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ヒストリーオブ山下達郎 第19回 サーカス・タウン 1976年10月発売へ

<悔いが残るとしたら、歌が追いつけなかった>
チャーリー・カレロは確かに変わった人だったけど、今にして思えば、彼も日本人と仕事をするのは初めてだったし、向こうは向こうなりに構えていたんだと思う。だけど、仕事してる時は集中力の鬼だったよ。
最初に言われたのは「なぜ自分を選んだんだ?」ということと「なんでNYでやりたいんだ?」ということ。これも一生忘れないけど「お前の音楽はNYというより、シカゴの感じがする」って。それはすごく意外な台詞だったけど。
で、「あなたは60年代のロイヤル・ティーンズの頃からやっている人だから」って答えたら、「なんでロイヤル・ティーンズを知っているんだ?」「いや、僕はフォー・シーズンズが好きだから。だからロイヤル・ティーンズからフォー・シーズンズフランキー・ヴァリからローラ・ニーロまで、アメリカ音楽の歴史で、現在まで第一線でやっている人はなかなか居ない」って言ったの。そういう人じゃないとダメだ、と思ったからと。そしたら「ふーん」って感じで、納得したような、しないような。
でも、忘れられないことはいくつかあって。「お前はどういうミュージシャンが好きなんだ?」って、僕はここを先途(せんど)と、ハル・ブレインだ、ジョー・オズボーンだ、と言いまくったら、彼はただ一言、「彼らは確かに67年には有名だったが、今はもう違う」と。あの一言が、僕の一生を決めたね。
そんな答えは予想だにしなかったからね。今考えたら当たり前だけど、ヒットソングの世界は「今」だからね。好むと好まざるに拘わらず。チャーリー・カレロの言葉だから、説得力というか重みがあった。
何しろスコアの凄さ。無駄が無いんだよ。なんでこういう音の積み方をするんだろうって。あの時に、もっと突っ込んで聞ければよかったんだけど、とても聞けなかった。チャーリー・カレロのスコアってオーソドックスなんだけど、アイデアに溢れてた。そういうのは見たことが無かった。グレン・ミラーとかトミー・ドーシーとかのフルバンドのやり方とも違うし、その後いろんな仕事をしてきたけど、あのチャーリー・カレロにやってもらったスコアが一番刺激的だった。ウィットが効いてるというか。「サーカス・タウン」のイントロとか。
アレンジに対して僕からの注文なんてないよ。あるわけないじゃない。予想以上だもの。ただただ驚愕で。一つ悔いが残るとしたら、歌が全く追いついて行けなかった。緊張しちゃって声が思うように出なくてね。ヴォーカル録りはエンジニアのジョー・ヨルゲンセンとの二人きりで。だからOKは自分で出した。でも、もし今だったらって言ったら変だけど、もう少し精神的に余裕があったら、もうちょっと良い歌が歌えたんだけど。一曲、「言えなかった言葉を」をボツったのはキーの設定を誤って、高くしすぎて声が出なかったの。
演奏のOKに関しては、ほとんど1テイク、2テイク。1回練習して、次にもう本番。チャーリー・カレロは全部書き譜で、練習時の細かい注文など無し。OKテイクでも別に褒めない。ソロ楽器のダビングではずいぶんヨイショしてたけど。
でもね、あの時のNYのミュージシャンは愛想が悪いっていうか、そういうのはあったけど、音楽にはとても真面目だったよ。スタジオの中でキーボードとギターとチャーリー・カレロを囲んで、何か話し合ってるんだよ。「永遠に」なんかで。何やってるんだろうって見ていたら、10分ほどして呼ばれてさ。「なんでここのコードはこういくんだ、ってあいつらが言ってる。ここはこう行った方がプログレッション的にはいいだろうって」「それは確かにそうだけど、メロディーがこうだから、こうした方が良いと思った」なんて感じで説明したら、納得した。
だから真面目に取り組んでいるんだな、と思ったよ。決して手抜きじゃない。まあ、当たり前なんだけど。そういうスタイルなんだろうね。
僕とチャーリーがすごく揉めた時もあったのね。ラテン・パーカッションを入れるかどうかで。僕が「サーカス・タウン」にコンガを入れたいと言ったら、「いらない」って。どうしても入れたいんだ、って言ったら、「お前にその理由を教えてやる」と。
