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ヒストリーオブ山下達郎 第45回 ツアーPERFORMANCE ’91-’92と『QUIET LIFE』(92年10月発売)

<ツアーメンバーが安定したし、体も鳴っていたから、やりやすかった>
ARTISANのツアーPERFORMANCE ’91-’92から、難波(弘之)くんが戻った。彼はレコーディングメンバーだし、そのままツアーもできるから楽で。
あとはコーラスのトップをCINDYから高尾キャンディに変えて、男性コーラスに佐藤竹善を入れた。CINDYがロスに行っちゃったので、佐々木久美が代わりに連れて来たのがキャンディで、彼女はとても気立の良い女性で、僕とはとてもウマが合った。それに重実(徹)くんがそのまま残ってくれた。彼の演奏には不安なところがなくて、安心して任せられる。演奏メンバーが安定して、スタッフも変えたので、お互いの軋轢みたいなものも減った。ミュージシャンにしろ、スタッフにしろ、メンツを変えると新たな緊張感が生まれて、それがイイ方に働く。ところが5年くらいするとまた、アイツが嫌だ、こいつが嫌だ、が始まるw
ツアーメンバーは青山純伊藤広規椎名和夫難波弘之重実徹土岐英史佐藤竹善、佐々木久美、高尾”キャンディー”Nの9人。難波くんに加えて、土岐さんも椎名くんも帰ってきて、ほぼ全員がレコーディングメンバーだけど、ARTISANはほとんど一人きりで録音したから。生リズムを使ってるのは「SPLENDOR」とドラムだけを被せた 「ENDLESS GAME」だけで。
『僕の中の少年』の時に色々試したけど、全部生ドラムだと時代性というか、真新しさが不足してきて、マシンの音像の方がいいかな、という時代の変わり目だった。『POCKET MUSIC』『僕の中の少年』『ARTISAN』の3枚がそうで、ARTISANは特にそうだった。あとはローランドD-110と、パソコンで動かせるシーケンサー、それを手に入れて、自宅でリズムを構築できるようになった。だから「アトムの子」みたいな曲もドラムのパターンを家で一生懸命、ああでもない、こうでもないと打ち込んでた。シンセで作った世界観は、あの時代に合っていた。
この時のツアーは1曲目がアトムの子で、そこから「ターナーの汽罐車」に繋げて、あの頃はちゃんとアルバムの曲をやってたんだな。「SPLENDOR」も「ENDLESS GAME」もやっている。メンバーが変わって本当に安定した。やっぱり、難波くんが戻ったのは大きかった。
ライヴで再現できなかった曲もあった。今になって考えると、あのあたりから曲想の幅がまた広がって、一人のドラマー、一人のベースでは再現しきれなくなっていった。ARTISANだと「さよなら夏の日」や「MIGHTY SMILE(魔法の微笑み)」なんかが、自分の意図通りにならなくなって。特定の曲ができないと、座付きとしては困る。まあ僕に限らず、日本人は欲張りなので、あらゆるスタイルを一人のミュージシャンでやろうとしてしまう。ライヴはその人の特性に合うようにするしかないのに。そういう具合に時代が変わっていって、今もそれは続いている。
結果、ARTISANのリリースツアーであっても、取捨選択してセットリストを組む。このあとのCOZYのツアーはもっと悲惨で、アルバムから2曲しかやっていない。「DREAMING GIRL」や「ヘロン」はステージでの再現性がないから、そんなのばっかり。ARTISANはCOZYに比べると、まだ再現性があった。もっとも「ターナーの汽罐車」はあの時よりも、今のアコースティック・トリオでの方が、曲本来の情緒が出せている。だからこのツアーは、ギリギリのところで成立させていた。
エポックだったのは「アトムの子」のドラムループ、ジャングルビートをステージでやるというのは、なかなかのアイデアだった。あと「LA LA MEANS I LOVE YOU」がJOYに入っているテイクより、このツアーの時の方が良かったw やっぱりキーボードが大きい。
セットリストを改めて見ると、意外と80年代を踏襲して「プラスティック・ラブ」や「RAINY WALK」、「風の回廊(コリドー)」もやってる。なかなかいいセットリストw それと「クリスマス・イブ」がヒットして、だからそういうのもあって、クリスマス・ネタが少し増えてきた。「BELLA NOTTE」もそうだけど、ライヴの構成に「クリスマス・イブ」効果が出ている。このメンバーでできるようになって、それまでは人間関係で、いろいろあったから。
