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ヒストリーオブ山下達郎 第20回 サーカスタウンからスペイシーへ

<CIRCUS TOWNは自分探しのレコードだった>
1976年10月25日CIRCUS TOWN発売。アルバムの一般的な評価という部分では、実はあまり実感が無かった。ミュージシャンからの反応は概ね好意的だったけど。シュガー・ベイブの時と比べても。CIRCUS TOWNは自分探しのレコードだったから、自分の中ではある程度の成果とは思えたけど。不満な部分ももちろんあった。
一番不満だったのは、やっぱり歌。歌入れに時間が掛けられなくて、2日で全曲上げてるからね。その上、生まれて初めてのアメリカで、精神的にビビってたし。英語なんてほとんど喋れなかったから、相手の言ってることもよくわかんなかったし。僕がもし帰国子女かなんかだったら、ずいぶんと違ってたかも知れないけど、サブカルチャー出身だもの、生きてる世界が狭いからね。
後になってつくづく思うのは、スタジオの中でしか生きてなかったんだよね、それまで。ライブといったって、あくまでライブハウスじゃない。ライブハウスの中なんて狭くて閉鎖的だもの。
だからツッパてったところはある。客だって変なのがたくさん居たしね。普通、ステージ出て行っていきなり「佐渡おけさ、やれ」なんて言うか? 僕は結構そういうところマジだったから、心では「それで洒落てるつもりかよ、面白くねえよ、そんなの」って思ってた。それが80年代近くまで続くのね。「帰っていいよ!」って、よく口にしていたけど、半分は本気だったんだよ。少ない人数だと、さらにそれが常連だったりすると、客が演奏する側に、自分の好みを強要することがあるんだ。客の甘えというより独善だね。俺は特別だっていう意識。
とはいえ、日本に戻って来てライブをやろうにも、パーマネントバンドが無かった。シュガー・ベイブ解散後に下北沢ロフトで(76年7月30日、31日)初めてソロ・ライブをやった時に客があまり入らなくて、それが結構ショックだったんだよね。結局ライブハウスの世界ですら、人気なんてそんなもんだと思って。それに(上原)ユカリがこのときにはバイバイ・セッションバンドのメンバーだったから、実質的に使えなかった。その後、寺尾(次郎)も(音楽業界から)足を洗っちゃうし。だから、この時期にライブをほとんどしてないのにはいろんな理由があるけど。
77年にSPACYが出た後、野音でポンタ(村上秀一)たちとやるまでは(吉田)美奈子のバックバンドの寄せ集めとかでやってたの。そのレベルだとCIRCUS TOWNはとても難しくてできない。そんないろんな理由があってライブできなかったんだよ。
とは言え、ライブが好きなわけでは決してなかったんだ。シュガー・ベイブの時だって、やらなきゃならないからやってた。対バンと張り合うとか、そういうのがすごく嫌だった。あとイベントだと客ダネの悪さとかね。ようやくライブが好きになってくるのは、レコードがブレイクして、ワンマンでツアーがちゃんと成立するようになってからだね。
    
<僕にしたら、2万というのはすごく売れた感覚があった>
CIRCUS  TOWNについて、小杉さんにとってはかなりの努力の産物だったから、それは喜んだよ。ただこれは、小杉さんの性格なんだけど、基本的に出来上がったものには興味がない。あの人は自宅で僕のレコードをターンテーブル乗せたことが一度もない。彼にとっては常に、企画段階が最重要なの。企画とか、後はタイアップ、そういうものが決まったら、精神的にはもうできたと同じ。あの人は昔からそういう人なんだ。
