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ヒストリーオブ山下達郎 第52回 COZYツアーとON THE STREET CORNER3発売(99年11月)

<”伝説ライヴ”に出て大丈夫だと思ったから、ツアーを決めた>
1998年8月にオリジナルアルバムCOZYが発売され、その年の10月から翌99年2月まで全48公演のツアーPerformance’98-‘99が始まった。
この頃の数年間は、スタジオやミュージシャンについて、トラブルの連続だった。やれるところでやるしかなくて、何とかアルバムを作ったという感じ。そうこうしているうちに、98年くらいになってようやく制作環境が整って、いろいろ元に戻ってきた。スタジオもプラネット・キングダムに変わって、ミックスもそこでやれるようになった。その前にKinKi Kidsの「硝子の少年」をやったのが大きい。ほんとにあのおかげで、曲を作るモチベーションが戻ってきた。96年11月に小杉さんがワーナーの会長を辞めてスマイルに専従、それもあって「ヘロン」とかタイアップも増えて、COZYにつながった。それにツアーを考えたときに、体調不良だった青山純も回復してきたというから、確認の意味で”伝説ライヴ” (福岡サンパレス98年2月26日)に出て、これだったら大丈夫と、スケジュールを切ることになった。バンドでのライヴは、94年SINGS SUGAR BABE以来、ツアーなら福岡にも行ったARTISANツアー以来、6年ぶり。
“伝説ライヴ”はCOZYツアーの前哨戦となった。青山純でツアーができるか確認したかったので、甲斐バンド名義のライヴで叩いているというので、チケットを買って、新宿厚生年金会館に観に行ったら、ちゃんと叩いていたから安心した。たまたま知り合いのスタッフにも会ったので、様子を聞いたりもした。ライヴでの演奏が良くなければ、声は掛けなかったと思う。とはいえ、この98年に復帰して、2002年くらいにまた体調が悪くなるんだけど、2000年のまりやのライヴは問題なかった。
ギターの佐橋佳幸くんはSINGS SUGAR BABEからそのままスライドして、ツアーには初めて参加してもらった。彼のソロアルバム『TRUST ME』(1994年)も僕がプロデュースしているし、清水信之EPOの後輩だから。いわゆるウェストコースト派というか、ダニー・クーチ、ジョン・ホール、ジェームス・テイラーアンドリュー・ゴールドなんかが好きで、歌伴が上手いやつだというのを知っていたから。ただ、R&Bに関してはどうだろうと思ったけど、別にそんなのどうでもいいやってw  もちろんスタイルはいろいろあるけど、重要なのはタイムとか、アンサンブルに対する心構え。むしろ、そういうものの方が大事。あとテクニック的に他のメンバーがそれを許容するか。あいつ下手だよな、ってなると、それが一番問題。
コーラスは、高尾Candeeのぞみが急逝(98年)してしまったので、佐々木久美の紹介で、国分友里恵を入れて。佐藤竹善も参加できなくなったので、かねてから目をつけていた三谷泰弘くんに声を掛けた。三谷くんも一度スターダスト・レビューのライヴを観に行ってた。
この時、僕は45歳。 普通ロック、フォーク、ニューミュージックで45歳なんていうのは、もう黄昏でw  だからこれからはおつりの人生だと思ってw  まだ、コーラスは固まっていなかったけれど、まずは青山純を入れて、”伝説ライヴ”に参加した。その時点ではツアーというものにそんなに執着がなかったから、このメンツでダメだったらツアーをやめようと思ってた。ここ最近の再開したツアーは、この先の生活の手段だと思って、きちんと計画を立てて、継続しようとしていたけど、あの時代のツアーは全て新譜のプロモーションのためだから、新譜がなければツアーをやらなかった。今思えば、別に新譜が出なくてもツアーはやってもよかったんだけど。
