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ヒストリーオブ山下達郎 第54回 2000年夏、まりやのライヴ復帰と『souvenir』発売(11月)

<まりやは18年ぶりライヴだったけど、何も心配していなかった>
2000年7月11日、12日で武道館、31日に大阪城ホールで、まりやの18年ぶりライヴとなったTOKYO-FMとfm-osakaの開局30周年記念イベントが行われた。僕にとっては文字通り、生まれて初めての武道館のステージだった。夏だったけど、武道館のステージの奥は湿気が多くて蒸し暑かった。そもそもは東京FMの開局30周年のイベントとして、まりやのライブを武道館でやってほしい、という要請が最初だったんだけど、何しろ18年くらいライヴをやってなかったから、どうしようか、2時間半は無理だなと思って。それで本人は1時間ちょっとでやれるように、オープニング・アクトで誰かに出てもらおうか、いろいろ考えて。こちらの演奏メンバーは、いつもの自分のメンツでやればいい、と思ってたから。FM大阪も同じく開局30周年で、こっちはあとから決まった。あいのりというやつ。
共演者については身内でやろうと。cannaはうちの事務所でメジャーデビューをしてちょっと経った頃で、Sing Like Talking佐藤竹善のバンドで、当時は少し休んでいたけど、この当時はドラムが村上ポンタ、ベースはとみやん(富倉安生)だった。そういう時代だったこともあって、彼らに手伝ってもらった。イベンターも僕と同じSOGOだったし。
まりやにとってのライヴ復帰は結構大きな出来事。『Bon Appetit!』が翌2001年に出るけど、ベスト・アルバム『Impressions』がバカ売れしてから、まだ5〜6年。シングルもコンスタントに出ていて「今夜はHearty Party」(1995年)がオリコン・シングルチャート3位。「カムフラージュ」(1998年)では、彼女初の1位を獲得していた。勢いは十分にあって、それにライヴという付加価値がつけば、また歌手生命を少し先延ばしができるな、とw  僕自身は、まりやが昔ずっとライヴをやっていたのは見ているから、それほど心配をしていなくて。ただ、久しぶりなので体力的な問題や、喉もそんなに強くないから、演奏時間を少なくすれば、何とかなるだろうとは考えていた。
彼女が現役でやっていた頃は、バックバンドの演奏に対する不満も、少なからずあったようだけど、リハーサルで僕らのバント音が出たときに、これで大丈夫、と思ったらしい。はっきり言って「SEPTEMBER」とか、レコードよりも僕らの演奏がうまいから。何度も言うけど、彼女は昔かなりの数のライヴやってたし、しかもあまり条件の良くない所でもやっているので、そういう人は、別にそんなに困らない。2000年の時点で、彼女の昔のことを知らないスタッフは、不安もあったかもしれないけれど、僕はほとんどなかった。彼女はヒット曲も多いから、「不思議なピーチパイ」や「SEPTEMBER」とか、寝てても歌えるくらい、昔はテレビで毎日のように歌っていたから。まあ励ましたところで、やるのは自分だから、こっちが心配しても。
僕とは違って、彼女は武道館で何度も歌っているし、それにリハーサルから始まって、楽屋やバックステージの仕切りは、昔とは比較にならないほど向上しているから。僕らの若い頃は、電車移動はもちろん普通車だし、ホテルは毛布1枚しかないようなビジネスホテルで、温度や湿度は満足に調整できないし、アメニティーも貧弱だった。歌う人のコンセントレーションに対する、周りの気遣いも希薄で、楽屋に不必要な人が出入りするなんて、日常茶飯事だった。そういう時代をくぐって来ている人だから。
活動復帰してからの、これまでのまりやのライヴ出演といえば、サプライズ的にセンチのゲストに出たり。そういうリスクのないのには随分と出ていた。僕のツアーのアンコールの時に、コーラスでステージに出るとか。まあ自分が真ん中に立つのとは全然違うけど。
いくら励ましたところで、コンセントレーションとかそういうものは、本人の自覚で、それは残念ながら場数を踏むしかない。
確かにライヴは怖い。そう簡単なものじゃない。でも自転車とか水泳とか同じで、10代の頃からやっていれば、80歳になって50年ぶりに乗ったり泳いだりしても、できるものだから。そういうのと似ている。ボイス・トレーニングをやるにしても、こっちがライヴをコンスタントにやってきているので、そういうノウハウはあるし、楽屋はどうするかとか、ちゃんと段取りもできるから。レコーディングもライヴも、僕の使い回し。スタッフは全部、照明からPA、楽器クルーも僕と同じだし、そこにいつものスタイリストとメイクの人がいれば、別に問題は無い。女性はそういう衣装とかメイクは大事だから。
