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ヒストリーオブ山下達郎 第42回 Performance ’88-‘89とライヴアルバムJOY(89年11月1日発売)

<「僕の中の少年」のツアーは本当に大変だった>
「僕の中の少年」のツアーは、公演の延期や中止などもあった試練のツアーで、大変だった。いろいろなネガティブな要素が、複合的にどんと押し寄せてきた。組織やプランが円滑に運営できるのは、大体5年まで。
例えば”ベスト・オブ・ベスト”みたいな組織ができたとするじゃない? だけど、それは5年も経つと、どこか綻びが出てきて、修正を施さなきゃならなくなる。芸事の山谷(やまたに)って、7年周期とか10年周期とか、いろんな説があるけど、ライヴのプランやシステムなど、僕の場合、大体5年でどこかに問題が出るんだ。しかも、ほとんどの場合、僕にはあまり責任のない部分で。メンバー同士や、スタッフとメンバーの軋轢とか。例えばスタッフが5人いるとして、僕とそのそれぞれがなくても、スタッフ間のどこかが険悪になって、この人とはできないというか、この人といるんだったらやめるとか、そういうことがよくある。
80年代は毎年コンスタントにツアーをやっていたけど、いろいろな事情で演奏メンバーもそれなりに代わっていた。キーボードだけでも、82年で一旦難波(弘之)くんが抜ける。レコーディングには参加してるけど、その後ARTISANまでツアーには参加していない。その代わりに、野力奏一と中村哲が加入して、82年から85年の間までやってもらった。それで野力くんがやめて、86年には松田真人がキーボードに入るけど、その時に中村哲もやめて、その代わりに重実徹が加入した。重実くんは90年代から2000年代の頭まで、ずっとやってもらったけど、そういう入れ替わりの中で、メンバーやスタッフ同士でゴタゴタすることが少なからずあった。まぁ僕のところに限らず、他のほとんどの面でも同じようなことが起こっている。ジャンルや時代を問わずにね。
88年のツアーを始める前にいろいろあって、一番大変だったのはキーボードを代えたんだけど、その人のテクニックが僕の要求を満たすものじゃなかった。彼は「ゲット・バック・イン・ラブ」のイントロが弾けなくてね。あと同時に男性コーラスも新しくしたんだけど、テンション・コードの音を取れないの。彼らはどちらも一応フォークの世界では有名だったりしたんだけど、僕の曲は難しくてできなかった。これはよく言ってきた話なんだけど、僕のレコーディングは坂本(龍一)くんと難波くん、あとは佐藤博くんと中西(康晴)くん、大体この4人でやっていて、メインは坂本くんと難波くんなんだけど、この2人はとにかくどんな曲でも普通に軽々とできるので、変な話だけど、そんなもんだと思ってたんだ。弾けない人がいるということに、この後に及んでようやく気づいたという。「ゲット・バック・イン・ラブ」はキーがG♭なので難しさが半端じゃない。難波くんが91年に復帰したときにリハーサルで「難しいね」って言ってたけど、レコードでは自分で弾いてること、忘れてるんだよねw
結果、キーボードとコーラスにはやめてもらって、人選をやり直したけど、そのおかげでツアーの初日までに、リハーサルが間に合わないという事態に陥ってしまった。それで仕方なく、頭から7カ所の日程をキャンセルして、後日振替公演にせざるを得なかった。けれど初日の戸田市文化会館と2日目、3日目の大阪フェスティバルホールは既にチケットを売ってしまっていたので、中止の告知が間に合わなくて、お客さんが来てしまう。しょうがないので、僕が当日会場まで一人でお詫びに行って、アカペラとピアノで何曲か弾き語りしたんだけど…
それをスポーツ新聞が嗅ぎつけて、意地悪く書かれてね。今と同じで”マスゴミの切り取り報道”さ。その前のツアーでは”楽屋でメンバーと大乱闘”みたいに書かれて、そんなの嘘ばっかりw 
ともかく、あの年はそういうのが三つも四つも重なって。おかげで体調を崩してしまって、ますます三重苦、四重苦みたいになった。それが「僕の中の少年」のツアーだった。
88年から89年の頃はバブルの真っ只中で、スタジオもライヴも、いいミュージシャンはスケジュールすぐ抑えられてしまうので、代わりがなかなか見つからない。結局、あの時は倉田(信雄)くんに頼んだ。彼はツアーをやらない人だったので、無理矢理お願いして。彼のおかげで助かった。そんなふうに「僕の中の少年」が出た時のツアーは、それはそれは大変だったんだけど、表から見ると全然そうは見えなかっただろうね。
