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ヒストリーオブ山下達郎 第34回 アルバムMELODIES(83年6月8日発売)

<常に差別化なんだよ、考えていることはね>
このアルバムから自分で詞を書くようになって、レコーディングのメンバーも全部固定されて来たから、この辺りのことは結構鮮明に覚えている。それ以前の、スタジオ・ミュージシャンでレコーディングしていて、今日誰と、とかやっていた時代だと、純粋に曲がどうだったとか、そういう記憶はあるんだけど、アレンジの段取りがどうだったかとかは、意外と覚えていない。でもRIDE ON TIME、FOR YOU、MELODIESの3枚は、同じセクションでやっているから、経過をよく覚えている。 それにMELODIESはFOR YOUと比べて、圧倒的に、一曲に対してかかっている人間の数が少ないんだ。自分でやっている部分が多いの。だから、なおさら明確に覚えている。
レコーディングをスタジオ・ミュージシャンでやってると、結局、他の人が作っている音と似てしまうんだ。当時はスタジオ・ミュージシャン全盛時代だったでしょ。それこそ当時のウエストコースト・ロックじゃないけど、演奏に誰が参加してるとか、そんなのが日本でも売りになった。僕も70年代にソロになってしばらくは、ポンタに岡沢(章)さん、松木(恒秀)さん、佐藤(博)くん、坂本(龍一)くんといったメンツで、レコーディングしてたんだけど、当時はどこに行っても、ポンタ、岡沢だったの。そうなると純粋に詞と曲、編曲だけじゃ、特色を打ち出し切れないんだよ。
だから、どうしても自前のセッション・メンバーが欲しかった。その前のシュガー・ベイブの時はバンドだったから、当然、他の人はそのメンバーではやっていなかったから、音の特徴は出てたんだよね。GO AHEAD!の時は予算がなくて、ギャラの高いプレイヤーを使えなかったので、ユカリ(上原裕)と田中章弘、難波くんに椎名くんというメンバーが中心になったんだけど、でも結果的にそっちの方が、今聴いても音としての個性があるんだよ。
だから、そういうスタンスに戻りたい、というのが、ずっとあった。じゃ、どうしようかって時に、たまたま青山純伊藤広規が出てきた。何より彼らは読譜力があったの。椎名くんもそうだし、難波くんも譜面は完璧。そうすると曲の仕上がりもすごく早くなるんだ。
それと、MELODIESでは自分で作詞をしようとか、8ビートのロックンロールをやろうと思ったんだけど、8ビートって本当に個性が出しにくいから、他と違う色合いを出そうとすると、必然的に一人多重とかになっていくんだよね。MELODIESの次のBIG WAVEなんてモロそうでしょ。だから、スタジオミュージシャン全盛の時代に、音世界をどう個性化するかを考えてたらこうなった、というのが一番大きな理由なんだよね。
だから、常に差別化なんだよ、考えてることはね。ただ最初の頃は、考えてはいても、なかなか思うようにはできなかった。だけどこの頃から、ある程度レコーディングに予算もかけられるようになったし、トライ&エラーもできるようになった。同じ曲でも違うテイクを録ることができる。その分制作費もかかるし、時間もかかるんだけど、それで個性化が進められるようになったんだよね。同じ頃に一世風靡した細野さんのYMOも、やっぱりそういう個性化の動きと言えると思うし、すべてそうなんだと思うよ。ただスタジオ・ミュージシャンを呼んでレコーディングして、はい出来た、っていうことを続けていくと、差別化はできない。だからそういう時のプロデュース感覚って言うのかな。
何度も言うけど、ここからどうするのか。30歳を超えたロックという展望が見えない。フォークと違って、制作費がかかる。歌謡曲シンガーのように”営業”には行けないしね。その結論として、僕の場合レコーディングもそうだけど、やっぱりツアーをやらないとダメだって思ったんだ。そうじゃないと、サザンオールスターズとかツイストとか、年間何十本もライヴをやっている人たちは、とても太刀打ちできないからね。そういうところから始まって、自分なりの方法論をだんだん考えていったの。
そうするとギターのレコーディングでも、例えばまりやの「元気を出して」の時は、僕が生ギターを弾いたんだけど、本当に4小節ごとに弾いてはやめて、またやって、みたいなさ。スタジオ・ミュージシャンに頼んだら15分で弾けることを、延々1時間以上かかってやってる。でも、スタジオ・ミュージシャンに頼むよりも、その方が個性的な音が作れるわけ。そういうのに近いんだ。
