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ヒストリーオブ山下達郎 外伝7 牧村憲一インタビュー

<試験のヤマかけが当たって、早稲田大学に進学>
僕は東京の渋谷生まれ(1946年11月3日)です。90年代にあった渋谷系ブームの渦中にいた時、「渋谷生まれの渋谷育ちですから、渋谷系」と言って、適当にかわしていたんですけど、それは本当で、日赤が取り上げられた場所なんです。父親も母親も渋谷育ちです。
父親は生涯、労働運動をやっていまして、晩年には、いま「連合」と呼ばれている組織の前身を作って、60代の初めに亡くなったんです。僕が物心ついた頃には、父親は労働運動に夢中になっていて、家にはあまり戻れないし、今思えばデモの責任をとって所轄の警察で1泊2日ぐらいしていたな、という環境で育ちました。
ごくごく普通の家で、ひたすら勉強して、今にしてみれば鼻持ちならない典型の、学業優秀、学級委員。下北沢の近くには駒場東大がありますから、やがて自分が進む学校は、自転車で行ける距離だと。生意気ですね。もう小学校の時に東大に行くもんだと思い込んでいた。というか、与えられた役目のような気がしていた。強要されたわけじゃないけど。現実に僕だけじゃなくて、学校で真面目に勉強のできる子は、時代もあって、そういう期待をされていたんです。
ところが小学校5年生の時に、音楽の先生に呼び出されて、「キングレコード音羽ゆりかご会の試験を受けなさい」って。それまで自分に音楽的素養があるなんて、これっぽっちも思ってなかったのに、言われたっていうことは才能があるのか、ってことになるでしょ。で、僕はすっかりその気になって。もしかして自分の人生は学業だけじゃなくて、もう一つあるかもしれないって。ところが、折悪しく変声期が始まって、ボーイソプラノのきれいな声を出していた僕が、声が出なくなる。それで結局、試験は受けなかった。でもこれがいい意味のトラウマになるんですね。君は音楽的な才能があるね、って言われた事はずっと自分の中に残っていた。
母親はごく普通の専業主婦なんだけど、家にオルガンやギター、三味線など楽器がいっぱいあったんです。で、母は習ったことがないのに、自己流で演奏できた。教則本もないのに適当に弾いちゃうわけ。
一方、父親はすごい音痴で、もう聴けたもんじゃない。母親は暇さえあれば楽器をいじっている。それで僕は、一応優等生の道を歩く反面、音楽が自分の中で逃げ道というか、心の支えになっていた。
中学に入ると、小学校の時の優等生だった僕も、だんだん成績が落ちます。これはもうよくある話で、入った時に確か1番だったのが、あっという間に100番台に落ちた。
で、中学生の頃は、和製ポップスがテレビのゴールデンタイムに登場して、僕らは夢中になって「ホイホイ・ミュージックスクール」とか「ザ・ヒットパレード」とか。
中二になると、レコードを買って、友達の家に集まる。みんな、わずかしかないお小遣いで買うから、買ったレコードをお互いに持ち寄って聞き合う。それは毎日やっても飽きなかった。それで学業をますます放り出して(坂本)九ちゃんだ、加代(森山加代子)ちゃんだ、パラキンだ、そういう毎日になります。さらに加山雄三ベンチャーズとか、だんだんロックっぽいものも出てくる。
早稲田に進学できたのは、普段は不真面目だけど試験のヤマ当てが上手だったの。過去の問題を揃えて、これが出るだろうって予想する。それだけを一生懸命にやる。出なかったらおしまい。持って生まれた知恵、それで何とか切り抜けていく。普段は全然ダメなのに。で、大学受験が近づいた時に、またいつもの方法しか思い浮かばなくて、ギリギリでやっと本気になる。自分の学力がどの程度か分かっていたから、期待に応えつつ、間に合うって言うことで。
こういうことを言うと、すごく偉そうに聞こえるけど、早稲田の過去10年の問題集を買い込んで、そればっかり、来る日も来る日もやる。最後には自分で予測問題集を作るわけ。第一志望が、もう今はないけど政治経済学部の新聞学科。それが初日だった。さあ、どうなるかなと思ったら最初の英語の試験、全部予測が外れていた。一問も解けずに失敗。もう他の科目も受けずに、負けた、と。
次の日が法学部。そしたら見事に予想が当たって。うまくいったと思ったら、入学してすぐに、早稲田は学費値上げ闘争に突入して。労働運動をやっていた男の息子ですから、逃げたり見過ごすわけにはいかないと賛同し、スト突入。でも、この時は法学部だけでも6000人ぐらいがストに入ったので、一般学生も普通の神経だったら、ストライキ側に行きます。