もともと予定していたキーボードは、練習すればなんとかなると思ってたのが甘かった。もっとも反省すべき点は他薦で、自分の目と耳で選んだ人じゃなかったこと。スタッフの「あいつ、うまいですよ」ってよくあるでしょ。それが何しろ迂闊だった。人からの推薦でいい人に当たることもあるけれど、それはほとんどがミュージシャンからのものでね。例えば佐藤(博)くんの推薦とか。それだったら、同じような目や耳を持っているから信じられるけど。スタッフの推薦は基本的にダメだねw
でも、僕も当時は35歳だったから、そこまでなかなか読めなかったんだよね。それは何も僕んとこだけじゃなくて、どこにでもあることでね。あの当時はライヴ全盛時代だったから、スタッフもみんな他との掛け持ちで、ヘタすると年間300日以上、外に出ている。そうすると家にも帰れないというストレスもあると思うんだけど、スタッフ同士で揉め出すんだ。あとPAモニターもハードやソフトの転換期で、入れ替わりが激しくてね。なかなか良い人材が確保できない。あの時代は、PAマンやモニターマンには本当に恵まれてなくて。特にモニターにはバックメンバー、みんなうるさいから。そういうしわ寄せが、全部僕の所へ来るわけ。「達っつぁん、あんなんじゃできないよ」ってね。直接言わないで、全部僕に来る。僕がバンマスだから仕方ないけど、80年から本格的にツアーを始めて、6〜7年やって来て、それまで溜まっていた問題点が、88年のツアーで一気に吹き出したって感じ。「POCKET MUSIC」から、まりやの「REQUEST」、そして「僕の中の少年」とレコーディングはようやく落ち着いてきたと思ったら、今度はライヴの方がおかしくなってきた。いろんなことが重なってそりゃ体調も悪くなるわけ。
89年2月の神奈川県民ホールでは、途中で喉の調子が悪くなって中止。これはまた別の話でね。あれはほんとに馬鹿な話なんだけど、あの時代は結構タイトな日程のツアーだったんで、声が嗄(しわが)れるなんてのは、日常でね。今みたいに節制なんてしてないし、タバコも吸うし、酒も朝まで飲んでたし。あの日もリハーサルを結構なガラガラ声でやってたんだけど、そうしたらコーラスの子が「私がいつも飲んでる水素なんだけど、よく効くから」と勧めてくれて。ところが飲んだら、声がなおさら出なくなった。単なる声がれなら30〜40分もやれば戻ってくるんだけど、薬で出なくなったから、これはもう全然ダメで。1時間以上頑張ったんだけど、Gから上が全く出ないままで。薬にやられたw
ただ、コーラスの彼女は善意でしてくれたことだから、文句は言えない。例えばサプリメントとかでも相性がある。その人にはすごく効くけど、別の人には全くダメというのがあるんだよね。それこそ喉飴でも相性があるから、気をつけないと声帯を悪くする。あの時も、新聞が面白おかしく書いたっけ。数年前の盛岡(2015年12月26日岩手県民会館、喉の不調でGの音が出ず90分で中止、振替公演)と同じだねw
この(神奈川での)エピソードはライヴのMCで言うこともあるけど、普通は歌手がライヴで声が出なくなると「頑張って」とか「しっかりー!」とか励ます声が掛かるもんなんだけど、僕の観客は違ったんだよ。「会社休んできてるんだから、ちゃんとやれ」って。血も涙もないw  あの時はしょうがないから演奏中にメンバーとスタッフ全員のスケジュールを確認して、振替公演の日程を決めて、改めてもう一回やりますからって途中でやめて、お客さんには帰ってもらったんだけど、幸運なことに振替日はほとんど(お客さんの)キャンセルがなかった、だけど、びっくりしたのは、膝に子供をのせてる人がずらっーと並んでてね。1度目は子供を預けてきたけど、2度目は預けられないからって。今では笑い話だけど、あの時はどうなるかと思ったよ。
このツアーの終わった89年暮れ、「クリスマス・イブ」がオリコンのシングルチャートで1位になった。だけど、まだファンクラブもできてないし、そんな(1位になるような)気運は、ツアーでは感じなかった。
まりやは「REQUEST」のレコーディングが終わった後も、子育て優先だったけど、前にも言ったように、このアルバムのロングセラーが始まって、状況は素晴らしく良かった。で、「僕の中の少年」も、自分の中では比較的地味な作りのつもりだったんだけど、「ゲット・バック・イン・ラブ」がヒットしたこともあって、同じく音楽的な状況は決して悪くはなかった。そうこうしているうちに、まりやの「シングル・アゲイン」(89年9月)が売れて、続いて「告白」(90年9月)も売れる。あれが彼女の復帰後のひとつのピークになった。「REQUEST」がミリオンになって、僕の方は「クリスマス・イブ」がヒットして。周りを取り巻く状況は良かったけれど、唯一この時期のライヴだけは、それに見合わなくて。84年にしろ86年にしろライヴは自分でも、それなりの出来だと思えたんだけど、88年(〜89年)のツアーだけは、どうしても満足できなかった。だから自分のヒットよりもライヴの方が気になっていた。