スタジオの技術も進んできて、僕が自分でドラムを叩いても、アナログのレコーダーでもパンチイン(一部だけ録音をし直すこと)が、すごくきれいにできるようになったし、テープの切り貼りもできるようになった。だから、そういう技術を駆使すれば、ヘタウマが形になるようになったんだ。それとは逆に「高気圧ガール」みたいな曲は、青山純たちのテクニックがないと、できない。そういうふうに、表現の幅が出てきたんだよね。
  
<このままやっていったら、絶対にダメだと思った>
自分の音楽の個性化。でも、僕のはムーブメントじゃないからね。1979年あたりからYMOのテクノが全盛になった頃は、ある意味で恐怖したっていうかな。テクノクラート・ミュージックというか、機械が人間を規定する。今のボーカロイドじゃないけど、ああいうものに感じるのと同じような恐怖感が、あの頃はあったんだ。
だから、自分は絶対にシーケンサーは使わないぞと思った。実際、僕がシーケンサーを使ってレコーディングしたのは「風の回廊(コリドー)」(85年)が初めてだった。それまではシンセベースも何も、全部手弾きだった。シンセサイザーもなるべく使わないで、生でやってやろうっていう、そういう意識はすごく大きかった。
だったら、どうやって個性化していくかということで、例えばギターを5本重ねるとか、コーラスをどんどん厚くしていくとか、そういう方法論を考えていかないと、いわゆる平凡なニューミュージックのアレンジになっちゃう。それじゃあYMOのムーブメントには絶対太刀打ちできない。僕らがやっているのは決して流行の先端じゃないけど、それだからこそ、誰もやれていない音が出ないとダメなんだ。多分、大滝(詠一)さんも「ロンバケ」の時は、同じような考えでやっていたと思う。
曲を作って歌うだけじゃなくて、編曲に興味がある人間は、細野さんたちがやったことにものすごく憧れるか、恐怖するか、どっちかだった。僕がやっているのは歌謡曲じゃないので、音楽的な先進性とか、前衛性っていう部分では勝てなくても、他とは違う独自性を打ち出さないとダメだっていう事はその頃から考えていたからね。そういうことが、MELODIESにはすごくよく出ているんだ。
FOR YOUのときには、絶対にこのままやっていたらダメだと思った。なぜかっていうとそういう音世界って、あの時のトレンドを結構吸収していたものだったから。僕としてはMOONGLOWからFOR YOUという流れは、時代のトレンドを吸収してやっていたんだけど、でも本当の時代のトレンドは、やっぱりテクノだったんだよ。だからMOR(Middle Of The Road)ミュージックで、時代のトレンドと、音楽的に拮抗できるように個性化をするには、どうするかっていうことを、ものすごく考えてた。まぁ時代がそういう感じだったから、それに自分が反応したっていうかね。
CIRCUS TOWNは、あの時代に売れたのが2万枚とか言われてたけど、もしも25万枚売れてたら、その先はどうなっていたか、わからない。多分そうなっていたら、当然その路線を踏襲していたと思う。シュガー・ベイブでも、もしヒットが出ていたとしたら、当然その自己模倣をしてたでしょ。だって20〜22歳くらいで他にできないよね。だから若い頃に売れた人たちは、そういう感じで、自己模倣を続けることを強制されることになるから、後になって「あれは僕の音楽じゃなかった」とか言い始めるわけでね。売れた時にどういう選択をするか、だよね。
僕の(2枚目のアルバム)SPACYは、完全にCIRCUS TOWNのチャーリー・カレロの譜面に倣(なら)ってやったから、ああなった。でも、売れなくてIT’S A POPPIN’ TIMEの後、これが最後だと思って作ったGO AHEAD!。これを、これから作曲家でやっていくためのカタログの一つにしよう、とかね。それなりに考えて作ったわけ。でもBOMBERがヒットしたんで、その路線に全部合わせて作ったのが、MOONGLOWなんだよ。だから分かりやすいよね。
