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ヒストリーオブ山下達郎 第47回 94年4月発売、SONGSリマスター盤と”SINGS SUGAR BABE”

<”SINGS SUGAR BABE”というアイデアは以前からあった>
1994年1月にシングル「パレード」発売。これは「ポンキッキーズ」(フジテレビ)のエンディング・テーマになったので、シングル発売となった。この曲はシュガー・ベイブ時代のナンバーで『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』(1976)に収録されている。このシングルになったテイクは82年リミックス・ヴァージョン。このリミックスに関しては背景があって、アルバムに入っているオリジナルの「パレード」はイントロに長いピアノ・ソロ、エンディングにはサイケなSE。おまけに曲の始まりがフェード・イン。つまり、本編だけのストレートなテイクがなかったので、どこかでそれを作る必要があった。僕は80年代に初CD化された時のリミックスじゃなくて、オリジナル・ミックスの方が断然良かった。だから大瀧さんに頼んで、再度ミックスし直してもらったら、大滝さん、多分イメージを一新したかったんだろうけど、楽器の定位を変えたりして、バランスをいじっってしまった。「ダメ、それじゃ」って言ってw オリジナル・ミックスに限りなく近づけてもらった。この翌年に出たTREASURES(1995)にも収録されたこのテイクがベストミックスで、OPUS(2012)にも、このテイクが収録されている。
このタイアップやリリースに関して、僕は全く感知していなかったので、なんで「パレード」が「ポンキッキーズ」に使われることいなったのか、内情は何も知らない。おそらく版権がフジサンケイ系列だったから、その流れだと思う。当時は「ポンキッキーズ」からヒットがたくさん出ていたから。その「パレード」が、その後のSONGSのリマスターにつながるなんて全然考えてもいなかったし、そもそもSONGSには「パレード」は入っていない。今となっては、なぜあの時点でSONGSをリマスターしようと思ったのかも、あまりはっきりした記憶がない。一つの要素としては大滝さんが新作を出さないので、ナイアガラの作品をリサイクルして救済しよう、みたいなのもあったような。あと当時は、自分にとってリマスターがマイ・ブームだったから、リマスターできるものがあったら、何でもやってみたくてw SONGSは1975年4月にリリースされたから、この1994年は19周年。変なタイミングだけど、これについてはナイアガラ設立20周年という理由付けをしていた。リリースの背景にはそういう、いろいろなものがあった。
91年『ARTISAN』、92年『QUIET LIFE』、93年にクリスマス・アルバムも出して、自分のアルバムにはまだ早い。その上メンバーの都合とかもあって、ツアーができなくて、それで考えていたところにリイシューの話が出てきたので、どうせならついでにシュガー・ベイブの曲を演奏するライヴをやろうと。”SINGS SUGAR BABE”のアイデアは前からあった。ただ、青山純シュガー・ベイブの音に合わない。何度かトライをしたんだけど、全然、彼のキャラクターじゃなくて。シュガー・ベイブの再現なら島ちゃん(島村英二)かなと思って、じゃあその線でライヴをやろうとなった。ライヴ・ツアーができなくなって、どうしようかという時に、このコンセプトが出てきた。
まあこの時期は、それまで順調だったいろいろが狂いだして、長期戦略があまりたてられなかった。この93年には、MMGがイースト・ウエストジャパンに社名変更していて、レコード会社の状況は良かった。イースト・ウェストジャパンはワーナーグループの洋楽では、アトランティック・レコード等のレーベルを受け持っていて、当時はスノーとか、ミスター・ビッグとかのヒットが出ていて、そこにブルーハーツX JAPANも来て、邦楽も結構よかった。だから小杉さんも好きにしていいよ、って。
ARTISANから2年。アルバムが出せる状態じゃなかったけど、事業計画の中でリリースの要請はいつもあった。それならSONGSかなあ、と。いろんなファクターが重なり合った。普通なら20周年まで待つでしょ。事実、SONGSは2005年に30周年、2015年に40周年の記念盤が出ることになるし。
