<「僕の中の少年」というタイトルは子供が生まれたときに思いついた>
子供が産まれた時に思い付いた詩のテーマは「僕の中の少年」の歌詞と、ほぼ同じで。それで詞が先というか、こういうような内容の歌にしようと思っていた。象徴詩とかが好きな時代があってね。あの時代の歌謡曲はあまりに具体的で、生活感に溢れていた。もともとそういうのが嫌いだった上に、フォークの勢いもすごかったから、そういうものにもすごく抵抗があってね。なんか、より抽象的な詩の世界というか、そういうものを常に追っていた。その結果、ああいう感じになった。「僕の中の少年」というタイトルも、子供が生まれた時に思いついた。
我々はモラトリアム世代だと言われる、少年性をずっと持つ持ち続けた世代で、永遠の少年とか、永遠の青年に憧れていた。子供が生まれたのは、僕が31歳の時で、その時に「ああ自分はもう少年じゃなくなったんだ」という思いが強く湧いてきて。だけど、自分の中の少年性は、次の世代へと受け継がれていく。その考えを、歌に込めてみたくなった。でも、かといって”娘よ”みたいなのはイヤなのでw、散文的にもしたくない。抽象的な、イリュージョナルなものにできないかと思って。
エンディングのコーダの部分は、ほとんどプログレに近いし。そういうテーマでやると、ピンク・フロイドの世界みたいに、必然的に歌詞は音に引きずられる。キング・クリムゾンも同様でしょう。歌詞が隣の女の子の話なら、もっとハードロックでしょ。ディープ・パープルの「Highway Star」(1972)なんてまさにバイクと女の子の歌じゃない? 同じようにハードなサウンドでも、ディープ・パープルはロックンロールの価値観の中での言葉を使っていたけど、ピンク・フロイドやクリムゾンは、そういうものからもう一つ超えた、哲学的なものを志向していた。レッド・ツェッペリンも歌詞に同様のベクトルがあった。
20歳くらいのときには、そういうことをいろいろ考えてた。だから、いつもと違う特別なものをやりたいという衝動が時々出てくる。自分の人生の中での出来事、例えば子供ができるというのはとても大きい出来事だったので、それをどんなサウンドに、どんなメロディーに、そしてどんな言葉で歌うか考えた結果、あの形になった。何も知らない人が聞いたら、何の歌かわからないかもしれないけれど、それはまさに、あの時の自分の目指すものだったから、それはそれでよかった。
「僕の中の少年」という日本語のタイトルをアルバムに使ったのは、後にも先にもこれ1枚だけ。あの時の自分の心情や内面性が、顕著に出ているアルバムでもある。特にサウンドに関しては、端境期に作ったということが大きいね。POCKET MUSICはどちらかと言うと作品主義、曲の良し悪しに気を遣って、作ってたけど、これは作品主義というより、一言で言うと”ニュー・デジタル時代の中で自分の音楽スタンスを模索した”アルバム。そうすると、言葉の選び方も変わってくるというか、内向的な作品になった。そんなふうにいろいろ考えながら作ったアルバムで、曲で言えば「蒼氓」と「僕の中の少年」がそのクライマックスだった。
<自分のテリトリーとかけ離れた異文化と出会う空間が銀座だった>
アルバム・ジャケットにタイトルが入ってないのは、それが流行だったから。ただ自転車のジャケットにしてくれというのは言っていた。 「新(ネオ)・東京ラプソディー」の歌詞に“緑色の自転車”というのがあるから。ジャケット写真の撮影はフォト・スタジオだったけど、スタジオの奥がスロープになっていて、その途中に僕が座っている。カメラマンは伊島薫さん。感光紙でとって、そこで現像して焼き付けるから、動かないで1分間じっとしてなければいけなかった。カット数は5、6枚しかなかったかな。インナー・スリーブには自転車の設計図が描かれているけど、これは自転車メーカーのSHIMANOに提供してもらった。
僕は自転車には乗れるけど、自転車そのものにインスパイアされたわけじゃない。昔テレビCMで、ユニオン・ジャックがはためくところに、ビルのガラスがパンニングしていく映像があって、それを見て、シュガー・ベイブの「SHOW」を作った。1973年頃のこと。それと同じようなCMが、この当時にやっぱりあって、「SHOW」のことを思い出した。そういう、街のスピード感があるような曲が欲しいと思って。
