奏に不満が残るようになった。全部どこかで聴いたような音に感じ…

ヒストリーオブ山下達郎 第43回 クリスマス・イブが初のシングル1位、89〜91年ARTISAN前夜

<「クリスマス・イブ」が人生最大のヒットになるとは、夢にも思わなかった>89年11月ライヴアルバムJOY発売後、「クリスマス・イブ」が12月にオリコン・シングルチャート1位を獲得。88年にJR東海のCMに使用されて再ヒットし、翌89年も引き続きCMに使用され…

ヒストリーオブ山下達郎 第42回 Performance ’88-‘89とライヴアルバムJOY(89年11月1日発売)

<「僕の中の少年」のツアーは本当に大変だった>「僕の中の少年」のツアーは、公演の延期や中止などもあった試練のツアーで、大変だった。いろいろなネガティブな要素が、複合的にどんと押し寄せてきた。組織やプランが円滑に運営できるのは、大体5年まで。…

ヒストリーオブ山下達郎 第41回 アルバム「僕の中の少年」(88年10月19日発売/オリコン1位)

<「僕の中の少年」というタイトルは子供が生まれたときに思いついた>子供が産まれた時に思い付いた詩のテーマは「僕の中の少年」の歌詞と、ほぼ同じで。それで詞が先というか、こういうような内容の歌にしようと思っていた。象徴詩とかが好きな時代があっ…

ヒストリーオブ山下達郎 第40回 1987〜88年「RADIO DAYS」から「僕の中の少年」へ

<良いものができればいいじゃないですか、って言ったんだけど>88年はマーチン(鈴木雅之)の2枚目のソロ・オリジナルアルバム「RADIO DAYS」発売(4月)だね。レコーディングとしては「REQUEST」の後だった。86年のツアー(Performance ’86)が10月で終わ…

ヒストリーオブ山下達郎 第39回 ON THE STREET CORNER 2(86年12月10日発売)から「REQUEST」(87年8月発売)へ

<「オンスト2」に対する創作意欲は、ものすごくあった>86年5月にスタートした”PERFORMANCE ’86”。このツアーの時から、ステージ・デザイナーが、今(2016年)もやってもらっている、斎木信太朗さんに替わった。斎木さんは僕のステージ・プロデューサーの…

ヒストリーオブ山下達郎 第38回 初デジタル・レコーディング・アルバムPOCKET MUSIC(86年4月23日発売)

<コンピューター・ミュージックは作風を拡大する意味ではプラスだった>デジタル・レコーディング問題がなければ、POCKET MUSICはシュガー・ベイブでやってたことを、もう一段階上げられる作品になるかなと思った。あくまでも個人的な思い入れだけど。でも…

ヒストリーオブ山下達郎 第37回 初デジタル・レコーディング「風の回廊」(85年3月発売)からPOCKET MUSICへ

<ブランクの原因はデジタル・レコーディング>BIG WAVEからPOCKET MUSIC、84年から86年まで。このブランクの一番大きな原因は、デジタル・レコーディングへの移行だった。ソニーのPCM-3324というデジタル(マルチ)レコーダーが登場してね。それまでのアナ…

ヒストリーオブ山下達郎 第36回 84年4月「VARIETY」から6月「BIG WAVE」発売へ

<全曲本人のオリジナル作品でいけると確信した>1984年は「VARIETY」から「BIG WAVE」の年だね。まりやのプロジェクトは前年から動いてた。実際には83年秋かな。レコーディングは本当にツアーの合間を縫ってやってたから。まりやは81年12月に新宿厚生年金で…

ヒストリーオブ山下達郎 第35回 83年後半「スプリンクラー」から「WHITE CHRISTMAS」

<ノー・タイアップのシングルを出してみたかった>83年9月28日、シングル「スプリンクラー/PLEASE LET ME WONDER」発売。これは、ノー・タイアップのシングルを出してみたかったんだ。 やっぱり”夏だ、海だ、達郎だ”からの脱却という動きの一環で、少し秋…

ヒストリーオブ山下達郎 第34回 アルバムMELODIES(83年6月8日発売)

