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ヒストリーオブ山下達郎 第29回 80年、ブレイクと交際宣言、そして芸能界

<最初は個人的にどうこうとかは全然なかった>
竹内まりやと)付き合い始めたのは、80年になってから。5月くらいかな。アン・ルイスの「リンダ」のレコーディングを手伝ってくれって、彼女に頼まれたことがきっかけ。80年の5月頃って、ツアーやなんだで忙しかったんだけど、たまたまその日は家にいて、夕方の5時ぐらいに電話があった。いつもは、そのくらいの時間に家にいる事はあまりなくて。家にいても、レコードを聴いてヘッドホンをしてるから、電話に出ないことが多いんだけど、たまたま取ったら彼女で。「今スタジオにいて、アン・ルイスのレコーディングをしているんだけど、アイデアで困ってる。コーラスを入れたいんだけど、協力してくれないか」って。で、1時間くらい後にスタジオに行って、それから6時間ぐらいかけて、夜中まで「リンダ」のコーラスを一人でやったんだ。その頃、生まれて初めて自分の車を買ってて、その車で、彼女を家まで送って行った。それまではプライベートではあんまり関係がなかった。レコーディングでまあ困ってたんだろうね。バンド演奏だけだと、オケに個性が出ないから。でもとにかく、まったくの偶然でしかなかった。
最初に会ったのは、彼女がデビューする前にデモテープを作ってた時で、二度目は、これは何度も言った話だけど、僕が渋谷エピキュラスでリハーサルをやっているところに、誰かが連れてきた。 その時にサイン帳を持ってて、それにサインしてくれって言うので「これからプロになろうっていうのに、人のサインなんかもらうもんじゃない」って説教した。だから、向こうの印象は最悪だったろうね。彼女にしてみたら、多分業界で初めてNOを言われた。僕はその頃からプロ意識が高かったんだろうね。基本的に、今でも人のライブを観に行ったときには、そこの客にサインしてくれって言われても絶対にしない。そういう主義だから。
最初は個人的にどうこうとか、そんな事は全然なかったんだ。それは他の女性シンガーと同じで。ただ音楽の制作に関しては、同じレコード会社だから、それまでもつながりはあったからね。ファーストアルバムの「Beginning」に曲を提供して、2枚目の「UNIVERSITY STREET」では、彼女がピアノの弾き語りで、カセットに入れた曲を持ってきた。それが「涙のワンサイデッド・ラヴ」で、それをどうにかしたいって言うから、アレンジした。あれは一人多重(録音)でやらないと、オケに個性が出ないと思って、ほとんどの楽器を僕がやってる。「ドリームオブユー〜レモンライムの青い風〜」のアルバム・ヴァージョンも、僕がアレンジしてる。「UNIVERSITY STREET」は結構、僕の編曲が多い。でも、それはあくまでも仕事の上だからね。「涙のワンサイデッド・ラヴ」のレコーディングの時は、まりやは現場にいない。だってツアーをやってたり、テレビ出演があったりしたから。だから、あれはリズム・トラックが出来上がってから、聴かせたの。ストリングスを入れる前くらいかな。
   
< ジェットコースターのような本当にすごい一週間だった>
僕にとっての人生の最大の転換期は、1980年7月26日からの一週間なんだ。まりやとのことが、スポーツ新聞で一斉に出た。その次の日、7月27日がニッポン放送主催の「80’s JAM」っていう西武球場イベントで、 8月2日が葉山マリーナのコンサート。ここの一週間というのが、ジェットコースターのような本当にすごい一週間で。これを過ぎたら、急に人生が静かになった。憑き物が落ちたというかね。7月26日からずーっと突風が吹いてた。7月27日の西武球場は、もうレポーターがわーっと押し寄せてきて、大変だった。だから、僕はハイエースの荷台に押し込まれて、上から毛布をかけられて、荷物と一緒に裏側から入った。で、メンバーは表から入ってきたけど、テレビカメラが並んでて、レポーターが「誰が山下さん?」ってw
で、まりやの方は北海道の真駒内か何かでイベントがあって、ステージに出るときに「山下達郎さんとの結婚が決まった竹内まりやさんです」って、トロいアナウンサーが紹介して騒然となったw
