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ヒストリーオブ山下達郎 第16回 メンバー・チェンジ 1975年

<セカンド・コンサート、企画性は良かったが>
1975年1月24日、新宿厚生年金小ホール、シュガー・ベイブ、セカンドコンサート。
このコンサートは計画倒れっていうか、意欲に実力が全然伴わなかった。二部構成で、ゲストも入れたりしたんだけど、構成やアレンジに凝りすぎて、行き方は間違えるし、ボロボロだった。
第一部はスーツ着て出て行ったりね、第二部の途中でストライプのシャツにコットンパンツなんていでたちで、ディック・デイルやったりして。ユーミンに頼んで、ポニーテールで友達と踊ってもらったり。あと大滝さんと細野さんと(鈴木)慶一で、多分バックはムーンライダーズだったと思うけど♪春よ来い、か何かをやったのかな。で、細野さんと慶一が寸劇をやったり。妙なコンサートだったね。そこいらの部分は長門くんが考えたんだよね。僕たちだけじゃもたないから。
で、この時に一部では有名な「クリスマスイブの元詩の曲」をやったの。やったのはこの時、一回だけ。
結局リハーサル時間が全然なくて。発想は良かったんだけど詰め込み過ぎで。セカンドコンサートへの意気込みはすごくあったよ。でも気負いすぎた。オープニングは街の雑踏のSEから♪SHOW、次が電車がダーってやってくるようなSEから♪DOWN TOWN、そんなのばっかりだったの。
そしたら、もう段取りが分かんなくなっちゃって。だからよくあるじゃない、学芸会か何かで詰め込みすぎて、分かんなくなっちゃうって、あれだね。無理せずにやればよかったのに。
楽屋でビーチボーイズの格好している写真があるけど、あの時のもの。あれは金子が撮ったんだ。お客さんはキャパが700で300か400くらいかなぁ。でも日仏会館だったら一杯だった、って言われた。日仏会館のキャパはせいぜい400くらいだから。サードコンサートはもう少し入ったけどね。
当時は今みたいにメディアが普及してなかったから、レコードプロモーションをちゃんとやらないと、ライブに人が入らないんだよね。サブ・カルチャーだもん。事務所の手打ち(自主興行)で、ポスターなんかも自分で貼って歩く、そういう時代だった。だから、これはもう恥ずかしい思い出。でもかろうじて言えるのは、企画性は良かった。問題は演奏力が全然足りなかった。安定感がなく危なっかしい。

  

<リズム隊のパワーを上げたかった>
SONGSの発売が1975年4月25日で。その前後。
3月のベイエリア・コンサートでドラムがユカリ(上原裕)に代わって、銀次も加わった。その時点ではベースはまだ鰐川だったんだよ。(3月29日、ベイエリア・コンサート/文京公会堂/他の出演者はティン・パン・アレイ、小坂忠吉田美奈子、バンブー、鈴木茂バンド、大瀧詠一)。
75年になってSONGSのレコーディングが終わった頃から、メンバーを変えたいと思うようになったんだよ。理由は色々あるんだけど、一番大きかったのはリズム隊のパワーをもっと上げたい、と。
SONGSのレコーディングをユカリに頼んだでしょ。そこからシュガーベイブもユカリのドラムでやりたいと強烈に思い始めて。
当時、他にもドラマーは沢山居たんだけど、ボクはユカリには特に惹かれたんだよね。だから、その頃やっていたCMも全部ユカリでやっていた。「三ツ矢フルーツソーダ」「不二家ハートチョコ」から始まって、74〜75年にやってるCMは殆ど100%ユカリなんだ。
その後、76年にかかる頃には、いつもユカリと寺尾(次郎)のリズムで全てやってた。SONGSで頼んだのも、そういうCMとかでユカリの力量が分かってたから。全く知らなかったら頼まなかった。
で、当時のシュガー・ベイブはライブの安定感がなく危なっかしい。その上に京都・拾得の件とか、イベントなんかで嫌な経験があったでしょ。演奏に不満で、客のウケも悪いから、二重苦なんだよ。それをどうにかしなきゃいけないと思って、メンバーを代えたたいと。
