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ヒストリーオブ山下達郎 第38回 初デジタル・レコーディング・アルバムPOCKET MUSIC(86年4月23日発売)

<コンピューター・ミュージックは作風を拡大する意味ではプラスだった>
デジタル・レコーディング問題がなければ、POCKET MUSICはシュガー・ベイブでやってたことを、もう一段階上げられる作品になるかなと思った。あくまでも個人的な思い入れだけど。でも、これはコンピューター・ミュージックの問題よりも、デジタル・レコーダーでの問題の方が圧倒的に大きかった。
コンピューター・ミュージックは作風を拡大するという意味では、とてもプラスになっていた。コンピューターを使うことによって、自宅でアレンジの細部をシュミレーションできるようになったり、生楽器では演奏ができない曲でも、成立させられるようになったから。そういうプラス面もいっぱいあった。あの当時はまだ初期段階だったので、LINNドラムとか、そういう楽器のクオリティーの問題はあったけど、でもアナログ・シンセサイザーに関して言えば、今のものより音は断然良かった。実際僕は、今(2015年)も、あの当時のアナログ・シンセで音を作っているから。シンセサイザー・ミュージックについては、そんなに悪いことばかりじゃないんだ。シンセサイザーはあくまで楽器のシュミレーションとしての、明確な設計思想があったからね。
例えば、マリンバのような楽器はレンタル楽器だとコンディションが悪くて、難儀する場合が多々あった。だからといって新品を買おうと思ったら、何百万円もするし、小さなスタジオでは場所も取るから。そういう場合には、シンセサイザーを使うことで、ピッチもバランスも完璧なマリンバの音を作れる。ことほどさように、マイナスばかりじゃないの。使い方次第で、とても便利なもの。
そうやって、自分一人で、以前より複雑なデモテープが作りができるようになった。自宅でLINNとキーボードの打ち込みで、リズム録りの真似事をやれる。スタジオでリズム・パターンをトライして、あまりうまくいかなくて、翌日またもう一度、みたいな作業が、随分と緩和されるようになった。POCKRT MUSICの「MERMAID」といった曲は、そうやって作っている。「THE WAR SONG」なんかも、間奏の部分でのコードの積みなんかを家で納得いくまでやれた。
最終的な音世界が家で想定できるようになって、詞のイマジネーションにもすごくプラスになった。「THE WAR SONG」とか「十字路」なんかにその成果が出てる。「風の回廊(コリドー)」の頃のデモテープは、ヤオヤ(TR-808)とピアノの弾き語りで作ってたんだけど、だんだんそういうデモテープ作りが、コンピューター上で出来るようになっていった。それで利便性がとても向上した。
発売された直後のデジタル・テープレコーダーは、音の厚みや奥行きが全然出なかった。アナログ・レコーダーの時代は、音を重ねれば、重ねただけ厚みが増して、遠近の奥行きもごく自然に作れた。ところがデジタルになって、そういう当たり前だったことが、全然思うようにならない。楽器をダブルにしても、ダブルの効果が出ない。エンジニアも初めはアナログ・レコーディングと同じ方法論でやってたから、なおさら駄目だった。「土曜日の恋人」にはピアノがダブルで入ってるんだけど、それをひとつにまとめてリミッターをかけたら、ガッツが全然出なくなった。アナログの時代にはありえないことだった。
もう一回録り直して、別々にすればよかったんだけど、原因についてのノウハウがまだなかった。ダビングして音を厚くしようと思っても、少しも厚くならない。だから、やたらと楽器の数が多くなってしまった。
POCKET MUSICでは何曲録ったかと問われても、即答はできない。というのは、FOR YOU以降、毎回かなりの曲数を録ってて、こぼれたものでも出来の良いのは次作に回していった。「僕の中の少年」に入れた「マーマレード・グッバイ」や「ルミネッセンス」はPOCKET MUSICの時に作ったもの。そのPOCKET MUSICに入ってる「MERMAID」はその前に作ったもの。だから、前に作ったり、既に録音済みのものが、常に何曲かあったんだ。