どこまで本当か分からないけど、その時僕が言われたのは「俺が一番好きなカルロス・マーティンというラテン・パーカッショニストが居たけど、彼は最近死んだんだ。俺の一番好きなプレイヤーが居なくなったから、ラテンは要らない」って。不思議な人だったなあ。
いまだにあのレコーディングくらい記憶に残っているものはないよ。リズム・セクションの緊張感というか、あれだけの演奏のテンションを見たことも、あれ以来ほとんど無いし。それに匹敵するようなテンションはRIDE ON TIME以降の青山純伊藤広規が入ってきたセッションで、何回か有るくらいでね。
やっぱり、本当の意味での世界の16ビートの頂点だった時代。おそらくチャーリー・パーカージョン・コルトレーンモダンジャズ時代のスタジオって、本当に凄かった、って思うよ。スタジオはライヴを越えられない、って言うけど、越えられる人もいるんだよね。だからあのレコーディングは返す返すも、もう少し歌がちゃんとできれば、なんの問題も無かったんだけど。
  
<ロサンゼルスでは途中でやめて帰ろうかと思った>
NYではリズム録りが2日、ブラスが1日、いや2日あったかもしれない。ストリングスが2日。すごいよね、ストリングスを1日3曲録っちゃうんだから。ヴォーカルは2日もらったかな。あとソロ関係。ミックスダウンに2日。ミックスも2日で5曲やっちゃうんだよね。
でもね、何が一番手応えあったかというと、サウンドは思い通りだったの。自分の着想は間違ってなかったという、それははっきり感じた。スタッフを選んだのは僕だからね。それは目論見通り、NYはね。ロスはドタバタだったけど。
NYで5曲録って、2週間弱いたのかな。8月16日に日本を出て、9月の頭に帰ってきているから、アメリカには3週間いたんだよね。NYに2週間だから、ロスが1週間。
ロスはジミー・サイターがセッションを仕切ってて、弟のドラムのジョン・サイターがホンダ・シビックに僕らを乗せて、スタジオに連れて行ってくれた。
で、最初に来たギターがビル・ハウスで、ベースは名前忘れちゃったけど、フィフス・ディメンションのステージ・バンドの人でね。その後、メリサ・マンチェスターのバックで日本に来た時に観たことあるけど、これがどうしようもなくてさ。ビル・ハウスはいつもラリってて、音色はひどいし、どこが良いのか全然分からなかった。
キーボードのジョン・ホブスは上手い人だったし、ドラムもピーター・ゴールウェイとかでやってる人だから、そっちは良いんだけど、とにかくベースがひどくて、OKテイクが全然録れないんだよ。1日で2曲録ったけど、良いの全然録れなくて。一応スケジュールは3日あったんだけど、このままじゃダメだ。しょうがない、どうしようかと煮詰まっちゃった。
ホテルに帰る道すがら、車の中で「明日やってダメだったら帰ろうか」なんて小杉さんと話してたら、ジョン・サイターが「コーラスはジェリー・イエスターとケニー・アルトマンに頼んである」って言うんだよ。「ちょっと待ってよ、ケニー・アルトマンがいるんだったら彼にベース弾いてもらってよ!」「あいつでいいの?」「今日のベースより全然良いでしょ」って。ギターはどうする?って言ったら、ジョン・ホブスが、自分のバンド仲間を連れてくるって言ってくれて、ビリー・ウォーカーっていうブルース・ジョンストン(ビーチ・ボーイズ)と瓜二つの顔の人が来て。この人は上手くてね。
それでケニー・アルトマンとビリー・ウォーカーにメンバーを替えて、2日間で4曲録ったの。それでセーフ。で、ジェリー・イエスターとケニー、それにジョン・サイターと僕の4人でコーラスをやった。実質3日。
NYのスタジオでは緊張しちゃってた。でも、今でもスタジオ行く行く時だって、そんなにルンルン気分じゃ無いもの。スタジオくのが楽しくて、みたいなのが有るけど、そういう人の気が知れないね。今だって思い通りの音が出なかったらどうしようかとか、色々考えるもの。ソロ楽器のプレイヤーが来てダビングする時は、それなりに緊張するよ。特にスケジュールが詰まっている時にはね。本当の意味でスタジオで冷静にやれるようになったのは、80年代の固定メンバーになってからだね。
