The Archives

次の時代へアーカイブ

ヒストリーオブ山下達郎 第39回 ON THE STREET CORNER 2(86年12月10日発売)から「REQUEST」(87年8月発売)へ

<「オンスト2」に対する創作意欲は、ものすごくあった>
86年5月にスタートした”PERFORMANCE ’86”。このツアーの時から、ステージ・デザイナーが、今(2016年)もやってもらっている、斎木信太朗さんに替わった。斎木さんは僕のステージ・プロデューサーの末永博嗣(ひろし)と同じクリエイト大阪の人でね。クリエイト大阪は舞台監督の会社だけど、ステージ・デザインもやっている。それで彼に頼むことになったんだけど、彼は僕と同い歳で、メンタリティも割と合ってるんだよね。
85年からスタートする予定だったツアーが、POCKET MUSICのレコーディングが遅れに遅れて、その影響でツアーも初めて夏場になった。でも、その時には既にON THE STREET CORNER 2(以下オンスト2)を準備していたから、ツアーもストリートのイメージで行こう、となった。
「オンスト2」に対する創作意欲は、ものすごくあった。あの頃はコンスタントにツアーをやっていたから、ツアー用にアカペラをどんどん先行して作っていたんだ。「AMAPOLA」もBIG WAVEのツアーの時にやっていたからね。「AMAPOLA」は、ちょうどその頃に観た映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」で流れていたというシンプルな理由。僕はセルジオ・レオーネとか、エンニオ・モリコーネとか、イタリアの映画監督や、映画音楽作曲家が好きだった。あの映画は傑作だと思うし、ロバート・デニーロも大好きだしね。映画の中で鳴っていた「AMAPOLA」はメロディーは知っていたけど、もっと知識が欲しくて、いろいろ調べた。1920年代に作られた曲で、作曲者はホセ・ラカーリエというスペイン系アメリカ人。40年代にジミー・ドーシーのレコードで大ヒットした。僕個人は中村とうようさんに教えていただいたレクオーナキューバン・ボーイズのレコードを聴いて勉強した。
「オンスト1」は80年に出た「オンスト」のリミックス盤。リード・ヴォーカルをもう一度、全部歌い直した。なぜかというとBIG WAVEの時にアラン・オデイに英語の指導をしてもらったから。80年の「オンスト」は決してデタラメというわけではないんだけど、でも細部を検証すると、かなりアバウトな発音で歌ってたんだ。要するに耳英語、雰囲気英語で。BIG WAVEでアランにしごかれた後でそれを聴き直すと、かなりの改善の余地があると感じた。
そこで「オンスト2」を作る際に、ついでに「1」の歌もやり直すことにした。だから86年10月に出た86年盤「オンスト1」は最初のアナログ盤とバックトラックは同じだけど、より正確な発音を目指してリード・ヴォーカルを全て歌い直した。元の音源をデジタル・マルチトラックレコーダーのPCM3324にコピーして作業している。12月に出た「オンスト2」は最初から全部デジタル・レコーディングしているけれど、「オンスト1」はアナログ・レコーディングしたものをデジタルにコピーして、ミックスし直している。
「オンスト2」になってのレコーディングでの変化で言えば、曲のテンポ管理の技術が大幅に向上したおかげで、フォー・フレッシュメンのようなスタイルができるようになったことが一番大きかった。だから「オンスト2」は大作志向。長尺ものもやりたいと思ったので、スタイリスティックスの「YOU MAKE ME FEEL BRAND NEW」をやったりとか。
「オンスト1」に入っている曲は基本的には全部ドゥーワップ。昔は、取材の時にドゥーワップとは何か、っていうのを説明するだけで、冒頭の30分を費やしてしまう。そういう時代だった。だけどシャネルズが出てきてくれたおかげで、ドゥーワップについて余計な説明をしなくてもよくなった。けれど、そうなってくると、今度はシャネルズが売れてきて、僕がアカペラをやるんだったら、もうちょっと間口を広げないとダメだと思った。