それと鰐川の問題があって。鰐川は大学生だったので、学校に戻りたいとはよく言ってたの。いずれはそうするしかないな、とは思ってたんだけど、そしたら鰐川としてもやっぱりSONGSで野口をクビにして、ユカリに替えたことに関して、思いがあったんだろうね。ベイエリア・コンサートが始まる前に「辞めたい」と言い出した。で、鰐川が辞めるんだったら、この際二人とも変えようと思ったんだ。
その頃ユカリは銀次と一緒に、あるヴォーカル・グループ(ハイ・ファイ・セット)のライブでバック・バンドをやっていたの。そこで二人と一緒にやっていたのが寺尾次郎だった。それでユカリを口説きにかかったんだけど、そのグループへの義理もあったんだろうね、なかなかうんと言わない。
それならユカリ一人だけじゃなくて、銀次も一緒に引っ張り込んじゃえばユカリも来やすいだろうって、結局、寺尾も入れて3人まとめて引き込んで、6人編成になった。
最初にウンと言ったのは伊藤銀次で、銀次がユカリを説得してくれた。ついでに寺尾も引っ張ってしまおう、ってことになって。寺尾に関しては、僕は何の知識もなかったんだけど、慶応の学生でね。シュガーベイブが好きだから大体は弾けるって言うんでオーディションしたら、どの曲も譜面を見ずにきれいに弾けるんで、驚いて即決で入ってもらうことにした。
余談だけど、まりやはその頃ちょうど慶応の学生で、寺尾がシュガー・ベイブに入ったって言うんで、ちょっとした話題だったそう。「あれがシュガー・ベイブに新しく入った人だよ」って、音楽サークルの人たちが、寺尾を遠巻きに見てたって言う話を、あとからカミさんから聞いたことがある。
野口にはメンバーチェンジのこと、僕が直接話したよ。もう、そういう場合って今でもそうなんだけど、ボツにするとかクビにするとか、自分で言うのもなんだけど、僕はそういう場合はできるだけ直接、単刀直入に。
たいていは独断で決めるから。自分でも時々冷たいかな、ひでえかなと思うことあるけれど、でも音楽の問題はどうしようもない。だから駆け引きはなしで、ちゃんと伝えるんだ。その方が後々良い結果を生む。
その後野口ともやれているのは、何よりあいつの人間が大きいからだけど、考えをはっきり伝えたから、と言うのもあるんだ。野口はSONGSのレコーディングの時から、やっぱりそれはしょうがないと思っていたようで。その後、野口はセンチに入ったんだけど、センチもちょうどシュガーと同じような感じでベースとドラムが辞めることになって、それで野口が誘われることになった。
  
<4月に渋谷ジャンジャンで、いきなり客が超満員になった>
SONGS発売直前、75年3月頃にメンバーが変わった。
4月26日に渋谷ジャンジャンでやった時だったかな、いきなり客が超満員になったんだ。それはとても鮮明に覚えている。それまでは20人とかだったのに。
まさにレコード効果。なんでこんなに違うんだろうって。今までと全然違う。やってること同じなのに。多分、それまでとは違うお客が来てたんだね。
Add Some〜作った時と同じで、やっぱり形にして示すと違うんだなって。その会場ではレコードは売れなかったね。ホールやライブハウスなんかでのレコード販売っていうのは、基本的にレコード店と契約してないとダメでね。ジャンジャンはどことも契約してなかったから。当時はレコード小売店に力があったんだよ。だから売りたくても売れなかった。
そんなふうに3月からがシュガー・ベイブの第2期で、6月24日の横浜教育会館から5人に戻って第3期になるんだ。
銀次が抜けたのは、彼の音楽性はリバプールサウンド、ブリティッシュブルースから始まって、ザ・バンドとかそういう感じでしょ。ココナツ・バンクはあくまで大滝さんの志向で、銀次自身のそれじゃなかったからね。メロディーのセンスはあるし、ポップソングも好きなんだけど、ギタリストとして演奏したりアレンジする部分では、僕とはだいぶ違う感覚だったのね。