いろいろと整って、リマスター盤を出すことになったけれど、レコードはともかく、正直言って”SINGS SUGAR BABE”で全国ツアーをやれる自信はとてもなかった。シュガー・ベイブは東京インディーの典型みたいなバンドだったから、シュガー・ベイブの再現ライヴじゃ、地方ではお客は入らないと思ってたから。だから、東京でしかやらなかった。ファンクラブを作ったばかりだったけど、あの公演はファンクラブの優先受け付けもしなかったし。消極的というか、ごく地味なアプローチだった。
だから、まさかSONGSのリマスター盤がオリコンのベスト10に入るなんて、思ってもいなかった。初登場7位で、2週目に3位。それはそれは予想外の、嬉しい誤算だった。そういえばSONGSは16チャンネルのマルチトラックテープが長い間、行方不明で、この時期にようやく発見された。
このリマスター盤制作の現場には大滝さんやター坊(大貫妙子)はいない。誰にも触らせなかったw もともと大滝さんが、シュガーベイブは僕に帰す、と言っていたことがあって。80年代の頭くらいかな。だけど、僕はいいって言ってた。ナイアガラでずっと持つべきだ、って。
でも、この時はプレスの管理やプロモーション一切を自分のスタッフでやりたかったので、リリースはイーストウエストでやらせてもらうことにした。ようやくこの時代にデジタル・リマスタリングが満足するクオリティーになったのが大きかった。5年前だったら無理だった。マスタリングした原田(光晴)くんも当時は絶好調で、一番いい時だったから。
帯にあった「え?そんなの20年前にシュガー・ベイブがやってるよ!」というコピーは僕が考えたw 70年代の大昔から、帯のコピーなんて誰も考えてくれなかった。だから、必要に迫られて、そういうのも全部自分で考えていかざるを得なかった。70年代からずっとそうだったから、その延長で、代理店の作る陳腐なコピーなんかより、自分で考えたほうが早いし、なんたってタダだしw そうやってSPACYの頃から続いてた。まりやに関しても、そうやって決めていた。さすがに最近は、もうそこまで関与していないけれど。
シュガー・ベイブの音は、アーバンなくせして、とてもインディな、それこそドゥーワップじゃないけど、ローファイな音なんだ。それが、あの時代にはどこにもなかった。それが、偶然の産物だとしても。録音したエレックのスタジオは狭くて湿気は多いし、だから音色も暗い。でも、そういう特性がむしろプラスに働いた。当時はソニーにしろコロムビアにしろビクターにしろ、メジャーなところは皆、普段は歌謡曲をやっているレコード会社の専属エンジニアが、ひどい場合には、ロックのドラムの録り方も知らないような人が録っているから、そういうのはリマスタリングをいくら頑張っても、今の鑑賞には堪(た)えない。そういう意味では非常に奇妙な環境で。最初は不安だったけれど、今になって考えると本当に幸運というか、特殊なレコーディング環境で録れたから、94年盤も普遍性という点では何も変わらない。
  
<プロデューサーとしての大滝さんとはかなりぶつかった>
2015年の40周年のリマスター盤で、大滝さんを「エンジニア笛吹銅次の多大な貢献と功績」と称したけど、本当に変なミックスだからw でも、何をしたいかという意思は、よくわかる。村松(邦男)くんをフィーチャーしたギターサウンド主体で組み立てよう、とか、いくつかの明確な意図があったと思う。村松君はそれに応えて努力して、ちゃんと大滝さんとディスカッションして、作ってた。ター坊も作曲能力があるので、当然ながら構成とか編曲的なセンスを持ち合わせているわけで、ここで自分のピアノがどう入るとか、自分なりに考えていて。今聴くと、そういう点ではバンドの音というより、作家的な視点になっている。
大滝さんもエンジニアとしては、まだめちゃくちゃ初心者。それにこんなアーバンの音楽は録ったことがない。布谷文夫さんとか泥臭いやつを、オーバー・コンプレッションのギターサウンドで、みたいなことがあったけど、シュガー・ベイブはメジャーセブンスの音楽だから、こじゃれたコード進行は初体験だったと思う。ギターにコンプをたっぷりかけるリトル・フィート風のアプローチは、村松くんもリトル・フィートが好きだったので、そういう価値観が合っていたから。大滝さんも、村松くんをその後も長く使っていて、そういうところでは人間関係が機能していた。