西武球場の方のライヴ自体は、別に淡々とやったので、どうという事はなかった。帰る時も裏口から出て、うまくいったと思ったら、カメラマンがたった一人だけ、根性ある奴がいたんだね。そのカメラマン、スタッフが必死でブロックしてくるのに、ファインダーを覗いたまま突進してくる。特攻隊って、こういう感じなのかなと思った。あの時、僕はこういうところにいちゃいけない、こういうところで生きられる人間じゃないと思った。 ある意味で、最大級の恐怖を感じた瞬間は、あの時だったかもしれない。恐怖っていうのは、何も暴力だけじゃない。あれはすごかった、あの不気味な恐怖感は。
8月2日に葉山マリーナでライヴをやった時も、レポーターやカメラマンがたくさんいて、ライヴが終わってから、そういう芸能マスコミ向けのスピーチを、しなきゃならなくなった。その頃はまだ27歳で、まっすぐだったから、趣意書っていうのかな、アジテーションみたいにしゃべり始めたら、前にいたカメラマンが「こっち疲れてるんだから、演説はいいから早く撮らせろよ」って。ああ、これが芸能の世界なんだなって思った。だから、あそこで僕のスタンスは決まったの。あれがなかったら、ひょっとして結構チャラチャラした芸能人になってたかもしれないw
向こうは勝手に来るからね。事務所も弱小だし、嫌だなんて言えない。大変な事は他にもあって、その8月2日の葉山のライヴで共演予定だったシャネルズが、直前に出られなくなった。さらにその週に、レコード集めでとてもお世話になっていた、大阪のフォーエバー・レコードの宮下(静雄)さんが亡くなったり、とにかく毎日何かがあった。その締めくくりが8月2日で。あの年、1980年はものすごく寒い夏だったんだ。日照がほとんどなくて、毎日冷たい雨でね。8月2日も午前中から晩まで土砂降りで、もしシャネルズが予定通りに出ていたら、楽器のセッティングを変えなきゃならなかったから、おそらく演奏不可能で中止になっていたかも。開演のときには、もうステージ上にかなり水が溜まっている状態だった。
そんな状況で、僕らが何故やれたかっていうと、当時から楽器はラインで直つなぎ、アンプを一切使ってなかったからなんだ。本番中はエフェクターが、水の上にプカプカ浮いてる有様なんだけど、それでもライン出しだったから、何とか音が出てた。PAマルチケーブルは火花がスパークしてたし、照明のピンスポットは、開演15分で雨に濡れてショートとして飛んじゃって、そこから先はピンスポットなし。メンバー各自の上に、ビーチパラソル立てて、雨をしのいで、サーチライトをステージに投光して、それでライヴをやった。
演奏は夕方4時過ぎからで、そんな状態でも4時間15分も演奏したからね。プールの中の方が暖かかったから、多くの観客が水の中で観ていた。幸運なことに、あの頃はライヴをたくさんやってたから、ステージの段取りはどうとでもなった。曲順も決めないで出て行って、何からやろうかって。で、気がついたら4時間以上やってたんだよ。それで、打ち上げにカメラマンとかレポーターが来てて。それに僕が真面目に応対しようとしたら、そのカメラマンの早く撮らせろ、っていう話になる。
今だったら「あんたたちに言うセリフなんてねえよ」くらいは言うだろうけど、あの時はまだ熱血漢だったから、話せばわかるって、真面目な論法で行ったから、ますます悪かったんだね。とりあえず世の中にちゃんと気持ちを伝えようと、そしたらわかってくれるんじゃないか、ってね。でも、それは大きな間違いだった。そうした体験が「Hey Reporter!」っていう歌になるわけでw
結婚したのは、それから2年後。82年の4月に結婚するんだけど、まあ色々とお互いの家族間の準備とかあったから。僕は29歳で、彼女が27歳で結婚したから、今ならごく普通だけど、あの頃はそれでも遅いって言われたんだよね。だから8月2日は結婚宣言じゃなくて交際宣言。まぁでも交際するっていったって、その前から基本的な性格とか、そういうものは知ってるからね、別にね。