”伝説ライヴ”は九州朝日放送KBC)のラジオ・ディレクター岸川均さんが、還暦を迎えて、定年退職をすることになった記念として開催された。岸川さんには本当にお世話になった。イベントは4日間続いて、その1日を岸川さんのリクエストでスターダスト・レビュー浜田省吾くん、僕の3組が出て。あとの3日間はそれぞれ甲斐バンドの再結成、フォーク編、めんたいロック編だった。僕らの日の出演順も、岸川さんの希望で、スタレビ、浜田くん、僕で、最後にみんなで何か、という事だったので「BE MY BABY」と「STAND BY ME」をやった。
岸川さんと僕の絆は、とても深かった。そうでなければ、出演しない。CIRCUS TOWN(1976)の時に博多の大学の学園祭に出て、ライヴが終わって楽屋にいたところに訪ねてきたのが、岸川さんだった。「アルバムがすごく良かったので、どういう人物なのか観に来た」と。それが最初の出会い。それ以来、ずっと応援してくれた。当時はロック、ポップス、ニューミュージックは支持者が少なかったけど、SPACY(1977)が出た時も、GO AHEAD!(1978)の時も、博多へキャンペーンに行くと、KBCラジオで、たくさん番組に出る枠を取ってくれた。自分より上の世代の人で、一番面倒を見てくれた一人が岸川さん。博多の実力者で、ロック、フォークに関しては圧倒的なドンだった。我々にとっては音楽的な恩人というのはもちろんだけど、政治的にも、ものすごく力のある人だったので、例えばこのタレントのイベンターはどこにしたらいいとか、そういうところまできちんと仕切れる人だった。フォークからロックから、ありとあらゆる音楽に関わっていたけど、とりわけ生まれたばかりのロック、フォークがすごい好きで、甲斐バンドとかシーナ&ロケッツ、めんたい系のミュージシャンにとっては頭が上がらない、恩人中の恩人だった。
僕らは福岡出身じゃないけど、福岡へ行くたびに世話になった。でも、例えばサザン、ツイスト、竹内まりやあたりになったら、もうメジャーになってきて、プロモーションはテレビ・メディアでフル稼働になるし、YMOなんか最初から関係ない。はっぴいえんどの時には、まだ早かったし。ちょうど僕がソロになった時が、いい塩梅だった。ラジオが力を持っていた時代で、普段からラジオでオンエアしてくれた。まだ福岡ではFMよりAMの方が力があった。九州は九州朝日放送RKB毎日放送が二大勢力だった。RKBにも有名なディレクター、野見山実さんと井上悟さんがいて、生で必ず弾き語りをする番組「スマッシュ‼︎11」をやってた。
売れない時から支援してくれた人は忘れないから。そうやって地方局の人たちを味方につけて、全国各地の放送局に、応援してくれる人たちができた。いかにそういうネットワークを、有機的に結びつけていくか。そうすると新譜を出したときに、きちんと全国的なラジオ・プロモーションができる。レコード店にも影響力があるので、だんだんレコード店訪問みたいなものを、レコード会社のプロモーターじゃなくて、コンサート・イベンターが仕切るようになった。だから、重要なのはそこへ実際に行って、ライヴをやること。今みたいに、テレビで東京から発信するのはダメ。地方のアイデンティティーは強いから、来ない人をやってもしょうがない。だから、こちらもまめに回った。70年代、80年代はそういうノウハウの時代だった。
“伝説ライヴ”で、これでバンドは大丈夫だと確信した。これは今まで話したことがないけど、青山純が本番の10分くらい前に扉をノックして、楽屋に入ってきて「怖い」って言うんだ。やっぱりプレッシャーがあったんだね。だから「大丈夫だ」って、励ました。青山とはあれだけ一緒にやってきたから。僕とやってなかったら、かなり違った人生だったろうと思う。ミュージシャンの世界って、表面的な付き合いが多いんだ。みんな、お互いに本当の意味でのソウル・トゥ・ソウルというつながりは少ない。人の負担まで抱えたくない。音楽家というのはそういう傾向がすごくある。だからタイマンを張らない。なんとなく「元気? 今度メシ食おうか」とかだけで。だけど、バンマスをやるにはそれでは無理だから、腹を割って、付き合っていかなければならない。バンマスに統率力がなくて、アンサンブルが成立しないなんて例は、掃いて捨てるほどある。ここをこうやるとああなるけど、それはこうして、ああして、って不断に繰り返さないと、アンサンブルは成立していかない。でも、みんな願望と実際は違うというか。僕の場合は、そういうのでは心が折れない性格で、人間関係には割とタフだったから、それで怒ることも育てることもできた。プロデューサーというのは、要するにそういう仕事。音楽がどうのというだけではない。青山とはとことん付き合った、付き合い過ぎたくらい。
    