彼は制作ディレクターだったんだけど、具体的なスタジオ作業にはあまり興味がなかった。この企画でこう作ろうとか、そういうプランニングが第一で、音楽制作のミックスダウンだ、なんだと言うような細かい作業は苦手だった。だから、出来上がったものに対する感想はそんなにない。それ以前の段取りが良ければ、結果も悪いはずがないと。
だから、デモテープにはすごくシビアだし、鋭いよ。制作ディレクターであると同時に、プロデューサー、コーディネーターの特質も強いんだ。とにかく僕と小杉さんがなんで30年以上も一緒に続いてるかと言うと、タイプが正反対だからなんだ。僕は制作的な、チマチマした作業を最終点まで見届ける忍耐力があったから、彼は制作面ではどんどん僕に任せきりになっていた。GO AHEAD!あたりになると、小杉さんはスタジオにはほとんど来ないで、有線でレコードをかけるとか、何かの宣伝企画とかね、そういう方に力を入れていた。
僕には事務所もなかったし、宣伝スタッフもいなかったから、彼が宣伝マンの代わりもやってた。それに、まだ社内では一介のディレクターだったから、他の制作仕事もやらされてたしね。アイドル歌手とかやらされるわけ。それが僕のレコーディングの真っ最中だったりするから、ミックスの時に韓国に行ってたり。その間、スタジオでは僕と吉田(保)さんの2人だけでね。でも、そのおかげで僕もそういうレコード制作のノウハウ、編成表の書き方を覚えたりとか、何が幸いになるか、わからないよね。CIRCUS TOWNが2万枚超えたっていうのは聞いた。オリコンは50位くらいだったかな。
その数字についても、やっぱりエレックとは違うなって。だってSONGSは100位にも入ってないもの。宣伝費もろくに出なかったし。メジャーな会社だと、ちゃんとやってくれるんだなあと思ったよ。
僕にしたら、2万と言うのはものすごく売れたという感覚があった。だってあの当時ロック系の音楽で売り上げ最高峰は、あっこちゃん(矢野顕子)の「ジャパニーズ・ガール」で3万何千でしょ。そんなものだもん。だから上出来だと思った。もっともレコード会社側は、かなり期待はずれだったんじゃないかな。大きな制作費がかかったからね。だからもっと売れてしかるべき、ということだったんだろうね。だけど今から考えたら、別に事務所に力があるわけじゃないし、バンドも持ってないからライブはできないしさ、何よりこういう音楽に対して、レコード会社もプロモートの具体的な展望や方策が、よくわかってなかったんだよ。あの頃は、どこにもそんなものだった。
CIRCUS TOWNの達成感? 難しい問いだね。でもエレック時代とは明らかに違うと言うのはあったよ。何しろ、SONGSは店頭で見たことすらなかったからね。CIRCUS TOWNはちゃんとポスターがレコード店に貼られていたもの。
前回も話したように、地方プロモーションもそれなりにしたし、取材もしたけど、すごく好意的に捉えてくれる人と、全然わからないって反応の人と、はっきりと二派に分かれてた。だって、当時の日本の流れから全く外れた作品なわけじゃない。チャーリー・カレロなんて日本じゃ誰も知らないし。もちろんグローバルに言えば、アメリカの最先端のスタジオ環境でレコーディングされたものであるはずなんだけど、日本での知名度がないから、非常に不可解なものとして捉えられているっていう。だけどそれでも、シュガー・ベイブの時よりはマシかなって。あの頃はそれよりも、CMとか外の仕事がコンスタントに入ってきて、ようやく食えるようになってきた。そっちの方が精神面では良かったかな。
    
<事務所を辞めたけど、CMで食いつないでた>
76年後半、とりあえず契約していた音楽出版社PMP(パシフィック音楽出版/現フジパシフィック)が、作家契約をすれば給料はくれるって言うんだけど、それは何のことはない、印税の前払いなのね。それに日本で作家契約なんてやったら、ひとつの会社に縛られて他では書けなくなるから、作家契約はやめて、その代わりにCMのノルマを作って、その見返りで給料をもらえるシステムになったの。月に3本やって、そのギャラが月給になるという、今から考えると変な契約だけどね。
