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ヒストリーオブ山下達郎 第49回 95年11月、ムーン時代のベスト・アルバムTREASURES発売

ベスト・アルバムだからこそ、丁寧に作らなきゃと思った>
まりやの『Impressions』がすごく売れたのと、当時はベスト・アルバムがブームで、それで小杉さんが、僕のも出そうと。ムーンのベスト盤はそれまでなかったから。ムーン設立が1982年。僕の移籍は1983年だから、12年ぐらい経っているし、そろそろ出してもいいだろうと。僕も40歳を超えて、相変わらず、歳をとるとアーティスト・パワーが落ちる、という定説もまかり通っていたし、「クリスマス・イブ」が売れた勢いのあるうちに、出してしまおうと。切迫感というより事業計画で。前にも話したけど、この頃から世界的にレコード会社が制作主導から、経理主導、弁護士主導になってきた。WEAも例外ではなくて、実際95年はぎりぎり、その前夜。
このアルバムのCDプレスはTDK。それまでワーナーのCDはソニーのプレスだったけど、TDKがCDのプレスに進出して、ワーナーを専属でやれるようになって。すごく良い品質で、そういうハードウェアの面ではよくなった。レコードからCDに移行して、日本の場合は特に売り上げが爆発的になった。70年代、80年代はアルバムがミリオンセラーになるなんて、稀有なことだったんだけど、この頃には平気で200万枚越えとか、そういう時代だった。このベスト・アルバムの選曲基準は、すばりシングル・コレクション。曲もたまっていたし。82年のベストよりも、そつなくはまったのではないか。
「蒼氓」だけはシングルじゃないけど、人気曲だったし、「パレード」はフジテレビのポンキッキーズのテーマで、シングルカットしたばかり。「世界の果てまで」は当時の最新シングル。そういうタイムリーなものも入れなきゃ、というのは、いつも必ずある。ベストといえども。いやベストだからこそだね。
できれば「RIDE ON TIME」を入れたかったんだけど、権利を持っているレコード会社から競合他社を利する行為はできません、と言われて。まあその直前の訴訟問題(95年に和解が成立)への報復だね。それで「高気圧ガール」が1曲目になった。本当は「RIDE ON TIME」から始まり「パレード」で終わるという流れにしたかったんだけど。ちなみにこの「パレード」は大滝さんがベスト・アルバムのためにリミックスしてくれた。「THE THEME FROM BIG WAVE」と「MAGIC TOUCH」が入らなかったのは、単に収録時間の問題。まだ74分が限界みたいな時代で、今だったら「BIG WAVE」の方は入れられたかもしれない。
曲順は必ずしも時系列ではなく、この時点での人気曲、ヒット曲を入れた。「蒼氓」以外は全部シングルカットした曲。「蒼氓」はリミックスを収録したけれど、今聴くと、オリジナルの方がいい。2012年のベスト「OPUS」には結局、オリジナル・ミックスを入れた。今となれば良し悪しが言えるけど、あの時代は判断がなかなか難しかった。
「土曜日の恋人」も、この時にもう一回リミックスした。土曜日の恋人はいくつもバージョンがある。
「おやすみロージー」はオリジナルのカラオケにJOYの時の歌を乗せたもの。声そのものはライヴなので、かなり変則的なトラック。
「踊ろよ、フィッシュ」は相当いじっていて、収録したのはオリジナル・シングルでも、『僕の中の少年』のアルバムヴァージョンでもない、このベストアルバムだけのニュー・エディット・ヴァージョン。没テイクも含めた、それまでのテイクの中からいいところを繋いで。リマスタリングの技術が向上してきた時代なので、うまく繋ぐことができた。
「さよなら夏の日」は歌を入れ替えようと試みた。元のシングルは締め切りギリギリで、朝の4時に入れた歌なので、心残りがあった。それで元の歌を参考に同じように歌ってみたけれど、どんなにうまく歌えたと思っても、プレイバックを聴くと、全然オリジナルに勝てない。オリジナルは荒いんだけど、でも何かが違う。結局、諦めた。歌というのは不思議なものでテクニックとか、音程とかそういうものだけじゃない何かがある。そういえば、演歌歌手の人なんてベストアルバムを出すたびに歌い直たがると聞く。ファーストリリースって大体がギリギリのスケジュールでレコーディングするから、歌に不満が残る。みんな、30代40代になって歌が上手くなってくると、やり直したいって思う。それで歌唱印税も入るし、コンサートやリサイタルで即売もできるから。僕も当時はカツカツのスケジュールでやらされていたから、何度か歌のやり直しをトライしたこともあるけど、結局あまり意味がないという結論に達した。だから、その後は、いわゆる再録(リレコ)もしないと決めた。
