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ヒストリーオブ山下達郎 第46回 クリスマス企画アルバムSEASON'S GREETINGS(93年11月発売)

<過去の経験則がだんだん踏襲できなくなって来た>
ARTISANのツアーが91年暮れから92年、その頃からまた、だんだん思うようなレコーディングができなくなって来た。まりやの『QUIET LIFE』(1992)が終わってから、シングル「MAGIC TOUCH」へ(93年6月発売)。続いて(10月発売の)「ジャングル・スウィング」も録ったけど、うまくいかなくて。一人多重で全部作り直した。このあたりから生ものが出来なくなって、同期ものが多くなる。シングルの前作「BLOW」(92年2月発売)が最後、ちゃんと出来たのは。この頃はこういうものが、だんだん流行らなくなる。
「MAGIC TOUCH」も「ジャングル・スウィング」もチャートアクションがそんなに良くなくて、ベスト10には入っていない。80年代もそういうことがあって「ゲット・バック・イン・ラブ」まで7年くらい、ベストテン・ヒットがなかった。「さよなら夏の日」だって入ってないし、このあと「ヘロン」を98年に出すまで。そういう時期だった。「もう盛りは過ぎたから」って、小杉さんに言われたからw 自分としては曲もアレンジも新しい感じで作りたいと思うんだけど、それが結局、一般大衆には好まれないという。

「MAGIC TOUCH」はのちにアルバムCOZYに収録されるんだけど、この曲はマクセルのCMソングで、そのCMが、僕の顔をCG、ピンアートで再現するみたいな企画だったんだけど、出来上がったものが全然良くなくて。ピンアートが歌ってるんだけど、その頃のCG技術がお粗末で。そのCMの問題で、インスパイアされないというか、モチベーションが上がらない。久しぶりのマクセルで「RIDE ON TIME」以来のCMで、期待感もあったけど。そういう大仰なことをしてしまったので。でも、曲はそんなに嫌いじゃない。テクノにしては良く作られた曲なんだけど、あまりヒットパターンじゃない。チャラチャラするのがイヤだったという。
そんなことがいつもあって、次の年、94年にスマイルガレージを閉めることになって、スタジオ・ジプシーの弊害が出てくる。結構シングルは出してるんだけどw
この「MAGIC TOUCH」と前後して、93年6月にはTBS朝の情報番組「ビッグモーニング」で(「モーニングシャイン」に続いて)「鳴かないでHERON」がオンエアされた。サウンドシティでの録音で、音が全然気に入らなかった。だから、この時はシングルカットしないで。それで改めて98年に「ヘロン」としてシングルで出した時は、ウワモノだけ残してリズムセクションを録り直した。スペクターの”ウォール・オブ・サウンド”を目論んだけど、最初の上がりが全然良くなくて、ボツにして。”ウォール・オブ・サウンド”と言っても、楽器は大滝さんみたいに多くはなく、ピアノは1台だし、生ギターも2本しか入っていない。多いのはパーカッションくらいで。ナイアガラのパーカッション部隊(浜口茂外也、鳴嶋英治、川瀬正人、菅原裕紀)が参加してる。でも、例えばスレイベルにしても、重ねたからといって音が厚くなるわけじゃないから。
BIG WAVEなんて本当に薄いし。でも”壁”としては、同じニュアンスが作れるから。アナログとデジタルの違いで。これがBIG WAVEの頃と同じシステムでやれていたら、全然違ったと思う。それはデジタルに移行して通用しなくなった点で、さっきのCGも同じで、性能が全然追いついていかないんだ。何かとモノは新しくなるけど、それがなんでも良いというわけじゃない。その一例。
ようやくデジタル・リマスタリングが向上した時代だけれど、今思うと、やはり何よりもスタジオが変わったのが大きかった。 過去の経験則を踏襲しようとしてもダメ。昔良かったスタジオでも、一旦行ってみたら、もうすでに古くなっている。ミュージシャンも同じ。必ず前へ行かないとダメ、と思った。こっちももう40歳になるところだったし。過去の経験や体験が通用しなくなって、85年以降は、その繰り返し。それはトライ&エラーだから時間がかかる。僕に限ったことじゃなくて、みんな口に出して言わないだけで。あたかもバッチリ、みたいなふりをしているだけで。そうじゃなければ、よっぽど耳が悪いかw
