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ヒストリーオブ山下達郎 第48回 94年10月スマイルガレージ閉鎖、スタジオジプシーの時代へ

<スタジオで音が鳴ってくれないのが、本当に辛かった>
1994年は5月に”SINGS SUGAR BABE”が終わって、まりやの『Impressions』を7月にリリース。あとはずっとレコーディングをしてた。ホームスタジオのスマイルガレージが、湾岸地区の再開発の影響で10月に閉鎖、そこからサウンドシティに移った。”SINGS SUGAR BABE”のFM放送用の音源とかも、ここでミックスしている。そこから97年にプラネット・キングダム(スタジオ)ができるまで、約3年間のスタジオ・ジプシー時代が始まった。
サウンドシティを使うことにしたのは、77年にSPACYをここで録音して、その時のスペックが高かったから。ピアノがベーゼンドルファーで、コンソール卓も当時の最新だった。そのあとMOONGLOW(1979)もここでミックスした。だけど、つまりそれから15年以上経っていたということ。その間にサウンドシティはどちらかと言ったら音楽ではなく、映像のスタジオになっていた。記憶って恐ろしくて、それに頼ったのが間違いだった。85年からスマイルガレージで始めて、8年くらい過ごしていた間に、他では変化が起きていた。当時外部スタジオで使っていたのは音響ハウスが一番多かったから、素直に音響ハウスでいけばよかった。過去の良い記憶に頼ったけど、随分と違うものになっていた。
でもPOCKET MUSIC(1986)の時と同じで、自分の耳が衰えたから響きが悪くなったのでは、とか、アレンジが古くなったから、とかそういう思いもあって。でも、今になって思えば、全部ハードウェアの責任だった。サウンドシティで録音したものには、お蔵入りがすごく多い。
本当は96年にアルバムを出す予定だった。ARTISANを91年に出して、92年まりやの"QUIET LIFE”、それから93年SEASON'S GREETINGS、94年SONGSのリマスター盤に、”SINGS SUGAR BABE”のライヴと続いたので、そこで一息ついた。それで腰を据えて95年から96年にかけてアルバムを作ろうと思ったんだけど、あえなく挫折してしまった。スタジオの配線関係が古くなっていた。古いと音が抜けなくて、曲想、特に編曲的な曲想がわかない。だからスタジオでの音像に満足できなくなってしまった。”DREAMING BOY”というタイトルでアルバムを出そうと思っていて、それはファンクラブの会報でも言っていたけれど。結局出せなくて、どうもすいません、みたいな。
シュガー・ベイブをやめてから、再結成はないと思っていた。だからライヴという形でやったんだけど、音楽的には常にシュガー・ベイブで、やり残したと思うことがたくさんあった。それで、それをやろうとして、いつも挫折する。いろんな理由があるんだけど。レコードもたくさん聴いていたし、全米40もちゃんとチェックはしていたんだけど、音の傾向としてはマシン・ミュージック全盛の時代で、そういうダンスとかヒップホップみたいなものには、何も興味を持てなかった。シンガー・ソングライターも歌詞一辺倒というか。
僕自身も40歳を超えて、30代は生き延びることができたけど、40代はどうなるんだろう、と。もうタイアップが取れない時代になるよ、って小杉さんにも言われたし、実際そうだったんだけど。だいたいシングル・ヒットというものは、我々みたいなスタンスだと、タイアップなしでは成立しない。自分が歳をとるという事は、テレビとか音楽とか、メディアの人たちも歳をとって出世すると、今度は現場が若返りする。新しい人たちの趣味が反映されるようになっていく。それがメディアの趨勢。ロートルは消えて、次世代にだんだん移っていく。それまで売れていた人たちも、ヒットが出なくなる。
