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ヒストリーオブ山下達郎 第36回 84年4月「VARIETY」から6月「BIG WAVE」発売へ

<全曲本人のオリジナル作品でいけると確信した>
1984年は「VARIETY」から「BIG WAVE」の年だね。まりやのプロジェクトは前年から動いてた。実際には83年秋かな。レコーディングは本当にツアーの合間を縫ってやってたから。まりやは81年12月に新宿厚生年金でライヴをやって、休業する。それで82年4月に僕と結婚する。休業中も、作家活動はいろいろとやってたんだけれども、本人はRCAとの契約は終わっていたし、ムーンもまだ新人がいないしで、移籍は当然の成り行きだった。
もうとっくの昔話だから言えるんだけど、当時の業界の目から見れば、彼女は盛りを過ぎたアイドルだった。一度休業して、まして結婚してなんて、女性シンガーにとっては、明らかなデメリットだった。そういう形からカムバックして、成功した例はひとつもなかったし、まだそういう時代だった。だから「VARIETY」は一種のご祝儀という意味もあった。それでも新興レーベルにとっては、せっかく出すんだから、みんなでがんばってみようということで始めた。
アルバムの内容については、僕が当然プロデュースをすることになるので、最初に考えたプランは定石通り、それまでのRCA時代の延長路線だった。彼女のスタッフ・ライターとして曲を書いてくれていた人が、RCA時代には何人かいて、その中から林哲司さんに4曲くらい頼んで、僕が4曲くらい書いて、彼女が自分で4曲くらい書いて。それで最後は桑田(佳祐)くんにシングルを頼んで、なんて感じで行こうかなと思ってた。
で、準備を始めようという時に、彼女が「休業していた2年間で曲を書き溜めたから聴いてくれ」って持ってきた。それで最初に聴いたのが「プラスティック・ラヴ」だった。「なんだ、これ!」ってびっくりした。「なんで、こんな曲書けるのに今まで黙ってたんだ」って。そしたら「RCA時代には、そんな時間的な余裕はなかったし、誰からもそういう方向性を求められなかった」って。で、その次が「ONE NIGHT STAND」で「何曲ぐらいあるんだ?」って聞いたら、12〜3曲あるって。何に驚いたかというと、それらの曲のヴァリエーションだった。その前の「けんかをやめて」とか「リンダ」なんかのオールディーズ風味の曲だけじゃない。カントリーにボサノバに、マージービートにロックンロール。シンガー・ソングライターというより多分に作家的なアプローチの作品ばかりでね。
これだったら他の作家はいらない、全曲本人のオリジナル作品で行けると確信した。うまくいけば、これは結構なインパクトがあるぞ、と思ってね。そこで、それまで自分が持っていたプランを全部捨てて、全曲本人の作品で行くことにした。曲は「もう一度」以外は既に全部できていて、まりやのピアノ弾き語りと、後は当時の4トラックのカセットレコーダーを使って、リズムボックスで、簡単なリズムパターンを作って録音したテープをもとに、レコーディングを始めた。
小杉さんにデモを聞かせたら、やはり驚愕してね。僕と小杉さんで、ひょっとしたらこれは化けるかも、って。でも、反対する人も結構いた。まず言われたのは、さっき言ったような「まりやはもう既に盛りを過ぎている」という見方。そうなると、僕のやり方だと制作費がかかりすぎて、元が取れないって。制作の途中で、小杉さんに経理から相当な突き上げがあった。「山下を甘やかし過ぎだ。10万枚売れなきゃ元が取れない」って。小杉さんは頭にきて奮起して、そこから「もう一度」のタイアップを取ってきてね。プロモーションでも、その頃の僕のプロジェクトはディーラー・コンベンション、つまりレコード店最重視の戦略が全盛で、新譜が上がったら、ラジオや雑誌のプロモーションのほかに、大体7大都市くらいの規模で、レコード店の現場スタッフを集めて、試聴会を行っていた。79年にこの方式を最初に始めて、この時代、僕らにはそれが最高に機能していた。
ところが悪いことに、このアルバムの完成が間近になって、さぁプロモーションをどうしようかっていう時に、彼女が妊娠しちゃったんだ。それで地方キャンペーンができなくなってしまった。なので、本人を稼働せずにどうするかっていう。宣伝は頭を抱えてね。どうするんだ、ってね。
じゃあ、彼女が地方に行けないのなら、全国のディーラーに東京に集まってもらって、東京でコンベンションをやろうということになった。それが逆に、ものすごく効果的に作用した。ホテルの宴会場にPAを持ち込んで、ラウドな音量で「VARIETY」を鳴らして、聴いてもらった。このディーラー・コンベンションのおかげで、予約イニシャル枚数がそれまでの倍に跳ね上がった。これで経理は文句が言えなくなるだろうって、喜んだw 