<ツアーに続いての『オンスト3』はいい流れ>
98年10月8日の府中の森芸術劇場どりーむホールから、ツアーは始まった。「SPARKLE」で始めるのは十数年ぶりだった。ステージの再現性が厳しくなってきた時代で、例えば「DREAMING GIRL」は難しい。「ドーナツ・ソング」もアレンジを変えないとダメだし。曲の構造やメロディーの変化が、だんだん難しくなってきたから。要するに歌いづらい曲が増えてきた。
80年代なら新作のツアーだったら、ほとんど新作をやっていたけれど、この時やったのは2、3曲だった。COZYツアーというより、ベスト盤ツアーのようになってしまう。なんたって、もう45歳だし。みんなヒット曲が聴きたいから。お客って、そういうもの。そうやって割り切るしかない。俺はそんなのやりたくない、というやつは大体潰れてしまう。問題は同じ条件で歌えるからとか、オリジナル・キーでいけるか、そっちの方だから。メタルの人は大変だろうと思う。
ツアー初日のセットリストにあった「DREAMING GIRL」はそのあと演奏されなかった。歌いづらいw  キーの設定も誤っていたから。「SPARKLE」や「DAYDREAM」は”伝説ライヴ”でもやった。この時は「こぬか雨」や、アンコールで「硝子の少年」もやってる。「ドーナツ・ソング」では曲間に「ハンド・クラッピング・ルンバ」を入れたり、そういう折り込みをするには格好の材料なので、一生懸命歌詞を覚えた。くどいライブw  本数も48本、結構あった。でも今聴くと、あまりいい演奏じゃない。ARTISANのツアーの時の方が全然よかった。ブランクも大きかった。
印象に残っているのは、誕生日だった2月4日のNHKホール。あとは最終日の2月11日、大阪フェスティバルホールはよく覚えている。もう1曲やろうか、どうしようか、ダラダラやって、アンコールではまりやがコーラスに加わって、演奏時間は3時間45分になった。まだ若かった。お客さんもよく聴いてくれてるw
このツアーの時は、声が出なくなるとかそういう事故はなかったけど、10月の長野から松山に行く時に、ステージ衣装がなくなった。当時はクリーニングに出す衣装を黒い靴をゴミ袋に入れていたので、間違えて捨てられてしまった。中1日で移動して、松山でリハが終わった16時ぐらいに気づいた。衣装はスーツだったんだけど、まだ最初の1着しかできていなくて、代わりのネルシャツとジーンズを探しに行ったんだけど、望むブランドが松山にない。仕方がないから、伝説ライヴの時に来た70年代のベルボトムジーンズとカントリー・シャツとブーツを使った。メンバーは全員グッズのTシャツで。三谷くんだけは自分で衣装を管理してたので、一人だけキマってたw
あとは広規の遅刻。1月20日の福山。広規がリハーサル始まっても来なくて、電話したら、まだ家にいた。これはさすがにダメかな、と思ったんだけど、広島までの飛行機に乗れて、福山到着が19時。しょうがないんで、開演を10分遅らせて、自分一人で30分、弾き語りの前座をやって、10分か15分、休憩にして本番、という。あれは広規が来なかったらどうなってたんだろう。キーボードの重実徹くんがシンセベースとかしかないか。実際、まりやはベースが来なくて、清水信之がシンベでやったことがあるって言ってた。まあ広規が遅刻したのはその時だけで、僕のメンバーは昔からみんな真面目だったw 
ツアーは99年2月に終わって、ON THE STREET CORNER 3のレコーディングに入っていく。
    
