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ヒストリーオブ山下達郎 第24回 クールスNY録音と、大阪での「BOMBER」ヒット 78〜79年

<クールスのレコーディングで度胸は付くもギャラは無し>
GO AHEAD!(78年12月発売)のレコーディングが終わって、すぐにクールスのニューヨーク・レコーディングへ行った(アルバム「NEW YORK CITY N.Y.」79年3月発売)。その仕事の結果、ヤンキーが怖くなくなったw ヤンキーというのは関西用語で、東京では当時ツッパリって言ってたけど、とにかくクールスと仕事したおかげで、リーゼントと革ジャンに対する偏見が全くなくなった。それはその後、シャネルズと出会った時なんかに、とても生きたね。
あと、ロックンロールの音作りをあの時代にやれたことも、とても良かった。シュガー・ベイブ時代は日本のフォーク・ロックの初期段階で、自分たちの音楽スタイルを厳しく自主規定しないと、個性化、差別化が出来なかったから、ロックンロールなんてCM以外じゃやらなかった。ソロになっても、あの頃のスタジオ・ミュージシャンはロックンロールをむやみに毛嫌いしてたから、そういう曲調は賛同を得られなかった。意外かつ幸運なことに、クールスはとても演奏力があったんだ。リズムセクションのグルーヴがすごく良かった。そして何よりクールスのメンバーには、ジェームス藤木という優れたメロディメーカーが居た。彼の作品は本当にクオリティが高くてね。ギタリストとしても素晴らしかった。だからスタジオ作業自体はとても楽しめたよ。
予算は分からない。あの当時はプロデューサーといってもあくまでサウンド面だけのことでね(アルバムのクレジットには”SOUND CREATIVE PRODUCER”と表記)。バジェットとか、そういう生臭い問題にはほとんどタッチしてなかった。それどころか、結果的に僕はあのクールスの仕事では、ギャラを一銭ももらえてないんだよ。だから、経験を積んだだけ。あとはNYでレコードを買えただけでw いまだにその辺は、何が何だったのか分からない。マネージメントがいい加減だったんだろうけど、とにかくタダ働きだったことは事実でね。でも、まあ1978年のNYでレコード漁りができたことだけは、あの仕事に感謝してるよ。あの時は、自分の貯金を全部おろして行ったんだ。
ちょうど、エピック・ソニーの堤光生さんがNYに居たので(当時エピックソニー洋楽エグゼクティブとしてNY在住)、彼に中古レコード屋をたくさん教えてもらってね。「山下くんはドゥーワップが好きだから」って連れて行かれたのが、グリニッジ・ビレッジのフリーマーケットみたいな場所にあったレコード屋、というより屋台だね。段ボール箱に入れて売られていたシングルは、全部ドゥーワップで、もちろんオリジナル盤が中心だった。そこに、レコーディングが休みの日曜日ごとに通いつめてね。欲しいの選り分けていると、店の太った白人の親父が「順番を変えるな」って怒るの。「いやこれ欲しいから」って。初めはうさん臭げに見ていたけど、まぁあの当時、20代のロン毛の日本人が狂ったようにドゥーワップのシングルを漁っているんだから、無理もないよね。3回目の訪問くらいから愛想が良くなってきて、そうなると今度はいろんなものを持ってきて「これ持ってるか」「なんだ、こんなものも知らないのか」てな具合でw だけど結構親切に教えてくれるんだ。「これはセカンドプレスだ」とか「これはリプロ(複製)だけど、オリジナルなんてお目にかかれないから、これを買っておいたほうがいい」とかね。そこでトランク2個分のシングルを買った。まだ1枚が3ドル、5ドル位の時代で、そのうえ当時は1ドル180円の比較的円高だったので、たくさん買えた。あの時に買ったものが、今でも僕のメイン・コレクションなんだ。それで所持金は一銭残らずレコードに使って、それでも足りなくて、クールスのスタッフにアドバンス(前借り)してもらって、それでまたレコードを買った。まぁあれがギャラみたいなもんだったかもしれないけど、後から思えば、あの時にもっとアドバンスしてもらえば、よかったんだよなw