ライヴを18年やっていなくても、その間にレコードはコンスタントに出している。レコードを出していなくて15年ぶりライヴ、では動員は難しい。おそらく武道館は無理だろう。でも、レコードの売り上げに関しては、何も問題もなかったから、観客動員に対しても、何の心配もしていなかった。
どうしてまりやがライヴをやろうと思ったか。レコードを出し続けて、ヒットも出ているけど、どんな人たちが聴いているのか、実感がない。だから目の前にどんなお客さんが来るのか、知りたかったのが、動機としてはすごく大きい。今でも全国ツアーをやるのは、その意味もあって。なので、無観客ライヴをやってもしょうがない。自分のお客さんに会いに行くためにやるのだから。ライヴをやっていなくても「カムフラージュ」が1位になって、じゃあ一体誰が買って、誰が聴いてくれているんだろうと。それを確認してみたいというのが、すごくあった。自分が人前に出て歌いたい、とかじゃない。
僕とまりやのお客では全然違う。それくらいの予測はつく。まりやのお客さんは素直で良いお客さん。僕の客は、へそ曲がってんのが多いから。昔は特にw
武道館について言えば、武道館は自分が観に行って面白いホールではない。アリーナはパイプ椅子だし、スタンド席はプラスティックの椅子。YS-11(旅客機)みたいに、坐り心地が良くない。そういうところで、僕みたいに3時間やっても、というのがある。
音が良くなったと言われるけど、そういう問題じゃない。音楽評論家かなんかにそんなこと言われても、連中はアリーナか1階の関係者席で観ているから。そういう特別招待のやつがそんなこと言っても説得力がない。学生の時、2階の後ろで観た時はどう思ったか。東京ドームで上から見下ろしたら、米粒だから。観たうちには入らないけど、そういう観衆にも説得力を届けようとか、そんな意欲は自分にはないw  いつも言ってるけど、1万、2万と、どんどん動員が増えていくと、こちらから見えるお客って、本当に抽象的になるから。別に誰かがあくびしても、自分にとっては何でもない。けど、やっぱり新宿ロフトなんかでやると、目の前にいるわけだから、そうはいかない。
武道館で自分の曲を演奏したのは、2010年のワーナーのイベント(創立40周年記念”100年 MUSIC FESTIVAL”/2010年10月31日)で、それは考えたら、夏フェスとかと同じで。夏フェスの方が野外で、反射がなくて、オーディオ的にははるかに良い。お祭り的なものは意識していたけど、武道館を目指した事はないし。目指したくないやつだっているんだ、っていう価値観だからw
別にやろうと思えばどこでもできるけど、自分がやるとしたら、一応自分の中での決まりみたいなものがあるので。広義の意味でのプロモーションというか、キャラクターというか。武道館でやらない、本を書かない、テレビに出ない、っていうキャッチフレーズでやってきたから。
   
<レコードに近い音にならないとダメ>
セットリストは、まりや本人の意思が大きい。1曲目の「アンフィシアターの夜」とか。「リンダ」をアカペラでやろうと言ったのは僕だけど。あとはリハをやってみて、決定した。実際に演奏してみないとわからないから。概して同期ものは難しいし、例えば「今夜はHearty Party」みたいな曲は、意外に面白くなかった。選んだのはベスト曲というより、本人が歌いやすい曲。ヒット曲は入れなくちゃ、っていうのはあるけど。でも「シングル・アゲイン」とかは難しいし、この頃はあまり演奏も含めて満足がいかなくて、やっていない。
それでもバンドのノリはよく出ていたと思う。それは、この日のために集まったのではなく、もともと演奏しているメンバーだから。それは大事なことで、レコードに近い音にならないとダメだから。
いわゆるR&B系の人は、ステージ用のバックバンドを雇うから、演奏が一格落ちる場合が多い。昔の話で申し訳ないけど、バリー・ホワイトはリズム・セクションは連れてきたけど、弦やブラスは日本人を現地調達だったから、全く似て非なるものになっていた。フレディ・ジャクソンとか、あのクラスになると、もう全くの営業バンド。サザンソウルは比較的オリジナルのレコーディング・メンバーが来るけど。R&Bのライヴを観るなら、バンドがいい。アース・ウィンド&ファイアーとかコモドアーズ、クール&ザ・ギャング、バーケイズとか、そういうバンドものだったら、レコードと同じ音がする。自意識の高い人、例えばジェイムス・テイラーなんかは、レコーディングとほぼ同じメンバーでやってるので、ちゃんとしている。スタジオとライヴでミュージシャンが違うと、どうしてもライヴでの感触が変わる。僕がそれがイヤだった。