ここでちょっと説明しておくと、レコードという商品は、発売日前にまずレコード店から予約注文を取る。発売日に出荷されるこの初回受注分を、イニシャル・オーダーと呼ぶ。発売日以降、今度は追加注文が来るんだけど、それをバック・オーダーと言って、レコード販売はこのイニシャルとバックの兼ね合いがとても難しい。イニシャル・オーダーをあまり取りすぎて商品がだぶつくと、返品が来て、レコード会社は困るし、かといって少なすぎても、今度はいわゆる売り逃しになる。まぁこういう事はレコード会社でなくても、どんな商行為の世界でもあることで。
それはさておき、あの当時、初日のバックオーダーの伝説が、矢沢永吉さんの「アイ・ラヴ・ユー、OK」での一万数千枚。すなわち5桁というものだった。これは要するに、予想はるかに上回る出だし、ということを意味した。5桁のバックオーダーは、それ以外に聞いたことがなかった。ところが、初日に会社の様子を見に行ったら、なんと一万数千枚、5桁のバックが来ていて、全員、狂喜乱舞。その時、そこにいた全員が、生まれて初めて5桁のバックオーダーを見た、と言うわけ。
結果的に「VARIETY」は50万枚近く売れて、当時としては堂々たる文句なしのヒット・アルバムになり、竹内まりやのカムバックは大成功。何よりこれは、小杉さんの意欲とプランニングの賜物だった。音楽的な面でも、青山純伊藤広規といったプレイヤーは全盛期だったし、センチメンタル・シティ・ロマンスとか、いろいろヴァリエーションをつけることもできた。ロス(LA)に行っても、彼女の人脈があって。コーラス隊とかね。セッション・マンもアーニー・ワッツ(テナー・サックス)、チャック・フィンドレー(フリューゲル・ホーン)、みんなバリバリだった。まだスタジオ・ミュージシャンが、ちゃんと機能していた時代だったから。結果的に、全てがうまく行った。
        
<「VARIETY」があんなに成功するとは思わなかった>
84年4月25日発売「VARIETY」はシンガーソングライター的じゃない、非常に作家的な作品。
曲のヴァリエーションがすごくある。「VARIETY」というタイトルになったのも、それが理由。こういうヴァリエーションがたくさんあるアルバムは、僕は得意だから。全部同じ曲調だと、かえって考えちゃうんだよね。全編ロックンロールのアルバムを作る方が、曲ごとの差別化ができないから、むしろ難しいんだよ。一般的な話でも、どれも同じ曲調ってなると、音のみで説得するのが難しくなってくる。そうなると頼るのは詞だったり、ダンスだったり、ルックスだったり、映像だったり、そういうものの助けが必要になっていく。そうするとビデオやステージにお金がかかっているか、そういう方向にどんどんなっていく。歌じゃなくなっちゃうんだよ。
とにかく「VARIETY」があんなに成功するとは思わなかった。だけど、彼女はいつもそうなんだよね。運がいいっていうか。同じ頃に出てきた女性シンガーたちは、結局、まりやみたいにはできなかった。
「VARIETY」や「REQUEST」(87年)の成功で思ったのは、プロデュースとアレンジのプロモートが的確ならば、こうした形でのカムバックが可能な人って、ひょっとしたら他にもたくさんいるのかもしれない。今でもそう思うけど、実際にはチャンスがなかったり、通りいっぺんの制作ルーティーンで終わらざるを得なかったり。多分、そういう原則は、いつの時代も同じだと思う。
まりや自身が言っていた「誰からも求められなかった」ことや、あとは、後になって「あれは私の本当のやりたいことじゃなかった」とかね。でも、そんなの絶対に本音じゃないんだ。それは何か他の要素があるから言っているだけで。ヒットは諸刃の剣だから、自分のヒットに押しつぶされてしまう人もいるからね。
まりやの反応といえば、彼女はあの時はある種の傍観者でね。面白がって居られた。どう料理されるかって。だからだんだんエスカレートしてきて、89年後半になると「シングル・アゲイン」みたいなアプローチを始めたりする。意地悪っていうか贅沢だよね。
あの頃は”歌謡曲対ニューミュージック”みたいな構図があってね。松田聖子の初期のシングルは歌謡色が強いけど、アルバムは杉(真理)くんとか、ニューミュージックのライターに書かせたりして、次第にシングルにもその色が反映されて来ていた。でも、僕はそういうものに加担するんだったら、自分自身でやったほうがいいと思ってたんだ。
僕は職業作家じゃないし、シンガー・ソングライターの断片をそんなところに寄せ集めて、アイドルがステータス・アップする御先棒(おさきぼう)を担ぐのは、まっぴら御免だって。だから、そういうところでは喧嘩してたんだよね。近藤真彦の「ハイティーン・ブギ」だったら、そういうことがないんだけど、女性アイドルだとプロデュースまでは絶対やらせてくれない。アレンジの面でも、こっちが気を使わないと、歌がオケに負けちゃうし、本人のキャラには、それがデメリットだからね。そういうのは絶対に許されないんだよ。そうした面での僕のアレンジは、女性アイドル向きじゃないと思ってた。男性アイドルはそうでもない。男性アイドルは、基本的に切迫感の勝負だからね。
      
<女の人はいろいろなキャラができるでしょ>
