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ヒストリーオブ山下達郎 第21回 スペイシー(1977年5月25日発売)

<次を作りたいって思ったこと、80年くらいまではあまり無いんだ>
1977年のアタマは1、2月が(吉田)美奈子の「トワイライト・ゾーン」で、それが終わって大滝さんのストリングス・アレンジ、たぶんシリア・ポールだったと思うけど、それをやって、その後にSPACYだから、割と忙しいことは忙しい。
あの頃は、自分の作品がそんなに売れてたわけじゃ無いから、僕みたいに副業で食べてる人は、けっこう居たと思うよ。それでこの時代あたりから、シンガー・ソングライターとスタジオ・ミュージシャンの棲み分けは、大きくなっていったような気はするね。
まだ実家に住んでたからね、練馬の。あの時代、23〜24歳の頃はスタジオにはしょっちゅう遅刻するし、ほんといい加減だったw まあ僕に限らずツアーが嫌で、東京駅に来なかったなんていう人の話もあったし。だけど僕の場合は不思議なことに、CMの時は絶対に遅れなかった。他人の仕事だとちゃんと行くし、大丈夫なんだけど、自分の仕事だとダメなのw
責任のあり方って言うかな。ファーストアルバムを作ったから、次はセカンド、という前進思考もあまりなかったしね。次を作りたいって思ったこと、実は80年くらいまでは、あまり無いんだ。ON THE STREET CORNERのあたりからかな。RIDE ON TIMEがヒットして、これでア・カペラが作れると思ったから。GO AHEAD!なんて、小杉さんにお尻叩かれて、ようやく作ったアルバムだものね。
あの頃は契約していた音楽出版社をやめたかったりとかもあって、なおさらだった。他の出版社から誘いが来てて、そっちへ行こうかなって思っててね。そういう人に言えないような細かい事情が、色々あったんですよ。まだ20代の小僧だからね。もっとも事情という点では今(2008年)だって色々あるけどw
小杉さんはとにかく行動力のある人だから。それに彼とは話のウマがよく合ったんだ。小杉さんのことを何も知らない人だと、しばしば本当にアバウトに見えるところがあって。確かに実際アバウトなところも多いんだけどw でも、すごく誠意のある人なんだ。NYとロスでCIRCUS TOWNを作った時も、えらくブロークンな英語なんだけど、物事を仕切っていく感じがすごかった。NOをちゃんと「NO」と表明できる力。何でもないことのようだけど、それが誰でもできそうで、実はできない。そういうところはたいしたもんだと思ってた。
小杉さんは元々サッカーの選手になりたくて、高校に推薦で入ったんだけど、サッカー部は坊主にならなきゃいけない、っていうんでやめて、野球部に変わって、その後ブラスバンドに引き込まれて、そこからドラマーを目指して、馬飼野康二さんと一緒にGSバンドをやったんだけど全然売れなくて、20歳までに目が出なければやめろ、っていう兄貴の言いつけを守って、20歳でやめて、NYの大学に行って、途中で帰ってきて、音楽出版社に入って、でもどうしてもレコード会社のディレクターになりたくってRCAに入って、っていう人でw
初めて会った頃は、バンダナしてヒゲをたくわえてて、ダビデの星のペンダントを付けて、アルパカのジャケットに蛇皮のロンドンブーツっていうスタイルだった。もう、誰が見たってヒッピーだよねw 小杉さんのことは、最初はレコード会社のディレクターということでしか見ていかなったけど、70年代の末から、それ以上の役割になって行った。
とにかく70年代は、結果的にだけど小杉さんが常に「次、作ろう」ってしつこいくらいに要求して来たので、しょうがなく作った、っていうのが正直なところで。特にIT’S A POPPIN’ TIMEとGO AHEAD!は完全にそうだった。SPACYの時はまだ編曲のスコアを書くのが面白かったから、どんなアレンジにしようかって、それで一所懸命だった。低予算でも限られた中でどういう曲を書くか、っていうアイデアがすごくあったし。もっとも、それは売れる売れないとは、全く別だったけど。手抜きが出来ない性格だから、始まればやるけど、でも怠惰な性格だからw 始めるまでは、あまりやる気が起きなかったんだよね。
とはいえ、例えば「ソリッド・スライダー」なんかは坂本(龍一)くんとやっていて、あの長尺のソロは当時そんなもんだと思ってたけど、今から考えると、坂本くんはとても上手かったし、そういう部分では上手いミュージシャンと一緒にやれていたのは幸運だった。人にはとても恵まれていたと思うね。自分ではあまりモチベーションが上がっていなくても、そういう人たちが、結果的にいい演奏で助けてくれた。
