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ヒストリーオブ山下達郎 第40回 1987〜88年「RADIO DAYS」から「僕の中の少年」へ

<良いものができればいいじゃないですか、って言ったんだけど>
88年はマーチン(鈴木雅之)の2枚目のソロ・オリジナルアルバム「RADIO DAYS」発売(4月)だね。レコーディングとしては「REQUEST」の後だった。86年のツアー(Performance ’86)が10月で終わって、87年はツアーをせず、前半はまりや、後半はマーチンのこのアルバムを作っていた。自分のアルバム作りも並行していたかな。「GET BACK IN LOVE」(88年4月発売)はもともとマーチン用に書いた曲だからね。で、マーチンのレコーディングが予定よりも大幅に延びちゃって。なかなか曲が、うまく当てはまらなくてね。何曲も試して、ようやく3曲決定したところで、向こうのレコード会社から「もういい」って言われたw
初めに打ち合わせた段階では、アルバム片面、5曲提供することになってた。「おやすみロージー」と「Guilty」はすぐ上がったんだけど、その次がなかなか。マーチンのキャリアはR&Bというより、どちらかというと、ロックンロール寄りだったから。最初がドゥーワップだからね。
ドゥーワップというのは、50年代から60年代初期にかけてのR&Bなので、その先の60年代後期のサザンソウルとかそういうR&Bの声質とは違うんだ。そこが僕の予想していたのとは、少し違っていた。だからと言って、僕はオールディーズのロックンロールを書きたかったわけじゃなかったし。あの頃、86、7年にはR&Bも新しい流れに変わってきて、プリンスやジャネット・ジャクソン、そういうコンテンポラリーなものを睨んでやらなければ、ダメだろうと思ったんだけど、なかなか上手くハマらなくてね。
6、7曲くらい、ああだこうだと試して、ようやく3曲目の「Misty Mauve」が上がった頃に、レコード会社のプロデューサーに呼ばれて「(制作費が)いくらかかっているか、知っていますか?」って言われて。そこまでもう3ヶ月くらいかかってたんだけど。「別にいいものができればいいじゃないですか、レコードは一生残るんだから。良いものを長く売ればいいんだから」と言ったら、「それはあなたの考えでしょう。うちの会社はそういう方針じゃないんです」「おたくってつまらない会社ですね」ってw それで「もう結構です」って、結局、3曲だけで終わらされちゃった。
マーチンとの出会いはね。77年の秋の終わりに電話がかかってきて、スネークマンの主催者の桑原茂一くんから。彼とは仲が良かったんだけど、彼が「スネークマンショーのプロデュースでクリスマス・シングルを出すんだけど、パンクとドゥーワップで作る。ドゥーワップの良いグループがいるから、見て感想を聞かせてくれ」って頼まれたの。それで、六本木のフォノグラム・スタジオへ行ったら、そこにいたのがシャネルズだった。「I Saw Mommy Kissing Santa Claus(ママがサンタにキスをした)」を「So Much In Love」のアレンジでやっていた。まだみんな、現役のヤンキーでねw 東京では当時はヤンキーじゃなくて、ツッパリって言ってたけど。でもマーチンは音楽好きで、礼儀正しくて、愛想も良かった。その日、帰りは彼が、僕を練馬の家まで、車で送ってくれたんだけど、その時に乗ってたのが、紫色というか藤色のカマロで、窓ガラスどころかフロントガラスもないんだ。びっくりして、「窓がないけど……」「これ箱乗りするのにちょうどいいんすよ」ってw あれはすごく鮮烈に記憶してる。
その頃からシャネルズは新宿ルイードでライヴを始めてて、何度か見に行った。飛び入りで歌ったこともある。あの頃もドゥーワップが好きな人がいて、業界の人も何人かいたけど、そういう中では、彼らはプロにならないほうがいい、って共通認識で、お互いに手を出さないでおこうという、紳士協定を結んでいた。