<テクノロジーの恩恵に一番あずかった作品かもしれない>
ツアーでも先に披露していた「STAND BY ME」。これはオンスト2のアウトテイクで、それを引っ張り出してきた。それと「STAND BY ME」みたいなものが意外とウケる土壌になってきた。オンスト1の時代は、そんなのをやると「またベタなのやっちゃって」とか言うサブカルがらみのやつがいたから。今でもいるけど。お前らベタの意味わかってんのか、ってw  それと「GLORIA」もファンクラブ会報のおまけCDに録音したもの。基本的にオンストの録音って、ツアーのあと、声が出ている時に録音する。
先行シングルになった「LOVE CAN GO THE DISTANCE」は、オンストといえども、もっと売ろうということになって、NTTコミュニケーションズのタイアップをとってもらった。アラン・オデイに歌詞を頼んで、遠距離恋愛の話をしたら、だったら「LOVE CAN GO THE DISTANCE」だろうと。いいタイトル、じゃあ、それでお願いします、となった。もう音はデータで送れるようになっていたから、アカペラのカラオケを送って、詞をつけてもらって。もともとはグレン・ジョーンズとか、そういうようなミディアムのブラコンぽい曲だったけれど、メロディーが好きだったので、それをアカペラに仕立てた。打ち込みのオケもあるんだけど、完成しなかった。なかなか歌いやすいメロディーラインで、我ながら気に入っている。だけど、ライヴでは歌いにくい。ライヴでのアカペラって難しくて曲を選ぶ。これを入れたおかげで、オンスト3は成立した。
選曲については、コネクションがあって。広島の仲の良いレコード屋さんが、ニューヨークでヒップホップやラップのレコード屋をやっているおじさんと友達で。その人はドゥーワップのコレクターで。僕のオンスト1、2をいたく気に入ってくれて、欲しいレコードがあれば送ってやると。半信半疑で10枚くらいウォントリストを出したら、全部送ってきてくれた。しかも、どれも素晴らしいコンディションだった。それじゃあとオンスト3をやる時「DREAM GIRL」とかいろいろ送ってくれた。それでモチベーションがずいぶん上がった。
ドゥーワップのこういう曲で、一番苦労するのは歌詞の聞き取り。インディなものって、歌詞が曖昧なのが結構多い。この中で一番はっきりしていなかったのが「WHY DO FOOLS FALL IN LOVE」(恋は曲者)。 この曲の正確な歌詞が判然としなく、出版社に問い合わせても、よくわからない。実際ビーチ・ボーイズが歌っているバージョンと、フランキー・ライモンが歌っているバージョンでは微妙に違っているし。そこで何を参考にしたかと言うと、ダイアナ・ロスのバージョン。ダイアナ・ロスはステレオなんで明瞭に聞き取れた。特に二番の終わりのところ。だから、それを決定稿にした。
「DON’T ASK ME TO BE LONELY」は最初のオリジナル・シングルを聞いても、何て歌っているのか、わからなくて。60年代中期のダブスの再録ステレオ・アルバムというのがあって、そこから聴き取った。外人に頼めば大丈夫かというと、全然そんな事は無く、英語を話す人でも聴き取れないのがある。3種類、4種類の歌詞が存在するものもあるし。その中で、どこで折り合いをつけるか。歌う人によっては意図的に歌詞を変えている人もいるから。
レコーディングはスムーズだった。スタジオもプラキンだし、エンジニアの吉田保さんも、アカペラに関しては、なんの問題もない。ソニーのデジタル・レコーダー3348の最後の頃だった。
