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ヒストリーオブ山下達郎 第43回 クリスマス・イブが初のシングル1位、89〜91年ARTISAN前夜

<「クリスマス・イブ」が人生最大のヒットになるとは、夢にも思わなかった>
89年11月ライヴアルバムJOY発売後、「クリスマス・イブ」が12月にオリコン・シングルチャート1位を獲得。88年にJR東海のCMに使用されて再ヒットし、翌89年も引き続きCMに使用されて1位になった。もう、これはきつねにつままれた感じw 
ただ、あのプロデューサーは古い知り合いなんだけど、彼に聞いた話によると、あのプロジェクトは”クリスマス企画”なので、古今東西クリスマス・ソングを数百曲単位で、1週間ぐらいかけてみんなで聴いたらしい。それで最後に残ったのがあの曲。つまり純粋に「クリスマス・イブ」という楽曲ありきで、全てが始まったという。よって、CMの映像が立派なPVになっている。バブルの時代に重なって、当時の好景気の中で、クリスマスの夜にレストランで食事をするとか、ホテルに泊まるとか、そういうものにうまくリンクした。ビジュアルが楽曲に合うものだったから、それが絶大な効果を及ぼした。
「クリスマス・イブ」は発売されてから1位になるまで6年6ヶ月かかっていて、これは最長記録らしい。その後も32年間連続でチャートに入っていたり、変わった記録ばかりw もともとはムーン移籍第一弾アルバムMELODIESの中の1曲で、83年6月に発売されたけど、当時の新聞の取材か何かでは「なぜ6月の発売のアルバムにクリスマス・ソングが入っている?」と言われたw  このことは前にも言ったけど、あの時代はアイドルは年に3枚、つまり4ヶ月に1度のペースでアルバムを出すようなローテーションで、必然的にそれは季節商品としての色合いが増す。それに比べて、僕らは年1度のリリースで、下手したら2年に1度くらいのペースになる。だから一過性のものよりも、曲がどれぐらいの耐久性を持っているか、に着眼して作っているから、別に発売が5月だろうが6月だろうが、クリスマス・ソングには関係ない。5年、10年は持つものだから。それをいくら新聞記者に説明しても「ああ、そうですか」みたいな反応だった。当時の文化部の記者は、毎日毎日タレントのインタビューを、しかも1日に複数とかやって、くたびれてる。だから、そんな程度の質問しかできない。
それはともかく、せっかく作ったクリスマスの曲だから、クリスマス向けに何かしようということで、最初にやったのは12インチ・ピクチャーレコード。あれは2万枚作ったけど、レコード屋の店員が持って行って、ほとんど市場には出回らなかった。その後も、カラーレコードとか、カラーレーベルとか、趣向変えて何度か出した。
それにしても、CMに使われた初年度は15位で、翌年は1位。ベストテンにも数年連続で入っていたし。クリスマス・ソングというのは季節商品だから、やはり一発当てるとビング・クロスビーの「ホワイト・クリスマス」と一緒で、ロングセールスになる。
実は「ホワイト・クリスマス」というのはビルボードのHOT100に17年間チャートインして、クレームが出たんだそう。クリスマス・ソングだからその季節にチャートインするのは当然だろう、と。で、クリスマス・チャートというのが別に作られた。いわゆる季節チャート。それで「ホワイト・クリスマス」はHOT100からは外れるされることになる。
ところが、日本にはそれがないから、僕のは30年以上チャートインしてる。その後も「ホワイト・クリスマス」は30数年間クリスマス・チャートに入り続けたけど、条件さえ整えば、あのままHOT100にずっと入れ続ける可能性もあった、と聞いたことがある。とはいえ、まさか自分の人生で最大のヒットが「クリスマス・イブ」になるとは夢にも思わなかった。1位を獲ったのはシングルではこれだけだし。僕の活動の主体はアルバムのリリースで、テレビにも出ないし、MTVにも興味がないから、PVも作らないので、大ヒットシングルなんて出にくい。
ましてやナンバーワンなんて、とんでもなく難しいんだよね。89年のまりやのシングル「シングル・アゲイン」はある理由で1位が獲れなかった。あの当時はCDシングルの生産量が、まだそんなに充分じゃなくて、工場の生産量が注文に追いつかなかった。その結果、大幅に在庫切れが発生した。あの時きちっと手当てできていれば、1位が獲れたんだけど。その直後に「クリスマス・イブ」でも同じ問題が起こって、またもや在庫切れが起こりそうになった。
