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ヒストリーオブ山下達郎 第18回 NY海外レコーディング 1976年8月

<セカンドアルバムをやるんだったらソニーでやりたいなと思ってた>
まず、牧村憲一さんについて。
牧村さんは74年、僕に最初にCM仕事をくれた人なの。その時、彼はオン・アソシエイツというCM音楽制作会社に居た。彼はもともと早稲田で後藤由多加さんと同期で、六文銭に関わっていたんだね。後藤さんがユイ音楽工房を創った時は、牧村さんも創設者のひとりだったそうだけど、その後ユイを辞めてCMの世界に入ったんだ。
彼は日本のフォークとロックの、一種のオタクでね、やたら詳しかった。広告業界には入ったんだけど、その頃の広告は今と違って、純然たるコマーシャルの世界でね。そこに自分が志向していた日本のフォークとロックの血を、何らかの形で入れたいと考えたんだね。

それで牧村さんは、大滝さんに声をかけてCMの世界に引っ張り込んだの。「三ツ矢サイダー」だね。その時、僕が後ろにいて、彼がシュガー・ベイブを知ることになる。それで僕に声をかけてくれて、僕はCM仕事をするようになったんだ。牧村さんは東京の人なので気が合うというか、自然に仲良くなったんだよね。この延長で75年あたりからCMをすごくやるようになったの。
その後、牧村さんはオン・アソシエイツを辞めて、パパ・ソングスっていう出版会社を始めて、泉谷しげるとかの楽曲を手掛けるようになった。もともとエレックと近い人で、ナイアガラがエレックに行って、シュガー・ベイブのアルバムが出たあと、エレック社内の動きとか、随分情報をもらった。だから牧村さんとはCM仕事上の関係でスタートしているんだけど、その後、個人的に親しくなってね。牧村さんは日本のフォークとロックのお皿(レコード)を、とにかくたくさん持っていたんだよ。「ごまのはえ」のシングルとかもらったものね。
ちょうど同じ時期、当時のCBSソニーに堤光生さんという人が居たの。堤さんは当時の洋楽制作のエグゼクティブで、元々はポニーキャニオンの渡邉有三さん、ユニバーサルの石坂敬一さんらと慶應大学で一緒で、ランチャーズのメンバーだったの。で、堤さんはCBSソニーの創設メンバーとして入って、洋楽を担当、当時の洋楽の世界ではかなり有名な人だったんだ。BST(ブラッド・スウェット&ティアーズ)、サンタナ、シカゴなんかのロックものをやって、その後はエピックに行って、ミッシェル・ポルナレフノーランズなんかをヒットさせた。堤さんは自分もバンドをやっていた人だから、どうしても邦楽、それもロックをやりたくて、いろんなところを片っ端から回っていたんだ。
で、伊藤銀次に声を掛けて来たんだよね。その時たまたま僕も事務所に居て、話をしているうちに、僕がシュガーベイブだってことで、僕にも名刺をくれて。その後何回か会ったんだよね。
堤さんはすごくいい人で、ランチャーズを僕も実際に観たことがあるし、そんな話をしてね。その後、堤さんはついにソニーで新しい邦楽セクションを作って、そこから一番最初に出たのがセンチメンタル・シティ・ロマンスなの(75年8月デビューアルバム発売/CBSソニー)。
センチには牧村さんも非常に深く関わっていた。センチをみていた(福岡)風太と古い関係があったから。センチのマネージャーの竹ちゃん(竹内正美)とか、風太とか、牧村さんとか。それから沓沢(くつざわ)玄ちゃんとかっていう、いつも話に出てくるような人たちがセンチに関わっていたの。
で、僕もシアターグリーンの時代からセンチとは知り合いだったんで、そこでナイアガラとは違うグループになっていたのね。だからそういう付き合いで、センチのデビュー・ライブにゲストで呼ばれるというのがあったわけ(75年8月21日/日仏会館)。
あの時代のソニーのね、堤さんの制作スタッフ、センチの宣伝チームとかも、みんな良い人たちだったのね。でも、そのチームはセンチを出して、四人囃子を出して、その後、頓挫するんだ。本当は三つめがシュガー・ベイブになるはずだったんだけど。
前にも話したけど、当時のソニーって洋楽と邦楽のヘゲモニー(覇権)争いがものすごく有って、洋楽が邦楽に手を出したんで、色々な軋轢があってね。結局、そのプロジェクトが頓挫して、堤さんは洋楽に戻るんだけど、ほとんどのスタッフは辞めちゃうの。