イメージは銀座。銀座4丁目の、あの界隈のムードを描きたかった。銀座にはガラス張りのビルがずらっと並んでいて、マンハッタンに近いものがあると思った。昔の銀座だと、まだ、もう少し古風なビルが多かったんだけど、あの当時はずいぶんリニューアルされて、ビルの外壁がガラス張りになってきて、マンハッタン化してきた感じがしたんだ。東京ってどんどん変化するから。
あの時期は、伊藤大輔や山中貞雄といった、戦前の日本映画をだいぶ観ていて、東京行進曲(映画「東京行進曲」の主題歌)とか、音楽も映画に付随して色々と知って、それで「東京ラプソディー」じゃなくて、「新・東京ラプソディー」。”新”じゃつまらないから、ネオと読ませた。「僕の中の少年」は1988年のアルバムだけど、この「新・東京ラプソディー」のオケそのものは、85年くらいからあって、ずっと温めていた。だから、これはPOCKET MUSICのアウトテイクなの。従って、間奏のトランペットのソロはジョン・ファディスが吹いている。POCKET MUSICの時に、ニューヨークのスタジオで2曲録った、そのうちの1曲で、85年の秋かな。曲は嫌いじゃなかったけど、歌詞がうまく書けなくて。
「新(ネオ)・東京ラプソディー」だからコーダに「東京ラプソディ」をサウンド・コラージュとして一節入れようと思ったら、古賀財団からクレームが来たw 最終的には小杉さんが話をつけてくれたけど。
あの頃はプランタン銀座ができたり、ブランド店のビルのリニューアルでも始まっていた。ああ銀座も変わるのかな、って思っていた時期だから。もっとも銀座といっても「銀座百点」みたいなものには、あまりシンパシーはなかった。僕は池袋の生まれなので、丸ノ内線に乗ると銀座は意外と近い。東京駅から銀座駅、東京中央郵便局でオリンピックの切手を買ったり、皇居の前をぶらぶらして、いわゆる”銀ブラ”だね。高級店には足を運べないから、まあ、お茶飲んで帰るくらい。あとは映画館ね。池袋にも映画館はたくさんあったけど、やっぱり銀座にはみゆき座があり、有楽座があり、錚々たる映画館が並んでいたから。後は日劇。そういう文化の拠点というのが結構多かった。イエナ書店にはよく行ったよ。洋書や楽譜を買った。
あとは外盤(輸入盤)を頼みに行く時は、銀座のヤマハ。「Schwann(シュワン)」っていう、アメリカのレコードや、テープのカタログがあるんだけど、それを見て書類を書いて、申し込む。1ドル360円の時代で、日本盤のLPが1枚1,800円くらいの時に、外盤は送料込みで2,800円ぐらいとられた。輸入代行だね。船便だから3ヶ月くらいは待たされたけど。
中学時代は友達と行ってた。男女4人だけど、カップルというわけではなくて。銀座行っても、お金もないから、日比谷公園のベンチで佇むくらい。タバコも知らないし、今みたいにテイクアウトもなければ、スタバもなかった。本当にぶらぶらしていただけだね。思い出しちゃうなぁw
そういう意味では遊び場としてではなく、異文化と出会う空間だった。適切な言葉かどうかわからないけど、モダニズムというか、近代化というか、自分の生活テリトリーとはかけ離れた、のちに日本からマンハッタンに行った時のような感覚に近い。後から考えると、六本木とか麻布十番なんかは、もっと排他的なんだ。銀座のほうが全然、人を受容しているというか。もっとも、和光のビルは入りにくいし、山野楽器は大丈夫でも、隣にあるミキモトは敷居が高かったね。
子供が生まれたというのもあって、子供を連れて、いろいろ動くようになるでしょう。ディズニーランドでも連れて行かなきゃいけないし。そういうので記憶がよみがえってきたんだね。お袋はこういう感じだったな、とか。そういう意味では、この曲は特殊な作品だね。
<映像よりも音楽が強いという確信があった>
2曲目の「ゲット・バック・イン・ラブ」は元々マーチン(鈴木雅之)のために書いた曲で、TBSドラマ「海岸物語、昔みたいに…」の主題歌に起用されて、オリコンチャートで最高6位まで上がった。前にも話したけど、最初これは自分でやった方がいいと言われて。体よく断られただけかもしれないけど。でも曲としては、アレンジも含めて渾身の作だった。この曲以降、レコーディング・エンジニアも代わったし、人生に何回かある、区切りの曲でもある。
