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ヒストリーオブ山下達郎 第44回 1991年6月アルバムARTISAN発売

<ARTISANは不満のほとんどない珍しいアルバム>
デジタル・レコーディングにも慣れ、作品作りもほとんどコンピュータを使ってやっているので、曲想が広がった。そうなると逆に、生楽器でやる演奏に不満が残るようになった。全部どこかで聴いたような音に感じて。POCKET MUSICの時は、ウワモノの変化で何とかなったけど、この時代になると生ドラムと生ベースでは違和感が出てしまうというか、CDの音世界がありふれたものになってしまう。リバーブがデジタル化して来ている時代で。いわゆるゲート・リバーブの音が全盛で。
それとサンプリングものがドッと増えてきて、ラップやヒップホップもかなり力を持ち始めてきたので、そういうものとどう対抗するか、と考えると、生ドラムと生ベース、生ピアノと生ギターでのんびりやっていることが、古びてコンテンポラリーじゃないな、と。だから結果的に生音なのは「ENDLESS GAME」「SPLENDOR」だけになった。「ターナーの汽罐車」も、普通にリズム隊で録ってみたけど、全然気に入らなくて、コンピューターに変えたり、それの繰り返し。「さよなら夏の日」もそう。「アトムの子」はもともと家でコンピューターを組み立てたジャングル・ビートの曲だから、生では再現が不可能で。POCKET MUSICからの延長で、いろんなものがどんどんデジタル化していく時代。この頃にはアナログのテープレコーダーも無くなって、完全に3348(デジタル48ch)になっている。いろいろ抵抗して、マスターもアナログのハーフインチにしていたけど、それすらもう1630のUマチック(SONY PCM-1630)になってきていた。
ちょうど「クリスマス・イブ」が1位を獲った時だから、知名度も上がったり、しばらく遠ざかっていたシングル・ヒットも「ゲット・バック・イン・ラブ」「ENDLESS GAME」がベストテンに入るようになって、思った通りの展開になって来てはいた。ライヴは人間関係がちょっとぎくしゃくしたこともあって、レコーディングの方に集中するっていう意識で。一種の逃避かなw POCKET MUSICから延々と、コンピューターで作曲してパターンを作っていたけど、D-110(ローランドの音源モジュール)が非常に優れていたので、それを使って、家で打ち込みで形を作れてしまう。それをスタジオにそのまま持ち込んで、家で作ったデモと同じ音像で構築できるから、デモと本チャンの音の差が縮まって。「さよなら夏の日」とか「ターナーの汽罐車」とかが、そうで。楽曲選択の尺度が変わって、MELODIESと比較すると、バリエーションが広がってきた。
全てがデジタル化してきて、いろんなイクイップメント(機材)も替わったことに、やっと順応できるようになった。POCKET MUSICの時は自分の責任ではなく、ハードの進化が、自分の要求に追いついてなかったわけだけど、ようやくそれが叶ってきたというか。だからARTISANはそういう不満の無い、珍しいアルバム。リスナーの中には、機械的だナンだと文句を言っているのもいたけどw 何をやっても、何か言わないと気が済まないヤツがいつの時代にもいるのでw ライヴは割と交通整理して、 このアルバムが出たときのライヴは、その当時の数年のうちではスムーズに進行した。
理想と現実の落差がだいぶ少なくなって来て。具体的には楽器と、リバーブとかリミッターなんかの付帯機器、あとはレコーディング卓の性能が向上して、コンピューター・ミックスもだいぶ実用的になってきた。スマイルガレージ(スタジオ)でずっとやってきたけど、スピーカーのアンプの調整とかも、この時期にかなり改良した。スタジオそのものは、1985年に建てたんで、機能を新しくすべき時期だった。