そんなことを考えていたときに、ちょうど「AMAPOLA」が出てきて、ああこれはいいや、と思ってね。それで「オンスト2」では1曲目が「AMAPOLA」で、2曲目のザ・ムーンクローズ「TEN COMMANDMENTS」は50年代のドゥーワップ。4曲目のリトル・アンソニー&ジ・インペリアルズの「MAKE IT EASY ON YOURSELF」なんかは60年代の曲だから。そういう具合に少しずつ「オンスト1」とは違うテイストの曲を入れていった。「CHAPEL OF DREAMS」は81年か82年の録音で。元々ライヴ用に録音したものだから。
後は、その時点では「WHITE CHRISTMAS」がCD化されてなかったので、それを入れて。「SILENT NGHT(きよしこの夜)」もライブ用に作ってあったもので。この2曲がいわゆるフォー・フレッシュメン・スタイルで、これらはボイシングがより複雑なので、アカペラの間口を広げる意味ではとても効果的だった。そうやって「オンスト2」のコンセプトをまとめて、POCKET MUSICができたら、すぐやろうと思っていたんだけど、その完成がものすごく遅れちゃったので、こっちのリリースも押してしまった。でも、創作意欲はすごくあったんだよ。
 
<「WHITE CHRISTMAS」の完成度は、83年のヴァージョンから格段に向上した>
フォー・フレッシュメン・スタイルを解説すると、フォー・フレッシュメンは男性4声のコーラス・グループだけど、アカペラの場合、演奏のテンポが自由なの。つまり1曲の中で、テンポが伸び縮みする。ドゥーワップのような場合は、イン・テンポって言って、一定のテンポで演奏する。ドゥーワップにはダンス・ミュージックの要素もあるから。だから、ドゥーワップはアカペラでも、大体インテンポでやってるんだけど、「WHITE CHRISTMAS」とか「SILENT NGHT」みたいなアレンジは、本来はメンバー同士が顔を見合わせながら、テンポを自由に変えていくことで雰囲気を作っている。
だけど、それを一人アカペラでやろうとすると、どうやってそのテンポの緩急を揃えるか、それが本当に大変になる。フォー・フレッシュメンは4声のコーラスなので、僕の一人多重の場合には基本1声について3回ずつ声を重ねて、合計12回歌うんだけど、その12回をフリーなテンポで完璧に合わせるテクニックが「オンスト」を始めた1980年の時点では、まだなかった。
だから、83年に「クリスマス・イヴ」をピクチャー・レコードにして出したときに、B面に「WHITE CHRISTMAS」を入れてるけれど、あれが初出だけれど、あれと「オンスト2」のテイクは全く別のもので、しかも作業の方式が全く違うんだ。
例えば、歌い出しの♪I’m Dreaming of a White Christmas♪のところ、語尾のリット(テンポが落ちる)から、またテンポを戻して、次の♪Just like the once I used to know♪に行くっていう、そういうテンポ・チェンジのところを一人多重で合わせるにはどうしたら良いかと、いろいろ考えた。一番最初は、自分が指揮しているところをビデオに撮って、それを見ながらやろうとしたんだけど、実際にやってみると全然ダメだった。そこで次に考えたのは、フレーズごとに別々に録音する方法で。最初の♪I’m Dreaming of〜 ♪までを録って、今度はその次の♪Just like the once〜♪を録って、という具合に1フレーズごとに別々に録音して、その後でマルチテープにつないで、一曲にしてミックスした。 これはかなりうまくいった。ものすごく時間はかかったけど。ブレス(息継ぎ)に注意してやれば、あたかも全部通して歌っているように聴こえる。でも実際はそうやってバラバラに作ってる。
ビーチ・ボーイズの「SUMMER DAYS(AND SUMMER NIGHTS‼︎)」(1965年)に入っている「AND YOUR DREAMS COME TRUE」っていう曲は、まさにフォー・フレッシュメン・スタイルのアカペラ・コーラスなんだけど、あれも1フレーズづつ別々に録っている。あの時代はアナログLPだったので目立たなかったけど、CDで聴くと、テープの繋ぎ目がはっきりわかる。ブレスが途中で切れたりして、部分部分を別に録って繋いでいることがわかる。それだけ難しい曲なんだけど、でも、フォー・フレッシュメンはビーチ・ボーイズより20年近く前に、ああいうハーモニーを一発録りしてたんだからね。しかも、彼らはそれを演奏しながら歌ってたわけだから、すごいとしか言えない。