アカペラのレコーディングは一人きりだから、他にミュージシャンもいないし、ノウハウは86年のオンスト2と全く同じだけど、この時はシンセ・オペレーターの橋本茂昭くんとデジタル・パフォーマー(音楽制作ソフト)で、ガイドデータを作れるようになっていて、テンポ管理がより自由にできるようになった。オンスト2の頃はローランドSBX-80というマシンを使って、タップ(手打ち)でクリックを作っていたけど、オンスト3では、さらに精密にテンポデータの構築ができるようになって、「THEIR HEARTS WERE FULL OF SPRING」(心には春がいっぱい)みたいな曲も、テンポの緩急を違和感なく作れるようになった。キーボードでタッピングして、ガイドのコードを入れて、それを聞いて、ここのテンポがおかしいと感じたら、修正していく。オンスト1の時代は、そういうのが全て、マニュアルの手作業だったから。テクノロジーの進歩は凄い。テクノロジーの恩恵に最も預かっているのは、オンストかもしれない。
もともとアカペラは、1日で1曲録り終わらないと、バイオリズムが変わるからダメになる。翌日になると、どんなにがんばっても縦の線が合わないから。もちろんメイン・ヴォーカルは、別の日に録るけれど。
今はYouTubeでも、ひとりアカペラみたいなのがいっぱいある。よく聞かれるのが、どうやって縦の線を揃えているかという点で、彼らはソフトウェアで、ピッチやタイミングを編集するから、直すのが常識になっている。オンストが全て人力なのが信じられないと。彼らは後から直すことを前提に作っている。今は歌もほぼ完璧に直せる。だからアイドルなら歌入れ15分、直しは4時間、という具合。オンスト1の時代も今も、アカペラを作るには、ドンカマを聴きながら声を重ねていくんだけど、自分の快感原則だけでへらへらやっていると、何回も重ねていくうちに、どんどん縦の線が狂ってくる。人間の生理というのは、最初はラッシュする(走る)ものなので、ドンカマに慣れてくるに従って、ノリが重くなって、ズレてくる。それをちゃんと、最初から完璧に縦の線を揃えられるよう訓練するのに、僕は1年かかっている。今は直すのが当たり前、という前提。もう、そういう時代になってしまってる、残念ながら。
    
<伝統の継承や啓蒙という意識がある>
オンスト3の選曲については、比較的ストレートなドゥーワップでいこう、というのがあった。結果的には、そうでもなくなったんだけど。あとは1〜2曲はコンテンポラリーなものが欲しい。一番コンテンポラリーなのは「LOVE CAN GO THE DISTANCE」かな。
もともとドゥーワップをやりたくて始めた企画だったけど、だんだん幅が広がって「VELLA NOTTE」や「AMAPOLA」となったので、少し戻そうと。
アルバムに収録されている「DEDICATED TO THE ONE I LOVE」(愛する君に)は、ファイヴ・ロイヤルズがオリジナル(1958年)で、シレルズがカヴァー(1961年)し、それをまたママス&パパスがカヴァー(1967年)。「THEIR HEARTS WERE FULL OF SPRING」はフォー・フレッシュメンが1961年アルバム『THE FRESHMEN YEAR』で発表し、それをビーチ・ボーイズがカヴァーしている。
やっぱり伝統の継承、一種の啓蒙主義というか、そういう意識はある。僕らだってチャック・ベリーは最初からチャック・ベリーを聴いたわけじゃない。ビートルズとか、キンクスとかが「チャック・ベリーがいい」って言うからだし。R&Bに至っては、ほとんど情報が入ってこなかった。バディ・ホリーなんかもそうだし。バディ・ホリーチャック・ベリーエディ・コクランも70年代近くになってようやくようやく再発で復活して、オリジナルが聴けるようになった。映画「アメリカン・グラフィティ」(1973年公開)の少し前の時代だね。
ビートルズが出てきて以来、それ以前のものは、多くが聴く術を喪失した。それが60年代末になって「GOLDEN OLDIES」みたいないわゆる廉価版とか、アトランティック(レーベル)の「ヒストリー・オブ・リズム&ブルース」とかが出て、初めて「SH-BOOM」とか。レイ・チャールズだって、ろくすっぽ聴けなかったから。「WHAT’D I SAY」のオリジナルが聴けるようになったのも70年代に近づいてから。日本盤のシングルはすべて廃盤だったので、セコハン屋で探すしなかった。60年代は流行のサイクルがそれだけ早かった。