最近では、夜なべ仕事の教訓も織り込み済みだから、徹夜はしないようになったけど。昔は本当にひどかった。歌入れは必ず最後だから。当時はレコーディングのスタート時間も、午後7時とかで遅かった。最近はもっと早い時間から始めて、夜中の12時くらいでやめる。当時は明け方と言えば聞こえがいいけど、実際には朝の8時とか10時に歌入れなんてこともあった。そうなるとそうなったで、アシスタントが「いよいよ佳境に入ってきましたね」なんて喜んだw
ライナーノーツには「ザ・ムーン・イヤーズ〜シンガー・ソングライターとしての12年〜」というタイトルをつけて、自分で曲目解説もした。演歌やアイドルのベスト・アルバムって、ゴールデン・ヒッツとか、ベスト・ヒットとかいう割には、ただ歌詞がついているだけで、説明も解説もない。多くは年末商品とかボーナス時期の商品で、廉価版。そういうのに疑問があったから、ベストこそ、ちゃんと考えて、丁寧に作らなきゃと思っていた。
CDのリマスタリングもようやく完成形に入った時代だったから、音質的にも格段に向上した。このリマスタリングは元ソニーの原田光晴くんというエンジニアで、当時はオンエア麻布スタジオで働いていた。彼とは1990年のまりやの「告白」が最初で、それ以後20年近くやってもらった。当初は発想すらなかったけれど、デジタルのリマスタリングはアナログ以上に重要で、アナログのノウハウをそのまま踏襲していたのでは、どうしようもない。それがわかってきたのが、80年代の終わりで。それまで多くのリマスタリング・エンジニアは、みんな原音忠実派でEQ(イコライザー/音質補正)すらイヤだと。
アナログとデジタルの大きな違い。それはピーク補正とかコンプレッションとかは、アナログの場合は上を叩いて抑えるんだけど、デジタルは下を上げていく。小さいものを大きくするわけだから、あまり上げすぎると、平面的になってしまう。そこで、奥行きを保ちつつ、音圧を上げるのがマスタリングのテクニックだったりする。でもレコーディングに限らず、新しいノウハウが出てきても、「昔はこうだった」という経験則を引きずって、居直ってしまう人がいる。それで滅びていく。技術は常に進化していくものだから。
   
<作家性も同時に持ち合わせているのがシンガー・ソングライター
ムーン以前と以後で、お客さんの評価もガラッと変わった。そもそも自分の性格的には「FUNKY FLUSHIN’」みたいなものは、あくまでも作家的な思考であって、シュガー・ベイブを始めた時点での精神性に戻ると、「ゲット・バック・イン・ラブ」みたいな曲の方が本来で。歌唱と曲の整合性という意味では全然こっちの方が自分なんだ。
言ってしまうと、MOONGLOWやRIDE ON TIME、FOR YOUには売れるための思惑があって、多分に作家的なスタンスで作られたものだから。僕より前の時代の作曲家、川口真さんや船村徹さんとか、ああいう方々はいわゆる座付きで、要求に応えることが仕事だった。職業作家だから。筒美京平さんもそう。
僕はシンガー・ソングライターという意識が強いので、そこを逸脱する曲は書けない。たとえジャニーズものでも、自分ではその一線を超えているつもりだったけど、今聴くとちっとも超えていないw 逆に自分でも歌える。オクターブで書いているから、かえって歌いやすいくらいで。むしろアレンジャーとしての方が、原理主義的かもしれない。
誤解して欲しくないのは、僕にとってシンガー・ソングライターというのは、同時に作家性もある人で。だから、キャロル・キングやバリー・マンはやっぱりお手本だった。特にキャロル・キングシンガー・ソングライターの草分けだけど、もともとはヒット作曲家で、そこから、人に作った曲を自分でも歌い始めて、それからは自分のためのオリジナル作品への移行を、模索しながらやってきた人。
