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ヒストリーオブ山下達郎 第30回 ON THE STREET CORNER(80年12月5日発売)

<一人アカペラは一日で全部録らなきゃならない>
アカペラ・アルバムの構想は以前からあった。一番最初に一人アカペラでドゥーワップをやったのは、79年のFLYING TOURのライヴでだった。その時に、ジェスターズの「THE WIND」をやったのが、既成のドゥーワップをステージでやった最初だと思う。その前は「三ツ矢サイダー」のCMとか、「MARIE」(IT’S A POPPIN TIME収録)とか、そういうので、それらしいことはやってたけど、本当のドゥーワップは初めて。それが結構ウケて、その次のライヴではムーングロウズの「MOST OF ALL」だったかな。そういう感じでステージ用に作ったソースが「ON THE STREET CORNER(以下オンスト)」の元になってる。77年頃からそういう一人アカペラを実験的に試みていて、まあいけるかなと思って始めた。
でも、一人アカペラをいざやる段になって練習すると、テイクを重ねていく過程でタテの線(フレーズやブレスのタイミング)がズレるの。それは人間の持つリズム感の特質でね。ドンカマ(リズムマシン)を聴きながら、重ねていくんだけど、気分でやっていると、初めはどうしてもノリが前のめりで、ツッコミ気味になる。そのうちにだんだんドンカマとタイミング合ってきて、そうなると、歌い始めた時のタイミングとズレが生じる。なので、それを初めから終わりまで、同じタイミングで揃えるという訓練をかなりやった。 完全にできるようになるまで、本当に1年ぐらいかかったよ。ハーモニーの部分とベースのコンビネーション、例えば「高気圧ガール」みたいに上のコーラスのリフと、下のベースが違う曲は、とりわけ難しい。特に日を改めると、 絶対に合わないんだよね。
だから、1日で全部を録らなきゃならない。今日はここまでにして、明日はその残りをやるということが出来ないんだ。タイミングがずれてしまって、絶対に合わない。体調は同じでも、今日のバイオリズムと、明日のバイオリズムが違うんだと思う。だから、どんなものでも1日で完成させないとダメで。実際に「オンスト2」に入れた「YOU MAKE ME FEEL BRAND NEW」みたいなすごく凝った曲でも、1日で録ってるのね。「クリスマスイブ」の間奏も1日で。
歌(リード・ヴォーカル)は独立のノリでいいから、大丈夫なの。でもコーラスの3声とかは、絶対に1日でやり切っちゃわないと、完璧に合うという事は絶対にない。特にベースと上の関係はね。ハネてる曲なんて、もっとそうだよ。これはいまだにそう。だからやり直す場合は、初めから全部。これはフィジカルの問題でね。 だってそうじゃなきゃ、例えば体操なんかは、いつだって最高難度の技を出せるでしょ。フィギアスケートでも、4回転ジャンプできる日と、できない日があるじゃない。それと同じようなことなんだ。
重ねる回数は、増やそうと思えばいくらでも増やせるんだけど、一人アカペラっていうのはそんなに増やしても厚みは変わらない。一番問題なのは、全部自分の声だから声の波形が同じでしょ。同じ波形を重ねていくと、高周波変調っていう、干渉(うなり)が同じところで生じて、共振する現象が起こるんだ。ビーって鳴るとか。それを抑えるのが、すごく大変なの。映像で言うモワレ(しま模様)みたいなもので。それは声だけじゃなくて、フルートとか単純波形の楽器は特に出やすい。フルートは特にきれいなサインウェーブ(正弦波=雑音のない綺麗な波形)に近い楽器だから。サインウェーブをむやみに重ねていくと干渉して変な音になるのね。だから、波形を変形させるエフェクター、例えばリング・モジュレーターってそういう効果を使ってるんだけど、それと同じようなことが起こるんだ。エンジニアの吉田保さんは最初それで、すごく苦労したって言ってた。高周波変調を防ぐためにリミッターをかけるとか、EQ(イコライザー)を調整するとかね。あとは歌い方もトーンを整えるとか、フレーズのお尻をちゃんと揃えるとか、そういうところを本当にシビアにやらないと綺麗には仕上がらない。
「オンスト2」に入っている「ホワイト・クリスマス」は、その前に出ていた「クリスマス・イブ」のピクチャーレコードに入っていたテイクとは違っていて、ピクチャーレコードのテイクはアナログレコーダーで録ってて、フレーズを一節ごとに別に歌って、それをあとでテープで繋げてる。そうしないとテンポの微妙な変化が作れなかった。でも「オンスト2」のテイクはデジタル録音なので、シーケンサーを使って、テンポの変化をあらかじめ構築できるようになった。
その結果、4パートの12声、それの細かい部分、例えば歌い出しの♪I’m dreaming 〜ChristmasのSの着地なんかが、完璧に合うようになった。そうしたらウチの奥さんに「合い過ぎてる」って言われた。シーケンス・ミュージックは、その合い過ぎが良いんだけど、生楽器至上主義の人にとっては、その合い過ぎがイヤだっていうこともあるんだよね。