そこに、後に所属することになる事務所の社長が唾をつけて、さらって行っちゃったw それで初っ端から「ランナウェイ」の大ヒットで。で、シャネルズがデビューした時は、僕もちょうどRIDE ON TIMEの頃で、イベントで一緒にもなったし、マーチンとはラッツ&スターになってからも、時々会ってたんだよね。曲の依頼とかそういうのもあったんだけど、あの時期は僕自身もツアーとアルバムの制作で忙しくて、なかなか機会がなかった。ある日サウンドシティで、自分のレコーディングをやっていたら、隣でマーチンの1枚目のソロアルバム「MOTHER OF PEARL」の録音をしていた。翌日マーチンに電話をかけて、2枚目は僕に曲書きと、プロデュースをやらしてくれって伝えた。
一方、彼の記憶の中でよく言う、僕との最初の出会いは、レコード屋のフェアー(スネークマンショーのクリスマス・シングルの1年前、神保町のレコード屋の中古盤セール)でだね。その時、僕は彼をまだ認知していなかった。僕がゴム引き軍手を使っていたという。レコードは滑りやすいので、ゴム引き軍手を使うと、早く検索できる。 レコードの段ボール箱は、アルバムは後ろから、シングルは前から見ていくのが基本なんだけど、アルバムの場合はゴム引き軍手があれば、両手で2箱同時にいける。これで誰にも負けないw そうやって僕がどんどん持っていっちゃうので、マーチンが焦ってね。で、マーチンが狙ってたキャデラックスを僕が先に取っちゃったんだけど、既に持っていたものなので、僕は箱に戻した。それを彼が捕まえて買えて喜んだ、という話。
ゴム付き軍手の話は本当の話ですよ。都市伝説じゃありませんw (大学休学時に?)運送屋のバイトでゴム引き軍手を使ってて。運んでたのが紙だったのね。1ロール25キロを100本、なんていう過剰積載で、2トン車で運んでたんだけど、素手だと手を切るし、紙は滑るからね。それでこれ使えるなと思ってレコード屋のバーゲンでも試してみたら、抜群だったw 今もバーゲン行くとなったら、絶対ゴム引き軍手。速さは誰にも負けない。
    
<心残りもあったけど、完成した3曲にはどれも渾身の思いを込めている>
POCKET MUSICやREQUESTの経験を経ても、マーチンのアルバム制作は難産だった。POCKET MUSICの頃から打ち込みを一生懸命やるようになったけれど、打ち込みで曲を作ると、それまでにない空気感の曲ができる。それを生かして、例えば「おやすみロージー」はドゥーワップだというのに、全部打ち込みで、一人多重で作っている。スネアドラムだけは生演奏だけど、キックはマシン、ウッドベースも打ち込み。そういうコンピューターと、生の演奏をミックスする形で、逆に新鮮さが出た。同様のやり方で、よりコンテンポラリーなサウンドを作ろうと(マーチンの現場でも)トライしてみたんだけど、なかなか感じが、彼と合わなかった。
僕の個人的なマーチンに対するイメージっていうのがあって、そこに近づけようとするんだけど、なかなか近づかない。曲が近づいても、今度は声がフィットしない。歌詞にも違和感があって、ウダウダとやっているうちに会社にストップをかけられた。相手のレコード会社のスタッフには、僕のそういう思いは伝わらなかった。
原因は他にも色々とあるけど、やりたいことにコンピューターの性能がついていかなかったというのも大きい。マシン・パワーがなかったんだね。今(2017年)のコンピューターのクロック・スピードは3.5ギガヘルツとかまでなっているけど、当時のPC-8801は確か4メガ程度だったからね。
その後のNECPC-9801シリーズは、マシンパワーが上がって、10メガくらいまで向上したけど、でも、その程度だった。まだフロッピーディスクも、5インチが3.5インチになる前で。容量も、700キロバイトが1メガになっただけで大騒ぎになるくらい。ハードディスクはあるにはあったんだけど、すごく高くてン十万はしてね。それも容量が10メガバイト程度でしょう。今は4テラ、5テラが普通だもんね。ディスプレイだって1台30万円くらい。
そういうふうに、テクノロジーが高価な上に、まだまだ不十分で。レコーダーもまだSONY PCM-3348(48chデジタル・テープレコーダー)が出る前で、3324(24ch)だった頃だね。POCKET MUSICがめちゃくちゃ難儀してて、その延長だったから、1曲あげるのに、ものすごく時間がかかって。詞だけ、曲だけを書くのは楽なんだけど、録音するともうダメ。アレンジが全然、生かせない。そういう環境だった。