それにとって代わったのが、おニャン子クラブから始まって、モーニング娘。、SPEED、小室ファミリー、あとB'zとか。スピッツミスチルは全く通ってないw あとは渋谷系ビーイング。いずれにしろ、我々の時代じゃない。もっと下の世代が出てきている。ドリカムなんかもそう。サンソンを92年に始めた時、すぐ後の番組がドリカムだったから。後から次の世代が追いかけてくるような感じはあった。(藤井)フミヤの「TRUE LOVE」なんてのもあった。端境期というか。タイアップの流れも変わってきて、例えばビーイング系の楽曲はメディアミックスでミリオンヒットになって。小杉さんがワーナーの会長になって、僕のマネージメントから外れたのも大きい。
そういうところでギクシャクし始めて、あの辺を”ロスト”な感じというかあまり、思い出したくない時代で。世の中は200万枚、300万枚のセールスの時代なのに、自分は閉塞状況だったから。何しろスタジオで音が鳴ってくれないのは、本当に辛かった。
  
<『Impressions』は世界のワーナーで1位を記録した>
94年7月発売のまりやの『Impressions』については、ベストアルバムだから手間はかかっていない。これ用にレコーディングしたのは「明日の私」と「純愛ラプソディ」だけ。当時はベストアルバムがちょっとブームになりかけていた。復帰して3枚のアルバムを出して、まりやのムーン時代のベストはこれが初めてだったので、出したけれど、これが馬鹿みたいに売れた。そういう形容すら間に合わないくらい売れてしまった。
『VARIETY』(1984)のことを話した時にも言ったけど、作品の発売が決まったら、全国のレコード店に受注をかける。そうするとそれがイニシャル・オーダーと言って、初回の出荷枚数になるんだけど、大体このくらい売れる、売りたい、という予測をつけて、その枚数をプラスする。レコード会社って実売じゃなくて、出荷が実績なんだ。出荷を大きくすると、売り上げ実績を”粉飾”することができる。初動、つまり最初のインパクトが重要な歌謡曲系は、伝統的にほとんどそう。その次はバックオーダー、つまり追加注文がどれだけ来るか。初日のバックオーダーというのは結構重要で。イニシャルをむしろ少なくして、バックオーダーで煽って、話題作りをするというやり方もあって、それは完全にアーティスト・プロモーションとしての受注なんだけど。ロック系というのはロングセールスという発想があるので、そういうやり方をしていた。
最も伝説的なのは、矢沢永吉さんの『アイ・ラヴ・ユー、OK』(1975年)で、初日のバックオーダーが史上初の1万枚を超えて、5桁のバックオーダーだった。その頃のバックオーダーは2千〜3千枚、多くて6千〜7千枚くらい。そしたら『VARIETY』のバックオーダーが1万を超えて、我々は大騒ぎした。
『Impressions』が出た時は、もうアナログからCDになっていたし、1万を超えることも普通にある時代だったけれど、初日にデータを見に会社に行ったら、バックオーダーが6万付いていた。「すごいな、6万だよ」って驚いていたら、スタッフが「違うんです。ウチのコンピューター5桁までしか出ないんです。本当はもうヒト桁あるんです」と。一瞬、何のことか全然わからなかったけれど、実際は16万だった。毎日それが続いて、確か280万枚までいった。
94年のワーナーミュージック・インターナショナルの売り上げで、世界的には枚数はもっと売れていたものはあったけど、当時は円高だったので『Impressions』が売り上げ世界ナンバーワンになった。それで当時のワーナーミュージック・グループ会長のボブ・モルガードが、まりやをグラミー授賞式に招待したいと。最初、本人は子供がいるから行けないと言ってたんだけど、そんなの一生に一回だから行って来いと、子供の面倒は見るからと言って、送り出した。
当時のWEAだから、メイン・テーブルの一番いいところ。当時、我々のセクションはアトランティック・レコードの日本での販売担当だったので、アトランティックの総帥アーメット・アーディガンも同席して、モルガードとアーディガン、それに小杉さんとまりやの4人で、そのメインテーブルに座っていたら、デヴィッド・フォスターとかグラハム・ナッシュとか、彼女の知り合いも来ていて「どうしてまりやがここにいるんだ?」ってw 
『Impressions』のミックスは、まだスマイルガレージがあった時で、この頃は全部一人で音色も決めていた。「純愛ラプソディ」は我ながら、なかなかよくできたアレンジで、時間の余裕があったので、結構、濃密にアレンジができた。このシングルのリリースは5月だから”SINGS SUGAR BABE”のリハーサルをしながらの作業だったかもしれない。ミキシングはスマイルガレージ。