だから。それこそ76年の「三ツ矢サイダー」から始めて、ずっとやっているうちに、一人アカペラをやる上での問題点みたいなものがいろいろ出て来て、それを研究してクリアしていったの。エンジニアの側もそうだし、こっちの歌い方も工夫して。特にタテの線を揃えるのにはかなり訓練しないといけない。でも、訓練していくと面白いもので、楽器のクリックの合わせ方も見えてくるし、リズム感も良くなってくるの。それで「オンスト」を作りたくなって来たんだ。
   
<「オンスト」はここしか出すタイミングがないと思った>
最初の「オンスト」が出たのは80年12月だけど、その1年前からステージでドゥーワップをやっているからね。「THE WIND」に「MOST OF ALL」、フォーシーズンズの「ALONE」と、もう一曲なんかあったな。「THAT’S MY DESIRE」は78年12月の渋谷公会堂の時からあった。それに何曲か足して「オンスト」を作ろうと思ったんだけど、レコード会社は「こんなもの、売れるわけがない」と言う。「それよりCM(ソング)アルバムを出せ」って。大滝さんの「ナイアガラCMスペシャル(77年3月発売)」が売れてたので、「お前もやれ」と。だから「それよりも(僕の)アルバムなりシングルを売ってください。そうしたらCM全集なり、なんなりとやってあげます」って答えた。78〜79年頃の話かな。
それで、そろそろブレイクの兆しが出て来た頃に、ブレイクしたら絶対に「オンスト」を出すぞ、と思ってたんだ。で、シングルのRIDE ON TIMEがヒットして、9月に(その)アルバムが出た。その直後の12月に「オンスト」を出すことに、みんな結構反対したのね。「オリジナル・アルバムの売れ行きに影響が出るから、止めろ」って。でも、ここしか出すしかタイミングがないと思ったの。
僕はこのアルバムを出すのは、絶対にクリスマス時期じゃないとダメだ、と思ったんだ。年が明けて暖かくなってからじゃダメだと。それに、そんなにヒット曲なんて続くと思わなったからね。RIDE ON TIMEのヒットは絶対にフロックだって。だから、このチャンスに絶対「オンスト」を出すんだと思って、すごく急いで作ったから、初回盤は実際の曲順と、レーベルの記載が間違ってたり、いろいろあった。
初回は限定盤だったけど、ヒットが出るとレコード会社は現金なもので、その時に売れるものは、何でも数字を乗っけようとする。だけどアカペラのアルバムなんて、そんなに売れるわけないじゃない。だから限定7万枚にしたんだ。それはあっという間に売り切れた。案の定、追加してくれって言ってきたけど、僕は断ったんだ。会社は僕に黙って3万枚くらい追加プレスしたらしいんだけどw
まあ今から考えると、確かにもうちょっと後にしていれば、RIDE ON TIMEのアルバム売り上げが、もう少し伸びたかな、とも思うけど、当時は気が急いでいるっていうか。27歳でね。あの頃のミュージシャンの寿命は30歳って言われてたし、結婚すると人気が陰るとかね。芸能界的だけど。そういう1980年だった。
   
福田一郎さんの言葉は確かにその通りだと思った>
結果的に「オンスト」は、僕のヘヴィ・ユーザーを固めることにはなったのかもしれない。でも「オンスト」をプロモーションする時には、そもそもドゥーワップってなんだ、っていう説明をするのが大変でね。面白い話をいろいろ覚えてる。
「ニューヨークタイムス」の記者が、インタビューしたいと言って来て。その人は日本語がちょっと話せたの。日本駐在員だったのかな。確か「プレイボーイ」か「平凡パンチ」にページを持っていて、その人がインタビューに来た。彼が聞いて来たのは、ようするに「何で日本人なのにドゥーワップなんだ?」って。こっちは「じゃあ、何で日本人がドゥーワップやっちゃいけないんだ」って、そういうやりとりで。その人はポール・サイモンのハイスクールの同級生だそうで、NY生まれの白人なんだけど、「あなたのドゥーワップは全然泥臭くない。ストリート・ミュージックとは違う」と。「それはあなたの生まれ故郷の話でしょ。僕は日本人で、そういう文化のないところで、これをやっているんだ」って。いちいち全部がそういう論争で。記事はすごく褒めて書いてくれたんだけど、でもその時は、日本人の言うロックとかそういうものを、完全に上から目線で見てるこの人よりも、僕の方がドゥーワップをよっぽど理解できてる、と思った。僕のそういった反論に、彼は分かったような分からないような、変な顔してるんだよねw その人にとってみたら、そういう答えが出てくるのが意外だったのかもしれない。それはすごくよく覚えている。