レコーディングはプラザ・サウンドという、ラジオシティー・ミュージックホールのビルの7階から8階にあった古いスタジオでやったんだけど、レコーディング期間はそれなりにあったんだよ。
ただ、レコーディングの後半にニューヨークでライブをやる、っていう話が持ち上がってね。CBGB’sか、マクサス・カンサスシティのどっちかでやりたいって。どちらも当時のニューヨークでは、代表的なロックのライブハウスだった。ところが、それがマネージメントの主導権争いから手違いが起こって、ダブルブッキングになってしまった。CBGB’sとマクサスが、同日、同時刻のまま「ビレッジ・ボイス」に出演告知が載ってしまったの。2つのライブハウスは、見開きページ左右でスケジュールが出ていたので、大変なことになった。結局はマクサス・カンサスシティになったんだけど。
でも僕は、お願いだからライブなんかやめてくれ、ってずっと言ってたんだ。レコーディングしていて、歌入れも終わってないんだからって。でも結局やることになって。だけどライブをやるとしたら、楽器は誰が運ぶんだって。スタッフ連れてきてないどころか、基本スタジオでの作業は、ドラムス、ギター、ベースから、僕が全部ひとりでセッティングして、チューニングもしてたんだからさ。で、結局はレンタカーを借りて、それに僕が楽器を積んで運転して、ひとりでライブのセッティングをしてやった。要するにひとりでローディーをやったわけ。クールスの連中はリムジンで乗り付けて、ヌンチャク振り回しながら入ってきたw 
演奏自体はまあ無事に終わったんだけど、案の定、シンガーが声を枯らして、レコーディングが中断。どうしようもなくて実は1曲、僕が部分的に歌っているんだよ。巻き舌の歌い方を真似してねw そのおかげでレコーディングが3日も押したの。我々の後にスタジオに入る予定だったのが、ロバート・ゴードンだったんだけど、向こうのプロデューサーと交渉して、スケジュールを3日だけ空けてもらった。どうやってやったのか、今では全く覚えてないんだけど、とにかく自分で交渉して、お金まで決めてるんだよね。まさに窮すれば通ず(つうず)でね。それで、ようやくミックスが間に合って、マスタリングもアメリカでやって帰ることになっていたので、ひとりでスターリング・サウンドでマスタリングに立ち会って、ラッカー盤を持って、帰ってきた。たったひとりきりで、よくやったよね。忘れられないよ。ああいう経験をすると、度胸がついて何も怖くなくなる。きっとあの調子で1年くらいいたら、英語も結構しゃべれるようになったんだろうけどねw
結局ああいうのって、放り出されて覚えた仕事だから、決して忘れられないんだよ。これは後で聞いた話なんだけど、クールスがトリオレコードに在籍していた時代に、A&Rを担当した人間は全部で7人くらいいたらしいんだけど、その中で肉体的制裁、つまりヤキを入れられなかったのは、僕だけだったそうw
だって、僕は本当に一生懸命やったからね。おそらく他のA&Rには、彼らの音楽性に対して、素人くさいとか下手だとかで、どこかで馬鹿にしてるとか、そういう部分があったんだろうね。僕はそういう感情は皆無だったからね。確かにスタジオ・ミュージシャンのような上手さはないけれど、そんなものロックンロールには不要だもの。バンドとしてのまとまりもあったし、音楽に対する真摯さもちゃんとあった。だから、それを受け止めて、ちゃんと正面から向き合えば、言うことも聞いてくれた。例えばニューヨークでは9曲録ったんだけど「収録時間が長いから8曲にしたい、そうしないとレコードのカッティング・レベルがしょぼくなる」っていうのを説明するのが、大変だったんだ。ホテルで6対1で話するんだけど、「せっかく録ったのになんで入れないんだ」って言われて、「スターリング・サウンドっていう、アメリカで最も優れたカッティングができる所で、せっかくやるんだから、良い音にしたい」って言うと「カッティングってなんだ」って。でも、最終的には全員納得してくれたよ。