その辺をなんとかしようとして、ダブルリードとかいろいろ試みてみたんだけど、うまくいかなかった。
そうすると銀次も僕も居る場所がなくなって。僕が前に出てハンド・マイクでやってみても全然ハマらないし、ギター3本いらないしね、アンサンブルがなかなかうまくいかなかった。それでフラストレーションが溜まってきて、銀次に抜けてもらったの。
それで銀次は、りりィのバックバンド、バイバイ・セッションバンドに行くことになるんだよね。

  

<「ヤング・インパルス」は生番組だったから、曲ごとに笑い話があるよ>
74年12月11日、渋谷ヤマハの店頭ライブ。この時には客なんてあんまり居なかった。だけどその10ヶ月後、75年10月19日にこのヤマハでもう一回やっている。この時は黒山の人だかりだった。この時のライブを佐橋佳幸とか、うちのカミさんが観ている。
だから、この1年足らずの間にガラッと変わったわけだよね。実は今のシュガー・ベイブの評価って、殆どこの後半のものなんだ。
でも、そうじゃなくて前半のシュガー・ベイブに執着している人もいまだにいてね。ユカリはとてもクセのあるドラマーで、曲の出来不出来がはっきりしてるから、例えば♪SHOWのような曲はユカリになってからほとんど演奏しなくなった。でも面白いよね。こんなサブカルチャーのグループにも第何期なんてのあって、あの時期のほうがよかったとか、今でも言ってる奴がいるがいるんだからね。暇だというかアホらしいというか。
レコードが出てからでも、ライブハウスの動員が本当に良くなったのは、5人になってからだね。今の感覚だったら1、2ヶ月なんてあっという間だけど、この頃は本当に1、2ヶ月でどんどん状況が変わっていくのね。でもシュガー以外にもCMやコーラスの副業仕事もだんだん入ってきて、事務所の運営も少しは回るようになっていったんだ。で、秋ぐらいに事務所が笹塚から六本木に移るんだよね。
ユカリを引っ張り込んだのは正解だったと、今でも思ってるよ。リズムセクションを強化したおかげで演奏の幅が広がった。ユカリと寺尾になってから不安が軽減されて、歌に専念できるようになった。
僕の記憶では客のウケとかそういうのは別にして、とりあえずライブが安心してできるようになったのは6月以降。
6月24日の教育会館のライブは凄くよく覚えているんだ。センチメンタル・シティ・ロマンスが一緒だった。まだ野口はセンチに入ってなかったかな。とにかく6人のときのライブは、なんか座りが悪いって言う感じだった。
74年12月、日比谷公会堂ユーミンのクリスマスコンサート。僕とター坊がアンコールにゲストで出て「ルージュの伝言」のコーラスをしたんだ。「ミスリム」が出た後、シングルで「ルージュの伝言」が出た頃。この頃は下手するとバンドの仕事よりも、コーラスの仕事の方が多かったりする時代だったから。
75年3月22日、荻窪ロフトで愛奴と共演、あまり覚えていない。この頃ちょうど6人でやり始めたばかりだから、それどころじゃないと言う感じだったかなぁ。この時はまだレコードが出ていなくて、そんなに印象がなかったな。僕の記憶が正しければ、4月20日のブルースパワーからベースが寺尾になったんじゃないかな。(ブルース・パワー・スプリング・カーニバル・イン日比谷/野音/他の出演者はウェストロード・ブルース・バンド、鈴木茂バンド、久保田麻琴と夕焼け楽団、ウィーピング・ハープ・セノオ&ヒズ・ローラー・コースター)。
この頃コンサートはブルースとか、そういう仕事しかなかったから。この時はシュガー・ベイブの出番が最初。以後、野音はひたすらトップ。愛奴と言えば7月26日に野音でやった「サマー・ロック・カーニバル」でも一緒に出たね。でも楽屋とかでもバンド時代の浜田(省吾)くんと話した記憶が全くない。
7月13日のテレビ神奈川「ヤングインパルス」にも愛奴と一緒に出たんだけど、インタビューにメンバーがひとりづつ出てくれって言われてね。こっちは僕が出て行ったんだけど、愛奴は青山(徹)くんだった。リーダーの浜田くんは嫌だって言ったんだって。