あの頃のスタッフに金弘くんという人が居て、この人とは本当にウマがあってね。彼はその後ワーナーに来て、今はCDジャケット関係の会社をやってるけど、今でもいい飲み友達だよ。もう30年以上になるな。そういうむしろ人間的な関係が深かったの。
そんな感じで牧村さんがシュガー・ベイブソニーに持っていくという話は、いく寸前でセクション自体が無くなっちゃった。その時期はシュガー解散が先だったか、セクションがダメになったのが先だったか。どっちが先だったかな。前後していたんだ。
でも、それは僕が勝手に進めていた話で、ター坊も村松くんも全く関係なかった。
ただ、僕は、セカンドアルバムを作るならソニーというか、堤さんのところでやりたいなと思ってた。で、シュガーが解散してソロになったんだけど、そのまま牧村さんがマネージャーをやるということになったの。この前も話したように、ここで人間関係を一旦リセットしようとした。変えたかったんでね。
で、牧村さんが居て、テイクワンに生田(朗)っていうのが居て、生田はのちに(吉田)美奈子の旦那さんになるんだけど、彼も来て、生田はその後、坂本(龍一)の現場をやるようになって。そういう縦糸、横糸が色々あってね。それが76年の前半の話。
      
<これは海外レコーディングしかないなと思ったの>
ソロをソニーで出すという話にはならなかった。その時にはおそらくもうプロジェクト自体が無くなっていたと思う。で、牧村さんが各社打診していて、いろんな話はあったんだよ。東芝とか。誰と会ったのかは覚えていないけど。
牧村さんにはソロをやるにあたって、ニューヨークでレコーディングさせて欲しいって注文を出した。それで全部ダメになったの、経費がかかり過ぎるって。海外レコーディングなんて、そんな一般的な時代じゃなかったからね。鈴木茂が「バンドワゴン(75年3月発売)」を作ったときは一人で行って、お金をあまり掛けないようにってやったしね。まだ1ドル300円の時代でしょ。
NYレコーディングの条件を付けたのは、まだ若かったから突っ張っていたというか、海外レコーディングがどういうものか知らないのにさ、それより自分のこと、自分のスタンスにこだわっていたんだね。
今までも言ってきたけど、シュガー・ベイブが無くなって、いったい僕はどうするのかなと思ってさ。でも、どうするのかなっていうのは、経済的なことじゃないんだよね、精神的な意味。
20歳でバンドを作って、23歳になって。3年くらいやったけど、一体何の為にやってるのかよく分からなくなってきて、特に音楽的にね。だって評論家のウケは悪いし、言われている事の理不尽さに、自分がやっていることが正しいのか、正しくないのか分からなくなって。
レコードが何枚売れているのかも分からない状態でしょ。下北沢ロフトとかでいくら客が入ったって、なんかあんまり実感がないというか、そんなものが何の確認にもならない。逆にそういうお山の大将になる余裕もないっていうか。それでバンドをやっても結局統率力というか、そういうことを考える。結局人と共有できるガラじゃないと思うようになって。だんだんそういう人間はこういう商売には向かないなと思ったりして。
だから、ソロになりたいとかそんなのは全然なくて。ただ自分が音楽家としてやっていくのであれば、どういう音楽をやっていくべきか。そういうのが全然見えなかった。何をやっていいのか分からない。
だからオリジナル曲を作る意欲が湧かない。曲が書けなかった時っていうのは何度かあるんだけど、この76年の中期っていうのは、本当にだめだったの。それを打開するには、と考えたけど「もう一回バンドを作って」なんてことは全く考えなかった。
牧村さんは僕のソロアルバムを作りたかったの。でも、ソロを作るんだったら、一回、自分を俯瞰してみないと、わからなかった。自分がどれくらいの力量を持っていて、本当の意味での音楽的ポテンシャルがあるか。どういう傾向の音楽をやるべきか、とか。そういうことが自分では全然見えなくてね。
でも、一つだけ言えることは、自分が好きだった60年代中期のアメリカンポップスをやるといつも叩かれたけど、もしあれで成立していたら、僕はその後もいわゆるオールドタイプのアメリカンポップスをやっていただろうね。