リー・マンも同様で、ティーンエイジ・ポップスを書いていた人なんだけど、キャロル・キングに触発されて、シンガー・ソングライターとしての内省的な作品作りを始めていく。全く成功しなかったけど。
ニール・セダカも、そのあとのスタンスは同じ。共通しているのはみんな歌がうまかったこと。
今のシンガー・ソングライターって、ちょっと違う。他の人の作品は決して歌わない、自分だけしか歌えないような曲しか書かない。そういう人は作家性がないから、僕の考えるシンガー・ソングライターとはちょっと違う。でも、今の若い人のカヴァーに対する積極性は凄まじいものがある。それも時代の変化かもしれない。あとは、僕のように歌詞や曲は書いても、アレンジまでやっている人は少ない。僕みたいにストリングスやブラスのスコアまで書くというシンガー・ソングライターは珍しいかもしれない。
アルバムのタイトルをTREASURESとしたのは大した意味はない。前のGREATEST HITS〜 も完全にシャレで、これは多分、小杉さんが付けたんじゃないかなw TREASURESのジャケットのイラストを、松下進さんに描いてもらったのは正解だった。まだ、とり・みきさんの”タツローくん”の前で。松下さんって、ザ・シャドウズのフリークで、ミュージシャンを目指していたという、ロックな人で。
このベストは僕のアルバムとしては初のミリオンセラーになったけど、まりやの半分ぐらい。まりやのは300万枚以上売れたけど、こっちは140万枚くらい。テレビに出ていたら、もっと売れていたかもしれないけど、正直これくらいは売れてくれないと。メディアを使うことには、今以上にネガティブだった。リリースしても、どうせテレビには出ないんだから、と宣伝部全員がそんな感じだった。この時はディーラー・コンベンションもやらなかったし、あまり労働意欲がなかったw そろそろ非常勤ではなく、ちゃんとした取締役にしてくれるのかなと思っていたのに、そうはならなかった。ミリオンになったことは、ワーナーという会社の最後の輝き。まあオリジナル・アルバムならどれくらい売れたか気になるけれど、ベストは別に……。早く作品を出せと言われていたから、ベストを出して、すぐ次のアルバム“DREAMING BOY”を出すはずだった。
    
<録音が上手くいかなくて、歌詞を書くのに疲れてしまった>
ベストアルバム発売直後に、「サンデーソングブック」3周年のアコースティックライヴをやった(TOKYO FMホール/95年11月26日/2回公演)。メンバーは難波くん、広規と、この時は佐橋くんも入れて、4人で。 レコーディングも始めたけど、メンバーやスタジオの問題で、うまくいかなかった。
翌96年2月にはメリサ・マンチェスターとの共演シングル「愛の灯(ともしび)〜STAND IN THE LIGHT」を出した。この曲については、恐らく前年の、95年の秋にはベーシックなトラックを作り始めていて、年末頃にLAに行って歌入れした。これもサウンド・シティでやっていたから、悩みの種。オファーはフジテレビのイメージソングのタイアップで、外国人女性シンガーとデュエットしてくれと言われた。大雑把w 誰が良いかなと考えて、メリサ・マンチェスターなら来日時に一度会ったことがあるし、性格も良さそうだからw いいな、と。当時、アリフ・マーディンのプロデュースでテクノみたいなことをやらされていて、自分だったらもっと違ったアプローチができるのに、と思ったのも理由。他にも何人か候補あったんだけど、これは、という人がいなかった。それになるべくミドル・オブ・ザ・ロード寄りの人が良かったから。外国人シンガーとデュオをやるというのは魅力的だった。
曲はアシュフォード&シンプソン風で行こうと思って書いたんだけど、結構お気に入りだった。LAで歌入れだけやったんだけど、その時のエンジニアがフィル・コリンズのエンジニアで、いい人だったw レコーディングでリード・ボーカルをダブルにすることになって、彼女は前に録ったのを聴きながら歌う。洋邦問わず、ほとんどの人がそういうやり方をしてるけど、僕はそうじゃなくて、コーラスでも、ダブルにするときは、今歌っているものしか聴かない。ひとりアカペラでも、常に他の音は一切聞かないでやっている。自分の声だと、どれが今やっている音だか分からなくなるから。そしたらエンジニアに「なぜ前のを聴かないのか」って聞かれて。「だって、同じように歌えば同じになるでしょう」って答えたら、すごく驚いてたw