だから「ラブ・スペイス」にしても何にしても、あのメンツであの演奏でなかったら、ああいう感じにはならなかったしね。それは計算が上手い具合にはまったというか、予想以上のものが出来たのね。
   
<だいたいは2テイクくらいでOKだった>
あの頃はスタジオ・ミュージシャンなんてのは、見知らぬ人間にはみんな無愛想だった。ティン・パン・アレイの人たちも無愛想だったけど、それ以上に(大村)憲司とか大仏(高水健司)なんて、もろ職人気質だし、空気が怖くて、とても人間関係なんて作れなかった。松木(恒秀)さんも東京人らしいベランメエな人だったから、何かというと「あいつ生意気だ、ポンタ、ヤキ入れろ」w そういう世界だった。
ポンタはそんな中で、そういうところがすごく優しい人でね。ずいぶん助けてもらったよ。SPACYのレコーディングでも、松木さんは初対面の細野さんが気に入らなくてさ、愛想が悪いって。まあ松木さんが気に入る人なんて、あまりいないんだけどw それをポンタが一生懸命とりなしてね。
細野さんのベースって、パッと見はまったりとして、地味なの。だけど、次第にじわじわとくるベースだから、あの良さが初対面の5分や10分でわかるわけもないからね。細野さんは本当に優秀なベーシストだからね。フレーズのバリエーションの豊富さといったら、驚くべきものでね。そういう部分は短時間のスタジオじゃ、なかなかわからないもの。SPACYの解説でも書いてるけど「キャンディ」のセッションの間に、あの人がピアノでコードを確認している姿を見た時には「この人は研究熱心な人だな」と思ったよ。本当の音楽家だよね。時代もそういう空気に満ちてたんだよね。
今はそういうのが希薄になってしまった。とにかくスタジオでは知らない者同士は、ほとんど口をきかない。それは今でもそうさ。ニューヨークのセッションは、フレンドリーな人とそうじゃない人が両極端だった。ミュージシャン同士も、見知った間柄と、そうでないのとでは感じが違ってたな。日本だって、いつも一緒にやってるメンバーだったら和気あいあいとしてるけど、SPACYの場合は初対面がいたからね。
何度も言うように、僕の妄想から生まれたセッションだからね。それは他人行儀だよ。みんな黙っていて、ポンタが一生懸命それをとりなすの。その上、みんな僕より年上だったしね。細野さんが6つ上でしょ。佐藤君はもっと上(実際は細野さんと同年)、松木さんが5つ上、ポンタが2つ上。僕が圧倒的に若かったんだよね。僕のひとつ年下となると美奈子、ユーミン、ター坊とか居たけどね。
若いアレンジャーもいないかな。まして歌を歌うやつが詞や曲を作ったり、編曲しても、自分で弦やブラスのスコアまで書くってのは、あまりなかったよね。今でもそんなにはいないでしょ。
テイクのOKはもちろん僕が出した。「もうワンテイクやりましょう」って。そういうところで、ぐずぐず言う人たちじゃなかったよ。だけど、大体は2テイクくらいでOKだったから。「ラヴ・スペイス」ではエンディングで細野さんが間違ってるんだけど、そんなの関係ないの、別に。グルーヴが良いんだから。本人も直すとも言わないし、誰も何も言わない。
          
<ポンタと細野さんをくっつけたらどうなるか、聴いてみたかったんだ>
SPACYの曲は割と早く出来たかなw ある程度プレイヤーを想定して。ちゃんとスコアを書いて、それでレコーディングしたから。今みたいなコード譜じゃない。すべてパート譜だった。全くCIRCUS TOWNの真似で、書き譜でキーボードの押さえ方まで書いてある。チャーリー・カレロからの学習、それを踏襲してね。
もっとも、ストリングスは完全な素人だから、いろいろああでもない、こうでもないっていうのがあったけど。吉沢さんていう指揮の方がいてね。その人がすごく親切で、ずいぶん助けてもらった。そう考えればSPACY以来丸10年、他の人に弦とブラス(のアレンジ)頼んだことがほとんどないな。書きたかったんだね、自分で。
今聴くと「アンブレラ」のストリングスとかへんてこだけど、あんなの今はできないからね。シュガー・ベイブの時代のストリングスなんて、まったくの我流でさ。そこいらで売っている参考書とかでやったんだけど、その分、結構キテレツのアイデアがあるんだよね。でも、これもありがたいことに周りの友人で、編曲の知識のある、例えば坂本くんなんかは、そういう素人芸を否定しなかったし、ずいぶんいろいろと教えてもらった。そのおかげでアバンギャルドなモノにも結構知識を持てたし。