謡曲と洋楽的なものの間を狙ったとか、「VARIETY」はそういうことではなくてね。ただ、当時は歌謡曲っていうジャンルが厳然だる力を持っていたし、売れるオケとか、売れる歌、曲とか、歌謡曲的なものがシングルヒットの重要なファクターだった。僕にはそんなものは全くできないから、それだったらシングルじゃなくてアルバムで、っていうコンセプトが、そこから生まれたわけだよ。僕の側のフィールドは、みんなアルバムのトータリティとか、クオリティとか、歌謡曲とはそういう部分で勝負するしかない。アイドルのアルバムが売れるようになったっていうのは、まさにそういう我々のノウハウを、歌謡曲が取り込んでいった結果なんだよね。
70年代のアイドルはシングルは30万枚売れるけど、アルバムは3万枚だったから。アイドルはそれが普通だったんだよ。それを、ニューミュージックの作家とアレンジャーを引き入れることによって、もうちょっとクオリティーの高いものを作るようになった。でもそれって、自分で自分の首を絞めることになるんだよ。我々の存在基盤だったアルバムというフィールドを、歌謡曲が侵食していくわけじゃない。それに対する恐怖感がすごくあった。あとはYMOが活動していた時代だから、テクノ系の音楽に対する恐怖とかもね。「VARIETY」は全部人力で演奏しているアルバムなんだよ。MELODIES、VARIETY、BIG WAVE、全部人力だから、あの時代はシンセすらも、本当は使いたくなかった。そういうところで喧嘩してたんだ。
まあ「VARIETY」はフォーシーズンズから始まって、16ビートあり、カントリー、リバプールサウンドやボサノバに、っていう、実に面白いアルバムなんだよね。今考えると。
男は着せ替え人形ができないからね。僕なんか、特に不器用だから。でも、女の人はそういうところは、着せ替えがけっこう出来るじゃない。ユーミンなんかもそうで、いろいろなキャラが出来るでしょ。それは女の人の特性なんだよね。男はもうちょっと統一フォームというか、いろいろなキャラを演じにくいんだよね。やっぱり、歌の世界を演じるということに対しては、男は女の人には負けるから。だから、他の人の音楽をいじって遊んでみたい、っていうねw 自分の音楽ではできないアプローチだね。でもCMではずっとそれでやれてたからね。CMだったらハードロックやっても大丈夫だし。それと同じ。
だから、逆にまりや自身もそういうところがね、これを僕にやらせたらどうなるか、みたいに、だんだんなっていくんだよ。やりたくとも、誰もそんな要望に耳を傾けてはくれなかった。でも、休業してからはアイドルに曲を書いて、河合奈保子に書いた82年の「けんかをやめて」はヒットしたし。そういう成功も創作意欲を増進させた事は間違いない。
これは昔からずっと言ってることなんだけど、竹内まりやは歌い手として立てるスタンスというスタンスを、全て経験している、珍しい存在なんだよね。最初はアイドルもどきというか、職業作家の曲をテレビカメラの前で歌ってたし、逆に作詞・作曲をして、テレビカメラの前で歌う人に曲を書くこともした。カムバックした時は、シンガー・ソングライターになってた。シンガー・ソングライターは他人の曲は歌わない。演歌歌手のほとんどは曲を与えられて、それを歌うけど、中には自分でも作詞・作曲をする人もいる。歌手に作品を提供する作家の中には、自分でも歌う人がいる。ことほどさように、歌手として立つべきスタンスっていうのは5つか6つあるんだけど、竹内まりやはそれを全部経験してる。しかも、そのすべてのスタンスで一定程度の成功を収めている。そういうのは日本の歌謡史においては竹内まりや、一人だけなんだよ。もっとも「VARIETY」の時は、そんな事はまだ考えてもいなかったけどね。
とにかく、彼女にそんなに作曲能力があるとは、誰も思っていなかった。僕ですらね。それまでにも曲は書いていたけれど、それほどのヴァリエーションはなかったし、それに結婚した当初は、僕はツアーの毎日だったから。(84年に)子供ができた後なんて、子供が寝てる隙にヤマハのミニ・キーボードを洗面所に置いて、それで作ってるんだから、凄いと思って。僕は絶対にできない、そんな事はw
「VARIETY」はとにかく色々な曲調なので、五目味っていうか。五目味アルバムっていう呼称は、大滝(詠一)さんの発明なんだけど。大滝さんのファースト・アルバムはまさに五目なんだよね。それまでの、音楽体験の披露という意図が大きいと思う。作家的な特性を内包している人のアルバムには、必ずそういうのが何枚かあるんだよ。大滝さんはそれをかなり意図的にやっていたし、まりやの場合は、それよりは無意識だけど。GO AHEAD!も五目味のアルバムだけど、あれは曲ができないとか、苦し紛れでそうなっただけで。でも、それができるかできないかで、同じシンガー・ソングライターでも方向性が違っていく。まぁ、その色々なパターンを全て歌えるかどうか、っていう問題もある。それも、なかなか難しいことなんだよね。自覚的にしろ無自覚にしろ、みんなそうやって自分の行くべき道っていうか、居場所を見つけていかざるをえないから。