ようやく75年くらいからCMで何とか食えるようになったから、CMやコーラスのスタジオ・ミュージシャンをやって、あとは時々作曲の依頼が来て書いたり、PMPに曲を渡したりね。それでも忙しいというほどでは無かったけどね。あとは10月(25日)にCIRCUS TOWNが出た頃には、当時のマネージャーとうまくいかなくなったの。
今も昔もサブカルチャーの世界ではレコードづくりの制作的な問題よりも、契約とかギャラとかのビジネスやお金に関する知識が圧倒的に不足している。畢竟(ひっきょう/結果)、金銭トラブルがしょっちゅうある。シュガー・ベイブの時にかなり懲りてたから、CIRCUS TOWNの時には、後々トラブルにならないためにも、マネージャーに契約をちゃんとしてくれと何度も言ったんだけど、そういう問題には無頓着だった。何かそういう事柄を語るのが、品のないことみたいに考えていたんじゃないかな。
例えば、作曲した曲の出版契約書が来ないから、音楽出版社に問い合わせると、とっくに送ったって。そしたら、マネージャーの机の引き出しにしわくちゃになって入っていたり、実務感覚が全く無かったんだよね。
で、そのマネージャーと別れて、完全なフリーになった。レコード制作に関しては、契約していた音楽出版社と担当ディレクターの小杉さんで続けることになった。それまでは小杉さんはあくまでもレコード会社のディレクターだったんだけど、ここから徐々に関係が深くなっていくんだ。小杉さんは元々音楽出版社の出身だから、契約と権利に関してはエキスパートだった。それが後々とてつもない力になっていくんだよね。77年以降のことだけど。
事務所をやめてから、僕はPMPRCA預かりの身で。でも、CMの仕事がコンスタントに来たので、それで何とか食いつないでいた。CMは広告代理店から直接家に電話で依頼が来て、自分で打ち合わせに行って。当時の僕のCMは「ONアソシエイツ」と「PMP」と、J&Kという音楽出版社の子会社で制作会社の「グローバル」、その3社がメインだった。
76年12月23日、福岡での学園祭出演。この時はユカリと寺尾、キーボードが緒方(泰男)と、ギターが徳ちゃん(徳武弘文)かな。これ、博多のどこかの大学の学園祭だったんだけど、ライヴ自体は普通のホール(福岡県立勤労青少年文化センター)でやったの。このライヴのための急造バンドだった。学園祭は2日間あって、ムーンライダースとか美奈子とか、あとは忘れた。僕は初日に自分のステージをやって、翌日は美奈子のバックをやった。あの時は「ウィンディ・レイディ」とか「ラスト・ステップ」とか何曲かやったかな。
終わって楽屋でタバコを吸ってたら、中年のオジサンが入ってきて、「君のCIRCUS TOWNというアルバムがすごく良くて、ライヴをやるっていうから観に来た」って。それがKBCラジオ九州朝日放送)の岸川均(ひとし)さんだった。その時から岸川さんとの関係が始まったんだけど、そういう人間関係が少しづつ出来ていったんだ。
   
<美奈子の「トワイライトゾーン」がSPACYの伏線になった>
セカンドアルバムについては、小杉さんが早く次を作ろうって。70年代はいつも小杉さんがせっついていたんだ。内容についてはもう僕にお任せだよね。曲を書いて、聴かせてくれって。実際にSPACYの録音が始まるのは77年の2月26日かな。この頃に大滝さんのストリングス(・アレンジ)をやってるよね、確か「青空のように」だと思うけど。
それと美奈子の「トワイライト・ゾーン」だよね、1、2月はそれがあって、大滝さんの弦をやってそれからSPACY。だから割と忙しかったんだね。
