The Archives

次の時代へアーカイブ

ヒストリーオブ山下達郎 第28回 アルバムRIDE ON TIME(80年9月19日発売)

レコード大賞の授賞式に出席することは考えてなかった>
レコード大賞のベストアルバム賞は、1979年に新しく制定されたもので、僕の受賞の時が2回目だった。それまではアルバムのための賞は、なかったんだ。評論家の福田一郎さんあたりが音頭をとって、アルバム賞をやろうと言い出したと聞いてる。この賞は当初から投票制じゃなくて、合議制だった。で、80年の大晦日、この時に受賞したのはYMOの「ソリッド・ステート・サバイバー」と、長渕剛さんの「逆流」と、僕のMOONGLOWの3枚。ちなみに1年目に受賞したのはアリスの「栄光への脱出〜武道館ライブ」と、サザンオールスターズの「10ナンバーズ・からっと」、さだまさしさんの「夢供養」だった。
当初、僕は「そういうのはいらない」って言ったんだけど、 福田さんから「そういうものじゃないだろ」って言われてね。福田さんとは仲が良かったから。でも、授賞式に出席して表彰状もらうなんて事は、全然考えてなかった。レコード大賞なんて無縁だと思ってたけど、エアーレーベルのスタッフが「田舎の家族から、いつまでやくざな仕事をやってるんだ。故郷に仕事があるから帰って来い、と言われている。達郎さんが受賞式に出てくれることで、そういう家庭の不安やプレッシャーを払拭して、故郷に錦を飾れるから」って懇願されてねw それで授賞式に出ることにした。80年の末だったから、どうせRIDE ON TIMEでCMに出てたし。 だから司会のいしだあゆみさんから「お気持ちは?」って聞かれて、「レコード会社のスタッフのおかげでこういう賞がいただけました」という内容の発言をしたのは、そういう事情からなんだ。ムーン・レコードになってからも、ムーンは20人足らずの会社だったから、レコードのクレジットに全員の名前を書いてた。それを田舎に送ると喜ばれるわけw
   
<CM撮影でサイパンに行って、RIDE ON TIMEの構想が発展した>
1980年は激動だったね。79年の10月ごろからツアーメンバーを青山純伊藤広規椎名和夫難波弘之にして、79年にはサックスがいなかったけど、80年の春からは土岐(英史)くんを入れて、 コーラスをシンガーズ・スリーの和田夏代子さんと鈴木宏子さんに頼んだ。和田さん、鈴木さんは、僕より少しだけ年上なんだけど、人柄が穏やかな上に、二人とも英文科で英語の発音が良かった。 
そんな感じで、このメンバーで81年の暮れまでやったから、2年近くだね。
思えば79年の春から、日本青年館、大阪サンケイホール(現・サンケイホールブリーゼ)、 名古屋の雲龍ホール(現・名古屋クラブダイアモンドホール)、札幌市公会堂(現・札幌市民ホール)、福岡電気ホール(閉館)とか、 600人から700人、1,500人規模のホールでツアーをして、そこからメンバーを変えて、秋からは青山と広規で動き始めて、79年暮れに渋谷公会堂、翌80年1月に郵便貯金会館(後のメルパルクホール/2022年閉館)でやった。渋谷公会堂のライヴが終わったその晩に、RIDE ON TIMEのデモテープを録ったんだ。だからその時点では、マクセルでCMをやるってことがもう決まってたんだね。
CMのおおもとは電通の第3クリエイティブで、そこのプロデューサーがどうしても、山下達郎をCMに引っ張り出したかったんだ。マクセルのUDカセットはミュージシャン系のCM出演を続けていたところで、 僕の前はネイティブ・サンだったかな。ただ、その渋谷公会堂終了時に録音したデモは、最終的なRIDE ON TIMEとは違った曲だった。最初の曲は、曲名は同じだったけど、後に「ワンモア・タイム」っていう曲になって、マッチの作品として世に出ている(シングル「永遠に秘密さ」B面)。
僕のそのデモバージョンは2002年にRCAAIR YEARSをリマスターで出したときに、アナログBOXを作った、そのボーナス・ディスクに入ってる。デモを録ったのは音響ハウスで、夜中近くに録ったんだから、若かったよね。渋公のステージ本番が終わってから、デモ録るんだからね。だけど、どうもその曲はしっくり来なくて、年が明けてもう1曲新しく書いたのが、最終的なRIDE ON TIMEで、サイパンに行ったのは80年2月かな。
小杉さんからは「CMの話があるから曲を作れ」って言われてた。僕はそれまでシングル3枚しか出してなかった。初めからRIDE ON TIMEっていうタイトルで決まってて。だからCMを意識して作ったんだよ。このタイトルの曲じゃないとダメだということも、映像に出ることも決まっていた。 CMの画面にも出るという話を聞いた時は、なんか抵抗したような記憶もあるんだけど。RIDE ON TIMEっていうタイトルについては、そんな英語あるのかなって。あったから良かったんだけどね。だけど歌詞が難航して、ウダウダやっていたから、結構制作時間はかかったね。曲を作っている間に、CMの撮影はサイパンに行ったんだ。
撮影はかったるかったよ。なんだかんだと1日中やらされるから。まぁ若かったから、それでも何とかやってたけどね。ただサイパンに行って、曲の構想が発展した。だって南洋に行ったのなんて、後にも先にもあの時だけだから。ナマコが多かったけど、サンシャインは確かに強烈だった。サイパンに行ったことで、ああいう曲調というか、アレンジには大きな助けになったんだ。それまでは密室で作ってたからね。サイパンに行ったことで曲がまとまって、書きかけだったのを、帰ってから一気にやった。
僕の場合は、基本的に曲のOKとかの判断は(くだされ)なかった。小杉さんはコンペをやらない人だから、出したものがOKなの。強気だったんだよね。でも先方は、どっちの曲にも別に不満はなかったみたい。あの頃は上り調子だったからね。それに先方も、曲の事にはそれほど制約を設けていなかったから。そういう時代だったんだよ。
  