まりやは声域がアルトでね。アルトの人はフレキシビリティーがあるんだよ。ソプラノの声は特徴というか、クセが強い分、難しいんだ。日本の歌謡史を見ても、長続きしている人はアルトが多い気がする。淡谷のり子さんのような基礎を身につけた人は別として、ソプラノは自己流だと、なかなか長く続かない。アルトの方が、年齢を重ねても、声質があまり変わらないとかもあるんだろうけど。美空ひばりさんが好例だね。
    
<「VRIETY」制作中にBIG WAVE(84年6月20日発売)も始まった>
ムーン移籍後、ビーチ・ボーイズのカヴァーをちょくちょくやってた。シングルの「高気圧ガール」や「スプリンクラー」のB面がそう。あれを小杉さんが聴いて、これもったいないからアルバム化したい、と思ってた。その時、たまたまサーフィン映画の話があった。「BIG WAVE」って日本ヘラルド(のちに角川ヘラルド・ピクチャーズを経て合併され、ヘラルドの名前は今は消滅)の制作で、その話が来たんで、小杉さんが飛びついて。それで全曲英語詞のアルバムで、ビーチ・ボーイズのカバーで、みたいな企画を考えたんだね。
小杉さんはちょうどその頃、ムーンの社長に加えて、スマイル・カンパニーの社長を兼任することになったので、長年勤めていた僕のディレクターから外れたばかりだった。MELODIESは小杉さんがディレクターだからね。とは言え、彼はまだ僕のレコード制作には深く関わっていたので、MELODIESを出した後の作品として、これをプランニングした。
でも、その時はまりやの「VARIETY」をレコーディングしてたから、あまり濃い作品は作れないだろうと。企画的なものだったから、楽にできるだろうと。それでいろいろなことを考えたときに、ビーチ・ボーイズのことを思い出して、サーフィンの映画ならコレだって、最初はそうそういう感じだったと記憶してる。だから、小杉さんから持ちかけられたんだよね。で、アルバムのプロデューサーのクレジットは小杉さんと僕になってる。
小杉さんからその話を聞いた時は、それはそれで、初めはどうしようかと思ったけど、それじゃあオリジナルとカヴァーの二本立てにしようということになった。英語のカヴァー曲は、以前の「THIS COULD BE THE NIGHT」とかと集大成して、オリジナルは新曲もないとダメだろうし、一応「BIG WAVE」という映画だから、主題歌も必要っていうことでね。
僕の英語詞作品はアラン・オデイと組んで4年目になっていたから、詞は当然、彼に頼もうということになったんだけど、あの時代はまだネットがなかったからね。(RIDE ON TIMEに入ってる)「YOUR EYES」なんかは、カラオケにラララで歌ったカセットをアメリカに郵送して、その郵送したカセットに、アランが自分で歌ったやつと、歌詞カードが返送されて来てた。だけど、このアルバムは実質3ヶ月くらいで作らないといけないから、それじゃ絶対に間に合わない。(4月25日発売の)「VARIETY」が出来上がったのが春先。そこから即BIG WAVEに切り替えて、その先にはツアーが待ってる。そういう労働量の時代だったから、じゃあアランを日本に呼んでしまおうということになって、それで2月くらいかな、来てもらったんだ。
このアルバム用に新たに録ったのは「THE THEME FROM BIG WAVE」と「MAGIC WAYS」「ONLY WITH YOU」「I LOVE YOU…Part Ⅱ」の4曲。「I LOVE YOU…Part Ⅰ」は前年(83年)のサントリーCM音源だから、オケはもう出来ていた。カヴァーの新録は「GIRLS ON THE BEACH」で、アルバムでの新録はそんなものかな。あとは既成の曲を英語詞化したもの、「JODY」がそう。既成曲は「YOUR EYES」を初め、全部リミックスした。
そういう細かい部分は僕が考えたけど、この企画そのものは小杉さんの思いつき。BIG WAVEの30周年記念盤のライナーノーツにも書いたけど、あの当時の英語ヴァージョンというのは、今とは意味合いが全然違う。海外進出とかではなくて、洋楽ファンを取り込むっていう方法論なのね。日本語で歌っている、ニューミュージックのシンガー・ソングライターとの差別化を図るっていうか。ON THE STREET CORNERもそういう意図の作品だけど、あれはドゥーワップだったでしょ。だったら、今度はサーフィン・ホットロッドでいってみよう、ということでね。“夏だ、海だ、達郎だ”の時代だったから。たまたま、そこにサーフィン・ムービーの話が来たので、その企画に乗ったということ。
   
<デジタル・レコーディングだったら、こんな音にはなっていない>