だから、この時に何曲か録ったかと問われても、もう既にそういう録音形式じゃなくなってるので。でも、一番多く録ったのは、おそらくこの時だったと思う。20曲以上録ったかな。FOR YOUの時は17曲。MELODIESの時はFOR YOUのときのストックがあったから、そんなに録らなくてもよかった。
79年くらいからメロディーやリズムパターンのモチーフを、家でカセットに入れてたんだけど、モチーフのカセットが20本ぐらいになって、何が何だかわからなくなってきた。だから80年くらいに、それから使えるものを取捨選択して整理した。それでカセット6〜7本になった。そのモチーフに順に番号を振って。バカラック風とかハチロク(8分の6拍子)とかメモをつけて、それを土台に曲やアレンジを起こしていった。だから、80年代はかなり凝縮した作業ができた。
でもPOCKET MUSICあたりから、デモテープをLINNとコンピューターで作るようになったら、またリズム・パターンのモチーフが爆発的に増えてしまって。そうすると、また収拾がつかなくなる、そんなこともあった。
で、完璧な同期ものだと、ライヴでは演奏できない曲も生まれる。「メロディー、君の為に」のベースパターンを、打ち込みのデモ通りにやっても、グルーヴが全然出なくてね。LINNでやると思い通りなんだけど、実際に生で演奏すると全然ダメで、結局、別のパターンへ大幅に変えることになった。今のライヴの6人編成では、演奏はかなり難しいね。「踊ろよ、フィッシュ」とか「マーマレイド・グッドバイ」も同様で。コンピューターでやると、そういう曲が生まれる。それで、ライヴで演奏できない曲がどんどん出てきた。ビートルズの「サージェント・ペパーズ」なんかも、まさにそういうジレンマを持ったわけでしょ。
個性化とか差別化というものを追い求めると、演奏が可能かどうかというのは、二の次になってくるんだね。ピンク・フロイドは「狂気」の時に、楽器を用いずにゴムバンドとか、下敷きとかで音を作ろうとして、苦心惨憺したというじゃない。やっぱりレコードの音世界を追求し始めると、必ずライヴのジレンマが出てくるから。それをカヴァーするために視覚要素の追求に走ったり場合もある。ビートルズの「A DAY IN THE LIFE」は4人では演奏できないものね。フィル・スペクターも全くそうで、大滝さんのように14人がかりで演奏するナイアガラ・サウンドになるしかないわけ。だけど、やっぱりそういうものは、あまり普遍的とは言えないよね。
サウンドを自分で作るようになっての変化で言えば、MELODIES(83年)、POCKET MUSIC(86年)、僕の中の少年(88年)、ARTISAN(91年)、この4作は僕の中でも、とりわけ自分の強い意志が働いている作品と言える。コンピューター・ミュージックを導入したということもあるんだけど、僕がそういう試行錯誤をし始めた一番の大きな理由は、一緒にやってきたミュージシャンが売れっ子になってしまったことがきっかけ。スタジオ仕事で、どこでも使われるようになって、僕のレコーディングに戻ってきても、他の人と同じ音になってしまう。もともとは同じような音になるのが嫌だったから、スタジオ・ミュージシャンから離脱して、自分独自のリズム・セクションをやりだしたはずなのにね。
自分のオリジナリティーとか楽曲のオリジナリティーとかを追求していくなら、その時代のリズムの流行とか、トレンドとか、そういうものとは常に距離を置いて行かなきゃいけない。だけど、そうすると最先端の楽器演奏者たちは、あまり面白いと思ってくれなくなる。それが売れっ子のスタジオ・ミュージシャンのメンタリティーなんだ。なんだかんだ言って、ミュージシャンは生活のために仕事してるわけで、3時間で2曲録りのセッションを1日何本もこなす日常が続いていけば、まぁ仕方がないことなんだけどね。こっちの意図をそこまで深く理解してくれるほど、他人は寛容じゃないから。
当時の僕には、自分の個性をどれだけ進化させていくかっていうテーマがあって。そのためには音楽のスタイルとか、最新のリズム・パターンとか、流行の楽器とかよりも、楽曲の美しさとか、楽器構築のユニークさの方が重要なのね。だけど、そういうオリジナリティーの追求は、アイドル歌謡の世界で、常に過不足のない演奏を要求されるスタジオ・ミュージシャンとは、対立する大きなポイントとなるんだ。