ツアーの動員についてはお陰様で83年以降、空席が出たことはない。僕が35、6歳でしょ。客層は僕の少し下の人たちと、あとシュガー・ベイブ時代、RCA時代のお客さん。それが30代、僕より5つ、6つくらい下の子育て世代。CIRCUS TOWNから始まって、RIDE ON TIMEがあって「ゲット・バック・イン・ラブ」までの10年くらいで、お客さんの積み重ねっていうのが結構あったから、それがうまく機能したんだと思う。 だから、昔の“夏だ、海だ、達郎だ”じゃなく、MELODIESからの戦略が功を奏した、と。今でも、その辺が一番コアな客層なんだよね。
ライブでは打ち込みの曲も出てきて「新(ネオ)・東京ラプソディー」はテープを使っている。ライヴでテープを使う事はあまりない。「僕の中の少年」は一回しかやったことがないし、「THE GIRL IN WHITE」も一回だけ。他に「僕の中の少年」でライヴ演奏したのは「ゲット・バック・イン・ラブ」と「蒼氓」くらいかな。
マーマレード・グッドバイ」はずいぶん練習したけど、楽曲の構成に問題があって、結局やらなかった。歌詞にちょっとでも重きを置くと、演奏できない曲が増えるw あとは編曲的な問題もある。コンピューターでは人間の演奏とは違って、しばしば荒唐無稽なパターンになるので、それをライヴで再現しようとしても、なかなか難しい。リハーサルではいろいろ試してはみるけど、例えば「僕の中の少年」みたいな曲は、生楽器だけのアンサンブルだと、なかなかああいう雰囲気が出ない。そういうのは、今でも頭を悩ませる問題だね。
  
<ライヴ・アルバムらしからぬものを作りたかった>
ツアー終了から7ヶ月後の11月1日にはライヴ・アルバムJOYをリリース。これは出したかっただけw
でも、なかなかチャンスがなかった。あとアルバムを出すインターバルが開いてきた。MELODIESからPOCKET MUSIC、僕の中の少年、と。開いたと言っても、今(2018年)の比ではないけどw  少し開いた間をどうするか。ムーンレコード時代には従業員数も少なかったし、僕とまりやが働いているだけで、他にはそれほど大きなバジェットがなくても、何とか成り立っていた。それが(ムーンを)ワーナーに売却して、MMGという大きな組織になっちゃった。それまでも企画ものとして、BIG WAVEとかオンストの1や2を出して、でもオンストの3はまだ出せない。リリースのローテーションは、なんだかんだ言いながら、僕とまりやが毎年交互にだったけど、89年は子供が学校に入る大事な時期で、新作を制作することができないから、ライヴ・アルバムということになった。
どっちにしろライヴ・アルバムは出したかった。音源も豊富にあったし。アオジュン(青山純)で始めた79年の音源から、ずっと録音をしていたし、86年以降はデジタルで録音もしてる。85年以前のライブ音源はアナログだから、デジタルに起こしてDATにコピーして、それをツアー中に聴いて、一覧表を作った。テイク数は267と膨大だったから、それぞれの曲の、どのテイクがOKかを何ヶ月もかけて、多分3ヶ月ぐらいかかったかな、全部聴いて選曲して、それをミックスしてJOYが完成した。
CD 2枚組、アナログ3枚組。”史上最後の3枚組レコード”が売り文句だったんだよね。もうすでにアナログとCDが逆転していた時代だった。本当はもっと入れたかったけど、CD3枚にする勇気はなかったw  目一杯詰め込んでも、当時はCD 2枚組ではこれが限界でね。ただライヴ・アルバムなんてもう二度と出せないと思ったから。今65歳になって、ライヴができてるから言えるけど、当時はまさか、この歳までやってるなんて思わなかった。あの時は36だったけど、普通なら30過ぎて40の声を聞いたら、絶対に人気は下降していくと思ってた。実際そういう人がほとんどだったし。それならライヴ・アルバムは、出せる時に出してほうがいいと思ったの。MTVが始まって、みんな映像にシフトしているから、あえてそれを音楽だけで訴求するには、どうしたらいいか、とも考えた。そういう時代だからこそ、集大成として残しておこうと。30年も前の話だけどねw
選曲の基準は何より演奏の出来。あとライヴのヒットチューンと、レコードのヒットチューンは違うから、そこも意識した。実はライヴ・アルバムってそんなに好きじゃないんだよね。他の人のを聴いてもこれは、というものはなくて。だから自分のライヴ・アルバムを作るときは、そうでないものにしようと。それはすごく念頭に置いて。変な言い方だけど、ライヴ・アルバムじゃないようなライヴ・アルバムにしたかった。参考にしたライヴ・アルバムは無いかな。いわゆるロックンロールのライヴ・アルバムとは違うし、かといってブラック系でもないし。