映画自体は全然ヒットしなかった。今は映画がヒットしなかったら、アルバムも絶対にヒット作にならないけど、BIG WAVEのアルバムは40万枚以上売れた。そんな事は、今は絶対にありえない。だから、あの時代はレコードがいかに力を持っていたか、ということなんだよね。このアルバムは自分の作品の中では、一番グレー・ゾーンにフィットしたアルバムだと言える。つまり、それまでの自分のリスナーじゃない人にも支持されたんだね。そういう意味では、制作意図とドンピシャだったと言える。このアルバムによって、新しいユーザーも増えた。それが、この先のツアーともリンクしていくことになったんだ。
それは小杉さんの狙いだけど、僕もそれはグッド・アイデアだと思ったから。そういう、人のやってないことというか、新しい切り口というか、そういうのを、みんないつも一所懸命考えてた。BIG WAVEもそうしたものの一環だから。その意味で、本当の企画ものなんだよね。
A面はオリジナルで、B面はビーチ・ボーイズで。だけどビーチ・ボーイズというのはカヴァーするにはなかなか手強い相手でね。トラックの作り方、コーラスの色合い。一歩間違えれば、ただの自己満足か、お笑いになる。
まず考えたのは、トラックをどう作るか。あの当時はビーチ・ボーイズの人気は底辺も底辺。だからスタジオ・ミュージシャンでビーチ・ボーイズを再現しようにも、彼らはなんの基礎知識もない。そうしたリズム隊でやったら、摩訶不思議な懐メロトラックが関の山だもの。彼らの責任とか、そういうのじゃなくて、あの時代はそういう時代だった。
それを克服するには、自分の一人多重で作るのが、ベストだと思ったの。ドラムも全部自分で叩いてね。「ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY」(1972)に戻って。ビーチ・ボーイズの音世界を知っている僕の方が、空気感が自然に出せる。コーラスも一人多重で全部やれるし。結果的にA面のオリジナル曲も、自分で演奏しているのが多いし、これも一種の差別化かな。BIG WAVEは最後のアナログ・レコーディング作品だから、そういう意味ではぎりぎりセーフだったんだよ。これが1年後に登場するSONY PCM-3324(24chデジタル・レコーダー)を使ったデジタル・レコーディングだったら、全然こんな音にはなっていないから。それは幸運だったっていうか。
   
<リゾート・ミュージックとしては、最高に機能したよね>
アルバムBIG WAVEは、制作的にはそれほど大変でもなかった。本当に5〜6曲でしょ。一番大変だった曲は「THE THEME FROM BIG WAVE」かな。 これはまた青山純伊藤広規と僕の3人でやってるんだけど、僕のギターがあんまりロックンロールっぽくないというか、ライン録りのプレーンなトーンで弾いてる。今から考えると、これはアンプを通して、もっと音を太くすればよかった、と思ってる。それはちょっと後悔してるけどね。ギターソロもいろんな人に頼んだんだけど、全然ホットロッドにならなくて、結局自分でやったんだよね。今から考えると、もうちょっとオーバーコンプにして、アンプから出すなり何なりして、少しパンクな音にすると、もうちょっと本当のサーフィン・ホットロッドになったんだけどね。やっぱりFOR YOUとかをやってた後だから、ライン録りなんだよね。
時代ごとにいろんなファクターがある。このアルバムでは全編DRE-2000ていうソニーのデジタルリバーブを使っているの。EMT(プレート/鉄板エコー)を使っていない。エンジニアの吉田保さんが興味を示して、これだったら全部いけるのかなって、全部使っちゃった。既成の曲も、基本的に全部リミックスしてるので。「DARLIN’」と「PLEASE LET ME WONDER」はシングル(B面)のテイクを使ってるから、これはEMTだけど、後は全部DRE-2000。細かいところではそういうこととか、色々あるんだけどね。企画物にしては、まぁ時代もあるけど、ちょうどウォークマンの時代だから、やっぱりリゾート・ミュージックというか、そういうところでは最高に機能したよね。
映画はあまりヒットしなかったんだけど、最初の段階では72分くらいの純粋なサーフィン・ドキュメンタリー映画だったんだ。それが、どこか海外に売れたんだ。でね、その当時の規定では、外国に輸出するフィルムは90分以上じゃないとダメだったらしくて、それで何をやったかと言うと、売ってるフィルムを買って、尺を伸ばしたの。そこから変になったんだ。映画を観てると、途中で訳が分からなくなる。あれが元の72分の純粋なサーフィン・ドキュメンタリーのままだったら、地味だけど、それなりに、きちっとまとまった映画になっていたんだよね。それがビキニの女の子とか、いろいろ入って、すごいことになって、ナレーションとか向こうの人がやってるんだけど、どんどん下品になっていった。届いたラッシュを観たら、あまりにひどいので、小杉さんが下品なSEとかそういうのを全部やめさせて、それで何とか公開に踏み切ったという。小杉さんは、映画会社とは昔から関係が深いからね。あの頃はマッチの映画とか、桑名(正博)くんの舞台とか、演劇、映像ともかなり関わってた。で、サーフィン映画というと、その前に「ビック・ウェンズデー」がヒットして、サーフィン映画が結構望まれていたんだよね。そういう意味では、柳の下(のドジョウ狙い)だね。
   