6月以降、結構ライブもまとまってきたし、何よりCMがバンドでできるようになったの。この頃、坂本(龍一)くんが仲間に加わって、曲によっては銀次呼んだりして、いろんなことができるようになった。だから音楽的にはコーラスにCMにライブ、の3本立てで、仕事ができるようになっていった。
だから、75年頃にはようやく少しは食えてきた。やっぱり食えてくるっていうのは大きいよね。洋服やレコードも買えるようになった。74年なんて映画もほとんど見ていない。「ポセイドンアドベンチャー」と「アメリカングラフィティ」くらい。
この頃になるとだんだん夜遊びもできるようになって、ゴールデン街に飲み行ってるとか、ようやくそういう風になってきたの。
「ヤングインパルス」は生番組だったから、曲ごとに笑い話があるよ。1曲目が♪雨は手のひらにいっぱいで、僕が生ピアノで歌って、ター坊のエレピでイントロが始まるって言う。エレピはアンプに繋いであって、本番の前に僕がアンプのボリュームを絞ってあるから「必ず始める前にボリュームを上げて」って、ター坊に言ってあったんだけど、ワン、ツーってカウントして演奏がスタートしても、イントロの音が出ない。
ター坊がボリュームを上げるのをすっかり忘れてるんだ。しょうがないから演奏が始まってる中、アンプのところまで歩いて行って、ボリュームを上げて、ピアノに戻って歌い始めたw
それが1曲目で、2曲目はター坊が生ピアノを弾きながらの♪いつも通りで、ター坊の歌い出しで、画面が顔のアップになったら、いきなりPAがハウったの(ハウリング)。そしたらター坊がカメラをキっとにらんでね。あれ、映像残ってたら最高なんだけどな。3曲目は♪今日はなんだか(ファンクラブミーティングで皆さんにご覧いただいた通り)ユカリがスティック落とすやつ。
でも、あの仕事は誰が受けたんだろうね? テレビに出るとか出ないとか、そんな(抵抗)意識全くなかったしね。ただ、その後にそういう話が来なかっただけで。テレビで演奏して歌ったのは結局あれが最初で最後だね。CMに出たのもあるけど。
「ヤングインパルス」って生で昼間にやって、夜に再放送するんだよね。多分出版関係がらみでフジ・パシフィックが愛奴と一緒にブッキングしたんだろうね。「夏に向けてのふたつのグループ」って言うタイトルだったから。でも、こうして改めてスケジュール見ると仕事しているようで、そんなでもないと言う気もするけどね。CMとか結構やっていたんだけどね。
   
<めんたんぴんとシュガー・ベイブのジョイントは、ちょうどいい按配なんだ>
野外のライブは嫌だったね。ほんとに嫌だった。8月の金沢近辺のツアーなんて、とにかく何とも言えない体験だった。人生で一番しびれたのは74年5月の拾得と、75年8月9日の福井九頭竜(くずりゅう)フェスティバル、それとその数日後の富山の高岡だな。
九頭竜は野外イベントに客が入らなくて主催者が夜逃げしたんだ。2万人とか入れる予定だったのが2000とか3000しか入らなくて。だだっ広いところに客がパラパラって。野外の夏の炎天下でしょう。そこに東京から車で行ったの。
僕らの出番は妹尾(隆一郎)くんのローラーコースターと、ウェストロード・ブルースバンドの間だった。真っ昼間なんだけど、トリがダウンタウン・ブギウギバンドってね。客席の最前列は全部つなぎのヤンキーでさ。司会者が石川のAMラジオのアナウンサーで「じゃあ次はシュガーベイブです、イェー」とか言うのはいいんだけど、ヤンキーが演奏中にひたすらヤジってるわけ、「やめろーおめーらー」とか。やじられのは慣れてるから無視してやってたら、いきなりユカリがドラム用のPAマイクつかんで「ワレラ!文句あるんやったらこっち上がってこいや!」って珍しくキレた。しかもユカリはキレても、とても静かなの。「上がってこいや」ってドスが効いてるのw そしたらヤンキーたちがびびっちゃって、後ろのほうにいた女子学生が一生懸命拍手したりして。
