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ヒストリーオブ山下達郎 第37回 初デジタル・レコーディング「風の回廊」(85年3月発売)からPOCKET MUSICへ

<ブランクの原因はデジタル・レコーディング>
BIG WAVEからPOCKET MUSIC、84年から86年まで。このブランクの一番大きな原因は、デジタル・レコーディングへの移行だった。ソニーのPCM-3324というデジタル(マルチ)レコーダーが登場してね。それまでのアナログ・レコーディングが行われなくなってしまった。
僕にとって最初のデジタル・レコーディングがシングル「風の回廊(コリドー)/潮騒(ライヴ)」で、85年の春にホンダ・インテグラのコマーシャルソングになったんだけど、曲は(84年の)ツアーやりながら書いてた。どこかの旅館みたいなホテルだったけど、ライヴの移動日で、本当は曲を書かなきゃいけないのに、ゲームをやっちゃってw そういうサボったことだけ、妙によく覚えてる。レコーディングは年が明けてからで。シングルが出たのが、ツアーが終わった後の85年3月25日。この時から、デジタルに変わったの。
レコーディングは六本木のソニースタジオで。まだ自分たちのスタジオであるスマイル・ガレージができてなかったから。アナログのレコーダーもあったけど、エンジニアがデジタルじゃなきゃやらないって言い始めてね。僕はアナログで続行したかったんだけど。そういうことで、あそこがひとつの転換点になったんだよね。自分にとっての技術的な転換、その時が一番大きかった。それまではビジネスというか、仕事のマーケティングとか、そういうことの問題はあったけど、テクノロジー的な転機というのは、そんなになかったんだ。機材が替わったことによって、制作が停滞するなんて、それまで考えたこともなかった。
    
シンセサイザーのいじり方は、かなり習熟してた>
デジタル化による問題。 まずテープレコーダーの性能が、アナログ・レコーダーの足元にも及ばない。結果的に音が退化してしまった。もう全然しょぼくて冷たくて、平板な音像で、楽器同士が全然ブレンドしない。もう「なんなんだ、これ」って思ってた。それはもう一発目の「風の回廊(コリドー)」からそうで。おかげで制作が滞って、ミキサーが次のハワイのレコーディングに行っちゃった。それで「風の回廊(コリドー)」は自分でミックスした。
でも、このシングルはまだいいんだ、自分でミックスしてるから。バランスとかね、エコーも少ないし。問題はその後の「土曜日の恋人」(85年11月発売)で、あまりに出来が不満で、そこからエンジニアを替えて、ミックスしたんだけど。さぁアルバムをどうしようか、ってことになって。
とにかくPCM-3324がつまづきなんだけど、その一方で、BIG WAVEの。あの時代はテクノ、いわゆるコンピューター・ミュージックの最盛期で、シンセサイザーが音楽業界を席巻していた。シモンズにLINN(リン)リアルドラムといったドラム・マシンやシンセベース。生楽器からシンセサイザーに、こぞって替わりつつあった。後はそれをコンピューターでどう駆動させるかというノウハウ。
1980年代初めにコンピューター・ミュージックをやるためにはMC-4というローランドのシーケンサーが必須だったんだよね。それがすごくいじりにくいっていうか、4声しか出ないしね。8声出るMC-8もあったんだけど、それらを使ってやるのは結構わずらわしくて。後はヤマハDX7というシンセ・キーボードが出た。それまでのオーバーハイムとか、プロフィット5などのアナログ・シンセサイザーはまだいいんだ。でもDX7は本物のエレピと比べると腰が弱かった。今はそういうのを、デジタル的に改善する方法はいくらでもあるんだけど、あの時代はまだなかった。そういうのを音圧的にきちっと再現させる付帯設備がなかったから、やっぱり全体的に演奏がしょぼくなるの。
でも、当時はDX7にあらずんば人にあらず、っていうくらい、みんな使ってたからね。みんな何の疑問もなく使ってたけど、僕はとにかくあの音の細さがイヤでね。フェンダーのローズピアノを使ってると「まだそんなの使ってるの?」とか言われて。新しい物好きって呼ばれる人たちから。だけど、そういうテクノロジーの氾濫は、僕には後退とすら思えていた。事実、ある部分では後退していた。でもコンピューター・ミュージックというか、同期モノからはもう逃げられないっていう時代だったんだよね。