それと(音楽的には)ニューウェーブがもの凄く全盛だったから、ゲート・リバーブとアンビエンスが席巻していた。何が嫌いって、アンビエンスとゲート・リバーブ。ゲート・リバーブは自慢じゃないけど、自分の手掛けた作品では、1曲も使ったことがない。あれは僕の好きなグルーヴを殺すんだ。
「Sparkle」とか、ああいう曲をゲート・リバーブでやってもあのノリは絶対に出ない。レキシコンとかAMSとか、新しいデジタル・リバーブも出てきたんだけど、響きが暗くて嫌いだった。何でもかんでもデジタル化し始めた時だから。そんな中で、ソニーのデジタル・リバーブDRE-2000は唯一の救いで。今でも使っているけど、これも、もう作られていないから、壊れたり終わり。
まあ、マーチンのレコーディングはそういう具合に、心残りもあったけど、完成した3曲には、どれも渾身の思いを込めた。あともう2曲できてたらと悔やまれるよ。
まりやの「REQUEST」にも、とにかく時間をかけたんだけど、「駅」が有線でもの凄く反響があったのがきっかけで、注文が急増した。そのおかげで半年くらいかけて、ミリオンセラーを達成して、その後もロングセラーになった。それに気を良くして、マーチンの次は「僕の中の少年」のレコーディングに入って行ったんだ。
ツアーの間にレコーディングをやる、というのが、ずっと何年も続いていたけど、ようやくこの辺りで一段落した。86年のツアーから88年の「僕の中の少年」のツアーまで、1年くらい空いているから。この頃にはもう、スタジオ用にシンセやコンピューターなどの機材をひと揃い持てるようになってたから、自分一人で打ち込んで、シンセの音も自分一人で作るという具合に、レコーディングの段取りが大きく変わった。
80年代の末に、ローランド音源モジュールD-110に出会って、これがなかなか優れものだった。それを主役にして、自分一人だけで「僕の中の少年」(88年)、「ARTISAN」(91年)、まりやの「QUIET LIFE」(92年)までやり続けた。あの時代の音は、D-110にかなり依存している。「僕の中の少年」の「The Girl In White」は、ほとんどD-110で組み立てたもので、あの時代はD-110にだいぶ助けられた。
シンセサイザーの楽器としての能力も、MIDIのノウハウも少しずつ向上してきた時代。シンセやMIDIの扱い方にも慣れてきて、トライ&エラーでレコーディングしてた。アナログ・シンセは、機種によって発音のタイミングが違うので、そこを揃えてやらないといけない。それをオフセットというんだけど、今は波形を見て視覚的に合わせることも可能だけど、昔はそれができなかったから、方法を色々と考えなければならなかった。そういう無駄な時間が多かった。
シーケンサーは80年代前期はローランドのMC-4で、NEC PC-8801用に開発されたカモン・ミュージックのMCPというソフトが出たおかげで、「僕の中の少年」の頃には、打ち込み音楽をかなり突き詰められた。その後、PC-9801へとハードは替わったけど、ソフトもハードもまだまだパワーが足らない時代で。もっともMacだって同じで、パフォーマーなんかのMac専用シーケンスソフトだって、最初は危なっかしかったからね。
フェアライトについては、そもそも使用できるような財力が無かったw あの当時はシンセを一通り揃えるにしても(プロフィット)T8が300ン十万で、オーバーハイムマトリックスが200ン十万。そういう基本的な機材のセットを揃えるだけで、1千万近くかかるのに、シンクラヴィア、フェアライトなんて高くてとても買えない。サンプラーE-MU(イーミュレーター)が精一杯だった。
プログラミングについては、僕はMC-4から始めたから、カモンはやりやすかった。キーボード・プレーヤーは、みんなパフォーマーでいいわけですよ。リアルタイム入力ができるから。だけど、僕はキーボード・プレーヤーではないから、数値打ち込み派になっていく。譜面には起こさないね。頭の中で数字を考える。だからエンジニアは大変だったよね。もっともコーラスなんて、昔から譜面は書かないからね。今でも書かない。