あとすごかったのは、僕らが出る直前に僕らのマネージャーが「ギャラをここで払わなきゃステージに上がらない」って主催者と揉めてね。この状況から見て、ギャラを取れない可能性があると思ったんだ。結局、ギャラをもらったのは、めんたんぴんと僕らだけだったんだって。何しろ、主催者が夜逃げだからね。すごかったなぁ、あのイベントは。あとは出演者で女性は、ター坊とカルメンマキと金子マリの3人だけだったのね。真っ昼間の山中の野外でしょ。着替えする場所なんてないの。で、マリもター坊も「じゃあ、このままで着替えないでいい」ってことにしたんだけど、カルメンマキは「私は断固として衣装に着替える」って言って、毛布を5、6枚使って、野郎どもがみんなで囲んで壁を作って、その中で着替えてた、それはよく覚えてる。
もう、この頃はどこ行ってもダウンタウン・ブギウギバンドだったな。浦和ロックンロール・センター主催で、ダウンタウン〜とシュガーのジョイントなんて言う仕事もあった。どうなることかと思ったけど、それは運良く中止になって、ホっとしたw
ダウンタウン・ブギウギバンドにはまだ千野秀一さんはいなくて、オリジナルメンバー。でもこの九頭竜でのヤジられ方は嫌だったなぁ。
めんたんぴんとはよく共演した。彼らは石川の小松のバンドで、事務所同士が親しかったのと、あと彼らは自分たちのPAPA運搬用の10トントラックを持っていて、それで全国ツアーをしていたんだ。グレイトフル・デッドみたいなやり方でね。だからめんたんぴんにくっついていれば、とりあえずどこのホールでもライブができたの。めんたんぴんの連中もいい奴らだったし、めんたんぴんとシュガー・ベイブでジョイントをやるとちょうどいい按配なんだ。
学園祭とかあると、こっちが柔らかくて、向こうが重いから。こっちが先に出て、めんたんぴんが後から出ると、どんな客でもいい感じに収まるんだよ。
そんな感じで、九頭竜の翌日に金沢でやった百万国夏祭りとかも一緒にやったけど、そっちは酔っ払いばっかりだったし、8月17日の卯辰山って言うのも、何だか知らないけど重苦しくて、変な雰囲気だった
そうそう。この金沢のツアーの最終日に富山の高岡で、やっぱりめんたんぴんとやったのね。あれは本当にものすごかった。
客が全部ボンタンのつっぱりだった。イベントの主催者がその筋の人だったの。パー券もどきにチケット売ってたんだって。で、ステージ上がって行ったら、ステージの縁のところに一升瓶が並んでるんだよ。ホールに半分足らずの客は、全員ボンタンにツッパリのヤンキーばっかりでね。「わー、女だ、脱げー」と。ター坊、足が震えたって言ってたもの。
他のみんなもびびったって言ってたけど、実は僕、この時代は栄養状態が悪くてね、夏になると喉が膿むの。扁桃腺が白くアバタになって、そうすると39度近い熱が出る。金沢のサナトリウムクロロマイセチンをもらって飲んでたの。クロマイって強い薬で、いわゆるトンだ状態になるんだよね。で、その時は幸運なことに、僕ひとりだけ朦朧としていて、へらへらと調子のいいことを言ってやってたので、ヤジられるだけで済んだ。
だけど、めんたんぴんが始まったら、客が一升瓶片手にステージに上がってきて、満員電車状態になったの。楽屋まで入ってきて、寝てるしね。すげえなぁと思ったけどめんたんぴんのメンバーが「こういうことを超えないと、ロックはできんのや!」って。そんなロックはやりたくねぇなぁって思ってたなぁw
それで終われば、まだよかったんだけど「打ち上げをやるから来い」って言われて、変なスナックに連れていかれてさ。そしたらスナックの前に、ハーレーがダーっと並んでるんだ。スナックのテーブルや椅子を全部とっぱらって、赤絨毯の一番奥にダボシャツに腹巻のおっさんが、あぐらかいて座ってるわけ。「おう、よく来たな」って。その周りに若い連中がずらっと並んでて。そこにめんたんぴんと僕らが連れていかれて「まぁ、まず一杯」って酒が出た。村松くんもター坊もお酒はあまり飲めないから「その分僕がもらいます」って、僕が取り持った。で、「これから東京に帰らなきゃなんないので、あんまり遅くなると」って、早々に逃げ出した。帰りの車で、熱が出てうなされたよ。しかも東名は土砂降りの雨でさ、思い出すなぁあの夏、1975年。

  