まりやの「REQUEST」(87年)をやっていた頃、僕の宣伝スタッフの周りでは、MELODIESやPOCKET MUSICは”夏だ、海だ、達郎”じゃない、っていう不満が多かった。それで作ったのが「踊ろよ、フィッシュ」だったんだけど、そんなに売れなくて、ほらみたことか、って。もう34歳から35歳になろうとしているときに、今さら”夏だ、海だ”もへったくれもないんだよ。時代が変わってるんだから。TUBEとか杉山清貴とかC-C-Bとか、他にもたくさんいたし、それでいいじゃない。何のためにMELODIESで路線変更したのかと思って。これから自分がヒットを飛ばすならバラードしかないから、タイアップ取ってきて欲しいって言ったら、小杉さんがドラマのタイアップをとってきてくれた。それが「海岸物語」で、その主題歌がこの曲。RIDE ON TIME以来8年ぶりにシングル・チャートのベストテンに入ったから、アルバムはこの路線で行けるだろう、ということになった。
脚本は1話分しかなかったので、結末は分からなかった。しょうがないから、第1話の脚本では昔の恋人が帰って来て、それでやけぼっくいに火が付くか、という話だっから、ああいう歌詞になったんだけど、段々とドラマが歌詞に沿って行ったというw 当時はトレンディ・ドラマ全盛期で。曲そのものは時間がなくて、短時間で完パケしなくちゃならなくて。でもBIG WAVEもそうだったけど、映画の上映は終わっても、曲は残るから、妥協するのは絶対に良くないし、おもねるのもイヤだった。それはCM音楽をやってた経験で、音の方が強いっていう確信があったから。
とにかくシングルを切ってしまえばこっちのもの。ドラマがヒットしなくとも曲は売れる。「あまく危険な香り」がそうだった。視聴率は散々だったけど、シングルはそこそこヒットした。今だったら、そういうことはありえないでしょう。面白いよね。でも、結局残っているのは音楽だもの。
3曲目「THE GIRL IN WHITE」はセルフ・カヴァー。最初、サントリーから”サントリー・ホワイト(ウィスキー)”のCMソングを、アカペラのグループでやりたい、という話が来て。パースエイジョンズとかが候補に挙がっていたけど、それだったら、フォーティーン・カラットソウルがいい、とアドバイスした。パースエイジョンズより若くて、立派な現役、それにギャラも安いからw。本人たちもCMに出たし、本当にバブルだよね。CMにも潤沢な予算があった。アラン(・オデイ)に歌詞を頼んだら、シンプルな構成の曲だったので、大サビを入れた方がいいって、彼が大サビを作って、送って来た。だけど、コード進行があまり好きじゃなかったから、ここではコード進行を大きく変えて、メロディーラインも若干変わっている。完全にこの頃のブラコン同期もの、マシーン・ミュージックにしようと思ったんだけど。もとの計画ではもっとベースが細かい、ギャップ・バンドみたいなベースラインだったけど、結局変えちゃった。これはもともとドゥーワップ仕立てで、ディオン&ベルモンツのコンテンポラリーなアレンジみたいにしようと思ったけど、結構難しかった。こういう曲を当時のドラム、ベースというリズム・セクションでやると、古色蒼然たるものになるので、コンピューター・ミュージックしかないと思ったんだけど、ちょっと凝りすぎたというか。ベースのパターンは変えなきゃよかった。かえすがえすも残念。細かいベースのパターンだったの。今聴いても古くないし、データが残っているから、30周年記念盤を出す時は、もとのベースでボーナス・トラックを作りたいと思ってる。
4曲目の「寒い夏」。ジム・ウェッブみたいな、ヘンテコな転調の曲が作りたかった。こういう曲だとマシーンでやるとチープな時代だし、スタジオ・ミュージシャンだと雰囲気が出ないから、一人で演奏して。だけど、もとのテンポが遅くて、テープ・スピードを上げてミックスしたので、ピッチが少し上がってる。その分ストリングスの演奏に負担がかかったけど、今はもうそれも、いい思い出。ちょうどまりやの「REQUEST」で服部(克久)さんとやった後で、ストリングスの編曲がすごく良かったので、それでお願いした。転調の段取りはなかなか渋いんだけど、メロディーが難しくて、詞が書けなくて、まりやに書いてもらった。彼女には「ジム・ウェッブはペシミスティックな歌ばかりだから、そういう歌ににしてくれ」と言ったけどね。本当はこの曲もライヴでやりたいんだけど、なかなか難しい曲なんだ。厚みがあって、ライヴとレコーディングの温度差が大きいんだよ。