ちょうどそんな時に、RCPっていうシーケンス・ソフトが出た。それはNECPC-8801で動かすソフトでね。僕はあの頃、仕事とは全く関係なく、ただの遊びとしてパソコンを持ってたのね。このソフトでだったら、自分でも何とかできるんじゃないかと思って。それから僕とコンピューター・ミュージックとの取り組みが始まった。
MC-4の使い方も知らないわけじゃなかったんだけど、めんどくさい。シンセサイザーARP(アープ)のODYSSEY(オデッセイ)が最初に出たとき、まだシュガー・ベイブ時代だったんだけど、事務所でARP ODYSSEYを買ったのね。で、初めは事務所のみんなで、ワイワイガヤガヤいじってたんだけど、難しいからみんなすぐ飽きちゃって。で、転がっていたのを、僕が家に持って帰って、勉強した。それを例えばアルバムSPACYの「言えなかった言葉を」や「きぬずれ」、GO AHEAD!の「潮騒」のベース、他にもCMでしばしば使っている。
シンセの基礎はARP ODYSSEYのおかげで、かなり学ぶことができた。でも時代的にはYMOが出て来たので、80年代初めはテクノの世界、シーケンサーシンセサイザーはなるべく使わないようにしよう、なるべく人力で行こうとやっていたんだ。 
とは言え、シンセの音は時代の音だから、これはもう逃げられないかも、と思い始めた頃に、パソコンで動かせるシーケンスソフトが出て来た。それで中古のARP ODYSSEYを1台買って、それでリハビリして。そこからシンセとドラムマシンを買い込んで、家でも作り始めた。それがPOCKET MUSICになるんだ。
そうやってデジタル・レコーディングに取り組んでいくんだけど、僕の場合はちょっと変わっていたというか、その当時のテクノ系の人たちとは違っていたのは、彼らはドラムとベースをマシンにして、キーボードなんかのうわものを手引きで演奏する、というのがほとんどだった。でも僕は全く逆で、ドラムとベースは生でやって、キーボードをシーケンサー駆動で演奏するというやり方。POCKET MUSICはそういうやり方で作っている。
「風の回廊(コリドー)」もそう。あれはシンセベースを使ってるけど、ドラムは本物。LINN(リン)とかオーバーハイムDMXとか、当時のああいうドラムマシンの陳腐さがすごく嫌いで。それは自分がドラマーだったからだね。
ドラムの音のサンプリング・データを使ったE-MU(イーミュー製のイミュレーター)もあったけど、あれはまだVer.1だったからね。いわゆるローファイ過ぎて使えないんだ。
POCKET MUSICをやってる途中にVer.2が出て、Ver.3になって、ようやく使い物になっていった。「風の回廊(コリドー)」のイントロの左右のコーラスはサンプリングなんだよね。あれはE-MUでサンプリングしてる。途中で出てくるハープとかね、そういうのもE-MUを使ってる。
だから、使えるものは使ってるんだ。世の中の趨勢には逆らえないけど、何をどういう具合に導入するかっていう事は、神経質にいちいち考えながらやっていた。とにかく何が嫌いって、ゲート・リバーブ(リバーブを深めかけて作った残響を、ノイズゲートで意図的にカット。80年代に多用された手法)。あれは16ビートには鬼門なんだ。グルーヴが死ぬから。8ビートだったら、まだいいんだけど。だから僕の作品でゲート・リバーブは今に至るまで、ほとんど使ったことがない。
70年代に僕が一番影響された音楽のミックスっていうのは、リズム・セクションにはリバーブを一切かけないで、ストリングスやボーカルにリバーブを深くかけて、それで奥行きを出すっていう手法で。だから音像的にはリズム隊が目の前にあって、後ろにブラスとか弦か居て、リバーブで距離感が出ているっていう。そういうある意味でシンフォニックなものだったけど、この時代になると、それがガラッと崩れていくのね。だからそういうところも、受けられるところは受け入れて、受け入れられないところは拒否するっていう。