<この頃から縁故じゃない仕事がポツポツと入り始めてた>
こんなイベントへは村松くんのシビックと2トン半の楽器車で。それに交代で乗って。電車賃なんてないもの。泊まるとこだって毎日違うしね、そういう時代だったんだよ。
あの時代の経験のおかげで、何にも怖いものなんてありませんw 今は天国ですよ。
守ってくれる人がいるし、とにかくあの頃はね、みんなでギターやアンプをどうやって守ろうかって言う。楽器がなきゃ演奏できないから、楽器だけは壊されないようにしようって言う、それはすごく気を使った、みんなで。ああ、色々思い出して来ちゃったw
8月21日、日仏会館、センチメンタル・シティ・ロマンス、アルバム発売記念コンサート。これは僕がゲストで一人出て♪DOWN TOWNを歌った。前にも言ったと思うけど、センチはCBSソニーからデビューしたんだけど、ソニーの洋楽セレクションが邦楽を手がけた最初なのね。
ソニーと言う会社はもともと洋楽の強い会社で、洋楽と邦楽の間で競争意識が強かった。だけど、当時はそれこそキャンディーズから、南沙織から百恵ちゃんのちょっと前くらいだからね。洋楽スタッフが邦楽に手を出したって言うんで、邦楽勢からの反発がすごかったんだ。
当日は客席の中程に招待席があって、社内のそういったお歴々が並んでいるわけ。で、1曲終わるたびに「つまんないね」「なんだこれ」って具合に聞こえよがしに貶すんだ。途中で、バッーって席を立って帰ったり。「すげえ世界だな」って驚いた。
9月7日、札幌厚生年金会館。この時に生まれて初めて飛行機に乗ったんだ。ポプコンのゲストだった。これも誰が入れたんだろうね。ポプコンのゲストって何度かあったんだよ。
この時は前日がリハーサルで、その時に僕らの現場スタッフとヤマハPAの人と喧嘩になってさぁ、本番になったら電源に切るって言われて「やれるもんならやってみろ」ってタンカ切ったり。この札幌に行く前、昼にキングレコードのスタジオで黒木真由美の歌入れをして、飛行機で北海道に行ったのをよく覚えてるよ。
この頃はスタジオ仕事が多いね。CMやユーミンの「コバルトアワー」のコーラス、この頃から少しずつ名前が出てきているっていうか、縁故じゃない仕事がポツポツと入り始めていた。
黒木真由美の仕事は、キングレコードのディレクターがシュガーベイブのアルバムを聴いて「曲を書いてくれ」ってきたの。
9月12日は中野公会堂のめんたんぴんコンサートに共演で出たんだけど、この時期に写真学校の学生が「めんたんぴんが好きなんですけど、写真を撮らせてください」って来てね。ついでにシュガー・ベイブも撮っているうちに、僕らのライブにも来るようになった。それがのちにロック関係の取材カメラマンとして有名になる菊地英二さんだね。今でも僕やまりやの取材に来てくれる。菊地さんが当時写真をずいぶん撮ってくれていたので、シュガー・ベイブのライブ写真がたくさん残っている。とても助かってるよ。
スタジオではコーラスが主だったね。クラウンでは伊勢正三さんの「風」をやったり、山田パンダの「風の街」とか。ソニーでは山本コウタローさんや斉藤哲夫。キングでは丸山圭子
アルファではユーミンのほかにルネ・シマールというカナダの男の子。ルネはステージまでやらされた。僕とター坊と村松くんと(吉田)美奈子の4人でね。ライブ盤で音が残ってるけど、よくハモってるよ。
あとティン・パン・アレー関係で小坂忠さんとか。そういう感じで色々だね。
ユカリには結構ドラムの仕事が入ってきてね。有名どころでは山本コウタローとウィークエンドの「岬めぐり」はユカリと寺尾の演奏だよ。シュガー・ベイブの事務所は僕ら以外はジャズバンドばかりで、ジャズクラブの仕事が毎日入ってたから、ユカリのスタジオ仕事までは面倒見切れなかった。で、僕がライトバンにドラムを積んで、ユカリを乗せてスタジオに行って、セッティングを手伝って、終わったらばらしてギャラをもらって帰る、なんていうマネージャー代わりもやったりした。当時の我々の事務所は、向井滋春クインテット、吉澤良次郎カルテット、山下洋輔トリオ、それにシュガー・ベイブが所属と言う、ヘンなオフィスだった。

  