洋楽なんて売れないと判断されたら、リリースもされなかった。例えばラスカルズの「GOOD LOVIN’」はもともとオリンピックスの曲で、だけど当時はオリンピックスなんてジム・ピューターの番組でさえ、ほとんどかからなかった。今ではそんなこと知ってる、と自慢げに語るヤツはいるだろうけど、当時はそんなの、わかるわけもなかった。大滝さんがフィル・スペクターのオリジナル・シングルを聴いたのだって、たまたまのチャンスがあったからだし、ダニー・ハサウェイのファースト・アルバム『Everything Is Everything』をハワイに行った僕の友達が、間違って買ってきた。それだって、ただの偶然。ならば、それを少しでも拡散して行かなくちゃと、そういう動機。
啓蒙と言うなら「サンデーソングブック」がまさにそうで。でも、あくまでも2021年の現代の耳で判断した価値観で、今の鑑賞に耐えうるか、が前提だから。ヒットしたとか、何百枚売れたとか、そんな過去の栄光なんて、何のあてにもならない。70年代にしても、80年代にしても、同じ時代でも、全く古色蒼然たる音楽があるかと思えば、鑑賞に何の支障もないものもある。その差は何なのか。ドビュッシーが「この音楽がいつまでもつかが、自分にとっての問題だ」と言っていて、自分の作品を批判されたときに、それが弱みだとは思わなかった、と。まぁちょっと屈折してるかもしれないけれど、10年後までこれがもつか、はすごく大事で。
僕の場合は、中学や高校の時から古い音楽が好きだったので、クラスメイトとは全く話が合わなかったし、ドゥーワップを知ってからは、さらにそうなって。大滝さんも似たようなところがあるけれど、そういう人ってどうするかというと、それが今の流行においてではなく、先々どういう評価があるかを考える。それを模索するには、世のトレンドからなるべく距離を置かなければならない。だから、僕はゲート・リバーブとかドラム・ループのような、流行のサウンドはほとんど追わなかった。
音楽は勉強じゃない、と言われても、違う。米国音楽は勉強で。何度も言うけど、戦争に負けて、それがなかったら、こういう音楽を聴いてない。輸入の音楽で、全く自分たちの血にないもの。僕は寝るときは浪曲と落語以外、聞いてないからw
アカペラといえば、トッド・ラングレンの『A CAPPELLA』(1985年)があるけれど、あれは遊びだと思う。あの人も、昔のものが好きだから。イーストコーストの人はポップチューンとか、そういう歴史は古いから。ダリル・ホールもそう。あの辺の人たちは、みんな骨の髄まで50年代、60年代のロックン・ロールカルチャーだから。トッドは振り幅が大きいというか、テクノにも手を出してみたり。スタイルは違うけど、ニール・ヤングだって似たようなところがあって、いきなりテクノをやったこともある。興味がある事はやらないと、気が済まないのでは。トッドのライヴはお客に対する誠実度がすごく高くて、喜ばせようという意欲もあるし、独善的じゃない。ローラ・ニーロなんかもそういうところがある。イーストコーストのアーティストらしい、歴史と伝統に対する知識と敬意を持っている。
90年前後から出てきたテイク6やボビー・マクファーリンも、メジャーになっていったけど、テイク6は「俺たちうまいんだぜ」っていうのが、受け付けないw  ああいうオープン・ハーモニーでちゃんと聴けるのはフォー・フレッシュメンただ一つ。ハイロウズ(THE HI-LO’S)もだめだし。ハイロウズの延長にシンガーズ・アンリミテッドがある。マンハッタン・トランスファーもコーラス・グループとしてはあまり好きじゃないし。やっぱりテンプテーションズ、ドラマティックスには敵わない。まあでも、そこはあくまでも僕の個人的な趣味なので。
    
ドゥーワップはシンプルな3パートのコーラス、そしてヴォーカル>