そこで緊急対策として、ドイツにプレスを発注した。そのおかげで品切れが防げて、1位が獲れた。だから、あの年の「クリスマス・イブ」には、ドイツ・プレスと日本プレスの2種類が存在する。ドイツ・プレスは日本語表記ができないから、ラベルが英語表記だった。CDシングルが登場したばかりの頃だから、生産能力が整っていなかった。ジャケットが縦長サイズで。でも「シングル・アゲイン」の教訓が「クリスマス・イブ」で生きた。
あの時代は、僕はレコード会社の役員だったから、歌う取締役とか揶揄されてたw  小さい会社だったので、販促や営業に十分なパワーがなかった。だから根回しや、無理押しができなかった。「シングル・アゲイン」で、そういうことが起きたおかげで、その教訓が生かされた。それまでは、シングルはあくまでアルバムを売るための起爆剤であって、例えばFOR YOUからはシングルカットはなく、収録されている「LOVELAND, ISLAND」はCMのタイアップだったけど、シングルカットしないことでユーザーをアルバムに向かわせて、アルバムの売り上げを上げる、そういう戦略論が昔はあった。(「LOVELAND, ISLAND」はその後2002年にフジテレビ系ドラマ「ロング・ラブレター〜漂流教室」の主題歌としてシングルリリース。)
「クリスマス・イブ」の場合は、突如起きたことだから、バタバタはしたけれど、まあ、ありがたいこと。何度も言うけど、まさかあんなにヒットすると思わなかった。でも作品的には、自分の作ったものの中でも、ベストに入るクオリティーだし、それがロングセールスになってくれた。結局、その先は”時の試練”だから。当時はドラム・マシン全盛で、しかもまだ物珍しさ優先の、チープな音の時代だったから、そういう点では差別化ができた。
例えばワムの「ラスト・クリスマス」のオケなんか、そんなに耐久性はないと思ったもの。さらにああいう洋楽のヒット曲はレコード会社が、いわゆるコンピ(レーション)物とか、通販で売ってるようなベストのものにどんどん入れてしまうから。いわば売り切ってしまう。「クリスマス・イブ」はそういうことを一切やっていない。そんなにいろいろ入っていたら、いくら大ヒットしたクリスマス・ソングといえども、シーズンのたびにチャートインするなんてアクションも起きない。
それにしても僕の「クリスマス・イブ」が、数百曲の中からの1曲に選ばれた。その当時の古今東西クリスマス・ソングのコンペに勝った。それまで大体負けることが多くて、コンペには弱いんだけどw  あの時はシンパシーを持って、推してくれる人がいたから。
相手側からは途中経過の報告などはなく、既成の曲だし、許諾の確認があっただけ。多分ユーミンの「シンデレラ・エクスプレス」とか、一連のそういう流れがあったから。こっちは「クリスマスですか。ああ、そうですか、ありがとうございます」という具合で。こちらから戦略的にプロモーションをかけたわけではなかった。全く営業なんてしていない。そういうおおらかな時代だった。
バブルの時代だから、制作費の予算も潤沢で、クリエイティブなものにも、すごくお金がかけられた。そうすると、純粋に自分の審美眼とか、そういうもので動ける。JRも余裕があって、特にJR東海にはあったのか、一連の映像素材は、夜中にCMだけのために電車を走らせたり、終電後の駅を貸し切ってロケをしてた。JRの土地だから、自由自在にできたじゃんじゃないか。エキストラも大勢いて、実は僕もワンシーン出たことがあるんだけど(92年の”クリスマス・エクスプレス ’92”)すごいなと思った。いい時代だった。CMにお金が掛けられ、クリエイターの腕の見せ所、みたいな時代。
文化というのは、経済的に豊かな平和な時代にこそ、花開く。疫病が蔓延していたり、内戦に明け暮れたりしている場所では成熟しない。文化どころではないから。あの時代、いろいろ批判はあったけど、文化にとってはすごく良い時代だったと思う。今からすれば、そんなバブルのチャラチャラした生活しやがって、みたいな言われ方もするし、そういう連中には、僕なんかは「クリスマス・イブだけの一発屋」なんて言われるようになっちゃったw  笑っちゃうよ。過去の事は、今の尺度ではわからないこともたくさんあるのに。