<常に差別化なんだよ、考えていることはね>このアルバムから自分で詞を書くようになって、レコーディングのメンバーも全部固定されて来たから、この辺りのことは結構鮮明に覚えている。それ以前の、スタジオ・ミュージシャンでレコーディングしていて、今…

ヒストリーオブ山下達郎 第33回 MELODIESへ、そのアルバム・コンセプト 1982〜83年

<”Sparkling ’82〜’83”ツアーで、ようやく全会場ソールドアウトになった>ベスト盤は別として、82年4月シングル「あまく危険な香り」から、次作83年6月のMELODIESまで1年あまり、その間はレコーディングもやってたし、ツアーもやっていたので、別に取り立…

ヒストリーオブ山下達郎 第32回 82年「あまく危険な香り」とベスト盤、RCA/AIRイヤーズの終わり

<ドラマのオファーが来なければ「あまく危険な香り」は世に出なかった>82年1月発売のFOR YOUからのシングルカットはなかったけれど、この年の4月5日にドラマ主題歌「あまく危険な香り」をリリースしてる。FOR YOU発売の直後だね。これがオリジナル曲として…

ヒストリーオブ山下達郎 第31回 アルバムFOR YOU(1982年1月21日発売)

<あえて「LOVELAND, ISLAND」はシングルを出さないことにした>あの頃は、毎年アルバムを出していたので、81年の夏には、もうレコーディングは始まっていたと思う。81年のうちに出すつもりでいたけど、 あの年はツアーのスケジュールがあまりに厳しくて。ツ…

ヒストリーオブ山下達郎 第30回 ON THE STREET CORNER(80年12月5日発売)

<一人アカペラは一日で全部録らなきゃならない>アカペラ・アルバムの構想は以前からあった。一番最初に一人アカペラでドゥーワップをやったのは、79年のFLYING TOURのライヴでだった。その時に、ジェスターズの「THE WIND」をやったのが、既成のドゥーワッ…

ヒストリーオブ山下達郎 第29回 80年、ブレイクと交際宣言、そして芸能界

<最初は個人的にどうこうとかは全然なかった>(竹内まりやと)付き合い始めたのは、80年になってから。5月くらいかな。アン・ルイスの「リンダ」のレコーディングを手伝ってくれって、彼女に頼まれたことがきっかけ。80年の5月頃って、ツアーやなんだで忙…

ヒストリーオブ山下達郎 第28回 アルバムRIDE ON TIME(80年9月19日発売)

<レコード大賞の授賞式に出席することは考えてなかった>レコード大賞のベストアルバム賞は、1979年に新しく制定されたもので、僕の受賞の時が2回目だった。それまではアルバムのための賞は、なかったんだ。評論家の福田一郎さんあたりが音頭をとって、アル…

ヒストリーオブ山下達郎 第27回 アルバムMOONGLOW(79年10月21日発売)

<MOONGLOWではステージで再現できる曲を最優先にしようって考えた>GO AHEAD!を(78年12月20日に)発売した時に、一度だけ渋谷公会堂でやったライブ(12月26日)は、村上秀一、岡沢章、松木恒秀、坂本龍一、難波弘之というメンツでね。で、年が明けて小規…

ヒストリーオブ山下達郎 第26回 エアーレーベル発足とムーングロー(1979年)

<「愛を描いて」は僕にとって初めてのタイアップ・シングル>79年4月5日シングル「愛を描いて- Let’s Kiss The Sun -/潮騒」発売。このシングルがソロデビューして2枚目というw かつ、初めてタイアップが付いた。というか、タイアップが付いたので、シン…

ヒストリーオブ山下達郎 第25回 ブレイク前夜 、79年の大阪と「ピンク・キャット」

<BOMBERが売れ始めたから、大阪に来てくれ>1979年1月、次のシングル「愛を描いて〜LET’S KISS THE SUN」のレコーディングをしていて、4月に発売だね。この79年初めは、けっこう頻繁に大阪にプロモーションに行った。クールスのレコーディングが終わって、…