スタジオには相当予算をつぎ込んだ。 誰もやってくれないから自分で。チャンネル・デバイダーっていう周波数を分割して、それぞれの帯域をスピーカーに分配する機材があるんだけど、それが安物だったから全て替えたり、パワーアンプの駆動もスマイルガレージはブースが大き過ぎて、それまでのスタジオで使ってたアンプのパワーじゃ全然音が鳴らないので、BTL駆動にしてパワーをあげたり。低予算で建てたスタジオだから、初めはそういうところにお金をかけられなくて、仕方がないので自費でなんとかした。誰もやってくれないから。
ソニーの乃木坂スタジオとか、昔の信濃町スタジオなんかは、金がかかってるレベルが違いすぎるしw 我々みたいに小さな事務所が持ってるスタジオが、敵うわけがない。どこの部分を改善するか、色々と勉強して対処してきた。スマイルガレージは当時いろいろなレコーディングをしていて。渡辺美里から始まって、ハウンドドッグや、槇原(敬之)くん、小室(哲哉)くん、TM NETWORKもほとんどここでやっていた。そういうところで、どこに手を加え、お金をかけるべきか。オーディオの知識が、それで鍛えられた。いろんな人の所へ聞きに行ったりもしたし。
フォークの人たちが売れたら別荘やボートは買ったけど、スタジオなどは作らなかった。銀座でお金を使うとか。細野さんはLDKスタジオ作ったでしょ、そこがミュージシャンとそうじゃない人との違い。
  
<「アトムの子」はあくまで個人的なトリビュート・ソング> 
ARTISANは曲を片っ端から作って、その中から選ぶ方式。先行シングルとして「ENDLESS GAME」や「さよなら夏の日」は出ていて。FOR YOUの頃からオーバーフローして常に録っていたから。
収録曲1曲目「アトムの子」は一番最後に作った。どうしても、もう1曲欲しかった。このリズムパターンは打ち込みの練習というか、いろいろ研究していて、ジャングルビートを使って何かやろうと思ったときにパッと浮かんだのが手塚治虫さんで。手塚さんは数年前に60歳で亡くなっていたから(89年没)。その時に書いた訳ではないけれど、亡くなった時に「鉄腕アトム」を単行本で買い直していた。そうしたら、月刊雑誌「少年」で読んでいたアトムの別冊付録の、ストーリーはもちろんのこと、吹き出しからコマ割りまで、恐ろしく鮮明に覚えていた。手塚さんの作品で一番好きなのは「火の鳥」の望郷編や未来編なのに、記憶の中の泉が「火の鳥」よりも「アトム」の方がはるかに大きかったという驚き。これは凄いと思って、「僕らはアトムの子である」と発想した。ドラムのパターンは打ち込みでいろいろ作っていたから、これに乗せてしまおうと、締め切り前の最後の一週間くらいで、歌詞を書いてダビングして、間に合わせた。
ジャングルビートの実験というのは、ローランドD-110を使って、シンセのドラムで、ドラムソロが作れるか試していた。最初はベンチャーズの「WIPE OUT」(オリジナルはザ・サーファリーズ)とか、ボ・ディドリーとかをやってみたけど、平坦であまり面白くなくて、もう少し厚みが出ないかな、って考えついたのが、メル・テイラーのカヴァーで知った「DRUMS A-GO-GO」で。まずはサンプリング音源のタムを何種類も重ねてやってみたけど、音が厚くならなくて。当時のサンプリング音源は、メモリー容量が少なくて、一つの音のベロシティ(音の強弱を表す数値)を調整して、あとはVCF(電圧で音声信号の倍音成分を制御する機能)で音を固くしたり、甘くしたりするだけ。でも、それだとリアリティーが全然出ないので、同じタムを強、弱、中、で6段階くらい別々にサンプリングして、それで変化を出した。さらにその上に、本物のタムを数種類重ねて、ようやく厚みが増してきた。こういう話をしてると「DRUMS A-GO-GO」のパクリなどと言われるけど、とんでもない。リズムパターンの再現性を目指すだけで、大変な手間と時間がかかってる。まあ、やってごらんよ、こんなグルーヴなかなか出せないから。アトムが大きな石を持ち上げたり、地球をぐるぐる回ったりする、そういうイメージw
