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ヒストリーオブ山下達郎 第35回 83年後半「スプリンクラー」から「WHITE CHRISTMAS」

<ノー・タイアップのシングルを出してみたかった>
83年9月28日、シングル「スプリンクラー/PLEASE LET ME WONDER」発売。これは、ノー・タイアップのシングルを出してみたかったんだ。 やっぱり”夏だ、海だ、達郎だ”からの脱却という動きの一環で、少し秋口の発売で、LPに入ってなくて、ツアーの中で演奏して、どういう反響になるのかっていう。それでも、オリコン34位まで上がった。あの頃は今と違って、30何位に入るのは大変なことだったから、十分だと思ったけど。でも、ムーン(レコード)のスタッフからは大ブーイングだった。「曲が夏っぽくない」っていう。 とにかく口を開けば、夏っぽいか夏っぽくないか、そればっかり。お前ら、それしか価値観はないのかよ、っていう。そういう時代だった。だからイメージっていうのは、恐ろしい。
スプリンクラー」の録音はMELODIESのレコーディングをやった直後、新曲として、アルバムとは完全に分けていた。自宅でフルサイズのデモを作って、珍しく詞も全部上げて、結構やる気だったの。レコーディング現場では、ちょうどMELODIESの時に2台のマルチ・トラックを同期させて、調走させるシンクロナイザーが入ってきた。それでダビングが随分楽になった。ただ当初、六本木のソニースタジオには、まだ24チャンネルのテープレコーダーは各スタジオ1台づつで、もう1台は16チャンネルだった。
なので、最初はその同期システムで24チャンネルと16チャンネルのレコーダーを並走させた。それで合計40トラックになった。79年以降はリズムトラックは24チャンネルのレコーダーで録ってたんだけど、24チャンネルのレコーダーはヘッドの幅が狭いので、それ以前の16チャンネルのレコーダーに比べて、音のダイナミック・レンジが狭い。だったら昔みたいに16チャンネルでリズムを録って、24チャンネルをダビング用にすればいいんじゃないかと。そうすればリズムセクションのダイナミック・レンジが昔のように確保できるから。で、「スプリンクラー」は16チャンネルでリズムトラック、ダビングとかは24チャンネルで録って、シンクロさせてる。だから、太くて良い音がしてるんだ。でも84年のBIG WAVEからは、16チャンネルは廃棄されて使われなくなって、24チャンネルが2台になった。スプリンクラーは、そういう分岐点の作品なんだ。どういうシングルかと言えば、暗い歌だけどw 
あの頃、曲のデモはローランドの808(ヤオヤ/TR-808 リズムマシン)で作ってたんだけど、808とシンセベースを同期するソフトがあって、それが結構重宝したんだ。ティアックのカセットの4チャンネルでデモを作ったんだけど。欲しかったフェンダー・ローズを買って。それからほとんどの曲をローズで作ったかな。
アルバムを作るときは、5曲か6曲を並行してレコーディングして、アレンジを考えていったりすると、ちょっと散漫になる時がある。でも、シングル1曲のためにやると、結構集中できる。で、そのリズム録りは青純と広規と僕の3人だけでやってて、割とシンプルなレコーディングだった(B面はベースのみ伊藤広規が参加)。それはMELODIESの「あしおと」とか「メリー・ゴー・ラウンド」と同じなんだけど。だから集中力のベクトルが、全然歌謡曲のスタジオ仕事じゃない。カルトな感じですよ。
    
<「スプリンクラー」の舞台は、表参道の地下鉄の入り口>
スプリンクラー」の(セールス)結果は、こんなものかな、という感じ。 僕は本来はアルバム・アーティストなので。だからシングルは、あくまでもアルバムのための呼び水でしかなくて、そういう意味では、チャート成績はそんなに良くない、常に。「高気圧ガール」で17位とか、「あまく危険な香り」が12位。ベストテン・ヒットのシングルなんて、90年代までは4曲しかない。「RIDE ON TIME」と「GET BACK IN LOVE」と「エンドレス・ゲーム」と「ヘロン」。でもシングルのエアプレイは、全部アルバムにフィードバックされた。
その辺が伝わりにくいのは、90年代の、あのミリオンセラー・ラッシュが悪いんだよね。数字至上主義というより、基本的に何も分かってないんだよ、コンテンツを語ることが全くないから。そんなの昔からだから、今更ぶつぶつ言ってもしょうがないんだけどね。