そういう問題の中にデジタル・レコーディングが入ってきたから、もう三つ巴で大変だった。でもね、曲を書くというその部分では、すごく改善されているわけ。ただ僕にとって、あの路線が間違いでなかったと今でも思うのは、あの時代に入ってきたリスナーの残留率が一番高いということで。それは、いろいろな意味で、70年代の観客とはかなり違うんだ。
リスナーが入れ替わる、その何回かの節目があるんだよね。RIDE ON TIMEを出した時に、裏切り者って手紙に書いてきたヤツもいたw そうまでして売れたいのか、って。ファンは過去を引きずるというか、インディーズの人がメジャー・デビューした途端に、売り上げ枚数が落ちるっていうようなね。そういう転換点がRIDE ON TIMEの時にも、MELODIESの時にもあった。POCKET MUSICでもあった。毎回あるんだよ。ARTISANのときには、ほとんどの曲が同期モノだったから、なんで生演奏を放棄するんだ、と批判する人もいた。でもね、「ターナーの汽鑵車」は生演奏で何テイクも試みたけど、あのはかなさが全然出ないんだよ。
僕の打ち込みは、精神的には弾き語りの要素に近いかもしれない。でも、それをあくまでロックンロールの精神で行いたいと思うので、難しいんだよ。
    
<僕は言葉のイントネーションを無視した歌詞は歌えない>
高校の頃から好きな歌詞の形があってね。例えば岡林信康さんの詞とか、一時期のユーミンの詞とか、本当に素晴らしいと思ってた。だけど、自分が書きたい詞は何かって考えると、結局シュガー・ベイブ時代に戻っていく。シュガー・ベイブの時に目指していた心象風景、あれが一番自分に合っていると思った。それを意識し始めたので、MELODIESを作った。少ない言葉数で、絞り込んでいく作り方っていうかね。
この前、SONGS40周年関連で取材をやった時、ター坊(大貫妙子)と対談したんだけど、彼女が「私は詞なんてどうでもいいの。別に詞なんてなくてもよかった。歌わなければならないので、仕方なく詞を作った」みたいなことを言ったのね。それがすごく意外で驚いて。「昔からそうなの?」って聞いたら、「シュガー・ベイブの頃からそうだ」って。シュガー・ベイブの時代、歌詞を書くときに、僕は言葉数のマス目を作って、そこに言葉をはめてたの。ター坊は僕のそのやり方を見て、「今でもそうやってる」って言うのね。初めてそんな話、聞いたんだ。まあ僕も今でもそうなんだけど。その時に、この言葉数で、どういう詞ができるのかって、考えてやってるのね。だからお互い似てるなって。
作詞術って色々あるんだけど、短歌と俳句ってかなり異なったものに思える。韻文と散文はそれ以上に違う。そういうところで生まれてくる情感や景観の差異の、どこに自分を置くかで、大きく変わるんだよね。個性が出る。
詞を先に作って、そこにメロディーを無理やりはめる、フォーク系のやり方もあるしね。1975年に僕が黒木真由美の曲を書いたときに、作詞家が喜多条忠さんで、打ち合わせの時に彼と論争になった。喜多条さんは「日本語の歌は字余りじゃなきゃいけない」って断言するんだ。 僕が「それは音楽的に違う」って反応したら、「いや、君は曲を作る人間だからそういうけど、日本語で内容を伝えるには字余りソングじゃないと成立しない」って、ずいぶん論争したんだ。だけど、僕の曲に喜多条さんがつけてくれた詞は、全く字余りじゃなかった。ちゃんとはまってるんだよ。でも、それは仕事で、本当に書きたいのはこういうところじゃないって。でも、喜多条さんの言いたかった事は、今はよく理解できる。職業作詞家は本当は曲先なんてやりたくない、って思ってる人が大部分だと思うよ。
で、話を戻して、そうやっていくと、シュガー・ベイブにどんどん近づいていくっていう。シンプルな言葉っていうか、そういうものが多くなる。僕は詞が先だと書けないということはない。詞が先の曲は何曲もあるし。POCKET MUSICには詞先の曲は無いけど、ARTISANに入ってる「アトムの子」は詞が先だし、COZYの「セールスマンズ・ロンリネス」とか。自分が書いたものでなくても「LET'S DANCE BABY」なんかも詞先。