僕は、大滝さんとはずいぶん喧嘩もしたけど、根本的なところに関しては共通項も多かったから。当時の大滝さんはいわゆる「キャラメル・ママ・コンプレックス」が強固にあったから、8ビートを16ビートに変えたがって、そういうところではもめたけど、コード進行とか、サビがどうとか、そういうことに関しては言わない。ドラムパターンをトリッキーにしたがったりとか、そういう事はあったけど。でもそんなのは、他のレコーディングでも日常的にあることだし。その後センチメンタル・シティ・ロマンスや、めんたんぴんのレコーディングを見る機会があったんだけど、的確なアドバイスとか、そういうことをするブレーンがほとんどいなくて。だから放任状態というか。抑制するとか、折り合いをつけるとか、本当の意味でのプロデューサーがいない。でも、大滝さんはそういうところを、根本的に把握している人だから。エンジニアとしては、大滝さんは本質的にかなりアーシー、つまりイナタいんだよね。そのアプローチがメジャーセブンスのコードと混ざって、独特の色合いが生まれた。佐橋佳幸くんが感動したっていうファクターは、そういうところにあったんだと思う。変な言い方だけど、フリーソウルとか、シティ・ポップとか称されるような、表層的な柔らかさやおしゃれさだけでやっていたら、絶対に残っていない。大滝さんのロックンロール的なイナタさと、僕らのアーバンな感じが合体したからこそ、残れた。歴史の試練に耐えられた。
大滝さんはすごく専制君主だけど、僕も専制君主だから、めちゃくちゃぶつかった。彼が主張して通ったところもあるし、僕の主張が通ったところもある。一番もめたのはシングル曲の選定で、大滝さんは「雨は手のひらにいっぱい」を、松本隆さんに詞を書かせて、シングルにすると言ったけど、僕が頑強に抵抗して「DOWN TOWN」で押し切った。当初「雨は手のひらにいっぱい」は、シンプルなサザン・ポップというか、そういうアレンジだったけど、あれをフィル・スペクター風にするというのは大滝さんの要望だったから。ここまでは受容する、ここからはイヤだ、そういうのはあった。
音楽的なことや、オーディオ的なことよりも、とにかく問題だったのは契約的なことでw 演奏料が出ないとか、食事代が出ないとか、給料がもらえないとか、(事務所である)風都市の問題で。
それにエレック・レコードも、既にかなり危ない感じだったし。
オーディオ的な不満としてはスタジオの天井が低くて、湿度もすごかった。僕も自分で(自主制作盤の)「ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY」を作ったりしていたから、オーディオについては、それなりの知識はあった。大滝さんも本当は自分の所(福生45スタジオ)で録りたかったんだけど、まだ機材が入ってなかったから。もし福生で録っていたら、どうなっていたか、とも思う。でも、ミックスダウンは六本木ソニーでやっているので、最終の仕上がりはちゃんとしている。
SONGSは完全なガレージ・ポップ。でも、大滝さんはエンジニアとして才能あるよ。今聴いても、そう思う。だてに音楽、聴いてない。例えばトッド・ラングレンはマルチミュージシャンだから、彼のエンジニアリングって割と偏った部分がある。大滝さんは楽器弾きじゃないぶん、逆に観察眼とか、そういうものを持っている。何でもできる人よりも、そうじゃない人の方が、分析力があったりするものなんだ。
大滝さんはずっとSONGSに関しては引け目があったと思う。プロモーションとか、展開とか、そういうの思うようにやって来れなかったと言う。だから原盤を返すとか、そんなことも言っていた。この最初のリマスターの時も、あまり口を出さなかった。結果として、出来に関してはそんなに不満はないし、彼もエンジニアとしてはそんなに不満はなかった、と僕は思ってるんだけど。
大滝さんの感想は、この94年盤のライナーノーツに書かれてた通りだと思う。そのことについて、特段、彼と話した事はない。サンソンで新春放談を始めていたから、SONGS特集もやったけど、大滝さんと何を話したかはあまり覚えていない。これは聞いた話だけど、”SINGS SUGAR BABE”を大滝さんが観に来てて、あまりにナイアガラ色が強いので驚いて、「ココナツ・ホリデー」でついに泣いたらしい。自分では言ってないけど、見た人が何人かいる。恥ずかしいから、トイレに駆け込んだらしい。大滝さん、見えっ張りだからw まさか「ココナツ・ホリデー」をやるとは思わなかったんだろうね。