でも、それまではローランドのリズムボックスとか、それに808(ローランドTR-808、通称ヤオヤ)も出て来たから、808に自分で打ち込んで、例えばピアノで弾き語りでデモテープを作って、レコーディングする。もしくは青山純伊藤広規と3人で練習スタジオに入って、ああでもない、こうでもないってリズム隊の構築をやってたのを、一人でできるようになったから。これはこれで、なかなか面白いものがあったんだよ。で、そのやり方で、最初に作った曲が「ポケット・ミュージック」かな。パソコンでデモを作って、実際にドラムとベースを再現してやるっていう、そういうやり方。「MERMAID」とか「ポケット・ミュージック」とか「ムーンライト」とかは全部そうやって作っている。まだ「風の回廊(コリドー)」の頃には、RCPがなかったから、あれはMC-4でやっているんだけど、85年の春の作品だから、ちょうどその端境期(はざかいき)。POCKET MUSICのレコーディングを始めたのは、多分(85年の)夏前くらいだから。それまでは曲を書いてて。
85年に出したのは、シングル2作「風の回廊(コリドー)」と「土曜日の恋人」だけで。前の年に子供が生まれたから、それがけっこう大変だったよね、子育て。ツアーをやってたけど、終わったらちょうど生後半年だからね。よくやってたよね。
  
<いったんデジタルに行ったら、アナログには戻れない>
当時流行っていたバンドで聴いてたのは、SOSバンドとか、アート・オブ・ノイズとか。SOSバンドはもうちょっと前か。あとはアトランティック・スターとかミッドナイト・スターとか聴きまくっていたね。(ドラムとベースが生で他が打ち込みの)スクリッティ・ポリッティは全く通ってない。定位感が全然違うもの。
あの当時は激変期で、新しいものは、何でも取り入れたがる人ばかりだったよ。今でも忘れないけど、あるスタジオで、「今日どうする? 本物にする? ニセ物にする?」ってミュージシャン同士が会話してたのをすごく覚えている。レコーディングで本物のピアノを使うか、DX 7にするかっていう事なんだけど。そういう発想が、とにかくイヤでね。倍音が変われば、違う音楽になってしまうのに。でもあの頃、知り合いのアレンジャーにそういう話をしても、鼻で笑われたから。
新しい機材に関して、他の人の使い方は聴いてはみるけど、共感がなければそれまでで。もちろんトップ40はいつも聴いてる。だけど、例えばあまり良い例が思い付かないけど、80年代の終わりの頃の、M/A/R/R/Sの「PUMP UP THE VOLUME」とか、確かに面白いと思うけど、自分でやろうとは思わない。何が凄いとかになると、みんな猫も杓子も追随が始まるじゃない。そういうのがキライなんだ。
そういう意味では、日本の方がデジタル環境は全然先行していた。80年代中頃、世界で一番デジタル・レコーダーがあるのが、東京だって言われてたから。欧米は80年代の末ぐらいまでは、みんなほぼアナログだったからね。僕はそういう日本の環境に置かれてしまったけど、それは今のカメラマンが、デジタルにしないと仕事が来ないとか、そういうのと全く同じで、プロツールスもどんどんバージョンアップしないと、仕事にならない。最新のバージョンで録音したものがかけられないと、そのスタジオには仕事が来ないとか。そういうことの繰り返しだよね。
みんなやっぱり一旦デジタルに行ったら、アナログには戻れないんだ。ピークの管理とか全然違うから。だからもう一回アナログに戻りたいって、僕は何回か言ったんだけど、エンジニアは「もう2年もこのデジタルのピークをどうやって抑えようかって、一生懸命みんなで苦労してるのに、今さら戻れって言ったってイヤです」って言われるわけ。ドラムのマイクの配置からして、アナログとは違う。それを試行錯誤しながら、みんなでやってきたわけで。
やっぱりエンジニアに言わせると、当時のアナログ・レコーディングはアンペックスの456というハイ・バイアス(高感度)のテープを使っていたから、録って1時間たったら、もう音が変わってくる。高域が劣化してくるの。ミックスをするときに、それをまたEQ(イコライザー)補正して、いわゆる情報管理みたいなことに、ものすごく気を使うんだけど、デジタルは基本的に録った時と音が変わらないの。一旦録ったら劣化しない。だから、それは彼らにとっては、すごく魅力的だったんだ。僕なんか音が劣化しないって言ったって、初めから劣化しているじゃないか、って思ってたけど。見ている視点が違うんだね。