この曲はのちに「手塚治虫2009」(NHKの企画/2009年)のテーマソングになったり、他にもビールのCMとかに使われたけど、娘のるみ子さんが手塚さんのことをやるようになったら、いろいろ話が来て。別にそういうつもりで書いた訳ではないんだけど。一応、手塚さんへのトリビュートソングでもあって、歌詞カードにも”Tribute to The King O.T.”とは入れたものの、あくまで個人的なもので。タイアップは結果論だけど、当時はそういうものもあっていいかな、と。音楽、特にロックンロールで鉄腕アトムとか、手塚治虫を題材にした人はあまりいないけど。自分にとってのアトムだから、人と共有しようという腹は全くなかった。かなりの共感を得たのは事実だけど「クリスマス・イブ」と同じで、リズムパターンがずっと続くだけで、楽曲的にはそれほど面白い曲じゃないし。むしろ歌詞の方に重要度があるので、わかりやすくするためにメロディーを簡単にした。大サビのところでクライマックスが来るから、そこで変化をつけるために伏線を敷いたり。
昨年の「REBORN」(2017)とあまり発想は変わらない。ピンク・フロイドがやっていることにも似ているかな。「REBORN」は”魂は決して滅びることはない”っていう一点に集中した曲で、そこで歌が終わってしまうとつまらないから、ギターソロを入れた。同じ理由で「アトムの子」は後半にコーラスを杉真理くんと、まりやにも手伝ってもらった。あとタイトルは「アトムの子”等(ら)”」にするつもりだったけど、各方面からの反対にあって実現しなかったw SFっぽくていいと思ったんだけどw
2曲目「さよなら夏の日」は少年時代の、流れるプールの思い出。音のことを言うと、本当は当時のブラコンみたいな感じを想定して作ったんだけど、R&B風にメロディーを崩したりすると、面白くも何とも無くなって。だから、あくまでメロディーラインに忠実に歌っている。「ゲット・バック・イン・ラブ」なんかと同じで。そのかわりに代理コードに凝ってる。一番、二番までは普通なんだけど、大サビに行って、途中で半音を上がった後のBメロのところで展開する代理コード、それを考えてた方が、メロディーを作っている時間よりも長かった。代理コードを使うかはアレンジャーの領域だろうけど、あの頃はみんなそうやっていた。
今の潮流は、アレンジが複雑怪奇になって来ている。コードだけでなく、ビートまで変わったりする。表現主義というか、いきなり止まったり、楽器がなくなったり。それじゃメロディーが頭に入らないだろうって、僕なんかは思うけど。時代だね。楽曲の構成が単純化してたり、バンドの演奏力が不足している分、勢いを出そうとするとそうなるのか。僕らの時代はそうじゃなくて、リズムパターンは同じで、コードだけを変える。それは非常にジャズ的な発想で、なぜならジャズはダンスミュージックだから、ビートは止めない。今の若いバンドの音楽は踊れない。こっちはグルーヴを殺しちゃいけないから、コードだけを変える。そういうのを好きだからやってる。
「さよなら夏の日」と、次の「ターナーの汽罐車」はコンセプトが全く違って、「ターナー」はそういうコード・チェンジが全くない。”トレイン・ソング”だから、淡々と行く。「恋のブギ・ウギ・トレイン」も同じで、汽罐車の歌だから、そのイメージがないとダメ。途中で止まっちゃういけない。「ターナー」は曲先で、シドソド、シドソド、っていう音に合うコードを考えた。結局は循環コードで、8ビートにして、このビートで歌詞はどうしようか、と。曲自体が耽美的なものになったから、だったら、難波(弘之)くんにピアノ・ソロを弾いてもらおうと思って。彼はこういうの、上手いからね。部分部分をだんだんと、粘土細工みたいに作っていくっていう、そういう発想はシンガーソングライター兼アレンジャーだから、可能なんだ。
  
ターナーの絵が掛かっているような店があればいいな、と思っただけ>