歌詞は彼女が書きたいと言って、歌入れもスムーズだった。でも、さすがに二人ともソロシンガーなので、なかなか歌の細かい所が合わなくて、微妙にずれる。時間がかかってしょうがないから、違うブースで歌ってもらって、日本に帰ってから、それを聴きながら、僕が後から合わせた。メリサ・マンチェスターは「DON’T CRY OUT LOUD(あなたしか見えない/伊藤ゆかりやリタ・クーリッジがカヴァー)」などヒット曲もあるけど、アメリカの芸能界の尺度からする、と中堅どころ。ミドル・オブ・ザ・ロードは難しいんだ。日本でも、プロモートがそれほど活発に行われていたわけじゃないし。70年代に彼女の初来日公演を、東京の郵便貯金会館に観に行ったけど、空席が目立ってた。僕が一緒に仕事をした時は「テレビが嫌いだけど、出ないとレコードが売れないし」と悩んでいた。どこも同じ。共演の壁は全然なくて、基本リーダーシップはこっちだったし。彼女はお世辞を言えない人で、普通は、特にショービジネスの人間なら「すごくいい曲ね」とか言いそうだけど。デビー・ギブソン(達郎が提供した「WITHOUT YOU」がヒット)でさえ、そのくらいは言ってた。でも、変な社交辞令を言わないから、逆に好感が持てた。ともかくこの曲は好きな曲。ただ編曲をちょっといじりすぎたかも。イントロもエンディングもなくなっちゃって、もうちょっとコンパクトに収めておけばよかった。大作にしたかったというか、本当は弦(ストリングス)も入れようかと思ったくらいで。
3ヶ月後の5月にもシングル「DREAMING GIRL」を発売。NHK連続テレビ小説「ひまわり」(主演松嶋菜々子)の主題歌。4月の放送開始に間に合わせるように作っているから、2月ごろには上げているはず。これは海外レコーディングで、LAでストリングスまで録った。チャーリー・カレロでやったけど、結局ボツになった。朝ドラだから、というプレッシャーはなかった。僕は役者じゃないしw  思えば、“DREAMING BOY”から出た「DREAMING GIRL」だったけれど、あれはシャレで、結局、発売日は設定したものの、アルバムは出せなかった。音が気に入らないとか、体調が悪かったりとか、メンバーやスタジオの問題など、いろいろな原因があった。ツアーもやっていなかったけど、その分あの時は「サンソン」に手間がかけられたから、番組については密度が濃くなったw
「DREAMING GIRL」の歌詞は、人に頼みたくて、松本隆さんとやろうと思った。この時期はレコーディングがうまくいかなくて、歌詞を書くのに疲れてしまった。一応大滝さんには仁義を通して、松本さんとやるので、と挨拶に行った。曲のモチーフは、持っているものを膨らましたもの。ドラマは主人公が弁護士を目指す話だから、明るいのが良いかなとあの曲にしたけれど、レコード会社のスタッフからは不評で。最初に松本さんが書いてきたのは、違う歌詞で。歌入れを聴いて、お前にこの内容は似合わない、って、松本さんが書き直してきた、珍しく。松本さん作詞では、そのあとKinkiの「Kissから始まるミステリー」「硝子の少年」、COZYでの「いつか晴れた日に」「氷のマニュキュア」「月の光」へと続いた。
「DREAMING GIRL」はリズム録りもすごく難航して、スタッフから「ヒットしない」とか言われて。そういう”圧”に耐えつつ、やっていた。自分ではそんなに悪い出来じゃないと思ってる。歌詞だって嫌いじゃないし、間奏の段取りなんかもよくできている。転調のところとか。一度は自分でドラムを叩いたりしてw 運良くリズム隊の調子が良い時にやれたんで、滑り込みセーフだった。レコーディングは95年からやっていたけど、実質的には96年に入ってからで、2月末の締め切りでちょっとギリギリのスケジュールだけど、NHKの朝ドラはそれぐらいの感じ。収録も、それほど前倒しじゃないから。アルバムCOZYに入れたのはリミックスで、最初のは好きじゃなかった。とにかくミックスの環境が良くなかった。