ただ、一年経つとだいぶ様変わりして、ストを続けていた6000人が一割の600人になって。残りはさっさとレポートを提出しちゃって、進級します。僕は意地を張って1年目は進級しなかったんです。そういう義理を果たすというか。でも、結果的には1年間授業がなかったし。もう落ちていくにはこれ以上のシチュエーションは無いっていうのが、19歳までのいきさつなんです。
      
<早稲田のグリークラブでマネージャーを体験>
まだストになる前、キャンパスでウロウロしていたら、勧誘に引っかかってね。連れていかれたのが、グリークラブ。こんな男ばっかりのクラブに入るつもりないし、ポピュラーをやりたいと思ってたんだけど、なんとなく断れなくて。で、声を出して「あ、あー」とかやる。「低い声だね、バスに決定だよ」って。まあ考えてもしょうがないから、とりあえずいいかって入っちゃった。
グリークラブ内でもポピュラー好きはグリーとは別に、好きなようにグループを組めたし、グループと言ってもフォーク全盛期だから、アコースティック・ギターを持てば流行のカレッジ・フォークやブラザーズ・フォアをやれる、だったらクラブに属しながら、そういうことをやればいいんじゃないかって。いいや、ここでって。
クラブ活動は演奏が中心なのですが、花形ポジションが3つあって。代表である部長と、学生指揮者がクラブ員の音楽的頂点なわけ。
もうひとつが、普通は渉外っていうんだけど、僕らは「外政」って言ってたマネージャー役。東京6大学、東西4大学、朝日新聞社内にあった東京都合唱連盟などで学生理事をやり、他の大学との交渉の窓口も。当然女子大も含まれていて羨ましがられ、ラジオやテレビの出演交渉もするっていう、いわゆる派手な部門なわけ。で、何を間違えたか、1年生の時に、その手伝いをしてたの。
そしたら周りから「お前はマネージャーに向いてるね」って、それであとは既定路線。だから練習にあまり出ず、外に行って「はい、題名のない音楽会、出演」とか「クリスマスひとり2万円、横浜グランドホテルでコーラスのバイトです」とか、そんなことやってた。つまり僕の職業が、そこで既に訓練されちゃったんです。そういう素地があったのでしょう。ただ合唱連盟に出入りしてる時に、朝日新聞に五十嵐さんという女性記者がいらして「牧村くん、フォークルって知ってる? あんなたと同い年の人間がちゃんと世の中に出て行くようなことをやってるのに、君は今のままでは志が低い」って言われたんですね。もやもやしていた時なので、その言葉がすごく残っちゃって。僕はいったい真っ当な就職をするんだろうかっていう疑問が、長い間自分の中であったわけ。
そんな思いでいる時に、グリークラブで1年上だった三浦光紀さんが、キングレコードに就職して、教養部に配属されて。教養部というのは学芸ですから、中心は童謡ですね。そのうち三浦さんはフォークは新しい童謡だと言い始めて、フォークをやり始めた。
それがベルウッド・レーベルになって行くんです。でも、当時は入ったばかりでアシスタントがいない。手助けがいるということで、僕に授業が出る必要がない時、手伝いに来てくれないかと。
で、70年の初め(23歳の時)の頃だと思うけど、キングレコードに行くと、社内のスタジオでレコーディングをしている最中だという。何を作っているのかと覗いたら、ギターの教則レコードを作っている。そこで初めて小室等さんと、小林雄二さんに出会うんです。それまで僕が思っていたフォークというのは、森山良子さんに代表されるカレッジ・フォークや、URC反戦フォーク的なイメージだったのが、小室さんたちが、実に素晴らしい技術者でもあると知ります。
   
小室等さんとの出会いから、「出発の歌」が生まれる>
僕のバンド経験ですか? 僕らの時代はキングストン・トリオとかPP&Mの時代で、上手いやつは学校にギターを持ってきて、放課後やってるの。
でも、僕はガット・ギターで練習したから、最初はお約束の「禁じられた遊び」で。もちろんコードは覚えたけど、自己流でスリー・フィンガーができないから、ツー・フィンガーでごまかすわけ。だから上手い人がいると恥ずかしくなって、出来なかった。そんな調子で、ひたすら帰宅部になったの。
それで、さっき言ったように、僕は小室さんと出会って、ギターの奏法にも深い技術っていうものがあるんだって分かった。それだけでなく、小室さんは現代詩にメロディーを付けて歌っている。そういう歌があるのか、って。そして状況劇場の音楽を担当、別役実の芝居に楽団として出てる、もう好奇心がものすごく湧いてきて。