青山のCAYっていうレストラン・バーにドラマティックスを観に行って。終わってから飲んでいて、トイレに行こうとしたら、通路の廊下で黒いボディコンの女の子がうずくまって泣いてたの。多分、彼氏とケンカしたかなんかで。それでひらめいた。そうか、ケンカしたんだ、会話がないんだ、店の壁に絵が掛かってるとしたら何だろう、そうだターナーにしよう、って。一種の連想ゲーム。泣いてた女の子のインパクトから生まれた歌詞w バブル全盛、ボディコン、その時観たライヴより印象が強かったw ターナーは好きだったけど、ポンと思い付いただけ。当時のカフェ・バーなんて、ろくな絵が掛かってないし、掛かっていたとしても、センスが僕の好みじゃない。せめてモンドリアンくらい掛かっていれば。ターナーのでっかい絵が掛かっているような店があればいいな、と思っただけで。
この”雨、蒸気、速度——グレート・ウェスタン鉄道”は、ターナーの作品の中でも特に好きな、印象派の先駆というか、朦朧体(もうろうたい/描法のひとつ)というか、そんな絵で、僕にはちょっと特別なもので。おぼろげな汽罐車、それを男女間の倦怠とのタブルミーニングにした。発想はずいぶん昔からあって、でもそれをどういう曲にするかが難しくて。生ドラムと生ベースでやったんだけど、これもドラムマシーンじゃないと、アーバンな情感や汽罐車の疾走感が出なくて、いくつもテイクを録った。
4曲目の「片想い」は音源モジュールのリズムパターンから作った曲。専門的に言うとシックス・ナインスというコードの響きと、シンセの音色をD-110で作った、このリズムパターンとコード進行で想定する空気感があって。5月の、春の温もりの中でデートしてる彼女に、このまま友達でいて、と言われてしまうという、これは高校とか大学時代のワンシーンという想定なので、出てくるのは記憶の中の彼女なんだけど。歌詞に”ビデオ”ってあるのはまだビデオテープの時代だったから。”ピンクのカーディガン”は単なる小道具。優しいことがいつも正しい訳じゃなかった、そういう片想いを歌ったけど、タイトルは平凡だよね。浜田省吾くんの曲にもあるし、どうしようかなとは思ったんだけど。タイトルは難しい。
マービン・ゲイの「SEXUAL HEALING」みたいな、いわゆるテクノ・ソウル、R&B。あんなチープなのは嫌だから、もっと厚くしないと。アイズレーとかジャム&ルイスとかみたいに。
とにかくこの時期の音作りは、全てにおいて、日本では他にあまりやっていないことだった。そういう意味では、割とバリエーションが多かった。でも、もし「片想い」をヤオヤ(TR-808)で「SEXUAL HEALING」くらいの厚みでやってたら、たぶん今じゃ古びてるだろうね。自分で言うのも何だけど、このポリリズム、凝りに凝ってるから。
5曲目の「TOKYO’S A LONELY TOWN」はトレイド・ウインズ「NEW YORK’S A LONELY TOWN」のカヴァー。これは萩原健太と飲んでて、デイヴ・エドモンズの替え歌「LONDON’S A LONELY TOWN」の話になって、じゃあ、TOKYOがあってもいいじゃないか、と。エドモンズのヴァージョンは海賊盤だったけど聴いていたし。だいたいオリジナルの「NEW YORK’S〜」も向こうでの発売当時は、日本では聴いてる人なんてほとんど居なかった。レッド・バード(レーベル)系のコンピレーションに入ってるって、長門芳郎くんが教えてくれて、それが僕が20歳かそこら。アンダース&ポンシアなんて、その頃は誰も知らなかったし。「NEW YORK’S〜」はオンリー・サーファーボーイの歌だから、ロンドンも寒いところだし、東京も寒いから、意外と合う。これ鹿児島とか暖かいところだと、ちょっと難しいねw
6曲目「飛遊人ーHumanー」はANAのCM曲。後半のインストがCM用に作った部分で、前半を弾き語りにして仕上げた。MELODIESに入ってる「黙想」って曲があるでしょう。あれと似たような感じ。時代は完全にCDになっていて、このアルバムはアナログ盤が発売されなかった初めての作品だけど、僕の中にはまだアナログレコード、LPに対するこだわりがあったから、A面、B面という括りを作らないと落ち着かなくて、これを繋ぎにした。「TOKYO’S A LONELY TOWN」がA面の5曲目、「SPLENDOR」がB面の1曲目で、この曲は接着剤。