少なくとも70年代からやっている人間で、今の音楽環境に満足している人間なんてひとりもいないと思う。長くやると大変なんだ。歌だって、今、僕がライヴで使っているベイヤーのマイクはスタジオ用の1本と、ライヴ用の2本、この3本が壊れたら、もうどこにもない。
このまえツアーパンフレットの企画で、日本画家の千住博さんと対談したんだけど、彼の世界も同じで、筆を作る職人がいなくなっていて、使っている筆がもうないんだって。一番危機的なのは膠(にかわ)で、職人さんがいなくなったら、もう作れない。やっぱり同じ問題があるんだね。絵の世界は未来永劫、変わらないと思っていたけど、そうじゃない。そんなのばっかり。墨とかも同じで、職人の後継者が少ない。今AIって言ってるけど、昔聞いた話では、旋盤の世界は20ミクロンくらいまでは機械でできるけど、それ以上は人の手でないとダメ。職人技だからね。
これからどうなっていくんだろうね。ものを作るのが、悪いことのように言われる。93年はいい思い出がない。ここからしばらく、通常のライヴができなくなった。だから94年は山下達郎シングスシュガー・ベイブにした。ちょうどシュガー・ベイブのSONGSをリマスターしたから、苦肉の策。92年は最高に良い状態状態だったと言えるのに、あっという間に悪くなった。以前も言ったけど、組織って5年で陳腐化する。音楽に限らず、基本的に5年はいいんだけど、それを過ぎると、いろいろ問題が起こってくる。5年持てば良い方。
  
<レコーディングには限界がない。だからライヴより難しい>
93年10月発売の「ジャングル・スウィング」は日産CMタイアップ。ボ・ディドリー・ビートを使いたかった。昔から好きだから。でも4リズムでやると、ボ・ディドリーのインディー感が出ないというか。これはドラムを基本マシンでやっている。生で弾いているのはギターとベースぐらい。キーボードも基本的には打ち込み。狙いとしては「PAPER DOLL」に近い。リード・ギターは自分でやった。「PAPER DOLL」の時と同じで、足で踏みながらできないから、手でワウペダルを動かして。「PAPER DOLL」はライヴで意外と映える。3人の時でも良くやっている。
当時、いわゆるクラブシーンが始まった。DJが入るクラブ。その光景というか、それを描こうかと思って。テクノ全盛期で、どんなものかと見に行ったんだけど、共感できなくて。だからフェイクなビート、ああいうナイトスケープというか、夜のクラブシーンの情景を音楽化したいと思って。4リズムだと全くその光景が見えないけど、このやり方だと、割とスモールな、上の階でDJをやってるクラブの光景というか、空気感や色合いが見えてくる。「フェイクなビート」「12インチのグルーヴ」という歌詞で合わせて。ヒップホップが出てきた頃だから、12インチ(レコード)が全盛。ニュー・ジャック・スウィングとか、そういう感じの時代。そういうクラブシーンなんかの歌で、もっといいグルーヴがあるだろうと。だからボ・ディドリーというのはちょっとレトロ。誰もそんなこと聞いてはくれないけどw
そういう色彩感を出すにはバンドじゃなくて多重録音、それしかない。曲の持ってる色彩感。生の人間がやるものってフォーミュラ(ありふれたもの)なんだ。スタジオ・ミュージシャンは1日に2本も3本もレコーディングやって、他の仕事は歌謡曲とは言わないけど、いわゆるニューミュージックだから、こういう風変わりなやつだと、どうしていいかわからなくなる。どこにもない個性的な、特徴のあるオケを作るのは、スタジオ・ミュージシャンには無理。ディスコのムーブメントだと、スタジオ・ミュージシャンはいくらでも活用できるけど、ちょっと脇にそれると難しい。でも、彼らの責任じゃない。スタジオでの仕事のタイプが違うだけで。バンドだったら、せいぜい3つか4つで、バーサタイル(万能)に、いろんなバリエーションは作れない。この頃からはそういうふうにしか作れなくなって、例えばまりやの「マンハッタン・キス」なんかは普通に作ればよかったけど、この「ジャングル・スウィング」や「MAGIC TOUCH」は定型じゃなく、主張したいことがあるから、しょうがない。
それでだんだん追い詰められてきたw だから、そういうときにはクリスマス・アルバムとかSINGS SUGAR BABEとか、そういうコンセプトに逃げる。追い詰められたという実感がものすごくあった。ライヴはそんなに破綻しない。でも逆に、ライヴでできる事は限界があるから、そこで収まってくれる。でもレコーディングには限界がないから、エスカレートしていく。だからレコーディングの方が圧倒的に難しい。ツールがだんだん変わってきて、それも辛かった。まあでも今聴いてみると、どっちもそれなりに切り抜けているという感じはするw
