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ヒストリーオブ山下達郎 外伝4 村松邦男インタビュー

<並木の家に遊びに行ったら、たまたま山下が居たんだ>

山下と初めて会ったのは高校時代。

もともとは僕が高校でバンドをやっていて、一年後輩に並木さんが居たの。並木さんは当時、文京高校の学生運動のリーダーをやりつつ、高田中学時代からの仲間の山下なんかとバンドを組んでいた。僕はそのことを最初知らなくてね。

僕らのバンドも池袋のヤマハが主催するWISに入ってて。そしたら「あっ、後輩が居る」って、それが並木だったんだけど。彼らのバンドがシニアで、僕らがジュニアハイ。エース、シニアハイ、シニア、ジュニアハイ、ジュニアの五段階ランクで。で、チキショーと思ってw  それをきっかけに並木と話すようになったの。

高校を卒業する頃に、それまでは学校で練習してたんだけど、卒業すると練習場所無くなっちゃうじゃない。あの頃って今みたいにリハスタがいっぱいある時代じゃないから。

並木にどこで練習してるか聞いたら家でやってるって。「えっ!」と。「家はなんなの?」「いや千坪くらい敷地があって」「ちょっと見せて」って、僕一人で遊びに行ったの。その時に山下がいて「あ、こんにちわ」って言うのが、一番最初の出会い。山下はたまたま遊びに来てたんだろうね。それが僕が高校3年だから、山下は高2じゃないかな。

そのあとうちのバンドで1回行って、まだ別宅が建っていなくて、蔵でやっていた時代だったけど、バンドでドカーンとやっている時にも山下が居たかな。それは覚えていない。それが高校卒業した年の夏くらい。そんな感じで、何か喋ったのかは覚えてないんだ。

自分のバンド名も覚えてないのよw それで僕が専門学校を卒業した年、だから‘72年の夏より前だったのかな、並木から電話かかってきて、「あの時バンドで使っていたエコーマシーンまだ持っていますか?」って言うの。「持っているよ、どうしたの?」「これこれこういうわけで自主制作のレコード作ってます」と。

僕はその頃音楽から遠ざかって、ストレスが溜まっていた。だから「貸してやれないこともないけど、覗きにいかせて」って、並木の家に2年ぶり位に行ったの。そしたら前に蔵だったところが、でっかい2階建ての家になっていて。それから毎週休みのたびに行ってたの。

山下の印象は口数が少ないというか、そんなにアクティブな感じはしなかったなぁ。あんまり印象は強くなかったよ。

 

<山下の歌でガーンとくると、これはたまらないなと思ったよ>

あの時代は一番みんなが目標失っていた頃じゃないかな。ちょうど高校3年の頃に学校がロックアウトになっちゃったから、夏休みはちょい後かな。

で、大学へ行くって言う意欲がガラガラと崩れちゃって、どうしていいか、全然わかんなかったのよね。

僕自身それまで割とノンポリだったから、楽器を買ったお金を返済するためのバイトをして。まぁ昼間は一応学校へ行く。成績はそんなに悪くはないんだけど、別に大学へ行くんだって言う意欲もなくって。目的がなかったよね。

でもね。今の高校生だと学校でバンドでやってるヤツは?って言うと、わーっと手を挙げるじゃない。あの頃うちの高校の同学年、50人で9クラス、それでバンドをやってるのって、僕らともう一つだけだった。

だから音楽をやるってのは結構特殊なことだったんだよ、当時は。こういう音楽やっていてお金を稼げるわけないと思ってたから、プロ志向はなかった。かといって、仕事をやりながら傍でバンドをやるとかって気もなかったから(バンドを)止めるつもりでいたんだと思う。

高校3年の時に学校がロックアウトになっていたでしょ。それで受験への意識がなくなってしまったの。ロックアウトは11月位に解けたとけど、正月を迎えて、さぁどうしようか、今更受験もないだろうなと思って、浪人するのもなんだしなぁって言う感じで、すぐに就職するつもりはさすがになかったから、なんとなくメガネ関係の技術の学校へ行ったの。