あの頃は、今、僕のメイン・エンジニアをやってくいれている中村辰也くんがアシスタントで。彼はすごく勘が良くて、「さっきやったところの、もうちょっと前」っていう指示でわかる。アシスタントはそれくらいじゃないと務まらない。締め切りがタイトな時はなおさら。当時はアナログのテープレコーダーなので、プロツールスみたいに、やり直しが効かない。間違って消したら、一巻の終わりで、徹夜続きで間違って消してしまった、なんてことが昔はしばしばあった。どんなベテランでも、一度や二度はそういうことがあった。
でも、ともかく、あのハードウェアの転換期に七転八倒したおかげで、機材の知識やシンセのノウハウ、コンピューターの打ち込みといった、色々なことに習熟することができた。それは、その後の曲作りや、アレンジ作業に計り知れないプラスをもたらした。曲と詞だけでやっていたら、今頃は全くお手上げだったろうね。生楽器の世界ですら、機材の変化から逃れることができない。例えばデジタル・クロックの問題や、タイム・コードの問題とか、いろいろあって、あの時、オーディオから何から何まで、デジタル機器への対処をせざるをえなくて、必死だった。あの時代の3、4年は、本当に試行錯誤の連続で、でもそのおかげで、あとの時代を何とか乗り切って来れた。
    
<打ち込みには聴こえない、リアルな”揺らぎ”を出したかった>
当時はデジタルの勃興期というか、非常に混沌とした時代でね。あの時代のレコーディング作品は、あまり歴史に残ってない気がする。デジタル・テープレコーダーもまだ標準器が確定していなかったから、スタジオによって違っていて。それ以上に、問題は楽器の方で、特にドラムマシンLINNとか、オーバーハイムDMXとか、この時期の初期のドラムマシンは、本当に音がチープだったから、それゆえに、今はもう鑑賞に耐えないものが多い。
ワムの「LAST CHRISTMAS」(1984年)だって、今聴くと、ドラムの音がチープだもの。僕の場合、運が良かったのはPOCKET MUSICの時代は、ドラムとベースは生だったこと。コンピューターはキーボード演奏のために使っていたから。ドラムマシンは音がペラペラで、使うときには、音を徹底的にいじらざるを得なかった。
録音に関して言えば、デジタルの世界はよく言えば音がクリア、悪く言うと聞こえすぎで、隙間が見えすぎる。それは近年、さらに顕著で、プロツールスだと、どんなに音を埋めても、なかなか埋まらない。アコースティック・ギターもそのままではスカスカになってしまうので、最近はブズーキとか、ノイズの多い民族音楽を足している。それを一台入れるだけで、昔の12弦の厚みが出てくるんだよ。賑やかなものはそれでいいし、おとなしいものは8弦ウクレレとかあって、まぁウクレレの12弦版だね。それを使うと、音の隙間がうまく埋まるんだ。最近だと「CHEER UP! THE SUMMER」(2017年)なんかは、音の壁を作らなきゃいけないので、そういう工夫を一生懸命考えるわけ。
オペレーターについては、昔は頼んだこともある。「スプリンクラー」なんか、若いオペレーターを使って。なかなか優秀で、BIG WAVEなんかも頼んでたけど、行方不明になっちゃった。その後、何人かトライしたけど、あの時代のシンセ屋さんはみんなトンガってる音楽が好きだったから、音色がミドル・オブ・ザ・ロード(MOR)に合わないんだよね。
僕はコンピューターを使っても、自分がそれまでやってきたのと同じ空気感を出したかったの。そんなふうに考えてる僕みたいのは、ごく少数派で、そのおかげでかなり苦労した。コンピューターを使っても、打ち込みには聴こえないリアルな”揺らぎ”なんかを出したかったんだ。シンセサイザー音響工学や音響理論に基づいて考案された楽器で、生楽器の持つ音響特性を、機械でシュミレーションすることを意図したものだから、例えばマリンバとか、ビブラフォンとか、ピッチの良くない楽器は、シンセで再現した方が、良い場合も多い。
そういうメリットもあったから、若い時からシンセを使ってきたし、勉強もしたよ。だけどそれは、新しいというだけで飛びついて、なんでもデジタルドラムでやるとか、時代の音色だというだけの、例えばヴァン・ヘイレンの「JUMP」みたいなアプローチではなくて、以前作っていたようなサウンドを、コンピューターとシンセを使ってやれないか、というのがPOCKET MUSICからARTISANまでの、基本的な流れだったの。