佐藤竹善はコーラスとしては新人で、人のバックでコーラスやるなんて初めてだったから。でもライヴの進行やアレンジの持って行き方、つなぎ方とか、このツアーは彼には相当に勉強なったと思う。
80年からツアーを始めて、91年だから、コンサート・ツアーも12年目。途中で1、2年のブランクはあるけど、基本的には毎年、最低でも1年おきにやっていて、回数だと10シーズンか。これだけやっていれば、体が鳴っている。体は楽器だから、オペラと同じで発声に対して体が共鳴する。声帯は使わないと共鳴しなくなってしまうから、10年もブランクがあると歌えなくなるけど、この時代はこれだけライヴをやっていて、コンスタントに声も出しているから。もっとも今の方がもっとやってるけど。
体が鳴ってる時にレコーディングすると、音域が、特に下が伸びる。だいたい僕の実用音域って、EからEまでの3オクターブなんだけど、ライヴの直後だと下のCぐらいまで出せる。その時に歌うと、ベースがとにかく鳴るからいい。やっぱり声は出してないと、ちゃんとは出ない。当たり前だけど。
この流れがアルバムSEASON’S GREETINGS(1993)へ続いていくんだけど「クリスマス・イブ」景気もあって、バブルだし、クリスマス・アルバムのアイデアはあった。当初は全部フルオーケストラのアルバムを作ろうとも思ったんだけど、そういうのってあまり自分の好みじゃなかった。だったらアカペラとのミックスにしようと。
ツアーが92年3月に終わって、まりやの『QUIET LIFE』、続いてシングル「MAGIC TOUCH」や「ジャングル・スウィング」があって、それからSEASON’S GREETINGS。この時代はよく働いているw
新曲では、ツアー中の92年2月にリリースしたシングル「アトムの子」のカップリング曲「BLOW」。このシングルはアルバムARTISANの後発シングルで、「BLOW」はアメリカズ・カップというヨットレースのタイアップ曲だった。作業は発売の間際、1月ごろにやっている。制作はだいたいいつもそんな感じ。前回のレースのビデオをもらってきて、それを見ながら曲を作ったんだけど、はまるリズムパターンがあれしかなくて。あのリズムパターンだと本当にヨットの疾走感とバッチリ合う。演奏の難易度が非常に高い曲で、(伊藤)広規が全部チョッパーのダウンストロークで弾かなきゃいけなくて。でも、そのおかげで良いテイクが録れた。いま聴いても、ヨットとか、クルージングの映像とだったら、世界で一番合うだろうと。そういう意味では自信作。
「BLOW」はTBSの番組のテーマソングだけど、タイアップにはそれほど大した関連性はない。例えば日音(音楽出版社)が音楽の権利を獲得して、誰を候補にしようか、くらいの、そんな深い理由はない、まがりなりにもバブルだからw それが今(2019年)はだんだん3年先くらいまで、戦略を練るようになってきてる。この曲はRARITIES(2002年)に収録、そのライナーにも書いたけど、この曲のコーダのファルセットのメロディは、カーク・ダグラス主演のアメリカ映画「ヴァイキング」(1957年)のテーマからの引用で。戦いに敗れて死んで、船に火をつけて、海へ流すというのがラストシーンで。小学生の時に池袋で見た。急にそのテーマを思い出したから入れた。それだけw
シングルA面の「アトムの子」はキリンビールのタイアップ。いつも言ってるけど、あの時代のシングルはアルバムのためのパイロットで、B面は積み残しでずっと未発表、という形になる。それで2002年のRARITIESで回収、アルバムに収録させた。
  
<「シングル・アゲイン」の路線は完全に歌謡曲。アレンジには試行錯誤した>
92年のツアーが終わった次の日から、4日間で「マンハッタン・キス」(1992/同名映画の主題歌)を仕上げた。この時は青山純が旅行に行っちゃって、ドラムは島ちゃん(島村英二)。テナーサックスも人が居なくて、本田雅人くんに頼むことになって。まりやとは1枚ごとに交替でリリースしていたから順番で。この頃はまだ30代で、お互いにタイアップの依頼も割と来てて、コンスタントに仕事をしていた。まりやはその前の年は、子育てもあって、1年間仕事をしてない。僕も90年はラジオのレギュラー(プレミア3)が始まったり、レコーディングはしていたけれど、ツアーはしなかった。そういう時期だった。