そんな時だから、並木の家は天国ですよ。だって、とにかく敷地がめちゃくちゃ広いところに、新築のテラスハウスみたいのがどーんとあって。で、横に階段があって、上るとでっかいダイニングキッチンがあるのね。別に部屋が2つあって、そこにみんな集まってやってるわけじゃない。信じられないというか、すごかった。アメリカ映画みたいというか。あの環境がなかったら、難しかっただろうね。

それで休みの水曜日か木曜日に毎週行くと誰かしら居て、泊まっちゃうわけよ。で、音出ししたりして、それで一時期、僕のバンドの仲間も呼んだの。ドラムもやってたやつ呼んで、いろんなセッションやって。10月とか11月位に学祭2つ出たのかな、混成で。意図的なものじゃなく、なんとなくね。

Add Some〜のイラストを描いた金子辰也の母校と、もう一つ美術学校だと思うけど、そこでやったのよ。その時にクイックシルバーとか♪サマー・イン・ザ・シティとかやったんだけど、山下の歌でガーンって出ると、これたまんないなぁって。やっぱり「この歌はすごい」と思って。それまでハードロックとかブルース系のロックとか、いくらギターでフレーズ弾いても、歌がそれにちっともなってなかったりしたからね。

僕のギターのスタイルはクラプトンの初期とか。ブルース・ブレイカーズの卒業生がいるじゃない、ジミーペイジとか。あれよりはミック・テイラーとかピーター・グリーンとか、ああいうホワイトブルースの、そんなにいっぱい弾かない人かな。

で、その学祭はツイン・リードだったわけ、鰐川と。鰐川はめちゃくちゃ速弾きする人なのよ、ディープパープルの♪ハイウェイスターとかね、あっち系。

Add Some〜はレコーディングしてる時から聴いてたけど、あれに入ってる時代の音楽って、ほとんど知らなかったの。ビーチボーイズは知っていても、いわゆる大ヒット曲ってやってないじゃない。だからあんまり知らなくって「へ〜っ」て言う感じだった。

 

<長崎でライブをやるんだもうこれはプロだって思った>

四谷のディスク・チャートに行ったのは2回か3回かな。’72年に1回か2回行って、73年の正月に新年会みたいなのをやって、あとは覚えてない。行ってるとは思うけど。後はもうシュガーベイブを作った後になっちゃうのかな。セッションはしてないと思うな。見学。何か運んだんだよ、確かアンプ。でもその辺は定かではない。

向こうもまだアマチュアなんだけど、そのセッションはこっちから見ると、なんかもうプロっぽいんだよね。憧れみたいなのがあった。本当は並木の家の方が恵まれているんだけど、でもなんか夜の世界に、営業が終わった後のお店でっていうのが、プロっぽかったよね。

鰐川は一緒に行ったと思う。並木は来てないと思うし、武川も来てないと思うんだよね。で、向こうにいたのは長門くんと小宮くん、野口明彦、ター坊とあと徳ちゃん(徳武弘文)もいたと思う。でも、長門くんとも最近その辺の話をするんだけど、結構みんなお互いに記憶が違うのが面白いw このあいだ野口と話した時も全然違ってたもん。

ター坊はその時に多分挨拶をしているはずなんだけど、あんまり印象に残ってないのよ。それで、73年の正月か2月か忘れたけど(山下から)「今度女性ボーカルのバックバンド作って、それで野音に出る。ついては一緒にやらないか」って言われた。で、それがター坊なんだけど。「いいよ、やろう」って言って。その年、73年4月に僕は会社を辞めちゃったんだよね。

それで大貫さんと鰐川も入れて、野口はまだ来てないけど、実際に4人で音出ししたのはその後くらいかな、3月か4月。野口が入ったのが5月位だね。

その後、しばらく何もないわけ。それでほとぼりが冷めて、1、2ヶ月経ってそれで大貫さんが成増に来て、音出ししたのよ。キャロル・キングのカバーとかやったんじゃないかな。いつの間にかバックバンドというのはなくて。その辺は曖昧です。