でも、こんな風に言うと、そこまでして売りたいのかって言われる。当たり前だよ、売れたくなくて始めた奴なんて、誰もいなくてさ。でも、今みたいに「とにかく1位を獲りたい」とか、そういうんじゃない。少なくとも自分の音楽を何らかの形で認知されたいとか、そういうものを、20代の初めに持たないで始める奴がいたら、お目にかかりたいよ。まあ、おかげさまでRIDE ON TIMEがヒットして、FOR YOUも(セールスが)良かったけど、これでまたアンヴィバレントなものがあってね。MELODIESを作る時、ここで押し流されたら大変だなと思うから、揺り戻しになるから。だから当座、どこに焦点をおけばいいのかなと思うと、やっぱりメロディー的にもバリエーションがたくさんある、GO AHEAD!みたいな形で、アルバムを作るほうがいいと思ったんだよね。
     
<8ビート復活、ター坊に「絶対に自分で詞を書いた方が良い」と言われた>
(MELODIES内の)「悲しみのJODY」も「クリスマス・イブ」も、8ビートのロックンロールなんだ。MELODIESには8ビートを復活させようというコンセプトがあった。シュガー・ベイブの時代、8ビートをやると、ヒップなメディアからはまず馬鹿にされた。古いってね。フォークの世界だったら別に構わないんだけど、僕の周りは、テクニック至上主義の業界だったから。しょうがないから、もうちょっと16ビートの曲をやろうと思って、メンバーも替えて「WINDY LADY」を作ったんだ。
それで、ソロになった後はCIRCUS TOWNからずーっと16ビート路線で行ってたでしょ。で、逆にスタジオ・ミュージシャンでは8ビートはやれない。普通の8ビートの、それこそ「クリスマス・イブ」みたいな曲を、スタジオ・ミュージシャンでレコーディングしたって、ああいう音にはならない。それに8ビートっていうと当時のスタジオ・ミュージシャンは馬鹿にして、「なんだこれは」って、いい加減に演奏されるのがオチだからね。スタジオ・ミュージシャンを使うんだったら、彼らをきりきり舞いさせるようなアレンジにしなければいけない。スタジオ・ミュージシャンを真面目に演奏させるための楽曲っていうかね。
でもね、いつまでそんなことをやればいいんだと思ってね。そんな時に、折良く青純と広規が出てきてくれたおかげで、自分のリズム・セクションを持って、それだったら絶対に8ビートをやりたいと思ったの。彼らはロックンロールもうまいから。
僕は76年から82年までほとんど16ビートとか、それに準ずるような曲調しか作ってこなかったんだ。その方が音楽的に高級だとみなされる、そういう時代に生きていたからね。でも本当のことを言えば、8ビートのメロディーの方が日本語詞には乗る。 16ビートは本当に詞が乗りにくい。しょうがないから「SPARKLE」でも何でも、初めにパターンを考えて、後からそれに合うメロディーを考えて作ったんだ。でも、それじゃあ本当の意味で詞は突き詰められない。詞は、やっぱり何を歌いたいのか、というある程度のアウトラインを考えて、それにメロディーをはめていかないといけない。
だから、自分で作詞しようと思った時から、絶対に8ビートを復活させなきゃダメだと思ってた。「クリスマス・イブ」にしろ、「悲しみのJODY」にしろ、みんなそういう目論見で作っている。そうしないと詞の情緒をしっかりと表現することができないというか。
アルバムMELODIESが、詞を本当に考えて作ろうと思った、一番最初のアルバムだからね。82年の終わりごろから、詞のモチーフを本気で考えるようになった。それまでは、詞なんてちゃんとやってなかった、というかそこまでの精神的余裕がなかった。
シュガー・ベイブの時代なんて、本当に適当な感じで詞を書いてた。自分にそれほど作詞の才能があると思ってなかったし。でもある時、ター坊(大貫妙子)に「あなたは絶対に自分で詞を書いたほうがいい」って言われたんだよね。あの時、彼女に背中を押されなかったら、詞のことなんて、おそらく考えなかったよ。あの時はそうかなあ、と思ったんだけど。今思い返すと、その意味がよくわかるけどね。
でも、シュガー・ベイブの時代から、大学ノートに詞を書きとめることは、ずっとしてたんだよ。例えば「2000トンの雨」なんかは、そのノートから言葉を拾って書いたんだ。そういう詞のスケッチみたいなものは、結構たくさんあったから、メロディーを作るときにそういうものを見ながら、自分で歌詞を書くんだったら、どういう感じにしようかって、半年間くらい、いろいろああでもない、こうでもないって考えてた。そういう意味では、MELODIESは結構計画的だったんだ。
その他にMELODIESの根源にあったのは、FOR YOUで広がっていた”夏男、山下達郎”っていうパブリック・イメージをどう減らしていくか。あとは、現役でやれる時間が残り少ないんだったら、もうちょっと自分の原点に戻って、それでどれぐらいできるかのトライしよう、って。そういうことが盛り込まれたアルバムなんだ。ちょうどRVCからムーンにレコード会社を移籍するから、そういうイメチェンをするにはいい機会っていうのもあったしね。