チャートアクションも悪かった。「サンソン」に「あなたの歌詞じゃないとダメだ」って、手紙をよこしたファンの人がいて、そんなの少数意見だと思ったけど、今思えば、あながち間違った指摘ではなかった。楽しようとすると、良い結果は生まれない。大昔ター坊に「あなたは自分で歌詞を書かなきゃダメよ」と言われた。何度か人に歌詞を頼んだことがあるけれど、やっぱり違和感は拭えないというか。
      
<何を歌いたいか、というテーマは自分の中にある>
その違和感というのは、思想の問題かな、と。風景を切り取るとかいうよりも、歌詞に思想があるかないか。70年代、80年代の作詞家って、思想がある人はみんなダークで、僕好みの思想性みたいなものを表現した人は、ほとんどいない。僕が一番尊敬する一人は岩谷時子さんだけど、彼女みたいな、歌詞で何も言わないというか、そういう人がいない。
何かを言っている人は、みんな音楽が違う。僕みたいなスタイルの音楽で「THE WAR SONG」のような曲を書く人間はいない。常にああいうサウンドで、ああいう歌を歌いたいと思う。「蒼氓」にしても「希望という名の光」にしてもそう。そういうことがだんだん確信になってきている。抑制された思想性がないというか。言葉のトリック、例えば歌詞の1行目と2行目の連関性とか、意外な語彙とか、そういうのは、はっきりってどうでもよくて。音と音楽の協調性がないと。それは編曲にも言えて、例えば昨今のストリングス・アレンジは、ともすればストリングスの自己主張でしかなくなってる。控えめに主張するストリングスって、本当に美しいんだけど、最近のストリングスはひたすら主張しまくって、動きまくって。A(メロ)が3回出てくるとしたら、3回とも全部違う、みたいな。リピートという発想がないのか。
歌詞にしてもそうで、作詞家に頼むと、エゴがすごく出る。ここは曲に合わないから書き直してくれと言っても、してくれない。僕なんか自分のシングルで曲を書き直したものなんて、数え切れないのに。なんで、自分が歌詞を書き始めたかと言うと、言葉より思想性、若い頃からそういう意思が自分に合ったから。例えば「雨は手のひらにいっぱい」では何を歌いたいか、というテーマは自分の中にはあるわけで、だけど、それをなるべく言葉に勝たないようにメロディーに乗っけたい。抽象性という意味では、やっぱりター坊とはすごく一致している。
言葉とメロディーと編曲、そこには密接というか、連関性というのが、すごくあるのに、多くの場合、作詞家は編曲の事まで頓着していない。だから完パケに近いところまでオケを作って、歌詞を書いてくれって頼みに行くんだけど……そういうことが繰り返されていた。
自分の歌詞が秀でているなんて思った事はないし、しょうがないから自分で書いている、というのもあるけれど、ただ重要なポイントとして、自分が言葉を発して、例えば「それってやばくない?」ってことを表現するのに、あまり具体的すぎたら、それは会話じゃなくなる。どこを曖昧さの落としどころにするかは、それぞれの言語感覚や、言語能力による。自分で歌詞を描いて、メロディーをつけて歌う場合、語感にメロディーがスムーズに乗らないと、歌にならない。でもあえて、そうじゃない歌を作る人もいるわけで。僕の世代や、そのちょっと前後の世代は、それにすごく固執するか、全く固執しないからどちらか。中には歌詞に重きなんか全然おかなくて、楽しければいいじゃんって言う人もいて、それでもきちんとした音楽を作っている人はたくさんいるし、だからそれも全く否定しない。昔の歌謡曲なんて、それしかないから。
新聞記者だの、文化人だのが「歌謡曲なんて、月と星と恋とあなたしか出てこない。そんな世俗を歌ったって、世界は変えられない」なんてよく言ってたけど、僕は昔から「月と星で何が悪いのか」と思っている人間なのでw  メロディーに乗せた途端に、月にも星にも特別な意味が出てくる。それがポピュラー・ミュージックの醍醐味。突き詰めれば言語でありながら、言語ではないものになっていくというか。
歌詞は一番最後で、オケが出来上がってからでないと書けない。「クリスマス・イブ」でさえ、そうだから。「WINDY LADY」みたいな単純なものは、その前でも作れるけど。アレンジと歌詞は並行で進むところもあって、リズム隊の構想はおぼろげながら出てくるから、その時にコードはこう、サビは、キメは、それで戻る、なんてことが、並行して出てくる。
それが作詞、作曲、編曲を全部自分でやっている人間の強みでもある。
【第49回 了】