最初に小室さんと知り合えて、音楽業界に入ったっていうことは、僕の一生の財産なのね。日本に初めてきちんとフォークソングを紹介し、フォークギターを自ら分析して教則本を作り、なおかつ現代詩人や演劇人、アートワーカーたちとも交流がある人だったんで、なんだか自分が大学時代に託せなかった思いが、一気に花開くようで、あっという間に引き込まれていったんです。
ただ、まだまだフォークがお金になる時代じゃなかったので、キングレコードに手伝いに行っている僕は、ご飯は出るけど、交通費が自分持ち、くらいの状況だったので、他でバイトしたお金で手伝いに行っていた。で、三浦さんが見るに見かねて「牧村、給料払ってくれるところに行ってみるか」って紹介されたのが、照明がメインの、労音に居た人が独立して作った事務所だった。
行ったら、ジョー(上條恒彦)さんが居て、「さとうきび畑」の作曲家・寺島尚彦さんが居て、という会社だった。当時普通に就職してデパートに行っていたら、給料が4万5千円くらい。そこでは約2万円。それでも当時は無収入に近かったわけだからね。
で、僕が最初に企画したのが、小室さんのコンサートだった。それまでは三浦さんの後ろにくっついているに過ぎなかったのが、初めてそこで、一本立ちしてコンサートメイクをしてくれと言われたわけで「僕が作るとしたらフォークコンサートしかない。やりたいのは小室さん」と言ったら、逆に喜ばれてね。
で、結局それが縁になって、「小室等六文銭」の初代マネージやーになるんです。その時のコンサートのゲストが吉田拓郎高田渡だった。翌年になると、ヤマハが主催する「合歓(ねむ)の郷フェスティバル」という作曲コンテストがあって、そこで持っていった歌が「出発の歌」だったの。小室さんは上條さんにも曲を頼まれていたのだけれど、2曲は出来なくて急遽一緒に演奏することになった。上條さんも小室さんもメンバーも僕も、参加するだけと思っていたから、終わってさっさと帰ろうとしたら、ムッシュかまやつひろし)に止められて「優勝だよ」って。で、あれよあれよという間に、第二回世界歌謡祭の代表になって、グランプリってことになる(71年11月)。
僕の音楽業界の1年目は模索ばかりだったけど、2年目は突然階段を駆け上がるような話になっちゃった。2万円だった給料が、一時期ですが35万円。信じられないでしょ。初任給4万円の時代に、最初はタダで働いて、次に2万円で働いて、1年経ったら35万。それからは、ひとつひとつの出会いがチェーンのように繋がっていって。
で、(上條恒彦と)六文銭がヒット曲を出したときに、エレックから独立した吉田拓郎の事務所を始めようとしていた後藤由多加さんから声がかかり、「ユイ音楽工房」に合流した。ユイというのは小室さんの娘の名前でね。ユイはコンサートメイクとマネージメントの会社だけど、すぐに後藤さんは原盤出版会社を作ろうというんで「ユイ音楽出版」を作った。それで僕と、創立メンバーのひとりの陣山くんで出版にまわって、陣山くんが吉田拓郎+α、僕が「南こうせつかぐや姫」+αという形で、協力し合った。音楽出版社に入って、制作ディレクターを始めるわけです。六文銭には新しいマネージャーが来て、僕はマネージメントからは完全に離れる。
   
<「神田川」そして大森昭男さんとの出会い>
ちょうど「第2次かぐや姫」になった頃で、その新メンバー(南高節、伊勢正三山田パンダ)のファーストはクラウンで作られたんだけど、セカンド(かぐや姫おん・すてーじ/72年12月発売)から僕らが参加して、ライヴを一枚のアルバムにしたんです。当時のフォークシンガーやグループって、むしろライヴの方が魅力あったから、で、その後にシングル盤を作るという仕事があった。
当時、ガロの「学生街の喫茶店」がものすごくヒットしてたから、負けたくないと思い、その曲を作ったすぎやまこういちさんのところに曲を頼みに行くんだけど、すぎやまさん、勘が鋭いから、こうせつとかぐや姫を見て、カントリー・グループっていうイメージを浮かべたらしい。なので、出来た曲がカントリー・フレーバーで。全然「学生街」じゃない。
それで、自分たちで作っていたデモ曲に入っていたのが「神田川」。当時、元ジャックスの木田高介さんがサウンドづくりのパートナーになってくれてたんです。「出発の歌」のアレンジも木田さん。その縁もあって、自分でディレクションするのは心細いから「神田川」も木田さんにアレンジを頼んだんです。
で、木田さんが呼んだのが、はちみつぱいのくじらさん(武川雅寛)。これは誰にもわからないかもしれないけど、ガロがCSNならば、こっちはグレイトフル・デッドで行こうというジョークから、はちみつぱいのメンバーを呼んだ。そこでコード譜しかないのに、即興であのイントロを弾いてくれて、ああいう曲になったんだよね。