そういう話は世の中に色々あって。1970年代に冨田勲さんがシンセサイザー・ミュージックを始めた時代は、まだシーケンサー(演奏の同期)がそれほど発達してなかった。だから冨田さんはマイクを使って、”ワン、ツー、スリー、フォー”という具合に、ドンカマならぬ、くちカマ。つまり口で語ったテンポ・データを先にテープに録音して、それに合わせて演奏を重ねていったそうなんだ。あの名盤「月の光」(1974年)は、そうやって作られてるんだよ。あれも気の遠くなるような作業だったと思う。
83年に「WHITE CHRISTMAS」をレコーディングした後に、ローランドからSBX-80というシーケンサーが発売された。こいつはそれまでと違って、ボタンをタップする(叩く)ことによって、手打ちで、自由なテンポを打ち込める機能がついていた。つまり先程の富田さんのくちカマが、データ化できるようになった。これで、自由なテンポの増減が可能になった。しかも数値で打ち込むデータではなくて、自分の生理に合った、自然なテンポ感で作られたクリックなので、複数回の多重録音でも、合わせるのが格段に容易になった。おかげで「WHITE CHRISTMAS」はテンポや語尾が、完璧に合わせるようになって、83年のバージョンから比べると完成度が格段に向上した。
「オンスト3」(1999年)でもフォー・フレッシュメンの「Their Hearts Were Full of Spring(心には春がいっぱい)」をやっているけど、 自分の生理に沿ったクリックが作れる、それはハードウェアの性能アップがあったからこそで。一人多重アカペラというのは、非常にアナログな粘土細工のようなレコーディング方式なんだけど、その裏にあるテクノロジーの向上と、支援がなければ不可能だった。まぁそんなバカなこと、他には誰もやってなかったけどねw
だから、デジタルにはいいこともあるんだ。聴いてみるとわかるけど、83年に出した最初の「WHITE CHRISTMAS」は縦の線が、まだ粗い。音のタイミングが揃ってないんだ。それが、あの当時の一人アカペラの限界だった。
でも、新しいバージョンはデータ化されたクリックが導入できた事と共に、そういうクリックに体を合わせる訓練を何年か続けていて、歌い方も確立できていたから、完成度を上げることが可能になっていた。
だから、80年の最初の「オンスト」を出してから、86年に「オンスト2」を出すまでの5〜6年間、一人アカペラのノウハウは蓄積されていったわけ。
その間に新しいシーケンサーが出てきて、ガイドのピアノも手弾きでやらないで、デジタル・キーボードで、同じテンポ・データを使ってやるから、キーボードのタイミングもちゃんと合う。80年版「オンスト」のときのガイドのキーボードは、僕の手弾きなんだけど、下手だからテンポがずれたりして、一人多重のタイミングに悪影響を与えた。それがクリックとか、ガイドのピアノとか、そういうものを全てマシンで制御できるようになったおかげで、多重録音も、より完璧に合うようになった。
おかげさまで「オンスト2」はオリコン3位に入って、あの時、僕は32、3歳で、それなりにネームバリューもあったのと、一人アカペラなんて誰もやってなかったから、そういう希少価値もあったんだと思う。それに「オンスト1」の時よりも、選曲も少し分かりやすくしている。日本では比較的有名な「SO MUCH IN LOVE」とか「WHITE CHRISTMAS」があるだけで、ずいぶんと親しみやすさが増すからね。
後は80年以前から、ライヴではずっとアカペラをやり続けていたし、ツアーの本数もだいぶ増えてきた。だから、地方にも僕のアカペラが浸透してきた。「CHAPEL OF DREAMS」とか好きだから、ツアーでもずっとやってたでしょ。そういう曲がレコードになったとか、いろいろなファクターがあるよね。でも、今から考えるとBIG WAVEにオンストだからね、バカだよねw しかも、ある意味では、そっちの方がやる気があったっていうか。今でもあまりいないよね、そういう人。