ブラック系のライヴ・アルバムってたくさん聴いてるけど、ろくなのがないんだよね。特にソロ・シンガーのライヴって、バックがステージバンドじゃない? レコードにははるかに及ばない。だから聴けるのはバンドものだけ。コモドアーズ、クール &ザ・ギャング、アース・ウィンド&ファイアーなんかはレコードと同じ音がしている。アースのライヴがなぜ良いかと言うと、レコーディングと同じミュージシャンだからね。ダニー・ハサウェイのライヴが良いのも、演奏メンバーが一流だから。ローラ・ニーロジョニ・ミッチェルもきちっとしたメンバーでやっている。だから聴けるんだ。僕の場合もレコーディング・メンバーでライヴをやるというのが夢で、80年代はそれが実現したから、ライヴ・アルバムにフィードバックできた。
当時受けたインタビューで、バンドブームだけどメンバーが演奏していないことを指摘したことがあって、それはバンドとはいえ、レコーディングではスタジオ・ミュージシャンが演奏しているバンドなんてたくさんいたから。スタジオ・ミュージシャンが演奏したものを、あとからメンバーがコピーする。名前を明かしたら、騒ぎになるから言わないけどw
ヒット・レコードというのは常に底上げ文化で。少しでも売り上げを伸ばすために、バンドの演奏力を不足していたら、スタジオ・ミュージシャンを使う。考えたらバーズにしろ、アソシエーションにしろ、ビーチ・ボーイズだって、レコードでは演奏していない。ハル・ブレインやグレン・キャンベルといったスタジオ・ミュージシャンたちが演奏している。それは古今東西変わらない。その点、JOYは全曲同じドラムとベースで、それは非常に重要なことでね。
    
<原風景の街の緊張感が、僕の音楽の要素ほぼ全て>
アルバム発売の時に、メディアやバイヤーに配布されたプレスリリースに過去10年間のライブの方針というコーナーがあって、そこには「大量動員のコンサートは行わない」「観客に要求はしない」「総立ちなどの現象は演奏の良否とは全く関係ない」などと書いた。それはプロパガンダでw でも、まぁ本音でもある。じゃなきゃ今まで続けられてないし、とっくに日和ってる。
あの時代はとにかく自己定義というか、どういうところで存在証明を求めてやっていけばいいのか、そんなことばかりを考えていた。ドロップアウト感覚、自分の持つ階級概念、そういうものが間違っていないかどうか。もし高校をまともに卒業して、どっかの国立大学で滑り込んでいたら、親父も工場だったし、自分も町工場の技術者になっていたかもしれないけど、踏み外してミュージシャンになって、何とか今も生き残っている。
だけど、あれから長い時間が経って、どうしても戻るのは、子供の頃に住んでいた池袋のアパートなんだよね。そこから見た東京オリンピックの日の空の景色とか、そういうものに戻っていく。
原点回帰というか、あまり背伸びしてやってもしょうがないというか。そんな中で音楽だけが、”好きこそものの…”ではないけど、身を助けてくれた。自分の表現の原風景は、池袋から渋谷までのJR山手線の両端の景色なんだ。池袋や新宿、渋谷の、街の緊張感というのが、僕の音楽のほとんどすべての要素だから。JOYが出た頃は、ちょうど東京ドームができたばかりで(88年オープン)、だけど僕はそういうものに夢を抱かなかった。どこまでいっても荻窪ロフトに回帰するんだよね。
2016年に新宿ロフトに40年ぶりに出て、難波くんと広規の3人でアコースティック・ライヴをやったけど、強烈に確信できた。でも人によっては、僕はまだまだこんなもんじゃない、もっと上に上がりたいとか、例えばグラミー賞を獲りたいとか、そんな事は毛ほども思ったこともない。なぜかと言うと、原風景で生きてるからで、それがブレると人生、誤る。それが武道館でライヴをやらない理由でもある。それからお客に要求するというのも。あれは弱さだから。ノってる?とか、あれ、なんて言えばいいのかな、パワハラに近いねw
例えば、盆踊りみたいなノリというか、あれが命です、とか言ってる人いるんじゃない、パーティ・ピープルというか。それはそれで別に全然構わないし、やりたい人がやればいいけど、僕はやりたくない。やらないんじゃなくて、やりたくない。武道館の次は東京ドーム。そんなの東京の人間にはあまり関心がない。それが東京なんだ。そんなもの抱くのは田舎者だけだって。断っておくけど、これは僕が考えたセリフじゃないよw  昔からいろんな人が言ってることでね。ネイティヴ東京ピープルにはそういう上昇志向はない。多分に見栄もあるかもしれないけど、そういうのはないよね。