ひとつだけ言えるのは、作品の耐用年数には絶対の自信があった。クリスマス・ソングって「クリスマス・イブ」がヒットしてから後も、当然数え切れないくらい出た。だけど、どうしてもクリスマス狙いというか、一発当てようとか、そういうあざとさが出てしまう。「クリスマス・イブ」はそういう下心が一切ないから、それはとても大きな要素だと思う。それに当時のアレンジの多くは、いわゆるニューミュージックの、デジタル・リバーブに中域がスカスカのトラックで、それじゃあすぐに陳腐化する。トラックとしての完成度については、初めから当てることを目論んだ季節商品では、なかなか深くは突き詰められない。
「クリスマス・イブ」がヒットしたことで”夏だ、海だ、達郎だ”だけでなく、夏と冬の2つが揃った。季語が2つあるのは僕だけ、って言われたよ。でも何度も言うけど、交通事故みたいなものだから。
要因はいくつもある。若い頃からずっとCMの仕事をしてきたでしょう。僕が21、2歳の頃から15年くらい一緒に仕事をしてきた同世代というか、少し下の世代も上の世代も含めて、当時クリエイターとしてイニシアチブを取れる年代の人たちが仲間だったから、そういう意味ではシンパシーというのはすごくあった。そういうところで支援してもらったというか、その結果だと思う。
   
<個性的な構築を実現するためにトライ&エラーを繰り返した>
「ゲット・バック・イン・ラブ」に続いてシングル「クリスマス・イブ」もヒットしたけど、自信みたいなものは全然芽生えなかった。88年発売の「僕の中の少年」くらいから、ようやくソニーのPCM3324が3348(48chデジタル・マルチ・レコーダー)になって、デジタルも、フィルターとか、クロック・ジェネレーターとか、周辺機器が発達してきて。
デジタルというのは波形が汚れるとダメだから、きれいにするためのデジタル・フィルターというのが開発され出して。アナログの場合はもともと位相は悪いし、帯域(音の振動の幅)がそんなに広くないから、少々ギザギザでも、それがかえって歪みになってよかった。でもデジタルはすごくシビアだから、きちんと時間軸や音の出入り口の管理をしないと濁る。ジッター(デジタル信号の揺らぎによる音の乱れ)とか、そういうのを防ぐためのいろいろなノウハウがだんだん発達してきて。
あとはデジタル・リマスタリングという方法論が出てきた。僕が初めて本格的にデジタル・リマスタリングをしたのが89年で「クリスマス・イブ」がヒットした頃、まりやの「告白」(1990)からデジタル・リマスタリングがちゃんとできるようになった。それでARTISANに続く。ライヴ・アルバムJOYの時は、まだちゃんとしたデジタル・リマスタリングというものはなくて。ARTISANが、ちゃんとしたデジタル・リマスタリングでアルバムを作った最初だから、結構インパクトがあった。
ARTISANは、いろんなノウハウをつぎ込んで出来たアルバムだけど、逆に批判も受けた。あのアルバムは、ほとんどマシン・ミュージックで制作しているから。
前にも言ったけど、ずっと前からコンピューターはいじってて、自分の使っていた8801、その後の9801でシンセを鳴らせるソフトが出てきたおかげで、家で打ち込みして、曲が作れるようになった。それは作曲の手段としては、本当に役だった。それまでは、スタジオにドラムやベースを連れて来ては、試行錯誤していたけれど、一人で家で無限にトライ&エラーができるようになって。あれがなかったら「新・東京ラプソディー」や「アトムの子」のようなパターンは絶対生まれなかった。人間ではできないことが、できるようになってきた。ARTISANはそこを狙ってうまくいったというか。そうすると、それまでのファンが「なんで生楽器でやらないんだ」とw 生ドラムでやっているのは「SPLENDOR」と「ENDLESS GAME」くらい。
POCKET MUSICの時は、ドラムやベースは比較的(生が)多かったけど。曲想がどんどんバラエティに飛んでくるというか、曲想を変えていくと「アトムの子」みたいに、機械じゃなければ、絶対にできないものが出てくる。あとはあの時代「さよなら夏の日」みたいな曲では、ドラムとベースが生だと、どこにでもあるような、ありふれたオケにしかならなかった。他とは違うものを作るための、コンピューター・ミュージックだった。