ビートルズオリエンテッドのもう少しアメリカ・テイストという。でもなぜかビートルズオリエンテッドだと、そんなにあれやこれや言われないのに、どうしてあの時代にアメリカン・オリエンテッドなものをやると、あれほど言われたんだろう。今でもよくわからないんだ。
アメリカンポップスとビートルズは別物という誤解、それもあるかも知れない。確かにロックの時代とか、「ニューミュージック・マガジン」じゃないけどロック幻想の真っ只中にいたから、それこそジェリー・ロスみたいな、そういう世界をやると、いろいろ言われたんだろうけど、どうしてあれほど蛇蝎(だかつ)の如く否定されなければいけないのか、わからないんだ。でもわからないって言う事は、要するに僕が外れてるんだよね。
今にして思うとね、日本のロック・カルチャーっていうのはインテリジェンスがないんだ。それこそジャック・ケルアックとか、アレン・ギンズバーグとか、そういうアメリカの屈折が伝わって来なくて、「ローリングストーン」みたいな、ある種偏ったロック思想を日本のインテリが規定のものとして、こねくり回すと言ったらアレだけど、そういう悲喜劇があったんだね。
だけど、それも面白いもので、ずっと30年ぐらい言い続けていると、それが誇張されているって言い出す奴が出てくるの。シュガー・ベイブはそんなに悲惨な存在じゃなかったって。悲惨だったんだよ、自分が悲惨だと思っていたんだから。なんでこんなふうにに扱われなくちゃいけないんだ、って。それが本当に22歳の時の偽らざる気持ちだったんだ。
だから、はっきり言えるのは、80年の「ライド・オン・タイム」までの4、5年の客層の、それはあくまでもほんの一部分なんだけれども、でも、そのそのある一部分の客っていうのが人生の中で一番嫌いな客でね。
「ライド・オン・タイム」で何が良かったって、そういう連中と縁が切れたんだ。それを通り過ぎて残ってくれた人たちは、まだファンクラブに居てくれている。
だから僕が大阪が好きだって言うのは、大阪は全くそれまでとは違う、ブランニューな価値観で山下達郎を見てくれた。で、そっちの方が全然、僕のメンタリティに近いっていうかさ。だからシュガーベイブから綿々と続いたあの「日本のロック」の価値観は何だったんだろうね。
でも23歳の時から、その時代、バンドをやめた何ヶ月間というのは、そう言うことを非常に深刻に考えたんだよね。やっぱり作家になろうとか、CMで行こうかとか思ったのも、全部それで。何をしようかという道が全然見えなかった。
ちょうどアイズリー・ブラザーズとかに凝り出した頃なんだけど、アメリカンポップスのそういうものは日本ではダメかな、って言う思いもあったし。
WINDY LADYを作ったのは、そういうファクターがあったからなんだ。でも、そうすると一時はすごく忌み嫌った16ビートみたいなものでやらなきゃいけないのかな、って思い始めた。僕はブラック・ミュージックが好きだけど、そんなのでできっこないしなと思ってさ。当時の関西ブルースのバンドを見ていたって、楽器はうまいけど歌が違うなと思ったし。だから、どうすればいいのかなって悩んだんだよね。僕はB.J.トーマスみたいな歌だったら、何とか人並みにやれるけど、アイズリーなんか全然できないし、どうすればいいのかなと思って。で、ぱっと思いついたのが自分のイリュージョンというか、そういうものが現代的にどこまで通用するのか、どこかで俯瞰してみりゃいいんだなと思って。これは海外レコーディングしかないなと思ったの。
それで条件として考えたのが、60年代、70年代を並列的に捉えるプロデューサー、もしくはアレンジャーだったの。いろいろ考えて出てきたのが、チャーリー・カレロ、トレード・マーティン、アル・ゴルゴーニ。そういう何人かのアレンジャー、もしくはプロデューサー。その中でやっぱりチャーリー・カレロがベストかなと思ったんだ。ローラ・ニーロを60年代からやっていて、もちろんフォー・シーズンから、ちょうどその頃フランキー・ヴァリのMy Eyes Adored Youとかヒットして、あとエリック・カルメンとか、ケニー・ノーランとかいろんなものを手掛けていて、この人が一番かなと思って、まずその名前を出したの。牧村さんにそう言ってそれで各社に話したんだけど、ことごとくダメで。「誰ですか、それ」っていうのもあるし。そしたら一人やりたいって人がいるって。それが小杉(理宇造)さんだったの。小杉さんはチャーリー・カレロなんか全然名前は知らないけど「ニューヨークの人でしょ」って。らしいよね。それであの人、チャーリーに直接交渉に行って、取ってきたんだよね、それが6月位だったかな。もうそれは完全に縁だね。
      