いや、音楽的に自分でも後で考えると不思議なんだけど、全然合わないわけよ。でも音楽が違おうが何しようが、誰かと一緒にバンドをやることの方が大事だった。音楽のスタイルも変えられるみたいなところがあって、バンドができる、って言うのが嬉しくて。それで多分OKしたんだと思う。カヴァーなり新曲なり書いてきて、やったことのない事ばかりで戸惑ったし。まず、それまでずっとディストーションかかったやつばっかりだったから、それなしで。それでコード譜を見ると、知らない数字ばっかりが書かれていて「なにこれ」みたいな。だから、いちから出直しで、将来どうなるとか、そういうことを考える余裕は無く。1曲1曲仕上げて3分半なり演奏できることの方が大事だった。それ演奏できないと、次にいけないわけだし。で、そんなことを2ヶ月、3ヶ月と続けていって、唐突に「長崎でライブをやる」って話を聞かされたときに「長崎でライブ、もうこれはプロなんだ」って思った。だって、ギャラはその時出た覚えは無いけど、旅費は出て、もうこれはプロだっていう。その2年前の高校卒業した時点には、音楽でプロになれるわけないと思っていた人が、突然ころっと。若気の至りというのはね〜。

 

<力量としてはめちゃくちゃ下手だった。でも特徴はあったと思う>

(73年8月の)長崎の後、新宿のラ・セーヌでやって、学園祭を3つぐらいやって(バンドの)ソロコンサートをやるまでの間は、あんまりスタイルとかそういう意識なかったっていうか。ま、山下がオリジナルを書いてくるのと、大貫さんが曲を書いてくるのと、後はカヴァーがあって、それをバンドでこなす事だけが頭の中にあって。

このシュガー・ベイブでやっている音楽っていうのは世の中でどういう位置づけか、他のプロや同時期に出て来た人たちの音楽と比べてどうか、っていうのは、全く考えなかった。他の状況を知らなかったのかな。‘74年の夏くらいから、いろんなところで出るようになって、対バンでいろんな演奏を見るようになって、うちらはこう、ってある程度意識が出てくるけど、73年の間はまだ学生サークルみたいなノリだったと思うんだよね。

まぁ、はっぴいえんど解散コンサート、9月(21日)に出てるじゃない? その近辺にちょっとだけココナツ・バンクなんかと総合リハがあって、そういうのを見たけど、それはそれで比べようがないんだよね、意識がそこに行かない。うまいなぁとは思うけど。(9.21で)文京公会堂になんか出ちゃっていいのかしら、っていう。それと(鈴木)茂のギターってカッコいいわ、と思って。ディストーションがかかってないけど、充分ロックできて、しかもそれまでシュガー・ベイブって下手っぴだったから、インプロビゼーション的なことって何もできない、決まったフレーズしかできないんだけど、茂を見てたら闊達(かったつ)として弾いてるじゃない。感動したね。こういうのありなんだ、って。

フレージングなんかは、初期は山下がイントロとかエンディングとか決めていたけど、レコーディングの頃くらいになってくると、結構自由なところがあったね。

野口はフレーズの事よりドラマーとしてのキャリアがないから、一から訓練しなくちゃいけなかったけど、僕と鰐川に関しては、例えば♪SHOWだと、イントロは指定な訳だけど、あとはコード譜が書いてあって、あとは何も言わない、だめな時は言うw

曲はこのバンドに入る前に作った事はあったけど、それだけの話で。日本語でロックをやれると思っていなかったから。はっぴいえんど聴いてもあんまり好きじゃなかったのね。だからシュガー・ベイブをやるときに、山下が日本語で作ってきたときにちょっと「へーっ」とか思ってたけど。