8月2日が終わって静かになった。といっても、それはあくまで自分の精神的な生活の話で。芸能関係の方も、そこから後は、僕の方はあんまり関係なくなって。だって僕はテレビに出ないから。でも、大変なのは彼女の方。当時、竹内まりやは、まだ半分アイドルみたいな扱いだったから、いろいろ大変だった。で、81年の終わりに彼女は休業するから、そこまで1年半くらい。僕の方は取材っていっても音楽雑誌だけで、一般誌なんてやらなかったし。事務所もそういう話題は受け付けなかった。そういう話は、むしろ彼女の方が引き受けてくれていた。まあ、それが結婚まで続くわけです。
   
<シングルはともかく、アルバムがCMの写真じゃイヤ>
シングルRIDE ON TIMEは5月発売だったけど、80年は1月から仙台、山形とツアーに出た。あの頃はソーゴー(コンサート・イベンター)も転換期でね。それまでは演歌・歌謡曲が中心だったんだけど、ロック路線に変えようとしていた。だけど、ソーゴーはそれまでの演歌路線がたたって、なかなか思うようにいってなかった。結果、あの当時のソーゴーで80年代前半の数年を支えたのは、僕と高中(正義)くんなんだよね。イベンターはいっぱいあったけど、僕のライヴはそれまでは、地方はおろか東京でも買ってくれなかった。で、ソーゴーが桑名(正博)くんである程度成功したので、僕も、っていうことだったんだけど、始めてみると、地方でもそれなりにお客さんが入ってくれた。それでソーゴーも、その後のロック路線に切り替えられた。
ツアーの合間でのレコーディングだったけど、アルバムRIDE ON TIMEの曲はライヴで色々と試せたから。「夏への扉」はすでにライヴでやってたし、レコーディングは1時間かからなかった。ワンテイクでOK。青山と広規が入ってきたから、けっこう5人でリハーサル・スタジオに行って、パターンの練習をしてた。「いつか(Someday)」なんかもパターンを試して、ああでもない、こうでもないって。「DAYDREAM」もやってるうちに、広規がベースのパターンを思いついて、それに青山が色付けして、それに椎名(和夫)くんが乗せて、っていう感じ。だからヘッド・アレンジなんだけど、上がりがものすごく早い。基本的なポリリズムのパターンを提示すると、それに彼らが色付けをする。時代だね、やっぱり。六本木ソニースタジオの音も良かったし。 エンジニアの吉田保さんも、あの頃はまだリヴァーブ少なめで、コンテンポラリーな音を作っていた時代だから。このアルバムは(制作)期間が短かったし、次作のFOR YOU(82年1月発売)になると、 また長期戦になって、曲数が多くなって17曲も録ったのは、生まれて初めてだった。予算が潤沢になったのと、自分の所の原盤出版になったからだね。
アルバムRIDE ON TIME(の録音)は収録数ぴったりだったかな。全曲ほぼ同じリズム・セクションで録ったのは初めてで、これは後にも先にもこのアルバムだけ。とにかく集中力があった。長いツアーで組み上がったアンサンブルというのもあったけど、本当に良い状態だったね。
小杉さんが言っただろうけど、ジャケット事件ね。このアルバムでは、CM写真を使ったジャケットにする、っていう契約だったの。小杉さんがそれを忘れた。それで困って、フェイスカバーをつけるという寝技を思い付いた。小杉さんそういうところは天才だからね。 僕はまあいいやって。そうするしかない。逆に僕は、そんなので相手は大丈夫なのかなと思ったけど、そういうところも、小杉さんは天才的。なんか妙に、みんな納得して帰っていくんだよね。後でよく考えたら、納得できなかったりするんだけど。厳密に考えたら、それが契約通りかどうか、わからないけど。でもジャケットは一生残るけど、CMは時が経ったら、記憶の彼方だから。実際にそういう例があるから。いずれにせよ、CM出演したそのままのビジュアル・ジャケットなんて冗談じゃなかった。シングルはともかく、アルバムのジャケがCMの写真じゃ絶対にイヤだもん。
ジャケのデザインは、MOONGLOWの時にはペーター佐藤がニューヨークに行ってて居なかったから、奥村(靫正/ゆきまさ)さんに頼んで。その流れで、RIDE ON TIMEも奥村さんに頼んだ。奥村さんは才能のある人で、このジャケットも嫌いじゃないよ。
   