だから、海外レコーディングはカルチャー・ショックって言うのが正直なところだね。まず日本で朝10時からスタートっていうのがあり得ないでしょ。朝の10時に全員揃っているというのが不思議で。あまりに日本のミュージシャンと体質が違う。朝の10時なんて、当時の日本ではCM以外あり得なかった。とにかく、最初に一流のものを見ておかないとダメだね。あのレコーディングがソロ活動のとっかかりでしょ。あれが今までと同じようなことでやっていたら、その後の音楽の作り方が全然違ってたね。
ロスが先でなくて本当に良かった。やっぱりロスとNYの差ってあそこなんだな、って。シビアさの違い。でもロスはロスでね、結果オーライだったけどね。もう一回やってみたいもの、あのメンバーで。特にジョン・ホブスはすごく上手い人で、人間的にも素晴らしかった。
  
<あんな上手いミュージシャンとやったら、もう何も怖くない>
NYからロスに行くのは、くたびれたね。当時のNYは治安が悪かったから、なんたってホテルをチェックアウトする時に、セーフティ・デポジット(貴重品預かり)したのが無いって言うんだよ。パスポートから何から全部入っているって言うのに。それも小杉さんが大暴れしたら、隣のボックスに入ってたって。わざと言ったんだね。すごい世界、あの当時は。だから、しっかりカバンを握りしめて歩いてた。
ロスでは基本的にクルマ移動だからね。当時の治安はロスの方が少しマシだったみたい。泊まるのもモーテルだったし。
レコーディングの方はリラックスしてたかと言えば、そうでもない。だけどロスの方が人間的には他人行儀じゃないから。それこそジョン・サイターの奥さんが食事を作ってくれたり、そう言うのがあったから、フレンドリーといえばフレンドリーだったけどね。小杉さんの友達だったし。でも、レコーディングはそれとは別だよ。
ロスでのプロデュース・クレジットは共同で、僕とジョン・サイター。でも、編曲は僕だから。それはシュガー・ベイブの延長みたいなものだったからね。NYでは曲作りとシンガーだったけど。
だから、ロス用に持って行った「夏の陽」なんかロスでやるからいいんだけど、あれ以降あんな曲は一曲も書いたことないもの。でもレコーディングの経験があるといっても、やっぱりシュガー・ベイブの時代でしょ。録音にそれほど習熟している訳でもないから。結局、仲間内っていうか、内輪の友達とレコーディングしてたんで、赤の他人とやったわけじゃないからね。だから、本当の意味で習熟してきたのはSPACY以降、スタジオ・ミュージシャンを使ってやるようになったり、他人の曲を書いたり、そういうことをしていってからだよね。
だからまあ、あんな上手いミュージシャンとやったら、もう何も怖くない。誰が来てもビビらない。あと考慮すべきは人間関係であってね。
演奏の上手い下手って、人間性には関係ないんだよね。それを得てして逃避的に考えるというか、スタジオ仕事でも、ともすれば気の合う人間同士で和気藹々とナアナアで行きたがるじゃない。でも、それじゃダメなんだよね。それは本当に学んだよね。
例えば佐藤(博)くんなんて、コミュニケーションが取れるようになったのは、ずいぶん後になってからだからね。佐藤くんもすごく個性的な人だから、レコーディングはずいぶん頼んだけど、実は人間的コミュニケーションなんてそれほど無かった。それでも、ひとたび弾けばすごいんだから。それでいいんだ、って思えるのは、あのNYの経験があったからね。大仏(高水健司/ベース)とか細野(晴臣)さんとか、みんなクセあったし、松木(恒秀)さんなんて気難しくてホントに大変だった。
77年だから、24歳くらいから、そういうクセ者のスタジオ・ミュージシャンとやってきて、その時には大して話してなかった人が、それから25年くらい経って「なんで最近俺を使わないんだ」とか言われるっていうのは、だったらあの時もうちょっと愛想よくしてよ、みたいなw 
だからすごく意外なのが、佐藤くんは当時そんなこと、おくびにも出さなかったけどRIDE ON TIMEやFOR YOUの時に「それなりのインパクトを感じてた」って、後で言われて、よく考えたら、そうだよね。
だから歌以外の部分では、NYレコーディングはすごく自信になったよ。本当にCIRCUS TOWNはあと3、4歳、歳をとって経験を積んでやれば、もっとちゃんとできてたんだろうけど、まあ、ないものねだりだよね。