ツアーを重ねていて、声も戻ってきて。80年に「オンスト」を作ったときには、まだ声がそんなに出てなかったんだけど、「オンスト2」のときには体が鳴っているから、スタイリスティックスの曲なんか、ロングトーンが信じられないほど伸びる。そういうところをうまく利用して、作っている。だから、ライヴと同時進行しているのも大事なんだ。まあ、いいことが重なってきているの。
  
<マルチ・プレイヤーって消耗が激しいんじゃないかと思う>
「オンスト1」と「2」を出すその間の月(86年11月28日)に「クリスマス・イブ」の7インチEPシングルが発売されているけど、あれには僕は関与してない。小杉さんの発案。
「クリスマス・イブ」は83年にMELODIESが出た後、年末に12インチのピクチャー・シングルとして、限定2万枚で出したんだけど、あっという間に売れちゃった。後はそれと別に、日音の村上(司)さんとか、シンコーミュージックの草野(昌一)さんとか、洋楽系の音楽出版社の人たちが「オンスト」をとても気に入ってくれて、ずいぶん後押ししてくれた。草野さんに「WHITE CHRISTMAS」の日本語詞を依頼されたり、村上さんにも非常に高く評価していただいた。「オンスト2」に入っている楽曲を管理している音楽出版社が、合同でオリコンに広告を出してくれたこともあった。スタンダード曲を掘り起こすというのは、実は結構大変なことなので、「オンスト」のような試みを喜んでくれたんだと思う。
そうなってくると「クリスマス・イブ」は「WHITE CHRISTMAS」みたいに、季節商品として成立するんじゃないかって、多分、それは小杉さんのアイディアでしょう。でも、この86年11月の「クリスマス・イブ」にはタイアップはなかった。だから、本当に限定的なものだったの。それが88年にJR東海のCMに使われてもらったのがきっかけで、ああなっちゃった。でも、そうなることがわかっていたら、83年に12インチシングルとして出した後も、84年、85年と続けて出しておけばよかったね。そうしたらクリスマスイブの連続チャートイン記録が、もうちょっと早く達成できたwまぁ当時はそんなこと夢にも思ってなかったものね。
だけど、こうして振り返ってみて思うけど、やっぱり20代、30代が大事だね。新基軸への挑戦とかも含めて、この時期にどういうことを、どれぐらいやるかっていうのは、本当に大事。単に人気や、売れることばかりを追いかけていくと、やっぱり自己模倣とか、そういう停滞現象が起きてしまう。逆に歳をとったら、今度は良い意味での自己模倣ができないとダメなんだけどね。声がちゃんと出てるかとか、そういうことも自己模倣なんだけど。若い頃のアタックがちゃんと出せるかとか、そういうものは必要なんだ。
でも若い時代には、音楽的な幅を、どういうふうに広げていくか、っていうことが大事なんだよ。その意味では、BIG WAVEや「オンスト」で、横道にそれまくったのは大正解だなって思う。そういうものが何もなくて、オリジナル・アルバムだけで続けていたら、そんなに面白い音楽人生じゃなかったね。
基本的には、ずっと一人でやってきたからね。高校の頃から一人多重録音とか、そういうことが好きだった。要するに僕は録音オタクでもあったんだよ。最近思うのは、一人で音楽を作るマルチ・アーティストって、共同作業でチームでものを作っている人たちよりも、消耗が早い気がする。例えばトッド・ラングレンなんかすごく才能あるけれど、いろんなことに手を出していく。コンピューターだったり、ネットの世界に行ってみたり。そういう、いろいろなことに手を出すパッションを、全部音楽に振り向けていたら、もっと息の長いものができたんじゃないかと思うんだよ。
ステーヴィー・ワンダーなんて正真正銘の天才だと思うし、10代の時からすごかった。ただのシンガーじゃイヤだって、音楽学校に行って、理論もちゃんと勉強して、そこでモータウンと契約し直して、自分のプロデュース権を獲得してから、ものすごいことを始めたわけじゃない。でもあれだけの天才でも、ある時点から創作のスピードが、急に落ちてしまった。その理由がよくわからない。