とにかく、このシングルで(自分にこびりついたイメージの)夏とかリゾートじゃない路線、シンガーソングライターとして意識して、自分で詞を書き始めた。
歌詞の舞台になった表参道の地下鉄の入り口って、今も変わらずあるけど、自分の中では、情景的にとても強いものがあった。あの時代の表参道の賑わいっていうか、それが池袋育ちの自分にとっては、非常にモダンだったんだね。それと、僕が行ってた美容院が、83年だったかな、表参道に引っ越したんだ。そこにひと月にいっぺんくらい通うでしょ。そこに行くと、表参道が窓からちょうど見えるんだよね。その眺めは大きかったかな、今から考えると。その意味では、僕は職業作家じゃないので、詞のアイデアはいつもそういうところから生まれてた。で、作詞にも少し自信を持ててきたっていうか、そうなると人の作品も結構注視するようになった。それまではどちらかというと、女性の作詞の方が目に入ってきてた。
ユーミン松任谷由実)とか、ずば抜けてたからね。でも自分で作詞するようになって、男の作詞家を注視するようになって。そういう意味で、あの時代の詞で素晴らしいと思ったのは、忌野清志郎とか大塚まさじとか、昔ながらで加川良とか、ああいう人たちの方が、職業作家より優れていると思った。フォークの流れの、割とキャリアのあった人たちだね。男の場合、何か都市のファッション性みたいなものを、歌のセールスポイントにするっていう姿勢が嫌いなの。生活の歌なんて、たくさんあるんだから、他と違った生活の歌にしてほしいとか、そういうのがすごくあって。だから、ジャクソン・ブラウンか何かの感じに、もっと日本的な温度を加えたような歌にならないか、と思って作ったのが、「スプリンクラー」だった。
スプリンクラー」っていうタイトルは、大阪フェスティバルホールに隣接していたホテルのエレベーターを降りると、”スプリンクラー制御弁”っていう看板があって、そこからとったんだけどね。それがどうして表参道の歌になるかと言えば、イメージの飛躍だけど、壊れたスプリンクラーというイメージが、雨とくっつく、とか、そういうのがだんだん広がっていったんだ。
あとは、あの頃ツアーメンバーを全面的に替えて、リズムが5人編成から6人編成になって(82年10月から青山、伊藤、椎名、野力奏一、中村哲)、ちょっと厚くなったから、その分いろいろなことができるようになった。83年に、ツアーのチケットを前売りで売り切れるようになって。そういう時期だからルーティーンっていうか、毎年毎年やるスケジュールが固まってきた。4ヶ月レコーディングをやって、4ヶ月ライヴをやって、後は4ヶ月プロモーションをやるってね。
  
<観客が立つようになったのが、ちょうど83年ごろだった>
82年秋からのツアーで大きく変わったことと言えば、リハーサルひとつにしても、箱根や河口湖で合宿形式でするようになった。それまではお金がないから、合宿もへったくれもない。コーラスもずいぶんオーディションして、そこまで超絶的にうまいわけじゃないけど、言う通りにやってくれる人たちに参加してもらって。そういう欲求を、少しずつ具体的に実現できるような環境になってきた。結果、本当の意味でのツアーっていうか、セットをちゃんと作ってとか、そういう今に至るやり方で、ここから動き始めた。
舞台監督が就いて、ステージセットの設計者もいて、照明も替えて。だからスタッフが全部変わったの。で、(舞台監督として)ヒロシ(末永博嗣/現ステージ・プロデューサー、元ごまのはえ)が、いよいよ本格的に入ってくるようになった。そういうスタッフの変化も大きい。要するにツアーの動員が良くなって、お客が入ってきたので、待遇が改善されたんだ。泊まるホテルとかのグレードも改善されて、少し楽になった。
ステージのことで言えば、最初の頃80〜81年は地方に行くと、お客さんがこっちのやってることがよくわからない。まず、裏声で歌う男の歌手っていうのを観たことがない。インプロヴィゼーションの長い演奏なんてのもね。そういう意味では、あの時期、精力的にツアーやっていた経験が今につながっていると思う。今考えてみると、それはとても大きいね。もし何年もあのツアーをしてなかったら、早晩行き詰まっていたと思う。ただ当時は、そんな意識もへったくれもなかった。だって、この先どうなるかわからないんだもの。だから「いずれ僕は制作の人間になるんだ」って思ってはいたけど。