僕の詞が状況説明をあまりしないっていうのは、もともとそんなに音数がないからね。状況説明なんてしていたら、半分いかないうちに曲が終わってしまうから。そこにその言葉を入れたいんだけど、入らない、みたいなのがすごくある。でも、そこでその言葉を無理に入れてしまうと、結構チープになったりする。だからMELODIESに入っている「あしおと」でも、あと2コーラスぐらいあると、もうちょっと具体的に説明できるんだろうけど、そうすると曲の長さが6分コースになる。それがイヤだったから。
だから、聴いた人が勝手にイマジネーションを広げてくればいいと思ってる。僕は詞が最優先じゃないからね。言葉がきれいに響いてればいいんだよ。でも僕は、常に音と言葉を一致させて考えてる。山田耕作と同じ見解で、言葉のイントネーションを無視した歌詞は歌えない。それを基本的にはかなり守っている。だから大滝さんが好むようなトリック、例えば単語を分断するとか、韻をずらすとか得意じゃない。僕にそういうセンスはないから。
僕の詩の原点と問われれば、紙に書かれた詩というものをほとんど通ってこなかった。日本の詩歌、「古今和歌集」「新古今和歌集」「奥の細道」、ほとんど知らない。近現代史はもっと分からない。ベルネールかとボードレールみたいなフランスの詩や、アメリカの詩、ラングストン・ヒューズ、アレン・ギンズバーグとかジャック・ケルアックとか、そういう外国の訳詩に少し知識がある程度。だから結局はどこまで行っても、歌に乗せれた言葉だね。例えばボブ・ディラン。言葉遊びみたいな詞もあるし、「DON’T THINK TWICE, IT’S ALL RIGHT」みたいにちゃんとストーリー・テリングの詞もある。
そういうことはシュガーベイブ時代にター坊とは随分話したけど、自分にとってはやっぱり韻律がスムーズなものが一番きれいだって思える。だから歌詞は字面だけで見ちゃダメだということ。どんな陳腐な内容の歌詞でも、それがメロディーと合わさった時に、全然別の情感が生まれてくる。それは僕とター坊の共同認識なんだ。少ない字数しか載っけられなかったけど、そうすると結局シンプルな、俳句のようなものになっていくんだよね。でも、それなら俳句が作れるかっていったら、作れないけどね。俳句はあくまで読むもので、やっぱり言葉の意味論が優先される。そういうのだったら(種田)山頭火や(尾崎)放哉(ほうさい)とかの方がむしろ直感的で好きだな。そういうことは詞を書く時に随分考えてたんだ。で、結局のところ、僕が描きたいテーマは”疎外”なんだよね、今も昔も。
“都市生活者の疎外”が自分の一番のテーマ。戦後の作家よりも、もっと昔の樋口一葉であったり、宮沢賢治のそれであったりするんだけど。どんな明るい世界にも、どこかに疎外感とか孤独感がにじんでいるっていう。そういうものじゃないとつまらない。POCKET MUSICだと例えば「十字路」。あれは銀座の交差点の情景を想起してるんだけど、でも何かこう、手の届かない、淡いぼんやりとしたイメージ。あと映像に触発されることが多々あるね。細田守監督の「時をかける少女」を観たとき、あの空気感に「風の回廊(コリドー)」とちょっと似たものを感じた。それは「サマーウォーズ」の主題歌の要請が来たときにも同様だったので、やらせてもらうことにしたんだ。
    
<僕はシンガー・ソングライターの方向にシフトしていった>
「THE WAR SONG」を書いた直接の動機は、当時の中曽根首相の「不沈空母」発言。日本を不沈空母化するという。あれはむちゃくちゃインパクトあって。僕は社会党支持でも何でもなかったし、社会党共産党はある意味で、もっと嫌いだったかもしれない。でも、あの不沈空母発言はあんまりだと思った。これは何か歌を作らないとダメだなと。僕は70年安保をくぐった人間として、政治プロパガンダに対する不信がとても強くて、とにかく、なるべく政治にコミットしないっていうか。だから右にも左にもいけないんだよね。自分の政治的スタンスは”心情的アナーキスト”ってずっと言ってるけど。とにかく30代前半で、子供も生まれた時期だったしね。だけど中曽根発言を直接批判する歌なんて作っても、しょうがないから、なんていうか、静かな傍観というか、そういうもので曲を作ろうと思った。それをビーチボーイズとか、トッド・ラングレンが使うようなコード進行にして、ギター・ソロは大村憲司に頼もうと思って、作ったんだよね。やっぱり子供が生まれたってこともあるけど、とにかくあの発言が大きかったんだよね。結局日本に限らず、人間社会はいつも同じようなところをぐるぐる巡っているような気がする。