「僕の中の少年」でも同様のアプローチで、例えば1曲目の「新(ネオ)・東京ラプソディー」は、イントロから始まるシンセは、コンピューターによるデータ演奏で、クリックを聴きながら、ドラムとベースとギターが一緒に演奏してる。そういうテクノとマニュアルの融合がどれくらいできるかという、試行錯誤だった。それでようやくARTISANの頃には、望むものがある程度出せるようになった。
そういう試行錯誤は僕だけじゃなくて、各方面にあったと思う。例えば、YMOはテクノの帝王みたいに言われてるけど、実はドラムは生で、いかにドラムがシーケンサーに合わせられるか、っていう能力を(高橋)幸宏さんなんかは競っていたわけ。できそうで、実は誰にもできることではなくて、60年代的な考え方のドラマーには、あれはなかなかできない。幸宏さんだからできた。だからYMOも、実はかなりユニークなんだよ。僕なんかとは、音楽的に全く逆のアプローチだったけど。
ともかく何度も言うように、シンセとシーケンサーとコンピューターからは逃げられないから、自分が取り入れるならどうしようかと考えた。そのトライをPOCKET MUSICで始めようとしたら、ついでにデジタル・レコーディングになっちゃって。それは予想外だった。
どっちかひとつだったら、まだやりようがあっただろうけど、変化がいくつも同時にやってきた。一番困ったのは、レコーディングのシステムがデジタル化したことの方で、音楽的なシンセやコンピューター・ミュージックについては、むしろ利点もたくさんあった。それまでの作曲の仕方と、違うやり方のおかげで、今までになかったタイプの曲が書けるようになったり。「蒼氓(そうぼう)」なんかはそこからの産物だね。ああいったパターン・ミュージックは、昔だったら青山純伊藤広規とで練習スタジオに入って、シンセのF♯の音にガムテープを貼って通奏音を出しながら、パターンを考えたり。「LOVE TALKIN’」なんかはそうやって作ったんだけど。それが家で一人でできるってことで「蒼氓」なんかも、かなりの部分まで、家で追い込めるようになった。全員の一発録りだったら、あの緩急は作れなかっただろうね。そこいら辺から、ようやく少し道が見えてきた。
「僕の中の少年」がリリースされた1988年は、CDが生産量でレコードを上回った年だったけれども、自分にとっては、アナログの時代がまだ圧倒的に長かったから、例えば曲順を決めるときは、あくまでアナログ・レコード(のやり方)が優先だった。前作POCKET MUSICの場合は、基本的に5曲目までがA面で、6曲目からがB面ということになる。「僕の中の少年」も同様で、「踊ろよ、フィッシュ」までがA面、「ルミネッセンス」からがB面。発売がCDオンリーになったのは1991年のARTISANからで、それでも5曲目の「Tokyo’s A Lonely Town」までをA面と想定している。
それまで20年間ずっとそうだったんだから、そう簡単には変えられない。アナログ盤のA面からB面へという精神的な切り替えは大事だったんだけど、メディアがCDになって、その価値が失われてしまった。片面18分から22分というのは人間の集中力を保つ、ベストな長さで、それでA面、B面がある。人間の集中力って45分だと言われていて、アナログレコードは音楽を聴くのにドンピシャなメディアだから、あれだけ興隆を保ったわけなんだよね。たとえばB面1曲目には、それまでと変わった曲調を入れる、そういう価値観も今や化石だけどねw
   
<コンピューターで自分が出したいフレーズやパターンを実現できるようになった>
1985年にホンダの新車インテグラのCM用に「風の回廊(コリドー)」を書いたんだけど、車がマイナーチェンジした86年に「僕の中の少年」を書いた。それをアルバムのタイトルにしたんだ。CM用に作った曲はフック(曲のサビ)しかなかったんで、それをフルサイズに膨らまして。歌詞は、84年に子供が生まれた際に思いついた詩のテーマから起こした。あのトラックは、完全に一人きりで仕上げたもので、ギター以外は完全に全部打ち込み。エレキギターだけ人力で、後はキーボード、ドラム、ベースと全部MIDIデータで演奏してる。