<結果的に映画がレコードを手助けしてくれた>
映像とのシンクロはオープニング以外は全くしてない。 だから、どこに何をはめるのかという事は、向こうに任せていた。映画では、僕以外にパイナップル・ボーイズっていうインストバンドが音楽を担当していて、その音もいろんなところに出てくるけど、細かいところはこっちはタッチしていない。あと映画の冒頭の「THE THEME FROM BIG WAVE」、あの曲だけドルビー・サラウンドのミックスなんだ。当時まだアナログの3.1チャンネル・サラウンドで、今聴くとそれがひどい音像なんだ。今売ってるDVDを観ても、アナログ・ドルビー特有の音像で、焦点が定まらない。映画のオリジナルマスターにはナレーションが乗っているから、音だけの差し替えができない。これをやり直すには、音を一回抜いて、それにナレーションから全部、差し替え直さなければいけない。そんな事は不可能だから。レコード用の2チャンネル・マスターはあっても、どうすることもできない。ナレーションを新録しなければいけないからね。だから、映画をリマスターして欲しいとか言われても、アナログ・ドルビーをいくらリマスターしたところで無駄骨だから。そうやって切り捨てられたハードウェアに、常にソフトは犠牲になるんだ。
BIG WAVEは映画のサントラだけど、映画の主題とは全然関係ない。イメージ・レコードだから。結果的に、映画がレコードの手助けをしてるっていう、今とは全く逆の形だよね。テレビ・スポットもそれなりに流れてたし。それがレコードのプロモーションにもなった。それはちょっと例としてはないでしょう。「戦場のメリークリスマス」とかは、きちっと映画も成功しているし、映画と音楽の相乗効果があったけれど、BIG WAVEみたいにレコードだけ突出してというのは、珍しいよね。今もカタログとして残ってるし。そういうメディア・ミックスみたいなことで、連関して語られるようになったのは、90年代になってからなんだよね。だって82年に出した「あまく危険な香り」も、同じタイトルのテレビドラマ主題歌だったけど、ドラマの視聴率はあまり良くなかった。でも「あまく危険な香り」は結構売れたからね。当時はあまり関係なかったんだよね。
   
<アランの徹底的なスパルタで、英語の発音は大幅に改善>
BIG WAVEの制作では、アラン・オデイ(1940-2013)に日本に来てもらって、作詞をしてもらい、あとは、歌唱指導もしてもらった。
アランとの出会いは、79年頃に小杉さんが彼を紹介してくれて、何曲か歌詞をもらった。僕は以前から、英語バージョンを作りたいと思った時に、当時の日本だと、在日の外国人に書いてもらうことがほとんどだったけれども、どうせやるんだったら、本当のプロじゃなきゃとずっと思ってて。そのアランにもらった歌詞に曲をつけて、最初に世に出たのが、まりやの「MISS M」(1980)に入ってる「EVERY NIGHT」。あのアルバムはLAでのレコーディングだったので、アランがその時に来てくれて、コーラスとか手伝ってくれたんだ。そこからFOR YOUでの「YOUR EYES」につながっていく。
これも前から話してることだけど、アランは小杉さんがまだ音楽出版社(日音)の社員だった時代、南沙織のレコーディングでLAに行った時に、彼がレコーディングを手伝っていて、知り合ったの。アランはワーナー出版の専属ライターで、ヘレン・レディーの「アンジー・ベイビー」とか、ライチャス・ブラザースの「ロックンロール天国」とかヒットさせていて、彼自身も「アンダーカバー・エンジェル」で、77年に全米ナンバーワンになっている。でも、年に10曲書かない非常に寡作な人なの。ある意味、完璧主義者っていうか。「アンバーカバー・エンジェル」がヒットしたので、すぐにアルバムを出す予定だったんだけど、レコーディングをもう一回やり直したいとか言って、半年以上遅れちゃって、それでチャンスを逃した。あのアルバムもちゃんと良いタイミングで出てたら、ヒット作になってたはずだったんだけど。そういうところが、ちょっと頑固者というかね。
まぁとにかくアランに来てもらって、作詞を始めた。どうせ来てもらうんだったら、英語の歌唱指導もしてもらおうということになって。ひと月ちょっと日本にいたのかな。まずはBIG WAVEから作り始めた。BIG WAVEの映画のビデオをアランにも見てもらって、サーフィンというスポーツは何かという話から始まって。僕がサーフィンというスポーツに対して持っているイメージを彼に話した。BIG WAVEのライナーにも書いてあるけど、サーフィンというのはとても孤独なスポーツに思えるんだ。実際サーファーには、社会生活に適応できない、心の持ち主も多い。年に半分肉体労働をやって、後は海に入っているという人とかね。彼らにとっては、一般の社会生活よりも、波の上の生活、波を待っている時間、波に乗る喜び、それこそが自分の属する世界だと。その意味では孤独なんだけど、同時に安住の地でもあるんじゃないかと。そういうイメージをアランに話した。