こういうのって散々やっていて、SPACYの「朝の様な夕暮れ」と発想は同じ。
ビーチ・ボーイズの「SMILEY SMILE」とか「FRIENDS」とか、あの辺の発想で1人でこもってやるやつ。「NIAGARA TRIANGLE Vol.1」(1976)を作ってる時、当時の国鉄のストで1週間、福生に閉じ込められて、その時にスタジオの16チャンネルを大瀧さんが使っていい、って言うから、それで作ったのが「朝の様な夕暮れ」で。その時から一人多重が結構好きになっちゃって、それが高じて”オンスト”になるわけ。初めは「SMILEY SMILE」みたいにノー・エコーのすごく暗い、ああいうのがやりたくて始めたんだけど。ピンク・フロイドとかキング・クリムゾンとか、いわゆるプログレの影響もある。あとはホリーズの「BUTTERFLY」とか、スモール・フェイセスの「OGDEN’S NUT GONE FLAKE」とか。
タイトルの「飛遊人ーHumanー」というのはCMのコピー。冬の歌だから、歌詞に”吹き越しの白い息”というのを入れた。 山の向こうでは雪が降っていて、こちらが降っていないんだけど、雪だけが山を越えてくるのを、吹き越しって言うんだ。高校の頃に、本か何かで読んで、どこかメモしてたのを思い出して。
7曲目の「SPLENDOR」はたまたま5リズムでレコーディングしたら、出来が良かっただけで。映画「未知との遭遇」(1977)で、宇宙船が降りてくる、あの感じで作りたいと思って。歌詞に出てくる”君の船”がそう。象徴的なもの。救済願望というか、こういうのはあんまり話さない方がいろんな受け取り方ができて、抽象性が保てるんだけどw 天文学が好きだった頃に感じていた、人間の歴史感覚とは違う時空感覚があって、広さや大きさもそうだけど、そういったものに、子供の頃から考えていたことやSFがくっついたりして、妄想が生まれる。この場合は自分の歌じゃない、君の船が降りてくるんで、救われるのは僕じゃなくて君かもしれない、そういう共同幻想が常にある。自分の願望とか、欲望とか、そういう共通認識みたいな、人も同じことを考えている、というのがある。党派制とかそういうもののいやらしさを味わったことがあって、それが嫌でアナーキーな性格になったんだけど、それでも社会的な存在というのは必ず、好むと好まざるにかかわらず、誰かとつながっていかざるを得ない。もうちょっと肯定的な、人と仲良くなりたくないと言う自分もいるんだけど、で、相手もそうなら何とか共通項ができる。「私はあなたとは違うんだ」と党派的になってくる。もし自分と同じような感じで、他人だって嫌いな部分と好きな部分が同じようにあるんだったら、嫌いな同士なら好き同士っていう、集合論的なものもあるから。そんなことを考えて作っている歌なんだけど、まぁ別にそんな事どうでもいいw 打ち込みでもやってみたけど、この曲に関しては5リズムで録ったもののほうが良かった。
  
シュガー・ベイブへの回帰、という方法論は常にある>
8曲目の「MIGHTY SMILE(魔法の微笑み)」は打ち込みのドラムとベース。生リズムでも録ったんだけれど、古色蒼然たるオケにしかならなくて、マシーンでやることにした。ピアノとギターは生で。ニューヨークでよくあるキース(KEITH)とかのシャッフル。まあ、ルーツはモータウン。ニューヨークとか、フィラデルフィアモータウンのシャッフルを真似している。ヒットするから。あの頃はフォーシーズンズから何から、フィラデルフィアサウンドと言っても、もともとはモータウンの真似だから。バリトン・サックスが入って。それまで、そんなのはなかったんだから。
この曲はなかなか歌詞が書けなくて、うちの奥さんに頼んだ。当時のライヴでは、アオジュン(青山純)のドラムが重くてできなかったんだけど、小笠原くんならできるかも。とにかく日本人ではこういう曲をやる人があまりいない。明るい音楽はあまり作れない。作れる人は疲弊していっちゃう。