<”芸能人を見る視線”というのを生まれて初めて味わった>
シングルRIDE ON TIMEはチャート3位。 5月の中頃か末だったか、椎名夫妻と3人で、銀座の日曜のホコ天に行ったの。人生でそれまで、人目っていうのを意識した事は一度もなかった。確かにこの商売をやってると、サインしてくれとかあるけど、それはあくまで身近な客の話で。いわゆる一般的な芸能人を見る視線というのを、生まれて初めてその日に味わったんだよね。
椎名くんの奥さんがメガネを直すって言うんで、メガネ屋に行ったら、なんか人が寄ってきて「あんた、昨日テレビ出てたでしょ」って。極めつけはツアー先の高松のキオスクで、どっかのおばさんが「あんた、あんた、ほら、誰だっけ、ほら」って。「ああ、これか」って思った。 そういうのと、あのスポーツ新聞の騒動が重なって、僕はしばらく対人恐怖症だったことがある。家を一歩も出られないというほどじゃないけど、完全に脱却するまでに結構(時間が)かかった。
芸能界に対するネガティブ・インパクトって、あれで強烈に刷り込まれたから。やっぱりヒットするっていうのは、こういう事なんだなと思った。
桑名くんがその昔、顔をマフラーでぐるぐる巻きにしてレコード会社に来て、「歩けへんねん、どないしよう」って。その少し前アン・ルイスのアルバムをやったときに、彼女と数日一緒に行動したことがあって、3日で気が変になりそうだった。キヨスク行ってサイン、天津甘栗でサイン。僕はそういうノリに全くついていけなかった。
そういうのが、気持ち良い人もいるんだろうけどね。だから芸能人て、騒がれると鬱陶しいけど、全く騒がれないと不安になる。そこを行ったり来たりしてるっていうかね。でも僕はその後、徹底してテレビに出ないでやってきたでしょ。そうすると、銀座のど真ん中で「達郎さん!」とか声かけられても、ほぼ100%ファンクラブの人だからw
まぁそれでもこの歳になるとね、もうずいぶん長いことやってるので、この間、高松で讃岐うどんを食べてたら、「あれ、誰か知ってる」って、おばさんがみんなに教えて回ってる。そういう事はあるけどね。そういうことを最初に体験したのは、1980年のあの時期なんだ。
   
<80年発売、水口晴幸「BLACK or WHITE」をプロデュース>
水口晴幸くんはクールスから独立したあとに、エアーと契約した。小杉さんはああいうの、好きだからね。ちょうど青純や広規と始めた頃で、RIDE ON TIMEのちょっと後だったけど、ギタリストの北島健二くんが、二人の古い友達だから参加してくれてね。あの時の北島くんは抜群だったね。彼もアレンジのセンスがあって、佐藤博さんみたいなところがあった。いろいろフレーズのアイデアを考えてくれるんだよね。そのひらめきが素晴らしいの。
そういえば1曲目の「Drive Me Crazy」は筒美京平さんの曲なんだけど、あれはもうアレンジで代理コード使いまくって、残っているのはメロディだけという状態なんだけど、京平さんはけっこう喜んでくれるんだよね。そういうことをしても、怒らないの。音楽家としても、大きな人なんだよね。
それと勝新太郎さんの「警視-K」(80年10月〜12月放送、全13話)だね、ドラマの音楽を担当した。僕は、ドラマの主題歌の話が来たのは、水口くんをドラマに出すためのバーターかなって、ずっと思ってたの。でも、そうじゃないみたい。小杉さんに聞くと、日本テレビのプロデューサーが、僕にオファーしてきたんだそう。勝さんの番組だから、それで僕は一度勝さんに会いに行って。それまで一面識もなかったからね。
勝さんのことは「座頭市」「悪名」「兵隊やくざ」と、一応一通り観てるからね。あの頃は、まだ日本映画に耽溺しているわけでもなかったけど、とりあえず大映で勝さんが出ていた映画は、名画が多いので、それなりに観ていた。「薄桜記」や、大映オールスター「忠臣蔵」の赤埴源蔵(あかばね げんぞう)とか。でも、それ以上の事はあまり知らなかった。長唄三味線の杵屋(きねや)の御曹司であるなんて、全然知らなかった。だから、あくまで映画俳優としてだよね。で、赤坂東急か、ヒルトンだったか忘れたけど、ホテルに会いに行って。