トワイライト・ゾーン(77年3月25日発売)」というアルバムは、ポンタと大仏、松木(恒秀)さんと(大村)憲司が参加して、キーボードは美奈子自身が弾いて、一発録りでやってるの。それに7管のブラスと、あとはストリングスを入れて、レコーディングはモウリ・スタジオでリズムと弦、ブラスを録って、細かいダビングと歌入れはRCAとアルファでやった。
彼女は75年にRCAと契約して、76年のアタマにRCAでの3枚目「フラッパー」を出したんだよね。だからRCAでは彼女が先輩になる。「フラッパー」に関わった延長で「トワイライト・ゾーン」になって。
「フラッパー」の時は、僕は単に曲を提供する人間で、リズム・セクションに関しては矢野(誠)さんにお任せだったから。その頃は僕はまだ、ポンタとかああいうスタジオ・ミュージシャンたちと人間的な接点をほとんど持ってなかった。だけど、美奈子からの要請で「トワイライト・ゾーン」では僕がオーケストレーションをやることになった。このアルバムのお陰でポンタとか大仏とか、そういう人たちと知り合いになったというか、一緒に仕事をするようになって、それがSPACYの伏線となったんだ。
僕がスコアを書いて、バンドがスタジオの中にいて。僕は演奏しなくて、ディレクションだから。だから「トワイライト・ゾーン」がなかったから、その後たぶんポンタとかそういうチョイスは出てこなかったね。その前から上手いとは思ってたんだけど、スタジオ・ミュージシャンという人種は、僕みたいなバンド上がりとは違って、テクニックはすごいけど、無愛想だったり、人当たりが悪かったり、仕事がしにくい印象が強かった。
唯一、ポンタは最初からすごくフレンドリーな人で、そのおかげでずいぶん助かった。逆に松木さんは最初はとにかく怖い人で、打ち解けるまでには時間がかかったけど、でも、松木さんのギターは好きだったから、色々勉強になったし、教えもくれた。まあ、そもそも「トワイライト・ゾーン」というアルバムはその前の「フラッパー」が、美奈子本来の路線とは違っているんじゃないかというところから始まっているんだよ。
美奈子のデビューアルバム「扉の冬」(1973年/トリオレコード)の頃と、ずいぶん方向が違って来ていた。「扉の冬」に戻った方がいいんじゃないか、っていう制作意図で「トワイライト・ゾーン」が始まったんだよ。アルファレコードとしては、美奈子をエンターテイメント界のスターにしたかったから、RCAとの契約後は、そうした色合いの強い作品を作ろうとしたんだよね。だから「フラッパー」はアルバムとしてはすごく優れているとは思うけど、アルファのエンターテイメント感が強く出ているというかね。アルファの感覚っていうのは、全然ロックンロールじゃない。あの時代にそぐってないというか、新しい時代に適応してなかった。
アルファという会社は、元々は慶應大学の音楽サークル出身で、みんな楽器ができるというという感じの人たちが作った集団なんだよ。だけどそれは、あくまでもビッグバンドかモダンジャズで、ロック感覚はゼロだった。
コンサートを企画するのも日比谷公会堂とか、一時代前の感覚で、なんか「サウンドイン”S”」(74〜81年放送)的な匂いが強いという印象が、アルファには強かったね。
僕もアルファからは契約しないかって何回も誘われて、本当に行く寸前までなったこともあるんだけど。でも縁がなくて、結局契約はしなかった。美奈子の場合、「フラッパー」は歌手としての吉田美奈子を使ったコンセプト・アルバムだけど、彼女は元来はシンガー・ソングライターだからね。そこのギャップをどうするかっていうのが、大きなテーマとしてあったんだよね。あの時は「夢で逢えたら」をシングルに切るか切らないかと揉めてた。
夢で逢えたら」をシングルカットしていたら、ヒットはしていただろうけど、そこから先の重心はどこに置くんだ、って言うね。何がよくて、何が悪いかわからないけど、あの時点では「トワイライト・ゾーン」の路線のほうが絶対に正解だと思ったね。まあ純粋に音楽的で考えれば、どちらも遜色は無いから、インかアウトかって言う問題なんだけどね。
     