< 生まれて初めて一人暮らしを始めた>
とにかくリズムセクションがまとまったのが、この頃は大きかったね。あの5リズムで固まったときの充実感は、いまだかつてなかった。8ビートもできるし、16もできる。ハチロク(8分の6拍子)もやれるし、 それまで作った曲でやれない曲が、ほとんどなくなった。それは感動的だった。そうするとどうなるかというと、曲が書けてしょうがないわけ。
あと大きかったのは2月か3月に実家を出て、千駄ヶ谷に引っ越した。生まれて初めてワンルームマンションで、一人暮らしを始めた。 79年頃から、ようやくちゃんと食えるようになって、レコードを買いたいだけ買えるようになった。そういう意味では、79年が一番が幸せだったね。 実家は遠かったんだ。練馬だから車で行っても電車で行っても、1時間以上かかるでしょ。だから、ちょっとスケジュールが遅くなるともう帰れないし、終電を過ぎるとタクシー代もかさむし。酒を飲んでタクシーで帰るのもかったるい。それだったら泊まっちゃおうと、その辺のホテルに泊まるようになった。ホテルに泊まって譜面を書くとか、そういうことをやってた。だからその数年前から、家には1週間帰らないとか、そういうのはザラだった。祖父が亡くなったときには、僕が帰ってこないから、家族は実家の店を閉めて「ここで葬儀をやってるから来い」って張り紙がしてあった。 僕はそれを見て、自転車で斎場まで行ったっけ。
でも、一人暮らしを始めた頃は、わが世の春だったね。あの時にいろいろ勉強するというか、ずいぶん映画を見たり本を読んだりしたもの。アン・ルイスのプロデュースをやっていた時に「エイリアン」をやってて、あれはインパクトあったなあ。 監督はリドリースコットだったものね。あと印象に残っているのは「スター・ウォーズ」「未知との遭遇」といったSF系かな。あの頃は本当にSF映画の全盛期だったからね。他は「ディアハンター」や「地獄の黙示録」といったベトナムものかな。SF映画は、それまでももちろん見てて、ちょうどその頃に「2001年宇宙の旅」がリバイバル上映されて、テアトル東京に観に行ったっけ。「2001年〜」は何回観たかなぁ。あとスタッフが好きだったので、日本映画の封切りも、この頃から結構見るようになったね。
  