当時コンサートは熱狂とか、総立ちとか、そういう価値判断が出てた。何もしてないのに、何で1曲目から総立ちなんだ、って。それに強烈な違和感があって。まあ、それはパーティだから、って、分かってはいるんだけど、イヤなものはイヤだから。それにシュガー・ベイブ時代のトラウマも加わって。関西ブルースやヤンキーロックの”偽りの熱狂”というか、そういうものに対する違和感もあった。あとは、その対極にある、おクラッシックのお世辞の拍手ね。そういうものを見回して、どっちを見ても自分の居場所がないという、そんな世の中を恨んでる片鱗が、まだ心に残っている時代だったからw
だけどこの基本方針、当時の状況をよく反映しているよね。だから日本でもロックが本格的にビジネスになってきて、大量動員で観客を煽り、ノセなければならないようになった。僕は煽らないことで集中力を増す方が、観客の心に残ると思っていた。”総立ち”とは全く逆の考え。そういえば、さっきの基本方針のところに「チケットが取れないというのはジレンマで、横浜アリーナのような音響的に優れた大ホールが生まれている以上、考慮する問題だと考えている」と書いたら、すごく抗議されたんだよねw  まぁあの時代はそういう考えもあったということで。
ライヴは、今日出来る全てを表現する。その日にやり切っちゃわないと、明日死ぬかもしれないし。そうじゃなくても、いつ落ち目になるかっていう恐怖感は今でもあるから。人気とか動員とかじゃなく、例えば声が出なくなるとか、フィジカルな意味でいつ落ちてくるか。そういう不安はずっとあるから。最近はお客さんも歳をとってきたのか、中には「トイレタイム休憩を作れ」とか、「土日じゃないといけない」とか、「3時間は長い」とか、色々と言ってくる人もいるけど、そういうことが重要だと思ったことが、まだ一度もない。そうじゃなきゃ、とっくにディナーショーに行ってるw
JOYにはビーチ・ボーイズの「GOD ONLY KNOWS」やデルフォニックスの「LA LA MEANS I LOVE YOU」など洋楽カヴァーも入ってる。洋楽を織り込むのは自己満足で、1曲目を「ラスト・ステップ」にしたのは、ザ・バンドのラストワルツの真似なの。ラストを頭に持ってくる、あれはマーティン・スコセッシのアイデアでしょう。グッド・アイデアだよね。
曲順はいろいろ考えたの。頭の方に「SPARKLE」を持ってきたのは、当時そういう曲順でやっていたからね。まりやの「プラスティック・ラブ」は84年に出た「VARIETY」に入ってる。まりやの曲で、彼女はライヴをやってなかったから、代わりに何かをやってみよう、と。これなら自分に合うかなと思ってカヴァーした。
僕の場合、曲が長いので、そんなに曲数が入らないから。これも140分で22トラック(曲目は21曲)だし、惜しむらくは「蒼氓」が初演だったから入れたんだけど、今の方が演奏密度が高いw  まぁそれは次に入れようかと。それからこのアルバム、演奏も歌もほとんど修正がない。それが誇り。歌詞が数カ所間違えていて、意味が通らないから歌い直したとか、その程度で済んでる。
「蒼氓」でのお客さんのコーラスは正直苦し紛れの部分もある。さっき言ったみたいに、このときのツアー全体の完成度にいまひとつ納得がいかないというか、そんな状態だったんだw  だから、そんなときには弱さが出る。今だったら、もうそんなことはしないけど。「僕の中の少年」を出した時の、アルバム曲のお披露目ツアー、初めてやる曲の中のベスト・テイク。
「蒼氓」の中でカーティス・メイフィールドの「ピープル・ゲット・レディ」やマーヴィン・ゲイの「What’s Going On」 とともに、U2の「PRIDE (IN THE NAME OF LOVE)」をカヴァーしている。新宿にコタニっていうレコード屋があって、そこは日本盤シングルの新譜に強かったの。1ヶ月にいっぺん行って、日本盤のシングルを買ってた。U2やポリス、クラッシュの「I FOUGHT THE LAW」とかは、そこで出会った。コタニは結構情報源でね。あの時代は真面目に全米トップ40とか、ビルボードとか見ていたし。
U2は80年代中期から好きで、「THE UNFORGETTABLE FIRE」とか、「THE JOSHUA TREE」とか、ずっと追っかけていた。一番聴いたのは「RATTLE AND HUM(魂の叫び)」かな。R&Bがどんどん同期に走り始めた時代なんで、やっぱりマニュアルの方が好きというのがあった。U2はメッセージ性があるでしょう。だから「蒼氓」には、あの時たまたまU2の楽曲を入れたけど、いずれにしろ、その時の気分。あるときは、それが岡林信康になっていったりする。のちに岡林信康の曲を入れたりするようになるけど、それも本当に好きだったから。そういう意外性です。邦楽とか洋楽ファンとかにこだわらないもの。それが僕なりのこだわり。「蒼氓」は入れたかったから。