こうせつはウエスト・コースト系の音楽が好きで、年中僕らとそういう話ばかりしていた。それで僕としては、はちみつぱいとか、はっぴいえんどのメンバーが参加してくれるのが望みだったし、木田さんがいたからあれが完成した。最初は「かぐや姫さあど」(73年7月発売)に収録されていた「神田川」を(9月に)シングル・カットした。
僕はディレクターといっても、本当は全然分かってないのに、トラックダウンまでやるんだよね。で、あの曲ではバイブを最初に入れてあったんだけど、トラックダウンの時に忘れて、抜いちゃったのね。で、発売後になんか違う、あ、バイブ抜いちゃった、って。慌ててトラックダウンし直したんだけど、もはや売れてて差し替え出来ない。最初に担当したシングルなのに、一気に30万枚くらい行ったのかな。今どうやってカウントしているか分からないけど、色々合わせて260万枚相当売れているそうです。ともかくディレクターを始めて3、4ヶ月でそういうことが偶然起こっちゃった。それが制作マンになろうっていう、きっかけなんです。
で、記憶が順番バラバラなんですけど、その頃ONアソシエイツの大森昭男さんと「出発の歌」のコマーシャル使用の話をきっかけに、知り合ったんですが、どうも僕は、大森さんにはっぴいえんどを売り込みに行ってるみたいなのね。はっぴいえんどをコマーシャルにどうですか、と。一方で僕は「神田川」がヒットしたことによって、日本的な、いわゆるフォークのディレクションを望まれることが多くなっていった。あれはあれで、ものすごく知恵とエネルギーを必要とするものだし、同じことを繰り返したくないし、それと時期的にいろんなことが重なっちゃって、僕はもうこれ以上フォークのレコードを作るのは出来ないと思ったんですね。
フォークが四畳半的になり、歌謡曲化し、洋楽的なものではなくなった。小室さんと知り合った時には、非常に洋楽的なものを感じて憧れたのが、だんだんアコースティック・ギターが入ってれば、イコール、フォークになってしまった。そして、これははっきり言っていいけど「フォークシンガー・ブーム」になっちゃった。キャラクターの世界になった。ステージも半分歌って、半分しゃべりになって、しゃべりが面白くなければフォークじゃない、みたいな。
それで自分が目指す洋楽の影響を受けた音楽と、だんだん遊離していった。のちにフリッパーズ・ギターをやる前もそうなんだけれど、切羽詰まってくると、思い切って真反対を選ぶ。
だから、フォークからCMにドーンって。商業主義なんてクソくらえっていうところから、一番商業主義の先兵のところに行っちゃった。それは性格だと思う。
それで大森さんが一緒にやりませんか、って誘ってくださった。それほどの経験もない僕に、割と早い時期に、資生堂アサヒビールのCMに参加させてくれて、大森さんが「牧村さんならどなたを推薦しますか?」と言った時に、はっぴいえんどは事実上解散していたので、細野さん、大滝さんの個人名を挙げたと思うのね。当時(ベルウッドの)三浦さんは、大滝さんのソロ曲を録るたびにテープをくれていたから。多分そのテープを持って行って、聴かせたんでしょう。そしたら大森さんが「いいですね、大滝さんに連絡しましょう」と。それが結局「サイダー」のきっかけになるんです。
で、その少し前、ユイにいた時に、「山本コウタローと少年探偵団」のギターだった徳武くんとか、そのメンバーみんなが洋楽の話が出来る同士で、仲が良かった。そこでコウタローさんが「牧村さん、日本にもラスカルズがいますよ」って。ちょっと信じられない。「四谷のディスク・チャートって店に出入りしてるバンドで、シュガー・ベイブっていうのがいて、ラスカルズみたい。絶対好きになるよ」「じゃ、なんかコンサートか、いいチャンスがあったら教えてね」と。でも、言ったままそのままになっていた。
それで、ON在籍時に大滝さんのCM録音に立ち会っていると、若いコーラス・グループが連れて来られた。それがシュガー・ベイブだったの。僕の中では、コウタローさんが言ってた、あのシュガー・ベイブだと。
  
<山下くんは僕がやってもいいかなと思ったんです>
実際にコーラスが始まると、ワクワクして嬉しくなりました。当時の僕たちのコーラスの常識は、3声、4声が声質に合わせて役割分担をする、いわゆるグリークラブ的なものでした。しかし聴こえてきたコーラスは、これぞポップ・コーラス。リーダーの声が飛び抜けて大きいので、マイクから遠ざかったり、場合によってはスタジオの後ろに行ってワーッとかやるでしょ。いやー、若いってすごいな、と。こっちもまだ若いのにね。そんなポップな音楽に出会えた喜びでいっぱいになりました。運命的な感じで。