< 生まれて初めて生ピアノを手に入れた>
80年3月21日、COME ALONGをカセットでリリース。これはもともと79年の中頃に、RVCのスタッフが販促の店頭演奏用に作った非売品だったんだけど、問い合わせがすごく多くて、カセットで出ることになったの。COME ALONGは「BOMBER」で 火がついた大阪を、またさらに盛り上げた。RIDE ON TIMEが出る頃には、もうエアーレーベルはRVCの中でも完全に別セクションで、他のスタッフはもうタッチできない状態になっていた。エアーのスタッフもだんだん人が揃ってきて、僕も毎月のように全国各地に行っていた。スモールツアーをやったら、その土地の有線放送を周ったりね。
一人暮らしを始めた時に、当時のRVCの奥野社長がビクターのアップライトピアノをプレゼントしてくれた。 今でもそのピアノを使っているんだよ。もう2つぐらい音が出ないところがあるんだけど、それ以降のすべての曲をこのピアノで作っているから、ゲンがいいんだよね。本物のピアノはその時生まれて初めて持ったんだ。実家は木造2階建てだったので、ピアノは重くて置けなかった。コロムビアのエレピアンみたいな軽いやつしか置けなかったの。フェンダーのローズがあればよかったんだけど、当時はローズは高くて、とても手が出なかった。
で、生まれて初めて生ピアノを手に入れて、すごく曲ができるようになったんだ。タッチとか音の響きだろうね。実家だとエレピアンを、ヘッドフォンで隣の部屋で親が寝てるのを気にしながら、やらなきゃいけないしね。 引っ越した場所は、上下左右の部屋が全部オフィスだったの。だから、日曜日は誰一人いない。夜中まで弾いてると、外人のお姉さんが怒って、文句を言いに来たりしてたけど、日曜日の昼間やっている分には全く問題がなかった。本当にその時は、曲ができるなんてものじゃなくて、RIDE ON TIMEからFOR YOUの曲はほとんどここで作った。本当によく出来た。
食事は自炊と外食半々かな。オレンジハウス(雑貨店)に行って、フライパンだのケトルだのいろいろ買って、ユアーズ(スーパー)に行って、卵に野菜を買って、スクランブルエッグとかサラダを自分で作って。でも、そんなものじゃ足りないから、痩せちゃったよ。
RIDE ON TIMEが終わって「オンスト」のレコーディングをやってた頃は、スタジオを吉田美奈子が夕方6時からエンドレスで使っていたから、僕が使えたのは昼の12時から夕方6時までだったんだ。だから本当に健康的になった。夜は2時に寝て、朝10時に起きるという生活でね。
  
RIDE ON TIMEはバンド志向のアルバム>
シングルRIDE ON TIME(5月発売)は初登場7位だったんだよね。今まで100位にも入ったことないのに、7位だよ。そんなの嘘に決まってると思うじゃないw でも、すごく不思議なチャートアクションで、8→7→6→5→4→3→4→5→6だったかな。 結構ロングチャートだったんだよね。それで小杉さんは(9月発売の)アルバムの方も期待したんだけど(シングルの様には)アルバムは思ったより売れなくて、小杉さんは落胆してた。
シングルを作っていた時には、アルバムも想定していて。アルバムはあっという間に出来た。何も悩まず。アルバムRIDE ON TIMEは同じライヴ志向でも、MOONGLOWよりも一歩も二歩も前進している。すべて同じスタジオで録音してて、基本的に5リズムの一発録りで、全部録ってる。ストリングスが1曲も入っていない、初めてのアルバムでもある。つまり、かなりバンド志向のアルバムだね。MOONGLOWの時はスタジオが合わなくて、なかなか思ったような音が作れなかった。
それが今回は、新しく建て直したばかりの六本木ソニースタジオに移ったんだけど、以前の古いスタジオにあったニーヴの卓をそのまま使っていて、それがいい音してたんだ。スタジオルームの設計も優れていて、特にドラムブースが素晴らしい音だった。そういう環境だと、また曲ができちゃうんだね。マイクも凄く良いし。
あの数年は人生で一番の、最高の録音環境だった。ボーカルに使ってたあのノイマンのマイクは(六本木スタジオが閉められたあと)ソニーの乃木坂スタジオに行ったんだろうけど。
だから曲を書くパッションっていうか、そういうのは自意識だけじゃダメなんだ。レコーディング環境とか、どんなメンバーでやるとか、そういうものの影響がすごくあるんだ。あとはリテイクができる余裕というか。ある程度予算が使えるようになったのも大きいよね。
それから、原盤権が自分の会社に替わったの。RIDE ON TIMEのアルバムからはスマイルカンパニーが原盤出版になった。だから、スマイルカンパニーを作ったというのも大きいんだよね(※スマイルカンパニーはイベンターであるソーゴーが出資して設立された)。スマイルカンパニーができて1年経って、だんだん機能するようになっていった。だから望んでこうなったというより、やっぱり、人の縁も含めたすべてのファクターがうまく運ぶというか、この時期は特に、そういうことがものすごく大きかったんだね。その極めつけが、うちの奥さんと付き合い始めたということかな。
【第28回 了】