この時、自分のライヴと一番違ったのは、とにかく自分が歌わないので、とっても楽、ということw  余談だけど、実はこのライヴで分かったことがあって。僕は小学校の時から、ずっと落ち着きがないと言われていて、この時にそれを自分で初めて実感した。ホールを借りて、ゲネプロ(通しリハーサル)をやったときに、ビデオを録画したんだけど、それを見たら演奏していない時、例えばまりやが曲の段取りをPAと打ち合わせているときとか、他のメンバーはみんなじっと動かずに立っているのに、僕ひとりだけひっきりなしに、右に左に、ウロウロと動いていた。ああ、これだったんだって。
1977年に吉田美奈子のライヴでバンマスをやったときに、新聞のライヴ評に「山下の態度に落ち着きがなかった」みたいな書かれ方があって、何のことか全然わからなくて。それが半世紀近くも経って、ああこのことだったのか、ってわかったw  それ以来、一生懸命意識して、じっとしているようにしている。自分のライヴの時はマイクに向かっているから、動かないですむけど、ひとたび人のバックだと、そうなっちゃう。中学の時のアダ名が”クマ”で、考え事をするとウロウロするんで、そうなったんだけど、その本質は50歳近くになるまで、わからなかったという。とにかく、それが2000年のまりやのライヴでの一番の収穫w
人のバックでステージに立つ時は、コーラスが一番多かったけど、この場合は自分が編曲しているから、ギター弾きながらでも、他に不足しているところをどう埋めるか、キーボードを足すのか、フィンガー・シンバルをチーンと鳴らすのか、カバサをやるのか、そういうところの便利屋的な役割は、色々とこなしている。
武道館のステージに立っての感慨という点では、2010年のワーナーのイベントの時の方が強かった。人の後ろでやっていると、それどころじゃないというか、細かい段取りもしなきゃいけないし。それに対して、自分が中心の場合はステージの真ん中で、自分の作品を、観客に向けて発信しなければならない。その感応する部分というか、空気感というか、そういうものを感じつつ、進行しなければならない、自分のライヴじゃない場合なら、多分ドームでやっても大して変わらないと思う。
昔の夏フェスというか、野外イベントみたいなものは、お客も少なかったし、そういう実感はなかったけど、2010年に初めてライジングサンのステージに立った時に思ったのは、武道館とあまり変わらないな、ということ。それに今の夏フェス、氣志團万博(2017年)なんかでも、こちらのやっていることを観客がきっちりと受容、許容してくれてる。昔はそうじゃなくて、茶々を入れてやろうとか。そういうのが昔と違って全然ないから。ワーナーのイベントの時は思うことあって「2階のいちばん後ろまで届くように歌います」みたいなことを言った。ツアーでも、大きめのホール会場では、そういうメンションは、必ずするようにしている。
今はスピーカーもフライング(釣り)だし、いい音になってる。2000年の時も問題はなかった。むしろ小さいライブハウスより、アリーナとか、野外フェスとかの方がたくさんお客を呼ぶ必要があるから、ノウハウが確立されている。小さい所での100人なんて呼ばなくたって来るから。そこにいることだけで満足しろ、みたいな。だからPAが良くなくても大丈夫で。でも、東京ドームだと、そうはいかない。外タレでチケット代いくら取って、なのにこの音か、と言われてきたから。日本だけじゃなくて、全世界の規模でやるためには、どこでも囂々たる非難が初めはあったけど、今はそういうことを聞かない。
まりやとデュエットした「LET IT BE ME」は、人の結婚式で何かやれと言われたときのために、80年代からやっていたもので。ジルベール・ベコーの曲で、エヴァリーブラザースもカヴァーしている。商売柄、何かご披露しなきゃいけない場合があるので、自分ひとりの時は弾き語りで「YOUR EYES」とか。で、二人の時の曲に困って、それならデュエットものを作ってみようと。ホームレコーディングでカラオケを作って、それをバックにやったら、えらいうけた。以来、もうずいぶんやっていた。だから最初は、あくまで披露宴の余興でw  ステージで最初にやったのは東京FMホールでの3人ライヴ(サンデーソングブックの3周年記念/1995年11月26日)の時じゃないかな。正式なレコーディング版は2008年のベスト『Expressions』に初収録した。
そんな選曲も、全て企画性から来るもので。アカペラでの「リンダ」なんかは、僕がベース・パートだし、ドゥーワップのベースだったら、僕は誰にも負けないからw  「リンダ」は譜面をでっかく拡大コピーして、武道館のステージに敷いて、それをみんなで見ながら歌うというw  あのライヴは、僕のフォーマットがあったからやれたわけで、あれをいきなりゼロからやろうとしても無理だった。そして2010年、2014年のツアーの伏線にもなった。本当は2021年も開催する予定だったけど、こればっかりはしょうがない。誰もがそうだから。