<レコーディングが決まったら曲が書けるようになった>
チャーリーのOKが出てアルバム制作準備にかかった。小杉さんは「やっぱりギャラがもの凄く高かった。だからこれも破格なんだけど、レコード会社は2,000万くらいの予算を出してくれるって言ったんだけど、そのうちの1,500万くらいはニューヨークで消えちゃう。それでようやく5曲録れるくらいのギャランティーになる。そうするとアルバム1枚は無理だ。ついては自分はニューヨークには住んでいただけで、音楽関係のコネクションはない。ロサンゼルスだったら、日音にいた時に南沙織とか色々とレコーディングやってるから、その時のスタッフでジミー・サイターというパーカッショニストが居る。フライング・バリット・ブラザースにいた人で、彼はコーディネートが得意だ。で、彼の弟がジョン・サイターってドラマーだ」って言うの。
ジョン・サイターの兄貴か。ジョン・サイターはタートルズだったし、スパンキー・アンド・アワー・ギャングだった。そういうメンツではどうだろうか、って。いや、それだったら良いって言ったの。それもだから縁というかね。そこから曲が書けるようになったの。ロス用とニューヨーク用に。
ニューヨークはチャーリー・カレロでしょ。一番最初に作ったのがCIRCUS TOWN。で、WINDY LADYはシュガー・ベイブのセカンド用に書いてたんだけど、これはもうニューヨークに持っていくのはバッチリだって。WINDY LADYとか何曲かデモを録って、チャーリー・カレロに送ったの。
あの時に書き下ろしたのは「CIRCUS TOWN」「MINNIE」「言えなかった言葉を」の3曲で、「永遠に」は美奈子の「フラッパー」に入っている曲で、チャーリー・カレロだったらあれをやろうと思っていた。本当はNYでは5曲録ったんだけど、結局カッティングの問題で4曲しか入れられなかった。でも、レコーディングの初日に3曲録っちゃったからね。すごいなと思って。
B面はロス用に。「夏の陽」「迷い込んだ街と」。ウェストコーストのメンツを考えたらLAST STEPもいいかなと思って。ジョン・ホッブスがピアノだって言うから、バリーマンのサードアルバムみたいな感じかなと思って。CITY WAYって言うのは向こうで書いたの。もう1曲あったんだけどやってみたら全然ダメだった。それで現地でCITY WAYを書いて、やり直したの。そんな感じかな。
曲が書けるようになったのはイメージができたからだね。人に書く曲はできるんだけどね。
宅録でアルバムづくりという発想は無かったよ。第一、当時は機材自体がないもの。ピアノの弾き語りがほとんどだった。リズムマシンはあったけど何十万円もして、すごく高かった。リズム発生機みたいなすごくチープなものはあったけど。だってあの当時16チャンネルのレコーダーが800万円とかでしょ。サラリーマンの初任給が7〜8万円の時代で。
   
<初めてのニューヨーク、すごい所だなあと思った>
チャーリーに送ったデモテープは坂本、寺尾、ユカリに頼んで、4人で作って送ったんだけど「このピアノを弾いてるのは誰だ、ピアニストを連れて来い」と言ってきた。チャーリー・カレロはちょっと変わった人でさ、その頃は37、8歳で、一番とんがってるときだったから。怖いし、牛乳瓶の底みたいなメガネをして。
最初はメディア・サウンド・スタジオに行ったの、誰かのレコーディングをしている時に会いに行った。そしたら僕を小杉さんと間違えているの、小杉さんには2回も会ってるのにさ。変な人だね。76年でしょ。僕は23歳だし、こっちは貧乏人の子せがれだから、アメリカなんて行ったことないし。初の海外だからね。