まりやの『REQUEST』がロングセラーになっていて、レコード会社からは早く次のアルバムを出せと言われていた。90年にムーンをワーナーに売却してMMGのレーベルになって、そうすると事業計画がいきなりタイトになって。僕の中の少年、JOY、ARTISANと続いたあとが『QUIET LIFE』で、二人分やっているから、ほぼ毎年出しているのと変わらない。ツアーが終わってすぐ通夜でレコーディングというのは何回かあるけど、この「マンハッタン・キス」の時は一番大変だった。その前は「恋の嵐」で、それも実質5日間であげなくてはならなかった。自分の詞曲じゃなかったから何とかなったけど。映画の公開も迫っていて、本当に締め切りギリギリだったから、本当にキツかった。
実は「マンハッタンキス」のオケは「ENDLESS GAME」の同じ音源を多用している。フレットレスベースの音とか、サンプリングのストリングスの音とか、そのまま流用して。そうじゃないととてもじゃないけど間に合わなかった。この頃はもうデジタル3348のレコーダーで、だいぶいい音で、コンソール卓も変わって、スペックもレベルアップしていたから、あまり時間もかからなくなって来ていた。ARTISANで結構良くなって、そこにまりやの新作が来て。常にこちらが塗炭(とたん)の苦しみを味わった後に、悠々とw アルバム・タイトルは静かな生活が好きだから、でしょう。アルバムには同名の曲もあるから、思想的なもの。彼女の中のポジティブ・シンキングさが出ていて、ペシミズムはあまりない。
アルバム『QUIET LIFE』は『REQUEST』と同じで、提供曲のカヴァーとか、そういうようなものを入れて、アルバムにまとめた。それよりも、この頃は子供が小学校に入ったくらいで、育児をずっとやっていたから、そんな中で母親同士のコネクション、リレーションが強くなっていって。”ママ友”というやつで、そこから得るコミニケーションに、情報がたくさんあったらしい。そういう一般の人との会話は、芸能人のスキャンダルなんかより生活感があって、面白い。まぁ面白いと言うのは変だけど、社会性があるというか。しかも、いろいろなライフスタイルの、インテリな人が多かったんで、そういう人たちとの交流や経験というのが、結構歌に反映されてると思う。「家に帰ろう(マイ・スウィート・ホーム)」とか。それは男の仕事の世界とは全然違うもの。市場調査というか、変装してファイレスに行くとか、そういう話も聞くけれど、ウチの場合はたまたま子育ての中で、良い人間関係が生まれて。純粋な主婦もいるし、働いている方もたくさんいて、それぞれに生活している、そういうコミニケーションはとても大事だね。作られたものじゃないから。いわゆるパーティーピープルとか、そういう作為的なものとは違う。本当の意味での生活レベルで、やりとりをしている。それはとても重要なこと。
シングル「マンハッタン・キス」が先行して92年5月に発売。それ以前にも「シングル・アゲイン」(1989)と「告白」(1990)がシングルで出ていた。「シングル・アゲイン」っていわゆる「イチバツ」と言われることを、なんとなくそう呼び始めた時代で、そこから発想して作った歌なんだそう。30代後半は学生時代からはもう遠ざかっているし、結婚もして、出産もする。世界観、社会観が変わっていく。昔の彼氏がどうしているか、そういうことを思い出したり、今のパートナーとの行き違いがあったり。
「告白」もなかなかよくできた曲で、どちらも日テレの「火曜サスペンス劇場」とのタイアップ。実は火サスの主題歌でヒットした曲って(8代目の)「シングル・アゲイン」(9代目の)「告白」の他は、岩崎宏美の(初代)「聖母(マドンナ)たちのララバイ」しかない。ベストテンに入ったのはこの3曲だけ。「聖母(マドンナ)たち〜」以来、久々にヒットしたのが「シングル・アゲイン」だった。この曲は前にも言ったけど、1位が獲れるはずだったのに、当時CDシングルの生産が間に合わなくて、工藤静香に負けた。品切れしていなければ1位を獲れた。