その頃よく出入りしていたキングのベルウッド・レコードにはアルバイトだった竹ちゃん(竹内正美/のちのセンチマネージャー)がいて「はっぴいえんどみたいなグループ作ります」って、いつも夢見るように話してくれました。間も無く「センチメンタル・シティロマンス」として実現させるんですが。シュガーとセンチの出会いが立て続けにあり、そのふたつのバンドが僕の人生を大きく狂わせましたw
山下くんと初めて会ったのは多分サイダー以前の大滝さんのスタジオだったと思います。なんのCMだったかはよく覚えてないのですが、シンガーズ・スリーだけじゃ足らないというのでシュガーのメンバーが呼ばれて来て。その時山下くんとは特別の話はしてないのですが、コーラスの録り方やバランスなどを話したと思います。
(73年12月17日)青山タワーホール(シュガー・ベイブ、ファースト・コンサート)で初めて彼らのステージを観ましたね。日本のラスカルズってインプットされてたでしょ。イコール・ラスカルズは無かったのですが、洋楽嗜好、願望を満足させてくれるバンドがいるというのが驚きでした。
でも山下くんが、曲の合間合間で(73年)今年のベストテンとか始めると止まらない、止まらない。他のメンバーも苦笑しているような。結局演奏が半分、喋りが半分というライヴでしたし。今から思えばレパートリーもあまり無かったのでしょうね。上手いか下手かというと、それは微妙で、技量的には多少は問題あったけれど、それを補って、十分魅力的でした。だから73.9.21「はっぴいえんど解散コンサート」で、大滝さんのバック・コーラスでしか聴けないというのは残念でした。
山下くんの印象は今(08年)と同じです。誰よりも音楽を知ってるぞ、という自信家に見えました。でも、そのことは歓迎、全く気になりませんでしたね。僕たちはそれ以前に「大滝さん経験」を十分に積んでありましたから。音楽を知ったかぶりすれば、キツいお仕置きがね、もう、分かっていましたから。
僕はその頃、稼いだお金のほとんどをレコードや本につぎ込んでいました。70年代は吉祥寺のレコードショップ芽瑠璃(めるり)堂という嗜好の強い輸入盤屋さんがあって、「ニューミュージック・マガジン」で広告を見つけると、朝から並んだものです。もし音楽知識でコンプレックスを感じていたら、いたたまれなくなったかもしれませんね。それよりも何よりも、全ての思惑を吹き飛ばす”声”が、そこにあったということです。
山下くんのCM起用はすぐには無理でした。僕はまだ見習いでしたから。でも大森昭男さんは企画段階で「どなたがいいですか?」と毎回聞いて下さる。日本のフォークから解放され、持っている洋楽知識を使える環境にはなっていました。もちろん大森さんは大滝さんをいち早く高く評価なさった方だから、山下くんの才能にもとっくに気づいていたと思います。「牧村さん、あまり予算は大きくなくてオンエアーは東京のみなんですけど」と言われた時、すぐに「山下くん」と言ったら「いいですねえ」と。大森さんが大滝さんと組まれてたので、山下くんは僕がやってもいいのかと。
それが「三愛バーゲン・フェスティバル」で、山下くんに頼んだら、彼も待っていたのだと思います。大滝さんを手伝っていた時から、そういう日を。

「三愛」「三ツ矢フルーツソーダ」「不二家ハートチョコレート」
この3本は大森さんがプロデューサー、僕がディレクターでした。当時はネットもメールもないから、出来た曲を電話口で山下くんに歌ってもらって「それで行こう」と。電話でやっても全然問題なかった。流れてくる音楽に求めているものが全部あった。やっぱり引き出しがたくさんあるんだなあ、と思った。今思えば頼んだのがキャッチーなバーゲンに飲み物とお菓子、それも運が良かったのかもしれないですね。
不二家ハートチョコレートをやった時かな、山下くんのお父さんが画面から流れてくるのを聴いて、音楽をやっていることを納得してくれたんだって。お菓子屋さんだったから、お菓子のコマーシャルを息子がやっているのを嬉しかったんじゃないかな。当時、「親父が喜びました」って言ってくれたのを生々しく覚えています。シュガー・ベイブ・ファミリーの一員になったような気がして、喜べましたね。
   
<シュガーやセンチたちと音楽出版会社をやりたい>
ONアソシエイツに居たのは短かったんですよ。当時CMの世界の中でだんだんフラストレーションが溜まり始めていました。それは来る日も来る日も15秒、30秒であること。もうひとつ、後ろにスポンサーがいること。大森さんはタフだから、ニコニコしながらスポンサーの無理難題を聞き流しているんだけど、僕は時々怒っちゃう。音楽を知らないで、ああだこうだと言いやがって、って心の中にあるから、ごまかしても顔に出てしまう。このままじゃ絶対に迷惑をかけると思って、大森さんに「1年ちょっとしか居なかったけれど、スリーミニッツの音楽の世界に戻りたいんです」って許しをもらいました。