<ライヴはコンスタントにやっていたから結構声は出たんだよ>
5曲目、アナログA面最後は「踊ろよ、フィッシュ」。何度も言ってるけど、”夏だ、海だ、達郎だ”を復活させなければ、というので、取って来たのが、ANA沖縄キャンペーンのタイアップ。タイトルは7、8人でディスカッションして「踊ろよ、フィッシュ」に決まったから、それに基づいて歌詞をつけた。こういうリゾート・ミュージックというか、ビーチ・ミュージックって、リズムのバリエーションがそんなにないの。ディスコでやるのも今更だったから、ポリリズムで何か作ろうと思ったけど「愛を描いて-LET'S KISS THE SUN-」から始まって「LOVELAND, ISLAND」「高気圧ガール」である程度やり尽くしているし、パターンはそんなにない。そうなると、細かいところをどんどん複雑化していくしかない。これはコード・プログレッションとかも含めて、エグいこともずいぶんやっている。それに加えて、これでもかというくらいキーが高いから、これもライヴでは演奏不可能だし。このアルバムはそういう曲が多いね。「マーマレード・グッドバイ」もそう。
この時代はライヴをコンスタントにやっていたから、声が結構出たんだよ。でも、結局このシングルはスタッフが思っていたより売れなかった。おそらくリゾート・ミュージックにしては音が複雑すぎるし、グルーヴも重いから。当時はテクノやアイドル歌謡の全盛でしょ。ビーチでラジカセ聴いたり、バーやレストランで有線から流れているとか、マスで聴く音楽は、僕には合わない。家でひとり、ヘッドホンで聴くようなものでなければ、ヒットにはならないと思っていた。作品的には決して嫌いなわけじゃないんだよ。ただ、シングルには向いてなかった。こっちもだんだん進化していくというか、退化かもしれないけど、アレンジの構築性とか、プログレッシブじゃないと自分もイヤになるし、そう思って構築していかないと、変な言い方だけど、歴史の試練に耐えられないから。
次はアナログB面1曲目、CDで6曲目の「ルミネッセンス」。
アナログだと”明るいA面”から”暗いB面”というか、”大作のB面”になるw 当時はブラコンにどっぷりハマってたから、毎月、新譜をいっぱい買って、ソウルチャートのトップ100を見て、片っ端から90分のカセットにダビングして、それを持ってツアーに出て、一日中聴いていた。
SOSバンドとかミッドナイト・スター、アトランティック・スターとか、浴びるほど聴いていたけど、それをそのままやりたくはないから、歌詞でフォローするしかない、と。夜中の3時ごろレコーディングから帰って、犬の散歩に出たら、夏なのにオリオン座が見えたんだよ。それで「オリオンは西に沈んだ」というフレーズがひらめいて、その言葉から始まった曲なんだ。象徴詩をむさぼり読んでいた頃もあったんだけど、歌詞の具体性がもてはやされていた時代だったから、へそまがりとしては抽象性にこだわった。
マーチン(鈴木雅之)のアルバムの話の時にも言ったけど、この頃ソウルミュージックが明らかに変わってきた。マイケル・ジャクソンのベクトルとしては、MTVとダンスがあって、その逆のベクトルにはマシーン・ミュージックがあって。それからマシーンすらなくなって、ラジカセでのサンプリングになっていく。もうラップが始まっていたし、ヒップホップも始まっている。そういう時代だから、明らかにアフリカン・アメリカンの音楽が変化してきて、それに影響されて、白人音楽も変わって来ていた。ヘビーメタルもどんどん過激になっていく。録音技術がアナログからデジタルに移行してきた時期でもあるし、いろんな要素が重なってる時代だったから、そういうところで、さあ何をやるかという。それはPOCKET MUSICの時から問われていた。
B面2曲目「マーマレード・グッドバイ」は、16ビートに乗せる上で、この曲はメロディーの緩急がちょっと短い。本来なら、コードのパターンをもっとゆったり取らなければいけないんだけど、このメロディーだと性急な場面展開にならざるをえなくて、その結果、演奏が難しくなって、結局ライブでの再現が不可能になるという。でも、どうしてもこの詞で、このメロディーにしたかったから、他に方法がなかった。作品としては自分でも気にいっているので、ライヴで演奏できないというのは惜しむらくでw