こういうミドル・オブ・ザ・ロード(MOR)ミュージックって、ありそうでない。当時日本の”こっち”の音楽シーンでは、そういうのをどこかでバカにして、誰も真面目にやらないし、やっていても、どこかで後ろめたさを感じている。それがダメなんだ。堂々と胸を張って、ミドル・オブ・ザ・ロード・ミュージック!って表現すれば、聴く人はちゃんといるのに。インチキロック文化人が、そんなのは軟弱だの、歌謡曲だのと言う。それで、わけのわからない路線に走ってしまって、アイドルとかもどんどんダメになっていく。アイドル歌謡というのはプロジェクトなんだ。アイドルというアイコンを頂点とした制作プロジェクト、それをフォローするのは作曲であり、編曲であり、演奏。でもそれは、しばしば金稼ぎの道具だったり、文化人の自己満足だったりに陳腐化する。
仮に他の人が「シングル・アゲイン」をやったって、あのオケにはならないから。それはすごく重要なことで。ゲイリー・ルイス(&ザ・プレイボーイズ)だって、確かにただのアイドルポップだけど、レオン・ラッセルみたいなバックアップで制作されているから、あのクオリティーになる。それより以前の、例えばポール・アンカのオケなんかは今じゃ、ちょっと古びてしまっている。スティーブ・ローレンスとかも。そこの差は何なのか。フィル・スペクターはあそこまで持っていっちゃって、やりすぎだという傾向もあるけれど、そういうこだわりは、とても重要で。
「シングル・アゲイン」のデモを最初に聞いた時、「これは、もろ歌謡曲だな、さぁどうしよう」って思った。だからアレンジに関しては、かなり試行錯誤した。「シングル・アゲイン」は本人も結構プレッシャーがあって、火サスの主題歌として、いろいろ考えた結果、この路線しかないと、この曲調になった。「駅」の有線でのヒットの結果を鑑みて、次の路線を考えるようになって。「シングル・アゲイン」がヒットして、やっぱりか、って半分安堵、半分失望があった、って当時は言ってた。やっぱり日本のヒットシーンはこういう路線じゃないとダメなのか、ってね。
そういう感覚については、桑田佳祐くんも同じようなことを言っている。昭和歌謡への寄り方というか。ヒット曲ってそういうものらしい。僕にはそういったことが全然わからないから。「シングル・アゲイン」のオケは結構苦労した。でも本当にヒットしたから。見ていて気持ちいいくらいに。服部克久さんのストリングス・アレンジにすごく助けていただいたんだけど、服部さんも歌謡曲のツボをよくご存知だな、と思ったw 歌謡曲と、そうでないモノとの境目というのがある。
僕は“門前の小僧”みたいにして、マッチの曲を、筒美京平さんがずっとやっておられたのを横で見ていたから。自分の中には、そういうまさに歌謡曲の“寄っていく”という感性を持ち合わせていないから、学習して、研究して、自分の中で作っていくしかない。だから、しょっちゅうはできないけど、時々「硝子の少年」みたいな時に、それを思い出す。
  
<『QUIET LIFE』は時期的にも、技術的にも、幸運なアルバム>
まりやの活動方針を「在宅の歌手」とか「シンガーソング専業主婦」とか言ったのは、ただのシャレでしかなかったんだけど、妙に言葉だけひとり歩きしちゃってw 彼女はテレビに散々出て来た人なんで、それによる消耗というか、そこに対しての拒否感がすごく強かったから。そんなことをやりたかったんじゃないのに、アイドルの代わりをさせられたというか。アイドル不在の時代だったから。ピンクレディー松田聖子の間にデビューして。あの時代の同期は、杏里とか桑江知子とかみんなそんなスタンスで戦わされたけど、彼女たちも同様の不満を持っていて、脱却したかった。
でも、まりやは自分で曲が書けた、たまたま。欲がなかったと言えば、それまでなんだけど。だからこの頃になると少し欲が出てきた。作家的な欲というか、それが一番顕著に出たのが「シングル・アゲイン」だった。テレサ・テンが歌ったら、とか、シミュレーションしたとか。まりやも桑田くんと同じで、幼少の頃からの歌謡曲に対する造詣がある人だからね。僕なんかとは違う。もともと身に付いているものだから。
私小説じゃなくて、全部フィクション。そういう意味では非常に作家的。だから不倫もしてないのに、どうして不倫の歌が書けるんですか、とか。まりやの提供曲も含めて、不倫がテーマの歌は意外と多い。鈴木雅之に書いた「GUILTY」なんかはそういう歌にしようと狙って作った。雅之はあれだけR&Bをやっているのに、不倫の歌がほとんどなかったから。R&Bにはそういう歌が多い。