だからマルチプレーヤーって、実はすごく消耗が激しいんじゃないか、と思うんだよね。日本でもマルチな人って意外と大変だよね。最近はスタジオの衰退やら、予算削減やら何やらで、家で一人で音作りする人が増えてきていて、それが音楽の消耗を増しているような気もする。その意味では僕もずっとマルチでやってきたんだ。BIG WAVEもオンストも一人っきりで作っていたから。だから、そういうところで、他との差別化を図れているのは当然あるんだけど、それがキープできてるのは、90年代に僕があまり活動できなかった時代があったでしょ。あれが良かったのかなって、思ってるんだよね。
200万枚、300万枚ヒットが当たり前だった90年代に、メンバー問題やスタッフ問題、スタジオ問題や何やかやで、思うような活動ができなかったから。それで、ある意味、時代に消費されずに、マイペースを守れたのかもって。最近、よくそういう話をするんだけどね。
   
<「踊ろよ、フィッシュ」はステージでは演奏不可能>
87年5月、シングル「踊ろよ、フィッシュ」発売。 この曲はムーンレコードのスタッフからPOCKET MUSICが非常に地味だって言われて、まぁ、実際地味なんだけど。定例会議で「山下達郎はやっぱり夏に戻らなければいけない」ってハッパかけられてw タイアップを持ってこられたの。ANAのタイアップだね。だから、このシングルは、当時の僕の意向とは別のところで進んだものなんだ。チャートアクションも悪くて、85年に出した「風の回廊(コリドー)」のほうが全然よかった。
先の話になるけど「だから言ったでしょう。僕は30代半ばになるんだから、ヒット曲を出すんだったらバラードしかないんだよ」って。それでスタッフが「GET BACK IN LOVE(88年4月発売)」のタイアップをとってきてくれた。TBSドラマ「海岸物語〜昔みたいに」の主題歌。
話を戻すと、「踊ろよ、フィッシュ」は有りものじゃなくて、CMオファーが有ってから、その時に作ったの。沖縄キャンペーンの曲を作って欲しいって。高気圧ガールと同じ。でも、あの時は正直、そういうのにあまり興味がわかなかった。だって、夏から脱却したくてMELODIESを作ったのに、また夏か、って。あの時、僕は34歳で、もう時代が違うんだから。しかも周りはアイドル全盛で、さらにはTUBEとか杉山清貴とかC-C-Bとか居るんだから、夏は彼らに任せればいいじゃない、って。僕は僕でやりたいことがあって、だってPOCKET MUSICやその次の「僕の中の少年」とか、レコーディングの技術的な問題はあったけど、コンセプトは非常に明快。
そういう自分の中の表現したいものがあるんだから、もう明るい夏の歌はイヤだって言ったんだけど、否応も無い、半ば強制的だったw
僕がTUBEやC-C-Bのようなトラックを作ってもしょうがないからね。結果的に非常に複雑なポリリズムの曲が生まれた。だから、この「踊ろよ、フィッシュ」はステージでは全く演奏不可能なの。演奏難度がすごく高いし、複雑なテンションコードをちりばめているから、まずギターを弾きながら歌えない。歌の難易度もめちゃくちゃ高い。あらゆる意味で難易度の高い曲。カラオケでもダメだもの。これは実験作っていうより、そうしないと個性が出せないっていうか。他人と同じことをやってもしょうがないという。杉山清貴とかTUBEのお客が、山下達郎の客になるわけがないと思ったしw 実際そうだからね。山下達郎のライブに来る人は、TUBEとかC-C-Bどこのファンとは違う層だと思ってた。