「シャンプー」はアン・ルイスの1979年のアルバムに書いた曲で、康珍化(かんちんふぁ)くんの作詞家デビュー作となった。あれは100%打ち込みで曲を演奏するための素材としては、もってこいの曲だったというのが理由でね。サックスソロとスネアドラム以外は全部データ打ち込みで、MIDIデータで音の強弱やテンポの変化を細かく設定して、演奏している。コンピューターでテンポを管理する場合、今はSMPTEと呼ばれる時間管理システムを使って、動かすんだけど、あの時代はもっとシンプルなFSK信号という方式があった。楽器同士を同期させるのに、常に曲の頭からスタートさせなければならない、面倒くさい方式なんだけど、これを使ってウッドベースの音源とアナログシンセ、それとヤマハDX7といった鍵盤楽器を当時出たばかりのNEC PC-98パソコンと、これも新発売の数値入力式MIDIシーケンサーソフトを使って動かしてた。だから例えばリタルダンド(テンポを次第に落としていくこと)なんかも、全て数値化してデータ化してるんだ。それが人間に行っているように自然に聴こえるように、家で何日も試行錯誤して作った。ソフトはカモンミュージックのMCPで、このアルバムから使うようになった。シングル「風の回廊(コリドー)」の時はまだそのソフトは出てなかったから。
打ち込みの勉強というか、実験をするために、最初にトライしてみたのがラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」でね。ピアノの譜面を強弱から始まって、ダンパーペダルとかテンポの変化を研究して、一曲全部を数値化して打ち込んだ。そうやって慣れておいてから、応用して考えついたのが、「シャンプー」で、バラードということもあったよね。
アップの曲はテンポが一定だけど、「シャンプー」ではスローな曲を手弾きで弾き語りしたような感じを全部データで成立させる試みをやったわけ。例えばベースのポルタメント(弦に指をすべらせて、音程をなめらかに変える)とか、全部リアルに聴こえるように。時間はかなりかかったね。2週間じゃきかなかった。当時はMIDIといっても、今とは比較にならない単純なものだったから。同じベロシティ(音の強弱を表す数値)を与えても、楽器ごとに反応の仕方が全然違うので、それぞれの楽器ごとに個別に設定しなきゃならない。そういう作業に結構時間が取られる。あの頃のパソコンもソフトウェアも、まだ生まれたてで、おもちゃみたいなものだった。
英語詞の曲が2曲入っているのは、BIG WAVEのおかげでアラン・オデイとの意思疎通が数段上がって、送られてくる歌詞が実によかった。「MERMAID」はそのちょっと前に描いた曲で、「LADY BLUE」はこのPOCKET MUSIC録音期間中にニューヨークに行って、ソロ楽器とかを録ったついでに、コーラスも向こうの人にも頼もうと思って、ゴスペルぽい曲がいいかなと作ったんだけどね。
この時「POCKET MUSIC」で、ジョン・ファディスにフリューゲルホーンを吹いてもらっているけど、「僕の中の少年」の「新(ネオ)東京ラプソディー」でのトランペットのソロモ同じ時に録ったものなんだ。あの頃は年に一枚とかそういうペースでアルバムを作っていたから、曲は結構かぶっているんだよね。次に回そうとか、デットストックとか、そういうのが結構あった。
アルバムPOCKET MUSICは基本はMELODIESの延長だけど、音楽的にはもう一歩、内省的になっている。こういう作り方を始めてから、客層も微妙に変化し始める。こういった内政的なものを好まない人はもっとダンサブルなものに去っていった。僕は逆にシンガーソングライターの方向へとどんどんシフトしていった。それは正解だったと自分では思っているけどね。