僕がこの仕事を始めた時代は、アナログ時代でね。4リズムでレコーディングして、そこに例えばコーラスを加えると、世界が明確に変わってくれるわけ。ところが、デジタルは全然変わらない。ただ音が増えるだけで、印象が全くそのまんま。いくらダビングを重ねても、アナログのように情景が変化してくれない。
   
<スタジオ・ミュージシャンの時代に戻っちゃった>
そういう問題を「風の回廊(コリドー)」で実感していたんだけど、やっぱり「土曜日の恋人」が極致だった。音が全然埋まらないというかね。「土曜日の恋人」はご存知のように「オレたちひょうきん族」のエンディング・テーマだったけど、あれはね、そうやって家でデモを作っていた時に、一曲できて、ひょうきん族に売り込みに行ったの。ひょうきん族EPOの「DOWN TOWN」や、僕の「パレード」を使ってたからね。
「土曜日の恋人」は結構好きな曲なんだけど、とにかく録音にも演奏にも苦労してね。あの時代、ああいう曲調ってプレイヤーには嫌われてね。スタジオに来るプレイヤーが、みんな嫌そうな顔して演奏するんだよ。つまり血にないの。そういう問題もあったんだよね。時代はちょうどバブルの始まりの頃。まぁいろいろな問題があってね、本当に。
スタジオ・ミュージシャン全盛期でしょ。売れっ子になると一日に何ヵ所かハシゴして、日銭を稼いで、それでハワイかどこかに遊びに行って、みたいな世界だから。いわゆるアイドル歌謡とニューミュージック全盛期で、通りいっぺんのアレンジを、譜面を初見でパッパとこなして、「シブい!」とか言って、やってるわけでしょ。そんな中で細かいこと言ってたら、煙たがられるんだよね。多分大滝さんは、それに疲れたんだよ。本当はもっとやりたいことがあったんだけど、言っても通用しないんだもの、時代の趨勢としてね。
でも、その時に僕が救われたのは、逆にコンピューターがあったからなんだ。コンピューターでリズムパターンが作れるでしょ。構築できる。くたびれたスタジオ・ミュージシャンよりは、コンピューターの方がいいからね。本来はそれこそ5人が一緒に演奏したものが、グルーヴのカオスとなって、10人分ぐらい価値になるのが本当の演奏なんだけど、みんな譜面を見て、一回練習して、はい本番っていう、そういう時代でしょ。もう一回やってくれとか、そういうのを嫌がる。「時間、押してんだよね」とか、そういう時代。だから70年代にあったスタジオ・ミュージシャンの時代に戻っちゃったんだ。期せずして。
70年代から80年代にかけて育ってきたミュージシャンが、みんなスタジオ・ミュージシャンとして売れちゃった。業界はね、人を育てる気なんて、さらさらないから。勝手に出てきたのを「あいつ最近売れてるんだってね、ちょっと呼んで来て」「君、いいねえ。今度、僕のところでやってくれない」って、札束で横面張り倒して。それでそいつが疲れたら、次をまた呼んでくる。一から育てるという発想なんて皆無だから。だから、ちょっと才能が開花してきたら、みんな雲霞(うんか)のごとく、寄ってくる。もう、それはいつの世も同じで、今も変わらない。まぁ結局それが商業音楽の宿命だから、仕方がないんだけどね。
つまりこの時期、デジタルの問題だけじゃなく、プレイヤー的にもそういうサイクルに差し掛かっていて、全てがそんな感じだった。でも景気は良かったの。音楽市場は盛況だったからね。だけど、とにかく僕が運が良かったのは、僕がコンピュータをいじれて、シーケンサーもいじれた。シンセサイザーも運よく扱えた。だから、ここから先、「僕の中の少年」から「アルチザン」に行けたのは、テクノロジーの知識があったからなんだ。作曲の面でも、編曲の面でも、それはとてつもなく大きかった。ワンマンだけどね。でも、どうしようもなかった。
シュガー・ベイブの時代からオーディオ的な好奇心は、それなりにあったんだ。素人は素人なりに、自分で追求したいとも思ってた。なんでこの音はここで伸びないんだとか。普通はそんなことを聞いても、「だってそういうもんでしょ」って言われる。カッティングでも、何でもうちょっとアメリカみたいな音がしないんだ、って思っても、別に疑問に思ってない人が多いんだよね。