オーディオ的にもデジタルが発展してきて、何でもかんでもデジタルになって、例えばSSLのコンソールとかはいいんだけど、デジタル・リバーブの可能性の低さというか、何をかけても同じ、というような問題点があった。それを補填するためのマシン・ミュージックでもあった。僕の場合、アレンジも一緒にやっているから、そのファクターも大きい。詞と曲だけだったら、普通に作れるけど、それにどうイントロをつけて、どういう楽器編成にするか。それをバンド編成で、ドラム、ベース、ギター、キーボードという編成のレコーディングにおける他との差別化に、限界を感じてたから。
音色というか、音場、音世界というか、それをどうやれば、もっと個性的に構築できるか、それでいろいろやって、こうなった。ちょうどライヴ・アルバムも出して、その時に生音でやった手ごたえはあったけど、いろいろ問題があって。
それまで一緒にやっていたメンバーが、スタジオ・ミュージシャンとして売れてきて、忙しくなった。そうすると、こちらが最優先じゃなくなる。毎日3本、4本と仕事をしていたら、どれもがただのONE OF THEMというか、集中力が昔と違うとすごく感じて。あとはライヴでも、メンバー間がぎくしゃくしてきたりで、こんなことに神経すり減らすなら、機械でやったほうがいいと思った。
その頃のインタビューで言ったのは、生音(人間)でやるのと、機械でやるのとでは5人でやったら8人分ぐらいのことができるのは人間で、そんなのは当たり前のことだけど、それでもくたびれたミュージシャンよりは機械の方が良い、と。
当時は、打ち込みもシンセの音作りも、何もかも全部ひとりでオペレートしていたから、入れては消し、録っては消しを繰り返していた。今みたいにMIDIが一度にたくさん同期しないから、キックを録って、スネアを録って、ハイハットを録って、一つ一つ別録り。そんなことを延々やっていた。生音でやるのが良いのは当たり前、そんなことはわかってる。いろいろ言われてきて、もう27年ぐらい経ってるけど、結局、今でもこのスタイルだから。それで良かったと思う。
  
<”時代の音”にしないことが、楽曲の耐久性を生む>
だから、全て耐久性。最低でも、その曲を10年経って聴いたときに、チープじゃないもの。前にも言ったけど、ゲート・リバーブを一度も使わなかったから。時代の音を使わない事はとても重要。あの当時だと、デュラン・デュランとかジャパンみたいな音像、ああいうのは絶対にイヤだった。自分自身が聴いて、いいと思う音場。アンビエンスとか、なるべくデッドに、とか、そういうものに愚直なまでにこだわる。
あとは使い古された楽器編成に対する疑問。例えばARTISANに入っている「ターナーの汽罐車」も「さよなら夏の日」も「MIGHTY SMILE(魔法の微笑み) 」も一応、全部生音でトライしている。でも全然気に入らなくて。何か、古臭い。何を持って、新しい、古いというのは一言では言えないけど、あの時代の空気の中では古色蒼然に感じた。今考えると、演奏のテンションとか、そういうのがいっぱいあった。これじゃ70年代に僕がイヤだった、スタジオ・ミュージシャンたちと同じこと。だから自分専用のメンバー、ミュージシャンを集めたのに、やっぱり上手いから、取り合いになってくる。なかなか大変だった。
以前は基本的に年に1枚というか、そのくらいのノルマで(アルバム制作を)守ろうというのがあったけど、まりやがどんどん売れて来たので、交代で1年おきになった。91年のARTISANのあとが『QUIET LIFE』(1992)で、その前は『REQUEST』のあとが『僕の中の少年』(1988)。88年からツアーをやって、89年に『JOY』が出て、それから『ARTISAN』のレコーディングに入った。純粋にアルバム制作のためのスケジュールを組んで。スマイルガレージ(スタジオ)が、かなり機能してきたから。
アルバム・タイトルはPOCKET MUSICとARTISANは、完成する前からそのタイトルにしようと決めていた。