CDのボーナストラックには「LF(ニッポン放送)デモ」から4曲。74年にシュガー・ベイブをやるにあたって、LFの銀河スタジオで4曲、4トラックレコーダーでオリジナル・メンバーで録音。そのデモを持って、レコード会社と契約することになっていて、東芝に内定してると言われてたのに、結局エレックになった。この94年盤リイシューではその4曲と、荻窪ロフトの解散ライブ(76年3月31日、4月1日)の音源が3曲。2チャンネル一発録りで、バランスは最低で、音質的な問題もあるけど当時はオーディオ的には一番これがマシだった。次の30周年記念盤のボーナストラックはさらにローファイになっていくけれど。
この頃はCDのリイシューっていうのが、ボーナストラックをつけて付加価値を上げるというマーケティングになっていった時代で。アナログ時代って、3、4年経つと廃盤になって、それで歴史の彼方に消えていくんだけど、CDが出てきたので、そうやって一度精算されたものが、まるで亡霊のように復活する。そこからレディメイドとか、エレベーター・ミュージックとかが、始まる。商売くさい話も含めて、付加価値の一環としてボーナス・トラックが付く、という。あとはCDの方が収録時間が長いので、それへの対応という意味もある。
  
<あくまでも、シュガー・ベイブの”再現”としてのライヴだった>
89年に青山のレコード店「パイド・パイパー・ハウス」が閉店した時、六本木ピットインでクロージングパーティがあって。シュガー・ベイブの初代マネージャーで、店長の長門芳郎くんが、パーティで再結成して演奏してくれないか、と頼みに来て。でも鰐川も寺尾くんも引退してるから、ベースがいないし、ドラムのユカリも当時は足を洗ってた。ター坊も絶対にイヤだって言うから、それはできないって断ったの。でも、僕も芸人なんで、最後にステージに上げられそうな予感がして、その当日、酒は飲まないでいた。案の定、何かやれということになって。ドラムの野口とギターの村松くんはいたけど、エレキギターがなかった。あったのは生ギターが2本とエレキベース。ター坊はイヤだって言ってるし、そんなんじゃ、やれって言われても、と。そしたら佐橋が「僕、DOWN TOWNのベースなら全部わかります」って言うんだ。でもピアノが居ないな、ってところにアッコちゃん(矢野顕子)が「私がピアノ弾いてあげようか」って。「曲知ってるの?」「何とかなるわよ」って。それで始めたんだけど、村松くんはヘベレケ、佐橋も、本当に曲知ってんのかよ、という状態w そんな中でアッコちゃんだけが、僕とアイコンタクトで完璧に演奏してくれて。ありゃ天才だと思ったw その夜の一件で「シュガー・ベイブの再結成はない」と確認できた。
シュガー・ベイブへの回帰はPOCKET MUSICの時にその気持ちはあったけれど、デジタルへのストレスで、もろくも崩れ去った。「土曜日の恋人」が1曲目で、「SHOW」みたいな幕開けになるかと思ったら、全然望んだ音にならなくて、あえなく挫折、なかなか思い通りにはいかない。常にシュガー・ベイブへの思いはあった。僕のルーツだから。「MY SUGAR BABE」なんて曲も書いてるし。みんなシュガー・ベイブは僕のワンマン・バンドだったというけど、実際その通りだった。
まりやのシングル「幸せの探し方」(1992)で、ベースの寺尾くんがフランス語の歌詞をつけてくれたけど、歌詞が必要だったから彼に頼んだだけで。まりやが慶應の学生だった時に、彼が一学年上で、シュガー・ベイブのメンバーだったから、その時から寺尾くんのことはまりやは知っていた。歌詞を頼んだ時、僕は彼と何年かぶりに会ったけれど、シュガー・ベイブの話などしてないし、彼は既に字幕翻訳者として、立派な成功者だったから。彼はオーディションで、入った時、シュガー・ベイブの曲をよく知っていて、完コピしてた。才能があって、ベースはうまかった。それにユカリとよく合ってた。
いずれにしろシュガー・ベイブの再結成は100%あり得ない。だったら自分のライヴのメンツでやろうと。それで島ちゃんに叩いてもらえば、シュガー・ベイブを再現できる、って。
結果、メンバーはドラム島村英二、ギター佐橋、ベースが広規、キーボードが難波弘之重実徹、コーラスに楠瀬誠志郎、佐々木久美、高尾”candee”のぞみ。ゲストにター坊。佐橋に関してはもともと目をつけていた。もっとも”SINGS SUGAR BABE”に関しては、全部書き譜だったから、佐橋の目が点になってたw