その時に、泉谷しげるさんがエレックから独立して作った「パパソングス」っていう会社の伊藤さんが声をかけてくれた。泉谷さんは自分の稼いだお金を、ロックに回すって言って。僕を含めて何人か参加して、シュガーとセンチ、上田正樹山崎ハコとか、エレック周辺も含めて、そういう音楽の出版プロモーションの会社を起こそうとしました。実際のところはなかなかうまくいかなかったんですけどね。
当時エレックの宣伝には(沓沢/くつざわ)玄ちゃんが居て、シュガー・ベイブの強力なシンパでした。僕は吉田拓郎さんの在籍時からエレックとは付き合っていましたが、玄ちゃんの存在も大きかったと思います。ある日、彼を通じてエレックのスタジオにあるシュガー・ベイブのLFデモ(の8chマルチ)テープが消されそうだと聞きました。それで色々やって何とか救出したのですが、長い間行方不明になってしまいました。数年前のシュガー30周年にはなんとか間に合って、大滝さんの手元に戻したのです。本来は4曲入っていたんだけど、最後の1曲のイントロの頭まで既にオーバーダビングされていました。その1曲のみSONGSの30周年盤に入っています。
シュガーがエレックに決まった時には、ユイ以前からも吉田拓郎さん関連でエレックの内情は知っていましたから、ナイアガラがエレックと契約したことを大丈夫とは思えなかった。でも、ナイアガラは僕がマネージメントしていたわけでもないし、それ以上のことは言えませんでした。
僕が「パパソングス」にお世話になって1年過ぎたくらいでした。パパソングスのスタッフから、出版セクションの赤字の相談が出ました。そりゃそう、これといった収入がないのに、給料を払い続けてくれていた訳だし、これはもう外に出るしかない。でもせっかく日本にロックが芽生えるかもしれない大事な時期に、このままやめるわけにはいかないとPMP朝妻一郎さんのところに会いに行きました。で、「シュガーやセンチたちと音楽出版会社をやりたい。しかしお金がない。相談に乗ってくれますか」と頼んだら、貸してあげるって。
それで「アワハウス」を作るんですが(75年11月)、借りたお金を1年で使っちゃうんです。事務所維持と原盤製作費で消えました。当時ロック作品にお金を出してくれるレコード会社は皆無でした。どこに行っても「原盤制作費をそちらで持つなら考えるけれど、こちらでは持てない」と。そんな中で唯一CBSソニーの洋楽部が全部持つと。窓口は堤光生さん。そこまでこぎつけた時、なんとシュガー・ベイブが解散状態だと言う。僕はシュガーのセカンド制作とプロモーションを担当すると思ってたら、解散に出会ってしまった。
それで結局、山下くんとター坊のソロの手伝いをします。それが75年の暮れぐらいから始まった話。もうひとつのセンチの方は、すんなりソニーで決まった。ソニーは両方やるつもりだったのですが。それでも(堤さんの)洋楽セクションで邦楽をやるっていうコンセプトは、気に入ってました。それが出来ていたのは、吉田美奈子のRVCだけだったからです。
  
<一番熱心だったのは小杉さんのRVCでした>
シュガーのセカンドはなくなったけど、ここで諦めるのは嫌だったので、荻窪ロフトの解散コンサート(76年4月)の頃、山下くんのソロを提案したと思います。彼は「やるとしたらプロデューサーは誰々で」と考えていた。僕は海外録音を視野に入れていた。と言うのは、解散状態だったはっぴいえんどに、ベルウッドの三浦光紀さんが海外レコーディングを試みたのを見て、強く刺激されていました。憧れて真似するんじゃなく、本場に行ってしまった方がいい、プロモーションとしても有効だと。
山下くんからは、複数の海外プロデューサー候補が出てきました。第一候補がアル・ゴルゴーニで、二番手か三番手にチャーリー・カレロ。フジパシフィックから借りていたお金を持って行こう、戻ってこないかもしれないけど、と考え、原盤制作をやろうと覚悟を決めました。
フジパシフィックと、原盤と出版を共同で持つ、という前提で、手を上げてくださった2、3の会社に話しを始めました。一番熱心だったのが、日音の国際部を辞めたばかりの小杉さんが居たRVCで、山下くんと相談して決めました。小杉さんは英語が堪能ということもあり、プロデューサーの交渉にアメリカに行きました。ご存知のように、朗報を持って帰国してくれました。