メンバー以外にレコーディングに来てたのは宣伝部長だけで、毎晩どっかで飲んでたw だから僕はプロデューサー兼現場の手配とか、まぁ通訳はいたけど現場の段取りに関してはそんな感じで。僕、そういうの、その前にも後にもたくさんあるんだよ、ひとりでやらされるのって。おかげでいろいろ覚えられたけどね。
    
<すべては「BOMBER」から始まった>
ニューヨークから帰って、すぐに渋谷公会堂のライブだね、初めての渋公、78年12月26日。このときのバックメンバーは豪華と言えば豪華で(POPPIN’ TIMEのメンバー)、どうしてこうなったか、多分リハーサル時間がすごく少なかったから、短時間であげないといけないので、やっぱり譜面に強い人たちって、そうなったんだと思うよ。この時のステージで覚えているのは、3曲目で気管支に唾液が入ってむせて、声が出なくなったり、それは覚えてるなぁ。
この時期の小杉さんの僕に対する路線は、ほぼ全部、桑名くんのやっていたことの踏襲なの。大ホールでワンマンライヴをするとかね。桑名くんは中野サンプラザで最初にソロライブを始めたんだけど、最初の頃はかなり動員に苦しんでた。で、その次は僕の渋公。僕のほうも最初はきついと思ったんだけど、1600〜1700人入って、思ったより動員が良かったので、ソーゴーのスタッフも驚いていた。で、内容的にもソーゴーのトップの人が好きな音だったので、本腰を入れてやってくれるようになったんだ。
だから、本当にいろんな意味で、この時期がターニングポイントなんだよね。あとは時代が変わっていく時に、自分の音楽性が持ち上げられて行くのか、沈んで行くのかっていう。それは時代との、ほとんど偶然性なんだ。だって「PAPER DOLL」や「BOMBER」みたいな曲、昔は作らなかったもの。
あとGO AHEAD!では、オリジナル・アルバムでは初めてのカヴァー「THIS COULD BE THE NIGHT」をやったでしょ。カヴァーをやろうということも、当時はかなりプロデューサー的発想だよ。「THIS COULD BE THE NIGHT」はやりたかったんだ。エンジニアが吉田保さんだったでしょ。スペクターっぽい音だったら、吉田さんだなって思ったの。78年の前半あたりにウエラのシャンプーのCMをやったのね。結局採用にはならなかったんだけど、その演奏を僕は一人多重でやったんだよ。それはビーチ・ボーイズの「LITTLE SAINT NICK」みたいなオケを目指してて、吉田さんにビーチ・ボーイズの「クリスマス・アルバム」を持っていって、聴かせたの。そしたら、これはオフ・マイクを立てて録ってるんだよって。で、オフ・マイクをドラムに立てて、そのテイクはなかなか良かったんだ。それで、ちょうど76年か77年にイギリスでフィル・スペクターのレアマスター盤が出たでしょ。あれで、生まれて初めて「THIS COULD BE THE NIGHT」を聴いたわけ。いい曲だとは思ったけど、あの曖昧な調性のベースを、もっと普通に戻してやった方が綺麗に仕上がるんじゃないかと思って、それでカヴァーしたんだよね。
レコーディングは音響ハウスで、ちょうど同時期に桑名くんのアルバムを作ってて、僕のセッションの前が桑名くんのリズム録りだった。で、トン(林敏明)のドラムがセッティングされてたので、それをそのまま借りて叩いたの。あの頃はしばしば桑名くんのスケジュールと並行してやっていたからね。
この頃になるとRCAもビューティーペアしかヒットがなかった頃は抜け出しかけてて、まりやがヒットしたり、越美晴ちゃんがヒットしたり、桑名くんが売れてきたりしてたし、なんたってYMCA前夜だからね、(RCA所属の西城)秀樹の。
だけど、多分小杉さんにとって意外かつチャンスだったのは、このあとのMOONGLOW(79年10月発売)の前の頃になると、会社は僕のアルバムが意外と堅いって評価するようになったのね。というのは、返品率が非常に小さいので、グロスはそれほどでなくとも、利益率が結果的に高くなる。あの当時、アルバムというのは単価が高かったので、歌謡曲でも、それほどメガに売れる時代じゃなかった。だけど、しばしば数字かせぎによる過剰出荷の結果、返品が激しくなって、利益率が下がるという。その点、ロック、フォーク、ニューミュージック関係はほとんど返品がなかった。なので、レコード会社がこっちにちょっとシフトしたっていうか。