不倫というのはクリスチャニティーにとっての背徳だから。GUILTY(道徳的な罪)というか、そういう背徳的なものに対して敬虔(けいけん)なクリスチャンはものすごい拒否反応を示すけど、背徳的なものへの密かな欲望は、人間の業だから。そういうスキャンダラスなものを題材にした作品の需要は、昔から途絶えたことがない。近松門左衛門の心中ものと同じ。フィラデルフィアサウンド最重要アレンジャーだったボビー・マーティンなんかは、それがイヤで仕事を辞めたんだと言う。「こんな汚らわしい歌を僕はアレンジしたくない」って、それがイヤなシンガーは、みんなゴスペルの方に行ってしまう。世の中の需要というか、生活の中での、ある種の憧れでもあるし、でも自分は踏み出せない、そこで、精神的な代用品としての歌だったり、小説だったり、というね。
この『QUIET LIFE』の数年後、制作の拠点だったスマイルガレージ(スタジオ)が閉まる。スタジオが閉まる前に作ったアルバムで、同期モノが多い。4リズムでやっているのは「家に帰ろう」と「COOL DOWN」と「シングル・アゲイン」くらい。これもARTISANの成果。それでバリエーションもかなり出てきた。アレンジに関しては、今みたいにプロツールスのスイッチを入れて、コンピューターを立ち上げて、リミッターを入れて、みたいなのがなくて、8チャンネルのアナログのテレコに、D-110をMIDIにつないで、すぐに電源を入れれば打ち込みができる。今とは全然違うから、楽だった。シンプルで明瞭。
技術の進歩と言われても、何が進歩しているのか、本当は良くわからない。そう思うとこの頃はなかなか良い時代だった。社会的な状況も、日本もバブルの最後のところだけれど、まだ本当に深刻なところには至っていない。だから技術的にも時期的にも、滑り込みセーフという幸運なアルバムだったと思う。バブルといえば、メッシー、アッシー、ミツグくんみたいな歌詞の曲(コンビニラヴァー)もあって、そういうの好きだからで。
これは余談だけど、この頃にレコード会社が採った新入社員の話がいろいろあって。「サタデー・ソングブック」が始まった時代、夜中の収録に、女子の新入社員が宣伝で来てたんだけど、夜の11時になったら、いきなり「勤務時間が終わったんで、帰ります」って勝手に出て行っちゃった。そしたら外にボーイフレンドがポルシェで待っている。結局、彼女は1ヵ月ぐらいしか、もたなかった。他にも、最初の出社日に、書類を届けに外出して、そのまま戻って来なくて、翌日に親から「辞めます」って電話がかかってきたりとか。そういうのは今でも鮮明に覚えていて、変な時代になったなぁと思った。
でも前にも言ったけど、文化の爛熟(らんじゅく)には、そういうばかばかしいものがないと、ダメなんだとも思う。そういう下世話で無駄なものも、文化を育てるかな、なんてね。逆説的だけど。
いずれにせよ、良い時代だった。このあとからが、大変なことになる。SEASON’S GREETINGSまではまあまあだったけど、だんだん自分の牙城が崩れてくる。スマイルガレージがなくなって、リズム・セクションも崩壊が始まる。スマイルガレージがなくなったのは、とりわけ大きかった。85年にできて、なくなったのが94年だから9年か。そこから4年間、ツアーもできなくなる。
  
<いい音楽を伝えようという使命感はもちろんある>
1992年にラジオ「サタデー・ソングブック」が始まる。向こうから話が来たんだけど、ちゃんとパーソナリティーをしたのはNHK-FMサウンド・ストリート」以来だったから。でも、レギュラーをやるんだったら、オールディーズの番組でなければイヤだと言った。新譜をかける番組だと、新譜をチェックしなければならない。そのストレスに耐えられないと思った。同期もののラップやヒップホップが出てきて、だんだん音楽の方向性も多様化してきていたから、番組制作のために新譜をチェックするのは無理だと思った。その点、オールディーズだったら、自分の既存の知識だけでできるから。
当時、土曜日は、昼の1時からが邦楽のベストテン、2時からが洋楽のベストテン番組。その後、オールディーズ番組ということで「サタデー・ソングブック」が始まった。土曜日の3時というのは難しい時間帯だったけど、割と評判が良かった。それが日曜の2時に移ってくれと。完全に向こうの都合で。当時一番難しかったのは日曜のゾーンで、イヤだって抵抗したんだけどw 移った最初は前の時間帯がキムタクで、後ろがドリカムだった。