ライヴ・アルバムというのはスタジオ・アルバムのプロモーションという意味もあるから。そうじゃなければ、RCA時代の音源で全部やればいいんだし。基本的にはヒット曲を入れるという前提だけど、それでも全然、曲数は入りきっていない。だから純粋に出来の良さで選曲している。「THE WAR SONG」はPOCKET MUSICの時の演奏だから、本当に優れているし、「DANCER」と「LOVE SPACE」は六本木ピットイン(1981年3月11日)の演奏で、メンバーは酒飲んでヘロヘロになりながら、難波くんなんて間違えてるところもあるけどw それも勢いだから。「DANCER」は声もあんまり出てないけど、そこでしか演奏してなかった。この日のライブは4時間45分やって、酸欠でお客が2人倒れたw
だから、入れたい曲を入れたらこういう選曲になったという感じで、「ドリーミング・デイ」も入れたくて、その年のツアー(Performance ’83-’84)でしかやってなかったから、そのツアーでのテイクを使用している。「ドリーミング・デイ」は「NIAGARA TRIANGLE Vol.1」の収録曲だし、「DOWN TOWN」はシュガー・ベイブ。だからこの「JOY」は収録曲によっては録音時期とのタイムラグが8年以上あるけど、そこに違和感が全くないというのが売りだから。それは同じリズムセクションだから。ドラム、ベースは重要でね。ドラムとベースが変わらなければ印象は変わらない。ドラムを替えるのは非常に勇気がいる。まぁでも僕の場合は一番キモになっているのは広規の音だから。ベースの方が精神的にはイニシアチブを取らないとリズムセクションを健全じゃない。広規が入ると山下達郎の音になる。
ベースとドラムのインプロビゼーションもちゃんと収録している。僕の音楽スタイルは常にそれだから。自分が元ドラマーだから、ドラムとベースを中心に音楽が回っていく。どうしてもライブでマシーンを使うという発想にはならない。ジャズに影響受けているというのもあるし、マニュアル・プレイというのがなくなったら、ライヴじゃないし。
   
< ライブではある意味、常に戦闘モード、それは一生変わらない>
音楽には作品論だけでなく、演奏論というのもあるんだけど、特に日本の歌謡シーンでは、作り上げたものをいかに完璧にライブで演奏するか。それがなかなか実現できないんだよ。理想はみんな同じなんだけど、それを実現する人材と、ミュージシャン同士の親和性とか、あとは予算もねw  いろんなものが絡むから。特にツアー長いでしょう? 一回だけなら和気あいあいとかできるかもしれないけど、一回だけの演奏だと、どうしても最高の質のものが録れない。ツアーで40本とか50本やって、千秋楽を録って、それだけの密度のあるものになる。逆に言うと40回ちゃんと同じことができるか。大体途中で飽きて余計なことをしだすから。崩しに入ろうとするけど、それを崩させないという、その難しさはある。
バンドの統率は昔からしているんだけど、それが88年にはちょっと崩れたというか、統率しきれなかった。だから不満なものもあるけど、それ以外は、ほぼ理想的な環境でやってこられたから。
でも完璧なものを求めても40本、50本のライブになると、山あり谷ありで、中だるみもある。いかにテンションを維持して、完璧なものへもっていくか。だから映画「ジェームス・ブラウン 最高の魂(ソウル)を持つ男」(2015年公開)を観てもわかるでしょう? ドキュメンタリーでも、みんな悪口言ってるけど、「お前ら、ほっといたら何もやらないだろう」ってジェームス・ブラウンが怒鳴りまくって、自分のことをSIR(サー)って呼ばせて、ようやくあの演奏ができる。そうでなかったらジェームスブラウンじゃない。
わきあいあいと言うのは幻想だね。基本的に音楽は喧嘩だから。山下洋輔さんは音楽は勝ち負けである、と言ってたけど、その通りだと思う。だからある意味JOYは闘争の記録。本当に戦闘モード。だからよく言われるんだ、なんでそんなにガチンコでやるんだって。去年氣志團万博に出た時(2017年9月17日)も知り合いに言われたよ、ここで全力を出さなくてもいいじゃないですかって。でも本当はもっと全力を出したほうがいいってみんなわかってるんだけど、持続ができないんだよねw
これも前に行ったことがあると思うけど、世の中には道が二つしかなくて、僕みたいに一生変えないか、細野(晴臣)さんみたいにどんどん変えていくかw