「ジャングル・スウィング」は”都市生活者の孤独”がテーマ。
いわゆるドラムンベースみたいなのとか、普通のレコードをかけてるようなクラブにも行ってみたけれど、照明がジュリアナ時代とは若干変わってきていて。音楽もサンプリングになってきたり。うまく言えないけど、例えば「バットマン」みたいなダークな感じもある。ディスコはもう少し軽薄だったけど、クラブになってからは、内向的というか、いわゆるディスコのチャラっとした感じとは違ってきた。色合いとか照明の使い方とか、若干違う。
あとは世代が若返っているから、違和感も結構あったりして。行ったところが悪かったかな。音楽がかかっている所には興味があるから、ディスコだって散々行った。踊らないけどね。BPMが速すぎると思ったりね。「BOMBER」がディスコで流行った時は、ディスコにも行った。ジュリアナ東京には行かなかったけど、似たようなところは。もっと前にはだとツバキハウスとか。アン・ルイスに引っ張っていかれた。市場調査と言ったら、それまでだけど。ツバキがいちばん行ったかな。
あとは西麻布の交差点に、小さなディスコが地下にあって。必ずクロージングには30分間RIDE ON TIMEをノンストップでかけてくれた。そこも結構行った。やっぱり、クラブビートの、そういうものの歌を作りたくて。それがドンチャカ、ドンチャカじゃ、つまらないから。お忍びじゃなくて、レーベルのスタッフ何かと一緒に行って。みんな知識があるし、93年だったらアトランティック・レコードの他にもいくつかの洋楽レーベルの発売権をMMGが持っていて、それこそスノーとか、そういうのをやっていたから。
   
<クリスマス・アルバムを出す事は昔からの憧れだった>
(93年)10月に「ジャングル・スウィング」、11月に『SEASON’S GREETINGS』を発売。ジャングル〜のカップリングには「BELLA NOTTE」と「HAVE YOURSELF A MERRY LITTLE CHRISTMAS」が入っているけど、これはもっと前に録音したもの。確か89年のARTISANのツアーでも歌っていたから。
89年に「クリスマス・イブ」がいきなりヒットして、1位を獲って。クリスマス・アルバムを出すことには、昔から憧れがあった。フランク・シナトラとか、クリスマス・アルバムを出せる人は一流、ビーチ・ボーイズしかり、フォーシーズンズしかり。クリスマス・アルバムを作るなら、例えば「BELLA NOTTE」をやりたいな、と。ディズニー映画の「わんわん物語」が好きだったから。「HAVE YOURSELF〜」は90年前後に、僕とまりやのメドレー形式でレコーディングしたのが、すごく出来が良かったので、その延長でオーケストラとのレコーディングもやりたいと。でも全曲オーケストラだと制作費がかかるのと、あとそういうのは、思ったより面白くない。オーケストラの編成に関しては自分の中に条件付けがあって、いわゆるリズム・セクションが入ったオーケストラはイヤだった。このSEASON’S GREETINGSのオーケストレーションはドラムを入れない編成にしたかった。その方がクラシックの格調が出るから。全部アカペラで作ってみようと思ったけど、結局オーケストラと、ひとりアカペラの混合で行くことに決めた。ドゥーワップクリスマス・ソングもいろいろあるけれど、まずは「BELLA NOTTE」から初めて。そういうアルバムの具体的なプランが固まったのが、93年の頭くらい。この頃は、自分でリリースの意思を決めていた。
93年の夏にニューヨークで5曲だったか、ストリングスを録った。チャーリー・カレロのアシスタントだった古い友人の、ジミー・ビヨンドリロの推薦で、ヘレン・メリルの旦那さんのトリー・ズィトーの指揮でオケを取ったんだけど、あまりに気に入らなくて。レコーディングはパワー・ステーション・スタジオ。でも結局、服部(克久)さんでやり直して。ニューヨークで録音したうちの「IT’S ALL IN THE GAME」だけが収録された。あれも服部さんにお願いできればよかったんだけど、時間がなかった。