ドゥーワップやアカペラの啓蒙という点では、鈴木雅之ゴスペラーズが大きいんじゃないか。彼らは女性や子供を啓蒙したから。テレビ番組の影響もあってアカペラがブームになっていったけど、もともとロックンロールにおけるアカペラは、楽器が買えないから歌だけで、というのがあった。でも今の彼らは、アコギでストリートでやるのはイヤだと。だから歌だけでやる、あれがかっこいい、と思ったんだろう。自分も含めて、人との差別化をどうするか。”イカ天”の時はバンドだったけど、この時はアカペラだった、という。
最近は一人多重をやってる人が、世界中にいる。ネットにあげたりして。桑田佳祐くんが、僕のアカペラについて鋭く言っていたけど、「あんな畳職人みたいなことをやっても、結局は歌で全部ぶち壊す」って、その通りで。リードヴォーカルを歌いたくてやってる。ドゥーワップというのは3パートのシンプルなコーラス、これが一番好きなんだ。それで、アカペラがブームになったときに何を思ったかと言うと、リードヴォーカルが弱いと。
ヴォーカル・グループというのはリードでなんぼ。フォー・フレッシュメンだって、一番上のパートを歌うボブ・フラニガンが本当にうまい。トロンボーンもうまいんだけど。僕はR&Bで何を聴くかといったら、歌だから。やっぱりロナルド・アイズレーだから、アイズレー・ブラザーズは成立しているんで、アイズレー・ジャスパー・アイズレーではダメ。クリス・ジャスパーが、どんなにソロワークで素晴らしいリズム・パターンを構築させても、歌でがっかりする。それはしょうがない。
オンスト3のジャケット写真は伊島薫さん。伊島さんはニューヨークが大好きで、ずっとニューヨークにいて、写真を撮っていた。このジャケットはそれを大きな布に印刷して、その前で撮ったもの。翌年1月にリマスター盤でリリースしたオンスト1も2のジャケもこの形で統一したけど、本当は元に戻したい。
3作品とも英語でもライナーノーツがある。まりやがイリノイに留学してた時に、ホームステイしてた家族の友人というか、親戚かな、マージョリーという女性で、ワシントン大学の日本語学科で学んだ人。彼女は、僕が知っているアメリカ人の中で最も日本語が堪能。日本人と結婚して、以来日本に数十年住んでいる。オンスト1からずっと、SEASON’S GREETINGSも含めて、ライナーノーツは全て、彼女に翻訳してもらっている。和文英訳って、自分が見て、こうじゃないな、っていう漠然とした感覚があって。彼女の英訳は、僕が言いたいニュアンスに一番近いと思えるものを出してくれるので、実に優秀な翻訳者。ブルーノ・マーズにしても、デビー・ギブソンも両親が「オンスト」を聴いていたと公言してくれているし、海外のファンはごく少数だろうけど、聴きたい人が聴いてくれれば。
アルバムが出る直前、1999年9月に松宮一彦くんが亡くなった。オンスト3には彼への献辞がある。彼は日本を代表する、ラジオのDJのひとり。個人的に物凄くショックだった。あの時、彼には不幸なスキャンダルが相次いでいたけれど、彼は自分の悩みを、友人にも誰にも打ち明けない人だった。ちょうど亡くなる前の日に、大阪の友人と松宮さんの話になって、今度電話でもしようと話をしたばかりだったので、余計ショックが大きかった。彼は音楽が本当に好きな人で、邦楽に関しては、日本で一番観に行っている業界関係者だと思う。洋楽、邦楽問わず、行くところには必ず居るという感じで、我々より年上の福田一郎さんに聞いても、よく彼を見かけると言っていた。そしてセットリストを片手に、それにびっしりと黒くなるまで、曲に関するコメントを記入していた。それを資料にして、自分の番組「SURF&SNOW」で紹介するのに役立てるなど、とても熱心な人だった。いつだったか、彼が「今年一番だったのは、長渕剛さん」って、言っていて。松宮くんがそう言うなら本物なんだろうな、僕なんかはそういう解釈をしていた。よく会って話もしたし、お酒も飲んだ。タレント業とかやらなくても、音楽のDJで、問題なくやって行ける人物だった。大変惜しいことをした。とても重要な、音楽の友達が一人いなくなった。「Love Can Go The Distance」はきっと松宮さん、すごく好きだろうと思って、彼に聴かせたかった。それでも、死んじゃいかん、とラジオでコメントした。
【第52回 了】