でもあの頃はね、できたものを聴いて、みんないろいろ言うんだ。褒めてくれる人ももちろんいたけど、逆に「失望した」とか「イメージが違う、もっと夏っぽくならないのか」という批判も多かった。スタッフでも言う奴がいたよ。MELODIESの後、83年9月に出したシングル「スプリンクラー」なんか、「なんですか?これ」って言われたw「全然夏っぽくないじゃないですか」って。スタッフだってそんな感じだったからね。だからMELODIESが発売されて1位を獲った時は、本当に一安心だった。
「メリー・ゴー・ラウンド」は結構自分では好きなんだ。この曲はアイズリー・ファンクなんだけど、あの当時、あんな曲調にあんな詞を乗っけるなんて発想はなかった。それこそ、海の向こうで、ああいう音楽をやってる人は全部、「今夜俺とメイク・ラブしようぜ」みたいな歌しかなかった。あんな、あるんだか、ないんだかわからない夜中の遊園地なんて設定はありえない。大体夜中の遊園地なんて真っ暗で、こんな話あるわけないんだ。でも、この歌にはあたかも「メリー・ゴー・ラウンド」に明かりが入っているかのような、そういうイリュージョンを持たせたかったんだよね。そういう形にしたかったの。でも、今から考えると、よくこんなメロディーやリズム・パターンにあんな詞を乗っけたな、っていう気はするけどね。でもやってみたかったの。

だから、ある意味ピンク・フロイドとか、ムーディー・ブルースとかに近い世界観があってね。ピンク・フロイドなんて非常に荒唐無稽なところがある。「この曲でこの詞かよ」みたいなところがね。イギリス的というか耽美的っていうか。アメリカでもパールス・ビフォア・スワインとか、ベルベット・アンダーグラウンドの初期の作品とか、トーキング・ヘッズとか、それに近いものがあるけどね。でもそういうのだって、大体UKからの影響だよね。
僕はUKには本当に影響されているんだ。60年代末のサイケの時代だね。特に詞はね。ムーディー・ブルースなんかは、すごいなといつも思ってた。「IN SEARCH OF THE LOST CHORD(失われたコードを求めて)」や「A QUESTION OF BALANCE」あたりの詞の持って行き方とかね。「RIDE MY SEE-SAW」なんて典型的でね。「メリー・ゴー・ラウンド」のような詞は、確かにそういうものに、ものすごく影響されているね。
30歳くらいになると、だんだん自分のスタイルが定まってくるっていうか。特にあの時代は、もうそのくらいでも遅いくらいでしょ。20代の半ばくらいで、これは俺の音楽だ、って決めないと競争に勝てないっていうか。
   
<MELODIESの方向転換がなかったら、今の僕はない>
シンガー・ソングライターとしてのスタンス、そこは押し出したからね。だって結局そういう道しかないと思ったから。今更言ってもしょうがないんだけど、MELODIESの時のレコーディング環境が90年くらいまで継続されていたら、その後の作品も全然出来が違ってたと思うけど、85年にデジタルが出てきて、そこで運命が変わってしまったんだよ。 デジタル・レコーディングとの格闘だね。
ただ作詞作曲というか、作品を作るという部分での方向転換に関しては、MELODIESでやった事は絶対に正しかったって、今でも思っているよ。MELODIESのあの方向転換がなかったら、今の僕はないからね。それはもう確実に言える。
だけどMELODIESが出てから、89年に「クリスマス・イブ」がヒットするまでの何年間かは、やっぱりそれ以前のお客さんたちの中に、抵抗があったのは事実で。それはシュガー・ベイブからソロになったときの抵抗と、同じような感じなんだ。そういう時期は何度かあった。SPACYとかを聴いてた人たちが、RIDE ON TIMEを聴いた時の抵抗とか。それと同じようなことがRIDE ON TIMEやFOR YOUの時から、MELODIES以降の時にもあったんだよ。ファンは新しいものに抵抗を感じる。でもね、88年に「僕の中の少年」が出た時、 その年の「ミュージック・マガジン」の年間アルバムのベスト4位だったんだよ。すごいストレンジな感触だったんだけど、でもその時に、この5年間でやってきた事は間違ってなかった、と思ってね。まぁそれでいいかなって。MELODIESは、そのとっかかりだったからね。