気に入らなかった、というのは、一言で言えば「ロックンロールじゃなかった」から。「いくらカネがかかってると思ってるんだ」と怒られたよ。でも、ダメなものはダメだから。曲はかぶらないように録ったんだけど、結局「BLUE CHRISTMAS」は、服部さんで録音し直した。
1週間近く服部さんの家に通いつめて。服部さんはめちゃくちゃ忙しい人だから、何とか4、5日、時間をもらって、ああでもない、こうでもないと詰めていって。だけど、意思疎通も非常にスムーズだったし。服部さんはコンセルヴァトワールパリ国立高等音楽院)出身で、いわゆるフランス近代の人で。僕はとにかくフランス近代が好きだったから、色々と注文を出して。その結果、例えばSMOKE GETS IN YOUR EYES(煙が目にしみる)」のイントロは、ビオラとチェロの掛け合いから始まって。かなりユニークなアレンジだけど、「お前の好きなフランス近代にしてやったぞ」ってw だいたい「BE MY LOVE」とか「SMOKE GETS〜」とか、なんでそんなのをやりたいんだ、なんで知っているんだ、って言われたけど、「昔から好きな曲だったんです」と答えた。服部さんはそういう曲は、文字通りリアルタイムの人なので「BE MY LOVE」だったら任せておけ、という世代の人だから。SEASON’S GREETINGSの時は服部さんはまだ50代で、元気いっぱいだった。ライナーノーツのタイトルが「シーズンズ・グリーティングス・アンド・モア」となっているのは、クリスマス・ソングだけじゃない、クリスマス企画であって、クリスマス・アルバムのようなもの、であると。
理想のクリスマス・アルバムなら、ベンチャーズビーチ・ボーイズフィル・スペクター、ジャッキーグリースンしか聴かない。毎年、わが家ではそれプラス、まりやのアンディ・ウィリアムス、オズモンズ、カーペンターズしかかからない。
僕は実家がヤマザキパンの契約店だったから、クリスマスケーキの予約というのが、けっこうあった。小さい店だったけど、20個か、多い時には30個ぐらい。それを仕事帰りのお父さんたちが取りに来て、少しづつ減っていく。それがクリスマスの風物詩だったのを覚えてる。初めの頃のバターケーキからチョコレートケーキ、アイスクリームケーキに変わっていく。店番もしていたから、クリスマスというと、その記憶が一番大きい。練馬に住んでいた頃の記憶。今みたいに商売っ気がそれほど強くなかったし。
ロックンロールって基本的にクリスチャニティ(キリスト教)だから、ロックを聴くこととキリスト教を知ることは同義的なところがあって。誰でもクリスチャンになれるというか。僕は特にイタリア系の音楽が好きだから、カソリックの方が近いような感じもするし、アイリッシュもそうでしょう。ジョン・フォードラスカルズ、どっちもカソリックだし、U2にシンパシーを感じるのは、そういうところもあるのかもしれない。
池袋ではキリスト教の幼稚園だったので、日曜学校にも行っていて、今でも「主の祈り」はソラで言える。キリスト教は意外と身近だった。讃美歌もそこで歌っていたし。讃美歌の知識がなかったら、このアルバムを作れなかった。賛美歌集もかなり買い込んで、その中に載っていたグルックを採譜して作ったのが「グルックの主題によるアカペラ」。それと青山学院だったかの先生が編集した絵本の讃美歌集。このスコアがよくできていて、歌いやすい。ライツフリーだったし、本家の譜面よりソフィスティケイトされていて、すごくよかった。そういう意味で下準備はあった。企画性もあったし。アカペラとオーケストラと間にインタールードがあって。計画は練った。『ON THE STREET CORNER』のクリスマス・ヴァージョンでも良かったんだけど、それだけだと面白くない。オーケストラとのライヴもやろうかという話もあったけれど、それももって1時間だろうと。だからと言って、前半はオーケストラ、後半はバンド、なんてことにしたら、予算がいくらあっても足りないから。
歌唱では「SMOKE GETS IN YOUR EYES」の最後のG#、これが出なくなったら引退する、そんな話をした。僕の声域はG#が一番キレイに響くので、つとめてメロディーのトップがG#になるように作ってある。ロングトーンは耐久戦だから。まあ今まで本当に出なかった事は無いけど、ハイトーンは年齢を重ねれば、衰えてくるのはしょうがない。若気のミックスト・ボイスみたいな発声法はもう有効じゃないけど、普通にベルカンティックな発声をしたら、G#はまだ全然大丈夫。そこが無理となると、ちょっと自分の歌手としてのやりたいことができなくなるから。
   