とにかくスタジオミュージック全盛の時だから、NYではちょうど24トラックのレコーダーが導入されたばかりで、AMPEX456っていう高性能録音テープが出てきた頃、どちらもまだ日本には導入されてなかった。それがCIRCUS TOWNの音なんだよね。トータル・リミッターなんてまだ使われてなくて、それであの音像は凄いと思うよ。2002年にRCA/AIRイヤーズのリマスターしたでしょ。あの時に久しぶりにマルチを出してきて、CUEシートを見ながら音を聴いたけど、素晴らしかったね。
マスタリングはロスのRCAでやったの。その違いを感じたのは、実際のお皿になってからだね。せっかく向こうでレコーディングするんだから、マスターもカッティングも向こうでやらなきゃって言ったのは僕なんだよね。A面とB面を別にやるわけには行かないから、ロスのRCAのカッティングルームに行って、ラッカー盤は72時間しか持たないんで、手荷物で持って帰って、そのままビクターに持って行った。ビクターはそれだけの手間ひまかけた海外レコーディングだからって、初版は高音質盤用の良いビニールを使ってくれたの。これは良い音がした。
あの時、ロスでカッティング作業を生まれて初めて見たんだ。SONGSの時には行ってないから。
NYレコーディングで、自分の音に関するセンスっていうか、こういうものをやりたい、というのは正しいと思った。あとはそれをどう実現するかだな、と思っていたら、チャーリー・カレロがスコアをくれたんだ。ミックス・ダウンが終わった時にスタジオで、これをやるから勉強しろって。
で、スタジオにいる人に「誰にでもやるのか?」って聞いたら、そんなことないって。今でも持ってるけど、鉛筆書きなんだよね。凄く綺麗に書いてあるの。リズム・セクションの譜面と、ストリングスの譜面が別にあってね。もう、その後の僕は、完全にそのクローンというか。他人のスコアとか、見られそうで見られないからね。グレン・ミラーとかドン・セベスキーのスコアとかは出版されてるけど。
  
<取材ではケンカをしたり途中で帰ったりしたよ>
CIRCUS TOWNのジャケットについては、あの頃はアート・ディレクションとかの発想なんて何も無かったから、あれは(吉田)美奈子の推薦でペーター佐藤さんに頼んで、カメラマンはペーターの関係で小暮徹さんが出てきた。そこから小暮さんとペーターとのラインでずっと行くことになるの。結局、何だかんだ言ってRIDE ON TIMEまでそのコンビなんだね。ペーターがNYに行ってる時代には、奥村(靫正)さんが入ってきたりはあるけど。でもね、あれは非常に手の掛かった優れたアートワークだと思うよ。一度撮った写真をブラウン管に写して、それを色調整して、もう一回撮ってという、非常に工夫があるの。
ペーターはユーミンの「コバルト・アワー」とか、美奈子の一連のアルバムとかやってたから。小暮さんも「シーズンズ・グリーティングス」まで頼んでいるからね。僕は小暮さん大好きなんだけど、フォト・セッションがえらく長いんだよ。すごく時間が掛かるんだ。でも、人の縁には恵まれているよね。
レコーディングから帰国して、すぐ業界紙のインタビュー受けたけど、ケンカしたw
人を30分待たせて、で、「どうも」ってジャケットを机の上に放り出して「聴いたんですけど、かったるいよね、これはっきり言って。何でこんなの海外レコーディングしなけりゃいけないの?」「てめえのツラの方がよっぽどかったるいよ」って、帰ってきたw
レコード会社の宣伝担当は焦っちゃって。そいつの名前も忘れちゃったけどね。ただ、その後会ったことあるけど、本人は全然覚えてないんだ。なお悪いことに、それが一番最初の取材だったんだよ。あの頃はそんなのばっかりだったな。途中で帰ったりとか。今は丸くなったよね。シュガー・ベイブの時からそういうの多かったからね。でも、ちゃんとした人にはちゃんと応対したよ。
SONGSが出た時に野音のライブの後で、何かの取材があって、そのインタビュアーが洋楽ワケシリ顔で「君たちのギターってミック・ロンソンみたいだね」って。あんた、ちゃんと勉強してきなよ、って。ハンチクな評論家もどきが多かったからね。もちろん全部がそうなわけじゃない。「プレイボーイ」の長沢潔さんとか、きちっとした人はきちっとしてたよ。音楽誌でも「新譜ジャーナル」とか「ライトミュージック」とか、そういうのはごく普通にやれてた。