「警視-K」っていうのは非常に実験的なドラマで、ネオリアリズムみたいなところがあるんだけど、12話1クール分の予算を、1話で使い切っちゃったんだよね。初回用の録音っていうのを音響ハウスでやったんだけど、そこになぜか、勝さんが来てね。なんか色々と始まって、広規がベースで遊んでいたら、「それだ、それ」って入ってきて、「それだ。録るぞ!」って始まって。2時間半ぐらいそんなことをやって、大丈夫なのかなと思ったけど。その時のソースが、FOR YOUのボーナストラックに入ってるような、ああいうやつなんだけどね。
結局、勝さんには三回しか会っていない。最初の打ち合わせと、そのレコーディングの初日と。三回目は「警視-K」をやっているときに、勝さんがオールナイトニッポンに1日だけ出たことがあって、深夜の1時から3時で生放送をやったの。それに来い、って言われたんだよ。で、行ったんだよね。そしたらスタジオの壁に銀座のお姉さんがずらっと一周、張り付いてて。勝さんがブランデーだかウイスキーだか飲みながら、ウダウダ言ってるんだけど、「山下くん、そこにコンガがあるから、それを叩け」って。「俺が机を叩くから、それに答えろ」って。夜中の2時半に、俺は一体何やってんだって思いながら叩いてたw 番組が終わって、「いやー楽しかった。じゃあ飯を食いに行こう。キャンティ空けてあるから」って。夜中の3時過ぎに(飯倉の)キャンティに、金色のロールスロイスで乗り付けるの。金色のロールスロイスだよw そんなものがあるんだね。それに乗っけられて、キャンティに行ってね。訳がわからないでしょ。とにかくすごかったよ。
ああいう人の面倒を見てる、勝さんのマネージャーは偉いと思ったね、ホントに。耐える一方でしょ。あれは良い体験だったな。同じベテランでも、フランク永井さんの時とは全く違って、音楽的なものは何にもなかったけど、勝さん自体のオーラがすごかった。その後、あんな経験は無いもの。
僕は今も、役者さんとはほとんど接点がなくてね。ほんの数えるほどしかない。あるとしたら、脚本家とか監督とかの方なのね。「ENDLESS GAME」(90年)をやった時は、あれはテレビドラマの主題歌で、原作が連城三紀彦さんの「飾り火」なんだけど、脚本が荒井晴彦さんていう有名な脚本家だったんだ。そういう人とは話が合って、ドラマの打ち上げで、それこそ朝の7時まで酒を飲んだ記憶がある。僕はそういうドラマの打ち上げに参加しても、俳優とジョイントする事は滅多にない。常にプロデューサーとか、脚本家、監督とテーブルを同じくする結果になる。スタンスがそっちのほうに近いからだろうね。それで山中貞夫の話とかで盛り上がるんだw
僕は「警視-K」の主題歌が「My Sugar Babe」じゃなくても、いいんじゃないかと言ったんだけど、小杉さんが「いや、時間がないので、これで」って。いい加減なんだw こんな地味な曲でいいのかなって、僕は思ったけど。
ドラマの音楽については、ちゃんと別録音、テレビサイズで作ってたからね。RIDE ON TIMEとは別テイクで。でも、これはヒットしないよなって、自分でも思ったけどね。シングルは切ったんだけど、もうちょっと違う曲でもよかったよね。でもまぁ、あの頃は、小出しにするのが美学だったりしたからね。
あの頃は、そういうリリース・スケジュールをどうするかとか、シングルを切るとかいう事は、みんな小杉さんの意思だったからね。僕は「これをシングルに切りたい」って言った事は無いから。一応FOR YOUまでは小杉さんが現場をやっていたから、FOR YOUの時に(アカペラの)インタールードを入れようと言ったのは、小杉さんのアイデアなんだよ。
RIDE ON TIMEのCDのボーナストラックに、インストが入ってるんだけど、あれはレコードの時にも入れようかと思ってたものなの。だけど収録時間が増えてしまうから、やめたのね。それを小杉さんが、もったいないと思ってて。FOR YOUの時にも、インストを入れようかという話になったの。でも、どうせならインストより、アカペラの方がいいんじゃないかって。それで、あのFOR YOUのレコードに入っているインタールードを作ったの。そういうアイデアは、小杉さんあの頃はすごくあったんだよ。今は全くないけどねw
【第29回 了】