ライヴは肉体労働だから疲れる。ストイックなものを要求されるし、決して楽しいばかりではない。彼女の場合はアリーナで2日連チャンだし、どうやって体調管理するかも、すごく気を使う。僕なんかでも、慣れているとはいっても、結構辛いから。前の日はきちんと睡眠をとらなければならないし、もしも夜中に電話でも鳴ったら、と心配になったり。朝4時ごろに目が覚めて、それから全然眠れなくなったり。そうすると翌日に影響があるから。あと冬は、特に乾燥。だから、ツアーは夏にしようとしてる。
   
<ライヴ収録はしていたけれど、世に出す予定はなかった>
このライヴは録音して、映像も撮るということにはなっていた。ある程度レコードの売り上げもあるんだし、資料映像としてだって、18年ぶりのライヴを撮らないわけにはいかない。ちょうどビデオがデジタルになった頃だから、そういうこともあった。世に出す予定は、その時点ではなかったけれど、レコード会社の事業計画で出すことになった。
ライヴ・アルバム『souvenir』は2000年11月22日にリリースされた。アルバムには、結果としてステージでの曲順通りに収録されている。ちょうど入る時間だった。だからライヴを追体験できる完全収録盤、まあMCは入ってないけど。内容はノイズは補正はしたけど、歌とかは一切いじっていない。いじれるような時代じゃなかったし。まだオートチューンもない。プロツールスでもない。
この時の映像は2018年11月に劇場公開された「souvenir the movie 〜MARIYA TAKEUCHI Theater Live〜」にも収められているし、映画はのちにDVD/BD化もされた。NHKの番組やシングルやアルバムの特典にも使用されたけれど、スタッフには思惑はあったんでしょう。それが一応、普通のプロダクションのやり方だろうし、周りから出て来た意見だろうと。僕のだって、一応シアターライヴ(映画)ができるくらいの素材が、80年代から撮って残っているわけで。当時はアナログだから、今と比べれば画質は落ちるけど、VHSでハンディじゃなくて、ちゃんと複数台のプロ機器で撮ってるから。ライヴアルバムやDVDの販売は、事業計画の数字をクリアするために出すというのがイヤだっただけで。それはクリエイティブな発想ではない、と。当時のレコード会社ではそれが続いていたから。
何がよくて何が悪いのかはわからない。全て結果論。 人間万事塞翁が馬。僕に関しても、例えば「プラスティック・ラブ」のコーダのシング・アロングなんて、アルバムに入っている2000年のも、配信で流した2014年のも、ハイBのロングトーンがきっちり出たのは、あの収録していた日だけだったから。火事場の馬鹿力w
    
<景気が回復して、CDが売れていた時代だった>
2000年11月22日『souvenir』発売と同時に、初のマキシ・シングル(12センチCD)サイズで「クリスマス・イブ」がリリース。CMでもJR東海で”クリスマス・エクスプレス2000”として、8年ぶりに復活、ありがたいことで。深津絵里さんや牧瀬里穂さんという歴代のヒロインが出演する新CMになったけど、具体的なことは知らなかった。前の出演者が出る、ぐらいまでは聞いていたけれど。
JR東海のCMシリーズは1992年まで続いて。そのあと93年からはTBCのCMなどで「クリスマス・イブ」は流れていた。この曲は、安易にベストやコンピレーションに入らないことで、使い捨てにならず、長持ちした。それこそ、今でもサブスクを使わないのは、そうしないと本当に使い捨てになってしまうから。
JR東海がCMで復活させたのは、意外と景気が良かったこととも関係がある。一時は円高で、株価も下がっていたけど、この時代はITバブルで景気が回復したこともあって、CDも売れていたから。それでまた新しい層が出て来た。2000年頃はミリオンヒットもあって、時代に勢いがあった。
「クリスマス・イブ」のリリースも、8年ぶりで、累計の売り上げが200万枚を突破した。大きなレコード会社なら3年で売り切ってしまうだろう。ワーナーは小さい会社だったから、短期間では売り切る販売力がないので、毎年毎年、ちょっとずつ売っていくしかなかった。ギネス記録になったのは2015年の、30年連続チャートインの時だったか(認定は2016年)。一度も廃盤になったことがなく、いつも現行盤として継続している。
今は再発って大体限定だから、そうするとグロスとかも変わる。だから仕様が変わったとしても継続して発表されているのがすごく重要。宮治淳一くんがやっている、ワーナーのナゲッツシリーズのコンピレーションも絶対に限定販売にしない。バックオーダーをちゃんと取って、カタログとして継続的に出すようにしているから。
【第54回 了】