<ポンタたちと、ユカリたちのユニットを使い分けたんだ>
CIRCUS TOWNはとにかく自分探しのためのコンセプトだったからね。シュガー・ベイブの価値観から抜けるための、ひとつの通過儀礼だった。これはたからシンガー・ソングライターの作品とはあまり言えないんだよね。
SPACYもCIRCUS TOWNの延長と言う意味では、シンガー・ソングライター的ではないはずなんだけれど、結果的にそう聞こえると言うのは、今から考えると、特にB面なんだけど、低予算で制作費をかけられないんで、コンパクトに作らざるを得なかったために、非常に内省的なサウンドになっているんだ。でも本来の僕の習性からするとGO AHEAD!なんかの方が普通なんだよね。
「ラブ・スペイス」「素敵な午後は」「ダンサー」「アンブレラ」の4曲はポンタたちのユニットで、2曲目に入っている「翼に乗せて」と「ソリッド・スライダー」は同じ日にとっていて、それは坂本(龍一)、田中(章弘)、(上原)ユカリ、それに僕っていうメンバー。これはあの頃CMをやるときのセクション。
その後の「ペーパー・ドール」とかも同じ陣容で、「2000トンの雨」もそう。アオジュン(青山純)たちが出てくるまでは、ポンタたちとのユニットと、ユカリたちのユニットを交互に使い分けていたのね。
アルバムのレコーディングにしても、例えばクールスのレコーディングとかはユカリたちだったけど、中原理恵のはポンタって言う、そういう曲の傾向に合わせたやり方だね。でもひとつ言えるのは、ドラムはほとんどポンタとユカリだけで、ベースはポンタだと大仏か岡沢(章)さん、ユカリだと田中、ベースも数人しかいない。キーボードは坂本くんか、佐藤(博)くんだから、僕の使ってたリズム・セクションはほんのわずかなの。
2つのユニットは曲調で使い分けた。ユカリはジェイムズ・ギャドソン的な16ビートが苦手で、逆にそういうのはポンタの得意技。逆にユカリはポリリズムのような独特なビート感を持ってる。それぞれに個性というか、独特のタイム感があって、それを活かしたかった。だから1曲目の「ラブ・スペイス」なんか、これをポンタが叩いたらどうなるか、って言うのを想定して作った曲だからね。ああいう16ビートっていうのは、ポンタの自家薬籠中のものだから、そこに細野さんのベースを合わせたらどうなるか、って言うことをやってみたかった。だからもう完全に座付き作家だよね。
SPACYのCD解説にそういった要点を書いてあるけど、とにかく短時間でレコーディングしなきゃいけなかった。1日2曲ずつ、5日間しかスタジオ予算が取れない。それで10曲録らなきゃいけない。お試しなんてことができなかった。リハーサルの予算もないし。でも何とか10曲、アルバムに入れなきゃいけないから。そういう時代だったんだよ。
だけど、それで得られる満足度は限られている。だから僕がよく昔言ってた「作ったものを聞きたくない」っていう、もっとこうしたかった、ああしたかったっていうのが、常に積み残しで状態で。そんな形でやらざるを得なかった。
カツカツのスケジュールだから、当然押せ押せになって、最終ミックスは1日に4曲ぐらいあげなきゃいけない、というような。
だからSPACYはCIRCUS TOWNのノウハウをどう受け継ごうかとスタートしたんだけど、予算がなかったので、少々形が変わったんだよ。スポンサーの音楽出版社も、大した予算はくれなかった。一方では、原田真二とかすでにブレイクした人たちも出ていたからね。彼らに比べたら全く売れてなかったし、金を出す方からすれば当然だよね。僕みたいなスタンスのミュージシャンは、みんな同じような境遇だったんじゃないかな。
【第20回 了】