土曜日の方が全然良かったし、やりやすかった。前が音楽チャート番組だから。それに日曜の2時というのは、行楽帰りの人や、日曜に営業してる店の人も多くて、聴取者層が雑多なので。いろんな人たちからハガキが来るので、それを受け入れて、いろいろ受け答えしていたら、レーティング(聴取率)が上がってきた。以来、日曜の2時を定位置にやっているけど、他の番組は、あの頃のものはひとつも残っていない。オールディーズ番組ということで、いい音楽を伝えていこうという使命感はある。啓蒙主義というか。それはNHKの番組をやっていた頃と同じ。「オールナイトニッポン」(1976年1月〜9月)でそれをやろうとしたら、毎週呼ばれてダメ出しされた。
そういうことをきちんと伝えられる人が今ではいなくなっている。ラジオに力があった時代は、レス・トーク・モア・ミュージックが最上だとか。イントロにナレーションの乗せ方の上手いDJとか、いろいろあったけど、もう時代が全然変わってしまったから。これだけ雑多な何でもありの時代では、きちんとした根拠とか解説を加えて届けないと、説得力が得られないから。それでもラジオの一期一会みたいな意外性や驚き、そういうものの力は今も大事だから。いわゆるシャッフル機能で垂れ流しされても、何も残らないでしょ。本来は聴くものは自分で選ぶのが、一番血肉化するんだけど、今は選択肢が多過ぎて、しょうがないところはある。
きっちりとした選曲と、あとはリマスタリング。 リスナーから「自分の持っているCDよりもいい音してる」ってよく言われるけど、それは四半世紀の努力の成果。オールディーズはその名の通り古い音源だから、技術的にもオーディオ的にも新しいものよりは、音がショボく聴こえる。番組を始めた時から、前後の番組が最新の新譜をかけているその間で、僕がバディ・ホリーなんかかけても音圧が負けて、どうしようもない。そこでリミッターとかEQとかを買い込んで、家でリマスタリングの真似事を始めた。はじめはそれをDATに入れて曲に持ち込んでた。その後、プロツールスができてきたおかげでデジタルリマスターのノウハウを導入して、クオリティーがさらに向上した。そうすると、それが自分の作品のリマスタリングにも応用できるようになった。人生無駄なものはない。それはそれで勉強になった。
憧れたDJは、ジム・ピューター。 オールディーズ、とりわけドゥーワップの基礎はジム・ピューターに教わった。ジム・ピューターはFENでポップスやロック、カントリーなど50〜60年代の曲を中心に「ジム・ピューター・ショー」を放送していた。有名なウルフマン・ジャック、あの人はDJというよりエンターティナーだから。僕はR&B好きだったから、ドン・トレイシーとかローランド・バイナム、このふたりがFENR&BのDJで、放送時間が夜だったり、昼になったり、コロコロ変わったけど、追いかけて一生懸命聴いていた。もうFENオンリー。
日本のDJだと、やっぱり福田一郎さんと中村とうようさんといった解説派。それに、どっちかと言うと「パックイン・ミュージック」(TBS)派だから八木誠さん。それから金曜深夜の宮内鎮雄さん。宮内さんはアナウンサーだけど、超マニアックな人で、とにかくオタク度がすごかった。「今夜の私のお客様はレターメンです」とか言ってw あの時代、そんなのどこにもなかったから。
2018年2月に雑誌ブルータスのサンソン特集、あれは大和田俊之さんと、彼の先輩の佐藤豊和さん、このふたりの功績が大きい。サンソンもずっと聴いてくれていて、大和田さんは「文化系のためのヒップホップ入門」の著者(共著)でもある。これは知らなかったんだけれど、ふたりともまりやの大学のサークルの後輩なんだよ。
雑誌で特集されて、まさかあんなに売れるとは予想もしてなかった。昨今は雑誌は売れないと言われていたけど、そんなことないんだな、って思った。雑誌はダメだとか、もうテレビの時代じゃないとか言われるけど、コンテンツさえしっかりしてれば、大丈夫なんだ。つまりは怠けているだけ。そういえばこの号はすぐに売り切れて、増刷もされた。僕の番組を聴いていた人が大人になって、こうしたものを作る、ありがたいことです。だから、音楽がなるなくなる事はないんだ。我々が聞いていいなと思った初期衝動みたいなものは、滅びる事は無い。ただ、その方法論が変わってきているだけなんだ。
【第45回 了】