当時は再結成と勘違いする人もいたけれど、そうではなかった。元のメンバーからしたら、なぜ呼んでくれなかったのか、というのがあったかもしれないけれど、演奏力は別として、時間がないし、書き譜で全部やるから、読譜力があるか、アンサンブルの能力があるか、僕の要求に応えられるかが、大事だった。ワンマン・バンドですから。その後の30周年や40周年でゲストで出てもらうとか、そういう価値観を持っていない。アマチュアの同窓会じゃあるまいし、お金をもらって人に聴いてもらう以上、そんな和気あいあいみたいなことをすべきじゃない。「革命とは、客を招いてご馳走することではない」という言葉がある。
公演は中野サンプラザでの4公演のみ(94年4月26日、27日、5月1日、2日)。そんなにお客が来るわけないと思っていたから。本当にそう思っていた。そしたら、あっという間にチケットは売り切れ。アルバムもあんなに売れるとは思わなくて、本当に意外だった。アルバム発売に関しては、今までやったことのないような宣伝も、いろいろした。チラシをライブハウスに置いてもらったり、自分と同世代の人たちのコンサートでも配ってもらったり、全国のイベンターが協力してくれて。そういうのも意外と効果があったのかもしれない。
シュガー・ベイブの評価で言えば、活動当時、すべてのミュージック・ジャーナリズムは、自分の持っている既存の知識の中でしか解釈できなかった。本来、幅がなければいけないものなのに。ロックンロールというのは一言で言ったら、寛容さ。悪く言えば、ロックンロールは雑居ビル。雑多なものを何でも吸収して、それをロックと言えば、全部ロックになる。寛容さの音楽。
   
<演奏に対するパッションがあれば、古いも新しいもない>
中野サンプラザでのライヴで、シュガー・ベイブはほぼ再現できた。非常に満足のいくライヴだった。JOY2を出すときは、この”SINGS SUGAR BABE”だけで1枚にするつもり。声もよく出ていたし、非常によくまとまっている。シュガー・ベイブコピーバンドだと思えばw 僕もまだ40歳だったし。「ドリーミング・デイ」なんかはJOYに入ってるのより、全然出来が良い。3348(デジタルレコーダー)が良い時の録音だから、デジタルのコンディションが良いし。アーカイブもできている。
ライヴのメンバーはほぼ全員が、同時代の東京の人間。広規はあの時点で15年ぐらいやってやるし、難波くんも同じ。佐橋は何といってもシュガー・ベイブを中学の時に観ている。結局は空気なんだ。テクニック的なものは同じようにできても、1975年の空気がわかっていて、その時の洋楽、邦楽も含めての、空気感みたいなものをわかっていないとダメ。島ちゃんもその時代からバリバリの現役で、面白いことにユカリと野口の中間の味わいで、ちょうど良かったというか。島ちゃんしかいなかった。あのラインナップは鉄壁だった。
シュガー・ベイブが作家的なバンドだから、そういう意味でははっぴいえんどに似ているかな。ただ演奏力がついていかないw そういうきらいがあるんだけど、演奏力が全体的にもうちょっとあったら、もっと仲良くなれたかもしれない。ター坊がゲストというのは必須で。彼女と僕でシュガー・ベイブだから。このアルバムに入ってる曲はもちろん「約束」とか、入ってない曲も重要で。彼女も最初は出るのを渋ってたけど、あの時のステージは、結局自分のライヴ・アルバムに入れているから。
鈴木茂砂の女」や伊藤銀次「こぬか雨」、愛奴の「二人の夏」を演奏したのも意図的。1975年の時代感覚というか。実際に「砂の女」は当時も歌っていたし。「ココナツ・ホリデー」もその延長で。後は大滝さんの「指切り」。全部、当時の自分の周りにあった曲。愛奴はしょっちゅう一緒にライブをやっていた。
懐メロとかそんな意識でやったことは一度もなくて。何度も言ってるけど、パッション。演奏に対するパッションがあれば、古いも新しいもない。1年前に出た曲だって、やる気のない演奏なら、立派な懐古趣味になる。とかく新しいものが一番優れているという、妙な錯覚があって。それで10年20年経つと、あれはオールドタイムだ、オールドスクールだって。そんなのはただの営業戦略でしかない。新しいことが売りになるのは、粗雑な純真史観で。
例えば、人は無限に曲を作り続けられるわけがないし、人生で8曲、シンフォニー(交響曲)を書いたら、大作曲家だし、作ったって演奏もされない作品なんて、いくらでもあるわけで。そういう中で何をもって現役になるかというと、結局、基本的には演奏のポテンシャル。あと音楽は、特にコマーシャル・ミュージックは生活の対象化だから、それを聴いていた時に彼女と海辺を歩いていたとか、そういう記憶と不可分で。それに対し、審美的な音楽というのは、それよりも、もうちょっと先へ行くというか、生活の対象化の中に、現代的な今の自分の視点がオーバーラップすることによって、普遍性が生まれる。だから、94年のライヴの時だって、懐メロ・ショーをやろうとか、そんな意図は全くなかった。古いなんて言うやつは来なくていい。