かといって、あまり先のことなんて考えてなかった。僕に限らず、そんな人、誰もいなかったと思うよ。とにかくムーンを作ったから、回さなきゃいけないしね。まだ、まりやも休業中だったし。僕ひとりで、稼がなければいけない時代だったから。その自覚はありましたよ、村田(和人)くんが客が呼べるようになるには、もう少し時間がかかるなと思っていたし。当時ムーンで安定してお客さんを呼べるのは僕だけだったから、自覚はありました。
このツアーの手ごたえと言えば、何せお客はお馴染みよりも、一見さんの方が多い時代だからね。RIDE ON TIMEを聴いて、来てくれるお客さん。時期的にはFOR YOUやMELODIESのあとだからね、CIRCUS TOWNの曲もやってたし。それまでのアルバムの曲は一通りやってた。そうそう客が盛り上がって立つようになったのが、ちょうど83年頃だった。それまでは中野サンプラザ大阪フェスティバルホールではあったけど、地方に行ったらそういう事はまだなくて、それがだんだん広がっていった。そうなると煽りのパターンとかできてくる。馬鹿なことたくさんやったからね。青山純伊藤広規のソロも結構長くなるようになって、3時間コースが定着した。クラッカーもあの頃から全国的に広がっていった。
時代はいわゆるニューミュージック勢が、全国ツアーをやるようになって来た時だった。僕は幸運だったのはね、僕らの世代のお客さんてUターン世代なんだよ。みんな東京とか大阪の大学から、ちょうど故郷に戻る時期だった。僕が30歳だったって事は23〜24歳のユーザーでしょ。その人たちが故郷に帰って、結婚して、子供を産むっていう、ちょうどそんな時代だったから。だからローカルな所でも、そんなに違和感なくコンサートができたんだよ。今はそういう状況がないから、地方のツアーが大変なんだよね。テレビの情報しかないから、ギャップが大きい。でも、僕の時代は実際に東京のライヴシーンで僕らを観てたとか、そうした経験をして、故郷に帰ってるような人が結構いたからね、やっぱりUターンのプラスっていうか、それはすごく感じた。
地方では、それまでずっとラジオやタウン誌で、地方プロモーションやってきて、そういう人脈があるから、きちっとエアプレイとかしてくれる。そういうのは本当に大きい。僕らが今も生き残っていられる大きな要因は、テレビメディアを使ったプロモーションとは違うやり方を、あの時代に一から構築せざるをえなくて、それをみんなで模索した結果だと思ってる。テレビもラジオも、有線もあったし、雑誌、ラジオでも、音楽が売れた時代だから。それは今の時代は全く不可能だもの。
今(2014年)はそういうのをやっても、メディア自体が弱いから、機能しない。あの時代は、景気も今よりずっと良かったし、音楽業界の活況もアイドル全盛だったけど、ロックやフォークだって、大いに盛り上がっていた。みんなが試行錯誤しながら、それぞれに盛り上がっていた時代だったからね。 例えばフュージョン系にしても、カシオペアやスクエアから渡辺貞夫さんまでたくさんいて、きれいに音楽マーケットが成立していた。そういう状況じゃないと、やっぱりムーブメントになりえないんだ。
音楽が文化のフロント・ラインだった、そんな時代だったわけだから、それは今とは状況が違うよね。お客だって、いろんなものを見て、比較して楽しんでいたし、そういうものにお金を払おうという意思もあったよね。
   
<あの頃は音楽の力がはっきりあった>
この83年の暮れには「クリスマス・イブ」のピクチャー・レコードが発売されてる。 あれは小杉さんが「せっかくクリスマス・ソングがあるんだから年末に限定でもいいからやらないか」って言ったから、じゃあピクチャー・レコードかなって。雪の結晶の絵でね。あれのミソは何といっても、B面に「WHITE CHRISTMAS」のアカペラを入れたことなの。結構インパクトがあるだろうって、狙いでね。
もともとあのアカペラはMELODIESが出たときのツアー用に作ったんだ。ライヴでの初演で、ON THE STREET CORNERから(選曲した)アカペラを歌った後に、そのまま「WHITE CHRISTMAS」のショートバージョンのアカペラにつなげて、そこから「クリスマス・イブ」に移行するアイデアだった。これは絶対にウケると思った。ステージが暗転して、メンバーには動かないようにと指示して。それで「クリスマス・イブ」に入ると、それはもう熱狂的だった。ところが、初演の神奈川県民ホールでは、その「クリスマス・イブ」のイントロがPAのミスでフロントからコーラスの音源が出てなくて、でも、その時は本当の初演だから、お客さんはそういうものだと思って聴いていた。で、間奏でブレイクしたら音が出てなくてシーンと沈黙があって……w そういうこともありました。