多分、半年くらいバンドをやっていて違和感がなくなってきた。慣れたら僕も何か出してみたいなとは思ったんだろうね。作曲は催促された記憶は無いからね。積極的に良いと思ってくれたかどうかわからないけど、一応自分で作ってきた曲は自分で歌うわけじゃない、みんなね。その時に積極的にこういうアレンジとかって言う話もないし、自分で作ってきたやつを自分でアレンジしなくちゃいけないんだけど、やっぱりジョージ・ハリスンみたいなものだよね。

作曲はシュガー・ベイブでは2曲だね。最初に♪うたたねを書いて。レコーディングするときになんかいまいちだねって話になって、もう1曲、♪ためいきばかり、を書いたんだよね。

選曲決定権というか、山下のワンマンはワンマンなんだけど、誰もそれに対して反論を述べない。山下はものすごく色々アクティブに考えていたとは思うんだけど、色々なことを考えた結果、こうやったほうがいいんじゃないって言うことを途中経過抜きにして、僕らに言う。で、僕らは何も考えてないから、あーそうなんだって。

全然渋々ではないよ。ワンマンだってことも、感じたことはないからね。別に言いたい事は言うし。まぁ選曲については、20曲もあってその中から10曲と言う話じゃないから。12、3曲の中から10曲選ぶって話でしょ。

ステージをやりながら、演奏して変わっていくっていうのはありますよ、やっぱり。対バンの人たちを見るじゃない? そうすると自分たちがどれくらい下手なのかとか。力量としてはめちゃくちゃ下手だった。でも、やっていることが全然違う音楽だったから、特徴はあったと思うけど。対バンしてきて、僕たちより下手だったバンドはいないだろうって感じだったからw

センチメンタル・シティ・ロマンスと知り合ったのもそんな最中で。彼らはかっこよかったよ、やっぱり。見てても全然うまいし。メンバー同士も仲が良かったから、泊まりに行ったりとか。(中野)督夫も一度、ウチの実家に泊まっているのかな。

野口が’75年にシュガー・ベイブを辞めることになって、センチに行くじゃない? で、行った後、大変だったらしい。督夫が野口に「あのさあ、♪SHOWってどうやってやるの?」とか。「あれ。どうなってるの」とかw センチ側にはシュガー・ベイブがものすごくインパクトが有ったんだって。

コーラスの仕事については、はっぴいえんどの解散コンサートは初めてづくしだから関係ないし、その後の「ジーガム」のCMも、続きと言ったら続きだから。

沢チエさんとか(亀淵)友香さんとか、ユーミンとか、この辺からザッと出てくるじゃない? コーラスが単体で一つの単品料理というか、アラカルトの一品として売り物になるっていうことが認められたんだろうね、この頃。

そのおかげで僕たちがいろんなレコーディングに行って、コーラスを入れて、それをやっている間は他人のを聞くわけだから、すごい勉強になった。

亀淵友香さんのライブって、その話を去年何かで読んで、コーラスをやったのは覚えてるんだけど、「(その場で)突然呼ばれてできるわけない」と思ってたんだけど。レコーディングやってたから、その譜面使ってたわけね、それで納得した。その時って矢野誠さんだよね。

沢チエさんの♪マッカーサー・パークはすごくよく覚えているw 大変だったもん。あの時初めてメロトロンの現物を見て「すごい」と思ったんだけど、本番で(メロトロンの)テープがおかしくなっちゃって、トラぶったりね

 

<シュガーは第二期メンバー時代の方がよく覚えている>

SONGSのレコーディング。初めてだったから大変と言えば大変、楽しいといえば楽しいし。あとから考えると結構スムーズに進んだと思うんだけど。

それまで全然経験のない人たちですから。

レコーディングに入る前に1ヶ月間くらいかな、新宿の御スタでリハーサルをやったけど、ほぼ毎日、お昼過ぎから始まって11時くらいまでリハやって、御スタから新宿駅まで歩いていたから。あの辺、お姉様とか、お姉様風のお兄さんとかすごく多くて、こっちはまだ若かったから、通るのが怖かった。