エリック・クラプトンとかジャクソン・ブラウンとか、そういう人は全然古びていかないけど、ゲイリー・ルイスとかスタイリスティックスとか見ていると、悲しくなってくる。アース・ウィンド&ファイアーもそう。でもP-FUNKは大丈夫なんだ。その差は何か。現役とは何か。
その意味で、今まで一番印象が強かったものの一つが、B.B.キングだった。東京ドームでやったU2のライヴ(1989年)の前座で観たんだけど。それまでは、もっとずっとエイギョー臭いショーだった。だけど、映画「Rattle & Hum(魂の叫び)」で、のU2B.B.キングを引っ張り出してきて、そこから明らかに変わった。もともとBBキングは本物だから。いきなり神がかってきて、その後は死ぬまで変わらぬポテンシャルを維持してた。
同様のものにチャックベリーの「HAIL!HAIL!ROCKN’ ROLL」がある。テイラー・ハックフォードが監督した映画で。詳しい説明は省くけど、キース・リチャーズが、不安ではあるけど人間的に問題のあるチャック・ベリーのために、いびられながらも、彼の還暦ライブを企画する。有名なシーンが、間奏でチャック・ベリーキース・リチャーズのところに来て、キーを変えていいか聞くんだけど、ダメだと首を振られて、苦笑いしながら帰っていく。でもチャック・ベリーも一流だから、30分、1時間と経つうちに、だんだん本気が出てくる。これはすごいなと思った。
現役とそうでないものの差って、本人がコントロールできるものもあるけど、そういう環境とか、秘められた自意識によるものが、すごく大きい。だからB.B.キングチャック・ベリーも、自意識を外から引っ張り出されて。まあチャック・ベリーは元の日常に戻るんだけどw B.B.キングはそこから本当に生まれ変わる。あれは不思議。
そういうことって、実はたくさんある。昔「サンデーソングブック」に「ブライアン・ウィルソンも、エリック・クラプトンも、もう歳で、これからは衰えていくだけ」なんて葉書が来たことがあって、「いや、それは違う、クラプトンはルーツ・ミュージックだから、基本的に本人のパッションさえあれば、いつまでもエヴァーグリーンでやれる」と反論したことがある。ルーツ・ミュージックってそういう質だから、うらやましいと思う。ドクター・ジョンなんかもそう。もともと古いからw 
ドゥーワップもまさにそう。ON THE STREET CORNERのコンセプトって、もともと古いものだから。それ以上、絶対に古くならない。そういうことを、ずっと考え続けざるを得なかったのは何故かと言うと、シュガー・ベイブのような音楽をやったから。ロックじゃないだの、古臭いだの、散々言われたけど、自分はそれがいいと思っているわけで。自分がいいと思っている音楽をベースメントにして、構築しているだけだから。
“SINGS SUGAR BABE”では、和気あいあいと、ただの同窓会になるのは嫌だった。それと無意味な扇動性のない、抑制された表現というか、ひとつのまとまりというか、その上で観客に対するアピールする力。そういうのがないと、所詮、滅びていく。観客と演奏者側とが、それを相互に感じられる能力がある限りは、継続できる。このライヴも、自分の中で過去と現在を重層的にフォーカスする、という発想でやっているから。あれは、なかなかよくできたライヴだった。ツアーをやっても、よかったかもしれない。SONGS40周年記念盤が出た2015年の自分のツアーでは、シュガーベイブのナンバーを結構意識的にフィーチャーした。ちょうどコーラスにハルナが入ってきて、声キャラがちょっとター坊に似てるから、やれるかなと思って「すてきなメロディー」をデュエットしたら、いい仕上がりになった。
“SINGS SUGAR BABE”のライヴで、最後に「MY SUGAR BABE」を歌ったけれど、それで終わろうと思っていたから。RIDE ON TIMEがヒットした時に作った曲で、ブレイクしたらシュガー・ベイブの歌を作ろうと思っていた。
そういえば”RCA/AIR YEARSツアー”(2002年)でも、最後に「おやすみ(KISSING GOODNIGHT)という、これもRIDE ON TIMEの最後に入ってる曲をやった。企画性の強いライヴはそういう細かいところの工夫がとても大事なのでw
【第47回 了】