スタッフの戸惑いなんかは、全く気にしなかった。これしかない、と思ってやったからね。とにかく、それでダメだったらしょうがない。あそこで”FOR YOUパート2”みたいなものを作っちゃったら、自分が満足できないし、そんなのイヤだもの。
リスナーや観客とのズレ、芸能界ではよくあるけどね、客はワーッと乗ってるけど、本人は全くやる気がないとかね。そういう人がたくさんいるじゃない。ほらジャズのインプロビゼーションは、観客の期待を50%は叶えて、50%は裏切るのが最高だって言うし。表現というのはみんなそうなんだよ。その時に、確信犯的な決断がすごく必要なことってあるんだよね。僕にも何回かそういうことあったけど。もちろん成功したこともあれば、失敗したこともある。でも、失敗したとしても別に後悔はしないな。そんなもんだと思ってるし。
ひとつだけ言える事はFOR YOUの後、あのまま行ってたら、僕は絶対に終わってた。もちろんそういう決断をしていくことがいいのか悪いのかって事は、その時にはわからないことがほとんど。だからといって、流されて行って、気がついたら何もなくな、っていうのは嫌だったからね。
あの頃シンガー・ソングライターとしての音楽を打ち出していた人は、男ではあまりいなかったと思う。女性だと、ユーミンは少し前に出した「紅雀」(78年)で、そういうことをやっていた。あれはすごく優れた作品だと思ったよ。意図は、僕がやろうとしたことと同じだったんだ。
美奈子も「FLAPPER」(76年)の後に「TWILIGHT ZONE」(77年)を出していた。 そういう変化の時期っていうのは、必ずあるんだと思う。そういうイメージチェンジをどんなふうにやっていったらいいか、っていうのを、結構真面目に考えたんだ。その意味で手ごたえはあったよ。売り上げはFOR YOUより良かったからね。
MELODIESについての一番最初の取材が、天辰保文(あまたつ・やすふみ)さんで、天辰さんに「クリスマス・イブ」を聴かせたら「これはすごい」って言われたんだ。あとレコーディング中だけど「クリスマス・イブ」のアカペラ間奏を一日がかりで作って、それをカセットに入れて持って帰って、まりやに聴かせたら、「これはすごい」って。そんな感じで、これは結構大丈夫かなって思った事は何回かあったけどねw
あの当時は1年に1枚アルバムを出してた時代でしょ。アナログLPだから10曲入りだよね。今みたいにCDだと1枚で15曲以上入るから、それはそれで1つの完成した作品として作るのは、大変な作業だけど、あの頃はアルバムって、曲数が少ないこともあって、常に次への通過作業みたいなものだったからね。今年出して、次はまた来年っていう。だから内容も、少しずつ進化してはいけばいいっていう話だから。で、後はライヴがちゃんと機能している時代で、レコードプロモーションとしてのライヴの存在がちゃんとあったから、それがすごく大きかった。82年のFOR YOUのツアーは20本くらいだったけど、翌年から30本になって、コンサートの本数も多くなっていったから、それはすごくMELODIESを後押ししてくれた。
    
<その曲を特徴づける楽器を決めないとダメなんだ>
MELODIESのレコーディングは結構長くやってた、1年くらい。ダラダラと。コンセプトはFOR YOUが出た後に考えてた。82年の夏くらいかな。

原盤権もRIDE ON TIMEのシングルまではPMP(パシフィック音楽出版、現在のフジパシフィック音楽出版)だったけど、RIDE ON TIMEのアルバムからはスマイルになっていたから、制作予算もFOR YOUの時代からはたっぷり使えるようになっていたから。それまではアルバム制作費が1,000万円でもお金のかけすぎだって言われたけど、例えば制作費が2,500万円だったとしても、たった2倍半になっただけなんだよ。お金をかけたとしても、売り上げが見込めるんだったら、それを相殺すれば良い話なんだ。そういう事は今までも散々言ってきたけど、結局レコード会社も原盤会社も事業計画だから、許してくれなかった。そういうことを言うと「あんただけが(所属)ミュージシャンじゃない」って言われる。でも自社原盤だったら、そんなこと関係ないからね。