11月にはNHKドラマ「赤ちゃんが来た」の主題歌として「LAI-LA -邂逅-」がオンエアされた。レコーディングメンバーは、青山純伊藤広規佐橋佳幸で、僕はキーボードとパーカッションを担当。4年後のCOZY(1998)には、この時のTVヴァージョンとオケは同じだけれど、ミックスが違いが収録された。この曲もスタジオでやると、全然思ったようにならなかった。スタジオが悪かったんだけれど、アナログに戻してみたり、デジタルのフィルターを変えてみたりで乗り切ろうとした。
デジタルになって、レコーディングの方式が変わって卓も変わってきた。コンソールはSSLになって。70年代は少なくとも、どこのスタジオ行っても、テレコも卓も同じ機械だった。違う卓でも、方式が同じだった。それがデジタルになったら、まずマスターは違うし、ADAT(デジタル・マルチトラック・レコーダー)にするとか、ドルビーとか、機材の選択肢が増えてきて。さらに、この曲を生でやるのか、マシンなのか、でも両方やってみないとわからない、と時間がかかってしまうw マシンでやるとしたら、キックの音をどれにするか。キックの音だけで30種類くらいあるから。今はタイミングを発音前にあらかた揃えられるんだけど、あの頃はひとつずつ録っていかなければならないから、キックを録って、スネアを録って、ハイハットを録って、その都度タイミングを合わせていくと、ドラムだけで1日かかる。ドラム、ベース、キーボードを仮で入れて、家に帰って聴き直したら、何かが違う。テンポが違う。それでまた録り直し。そんなのが1週間くらい続く。でも若かったし、集中力もあったから、それでめげる事はなかった。
僕は単純労働が平気な性格で、Excelで作曲家のリストを作るとか、全然苦じゃないから、そういうのは大丈夫なんだけど、何しろ時間だけはかかる。今はマンションで一人でできるけど、あの頃はスタジオで、エンジニアがいて、アシスタントがいて、延々とテレコを回して、という具合で。
新しいスタジオ(プラネット・キングダム)が稼働するのは97年からで、実はその頃に、小杉さんが体調崩して、ワーナーの会長を辞めてしまう。ワーナーという会社はWEAと言って、ワーナー、エレクトラ、アトランティックという3つのレコード会社の制作エグゼクティブの集まりだったんだけど、95年くらいから大きく体制が変わり、レコード・ビジネスの趨勢も変わった。それこそ60年代、70年代は本当に適当だから、レコード・ビジネスが儲かると分かれば、ガレージ・ミュージックで一発当てれば大金持ち、みたいな、いわゆる詐欺師みたいなやつばっかりだったんだけど、それがだんだんビジネスとしての体裁を整えるにつれて、映画会社と同じように弁護士が入ってきた。
『Impressions』が出た頃の話だけど、例えばシングルとして出した「純愛ラプソディ」を、このアルバムに入れることで、売り上げが良くなる。ワーナーの本部もそれはウェルカムなので、アルバム発売を1ヶ月ぐらい遅らす事は普通にできた。でも翌年、翌々年になると、弁護士が経営陣に入ってきて、日本も統括するようになったから、そんなことができなくなった。それまでレコード会社というのは、契約してから3年くらいは、10も20も並べて先行投資して、そのうち1つでも売れれば、全部リクープ。そういう、どんぶり勘定だったけれど、それが「一つ一つのサブジェクトについて、3ヶ月ごとに収支を出せ」と言う。そんなことやれるわけがない。それが90年代中期のレコード・ビジネスの全世界的な変化で、これは大きかった。つまりトライ&エラーができなくなってしまった。結果トップの人へのプレッシャーが激しくなって、それで小杉さんが体を壊した。それこそ昔の、一枚目は投資、二枚目でトントン、三枚目で回収、みたいなのは通用しなくなった。
キャリアのある人は契約料が高くて、印税率も高いから、全部契約を切って、新しい人に入れ替える。ワーナーでも、例えばジャクソン・ブラウンとか、ずーっと長く続いていたアーティストも、軒並み切られてしまったり。ソニーみたいに電気屋の親会社が上にあるところはまだしも、独立した純粋にレコード制作と販売だけの会社は、どんどん苦しくなってくる。そういった時代の変化。作品を出さないやつはいなくていい、そういう時代になってきた。まあ今もその延長だけどw