そんな中、僕の周りには優秀なオーディオの先輩がたくさんいた。エンジニアだと、ユーミン吉田美奈子を手がけていたアルファ・レコードの吉沢典夫さん。僕の所属していたRVCのチーフで、日本のミキサー界のドン、内沼映二さん。松本隆さんの弟で、エンジニアの松本裕さん。あと、吉田保さん。そういう人たちは、聞けばたいていのことを教えてくれた。スネアのEQ、マイクの立て方、リバーブの使い方や特性。そういうことを彼らからたくさん教わった。そういうレコーディングに関する疑問を、根掘り葉掘り、別に自分がミキサー卓の前に座りたいとは全然思わなかったけど、歌の硬さ・甘さとか、大御所でもちゃんと教えてくれた。だから独学の悪さもあるけど、メリットもあるんだよ。もし人が全部完璧にやってくれてたら、神輿に乗ってるだけで色々と成立しちゃうよね。そしたら、それがどういうメカニズムで動いているかなんて、知ろうとも思わないだろうね。でも、あまり恵まれない状況が何年も続いたから、それこそ販売促進のノウハウまで覚えちゃうっていうか。それは今でもいざとなれば、一人で何とかなる、っていうね。そういうことになったんだけど、逆境に立たされたとき、それを突破できるのはそのおかげだよね。
アナログ・シンセのことでもそう。ちょうどこの時代は、シンセサイザーがものすごく普及し始めた頃なんだけど、単価が高くてね。まだ1ドルが180円かそこいらの時だから、今より全然円安なわけで、リース料も高かった。シンセサイザーを山積みにして持ってきて、スタジオ・ミュージシャンのギャラの何十倍も取っていく。それが制作費を圧迫するって小杉さんが怒って、シンセの会社を作ったの。その時に僕も自分用に一揃い、同じものを買って、それで一人で家でごそごそ始めていたんだよ。だから「僕の中の少年」から「アルチザン」にかけては、そうやって打ち込みから何から、全部一人でシコシコやっていたの。オペレーターはほとんど居なくて作ってた。「シャンプー」なんてその典型で、一人で演奏データを打ち込んで、音色を作って。だから、なおさら時間がかかったというのもある。
    
<「土曜日の恋人」はミックスを3回やり直している>
85年11月10日、シングル「土曜日の恋人/MERMAID」発売。これは完全に、締切りでOKを出した。前作シングル「風の回廊(コリドー)は、この「土曜日の恋人」ほど苦しまなかった。「風の回廊(コリドー)」は、音がちょっと薄かったんでね。もっとも、この頃はまだスレーブ(トラック数を増やすためにメインのレコーダーと同期させる、マルチレコーダー)がアナログだったから、まだ良かったんだよ。まだデジタルレコーダーは1台しかなかったから。それがそのうち2台になって、全く逃げが効かなくなった。
特に「土曜日の恋人」は、曲調が全くデジタル向きじゃなかった。アナログの最後は「スプリンクラー」で、それは16chレコーダーでリズムを録ってるので、ドラムもベースも音が太いんだ。
とにかく、誰もがみんなデジタル、デジタルと言い出して。デジタルにあらずんば、人にあらず。シンセにあらずんば、人にあらず。まだ生楽器なんて使ってるの? みたいな感じだよね。だから、今(2015年)のボーカロイドの風潮とかと同じだよ。これからはこれだ! っていうやつでね。
85年にスマイル・ガレージ(スタジオ)ができて移ったんだけど、始まったばかりだったんで、機材的にもまだ不足してたし、スペックも不満だったから、途中で色々と努力してね、ルームがライヴ(残響が多い)で、それが非常に気に入らなかったり。
結果、「土曜日の恋人」の満足度は、低かったどころの騒ぎじゃなかった。ただ、それは自分の個人的な満足度ということでね。楽曲的には別に嫌いなわけじゃないから。要するに、僕の理想とするグルーヴがオーディオ的に実現できなかったということで、一人納得できないでいる、ただそれだけなの。この曲はミックスを3回やり直している。ベスト盤「TREASURES」の時にもやり直していて、だからこの曲のミックスは、全部で4つある。