彼は、それは非常に面白い意見だと言って、「THE THEME FROM BIG WAVE」はそういう歌になった。他の曲「ONLY WITH YOU」と「MAGIC WAYS」は、彼がいつも書いている感じの内容で、あの人はロマンティストだからね。「JODY」もこの時に英詞を依頼して、歌い直している。彼に元の日本語詞の翻訳を見てもらって、それに準じて書いてもらった。
そうやってやっているうちに、彼が「I LOVE YOU」を聴いて、「なんでこれI LOVE YOUしか歌ってないんだ?」「いやこれはCMでね」「この上にもう一つ歌詞を乗せたら面白い」って。それで、歌詞入りの「I LOVE YOU…Part Ⅱ」を考えたの。いわゆるコラボレーションなので、曲も共作クレジットになっている。
アランと毎日会っているんで、飯を食いながら話をしていると、色々広がっていく。それで結構うまくいったんだよ。でね、それをする中で、歌っていると、発音が違うって言われてね。彼が歌詞を書くから、歌入れにも付き合うでしょ。一番言われたのが、”summer”で、お前の発音はプエルトリカンだって。僕はその頃、発音が良いなんて言われてたけど、でもネイティブ・スピーカーなわけじゃないから、いわゆる耳英語なわけで、そういう人間の持つ発音上の細かな問題点は、アン(・ルイス)とか、うちの奥さんからもよく言われてた。それだったら、この際だから徹底的に指摘して、直してくれって。
で、この辺の記憶については、小杉さんと僕とで若干違うんだよ。僕はそう言って徹底的にやってもらったんだけど、小杉さんはね、アランがあまりに徹底的にやるんで、そこまでやることないじゃないかって言ったんだって。そしたら彼が「いや違うんだ、タツが徹底的にやってくれと言ったんで、やってるんだ。僕だってここまでやりたくないけど、彼がそうしてくれって言うんだから、しょうがないだろう」って。小杉さんはそう聞いてるって。僕はそこまで言った記憶はないんだけどね。
でも結果的に、それは凄まじいスパルタだった。でも、あの時の徹底的なスパルタで(発音は)大幅に改善されたんだよね。歌を歌うときの発音の基本、それも日本人が歌うときの発音ね。黒人の真似をするなとか、そういうところまでやったから。正確な発音、それも日本人がコレクトな発音するときの考え方、っていうことをね。自分はカリフォルニアなまりがあるんだって言うんだけど、でも、日本人はそういう形のなまりを真似をしてはいけないって。だからコレクト・スピーキングでやる。本当に勉強になったね。うちの奥さんみたいに自分でしゃべれる人って、他の人に教えられないんだよね。「私は通訳じゃない」って言って。
アランはそういうことが理論的にできる人だった。それで本当にわかるようになっていった。それからさらに3年、5年と経つうちに、なるほどアランがあの時言ってたのは、そういうことだったのか、とかね、そういうふうになってきた。だからあのスパルタがなければ、本当にSEASON’S GREETINGS(1993)とかあり得なかったからね。その後の英語の歌詞を歌うときにも、必ず気をつけるべき事は、これのおかげで、本当によくわかったから。何か新しい英語の、オリジナルでもカヴァーでも、ON THE STREET CORNERのレコーディングやってる時なんかも、歌詞カードに赤を入れて、必ず発音の確認を事前にするように心がけている。
若い頃の「LA LA MEANS I LOVE YOU」や「TOUCH ME LIGHTLY」とかが、いかにいい加減だったかっていうのは、よくわかるよね。それをきちんと自覚できるようになると、だんだんちゃんとしてくる。セルフ・チェックというのは大事なんだよね。意味がわかって歌っているのと、わからずに歌っているのとでは、全然違うのと同様に、発音もちゃんとやらないと。雰囲気英語でも、ある程度のところまでは行くんだけど、それだと完璧じゃない。あの時、それを発音の面から、アランにしごいてもらった事は、何物にも代えがたい僕の財産になった。
   
<BIG WAVEのレコードは素晴らしい音をしている>
考えてみると、BIG WAVEは面白い立ち位置のアルバムなんだよね。今は企画ものっていうと、カヴァー集とかばっかりで、リゾート・ミュージックとか、そういう発想は無くなっちゃってるものね。クルマで流す音楽っていっても、大音量ものだったり。このアルバムでのオリジナル曲の英語ヴァージョンは、やっぱり自分のメロディーは、圧倒的に日本語よりも英語が乗りやすいからね。それは今でもそうで。だから、英語詞の方が楽なんだけど、それじゃ身もふたもないから。