コーダ部分でのドラム・ロールも全部打ち込み。あの当時のドラムマシンはドラム・ロールができなかったんだよ。ドラムマシンのスネアは、一つの同じ音しかないから、早く演奏するとダダダダーって、今のヒップホップみたいになってしまう。だから叩く分だけ、全部別々にサンプリングしなくちゃいけない。スネアを6段階くらいに強、弱で分けて、ピアノからフォルテを撮って。それを右手2種類と左手2種類の4種類でまた6つ。だから24種類か。当時のサンプリング・マシンは、望む音を作るのに相当な時間がかかった。曲を書いている時間より、アレンジと打ち込みに費やす時間の方がはるかにかかっている。歌入れなんて1日で終わるからねw
その上、当時はドラムの音を構築するにも、生ドラムと違って、キック、スネア、ハイハット、タムという具合に、一つ一つ別々に録っていかなきゃならない。今はそれらをみんな同時に鳴らして、普通の生ドラムのように録れる時代になったけど、あの頃はまだ別々で、しかも発音のタイミングがそれぞれ違うので、それを合わせるまで、また時間がかかった。1日中レコーディングして、家に帰ってから聴くと、テンポが遅い。それで翌日、全部消してもう一度。そしたら今度は速くて、また全部クリアにしてもう一度。毎日そんなのばっかりw
コンピューターで試せるから、逆に選択の余地があって、そうなってしまう。昔だったらどんなにドラムのチューニングが悪くても、それでやるしかないし、我慢するしかなかった。それがコンピューターで自分が出したいフレーズやパターンを、スタジオ・ミュージシャンに頭を下げてお願いしなくても、実現できるようになった。それもコンピューター・ミュージックの一つのメリットで、より内向的な音楽を作る上で、かなり役に立った。
ちょっと話がそれるけど、昔から思ってることを、今ふと思い出した。大滝さんはどうしてコンピューター・ミュージックに手を出さなかったのかなって。80年代にはデジタル・レコーディングもほとんど未導入だった。僕は、彼に何度となくパフォーマーでもカモンでも何でもいいから、シーケンサーを使えば「NIAGARA MOON」(1975年)でドラマーに要求したトリッキーなパターンも、機械に打ち込んで一発で可能なのに、って言ったんだけど、絶対に手を出さなかった。何故かわからないけれど。デジタルの音色が好きじゃなかったのかもね。「EACH TIME」(1984年)で迷ったのは、曲の問題もあるだろうけど、時代のデジタルへの変化もあったからだよね。
でも僕が、あの時”生”に固執していたら、おそらく90年代に入る頃は、技術的にも音楽的にも行き詰まっていたと思うよ。あの頃苦労したおかげで、基本的なノウハウを理解することができたから。今の時代、もうデータの打ち込みは、キーボードで手弾きで演奏したデータを細かく修正して作る、というのが、世の中のほとんどの作業形態だけど、僕は今でも、数字入力のままなんだよ。家で作業するには、それで充分なんだ。今のソフトは機能が多すぎて、面倒くさい。単純に家でデモを作るだけなら、そんなに多くの機能はいらない。ドラム、生ベースかシンセベース、後はエレピとギター、そんなもんで、もう十分に家での作業はできるんだから。後は家で作ったMIDIデータをネットでスタジオに送って、本番の作業はスタジオでやればいい。
今はレコーディングの時間は短くなったようには思う。少なくともPOCKET MUSICや「僕の中の少年」の時代みたいに、朝の4時、5時なんて事はもう全然ない。体がもたないもの。その意味では、昔よりは随分改善していると言える。あの時代はシンセでも一つ一つ別々に録音しなければならなかったけど、今は全部一緒に音が出せるし、極端な話、録音しなくても音が聴けるようになった。すべてはコンピューターのマシン・パワーが向上したおかげでね。プロツールスを使って、シンセやサンプリング・マシンといった機材を10台でも20台でも同時に鳴らせるから。生楽器は録音しておいて、一緒に馴らせば、レコードと同じミックスが、録音するより良い音で聴けたりする。実際、録音しないで最後まで作業する、という人たちもいるみたいだし。機材の発展が時間を短縮してくれる。昔と違って、テンポだって自由に調整できる。全部録り直しなんて事は、もうしなくていい時代になっていた。
【第40回 了】