一方の佐藤君は、もともと関西エリアのミュージシャンだったけど、鈴木茂ハックルバックあたりからティン・パン・アレイと関わりができた。僕は佐藤くんが関西で活動していた時代から、彼のピアノがすごく好きだったんだ。74年かな、シュガー・ベイブでまだ野口明彦がドラムだった時代に、新宿に「サムライ」っていうピットイン系列のライブハウスがあって、そこで2回ほどやったんだ。2回目の時に大阪から「オリジナル・ザ・ディラン」と言って、トン(林敏明)のドラム、田中(章弘)のベース、石田長生くんのギター、それに佐藤くんというリズムセクションに、西岡恭蔵さんや大塚まさじさんあたりから始まって、入道だとか、ホトケだとか、いろいろな関西ヴォーカリストが、入れ代わり立ち代わり乱入してくるって言う、一種のセッション・ユニットだったんだけど、僕はそのリズムセクションに、とてつもないカルチャーショックを受けた。特に石田くんのギターと佐藤くんのピアノには驚愕したんだ。演奏力の凄さね。一晩、悩んだもんね。
その後、佐藤くんはトンや田中とハックルバックに参加して、そこからティン・パン・アレイにも加わるんだけど、ティンパン時代の佐藤くんて、本当にカミソリみたいな演奏態度でさ。スタイルもまるでダニー・ハサウェイだったから、なんで日本人にこんなことができるんだろうって。彼は作曲、編曲にも秀でていて、美奈子のRCAでのファーストアルバムの「レインボー・シー・ライン」っていう彼の曲で、そのピアノを聴いて、いつか是非お願いしようと思ってた。口数の少ない、愛想の悪いオヤジなんだけど、上手かったもんなぁ。ユカリと同じで、自分の思い通りにしか演奏できない。人に合わせられないというか、不器用なんだけど、他の誰にも弾けないピアノなんだよ。しかもピアノは完全な独学と来てる。SPACYでは3曲弾いてもらったけど、使ったテイクは2曲だった。残りは坂本くんが2曲、彼には他にもダビングでいろいろ頼んでいる。あと残り「ダンサー」や「アンブレラ」なんかは自分で弾いてる。
佐藤くんとはこれ以降、ここぞ!と言う重要なポイントにはいつも頼んでいる。特にバラードはね。最近でも(竹内)まりやの「明日のない恋」(2007)とか、還暦越しても、全く衰えていない。あの人は、僕より歳がすごい上なので、当時はとてもミステリアスで、人を寄せ付けないオーラというか、そういうのが強かったけどね。今ではすっかり丸くなって、ドリカムのバンマスやってるw
まぁあの頃はみんな尖ってたよね。今から考えるとポンタ、松木さん、細野さん、佐藤くん、よくこのメンツでやってくれたよね。でも、まぁそれが目論見だったんだから。細野さんはエンディングとか間違えたり、全然そういう意味ではスタジオな人では無いから。もっともそんなことに限らず、誰も譜面なんかろくに見てやしないw 結局スタジオ・ミュージシャンといえども、本当に優秀な人たちなら、そんなにコテコテに譜面に書かなくとも、ある程度自由裁量を残した方が良い結果が生まれる、そういうことなんだ。で、これ以降譜面がどんどん簡単になっていくw
細野さんとも、元はあまり交流もなかったんだけど、シュガー・ベイブのマネージャーだった長門芳郎くんがティンパン(の事務所)にいたでしょ。76年初めに長門くんの結婚式で、細野さんと一緒に長崎に行ったんだよね。その時4日間くらい細野さんと一緒にいて、色々と話をして。その時も、別に思い切り打ち解ける、というほどでもなかったけど、でもまぁその辺からかな。
細野さんはどんなドラムでも大丈夫なの。だってミッチ(林立夫)とか、ユカリともできるし(高橋)幸宏でも、ポンタでも、要するに、誰でも大丈夫なんだよ。はっぴいえんど時代には松本隆さんでしょ。実はリズム・セクションではベースの方が牽引役なんだよ。ドラムとベースで一見ドラムの方が華やかでリードしてるように見えるけど、実はベースの方が重要でね、ベースがイニシアチブを握っている方が、良いリズムセクションの場合が多い。ベーシストってキャッチャーなんだよね。ピッチャーの方が派手だけど、バッテリーは優秀なキャッチャーなしには成り立たないからね。夫婦と同じで、ベースは女房役だから。細野さんはそういうところがすごいよ。ある意味日本で最高のベーシスト、世界に出したって遜色は無い。