あの時は怖かった。NY自体の空気がピリピリだったから。行ったその日にホテルの予約が通ってないの。47丁目くらいの三流ホテルだったけど。小杉さんがゴネたんだけどダメで、1日だけタイムズスクエアのど真ん中の4流ホテルに泊まらされて、すごいところだった。廊下に裸電球が下がっていて、ドアキーもスペアのスペアのスペアくらいで、開かないの。で、部屋に入ると、テレビのアンテナは針金だし、ベッドは湿ってる。こんなところに居たくないから、飯食いに行こうと表に出たら、街のさなかで撃ち合いやってるしさ。なんてところに来ちゃったんだろうと思ってさ。すごいところだなあと思った。ビビるなんてもんじゃない。英語が分からなかったでしょ、日常会話ですら分からなかったからね。
チャーリー・カレロは今でも変な人だと思うよ。10年前(1997年)に会ったんだけど、もっと変になっていた。STAND IN THE LIGHTかなんかの弦をやってもらったんだけど、結局ボツったんだ。どうしてボツったのかというと、あまりに難解な弦なの。すごいんだ。
その後、人に聞いたら「なんでお前、彼に頼んだんだ。知らないって言うのは恐ろしいな」って言われた。で、何週間かしたらベルディとプッチーニにのスコアを送ってきて「これ読んで勉強しろ」って。最高でしょ。
でも76年の時は緊張感がすごかったよ。もうセッションをやってる時のミュージシャンの罵倒の仕方っていうかさ。
ミュージシャンのセレクトは僕がした。それが条件だったから。ドラムがアラン・シュワルツバーグで、ベースがウィル・リー、キーボードがパット・リビロット、ギターがジョン・トロペイかジェフ・ミロノフかヒュー・マクラッケンかっていう感じだった。キーボードは3人、ギターは4人くらい挙げたけど、ドラムはアラン・シュワルツバーグじゃなきゃ嫌だって。それは、チャーリーから「何でだ」って何回も言われたけどね。
でも僕の後で、フランキー・ヴァリのレコーディングを同じメンバーでやっているから、チャーリー・カレロはけっこう気に入ったんだろうね。
で、何でこのメンバーを選んだか聞いてきたから「アラン・シュワルツバーグは南部でもやっているし、バリー・マンとかもやっている。白人的なものと黒人的なもの、両方できる人が欲しかった。それだったら、どんな曲を書いても安心して出来るから」って、そしたら「もっと上手いプレイヤーは沢山いるんだから、俺に全部任せたら、この5倍くらいのポテンシャルの演奏になった」って言うの。
じゃあ誰だって聞いたら、スティーヴ・ガッドとゴードン・エドワーズだって。それじゃスタッフじゃないか、そんなのって。だけどウィル・リーはとにかくダメだって。譜面が読めないから。やっぱりワンランク落ちるんだって。
CIRCUS TOWNの最後でドラムとベースが残るところがあるでしょ。トロペイとミロノフと、みんなで「フフン」ってバカにするんだ。
確かに読譜力は大事だよ。でもウィル・リーは耳だけであれだけできれば、大したもんだと思うけどね。だけどアメリカでは楽器ができないアレンジャーも多いんだよ。チャーリー・カレロも楽器はほとんど出来ないからね。アメリカには楽器ができなくとも作曲、編曲できるノウハウがある。
アカデミックなプロの作曲家は、基本的にはピアノなんて使わないからね。そういじゃないとダメなんだよ、本当は。でも、チャーリー・カレロが楽器を使わずにアレンジをしているのには驚いたけどね。
で、レコーディングが始まるとミュージシャンをいじめまくってね。メディア・サウンドは教会を改装したスタジオで、一階が教会なの。そこはストリングスとブラスを録るアンビエンスのあるスタジオなんだけど、地下にリズム隊を録るスタジオと、ミックスダウンルームがある。
そこに初日にファイブ・リズムが来た時に、チャーリー・カレロに「ちょっと来い」って言われて、プレイヤーの前に連れて行かれて「彼は4000マイル彼方から君らの音を欲しくてやって来たんだ。だから真面目にやれ」って。変な人だよね。だけど、とにかく社交辞令の嵐なんだよ、全員。ちょっとやると「ファンタスティック!」、最高の賛辞は「インクレディブル!」。それで一曲終わるたびに「タツ、グッジョブ!」って。なんだがよく分からない。
今度はブラスとコーラス隊のレコーディングになると休憩しながら、あのプロジェクトには何万ドル出たとか、金の話ばかりなの。詳しいことまでは分からないんだけど、金の話をしていることは分かる。