MOONGLOWがロングセラーになったでしょ。やっぱりシングルよりアルバムが売れると、売り上げ幅が大きいからね。そういうところがちょっと、その後のブレイクの前哨戦というか。そう考えると、色々なことがあったね。
周りが変化し始めた。要するに乗っけられてきた。それまで僕は、完全に自分の意志で作ってるわけ。だけどここからは、特にMOONGLOWは完全な座付きだものね。例えば、ライヴでやれるような曲を作らなきゃいけないとか、ファンク路線で行くとか、「BOMBER」が大阪でウケたんで、その延長なんだよね。だから仮にあの時に「潮騒」がウケてたら、ルパート・ホルムスとか、そういうふうになったかもしれないし。それも運命だよね。それまでは1曲たりとも、そういうパイロットっていうか、突出した曲はなかったから。だから全ては「BOMBER」から始まったんだよ(シングル「LET’S DANCE BABY/BOMBER」79年1月発売)。
それまでシングルは出してないからね。アルバム・アーティストと呼ばれてたわけだから。だから「LOVE SPACE」なんかはマニアには評判高かったけど、あれは一般受けする曲じゃないから。それで石原くんはGO AHEAD!(79年12月発売)のプロモーションをやるときに「BOMBER」を聴いて、これをディスコで仕掛けようって、年末から動き始めたんだよね。それが1月になって、火が付き出して。だからいろんなファクターが入ってる。面白いよね。
   
<GO AHEAD!はオーディオ的には素晴らしいと思う>
GO AHEAD!のジャケットは、POPPIN’ TIMEと似てるというか、同じなのw 予算も時間もなかった。あの当時はRCAに限らず、レコード会社にはデザインルームっていうのがあって、放っておいたらそこに回される。だけど当時のデザイン部門は、普通の会社員が部署配属でやっていたんで、アマチュアもいいとこだった。ミスプリは日常茶飯事だったし。
だから最初は外部のデザイナーに頼んだんだけど、そっちはそっちでギャラが高くてね。この時代はとにかく予算がなかったので、ペーター佐藤さんに個人的にお願いして、全部やってもらって、イラストも3日で上げてもらったんだよ。だけど、新しいアーティスト写真なんてなかったから、以前の写真の使い回しでイラストを描いてもらったので、同じものを着てるという。よくある話なんだけどさ。でもアイズレー・ブラザースも同じ写真を使って、アルバムを作ってたりするよw そんなふうにGO AHEAD!の時は、全てに切羽詰まってたの。自分としては変な気分だった。みんなに言われたもの、まとまりがないって。
でも、勢いはある。だってメンバーに気を使ってないからね。「BOMBER」なんて椎名くん、自分で何をやってるのか、分からなかったんだもの。なんでこんな音で、俺が弾かなきゃならないんだってw で、あれよあれよという間にレコーディングが終わっちゃって。でも彼にとって、あれが人生最高のソロだっていうから、人間わからないよね。どう弾くかは指示はしたんだ。でも本人は何をやってるのか、よく分からない。もちろんギターソロのところは、譜面じゃないけどね。
あのアルバムは、16チャンネルでレコーディングした最後なのね。だからその後の24チャンネルとはダイナミックレンジが全然違うんだよ。いい音してるんだよ。ずっと後になって吉田さんが「いい音してるね」って感心していた。自分で録ったのにねw あとRCAの第一編集室ってすごくシンプルなスタジオで、ラインの引き回しもめちゃくちゃ単純だったの。テレコもマイクに直繋ぎみたいな機材だから、それでかえっていい音がしたんだよ。ドルビーもないし、エコーマシンは1台しかない。オーディオ的には素晴らしいと思う。
あの時代はオーディオ的には非常に優れていたと思う。だから音楽的にも、いろんなスタイルが無理なくやれてる。ファンクから、ストリングスが入ってるバラードから、スペクターサウンドもあるし。今更だけど録音ってすごく重要で、同じ演奏をしていても、録り方で全く印象が変わるから。