やっぱりこの時期は大きな転機だったね。レコーディングの仕事を始めて、85年でちょうど10年経ってる。その10年間の経験則、22歳から32歳までの経験則って大きいんだよ。もうほとんど一生を決めると言ってもいい。それが、楽器法から、レコーディングのやり方から、急に変わり始めて、ついていけなくなるんだ。でも、RIDE ON TIMEからBIG WAVEまでのレコード制作は、順調にいってたから、曲はたくさん書けてたんだよね。
POCKET MUSICというタイトル曲を初めから思いついていた。フィル・スペクターのポケット・シンフォニーって言葉があってね。だからポケット・ミュージックというのもあるなって。それで最初に「POCKET MUSIC」をLINNとDX7と2台のシンセ音源、あと宅録の機材を買ってね。
それまで、まりやの「VARIETY」のデモとかは4チャンネルのカセットで作っていた。その時に秋葉原に行って、リバーブとか買い込んでやってたんだけど、もうちょっと良い機材が欲しくなって。FOSTEXの16チャンネルのレコーダーが出て、38cm/秒を改造して76cm/秒にしてもらった。そのテレコとコンパチ(互換)のイギリス製の調整卓を買って。これはスグレモノで。その機材を使って、その後の「駅」から何から80年代の全てのデモテープを作っているんだ。
デジタル・レコーディングに苦戦してるのに、アルバムを出さなければならないというのは、単にムーン・レコードの事業計画があるからねw でもアルバムは結局10ヶ月かかった。当初は85年11月に発売してツアーをやるっていう計画で。84年のBIG WAVEも、83年のMELODIESも一応全部普通に作って、ツアーをやって、その間にまりやの「VARIETY」、村田(和人)くんの「ひとかけらの夏」も作った。そういう意味ではPOCKET MUSICも同じシステムでやってたら、ちゃんと出来てたんだよ。曲もあったし。それなのにPCM-3324という代物が出てきちゃったおかげで(大苦戦することになった)。こうやって総括してみると結構大変だったね。
   
<いま打たれ強いのは、この時代があるから>
とにかく、まだマシンパワーも低かったからね。PC-8801はクロックが4メガ(ヘルツ)。マシンパワーが無さすぎて、キックのタイミングがちゃんと揃わない。でも、最初はそういうことも、全て自分の耳が劣化したせいだと思ったの。最初にPCM-3324の音を聴いた時も、当時僕は32歳だったけども、やっぱり30歳を過ぎると聴覚が衰えるというか、音楽に対して感動しなくなる、そのせいじゃないかなと思ったの。なんでも最初は自分のせいにするんだw 
でも1ヶ月、2ヶ月やっているうちに、ちょっと待てよ、と。家に帰ってレコード聴くと普通なの。ところがスタジオで聴くとなんの感動も呼ばない。これは、もしかして僕が悪いんじゃなくて…。それに気付くまで3ヶ月くらいかかった。コンピューターだと、リズムがうまく合わないんだ。リズム感が悪くなったなあと思ってたけど、ちょっと待てよ。マシンがついていかないから、こうなるのかなって。「ムーンライト」って曲が入ってるけど、おかげでアレはひと月かかった。
POCKET MUSICを作ってる時に、PC-9801、いわゆる98シリーズが出たの。で、98に換えたら、今までは何だったんだろうというくらい、タイミングがぴったり合うようになった。容量1メガバイトのフロッピーが出るのが、86年の話だから。それまでは700キロバイト、それも5インチのしかない。まだ3.5インチは出ていなかった。
そんなパソコン事情について、みんな何も疑問に思わなかった。僕だけなの。まあ専門的なことを言ってもしょうがないけど。例えばドラムをサンプリング音源で構築するときに、キックとスネアとハイハットの音を漠然と入れると、タイミングがズレるんだよ。それはサンプリングした音の頭にブランクが残っているとか、色々原因はあるんだけど、それを合わせなければいけない。
でも合わせるノウハウがまだなかった。右に入れたシンセと、左に入れたシンセがズレるの。それはクロックの問題なんだけど、当時だと引っかかり具合の差で、平気で100ミリ(1/10秒)くらいズレるの。こうなると手弾きの方が早いんだけど、それをシンセでやろうなんて馬鹿なことを考えて、そうなっちゃった。