最後まで理解を持って対応してくれたのは、ソニーの洋楽とRVCの2社しかなかったんです。あとは口はやりたいって言うけど、条件の話をすると、リスクは背負いたくないと逃げました。
僕がやれたことは、シュガー・ベイブが解散しても諦めなかったこと、ソロを作るように話しかけたこと、海外録音実現にお金の工面に走ったこと。そして、その後をノウハウを持ってた小杉さんに、リレー方式で託したこと。
アルバムCIRCUS TOWNはプロデューサーがチャーリー・カレロで、小杉さんと僕は裏方スタッフ。マネージメントだったり、コーディネーターだったり。今だったら、それも広義のプロデュースワークかもしれないけど、当時はプロデューサーという言葉は、もっと権威を持っていたんですね。
アメリカ・レコーディング。スタジオで起きたことは、山下くんが色々と話してくれているようだけど、言葉が出来る小杉さんには現場に居てもらって、僕はマネージメント業務。アメリカには小切手を持って行った方がいい、って銀行にそそのかされて持っていったら、「こんな銀行知らない」って言われて、スタジオどころじゃなかった。お金を下ろすのに2日間、朝から夜まで銀行に詰めてたり。
NY録音の最後の日に、チャーリー・カレロにギャランティを払いに行ったら、「お前のマネーが俺にいいアレンジをさせた」とか言われるわけです。アメリカンビジネスの現実を目の前で見ました。ユニオンという制度も初めて知って、ビジネス的には大変勉強になりました。今でもリアルなのですが、NYに着いたその日、下見に行ったメディアサウンド・スタジオ、扉を開けた瞬間のその音量、とんでもない音量で音が体にぶつかって来ました。そうか、アメリカのレコーディングって、ヒソヒソじゃないんだって。で、中に入ったらドラマーがヘッドフォンをつけてやってる、なんだこれは! 異次元に来たような気分。あの時は、もう本当にお上りさんでした。
   
<山下くんから正論が出た時に一番困りました>
CMの現場での山下くんですか? 若い時はクマってニックネームがありまして、その名にふさわしく、スタジオでグルグル歩き回り落ち着きがない。それはアイデアを考えてる時の無意識の癖なんですね。それと、音楽のこととなると話が止まらなくて、もともと豊富な知識を持っていて、声が人一倍通るから、山下くんを知らない人たちには攻撃的に見えて、まるでクマ。脅威でしたね。
僕はそれが好印象だったんです。生意気だって言う人もいましたけど、自分の芸術に対して強いエゴがなければ、音楽家はできないと思っていました。生意気OK、癖が強いのもOK、そこまで真剣だからこそ、一緒に仕事をするのが面白かったのです。僕がその頃気にしていたのは、むしろ経済的なことで、ステージに出てもメンバー全員で何千円しかギャラがなくて、それを分け合ってる。どれだけ厳しいかっていうのが分かっていたから、一円でも多くお金が渡るようにしてあげたい。そういう心配の方が問題でした。
CM制作の現場では山下くんと僕の共同作業でもあったから、クライアントへの応対も含め、ぶつかったりすることが起こらないよう、お互い注意深くしてたと思います。クライアントと喧嘩すれば、「あいつは外せ」となるだけだし。その辺の事情は山下くんも理解してくれてて、心の中でイラッときていたとしても、実際に困ったなあとなったことは一度もなかったのです。「うーん、これは…」なんて声が出た時も「こう言うのもあるんですけど聞いてもらえますか?」みたいに。大森さんや僕の立場を理解してくれていた。
本当にコマーシャル制作で、山下くんとやりにくいと思ったことは、一度もないですよ。5時間といったら5時間ですし、3時間なら3時間で仕上げてくれました。楽しかったですよ、一緒に仕事をするのが。
そんな中、シュガーがレコーディングを始めて、すごく大変で、その悩みを聞くことや、相談が増えて、それまで以上に話しようになったかな。それとお互いセンチやセンチのスタッフと親しい間柄だったので、そんなこともあって、ざっくばらんに話をしてくれるようになったと思います。
ぶつかったこと? そうですね、ソロを作るようになったあたりからでしょう。いいモノを作れば自信も出来、山下くんはもっと山下達郎の考えを出したい。僕らは山下くんと同じように主張すれば、まだ強権を持っていた側からはスポイルされました。結果、妥協もして、山下くんから正論が出た時に一番困りました。
僕はレコーディングのお金をどう作ろうとか、スタッフに給料を出さなくてはというところで、そろそろ精一杯でしたし、技術的にもまだ未熟でしょ。音楽的な面では大丈夫だと思っていましたが。同じ側にいたのですから。