<3人ライヴの始まりも、このアルバムがきっかけ>
いつも言っているけど「SMOKE GETS〜」の詞曲は、僕が考える楽曲としての完全性を持っている。昔から好きだったから、オーケストラとやることがあったら是非やってみようと思っていた。コンボでやっても面白くない。さっきも言ったように、ドラムは入ってなくて、マシンのパーカッションだけでやっているのがミソ。
あとはクリスマス・ソングには好きな曲がいっぱいあって、「BLUE CHRISTMAS」もそうだし、「HAVE YOURSELF〜」は既にレコーディング済みだった。試しにやってみたら良かったので、そのまま使ってる。意外とちゃんと考えてるw 「クリスマス・イブ」の英語ヴァージョンは、逆カヴァーがいくつも出てきたから、オフィシャル版を作らなければと。それでアラン・オデイに頼んだ。アランは僕の作品では独占的な英語詞のパートナー。彼は作曲家として本国で一流だっただけでなく、僕のためには日本人でも理解しやすい歌詞を書いてくれた。
クリスマスイブの英語詞は、あの時点で確認できただけでも、勝手に作られたのが3つか4つあって、冗談じゃないと思って。(達郎の英語カヴァー集となった)ニック・デカロのアルバム『LOVE STORM』は日本制作だから、ツメが甘くて。僕だったら、もっとちゃんとやってあげるのに。もしあれをトミー・リピューマがプロデュースしてたら、全然違うものになってたと思う。ダメなのはニック・デカロじゃなくて、制作サイドの責任かと。
僕の「クリスマス・イブ」も30年もチャートに入れば、スタンダードなのかなw 前にも言ったけど、ビング・クロスビーの「WHITE CRISTMAS」がビルボードのHOT100チャートに17年間入って、季節商品だから入るのが当然、というクレームがあった。それでクリスマス・チャートなるものが別に作られた。日本ではそういう事は無いけれど、それでも30年以上も入るなんて、そうそうないから。ありがたいこと。
そもそも、そんな「クリスマス・イブ」のヒットがなければ、こんなクリスマスのアルバムなんて企画は、不可能だったから。その後もクリスマス関連の音源を求められたから、リマスター盤(20周年記念盤)にあれだけのボーナストラックが入ったわけでw クリスマスに限定された企画だけど、まあいろいろ作った。クリスマス・ソングに対する造詣はあって、もともと嫌いじゃないから。それに僕の場合、幸運なことに、親が子供に聴かせるというのがすごく大きくて。最近の新宿ロフトのライヴを見に来るような若い子たちも、親がかけているのを聴いて、育っている。サブリミナルで刷り込まれているんだね。
この93年にも「クリスマス・イブ」はTBCのCMソングに起用されてヒットして、12月11日にはTBSホールでのイベントに出演した。TBSラジオ「赤坂ラジオ」の150回記念で、松宮一彦くんに拝み倒されて。急だったから、東京在住のファンクラブ会員を無作為に抽出して、招待状を出したら、ほぼ全員来た。3人ライヴはあれが最初だった。3人で演奏したのは5曲くらいで、他はアカペラと弾き語りだった。最後に3人でやった「IT‘S ALL IN THE GAME」はアルバムに入っているのより、出来がいい。リマスター盤のボーナストラックに入れてある。TBSホールは300人も入らないけど、なかなかいいホールだった。ピアノも、良いピアノを置いてあった。色々細かい体験が、糧になっていく。普通のバンドでは予算の都合で、とても無理だったから、3人ライヴを考えて。ちょうど、このアルバムが出たから、1曲目を「MY GIFT TO YOU」から始めて、アカペラ、弾き語り、3人で、という構成で、2時間ちょっと。20曲くらいやった。
次への萌芽というか伏線というか、そういうのは結構ある。だから色々やると良いんだ。クリスマス・アルバムを作っておいて、良かったと思う。夏フェスに出ると、夏フェスのノウハウみたいなものが身に付くし、それが何かに役立つ可能性もある。なんでも経験、人生に無駄なことはない。
この時期の、作品的な低迷というより、技術的な低迷、メンツの問題とか、そういう時期だったけれど、そんな体験がなくて、90年代にコンスタントに活動していたら、結構大変だったかもしれない。あの時期に休めてたからw 妙に押し出さなくて良かったと思う。バブルの時代、アルバムのセールスが200万、300万枚っていう時に、無理にツアーをやっていたら、行き詰まっていたかもしれない。
【第46回 了】