<この時代NIAGARA MOONの曲はほとんど全曲やったよ>
シュガーベイブの曲数はね。曲は書いていたけどCMの方が多いなあ。だけどこの頃にはもう「こぬか雨」もやっていたし♪WINDY LADYもやってた。あとはター坊の♪約束、♪愛は幻。♪SUGARがどんどん長くなって行ってた。だから解散コンサートでやってるレパートリーはもうほとんどあったね。SHOWやDOWN TOWNを全くやらなかった時代もあるからね。だけど、どんなにがんばっても16〜17曲だから。
そうか、考えたらこの頃は大滝さんのバックもやってたんだな。ユカリが入ったから。ユカリが入って、寺尾が弾けることが分かったから。でもどうして大滝さんのバックをやるようになったのか。
その前に、布谷(文夫)さんのバックっていうのがあってね。いつ頃からやったか覚えてないけど、74年9月29日の横浜グリーンピースかな。凄まじいライブハウスでさ、30人そこそこしか入らない狭い場所で、ステージは1段、と言っても15センチくらい高くなっていて、上に蛍光灯が1個付いていて、それが照明がわり。それを付けると開演なのねw 
その時はユカリ、野地義行くんのベース、矢野誠さんのピアノ、銀次、村松くん、僕だった。僕はクラビネットとか半端な楽器ばかりやらされたんだ。
その後、矢野さんの代わりに坂本くんが入ってきたんだよ。さらにそこからユカリ、寺尾、村松、坂本、僕の5人で大滝さんのバックをやるようになった。さらに、それにター坊がコーラスで加わって、シュガーベイブ大滝詠一のパッケージと言う形になってきてね。それが76年まで続くの。
75年(5月30日)にNIAGARA MOONが出たでしょ。多分それでライブをやんなきゃ、ってなったんだよ。だからこの時代、NIAGARA MOONの曲はほとんど全曲やったよ。
なんたってユカリが叩けるし、坂本くんも来て、そんなのができるようになったんだよね。1曲目がそれこそ♪論寒牛男(ロンサムカーボーイ)とかさ。
でも記憶っていうのは曖昧なものなんだよね。今度ビクターで及川恒平さんが詩を書いて、坂本くんが曲を書いた「海や山の神様たち〜ここでも今でもない話」って言う教育教材のアルバムがCD化されるんだよね。
その時に坂本くんから、少年少女合唱団に歌わせるので、コーラスを書いてくれって頼まれて、譜面を書いたんだけど、僕はこのアルバムがきっかけで、及川耕平さんのアルバムに参加することになったと、ずっと思ってたんだけど、今回スケジュール帳を見たら、及川さんのアルバムの方が先なんだよね。記憶っていうのは自分が思い込んでいる事と時々違うことがあるんだよね。
75年発売の「海や山の神様たち〜ここでも今でもない話」は大変だったんだよ。だってスコアも何もないんだもん。演奏のテープを1本送ってきただけで、コード表すらないものね。当時の坂本くんは現代音楽の作曲だったから、アバンギャルドな歌曲と言う感じでしょ。譜面起こしの方が、コーラス譜を書くよりもよっぽど時間がかかった。
ポピュラー音楽と現代音楽の中間みたいな感じで、中にはハーモナイズしても子供が歌えるとはとても思えなくて、僕とター坊の2人でコーラスをやったり。
でも、ここから年末にかけて大滝さんの細野さんのジョイントコンサート、トロピカルムーンがあって、シュガー・ベイブのサードコンサートもあったり、11月22日には渋谷ジャンジャンで昼にやって、夜は荻窪ロフトでやってる。すごいね。
75年の大晦日オールナイトコンサートは名古屋の雲竜ホールだね。この時はトリがセンチで新年タイムを誰が取るかって言うんで、愛奴が散々引っ張ったんだけど、結局シュガー・ベイブがいただいたw このときには愛奴にもう浜田君はいなかったな。
と言うことで、いよいよ1976年になるんだね。
【第16回 了】