そう言えば、マスコミ側からよく言われたんだけど、「なんで男なのに裏声出して、気持ち悪いねえ」って。音楽の基礎知識がない人たちは、せいぜいフォークの延長で聴いてますからね。まあ見当違いな批評ばかりだった。
  
<絶対に売れるレコード作ってやるからなって>
山下くんからの影響も、もちろんありましたよ。僕はまずフォーク側の一員でいた頃に、かなりはっぴいえんどの音楽に刺激を受けました。幸運にもその一員だった大滝さんのコマーシャル仕事を通じて、山下くんと出会います。彼に会えたことで、また新たな出会いが起こるのです。
僕には誇れる才能があります。それはまず、人に出会える才能。出会った人たちが持っている、それぞれの極めたすごい知識や技術、それに触れて、影響される才能。それを自分の中でかきまわしているうちに、自分なりのものがいつか出来てくる、運ですね。
大滝さんや山下くんと出会う前はビーチ・ボーイズの全レコードを聴こうなんて思いもしないし、ひょっとすると「サーフィンUSA」一曲で終わりだったなんてね。フィフス・アヴェニュー・バンドなんて知らないよ、って。
やはり出会ったことによって、たくさんの技術と知識、夢を教えてもらいました。そういう蓄積が30代になってプロデューサーになろうとした時、たいへん役に立ちました。未だにずっと学びっぱなしだし、ものすごく吸収しぱなっしです。
竹内まりやさんのことで言えば、彼女のレコードで山下くんに曲(ブルー・ホライズン)を書いてもらい、歌入れのレコーディングでスタジオに来てもらいました。僕たちはかなり良い出来のボーカルが録れていると思っていましたが、「歌い方が違う。今から歌うから」って。曲が見違えるように変わりました。それはシャッフルの曲で、シャッフルぐらい知ってるはずなのに、シャッフルってこういう風に歌うんだって、初めてそこで知ったわけです。万事勉強ですよ。山下くんからだけじゃなくて、その後いろんな方から学んだけれど、その時の事はまだ光景を思い出せます。
キングレコードのお手伝いから、六文銭マネージャー、ユイ、ONアソシエイツ、パパソングス、そしてアワハウス立ち上げ…そのアワハウスがダメになった時、朝妻さんから「良いレコードは作るけど、売れるレコードを作れないね」って言われたんです。本当に頭にくるでしょう。次は絶対に売れるレコードを作ってやる。それは復讐劇でしたね。いや、ある意味では褒めてくれたのかもしれないですが。
ミュージシャンは、良いレコードを作るのが、まず大事なことだと思います。だけど、スタッフまでが一緒になって良いレコードを作ってる自己満足を、多分冷やかされたと思うんです。喧嘩してでも売れるレコードを作れ、って言いたかったんだろうと思うんです。トノバン(加藤和彦)はね、若い時、僕にすごいことを言うんですよ。「プロデューサーの仕事はチャートで1位を獲ることでしょ」って。これが頭にこびりついていましたね。
本当に1位を獲りに行って、獲ったのは「い・け・な・い ルージュ・マジック」(1982年)かな。他はね、なんか定番の4位とか6位とかね、今一歩なんですよ。まりやさんも大体4位くらいだったかな。でも僕には1位にならなくてもベストテンなら十分でした。少なくとも「売れないねえ」とは、もう言われませんでした。山下くんがソロデビューしたのは76年。78年11月にまりやさんがデビューして、79年には出るシングルが、すべて一応チャートインするようになっていました。
本当は1位にそれほどこだわっていたわけじゃなく、むしろ1位を取る辛さ、売れる辛さっていうのは、売れてから初めて知りました。山下くんも多分そうだと思います。売れなかった辛さもあったと思いますけど、売れてしまえば、あることないことの中傷や、勝手な期待がのしかかってきます。そういう意味では、この73年から76年と言う時期は、経済的には辛かったけど、すごくまっすぐな楽しい時だったと思います。シュガーやセンチのメンバーやスタッフが、へとへとになりながら自分たちで楽器を運んでセットし、バラしていました。できたらスタッフを雇ってカバーしてあげたい、音楽や演奏に集中させたいなと思っても、そんなお金なんかなかった。山下くんもボロボロの車を運転しながら、黙々と運んでいたしね。
振り返ってみればその苦労も幸せのうちですよね、って言う人もいるけど、それはとんでもないですね。音楽をやる前に、もうボロボロになっているんですからね。体験していない、他人が言うセリフだと思います。76年に会社を作って1年ちょっとで事実上の破産。当時はロックやポップスでは収入がなくて、出ていくお金ばかりなんだから、そんなの分かり切ったことなのにあえてやってしまった。
でも、よく生き残ってきましたよね、お互いに。
【外伝7 了】