そのうえ細野さんは楽器扱いの天才だからね。インテリな人だから、いろいろ他にも興味あるんだろう。だからYMOになるんだと思うよ。細野さんは当時の僕にとっては、かなり年上だったし、はっぴいえんどというステータスも大きかった。どんなにすごいミュージシャンでも、その人とパーマネントにやりたいかって言ったら、それは無理だなっていうのがある。だからSPACYの時に、これは千載一遇のチャンスだと思ったんだ。ポンタと細野さんをくっつけたらどうなるか、っていうのも、すごく聴いてみたかったんだ。
音楽の世界っていうのは、東京生まれか、田舎で育ったか、金持ちなのか、貧乏人なのか、中卒なのか、東大を出ているのか、階層とか階級とか、出自の違いなんて全く関係なく、そういった属性の格差より、音楽性のレベル、表現技術の力量っていうのが、もうどうしようもない格差となって立ちはだかる。
下手な人は、上手い人とはできない。一緒に演奏できる身の丈、資格っていうのが厳然とあってね。音楽での意思疎通、音の中で言いたいことが言えないと、音楽ではコミュニケーションが取れない。それでもね、悲しいことに、人間の相性っていうのはいかんともしがたくてね。同じ技量の人たちが、みんな仲良しになれるわけでもない。そこで再び属性のしがらみが顔を出す。
まぁそれはともかく、もうちょっと予算があったら、違う順列組み合わせでもできたんだろうけど。でも、ここから何年間か、そういう模索をして、いろいろ試したんだけど、結局スタジオ・ミュージシャンとやることの限界、っていうのがやっぱりIT’S A POPPIN’ TIMEあたりから出てきてね。スタジオ・ミュージシャンというのは時間単位で雇用する、短期決戦型の職業演奏家。だけど、彼らも人間なので、今僕が言ったみたいな人間のウマが合うみたいなことが必ずある。一見しがらみのない仕出し屋みたいに呼ばれてきた仕事でも、あいつは嫌いだとか、あいつとあいつは仲が悪いとか、そういうことを結局、誰が気にするかって言ったら、バンマスなわけだよね。結局長いことやって、だんだん人間関係の軋轢が出てきて、あいつを替えろ、とか始まって、そのストレスが溜まってくると、行き着く先は、自分のパーマネントバンドを持ちたい、と。
さらに何よりの最大の問題は、スタジオ・ミュージシャンは誰でも雇えるが故に、音を独占できない。つまりサウンドの個性とか、差別化が作りにくくなる。どこに行っても、誰もがポンタや岡沢(章)さんのベースでレコーディングしてるから、結局、今のマシン・ミュージックと同じことになってしまう。僕はバンド上がりだから、自分だけの音じゃないと嫌なんだ。
そこの結論に行くまでに、だいたい2年ぐらいかかってるんだよね。これらの2つの問題は自分の作品のオリジナリティーを考える上で、やがて非常に大きな問題になっていった。
      
<CIRCUS TOWNとSPACYは段取りを整えるための実験作>
ミュージシャンの技量を考える上で、CIRCUS TOWNとSPACYの時代は、実に貴重な教訓を与えてくれた。SPACY(77年4月25日発売)を出した後に野音開きのライヴに出たんだよ。
4月29日だね。その時には、知人の紹介で知り合ったドラムとベースに坂本くんのキーボード、それに僕の4人でリハーサルを始めたんだけど、練習スタジオで2日やっても、出来に全然満足出来ないの。僕はそれまでライヴでスタジオ・ミュージシャンを使おうなどとは、夢にも思ってなかった。だって、ステージのギャラがめちゃくちゃ高かったから。だけど、背に腹はかえられない。しょうがなく中野サンプラザ野口五郎だったか、あいざき進也だったかのステージをやってる大仏に会いに行って、直接交渉してスケジュールをもらった。ポンタにも同じようにして、それで再び練習スタジオでリハやったら、4曲が15分で出来ちゃった。そこで考えが変わったんだよね。これはスタジオ・ミュージシャンとかの問題ではなくて、絶対に一流を使わないとダメだと思った。CIRCUS TOWNでも同じような体験をしたけど、やっぱりミュージシャンの一流、二流って厳然としてしてあるんだと。それを予算とか時間とか、そういう問題で妥協しちゃいかん、ていうね。ソロになった1年くらいで痛感した。
だからCIRCUS TOWNとSPACYの2枚は、そういう意味では、行動的な習作というか、音楽自体よりも、それを作るためのいろいろな段取りというか、ライヴも含めてね、段取りを整えるための実験作ってことなんだね。だからコーディネーションでもって、すごくクオリティが左右されるっていう。当たり前なんだけどね。やってみて、わかることがたくさんあった。そういうことの学習として、すごく役だったんだ。