翌95年1月には「SOUTHBOUND#9」が日産スカイラインのCMに起用された。これはタイアップが決まってから、レコーディングをした。ドラムは青山でやったけれど、合わなくて途中で島ちゃん(島村英二)に替えた。94年の暮れだった。車の映像に合う曲調って、テンポ感の合うサウンド・パターンはほんの少ししかない。ヨットとか、クルージング、サーフィンとか、半端な音楽だと、全然映像と合わない。車のCMは「風の回廊(コリドー)」(1985)とか、あるいは「マーマレード・グッドバイ」(1988)、ああいうテンポ感じゃないと合わない。「SOUTHBOUND#9」もまさにそれで、どちらかというと8ビート方が合うことが多い、「ターナーの汽罐車」(1991/日産スカイライン)もそうで、あのテンポ感で作るしかないから曲調が似てくるw この時のスカイラインのCMでは、南の方角、太陽に向かうシーンがあるから、歌詞に「南へ」と入れた。
1995年1月といえば、阪神淡路大震災。あの時は、ほとんど表の活動していなかったから。ツアーをやっていたら、また違っていたかもしれないけれど。スタジオにひたすらこもっていて、それも曲が試行錯誤中で、形になっていない時だったから、できることが何もないっていう。僕みたいな人間が、炊き出しに行くとか、そういう感じではないし。「サンソン」が始まってまだ2年かそこらだったけど、放送で何かを言った記憶がない。もちろん寄付はしたけれど、それは公共の電波に乗せるようなことじゃないし。2011年の東日本大震災の時はツアーもやっていて、毎年東北に行っていたこともあって、意識の違いがすごく大きかった。この歳になると、社会的責任を自覚するし、何かをしようということにはなるけど、この時は精神的に閉塞していたというのもあって、自分のことで精一杯だった。
この95年の後半は、ひたすらスタジオに入っているだけの、おこもり状態で。あとは打ち込みばかりしていた。さっきも言ったように、代理店からのタイアップのアプローチも減っていた。小杉さんが完全に僕のマネージメントをしなくなって、スマイルカンパニーも人に預けたりして、そうすると事務所なんてそんなもので、積極的営業もかけなくなる。40過ぎたら未来なんかない、という。タイアップがないならないで、アルバム”DREMING BOY”のレコーディングをしようとしていた。でも、もちろんこのアルバムの曲を作るためにスタジオに行くんだけど、リズム録りしても全然ピンとこないし、同期でやっても、もっとピンとこない。それの繰り返し。アンビエンスを変えてみようか、スタジオを変えようか、アレンジを変えればいいのか、いろいろ試してみても正解が出てこない。
とはいえ、レコーディングするつもりで詞曲をスタジオに持っていくから、ある程度の曲の構成はあるわけで。あとからメロディーを考える曲もあるけど、その場合もリズムパターンは考えてあって、それからサビやキメを作っていく。過去で言えば「THE WAR SONG」のように、もともとメロディーがないものは、そんなふうに作りながら録っていってた。
でも、この時は、リズム録りを聴いても全然グッと来ないというか。だからメロディーも浮かんでこなくなった。家では打ち込みの機材が新しくなったりして、そうなると、今までにない違うパターンが湧いてきたりして、すごく新鮮で、曲作りはそれなりにはかどった。そういう手ごたえはあったんだけど、いざスタジオに入って録音すると、何か音に違和感があって、ちゃんと形にならない。
そういう事はこれまでに3回あって、POCKET MUSICの時と、この”DREMING BOY”、そしてもう一回はSONORITE(2005)をプロツールスで作ってた時。今(2020年)ちょうどPOCKET MUSICをリマスターしていて、解説を書いているけれど、ぼやきしかないw
  
<苦しい状況ではあったけれど、今がよければそれでよし>