僕の観客の中核は、僕よりちょうど10歳前後年下なんだけど、彼らはちょうど大学を出て、就職をするような歳まわりになっているわけね。だからもう結構仕事が忙しいとか、そういうユーザーの世代感を常に考えてた。何しろPOCKET MUSICのキャッチフレーズが”同世代音楽”だからね。そういう世代の人たちのメンタリティーを考えたら「踊ろよ、フィッシュ」じゃないんじゃないかって。まだ、何にも人生が決まってない大学生なんかが考える夏と、お盆休みをようやく取ったけど残業がまだある、という社会人の夏とは違うだろうと。そういう事は、その頃から考えていたの。曲自体は嫌いじゃない。嫌いな曲なんて書けないし、そんなの歌えない。タイアップのコンセプトがあまり好きじゃなかっただけで。演奏はいいんだよ。でもデジタル・レコーディングのショボさは依然、悩みの種でね、なかなか音圧が上がらない。だから、楽器を厚くしないといけない、ということもあってね。
それでもレコーディングについては「土曜日の恋人」の時よりは良かった。B面はアカペラの「YOU MAKE ME FEEL BRAND NEW」で、缶コーヒーのCMタイアップになった。テイクは86年の「オンスト2」と同じテイク。
  
< エピックのA&Rに「”駅”は有線放送でかけたら売れるよ」って言われて>
87年8月、まりやの「REQUEST」発売。このアルバムのレコーディング自体は87年に入ってからかな。
84年に「VARIETY」を出した後、彼女は出産して、子育てに入ったので、全く家から離れられなくなった。それなら家でできることをしようと、他の人への楽曲提供が中心になっていた。前にも言ったことがあるけど、家に帰ったら彼女は洗面台でミニ・キーボードを弾いていて、「子供が起きるので、ここで曲を書いてる」って。あれは確か「色・ホワイトブレンド」か、そのあたりだったと記憶してる。そんなふうだから、当時はオリジナル・フル・アルバムを作れるほどの余裕がない。じゃあ、人に書いた曲を自分でレコーディングしよう、ということになった。今で言うセルフカヴァーの草分けみたいな形だね。ただ、それでもシングルはちゃんと作って、出したんだ。「恋の嵐」とかね。そこはちゃんとやってた。
「VARIETY」で結果は出ていたからね。 小さな会社だし、新譜がなければ、たちまち困窮するw  会社的には「次も早く」というのが本音だったと思う。だけどその反面、当時は出産して、育児中の女性シンガーがアルバムを出す、なんて例はまだなかったし、メディアからも、そういうのはもう現役からは半引退といった見方をされる。それもまた厳然たる事実だった。
だけどこれはその分、製作時間はたっぷりかかってる。僕のツアーの最中にシングルが決まった「恋の嵐」は4日で録ったけど。アルバム用に一番最初に録ったのは「元気を出して」だったかな。POCKET MUSICで七転八倒したデジタル・レコーディングの研究成果が、ここでちょうど良い具合に反映される結果となった。アナログと比べて、デジタルの良いところは、すごく差し替えが楽になったこと。クリックも正確になってきて、後からドラムをダビングするにもやりやすい。
「元気を出して」は、僕がアコースティック・ギターを弾いているけど、僕の技術では演奏が難しい曲でね。それでテープを止めながら、部分部分で、少しずつ録音していった。アナログのテレコだと消し残りが出たりして、そんなやり方はできずに、スタジオ・ミュージシャンの力を借りるしかなかったんだけれど、デジタルだときれいにつなぐことが可能になった。おかげで、思い通りのギターのニュアンスを作ることができた。
「元気を出して」は普通にリズム隊で、「けんかをやめて」は僕の一人多重で、「OH NO, OH YES」はマシンで、という具合にバリエーションをつけながら、カヴァーも何曲かやって。曲の粒はものすごく揃っていた。中山美穂に書いた曲、薬師丸ひろ子に書いた曲、そういうのがズラッとあって。オリジナルは既発のシングル曲が中心で「時空(とき)の旅人」とかもそうだね。それを並べて。
ヴォーカル録音は87年の5月か6月あたりかな。POCKET MUSICのツアーが86年の秋に終わって、「REQUEST」のレコーディングが始まったのは、それから。歌入れの時は、昼の12時くらいから夕方の5時まで彼女がスタジオに入って、その時は僕が子供を見ていて、5時で交代する、そういう生活だった。リリースは当初7月末予定だったんだけども、あの頃はアイドル全盛でリリース・ラッシュだったから、一番リリースの少ないところを狙うってことで8月半ばになった。昔はニッパチって言って2月や8月に出しても絶対にヒットしない、って言われていたんだけどね。でもこの時は、8月が一番薄いから、そこにしようって逆転の発想で。それは結構狙っていた。