実質のレコーディング時間は、MELODIESは割と短いかもしれない。曲も事前に揃っていたし。12、3曲かな。この時はね、FOR YOUの(曲数の)3分の2くらいはやってると思うけど。でもね、今と比べたら、どんなに長いったって、結局リズム録って、それにパーカッションか何かダビングして、後は弦を入れるか、ブラスを入れるかして、コーラスを入れたら終わり。後は別に何もないんだもの。今はマシンでやるか、生ドラムでやるか、マシンでやるならキックの音はどうするのか、の決定から始まって、やっぱり生でも一回やってみようとか、ループでやってみようとか、エレピの音はこれじゃなくてとか、選択肢が多すぎるよね。昔はエレピの音といっても、もうローズかウーリッツァーくらいしかなかったんだもの。
当時のレコーディング・セッションは1日、ワンセッションで2曲。下手したら1日3曲なんて日もあった。だからリズム録りはすぐに終わる。一人多重でやるのは、一日で撮らないとダメだしね。だからレコーディング自体、それこそリズム取りは延べ10日とか、それぐらいで全然取れちゃうの。それから永遠、ああでもない、こうでもない、っていうのが始まるんだよ。アレンジもそこからが大変。特にその曲を特徴をつけるためのが楽器を何にするかっていうのを決めないと、ダメなんだ。音色をね。
例えば「クリスマス・イブ」だったら、あのイントロのギターの音とか、コーラスの段取りだとか、「ひととき」だとトーキング・モジュレーターとかね。それは今でもそうだけど、その曲を聴いたときに特徴として耳に起こる音色っていうか、それを決めないと曲の個性が出ない。そういう作業をしないと、流れ作業の歌謡曲みたいな個性のないものになってしまう。今流行っている曲の多くは、曲を特徴づける音色も何も、全部ソフトシンセで個性がないから、カラオケだけでは判別がつかないし、歌もピッチ補正の繰り返しで、結果みんな同じような印象になってしまうんだよね。何かひとつでもいいから、例えばモジュレーションされたハープの音とか、そういうイントロひとつでもあれば、その曲はそういう色になるんだけど。今は何でもソフトシンセの既製品だから、なかなか違いが出せない。
   
<作った直後はダメなんだよ、自己評価ができないの>
アルバムを作ってるときは「クリスマス・イブ」の位置付けなんて考えてない。だって、あれは何度も言うように、うちの奥さんが「PORTRAIT」(81年)を作るときに書いた曲なんだよね。 それを当時のまりやのA&Rがボツにした。その人はロックンロールが嫌いだったから。じゃぁ自分でやってみようかなってことで、MELODIESに入れたんだ。MELODIESの30thアニヴァーサリー・エディションのボーナストラックに「クリスマス・イブ(Key In D)」っていうのが入ってる。あの曲のキーはAなんだけど、Dで歌ってるマルチテープがあった。倉庫で発見してね。それをリミックスして、ボーナストラックにした。このキーDでは裏声で歌ってる。最初はクリスマスの曲じゃなかったし、詞と曲も同時に書いてたんじゃない。メロディーとコード進行はあったんだけど、 それをある程度重ねていって、あのギターを5、6本、真ん中で重ねるっていうのは、村田(和人)くんのレコーディングでやった時に思いついたノウハウなんだけど、それをそのまま使ってね。そんな感じでアレンジをやっていく中で、この曲は何かバロックの感じがいいのかなと思ってね。バロックの曲だったら、クリスマスの曲かな、っていうアイデアが出て、それであの詞にたどり着いた。
そういう具合にオケが完成に近づくにつれて、曲のテーマ付けも決まっていく。その間、前段階ではどういう曲になるか分からないから、キーが高いのと2つテイクを録ってたんだね。で、キーがDのテイクは、仮メロを裏声で歌ってるんだけど、なんと「クリスマス・イヴ」の歌詞で歌ってるんだよね。 という事は、ある程度のところまで、どっちにしようか悩みつつやってたんだね。
このアルバム、一曲目の「悲しみのJODY」は裏声で歌っているから、もし(アルバム最後の)「クリスマス・イブ」のキーがDのテイクを選んでいたら、最後の曲も裏声になっていたかもしれないんだよね。今考えると、間奏に使った「パッヘルベルのカノン」の音域が、たまたま僕のAの歌とドンピシャだったから、それでキーがAのテイクにしたんだと思う。だからアルバムにおける「クリスマス・イブ」の位置って言っても、それは作って発売されてから後の話でね。発売されて「これはいい」と言われたりしてからなんだよ。作った直後はダメなんだ。自己評価ができないの。
  
<アルバムの中でキーになる曲は、やっぱり「高気圧ガール」なんだ>