でも他を見渡しても、そういうことをあまり気にしてない。他の人のレコードを聴いて、なんでこんなにスネアが遅れてるんだって思ったり。でも、誰もそういうことを口にしないんだよ。たくさんある、そういうのは。
例えば、優秀なシンセのオペレーターもたくさん居たけど、彼らがやってる音楽は僕のような音楽じゃないから、彼らの作る音色は僕の好みじゃなかったりする。自分の求めるものを口で説明するのは、とても苦労するんだ。結局、自分の好みに合った音を作るオペレーターがいなかったから、自分で作るしかなかった。みんなそれぞれ技があって、音を作る技も十人十色だから、いろんな人に聞いて、自分なりのやり方を見出していかざるを得ない。
結局85年から始めて、94年位までの8〜9年は、たった1人きりで全部音を作っていた。今はもう任せる部分は、人に任せているけど、でもあの時代の実践体験は何物にも替え難いね。あのおかげで打ち込みと、MIDIシンセサイザーサンプラーの基礎知識と、その応用が頭に入ったから。人に作ってもらう時でも、例えば生楽器だってドラマーに対してだったら「こういうパラディドル(ドラムのテクニックの一つ)で」とか、なるべく具体的に言わなければ、抽象的に指示しても伝わらない。同様にシンセでも「VCFのそこのところ、もう一目盛り、上げ」とか、そういうことを言わなければ、自分の望むことにはならない。それが今やれているのは、やっぱりあの時代に苦労したからなんだよね。もし、めちゃくちゃ上手いオペレーターがいて、あの時代に完璧なサポートをされてたら、今の自分は無いかもしれないね。
今打たれ強いのは、ないないづくしでやってきた、それぞれの時代の数年間があるからだと思う。
今になって後悔するのは、むしろ21世紀になる前後に、プロツールスの導入が、2 〜3年遅くなってしまったことかな、その出遅れがすごい響いてね。そうすると、追いつくのに倍かかるから。だから都合6年くらいを棒に振ってしまった。それは非常に後悔していることだね。
POCKET MUSICのコンセプト的なことで言えば、本当はシュガー・ベイブみたいなことをやりたかったの。大体アルバムのコンセプトなんてものは、どういう具合にしようっていうふうには始めない。曲ができたものから行こう、っていう感じで。だけどこの頃は意外と詞が書けてた。自分の好きな感じで詞が書けるようになってきた。
だから「土曜日の恋人」を作った。シュガー・ベイブの復活みたいなことが、できるんじゃないかと思って。なんか、その世界観っていうかね。いつも言うように、東京の渋谷と池袋の音世界と、その心象風景としての歌の世界っていうのは、詞の表現としてやりたかったものがいくつかあって。「POCKET MUSIC」とか「風の回廊(コリドー)」もそうだし。「十字路」なんかは銀座の交差点みたいな場所をテーマにしてるんだ。そういう自分の心象というか、風景の印象、そういうのがいかに伝わっていくとか。長いこと、そういうのが出来なくてね。MELODIESの時には会社の立ち上げとか、背景にそういう事情があったりするんだけど、そういうんじゃなく、内政的な「THE WAR SONG」とかを、やりたいなと思って。曲とか詞とかそういうトータリティとか、そういうものがまた出せるんじゃないかと思ってね。だから”シュガーベイブ・ストライクス・バック”じゃないけど、そんな感じかな。MELODIESからのシンガーソングライター的な流れを進めていこうというか。
特にレコード業界の景気が、あの頃は良くて、今みたいなあざとさがなかったから、純粋に音楽的なコンテンツでプロモーションするっていうか。アイドルはアイドルの良さがあって、アイドルが歌っている世界があるし。テクノはテクノで、前衛としての、ある程度啓蒙できるっていうか。今みたいなサブカルチャーやインディーな感じでもない。みんなメディアも含めて、全体で音楽をやろうっていう空気があったから。時代の中に、いろいろな音楽のアプローチに対する許容量みたいなものがあった。
だから何度も言ってるんだけど、POCKET MUSICが本当にBIG WAVEと同じ状況、システムで作られていたら、おそらくこれが自分にとっての最高傑作になっていただろう、と思うんだけどね。
【第37回 了】