ところが演奏が始まると、チャーリー・カレロは「キープが甘い」とか。極め付けだったのはWINDY LADYでソロを吹いているジョージ・ヤングに、吹き始めて30秒くらいして突然テープを止めて、卓を叩いて「ジョージ!ドント・プレイ・ジャズ!プレイ・ロックンロール!」って。そんなに威張んなくてもいいじゃないか、って。それが、生まれて初めて見たアメリカのセッション。もっとも、いまだにあれ以上のすごいセッションは見たこともない。ロスに行ったらもう穏やかでね。
   
<プレイヤーの演奏が本当にすごくて、音楽的にカルチャーショックだった>
ロスとNYは雰囲気が違ったけど、NYは得てしてそうだね。僕はNYで5人くらいのアレンジャーとやったことがあるけど、だいたいミュージシャンに対して挑発的なことを言うのが好きだね。
クールスの時にジェフ・レイトンというジャニス・イアンの「17歳の頃」をやった人にブラスを頼んだんだけど、けっこうハイノートのキツいところまで書いて来たんだよね。トランペットはランディー・ブレッカーとジョン・ファディスだったけど。かなりスケジュールを無理して突っ込んだセッションで、彼らはその日、もう何セッションもやって疲れて来てるから、ヘラヘラやってたら最後のハイノートのところで「そんな音も出ないの?」って、アレンジャーが言うんだ。二人の顔色がパッと変わって「アゲイン!」 で、一発パーっと吹いて「どう?」ってブースを見る。
「やれば出来るじゃない」って。凄いよね。そう言うのはNYの色だね。ロスはそう言うことはないから。
だからフィル・スペクターのミュージシャンを追い込んでいくやり方なんかも、やっぱりリーバー=ストーラあたりで学んだんだろうね。リーバー=ストーラがNYでバリバリやっていた時代にね。
チャーリー・カレロが「リズムが甘い」って言うけど、いいや、どこが悪いんだろうって感じ。あの頃はドンカマなんかないじゃない。WINDY LADYはドンカマなんか全く使ってないけど、CIRCUS TOWNはやっぱり結構タイトな16ビートだから、チャーリー・カレロがドンカマ使うって言い出して。それも半端な音のクリックじゃなくて、カン!カン!って凄いキツいテンションを出して、これで行け!ってそれでも彼らはやっちゃうから凄いなって。
当時のアラン・シュワルツバーグは全盛期だから本当に上手かったよ。そのちょっと後で、マウンテンでフェリックス・パパラルディと一緒に来日してるけどね。
でも、スタジオではアラン・シュワルツバーグが一番優しかったんだよ。本当にメロウでね。「タツ、リラックス」って。こっちがガチガチだったから。
エンジニアのジョー・ヨルゲンセンフュージョン系の仕事が多い人で、この人も優しくて、その二人が助けてくれた。後はもう人種差別主義者ばっかりだったから。
ミュージシャンは白人で、トロペイはヒスパニック入ってるけどね。だって、ブレッカーなんて口もきいてくれない。MINNIEの時はワンテイクで、一発吹いて、それだけで帰って行った。あの当時は誰もが若かったしね。その後、日本人のアメリカ・レコーディングが増えたしね。
だけど本当に上手かった。あとチャーリー・カレロのストリングス。教会の中、つまりスタジオの中に入れられて「ここで聴け」って。「本当のストリングスはここで聴かなきゃ分からない。スピーカーから流れてくる音はストリングスじゃない」って。
事実、これが実にいい音してるんだ。特にビオラ。これじゃ日本の弦は敵わないなと思うよ。ビオラってキモなんだよ。
CIRCUS TOWNのイントロってチェロとビオラで始まるんだけど、その三連がこの鳴りで出るのか、って。本当に音楽的にはカルチャーショックだったね。これはすごいっていう。
トランペットのトップがブレッカーで、セカンドがジョン・ファディスでしょ。で、トロンボーンがデヴィッド・テイラーとウェイン・アンドレ、この二人も凄いんだ。テナーがジョージ・マージ、バリトン・サックスがロミオ・ペンク。これもジェリー・マリガンの弟子だった人だから、MINNIEのブラスのソリ(一部のパート達だけの合奏パート)があるんだけど、これもスタジオの中で聴いたんだ。
本当に凄かったよ。
【第18回 了】