アルバムの軸、やっぱりMELODIESは「高気圧ガール」でしょう。シングル曲だし。今現在は「クリスマス・イブ」になっちゃうけどね。MELODIESは前2作に比べるとすごく作家的なアルバムだからね。シンガーソングライターというより作家的なんだよ。もうやりたいことをやって、行けるところまで行ってみようという。だから曲をたくさん作って、たくさん録ってたけど、そこからセレクトされたのが、レコーディングがよくできた曲、歌いやすそうな曲、あとは自分で詞を書くから、詞が乗りそうな曲。そういういくつかのセレクトのファクターはあるけど、非常にバラエティに溢れている。
でもアルバムの中で、何が一番キーになるかと言えば、やっぱり「高気圧ガール」なんだよ。色々と考えて作った曲でね。「LOVELAND, ISLAND」から始まったトロピカル路線、ラテンリズムの曲と言うことで、我ながら非常によく出来たと思った。他にもいろいろファクターがあって、まずアカペラでスタートしている。日本語の曲で、ああいったアカペラでスタートしている曲というのも、なかなかなかったし、いわゆるポリリズムというか、複合リズムのパターンも非常にうまく構築できた。コピーライターの眞木準さんが作った「高気圧ガール」というコピーも良かったしね。CMを前提として作った、先行タイアップ・シングルで。30thアニヴァーサリー盤のボーナストラックに、これのロング・バージョンが入ってる。
RIDE ON TIMEはアルバム・バージョンを作ったでしょ。でも、あれはシングルと別テイクなんだ。別テイクだとやっぱり良くないんだよ。その反省を踏まえて、同じレコーディング・バージョンなんだけど、シングルはラテンとアカペラのヴォーカルで入るのね。でもロング・バージョンの方は、純粋なアカペラで始まる。僕がライヴの時に使ってる、あのイントロね。アカペラでスタートして、エンディングは、シングルはフェードアウトしてるんだけど、ボーナストラックの方はイントロに戻ってからフェードアウトする。だからシングル・バージョンより30秒くらい長い。それをアルバム・バージョンにしようと思って、ミックスまでして、ちゃんとマスターも作った。だけどイントロがアカペラだけで始まると、ちょっとインパクトが弱い。やっぱりシングル・バージョンのインパクトには負ける。あと収録時間が長くなるので、その30秒のカッティングタイム超過が嫌だから、結局シングル・バージョンをそのまま入れることにしたんだ。まぁいろいろ考えたんだよ。で、このアルバム・バージョンのテープもどこかに行ってしまって、長いこと発見できなかったんだけど、今回倉庫に眠ってたのをついに発見して収録できたと言うわけ。
   
<曲順の効果とかはもう結果論でしかないんだ>
MELODIESがバラード・アルバム的というのはどうかなあ。 僕はもともとアップの曲が少ないんだよ。今のCDみたいに全20曲みたいな感じだと、もっといろんな曲が入るんだろうけど、アルバム1枚で10曲、時間も40分位でしょう。今の感覚で言うと、ちょっと物足りない感じもあるんだけど、昔はそうじゃなかったからね。昔は片面17〜18分だからその間、精神集中して聴いて。それをひっくり返して、17〜18分のB面を集中して聴くという、あのパート1、パート2の世界で、ものを伝えようとしていたわけだよね。
だから、聴く方の心構えが違うんだよ。カセットテープをカーステレオで聴くにしたって、片面23分だから、46分テープを使って、アルバムの表裏を入れて、ちゃんとひっくり返して聴けるように作るわけだよね。ソフトを、わざわざカセットテープで買う人もたくさんいて。やっぱり、音楽の鑑賞態度が全然違う。
でも、そういうことを思い出せと言ってもなかなか難しいしね。だから曲順の効果とか、そういうものはもう結果論でしかないんだよ。でもとにかく「悲しみのJODY」を裏声で始めて、ああいう流れでアルバムを作ろうというのは確信犯だったね。なんたって片面20分前後で収めなきゃならないから、どう頑張ったって5、6曲しか入らない。両面で12曲入らないからね。結局10曲しか入れられないんだったら、どうするんだ、ってなる。どうバリエーションを作るか。でもGO AHEAD!を作った時だって「散漫だ」って言われたんだよね、作風が。「ひとりの人間が、こんなにあっち行ったりこっちに行ったりしたらいかん」と地方局のディレクターとかに言われたよ。それは何を基準に言ってるか全然わからない。根拠がわからない。