そうしたら不思議なことに、この頃から「ミュージック・マガジン」とかそういうメディアでの評価が上がってきた。まぁ評論家の体質なんて、そんなものなんだけど、同じようにリスナーも変化し始めた。あの頃はプロモーションも一生懸命やってたよ。雑誌にラジオにレコード店、テレビ以外の全方位で力を入れていた。あの頃はラジオもパワーがあって、ラジオからヒットが出ていた時代だったから。コンスタントにライヴもやっていたし、レコードとライヴの循環が円滑にできていたんだよね。そうすると自然と新しい客層が開拓できていくのね。時代のおかげもあって、ムーン・レコードはインディーの割にはプロモーションがスムーズにできていた。
ワーナーになる以前でも、いろんなことがちゃんとできていて。タイアップも取れていたし、テレビもドラマやCMとかがちゃんと機能していたし、今とは全然状況が違っていた。今(2015年)POCKET MUSICのような作品を作っても、なかなか世の中には浸透しないだろうね。今はあの頃ほどにはちゃんと聴いてくれないもの。今のミュージシャンの悲劇は、どんなに誠心誠意を込めて作品を作っても、それがなかなか広範な共同意思にはなっていかない。ドームでやったとか、YouTubeで再生何千万回とか、そういう表層的な注目が誇大すればするほど、肝心の音楽の内実が語られなくなる。それは残念だよね。あの時代は本当に音楽状況が良かった。今より全然健全だった。
今なら囲い込み、新興宗教化だよね。あとはライヴかなあ。ただ、今はライヴって言っても、若い子はオールスタンディングでしょ。Zeppとか。我々の時代だと2,000人の多目的ホールが中心だったけど、2,000人クラスのホールっていうのは意外と重要だったんだよね。座って観るか、立って観るかみるかとか、そういう矮小(わいしょう)な事柄以外に、音響的な問題とかもね。今の中高生とかZeppでワーッとかやってて、大人になった時に行く場所としてどこがあるのかなって。だってZeppに60歳までは行けないわけで。やる方も観る方も。40を過ぎたらオールスタンディングはきついでしょ。でも20歳くらいのオールスタンディングの人たちが40歳になって、どういう環境で音楽ができるかって考えると、多分音楽自体を聴かなくなるんじゃないかと、心配になるんだよね。
   
<ステージセットのコンセプトも、ちゃんと考えられるようになった>
86年4月にPOCKET MUSICが出て、5月からツアー”PERFORMANCE 86”を開始。このツアーからコーラスを替えた。シンディー(CINDY)と佐々木久美が入ってきた。RIDE ON TIMEのヒットのあと、本格的に全国ツアーを始めた頃は、シンガーズ・スリーの若いふたり(和田夏代子、鈴木宏子)にやってもらっていた。歳が近いし、譜面が読めるから。83年から85年の頭までは寺尾聡のバックをやっていた人とか、いわゆるステージ・コーラスの人を使っていたんだけど、POCKET MUSICのツアーからは心理と佐々木くみちゃんにしてコーラスのクオリティーを上げて充実させた。これ以降のツアーはトップをシンディ、キャンディー、国分友里恵とソロシンガー上がりの優秀な人にずっとやってもらってきた。そういう意味で86年からコーラスはクオリティーがどんどん上がっていった。
同じメンバーで続けていると、どうしてもぎくしゃくしてくる。常にそういうのはあるんだ。だからある時点で、かなりのリニューアルを試みる。それが86年は吉と出たんだけど、88年のツアーのときには、またメンバーで問題が起きてね。だから88年は大変だったんだけど。
曲的にステージでの再現が難しいという点では、86年のツアーに関しては、演奏不可能とはいっても、このころはまだ大丈夫だった。この当時、同期ものによるコンピューター・ミュージックってそこらじゅう席巻していたんだけど、普通は、ドラムとベースをコンピューターにする。でも、僕の場合はドラムとベースはほとんど生で、キーボードをコンピューターで演奏していた。それが他の人たちと僕のコンピューター・ミュージックの一番大きな違いで、だからライヴでの再現はそんなに苦労はなかった。