あとBIG WAVEはビーチ・ボーイズのカヴァーが大きな比重を持つ作品だから、ビーチ・ボーイズのオリジナルに勝てないまでも、負けないようにするにはどうするか、ビーチ・ボーイズにどう肉薄するかが、重要な課題だった。基本的に完コピという方針だったけど、どう完コピするかが実に難しくて。僕は中学の頃からビーチ・ボーイズを聴いて育っているから、ビーチ・ボーイズの空気感は理解できてるつもりだった。だけど、日本を見渡して、ミュージシャンでビーチ・ボーイズを再現できる仲間なんて、ほとんどいない。それなら自分で、ドラムから何から全部やる、一人多重の方がいいかなって結論になって。ベースだけ(伊藤)広規に手伝ってもらって、後はキーボードからコーラスまで全部一人で作った。一人でやれる曲しかやってないけどね。このアルバムで海外に、とは全然考えていなかったね。提案はされたけど、僕は興味ないから。
自分の海外(進出)については今(2015年)も興味がない。アメリカのSIREレコード社長のシーモア・スタインに誘われれたりはしたけどね。ON THE STREET CORNERを聴いて、「アメリカで出さないか」って声をかけて来た。あとは「ブライアン・ウィルソンとか、ディオンと一緒にやらないか」とか。「何にも興味ない」って言ったら、「お前は変な奴だと」と言われたw でも、そういうことのためにやってるんじゃないから。
先行シングルとして、6月20日発売のアルバムに先駆けて、5月25日に「THE THEME FROM BIG WAVE/I LOVE YOU Part 1&2」を発売した。これは単純に、アルバムからのシングルカット。このシングルは映画の割引券付きでね。本来はアルバムも同時発売予定だったんだけど、アルバムはひと月遅れた。歌詞カードの誤植があって。
そういえばBIG WAVEは、信濃町ソニースタジオでアナログLPのカッティングをしたんだ。ちょうど大滝(詠一)さんの「EACH TIME」の直後で、同じエンジニアだった。ところがテスト盤が届いたら、どう聴いても「EACH TIME」よりも2〜3デシベル、レベルが低いんだよね。なんだこれは? 陰謀か? と思ってw 「音が悪い」ってソニーの浜松工場まで、文句を言いに行った。で、クレームを入れまくって、カッティング・エンジニアが何度も切り直して。おかげで大幅に改善されて、納得する音になった。後日、カッティング・エンジニアから電話が掛かって来て、「達郎さん、その『EACH TIME』、テスト盤でしょう。それってマスターサウンド(高音質重量盤)なんですよ」
そりゃ違って当たり前だわw だけど、でも、そんなの全然知らなかったから、「いいじゃん、同じ音圧になったんだから。やればできるじゃん」「ひどい」ってなもんでw おかげでBIG WAVEのレコードは素晴らしい音質なんだw あの当時、浜松工場に工場見学に行ったのは、僕と松田聖子だけだって。聖子ちゃんは当然表敬訪問だけど、音が悪いって文句を言いに行ったのは、後にも先にも僕だけだって、後々まで言われた。でも、粘っただけのことがあって、本当に良い音なんだよ。
実はCIRCUS TOWNのアナログ盤も、ビクターの工場では特別な高品質塩化ビニールを使って、プレスしてくれたんだ。アメリカからラッカー盤を持って帰ってきたので、せっかくだからって。通常より値段の高い。高品質塩ビって何が違うのか分からなくて、工場関係者に聞いてみても、企業秘密だ、って教えてくれなかったw
BIG WAVE映画版はアナログ・ドルビーなので、オーディオ2トラックのようなリマスターは不可能なんだ。だからDVD化された映画BIG WAVEはオリジナルのままのストレート・コピー。映画もちゃんとリマスターができたらいいんだけど、日本の映画会社はそういうのに冷たいからね。
   
<84年12月、BIG WAVEをたずさえてツアー開始>
BIG WAVEが出た後、84年もツアーだね。12月から年をまたいで。毎年そういうスケジュールだった。ライヴは1曲目が「ONLY WITH YOU」のアカペラから始まって、割とBIG WAVEの曲がメインで。アルバム連動だね。「AMAPOLA」「I LOVE YOU」のメドレーもこの時にやった。ツアーの年内最終公演、12月25〜27日の中野サンプラザの前には風邪をひいちゃって、最終日には38度6分の熱でやらされた。今ならキャンセルだよね。まだ31歳だったから。このツアーの最後が名古屋で。そこで、それまでのメンバーは、とりあえずひと段落となるんだね。この頃も僕は不摂生の時期だね。タバコもバリバリで。
ツアーでのお客さんの層は、変わらなかったと思う。 この前のツアーくらいから、全国でソールド・アウトという状況がようやく達成できていた。MELODIESのヒットは大きかったね。作品もずっとコンスタントに出ていたし。今と違って、当時はまだライヴに行くっていうのは、かなり特別の体験だったから。例えばこのツアー、30本で、約6万人でしょ。レコード買う人の方が、はるかに多い。
ライヴに来る人は、やはりそれなりの特別な人っていうかね。僕のようなスタイルで地方ツアーをやってる人が、特にポップ系の男性ミュージシャンでは、まだあまりいなかったから。後はイケイケなロックばっかりだったからね。そういう意味では噂を聞いて、次第に集まってくるんだ。そういう時代だったね。
【第36回 了】