あの頃、彼女が人に書いていた曲は、先方への提出用のデモテープを、僕が全部作っていたんだよ。家の仕事場にFOSTEXの16チャンネル・レコーダーと、イギリス製ミキサー卓を買い込んで、小規模なマルチトラック・レコーディングができるようになっていた。値段は安いんだけど、一人使い用のよくできたシステムだった。そこにリバーブとかリミッターとか、一通り機材を導入して、ちょっとした自宅プライベート・スタジオになっていた。そこでシコシコ、彼女用のデモ・テープ作りをやった。そうやって、基本のアレンジを僕がやったものを、デモで渡してたので、作品を全て知っていた。だけど出来上がった先様の作品の多くに対して、僕は、特にオケの仕上がりにかなりの不満を持っていた。アルバムでセルフカヴァーをやるなら、そこんところを改善しようと考えた。ただストリングス・アレンジは、それまで僕がほとんど自分でやってきたんだけど、「駅」とか「けんかをやめて」みたいな曲は、自分のストリングスじゃ歯が立たないかなと思って。だから、前から狙っていた服部克久さんにお願いをしに行って、そこから服部先生との縁が始まる。それはもう、本当に素晴らしいストリングスだった。
演奏に関しても「VARIETY」と同じで、青山、伊藤のリズムセクションの曲と、ユカリ(上原裕)がドラムを叩いている曲と、あと「VARIETY」の時にはなかった、マシン・ミュージックの導入という新基軸もあって。なかなか思い出深い一枚なんだよ。北島健二がギターソロを弾いてくれたりとか、あれは素晴らしいソロだった。「元気を出して」の冒頭の佐藤博さんのキーボードの解釈とか。あの時代のレコーディング人材の豊かさとか、アイディアの豊富さっていうのが、よく出ているアルバムだと思う。
ヒットするかどうかは、彼女はシングル以外何にも活動していなかったからね。レコード店から来る最初のイニシャル(出荷枚数)も消極的だったし、バックオーダー(追加注文)もそこそこだった。
だけど、当時エピックのA&Rで鈴木雅之を手がけて、今はワーナーのCEOになっている小林(和之)さんが、ある日「”駅”は有線放送でかけたら売れるよ」って。それを宣伝会議にかけたんだけど、ムーンは有線のノウハウがないから無理だ、って乗り気じゃない。そこを「でも、やってみようよ」ってハッパをかけて。そしたら、有線で本当に1位になっちゃった。そこからバックオーダーが激増して。最終的にはミリオンセラーにはなるわ、当時のロングチャートインの記録も作るわで。あれは全て小林さんのおかげw
どこにヒットのきっかけがあるのか、本当にわからない。今や「駅」は竹内まりやの代表曲になっているから。それは小林さんのあの一言で決まったんだよね。なかなか面白い話でしょ。このアルバムはそういうエピソードがたくさんあるんだよ。
     
竹内まりやは出産後も活躍する女性アーティストたちの先鞭なんだ>
やっぱり「REQUEST」で目指したことは、セルフカヴァー集だから、彼女の作家としての特徴を出そうとしたこと。そのせいで「VARIETY」もサウンドの幅が広いけど、こっちも負けず劣らず。僕のアレンジャー/プロデューサーとしての立ち位置は変わらないけど、今回は本人が稼働しなくていいように、作業しなければいけなかったし。
でもね、前作での実績があったので、クオリティーに対しての自信はあった。録音の場所も自分たちのスタジオ、スマイル・ガレージができたから、時間がかけられるようになった。しかも、同じ場所でずっとやれるから、レコーディングの時間はかかったけど、そんなに苦ではないっていう。レコーディングのノウハウの部分でもPOCKET MUSICで七転八倒縛したおかげで、こっちはスムーズに作れた。あの人はいつもこっちが七転八倒をした後に出てきて、一番おいしいところ持っていく。だから、こっちが非常に整合性の高いアルバムになったのは、POCKET MUSICでの苦心のノウハウが、このアルバムに生きた。だから悩みはないw