で、その「WHITE CHRISTMAS」の素材をピクチャー・レコードのB面にして、限定2万枚で出した。 だからあれはほんとに純粋な音楽的企画性っていうか。だけど、あのピクチャー・レコードはレコード店の店員たちがほとんど買ってしまって、店頭にあまり出回らなかったというw
ピクチャー・レコードへのこだわりはあんまりない。ピクチャー・レコードは普通のレコードより音が悪いからね。でもまあ販促目的だから。飾って楽しむものっていうか。でも企画性としては素晴らしかったと思うよ、自画自賛だけど。いま「オンスト2」に入っている「WHITE CHRISTMAS」は、後にデジタルで録り直したものなんだ。最初に録ったものは、アナログマルチをつないで作った。ワンフレーズずつ歌って、それを個別に録って、そのマルチテープをつなぎ合わせた。ブレス(息継ぎ)をちゃんと組み立てて、それにエコーをかければ、繋いだなんて全くわからなくなる。だけどそうは言っても、テンポの緩急が完璧にはいかなくて、それで、86年に打ち込みのテンポデータを作って、デジタルで録り直した。それで細かいところが完璧に揃った。そしたらうちの奥さんに「あまり合いすぎてて、面白くない」って言われたけどw 
ライヴではその「WHITE CHRISTMAS」から「クリスマス・イブ」の流れがあまりにウケたので、その翌年は「SILENT NIGHT」にして、その後もたくさんバリエーションが生まれた。でも、最初の動機は、単にフォー・フレッシュメンのスタイルをやってみたかっただけで。フォー・フレッシュメンのヴォイシングは、高校時代から結構研究していて、かなりの量の採譜もしていたんだけど、それを実際に生かせる場ってなかなかないんだよね。ジャズじゃないので。あの「WHITE CHRISTMAS」は絶好のチャンスだと思ってね。いわゆるフォー・フレッシュメンのオープンヴォイシング。イントロの段取りとか、結構考えた。
それまではいわゆるドゥーワップで、スリー・パートのシンプルなハーモニーだったけど、こっちは和声がはるかに複雑だし、歌唱の難易度も高い。そもそもひとりアカペラで、フォー・フレッシュメンをやろうなんていうのが、とんでもなく奇想天外な試みなんだよねw でも、それもさっき言った、引き出しを増やすという作業の一環だったんだ。だから、なるべく拡げられるところは拡げて、それで差別化を図ったということなんだね。
「WHITE CHRISTMAS」の許諾は、すごくうるさいよ。出来たものを向こうに送って、聴いてもらって、使用許可をもらうの。あの「WHITE CHRISTMAS」をシンコーミュージック草野昌一さんが聴いて。当時、草野さんは「WHITE CHRISTMAS」の日本の出版権を取るのが夢だったんだよね。で、シンコーがついに獲得した時に、僕のところに日本語詞のオファーが来た。「オンスト2」を作った時に、草野さんに呼ばれて食事したことがあって、「あれは非常に良い」と喜んでくれた。なんたって漣健司(さざなみけんじ/草野昌一さんの訳詞家としてのペンネーム)さんだからね。そういうところも、洋楽的なものをやることによって、日本の音楽出版社の人とも接点ができたというか。それはなかなか有意義な体験だった。
許諾については、ディズニーなんかも曲の解釈にはすごくうるさい。過度にアヴァンギャルドなアプローチはダメだし、下品なものは絶対に許可が降りない。だけど、一旦許諾が出たら、そんなに使用料は高くない。要するに曲の格調を下がるような事はさせない、っていうことなんだよね。「WHITE CHRISTMAS」は特殊中の特殊でね。あの一曲のための出版社があって、スタッフは3人しかいないっていう。あれはすごいよね。まぁ歴史上一番売れた楽曲だからね。
クリスマスソングの定番と自分のクリスマスソングを結びつける。でもあの頃はまだ音楽マーケットが豊かだったから、そういうアイディアがちゃんと浸透したけど、今はそんなことをやっても一人相撲だもん。今だって結構いいことやってる人はたくさんいるんだけど、それが届かない。あの頃は、音楽の力がはっきりあったんだよね。大滝詠一さんの「イエロー・サブマリン音頭」だって、あれは大滝さんの趣味が反映されたものだけど、考えている事は僕と同じなんだよ。人と違うことをやろう、っていうね。
でも、今の人は、人と同じことをやろうと努力してる感じだよね。カヴァーソングの選曲のやり方とか。それは、僕らのあの時代の価値観とは、全く相反するものになってしまっている。
【第35回 了】