イマジネーションとしては映画の「ファイブ・イージー・ピーセス」みたいな感じかな。男が女と居られなくなる。放浪癖があって、出て行く。日本映画の降旗康男作品的なものではなく、車で去っていくような、もっと大陸的なもの。すべてを捨てて、小さなカバンをひとつだけ持って、突然いなくなるとか。そういう逃避願望って、男って誰でもあるじゃないですか。「男はつらいよ」の寅さんみたいに。実際に行動できるかは別だけど。
まあ、僕にも子供が出来て、子供を育てるというプレッシャーってすごく大きい。青春小説が原作の、昔の映画みたいに、行員と事務員の間に恋が芽生えて、子供が生まれて、「よくやった、俺の子だ」みたいなのが全然なくて。自分に子供が育てられるのだろうか、という不安の方が大きかった。それは僕の世代の多くが、同じ思いを抱えていたのだと、あとで分かったけど。特に僕は、音楽業界という不安定な世界で生きているので、なおさらだった。友達の中には、自分の内面を阻害されることにどうしても耐えられなくて、女房、子供を捨ててしまった人さえいたからね。
<市井(しせい)に対する讃歌の様な曲を作りたかった>
B面3曲目は「蒼氓」。昔からこういう歌を書きたいという願望はあった。市井の人間が一番尊く、生高いという。僕の祖父は戦前の日本電機(NECの前身)の職工だった。三羽烏と言われるくらい優秀な職工だったらしいけど、それで独立して、自分の工場を持って、それなりに栄えたそう。その長男が僕の父親で、彼も親の後を継ぐべく、職工になった。戦前だから旋盤とか、ねじ切りとか、そういうやつなんだろうけど、飛行機の部品なんかを作っていたらしい。だから職人の血は、僕も色濃く持っている。戦後、祖父が事業に失敗して、親父は一人で池袋に出てきて、店を一軒持って、隣の店で働いていたお袋と結婚する。そして僕が生まれたんだけど、1953年だから、朝鮮戦争の真っ只中。朝鮮特需目当てで工場を始めたら、途端に戦争が終わって、鍋底景気で潰れてしまった。以来ずっと共働きで、僕が中学に入る頃に、ようやくまた店を一軒持てた。だからルーツをさかのぼると、そうした職人の血というのがあって。それが自分にも大なり小なり影響与えている。
普通に生きている人間がなぜ一番偉いかと言うと、僕の生まれ育ちの環境が生んだ思想なんだよ。貧しくても、教育投資がうまくいけば、成り上がれた時代のおかげで、日本には中産階級というものが形成できたけど、イギリスはできなかった。だからイギリスには、いまだに伝統的な階級格差が厳然とある。でも、日本もまたそういう格差社会に戻りつつある。戦前なんて大学の進学率なんて2%とかそれくらいだった。でも、その時代の大卒は、本当に国を引っ張る原動力だったし、義務や自覚もあった。残念なことに、今はそうじゃない。結局戦後の経済成長から70年、ある程度成長できたのはミドルクラスの教育と、それに見合った消費力なんだ。僕は学生運動もかじったし、本を読んで考えさせられることも多かった。昔は国立大学に入ると親孝行と言われたけど、今は国立、特に東大に入れるような偏差値は、普通の教育では得られないから、それ以上の教育を受けさせる財力が、親にないとだめなわけで。
そんな中で自分が音楽で何を主張するべきか、何についての歌を歌うべきかずっと考えていて、それを具体化でき始めたのがPOCKET MUSICあたりからなんだよ。「THE WAR SONG」なんて、まさにそう。同様に市井に対する讃歌、そういう歌を作りたいとずっと思っていたけれど、それをどういう形で歌にするのかというのが、すごく難しかった。
でも、ある日そのパターンが、メロディーとともにふと浮かんだ。のちに親父が曲を聴いて、「お経か?」って言ったぐらいだからw 宗教的なニュアンスの歌にしようと、パッと思いついたのが「蒼氓」という言葉だった。民草(たみくさ、人民を草に例えて言う)という意味で、石川達三の小説のタイトルだから、ちょっと硬いかなと思ったけど、他に表現できる言葉がないから、そうした。
コーダはほとんどゴスペルに近いニュアンスなんだけど、だからってゴスペル・クワイヤーを連れて来てもしょうがない。コーラスのレコーディングはいつもと同じで全部一人でやったけど、最後の”ラララー”だけ、何かいい案がないかなと思って。それで「よし、桑田夫妻に頼もう」ってひらめいた。彼の声には非常に聖なるもの、潔癖なものがある。だから、いろんな歌を歌い分けられる、稀有な存在なわけで、それで来てもらった。