このアルバムは本当にアナログ的な音でね。1曲目の「オーヴァーチュア」のアカペラとかもさ、あれも第一編集室で録ってるんだけど、素晴らしい音だと思うよ。あとで他のスタジオで録ったものよりも、全然いい。だから、そういういろんな意味で、過渡期っていうかね。腐りかけの時が一番旨いというw

腐りかけっていうのは、もう自分がやめようと思ってたからね。もうこれで、終わりだと思ってた。「BOMBER」の大阪のヒットがなければ、おそらく絶対に続けてない。だから「BOMBER」のヒットでは、本当に狐につままれた。あれで、客層がガラッと変わったのね。僕はディスコなんて全く無縁。でもここから先、79年はもうディスコばっかりになったよね。アン・ルイスにしろ、何にしろ。不思議な1年だった。得体の知れない感じ。
ただ、これでレコーディングはいいとして、ライヴは不安だった。やってなかったし。でも昔とった杵柄というか、シュガーベイブ時代の感じを体が覚えてて、ライヴに出て行ったら、出来た。でなければ、渋谷公会堂で一発目なんか出来るわけないよね。運だよね、本当に。小杉さんがひとり頑張っただけっていうか。
GO AHEAD!のセールスは、前の2枚よりは格段に良かった。やっぱりそれは「BOMBER」のせいなの。このアルバムは総数の半分は、大阪で売れたんだよ。それまではほとんど、東京だけの売り上げだったからね。それでツアーに出ろ、という話になってきて。ソーゴーもやる気になってたし、それで79年6月から東京の日本青年館、大阪サンケイホール、名古屋の雲龍ホール、福岡の電気ホールの4か所でツアーをして、その間に次のアルバムのレコーディングを始めたの。
で、ちょうどその頃に青山純伊藤広規が出てきたのね。とあるイベントでにたまたま吉田美奈子が出た時に、二人が出てて、いいのがいると教えてくれた。それでセッションで何回かやって、少しづつ練習して、ツアーメンバーを替えて行ったの。本当に運命って不思議なもので、このあたりからブレイクに向けて、のぼり調子でずっと行くんだけど、その過程でメンツがそろっていくんだよ。次のMOONGLOWの前にシングル「愛を描いて〜LET’S KISS THE SUN/潮騒」(79年4月発売)があるね、いよいよタイアップ(JAL日本航空)が始まるんですよ。
       
<”夜ヒット”に出ていたら別のストーリーがあったんだろうね>
そういうふうに売れていくようになると、スケジュール的にもやっぱり、スタジオ・ミュージシャンのリズム・セクションでやってるのは、辛くなるんだよね。リズムをポンタたちでなくしたのは、他にも色々と理由があって。
例えば78年12月にGO AHEAD!を出したときに、フジテレビの「夜のヒットスタジオ」に出るという話があったの。番組側はOKだったんだけど、ミュージシャンのギャラや日程が全く合わなくて、実現しなかった。だからツアーとかそういうものをやるためには、もっと小回りのきく、自前のバンドじゃなきゃダメということになって。だったら、一番やりやすいのはGO AHEAD!の録音メンバー(ユカリ、田中、難波、椎名)だろうって。そこにコーラスで美奈子やター坊に入ってもらって。で、やりながら少しづつメンバーを替えていって、リズムセクションが青山と広規になってから、サックスに土岐さんを入れた。
土岐さんを入れたのは、サックスが欲しかったんだけど、いかにも歌伴専門というサックスは嫌だったのね。これはいつも言ってるけど、基本的に僕はジャズクラブで吹いている人しか、ジャズとして認めない体質なのでね。そういうことがいろいろあって、土岐さんが一番知的というか、上品なプレイをする人だったんで。
で、夜ヒットだけどね、もしフジテレビと予算の折り合いが付いていたら、出てたと思うよ。だって、その予定で進んでたしね。テレビに出たいとか出たくないとか、そんなこと言える時代じゃなかったもの。だからその後は、テレビの歌番組に出ないままでブレイクしたから、もう別にいいやっていう結果論的発想だから。だってCMには出たんだからね、騙されてたけどw
でも、あの時、本当に「夜ヒット」に出ていたら、また別のストーリーがあったんだろうね。それも歴史の不思議だけどね。
【第24回 了】