この時のRVCは、結構大きな予算をかけて宣伝してくれた。とは言え、RCAって企業力が弱い上に、特にニューミュージック関係のラジオ番組なんて、ほとんどなくて。栃木放送のローカル番組が1本とか、築地のラジオ制作会社のローカル番組が1本とか、そんな有様だった。後はFM東京の「ニューミュージック共和国」と小室(等)さんの「音楽夜話」ぐらいしかなかった。それ以外の取材を取って来いって、歌謡曲セクションの宣伝マンが駆り出されて、いろいろ頑張ったんだよね。
でも、取ってきてくれても、僕が嫌だって断ったり、現場でもめたりしちゃうから、怒ってさ。頑張って取って来たのに。「もう絶対あいつはやらない」って、そういう時代だったんだ。まだあの頃は、日本のフォーク・ロック関係の宣伝なんて、何にも形がなかったからね。歌謡班の持ってくる取材やラジオ番組には、とんでもないのがいくつもあって、僕がそれに反発するから、あいつはやりたくないと言うことになってね。あとRCAには一応、北海道、仙台、東京、横浜、名古屋、広島、博多に営業所があったから、地方プロモーションもちゃんとやってたんだ。むしろ地方の方がスムーズで、名古屋で東海ラジオミッドナイト東海」に出て、その時には(笑福亭)鶴瓶さんと初めて会って。彼は優しい人だったな。地方のラジオ・ディレクターにはずいぶん可愛がってもらってたね。
そういう人がいるかと思うと、FM東京の番組にゲストに出た時、何の番組か忘れちゃったけど、その人は司会兼ディレクターみたいなことをやっていてね。カフが落ちて、曲がかかってるあいだ中「君さぁ、こういうの合わないからやめなさいよ」とか、「君は歌を歌うより、作曲家とかの方が向いてるよ」とか。僕は「プロモーションに来たんだから、そういうこと言わないでください」って。オンエア中は普通にやってるんだけど、曲がかかると「また、君さー」って始まる。もう頭にきて「いい加減にしろよ」って言ったら、「そんなことをお前に言われる筋合いない」って。
要するに評論家というか、プロデューサー気取りなんだよ。だから、お前が黙るか、俺が帰るか、どっちかにしろって。そうすると「あいつは生意気だ」ってことになるの。そんなの繰り返し。まぁやっぱりシュガー・ベイブから1年経ってないでしょ。オールナイトニッポンも、前に言ったみたいに亀裂がありながら、やってたからね。
だから、今のバンドの子みたいに、コンビニでバイトしながらインディーズでデビューして、メジャーになって、では業界のことが全くわからないじゃない。でも、僕は74年からCMやってたから、この時点で2年以上やってたし。他の人のレコーディングとかもやっていたでしょ。だからひと通り業界には通じていた。だけど、相手は僕がぽっと出の新人歌手として見るから、そのギャップがすごくあったんだよね。
自分としてはRCAに来て、ようやくメジャーな会社に来たなと思ったよ。それこそ会社に行くとちゃんと「ウェルカム」とか書いてあって、廊下で「いらっしゃい」とか言われたり、それが2年ぐらい経つと「あれ?まだ君いたの?」とかなるんだけどw
RCAは「演歌のRCA」って言われていて、藤圭子和田アキ子、クールファイブ、西城秀樹、そうそうたる布陣だったからね。ニューミュージックでまともに成立してたのは吉田美奈子だけだった。桑名(正博)くんはまだブレイクしてなかったし。やっぱり美奈子は村井邦彦さんだったからね。小杉さんとしては美奈子のプロモーションを見てるから、それには負けたくないというのがあって、結構頑張ったんだよね。
で、僕は理不尽なことに対して、喧嘩っ早かったんだよね。だからといって従順に何でも言うこと聞いてたら、今頃どうなっていたことか。今も昔もみんなおとなしいというか、言うべきことはちゃんと言わない、いや言えない。こちとらは、あの頃からスタジオの扉に張り紙して「部外者立ち入り禁止」とか平気だったものねw
そういう意味では音楽こそポップだったけど、精神的にはパンクの連中とあんまり変わらなかった。
今はよくも悪くも、ビジネスとして成立するようになったでしょ。だから取材する側も、きちっとした対応が義務付けられるじゃない。ライターにしても、あの頃はさぁ、ロックだフォークだニューミュージックだなんて、何だかよくわからないモノだったんだよね。日本の芸能界にとっても、それまでの主流の音楽フィールドとは全然違っていたし。ある意味、今のインディーよりもマイナーだったからね。
【第19回 了】