曲順は彼女が決めた。ヴォーカルのディレクションは、あの頃は僕がやっていた。最近(2016年)はもう自分で一人でやっているけどね、ヴォーカル入れの時はしょうがないから、スタジオに子供を連れてきて、ピアノの下に寝かせておいて。アッコちゃん(矢野顕子)もよくそう言ってたっけ。でも、そんなふうにレコーディングやってたおかげで、まだ2歳の娘とずっと毎日一緒にいられた。コミュニケーションが取れる環境だったんだね。だから僕は自分の事を、昼はベビーシッター、夜はプロデューサーって言ってた。そういうこともあって、これはなかなか記憶に刻まれているアルバムなんだ。でも、やっぱりツキとかあるよね。だってあの時代にああいった育児状況がなかったら、レコーディングはごく普通にやってたでしょ。そしたら、このアルバムはこんなふうには、なっていなかったんじゃないか。つまり必要に迫られて、この内容になったんだ。仕方なくそうなったんだけど、結果的にはセルフ・カヴァーっていうのは、なかなか斬新なアイデアだったんだよね。今から考えると。
あの時代って、基本的に女性シンガーは結婚すると、現状維持も難しい、って言われてたから。ましてや出産して、現役を続けている人なんて、当時は絶無だったからね。もちろん活動してる人はいたけど、チャートにアルバムを送り込むなんて、不可能って言われていた。今はもう安室奈美恵さんとか、出産しても活躍してる人はたくさんいるけど、竹内まりやはそういう人たちの先鞭なんだよ。だから、そういう意味でのシンパシーは、今でも続いてるんだと思う。
でも、大変なんだよ。子育てしながらだから。あの状態でよく曲が書けるなと思うんだよね。夜中に何かごそごそ音を出しているし。子供を寝かせてから、やっているわけ。あの頃は子供と一緒に寝ないといけなかったから、子供が昼寝している、ちょっとの時間とか、そういうところで曲を作っていた。作家としての仕事はやっていたから、誰にいつまで書かなきゃいけないとか、そういう必要に迫られる仕事。
彼女は今でも、曲作りはミニ・キーボードでやってるんだよ、机の上で。あの頃はまだ子供が幼稚園に入る前だったけど、小中高と12年間、弁当を作ってたから。”シンガーソング専業主婦”だからね。男は男で、子供がいるとどうかっていうのはあるし、僕は僕で、作品にフィードバックしたりはするけれど、女の人はもうそれどころじゃないっていうね。だから、次の「QUIET LIFE」(1992年)になると、ちょっと落ち着いてきて、そういうものが出てくるけれど。まあでも、映画のタイアップとか、ドラマの主題歌にとても助けられたね。
だから何度も言うけど、意外とポップな人がいなかったんだよね。MORミュージックで、タイアップに適合するというのが。あの時代は特にアイドル全盛じゃない? 大人の人ってあまりいなかったから。
でも、いわゆる芸能界的見方としては、子持ちの主婦は、もう盛りを過ぎた、ってことになってたんだよ。それが、あの時代の普通の見方だったの。だからそれは、非常にユニークっていうか、「REQUEST」は本当にミリオンセラーまでいったからね。それには僕たちもびっくりした。だから、これは作家のアルバムでもあるんだけど、作家のアルバムが本家より売れるなんて、まずないことだから。それは非常に不思議なことなんだ。でもまぁプロデューサーの側から言わせてもらえば、作品の完成度は高いから。いつも申し上げているように、カヴァーはオリジナルとの喧嘩だからね。
彼女自身がカヴァーしたいって言った中でも「色・ホワイトブレンド」には苦労した。なかなか思った音にならなくて。今はもっと出来ないだろうな。3324デジタル(・レコーダー)であれをやるのは、本当に大変だった。難しい曲だね。
このアルバムに入っているカヴァー曲は、僕がほとんどデモテープを作っていたがゆえに、こだわりがあったんだよ。もともと僕が作ったデモに沿った形で、「駅」のイントロとか、「色・ホワイトブレンド」のベースのパッセージとか、どれもみんなデモテープのアレンジを基にしている。作った本人が歌うわけだから、それが一番合ってるんだよね。今でも持ってるけど、そのデモテープはなかなか良いんだよ。今YouTubeなんかに上がってる、宅録みたいな音がしているんだよねw
【第39回 了】