この曲は明らかに、一つのターニングポイントになった。自分の中で音楽的な大きなもの。ロックンロールでは”表現する意思”というものが、とても重要だからね。20代で試行錯誤して、30代で何をするか。30代でできれば、40代でも曲は作れるけど、そこでネタ切れになってしまえば、そこで終わり。結局、突き詰めるところ、最後は思想なんだ。大げさかもしれないけど何を歌いたいか、というのはすごく重要だよね。
B面4曲目、アルバムを締めくくるのはタイトルトラック「僕の中の少年」。最初は”タンブル・ウィード(Tumble Weed)”って言って、転がる草、そういうものをモチーフにした「マーマレード・グッドバイ」みたいな放浪の歌にしようと思って作り始めたら、タンブル・ウィードではあまり面白い詞にならないんだよね。そんな折、ちょうど子供が生まれたので、子供の歌を作ろうと。でも前にも言ったように”娘よ”みたいなのはイヤだからと悩んでたら、“Sweetheart”という言葉を思いついた。そうしたら、具体的に何を言っているかわからないけれど、自分の中では意味が通じている、というような詞になってきたんだ。ひと頃のフランス象徴詩とか、そういう世界に近づいてきたから、それでいいやと思った。
イントロのギターのリフとアコギ、コーダのハモンド以外は全部、コンピューターでの打ち込みなの。形がだいぶ出来上がった頃に、ふとコーダのアイディアがひらめいた。前にも言ったけど「蒼氓」から「僕の中の少年」に続くところはトータリティがあって、ほとんどプログレに近いものがある。この2曲は組曲とも言える。そのためのコーダ。正確に言えばB面の「ルミネッセンス」から「マーマレード・グッドバイ」もトータル感で作っているから。あの当時はヒットを作れと言われても、もうヒットはそうは出ないと思っていたから、じゃあ好きなようにやらしてもらおうと。それで37歳になる1990年に武道館公演をやって引退、という計画を立てて、その準備段階に入るつもりだった。
そうそう、ムーン・レコードをワーナーに売却したのはこの頃だったかな。
アルバム「僕の中の少年」が出たあと、MELODIES(83年6月発売)に収録されている「クリスマス・イブ」がJR東海のCMに起用された。これで”1990年に武道館公演で引退”というプランが音を立てて崩れ去ったw 人生、何が起こるか分からない。ムーン・レコード自体、僕とまりやがメインだから、そう簡単には止められなくなっていたし。運が向いてきたと言えばそれまでだけど。80年代からツアーを続けていて、新譜を毎年出している。3年に1度くらいだけど、まりやのアルバムも出して、村田(和人)くんもやって。でも景気の良さは続かないだろうけど、仕事はたくさんしていたから、自分自身の事はそんなに心配なかったとはいえ、イケイケ競争みたいなのもイヤだった。だから、もうちょっと内省的な作品を作ろうと。そう思ったのが、今(2017年)は正しかったと思える。
【再録】
●「僕の中の少年」制作ノート 山下達郎
「僕の中の少年」は私にとって、ソロとして通算14枚目のアルバムとなります。(うち新作9枚、ベストもの1枚、ライブ1枚、アカペラ2枚、それに「ビッグ・ウェイブ」)
ムーン・レコードに移籍したあたりから、 私のアルバムのリリース感覚は伸び始め、ここ5年半でオリジナルアルバムが3枚と、非常にスロースペースになっています(もっともその間、5枚のシングル、それに「ビック・ウェイブ」と「オン・ザ・ストリート・コーナー1」の再発、さらに「オン・ザ・ストリート・コーナー2」が出ていますが)。
特に前作「ポケット・ミュージック」はかなりの難産で、アルバム制作に10ヶ月を費やしてしまった為、前々作「メロディーズ」との間隔が大幅に開いてしまいました。「ポケット・ミュージック」がそれほどまで苦労したのは何故かという理由を、今になって考えてみますと、「ポケット・ミュージック」を始めた1980年頃はレコーディング・スタジオを取り巻くテクノロジー、楽器や楽器編成(アンサンブルの構成)の変化、従ってそれに伴う編曲上の諸問題といった、レコード制作に関する、ほとんどすべてのノウハウが激変していた時期であったことが、まず第一に挙げられます。
主な変化を列挙してみましょう。
1.アナログ録音→デジタル録音
2.スタジオモニター・スピーカーの大出力化
3.付帯機器の激増(デジタル・ディレイ、デジタル・リバーブ等)