ライヴでの一曲目は「POCKET MUSIC」で、次が「SPARKLE」。「プラスティック・ラブ」をやったのも、この年が最初だね。うちの奥さんが84年に子供が生まれたから、当分の間、育児でレコードは出せない。当然ライヴなんて夢の夢。そんな時だから、僕が彼女の曲を何かやってみようと選んだ。「THE WAR SONG」では、途中にテープのSEを挟んで、かなりの長尺でやっている。その辺はライブアルバムJOY(89年)に入ってるので、ご存知だとは思うけど。
この年のライヴはかなり良かった。メンバーが新しくなって、リフレッシュしたからね。なんといってもコーラスが良かった。村田(和人)くんとシンディと久美ちゃんだから。シンディとはデュエットでマーヴィン・ゲイとタミー・テレルの「YOUR PRECIOUS LOVE」をやったりしてた。だからあの時のツアーは、そんなにストレスがなかったね。
それで、あの時からステージセットのデザインを、今でもやってもらっている斎木信太朗さんに代えたんだ。この時は映画「ONCE UPON A TIME IN AMERICA」のような感じのセットにした。この後(86年12月)にON THE STREEET CORNER 2が出るので、その要素も加味してね。「オンスト2」は、そのステージセットの写真をアルバムのカヴァーにした。あれは非常に僕に合ったセットだったよね。あのあたりからステージセットのコンセプトも、ちゃんと考えられるようになった。だから、今のセットのコンセプトっていうのは、ここから始まってるんだ。この頃には、ツアーも全箇所ソールドアウトするようになっていたから、セットにもお金をかけられるようになっていた。だから状況的にはそれほど悪くなかったんだよね。ただレコーディングの方がね。あっちが立てば、こっちが立たずで。
お客さんはそんなに変わらなかったかな。でも、当時は毎回来るお客さんなんて、そんなにいなかったんだよ。僕はエリック・クラプトンのライヴは素晴らしいとは思うけど、毎回は行かないもの。だから毎回来るなんて、本当に大したもんだよねw そう思う。そうやって毎回入れ替わり立ち替わりで、長い間にリピーターが増加していく。僕のお客さんて、大体僕と同世代から一世代下で、僕が32〜3歳だったら、大体20〜25歳くらい、そういう層は大学を出て就職するとか、Uターンするとか、そういう時代で。これもいつも言うんだけど、その世代はものすごくUターンが多かった。だから地方に行っても、あんまり差異がない。都会でライヴ体験のあるUターンの人が多かったから、地方のギャップが少なかった。それは非常にラッキーだった。
あとは、83年にNHK-FMの「サウンドストリート」を始めた。あれは3年間やってPOCKET MUSICが出る直前にやめたの。あの番組をやれたのは、すごく大きかった。木曜日だったね。当時のNHKはタイアップのスポンサー名を言ってはいけないとか、NHKなりの制約がいろいろあって、うるさかったけど、音楽に関しては逆に民放のようなヒット曲最優先、一般認知度の低い曲はダメ、長い曲はダメ、そういうのが一切なくて、放送コードに引っかからなければ何をかけてもよかった。だから新譜はもちろん、ソウル、ジャズ、サーフィン・ホットロッドドゥーワップ、それこそ好き放題にかけまくった。「風の回廊(コリドー)」が何のCMかは言っちゃいけないけど、そういうことさえクリアすれば、天国だった。組合の関係で、スタジオ技術の人が、特定の番組に専任しちゃいけなかったので、毎週違うエンジニアで。癒着しないように、ってことらしいんだけど。そうすると毎週、人によってやり方が違う。マイクの種類からEQ(の掛け方)、部屋の残響を録るためのマイクを一本別に立てる人、リバーブをかけたがる人、いろいろ癖がある人がいて、それが結構大変だったんだけど、面白くもあった。NHKは全国津々浦々で聴けるから、僕には最強のメディアだった。あれをやったことで知名度も上がった。
のちにボーナストラックになった「MY BABY QUEEN」はこの時にレコーディングした曲なんだけど、その時は詞が書けなかったんだ。それで91年のリイシューの時にボーナストラックにしたの。そうやって詞が書けなくて、ボツになる曲も結構あるんだよ。
【第38回 了】