で、レコーディング入って2日後かな、野口が抜けることになったのは。反対とは誰も言わないんだけど、結構ショックだったと思うんだよね。で、別にリハもしてないのに、ユカリ(上原裕)が来て出来ちゃうと、もっとショックで。こっちは一生懸命リハやっているのに。

やっぱり初期のオリジナルメンバーの間っていうのは、どうしても学生サークル意識があったよね。で、ユカリと寺尾(次郎)が入ってプロ意識というか、アンダーグラウンドの匂いというか、大阪の文化というのも有るかもしれないけれど。

シュガー・ベイブの解散も結構唐突なのよ。’75年の秋口ぐらいから、この辺がめちゃくちゃ忙しかったんだけど、ナイアガラと切れたっていう話があるじゃない。

だけど大滝さんとしてはナイアガラの第2弾を出さなくちゃいけないんで、トライアングルにかかるわけだよね。

その頃から山下のソロの動きが濃くなっていったんですよ。実際にバンド内部ではっきりしたのは、’76年1月の玉川区民会館のライブの1週間前くらいに、新宿の喫茶店でメンバーが集まって打ち合わせした時に、実はこうこうで解散という通達があった。理由はユカリがシュガー・ベイブを抜けたいという。山下いわく、ユカリとやらないとシュガー・ベイブはもう意味はない、で解散、というふうに通達があったな、確か。バンド内では限界というか、どうするんだろうなと思っていたけど。でも通達あっても、特に誰も反論は無かった。

僕自身で言えばこの3月31日と4月1日の解散コンサートで終わるじゃない? でも何も考えてなかったもんね。しばらくボーっとしてたら大滝さんからちょっと手伝ってよって言われて。やっぱりでも、一番記憶にあるのはレコード出してから解散するまでの第二期メンバーの時代の方がよく覚えているね。第一期の頃って資料を見たりとか、他の人と話をしてて「あーそうだったっけ」っていうのは結構あったね。

第二期の方が多分一体感とかライブの手ごたえとか、そういうのがあったと思うんだけど、山下からするとテクニカルな面で、自分のやりたい事とバンドに期待できることが見えてきたと思う。最初はとりあえずこのメンツで格好つけなきゃいけない、と言う事ばかり考えていたけど、レコーディングを契機に、バンドがバンドらしくなっていくのと裏腹に、次の展開を考え始めていたのかもしれないね。

シュガーベイブを解散して、しばらくはボーっとしてて、大滝さんから誘われて、ナイアガラのセッションをずっとやっていた頃に、僕はこの先どうするんだろうと思って。その当時フュージョンがすごく流行っていて、ギタリストとしては無理だと思ったから、アレンジャーの勉強してアレンジャーとして仕事が来るまでやっていたんです、大滝さんの仕事を。

で、いざアレンジの仕事をしだした82年位から90年位まではシュガー・ベイブって自分の中でほとんど無くなっていたんだよね。

ちょうどSONGSを再発したのは94年で、その頃また若者たちがこれを聴くようになって、そうすると若いミュージシャンとかアーティストの卵から、その頃の話を聞かれて、だんだん変わってきたように思う。でもまだ抹殺していたんだよね、抹殺というか…

思い出したくないんじゃなくて、めんどくさかったのと、僕はそんなに今はシュガー・ベイブはどうでもいいんだって言う気持ちがあったんです。

それで2000年を超えた位からかな、現実的にはシュガー・ベイブがなかったら今の僕はないし、避けて通るとダメだなと思って。

それで今ウェブで小説書いてるんだけど、記憶があまり定かでないので、長門くんとかに聞いているうちに、記憶違いとか、いろんなことがこんがらががっていたのが、結構ほぐれてきたんですよ。

これを書いているのは、歴史的資料として何年何月にこういうことがあったとか、それはいろんな所でみんな知ってるじゃない? でも、その時にバンドの中の雰囲気がどうだったのか、というのはわからないでしょ。それがちょっとでも味わえればいいな、と思って。

 

村松邦男「あるバンドの物語」

http://www.net-sprout.com/

 

【外伝4 了】