2011年にリリースしたアルバムRay Of HopeにボーナスCDとして「JOY1.5」カップリングしたけれど、早くJOY”2”へは行きたい。出すなら5枚組とか。今度は”史上最後の5枚組”でw  CDというパッケージもきっと終わりになるから、出せるうちに出しておかないと。紙ジャケットでボックスに封入するとか。青純パターンで1枚、シングス・シュガー・ベイブで1枚、今のライブで1枚、アコースティックで1枚、そしてカヴァーで1枚、そういう感じで集大成は続いていく。それができたらもういつやめてもいいかもしれないw

●メディア向けプレスリリース「JOY/TATSURO YAMASHITA LIVE」ライヴアルバム制作ノート
<経過報告>
やっとライヴアルバムを出すことが出来ました。「イッツ・ア・ポッピン・タイム」以来実に11年ぶりであります。
本当は86年ごろに出したかったのですが、「ポケット・ミュージック」の大幅な遅延以来、私のアルバムリリースのスケジュールは狂いっぱなしで、それに加えて竹内まりやのレコーディングもこなさなければならず(これは私にとっては実質的に2人分のレコードを作っているのと同じ状態なのです)とてもライブまでは手が回らないといった状況が続いていました。
今回のライブアルバムには、1981年から89年まで、文字通り私の80年代におけるライブ活動の歴史がおさまっています。
1980年にまとまった形でのホール・コンサートをスタートさせて以来、この10年間で私がこなしてきたライブの本数は約270本、他のミュージシャンの人たちと比べればたいして多い数ではないかもしれません。でも私の場合、レコーディングとライヴの制作に関する、ほとんどの作業に参加しているため、例えば作家とアレンジャーが脇でサポートしてくれるような、そんな一般的なシンガーのような活動は不可能で、もし仮に年間100本のコンサート・ツアーこなすとすれば、それはすなわちその年のレコードリリースはできなくなるとことを意味するわけです。
それでも、私はもともとバンド出身で音楽活動の始まりはライヴと言う人間ですから、ライヴ活動に関しては出来る限りの努力を続けてきたつもりです。

<過去10年間の山下達郎のライブに関する方針>
私のライブにはこの10年間、変わらずに守られてきたいくつかの方針があります。

1)武道館に代表されるような大量動員コンサートは行わない事。ノーマイクで声が届く範囲は半径50メートル程度であり、それ以上は観客に対して責任が持てない。

2) 観客に「要求」しない。すなわち”SAY YEAH!”の類の行為を出来る限り排除すること。

3) 表面的な熱狂、例えば「総立ち」などの現象は演奏の良否とは全く関係ないという認識。

4) 今日できる全てを表現すること。したがってコンサート時間は必然的になくなります。もっともこのことについてはスタッフの協力、特にコンサートホール側の理解なしには実現できる行為ではありません(現在まで私のライブにおける最長時間は、本アルバムに収録された六本木ピットインでの4時間45分です)。

私のコンサートは現在数少ない「座って見られるコンサート」であり、私と私のコンサートを支えるスタッフたちはそのことに非常にプライドを感じています。今の若いミュージシャンの人たちから見れば、それは一風変わったことに感じられるかもしれません。彼らにとってはコンサートとは「乗り」であり、客が辛気くさくい座っているなど、おそらく我慢がならないことなのだと思います。したがって彼らの目からすれば、私の方針は非常に前時代的な感覚、あるいは客を乗せられないことの言い訳と映るかもしれません。しかし私の考えてる事はそのような次元とは全く異なったものなのです。
ロック関係の音楽に観客が熱狂するのは、別に今に始まったことではなく、私がシュガー・ベイブでバンド活動を行っていた15年前も、状況は似たり寄ったりでした。しかしそうした中で私は、総立ちで騒いでいる観客よりも、座って耳をすましている人々を納得させるほうが、はるかに難しいのではないかと言う疑問が常にあり、所詮音楽は絶対にスポーツにはなりえず、あくまで音楽として成立していなければ、最終的には敗北していくのだという確信が、次第に私自身の中で体験的に形成されていきました。それを自分のコンサートへとフィードバックさせて行った結果、現在のコンサート・ノウハウへと帰結したのです。