そんな95年11月1日にシングル「世界の果てまで」、同じ月の13日にベストアルバムTREASURESを発売(オリコン初登場1位)した。「世界の果てまで」がサウンド・シティでやった最初だった。入れては消し、入れては消し、の繰り返し。曲自体はテレビドラマ(日本テレビ「ベストフレンド」脚本中園ミホ、主演松雪泰子深津絵里)の主題歌で、タイアップが決まってから書いた。あの頃は完全に向こうの買い手市場で、こちらのスタッフも媚びているから、打ち合わせまでに完璧に歌詞を書いてこいと言われて。そんなの脚本もないのに無理、本当に大変だった。この曲の情景は、青山の絵画館前の銀杏並木、あそこが冬に近づいていくイメージ。あの銀杏並木は、絵画館前通りの”名作”だから。
レコーディングでは、とにかくオケが全然ピンとこなくて。自分の価値観って、詞曲だけじゃなくて、例えば、ここのパーカッションを入れたときに誰かともめたとか、そういう記憶とも密接に関わる。オートハープをダビングするんで、とあるスタジオ行った時にアシスタントが気が利かなくて。録音ブースから何度呼んでも全然気づかない、振り向きもしない。頭にきて途中で帰った。
思い通りの音にならないから、いじっていじって、ミックスダウンもベースのバランスが大きすぎて。今だったらリマスタリングで治せるんだけど、当時はどうしようもなかった。そんなことばかり覚えている。
オートハープは好きな楽器で、買ったので使ってみたいと思ったのか、使うので買ったか忘れてしまったけれど、それまでは何回か試してはいる。BIG WAVE(1985)での「MAGIC WAYS」でも使っている。使うのは思いつきだったんだけど、チューニングが大変。
あとはこの時の曲のキー。設定が高くて。この頃は「ヘロン」や「SOUTHBOUND#9」なんかでもなぜだかキーを高くしたがってる。
最初はちょっとボビー・ヴィーみたいな、というか、サザンみたいな曲が書きたかった。あの頃の桑田くんの「涙のキス」とか、もっと前の「真夏の果実」とかいい曲だな、と思って。サザン的普遍性というか。桑田くんの曲で最近一番好きなのは「月光の聖者達(ミスター・ムーンライト)という曲だけど、本当によくできている。彼という人間がよく出ている。洋楽志向から逃れられないんだけど、昭和歌謡からも逃れられないというか。桑田くんが他と違うのは、昭和歌謡の、逆に乾いた部分を持っていて、それが出るとすごく良い。桑田くんは作詞で迷うと、茅ヶ崎まで車を飛ばして、海岸で考えて帰ってくるんだと昔聞いたことがある。僕の場合は、そんな時は車で首都高をぐるぐる回るw まだ歌詞のないラララ〜しかないカラオケを爆音で流して。思いついたらどっかの公園によるか、家に帰るかして、詞を書き上げる。
カップリングには”SINGS SUGAR BABE”のライヴから愛奴の「二人の夏」を入れた。ライヴでの出来が良かったから。とは言え、カヴァーはケンカだから。あの曲の間奏は「SUMMER MEANS NEW LOVE」(ビーチボーイズのインストナンバー)で、あっちは割と適当だったからw こっちは完コピでやった。完璧にオリジナルと同じ。浜田くんはそういうところは詰めが甘いw これは冗談、最近は洒落が通じなくて本当に困る。
このシングルでは桑田くんの曲を意識したり、浜田くんのカヴァーをやったり、そういう歳周りになっていた。40歳は不惑と言うけど、正直言ってこれから先の展望に恐れがあるというか。子供も小学生だったし、この先も食っていかなければならない。僕だけでなく、みんなそうだったと思う。
安直に金儲けに走るのであれば、やり方はいくらでもある。みんながやっているようにテレビのCMに出るとか、ディナーショーをやるとか、講演をやるとか。でも、そういうのはやりたくない。それまでシンプルな活動形態でやれてきたから、それを続けていくためにも、昔と同じようにヒットとか、レコードの売り上げも必要だから、それをどう確保していくか。停滞した状況をあがきながらも、打開していこうとはしていた。だけど時代の変化が激しかった。ライヴがずっとできなかったのも、ライヴのシステムが変わって、ホールの予約なんて2年先まで抑えられてしまうようになって。そうなるとメンバーも同じように抑えられてしまうから、召集しようにも僕が育てたメンツごと、外にとられてしまう。そういうのがずっと続く。あの時に、本当に全取っ替えしてしまえばよかったんだけど。
思い返してみると、そういう状況で、あまり思い出したくもないけどw 人生いろいろなことがある。でも、まあ今がよければそれでよし。
【第48回 了】