アルバムのタイトルでコピーとして好きなのは、この2作と『僕の中の少年』で、この3つは甲乙つけがたい。この3作品はある意味「シンガー・ソングライター三部作」。POCKET MUSICには”反文化人音楽”という主題が背景にあった。YMOの残滓(ざんし/残りかす)というか、インテレクチュアルな人たちによるプロパガンダに対する疑問というか。それなら職人のほうがいいなと思った。最近はちょっと考え方が違うけど、あの頃からアーティストという言葉がよく使われるようになってきて、自分で自分のことをよくアーティストなんて言えるなって、それがすごくイヤだった。それならばアルチザンかなと。この歳になると、職人には職人の抱える問題がある、ということがわかってきたけど、あの頃は職人気質というか、そういうものに憧れがあった。
例えば、これは当時もよく話してたことなんだけど、そろばんを作っている職人が、物差しを使わずに材料をはめ込んでいく、すごいと思う。他にもiPhoneが出始めた頃に、表面を研磨するのに20ミクロンまでは機械でできるけど、その先は人間の手じゃないとダメ、だとか。僕の祖父が職人の家系で。親父も長男だから、一応工業学校行って、技術者をやってた。僕も長男だから、そのまま行けば継いでたんじゃないか。
どっちかって言うと、僕は理系。理系で職人の血が流れている。だから、職人は本当に好きだった。官僚みたいなのがいちばん理解できない。それから芸能人とか文化人とか言われる人たちって、それこそ毎日、誰かと飯食いに行ったり、飲みに行ったりしてる。知らない人と交際し、盛り上がって、連絡先を交換して、みたいな事は、僕、ほとんどない。そういうことが好きじゃないというのもあるけど、そんな暇がない。ライヴだって交際のためにやってるんじゃないから。忙しい人ってみんなそう。
反文化人としてのアルチザン、だから、アナーキーなの。プロパガンダとレトリックが大嫌いだって、昔インタビューで言ったら、それだって立派なプロパガンダじゃないですか、って突っ込まれたけどw
    
<あの頃マイナスだと思った経験が、今ではプラスになっている>
アルチザンということで、2011年7月から8月までの4週にわたって、朝日新聞の土曜版の「仕事力」という連載で、「職人でいる覚悟」というタイトルで、取材を受けた。取材する側の視点がはっきりしている、いい企画だった。その2年くらい前に坂本(龍一)くんのインタビューがすごく良かったので、アルバム『Ray Of Hope』を出すタイミングで取材してもらった。
自分の中には、きちんと仕事をして堅実に生活をしていかなければならない、という思いがある。僕だって最初からミュージシャンになりたかったわけじゃないし。小学校の頃は結構貧困だったんだけど、生活が向上するとともに、あんまり勉強しなくなってきて、それで70年安保の騒動があって、これ幸いとドロップアウトしてしまった。他にもいろんなファクターがあって、例えば学校や教師とそりが合わないとか、あとは学生の空気。あの時代の都立高校の進学校というのは、そこかしこに競争意識が充満していて、僕みたいなドラム命のお菓子屋の息子には、違和感の連続で。あとは学校ぐるみの不正があったりとか、そういうのはサボるには最高の理由で。そのおかげで映画を観たり、本を読んだり、ジャズ喫茶に入り浸ったりして、今まで聴いたこともないジェレミー・スタイグ(フルート)とか、レスター・ボウイ(トランペット)とかを知って、勉強以外の見聞が広がった。それが今の自分を、とても助けている。
ロックやフォークのインタビュアーというのは、意地が悪いから、それに負けないように、こちらの理論武装ディベート能力がものすごく問われる。音楽好きでギターが好きで、でも、ただそれだけでは、全く評価されない。口数の少ない、心優しい、おとなしいやつは論理展開ができないから、一段低く見られる、そういう時代をくぐってきた。十代のあの頃にはマイナスだと思ったことも、後になったらプラスになる。すごく貴重な体験だった。
僕は60近くになるまで、高校卒業できない夢を半年にいっぺんぐらい見てた。3年生の時に留年して、1学年下の後輩と一緒になって、それがイヤになってやめる、そんな夢。ずいぶんと長い間見てたんだけど、最近ようやく見なくなった。高校3年生の時は、授業に半分ぐらいしか出ていないから、留年してもおかしくなかったんだけど、教師は僕みたいな生徒を置いておきたくなかったから、追い出すために卒業させたんだろうと。不満分子を学校に置いておきたくない。でも、授業中に勝手に教室を出て行ったりもしてたけど、それは自分が本当にやりたかったことではなくて。ここにはいられない、という十代の心理がトラウマになって残っているから、そういう夢を見ていたんだろうと。