まず、絶対に観客をマスとして捉えないこと。あくまで観客一人一人対自分という図式でコンサートを実践すること。観客の成熟なくして、自分の音楽的成熟もありえないという考え。いかに観客に対して誠実であり続けられるか、これが自分にとっての音楽活動を支える最も根本的な命題であり、武道館をやらないのも、不必要な熱狂を嫌うのも、演奏時間が長いのも、すべてはこの感覚に対して常に誠実でありたいと戦う気持ちの表れだと理解していただければと思います。ただ、こうした方針の結果、特に東京のような大都市圏では2,000人クラスのホールを数日程度では、とても観客を収容しきれないという問題が生じてきました。それなら日数を増やせばいいじゃないか、とおっしゃるかもしれませんが、演奏時間が長いため、連続公演は3日が限度であり、昨年のリサーチではレコードユーザの70%がコンサートに行ったことがない(チケットが取れない)という結果が出てしまいました。これは私にとっては大変なジレンマで、例えば横浜アリーナのような音響的に優れた大ホールが生まれている以上、これから考慮していく問題だと考えています。

<このアルバムについて>
さて、今回のライヴ・アルバムはそんなわけで、この9年間に録りためたマスターが計12日分、延べ267曲の中から選んだ21曲が収録されています。録音された年代ももちろんですが、録音場所も東京、大阪、横浜、仙台、郡山と多岐に渡っていて、ライブハウス(六本木ピットイン)での音源も収録されています。
このため音源の良否(演奏・録音状態など)のチェックに13日間、トラックダウンには25日間、はっきり言って、もうクタクタであります。
選曲の内訳についてですが、今回のライヴアルバムは、現在までに発表した9枚のオリジナルアルバム(ソロ)の中から、ほぼ均等に14曲が選択されています。さらにシュガー・ベイブ時代のものが1曲、NIAGARA TRIANGLEから1曲、洋楽のカバーが2曲、まりやの曲が1曲、他人(アン・ルイス)に提供した曲が1曲、それに「おやすみロージー」の、計21曲となりました。
主としてアルバムの企画性から生じる問題により「ストリート・コーナー」と「ビック・ウエィヴ」からのものは含まれていません。
選曲の基準は非常に難しく、一概に述べる事は困難ですが、まずヒット曲、次にライブでの人気曲、ライブ・アルバムが望まれていた新旧のレパートリー、純粋に演奏の優れたもの、玄人受けのするカバーといったところです。何しろ曲数があまりにも多いので、涙を飲んで割愛しなければならなかった曲も大変な数に上がりました。
以上のような経過により、出来上がったライヴアルバムはCD2枚組140分、アナログはおそらく史上最後の3枚組となりました。これ以上1曲も入らない状態であります。私のプロとしての活動歴はかれこれ15年になりますが、豊富なストックに助けられて、ほぼ全活動歴をカバーすることができました。
   
<リアル・ライヴ>
ライヴというのは文字通り一発勝負の世界であり、その意味でライヴアルバムは、レコードというメディアの原初的特質である「演奏の記録」という要素を最も濃厚に残している数少ないフィールドであると言えます。
ところが現在のレコード制作は、単なる音の記録ではなく、レコード(あるいはCD)でしか表現できない独自の世界を創造することの方が、遙かに重要な命題であり、またその大量頒布性、長期保存性などから、歴史の試練に耐えうるようなものを目指すのも、また必然となっています。現在のバンドブームの中で、ともすれば本人たちはレコードでは演奏させてもらえず、(スタジオミュージシャンが起用され)空中に消えていくライブパフォーマンスでのみ、演奏が許されるというのは、
このような原則から生じているのでしょうあまり褒められたことではありませんが…。
さらにライブビデオによる表現が主流となってきた昨今では、音の良し悪しが赤裸々に予定されてしまうライブアルバムの方が、悪く言えば、視覚的なごまかしで逃げのきくビデオの方よりもずっと困難な作業となって来ているともいえます。
このような理由により現在ライヴ・アルバムの制作においては、ほぼ100%「差し替え」という作業が行われています。歌や演奏のアラを目立たなくさせ、長く鑑賞に耐えうるものにするためで事は言うまでもありません。ただこうした現象が、あまりエスカレートしてきますと、一体ライヴとはそしてライヴアルバムとは何かということになります。
今回のライヴアルバムは、幸運にも差し替えを殆ど行わないで作り上げることができました。作業を始めた当初は、相当の手直しを覚悟していたのですが、思ったより出来が良くて、ヴォーカルは最小限、歌詞の間違いの修正(意味不明になりますので)といった作業で済み、楽器関係に関しても、メンバーの優秀な演奏に支えられて、ノイズの発生でやむなく行ったベース1曲、キーボード2曲分ほどで済みました。
このような結果、このアルバムは限りなく「リアル・ライヴ」として成立させることが出来たと思います。
【第42回 了】