4. シンセサイザーの一般化と多様化(従来のアナログ・シンセに加えて、デジタル・シンセ、サンプリング、ドラムマシン等)
5.いわゆる同期もの、コンピューター・ミュージックの本格的普及
これらの変化が音楽のスタイルに及ぼす影響は計り知れません。
特に編曲に関しては、従来の生楽器だけによる編曲のテクニックはほとんど通用しない、と言っても過言ではありません。何よりも最も問題なのは、音の聴こえ方です。アナログとデジタルでは、音の届き方に根本的に違うのですが、人間の肉体は、そう簡単にはそれらの変化に順応できないため、それがデジタル・レコーディングに関してよく言われる「冷たさ」とか「迫力の無さ」という表現となって現れます。そこで、さまざまな試行錯誤が繰り返されることになるわけです。
私の場合は特にそれがひどく、なぜなら、それまでの生楽器のアンサンブルの雰囲気をそのままデジタル音楽とコンピュータの世界へ持ち込もうとしたのが「ポケット・ミュージック」というアルバムのコンセプトだったからです。しかし当時のノウハウは、私の要求を実現してくれる能力を持っていませんでした。自分のせいではなく、使っている機械が良くないのだということに気づいたのは、「リクエスト」の頃になってからで、「ポケット・ミュージック」の時点では、それこそ気違いじみた再試行の連続でした。「ポケット・ミュージック」はまさに、自分とデジタルとの格闘であり、そこで得た成果は「リクエスト」というアルバムに結実することになるわけです。「リクエスト」の実績は「ポケット・ミュージック」なしには決して生まれなかったと言って良いでしょう。
●ニューアルバム「僕の中の少年」について
「僕の中の少年」は「ポケット・ミュージック」から数えると、2年半ぶりのオリジナル・アルバムということになりますが、その間に「オン・ザ・ストリートコーナー」の2枚があります。「オン・ザ・ストリートコーナー」は自分にとってはオリジナル・アルバムみたいなものであり、ことさら2年半ぶりと言う風な意識は自分の中にはありません。
今回は「メロディーズ」から「ポケット・ミュージック」の間の時とは違い、政策的な問題でリリース時期が開いたわけではありません。
「ポケット・ミュージック」、それに続くツアーで、肉体的精神的にかなり疲れてしまい、80年以降、毎年ツアーを繰り返してきたのでここらでちょっと一休みの意味もあり、またここ数年、自分の仕事ばかりで、変化に乏しいということもあって、87年は自分以外の仕事をしてみようと思い立ち、竹内まりやの「リクエスト」のプロデュース・アレンジ、それに鈴木雅之氏のアルバムのプロデュース、作曲、アレンジで3曲。そして、サントリーホワイトのCMに出演したブラック・アカペラ・グループ、フォーティーン・カラット・ソウルへのシングル曲提供と、プロデュースを手がけました。
「ポケット・ミュージック」「リクエスト」と、この2枚のアルバムによって、新しい時代環境の中で、自分の志向する音世界というものが、かなり実現できる気配になってきました。もっともこれは機材の向上に、かなりの部分を背負っていますので、次のアルバムではもっと改善されるでしょう。それにしても音楽を作るという精神的作業が、技術力に左右されるというのは、どう考えても良いことではありません。
今回のこのアルバムは曲、詞、アレンジ、スタイルとどの店をとってみても今の日本の流行とか音楽ムーブメントといったものとは何の関係も持っていません。
「メロディーズ」以降のアルバムは多かれ少なかれ、こういった私的な部分を有していますが、今回は更にそれが顕著です。
全9曲中、5曲はコンピューターの演奏によるキーボードを軸として、ドラム、ベース、ギター、キーボードがそれに加わったもの、ギター以外は殆ど全てコンピューターによる演奏が2曲、「普通の」4リズムによるレコーディングと、一人で全部演奏したテイクがそれぞれ1局づつ、という構成になっています。
このアルバムは「僕の中の少年」というタイトルですが、いわゆる少年性がテーマではありません。タイトルソングの「僕の中の少年」という曲は、詞を読んでいただければお分かりの通り、自分の中からいなくなった「少年」が、自分の子供へと受け継がれていくという内容の曲で、言うならば「少年性」との決別と、次世代への継承がテーマであり、決して「少年性」がテーマの歌では無いのです。