シュガー・ベイブ時代は小遣い帳をつけていた。”夕刊フジ20円”とか。堅実というより、あの時代は本当に金がなかったから。風都市という事務所に入ったけど、給料はくれないし、印税ももらえない。そんな理不尽な話ないだろうって抗議に行くと、六本木の料理屋に連れていかれて「まぁ一杯」なんてごまかされたり。
若い時はいいかもしれないけど、しょせん浮草稼業。昔はバンドマンなんて、5年やって稼ぐだけ稼いで、スナック持ってやめる、とか。だから、もうちょっと賢い裏方というか、レコード会社の社員とか、セールスマンはできないけれど、制作でやれればいいな、なんて事は思っていた。自分の音楽はそんなにメジャーになれるわけがないだろうし、歌謡曲は書けないし。今もってなぜ現役でいられるか、自分でもわからない。ただ、その時その時の作品はこだわっていたし、一生懸命作ってた。みんなそれなりに作っているんだろうけど、執着度の問題か。
僕はシンガー・ソングライターで、アレンジも手がける。大抵の人はそこまではしない。若い頃はそこまでしないと、食べていけなかったから。アレンジもずいぶんやらされた。コーラス・アレンジをしていると、他人のオケを聴く機会がある。スタジオ・ミュージシャンだとパーツでしかないけど、コーラスってほぼ出来上がったときに聴くから、全体像が見える。そこで学習する努力をするかしないかで、差が出てくる。
当時はメセナという企業の文化、アート活動が盛んで、アーティストと言われる人たちも、そういうものにタイアップする風潮があった。レコードが売れていた時代。要するにニューミュージックというものが完全に市民権を得ていた時代。何百万枚も売れる人がいて、それが可能性と言えば聞こえはいいけど、逆に考えれば、一攫千金の野望を、ものすごく増幅させる。あるレコード会社ではミュージシャン同士が肩組んで「俺たちファミリーだ」なんて言ってたんだけど、重要なのはそこではなくて、個人のイデアを持ち得るかどうかなんだ。
レコードの音世界にしろ、ライヴの音世界にしろ、きちんとした自分のビジョンがどれだけ持てるか。それを100%担えるようになるまでは時間かかる。特にアレンジはある程度の知識がないとできないし、本音を言えば、ピンで歌っているやつがそこまで関わると、歌がおろそかになってくる。僕だって、もしもアレンジも作詞も作曲もできなくて、ただ歌だけ歌って40年やってきたら、もうちょっと歌も上手くなっただろうと。歌入れが最後の作業だから、いつも締め切りギリギリで歌わなければいけなかった。
予算も限られていて、最終的な仕上がりに不満が残っても、我慢するしかない。それにどうやって決着をつけるか。そのためには枚数を売るしかない。コーダのところにあと一小節足したいと思ったら、まだコンピューターを使う前の話だから、もうワンテイク録らなければいけない。だけど「今の君の売り上げではそれはできないから、やりたかったら、売上を上げなさい」と言われた。何のためのレコードを売る努力をしたかと言うと、もうワンテイク録りたいからで、別に有名になりたいとか、お金が欲しいとか、そういうのでは全然なかった。欲求があべこべなんだ。
ARTISANが出る前年、90年4月にシングル「ENDLESS GAME」を発売した。これはTBS系ドラマ「誘惑」の主題歌。連城三紀彦の「飾り火」が原作のドラマで(出演:篠ひろ子紺野美沙子林隆三吉田栄作宇都宮隆)、脚本は荒井晴彦さん。脚本家としては非常に有名な人で、荒井さんはどちらかというとバリバリのサブカルチャーで、のちに笠原和夫さん(仁義なき戦いの脚本家)のインタビュー本を出したりしている。「ENDLESS GAME」は原作の内容に倣(なら)って、不倫の歌。89年のツアーが終わった翌日からレコーディングして、三日間徹夜した。これも初めに打ち込みで作って、当たりをとって、それでドラムだけ本物にした。