で、運が良かったのは、事務所がすごく脆弱だったこと、レコード会社も無関心だったから、そういうケアをする人が誰も居なくて、交渉を一人でやったこと。それでわかったんだよね。楽器を自分で運ぶとか、そういうことより、もっと大事なことがあるって。だからSPACY以降のライヴはスタジオ・ミュージシャンに頼むことにした。いくらギャラが高くても、結局上がりが早いし、クオリティも高いから、そっちの方が得だってことが分かって。
そこからポンタ、大仏、松木、坂本のリズムセクションで、時々ライヴをやるようになった。途中からベースが岡沢さんに代わって、その結果がIT’S A POPPIN’ TIMEになる。そういうとっかかりっていうかね。そこまで、バンドをやめてから1年ちょっとなんだね。その間に「トワイライト・ゾーン」で良い経験をして、そこで吉田(保)さんと出会って、吉田さんがエンジニアをやって、ストリングスの録音とかに関わりだして。NIAGARA MOONや「夢で逢えたら」のスコアを書いている時分は、まだそんな裏側の事なんて、何もわからなかったから。若い頃っていうのは1年、2年でスポンジみたいに。どんどんいろんなことを吸収していくからね。機材の入れ替わりも、当時は日進月歩だった。僕がCMを始めた頃は、まだ卓が4チャンネルだったけど、77年には16チャンネルで取れるようになって、すぐに24チャンネルになる。そういう進歩の時期だった。
      
<会社に戻ってマスターを渡したのが朝9時だった>
スケジュールのタイトさならCIRCUS TOWNよりもSPACYだね。だって、自分で全部作ってるんだもの。当時RCAは、渋谷の宮益坂上の朝日生命ビルというプレハブ・ビルの中にあってね。そこに第一編集室、略して「一編」と呼ばれる小さなレコーディング・スタジオがあった。既成のスタジオは、予算がなくてとても使えなかったから、レコーディングはそこでやってたのね。スタジオはいろんな人と共用だったから、集合時間は12時〜17時と、18時〜23時に分けられていた。その上、保険会社のビルだったからセキュリティーがすごく厳しくて、23時を過ぎる場合は前日に稟議書(りんぎしょ)を出さないと、使わせてくれない。だから1日5、6時間しかレコーディングができない。だから、ますますタイトになる。歌入れなんか、間に合いやしない。
ミックスダウンの最終日、つまりマスター納入の締め切り日、まだ大量に作業が残っていた。18時からミックスを始めたけど、全く間に合わなくて、深夜に既成の貸しスタジオに移って、そこで朝の3時に「朝のような夕暮れ」にシンセを入れたいって言ったら、スタッフがみんな呆れてね。だって、入れたかったんだもんw 会社に戻ってマスターを渡したのは、朝の9時だった。でも、SPACYの時は本当にノー・プロモーションと言っていいよ。チラシ1枚で、取材もほとんどなかったし。
5月27日、ヤクルトホールでのセカンドアルバム発売記念コンサート。この時は、お客はよく入ったな。600人のキャパに880人も入れてたんだよね。スシ詰め。しかも事務所の方針で、招待はたったの二人w この時に「三ツ矢サイダー’76」の一人アカペラを初めてやったの。それがめちゃくちゃウケたんだよ。これはいいなと思って、そこからドゥーワップの多重に発展していく。
ライヴはこれ以降も時々やるけど、僕の場合、幸運なことに、東京ではいつもお客はいっぱい入ってた。それはシュガー・ベイブ以来ずっとで、それだけはありがたかったな。人のライヴに行くと1,000人のホールに100人とか平気であったから。この時はGOD ONLY KNOWSをステージでやってさ、間奏の大仏のベースソロが素晴らしくて。「ラブ・スペイス」でのポンタのプレイも良かった。覚えているのはそんなことばかりで、歌の出来とか全然覚えてないw 
声が出ていたのかとか、そういう自分への評価が全然残ってなくて、ただひたすら段取りだけ考えて、やっていたというかね。セットリストも覚えてないし。アンコールは何をやったのかなあ。「DOWN TOWN」はこの頃、やってなかったしね。なぜか嫌がったんだよ、みんな「DOWN TOWN」を。GO AHEAD!が出て、渋谷公会堂でライヴをやる78年暮れまで「DOWN TOWN」はステージで出来なかった。スタジオ・ミュージシャンのお好みじゃなかったんだ。
【第21回 了】