僕は日本のミュージシャンでは、最もトータル・アルバムが好きな人間だって自負しているから。人生で一番好きなアルバムはほとんどがトータル・アルバムで、リチャード・ハリスの「A TRAMP SHINING」とか、マーヴィン・ゲイの「WHAT’S GOING ON」や、ラスカルズの「ONCE UPON A DREAM」とか。そんなアルバムばかり聴いて育っているから。でも、日本はそうじゃないんだ。日本は外来文化なので。僕自身は引き出しの多さとか、作家性の方が重要だと思ったから、そっちの方に向いていたんだ。それをとらまえて、統一感がないと言うんだよね。たった10曲で。あの頃は本当にそういうことをね、新聞社とか地方局の人によく言われたよ。
自分の範疇超えてるからだと思うよ。特に新聞の文化部の記者なんて、クラシックはクラシック、ジャズはジャズ、みたいにカテゴライズで全部やってるから、それから外れたりクロスオーバーするのがダメなんだろうね。だからYMOみたいなのがわかりやすい。これは何をやりたいのかっていうのが一目瞭然でしょ。でも、僕は何をやりたいのかっていうのがわからない、と。大滝さんも、ずいぶんそういうこと言われたじゃない。
   
<今と違って、思った音が思った以上に出た>
移籍第一弾アルバムという意識は強かったね。あとFOR YOUがあれだけ売れたことも、やっぱり自分の自信になってるし、何よりリズム・セクションが安定したことと、レコーディング環境。

1982年から83年の六本木ソニースタジオの音。ニーヴのコンソール、スチューダーの24チャンネルのレコーダーと、マスターレコーダー。アンペックス456のハイ・バイアステープ。EMTの140プレート・リバーブのあの音。もう今と違って、思った音が思った以上に出るんだ。それが、あの時代の音楽をあそこまでにした勝因で、それはテクノロジーと不可分で、もう我々の努力とかじゃないの。この頃はナチュラルな自分たちの演奏が、きれいにマイクで録られて、それがテープにうまく入って、エコーやトータルリミッターの質も良い時代で、欲しかったロックンロールの音に仕上がってくるという、そういう全てのものがうまく転がっていった時代だから。MELODIESは曲調は若干地味なんだけど、そういうものが十分にサポートしてくれたんだよね。
あえて地味というか、チャラチャラさせたくないというか。RIDE ON TIMEもそうだったんだ。FOR YOUはその反動というか、たくさん録った中でのベストトラックを選んでいるから、やっぱり派手好みになるというかね。でもこれからはFOR YOUとは違うんだっていう、これからは自分はそういう事はしないんだっていう意思表明をしないとダメだと思ったの。それがプラスと出るか、マイナスと出るかわからなかったけど。
A面3曲目の「夜翔(Night-Fly)」からの曲の流れは、わけわかんないよね。まぁ大体「GUESS I’M DUMB」を入れるなんてのもバカだよねw すごいレアなシングルで、ようやく手に入れたから、今度はカヴァーしたくなるという。まあ、ただの道楽だよねw でもこの頃は、確実に1年に1枚、アルバムが出てたから、こんなこともやれたんだよね。この後、リリース・タームがドーンと空いていくと、カヴァー曲もガクッと減る、それはもう仕方ない。
MELODIESの内容は、要するにやりたかった。それだけ。あとは洋楽のリスナーにアピールするっていうか、ニューミュージックとは違うんだっていうアピールかな。こういうことを言うと必ず「お前だってニューミュージックだろう」って言われるんだ。ポピュリズムだからね。まあしょうがないんだよ、それは。いつの時代もそうだし。テレビの歌番組の最前線でやってる人は、流行の実感とかあるんだろうけど、我々はそうじゃないから。
だから、日本の音楽人口が何百万人かいるとして、どこのターゲットにどれくらいの量、どれくらいの質を目指すか、だよね。そういう情勢分析がきちっとできていれば、例えばCDのセールスがそれほど多くなくたっていいんだ。数少ないけど、そういう人ってずっといるんだよね。例えばブルーハーツなんて、そうだったじゃない。あれはあれで全くいいんだ。忌野清志郎さんも、多分それに近いものがあったんだよ。そういう人たちは美しいんだよ。ジタバタしない。
メディアは、すぐに何百万枚売ったとかそういうことばかり言うよね。そんなもの音楽で決められるわけないのに、まだやってる。だからAKBが史上最高売り上げだとか、ああいう馬鹿なことを言うわけで、今も昔も何も変わってないんだよ。
【第34回 了】