このアルバムは10代の若年層から、30代後半までに通底するものは何か、大げさに言えば、時代、世代、オジン、実年、若者、新人類、などといった通り一遍の表現を超える何か、時代や年齢では変えられない心性がテーマになっています。
日本のロック・フォークは生まれてからまだ20年足らずであり、今までのほとんどの作品はせいぜい20代後半あたりまでの世代感を反映すれば、事足りていました。しかし私は今年35歳であり、これから先40に向かっていく時、一体、何を歌っていくべきなのかは、非常に切実な問題となってきます。
ロック・フォークはもともと青春音楽だったこともあり、30代後半以降のミュージシャン、そしてリスナーに対してのビジョンを持っていません。ここを切り開いていかない限り、未来への展望は望めないと思うのです。
このような立場である以上、世の中の流行や、「最新」などという一時的現象に目をくれている暇はなく、従ってこのアルバムもまた、私的な色彩が強いのであります。
だからといって、このアルバムが若年層向きでないと言っているのではありません。むしろこのアルバムは、デジタル・レコーディングに習熟してきたことにより、前作以上にコンテンポラリーに聴こえるはずです。つまりこのアルバムは割と広い年代の方々に聞いていただける可能性があるのではないか、と思っています。実際の私のレコードの購買層は、割と広い範囲で散らばっているというリサーチ結果もあり、そうした事柄も考えつつ、これからも皆さんに楽しんでいただけるアルバムをと、努力していくつもりです。
それぞれの曲について
1)新(ネオ)・東京ラプソディー
戦前の昭和初期の文化に対するシンパシーと、現在性との接点のようなものを目指しています。「東京ラプソディ」は古賀政夫男作曲、藤山一郎歌による昭和11年のヒット曲で、実際にコーダの部分に東京ラプソディーのメロディーが登場します。
2)ゲット・バック・イン・ラブ
イントロのコーラスを、シングルではほんの少しカットしたのを、アルバムではノー・カットで入れた以外は、シングル用ミックスと全く同一のものです。
3)THE GIRL IN WHITE
サントリー新(ネオ)・東京ラプソディーホワイトの宣伝でフォーティーン新(ネオ)・東京ラプソディーカラット新(ネオ)・東京ラプソディーソウルのために書き下ろした曲を、自分でやってみました。ギター以外は全て同期もの。オールディーズと最新テクノロジーの接点を目指したという点では「新(ネオ)・東京ラプソディー」と指向性が類似しています。
4)寒い夏
ジム・ウェッブの線を目指した、このアルバムの中では、一番懐古的アレンジでしょう。一人で全て演奏した曲です。
5)踊ろよ、フィッシュ
トラック・ダウンをやり直して、ずいぶんと今日的になったと思います。エンディングのコーラスはシングルには入っていませんでした。
6)ルミネッセンス
A面とB面(アナログとカセットの話)で、全く雰囲気の違うのが本アルバムの大きな特徴です。「明るいA面、大作のB面」とでもいったところでしょうか。この曲は(前作)「ポケット・ミュージック」のストックで、深夜に犬を散歩していたら、真夏なのにオリオン座が見えたのに驚いて、出来た曲です。
7)マーマレード・グッドバイ
今年(88年)のホンダ・インテグラのCM用に書いた曲です。一種のホーボー・ソング、そして、ドライヴィング・ソングで詞が割と気にいっています。
8)蒼氓(そうぼう)
今回最も力の入っている曲です。というより、私にとってここ数年間、最も気に入ってる曲です。「蒼氓」というタイトルは石川達三の小説の題として有名ですが、人々を青草が茂っている様子に例えて言った言葉です。歌のタイトルとしては少々固い感じもしたのですが、この曲の内容を表すのに、これ以上の表現はなく、このタイトルで行くことにしました。無名生への熱烈な讃歌であり、その意味では私の志向する「反文化人音楽」の到達点だと思っています。コーダのユニソン・コーラスは山下夫婦と桑田夫婦4人でやりました。桑田佳祐氏の無垢な声が、実に素晴らしい響きです。
9)僕の中の少年
86年のホンダ・インテグラのCMソング。この曲も自分では非常に気に入っているものです。歌詞の内容は前述しました。娘が生まれた時に作った曲です。これもギターとサウンド・エフェクト以外は全部コンピューターによる演奏です。
【第41回 了】