この曲はシュガー・ベイブっぽいかもしれない。シュガー・ベイブに回帰しようという方法論はある。「土曜日の恋人」(1985)の時は”Back To Sugar Babe”でやろうとしたんだけれど、出てきた3324(デジタル24ch)がひどくて実現しなかった。「ミライのテーマ」(2018)だってそう。シュガー・ベイブは僕の独裁バンドだったから。特に初期はアレンジにしろ、ドラムのおかずひとつからピアノのフレーズまで、細かいところを全部自分で考えて決めていた。
9曲目「”QUEEN OF HYPE” BLUES」は(フランク)ザッパと言うか、
詞の内容というよりも曲想というか、音源モジュールをいろいろいじってて、ベースを思い切り2オクターブくらい下げたら、変な音になったから、そいつでなんか作れないかな、と。それでこのリズムパターンを作ったら、変なファンクだなあと思って。こういう音だと普通には歌えないから。それでバブル全盛ではびこってた”ヤラセ”をテーマにした。過去にも「HEY REPORTER!」や「俺の空」も、先にリズムパターンがあって作った曲。「俺の空」は家の前にビルが建って、空が二つに割れてしまった、という曲だけど、テーマから作った訳ではなくて、リズム素材から考えた曲。後付けだからあまり深刻なものじゃない。でもなぜか、女性リスナーにはウケが悪いw
10曲目「ENDLESS GAME」はドラマがあったから、こんな曲ができたけど、異色の曲。でも、ステージ映えする。自分のために作ろうと思ったら、できなかった曲だと思う。タイアップには、自分の作風が広がるという利点があるから、作家的な人間には良い。このあいだ、ある映画プロデューサーが言ってたけど、今の人はパターンが少なくて、よく言えばパーソナルな、悪く言えば内向的な、そういう表現しかできない。「これをもうちょっと明るい感じに」と伝えても、「いや僕はこれしかできないです」って。それじゃあ、映画の主題歌にならない。それに加えて利権が絡まって来たりもするし。僕はCM作家で鍛えられた座付きだから。ちゃんとドラマの世界を反映させないと。
11曲目の「GROOVIN’」はテーマソングだった(TOKYO FM)「プレミア3」のレギュラーが終わったばかりだったので、入れた。もったいないからw これは番組(放送は日曜午後12時台)エンディングのムードでアレンジしたんだけど、本当は、もうちょっとレイド・バックしても良かった。音源は100パーセント、D-110。「GROOVIN’」は映画「限りなく透明に近いブルー」のサントラ(1979)で歌ったり、山岸潤史が参加した「GUITAR WORK SHOP Vol.1 」(1977)内で、この曲のコーラスをしたりしてるけど、サントラは他人のアレンジだし、コーラスの方が全然マシだった。もともとリードヴォーカルを入れる企画じゃないから。インスト・アルバムだから、コーラスでいいわけ。
カヴァーが2曲も入っているのは、たまたまで。あくまでも流れの中でのカヴァーで。このあと、いろいろ問題が出てきて、スマイルガレージを閉めることになる。それが運命の分かれ道になって、スタジオジプシーが始まる。結果、次のアルバムCOZY(1998)まで7年、間が空いてしまった。
91年の大晦日にはARTISANが第33回レコード大賞のアルバム大賞(ポップス、ロック部門)を受賞した。レコード大賞は80年のMOONGLOW(ベスト・アルバム賞)以来で、その時は番組に出た。ARTISAN受賞の時は電話出演でいいと言われたけれど、ビデオ素材がないとダメだからと、スタッフがハンディカメラで「さよなら夏の日」のビデオを録って、それが放送された。まだ大らかな時代だった。 別に賞を獲ったからって状況も劇的には変わらない。MOONGLOWの時も出たくないと言ったんだけど、スタッフが「達郎さんがテレビに出てくれたら、田舎の親兄弟に自分の仕事をわかってもらえる」って泣きつかれてw それで、しょうがないから出た。ARTISANの時は電話インタビューで黒柳(徹子)さんに「なんで会場にいらっしゃらないの?」と言われて、「テレビが嫌いなんです」って答えたのかなw
【第44回 了】