この曲は「ゲット・バック・イン・ラブ」の完全な延長戦みたいなやり方で作っているけど、演奏もいいし、なかなかよくできている。3348(デジタル48ch)になっていたから、音も良い。ドラマのために書き下ろした曲だから、アルバムに入れる予定で作ったわけではなかった。確かいろいろ迷って、3パターンぐらい作ったと思う。ARTISANはもともとストックが少ないアルバムで、これが最初にできた曲じゃないかな。ムード歌謡と言うより、むしろユーロポップだと思うけど。いつもの歌い方だと全然オケにハマらなくて、マイクを低くして、うつむいて歌わないとダメだった。声を張っちゃダメ。そういう記憶があるw あんまりドロドロしてもイヤだから、「あまく危険な香り」のような抽象的な内容にした。このくらいじゃないと、こういう歌はダメなんだ。恥ずかしくてw ドラマの結末がわかってしまうような歌詞ではダメだから。発注側からの内容の指示は一切なかった。この頃は、そういうのは殆どなかった。
   
<「さよなら夏の日」のアレンジは打ち込みの勝利>
翌年の91年5月には(アルバムARTISAN発売に先行する)シングル「さよなら夏の日」が出ている。 これは第一生命のキャンペーン・ソング。バラードにしてくれというオーダーはあった。先に曲を書いて、詞をあとからはめた。なんでこのテーマにしたかは、あまりよく覚えてない。「さよなら夏の日」は『POCKET MUSIC』から『僕の中の少年』までの過程で、やりたい詞のテーマが具体的になってきた成果で。
これはいわゆるジュブナイル(少年期)ソング。まあ、時代も良かった。この時、僕は37か38くらいだった。高校の時にガールフレンドと、としまえんのプールに行ったことをふと思い出して。夕立が降って来て、虹が出て。その回想。美しい思い出。ジュブナイルから大人に転校していく。それが夏の終わりとオーバーラップする。そんなテーマでどういうものができるか、昔から考えていた。「悲しみのJODY」もそうだけど、秋が、人生の後半部分に入る、というイメージに重なって、それを膨らませた。
この曲も普通にドラム、ベース、ギター、キーボードと生楽器だけでレコーディングすると、ものすごく古臭くなる。だから、いじって、いじって、打ち込みで代理コードを色々考えて。ビーチ・ボーイズによくあるような、ルートに行かないコード進行を考えた。これは打ち込みの勝利。現場で考えながらアレンジしてたら、全然ダメだったと思う。打ち込みのデータは視覚的に全体像を把握できるので、そうすると、すごく、合理的なコード・プログレッションが作れる。「ゲット・バック・イン・ラブ」なんかも同じなんだけど、この時代はコンピューター・ミュージックにとても助けられた。ヘンテコなコード・チェンジが楽しめるというか。「さよなら夏の日」はドラムマシンとシンセベースの演奏だけど、このちょっとソリッドな感じじゃないと、夏の日の終わりの、東京の遊園地の流れるプールの、アーバンな感じは出ないと思った。関係ないけど、としまえんの流れるプールは水が冷たくてねw
「僕の中の少年」での少年時代の回帰、その流れと同じ。モラトリアム世代だから、そういう歌ばかり。”ピーターパン症候群”というような、そういうものと発想の源は同じ。高度経済成長からオイルショックを経て、再びバブルの時代でしょう。似たような背景がある。でも僕のは圧倒的に言葉数が少ないから、それほどの具体性は提示できないけど、その分、解釈の幅が広がる。
バラードと言っても、黒人系のバラードではなく、メロディーがはっきりしてる。黒人系のバラードでは、しばしばリズムパターンが主で、メロディーがあってないような曲がある。でも、日本ではメロディーの顔立ちがきちっとしてないと、受け入れられない。1991年だからデビューしてから16年経ってて、それは実感としてあった。だから「ゲット・バック・イン・ラブ」にもきちんとしたメロディーを乗せた。後はある程度の歌い上げとか、いろいろなファクターを散りばめていけばいいと。それに呼応する詩的な情感、そういうものを、どう加えられるか。そういうことがわかってきた。これまでの学習の成果。
ARTISAN(1991)は、アルバムのほとんどすべてをローランドD-110(音源モジュール)で作っていて、それをコンピューターで動かして、いくらでもトライ&エラーができたことが大きい。毎晩延々とやっていたから。事前に自分でシンセの音を作りながら。それだって、70年代、22、3歳の時に事務所で買ったシンセサイザーARP ODYSSEYで、シンセの音をまがりなりにもいじってたから。それに横には坂本くんがいたから、わからないことがあれば聞けばいいし。変なテクニック、たくさん知っていたからw
【第43回 了】