他にはね、「オンスト」が出た直後の80年12月26日から28日の3日間、中野サンプラザでライヴをやったのね。その時のアカペラは、ダブスの「CHAPLE OF DREAMS」をやったんだけど、とにかく気持ちが急いでいるから「オンスト」の曲をやらなかった。もうその先に行ってたんだ。で、そのステージを観た福田一郎さん(1925-2003)と何日か後に食事したんだけど、その時に福田さんが「山下くんねえ、やっぱりアルバムが出たら、お客はね、出たばっかりのアルバムの曲を聴きたいだろうなって、この老人は思うんだよ」って。それは確かにその通りだと思った。グッド・サジェスチョンだなって。色々な場面で意見をくれる音楽評論家はいるけど、僕が本当に共感できることを言われたのは、殆どそれ一回きりだね。流石に福田一郎、だと思って。なかなかそういう見地で意見を言ってくれる人はいないから。
この80年に一番思ったのは、僕は76年デビューだけど、それまでルックスのことなんて一度も言われたことがなかったの。ところがRIDE ON TIMEがヒットした途端にそんな話が始まって、なるほどこれが芸能界なんだなあ、って思ったね。それと前にも話した、突撃カメラマンの恐怖とかね。そういうものに巻き込まれないためにも、「オンスト」みたいなもの、「BIG WAVE」もそうだけど、そういう芸能界的価値観に対置させるものを、常に作り続けなきゃダメだという危機感は、そこから発してるんだよ。やっぱりブレイク、ヒットのお釣りというか反動っていうか、みんな多分、そういうのを味わってると思うんだけど。
そうなるとやっぱり、どれだけ引き出しを持っているかなの。でも最近(2013年)はそういうことすら教えないというか、みんな引き出しが出来きらないうちから、息切れしていくんだ。もっと先に行けばいいのに。見ていて何か違うと思う。
例えば今、カヴァー(アルバム)が流行っているけど、同じカヴァーするにしても、もっとやり方があるだろうと思う。例えば、誰も知らないカヴァーだったら、オリジナルアルバムと呼べるものを作れるのに、なんでみんな知ってる曲ばかりカヴァーするんだろうね。知ってる曲じゃないとポピュリズムにアピールできないからかな? カラオケの延長みたいなもの? 昔はカラオケなんてなかったからね。
    
<いろいろなものの蓄積が80年にひとつ、結晶するんだ>
面白いもので、ちょうどいい時に青山純伊藤広規が出現して、バンドも固定のメンバーになったけれど、それまでにいろいろなメンツでやってきて、僕がアレンジしてた。ブラスとか弦(ストリングス)とか。そこでいろいろトライ&エラーがあったんだよね。その上での究極のメンツになったというか、そこでドンと来た。
実はRIDE ON TIMEのアルバムにはストリングスが入ってないんだよ。ストリングスが入ってないアルバムって、僕の中では珍しい。何故かと言ったら、やっぱり僕はコンボ(小編成のバンド)の方が好きなんだったんだけど、コンボだけでは説得力が持ち切れないとなると、ストリングスにいくんだよね。今のレコーディングって、みんなそうじゃない。だからRIDE ON TIMEにストリングスが一つも入ってないというのは、それだけリズム隊に自信があったからなんだね。でも、それはそれまでのトライ&エラーの結果。
そこからFOR YOU(82年1月発売)に行くんだけど、そこでもブラスとか、パターンの組み上げ方っていうのが、それまで3年くらい、ああでもない、こうでもないって、やったことが一挙に出てくる。「オンスト」も全く同じことで、コーラスをずっとやって来たでしょ。曲をいろいろ書いていく場合、コーラスは大きなファクターだったし、シュガー・ベイブが解散してから、スタジオ仕事では吉田美奈子とふたりでコーラスをやってたけど、男のパートは僕一人でやるから、 必然的に一人コーラスになっていくんだよね。
そういった、いろいろなものの蓄積が80年にひとつ、結晶するんだ。時の運というものは面白いもので。だから、なんで「オンスト」作ったのかって、みんなに聞かれたんだけど、この時、ここで出しておかないと、もう二度と出せないだろうって思ってたからなんだ。
「オンスト」のレコーディングにはそれほど時間もかからなかった。だってステージ素材として、何曲かはもう完成してたからね。
「オンスト」はアルバムRIDE ON TIMEが完成したした後、六本木ソニーのスタジオで録ったんだ。六本木のソニースタジオのスケジュールは、一日2セッションになっていて、昼の12時から夜6時までのセッションと、夜7時から終わりなしのセッションの二つだった。RIDE ON TIMEの時は夜7時から終わりなしでずっとやってたんだけど、「オンスト」のときには、美奈子が夜の部でレコーディングをやっていたので、僕は12時から夜6時までのセッションしか取れなかった。それで「オンスト」のレコーディングを一日一曲で作っちゃわないとだめだから、12時から夜6時で、ずーっと突貫工事でやってたら、風邪ひいた。
(社内からは反対の声もあった)「オンスト」の発売に対して、小杉さんは「いいんじゃない?」って感じだった。エアーレーベルとしては、数字がつくから事業計画が伸びるじゃない。だからアイテムもたくさんあるほど良い。ユーミンにしても美奈子にしても、ある時期すごく短期間で3枚くらい続けて出しているんだけど、それは何故かと言うと、エサ箱(レコード店のアーティスト別コーナー)を作りたいんだよ。小杉さんもね、エサ箱にたくさんのアイテムが入っていた方が良い、っていう人だから。レコード会社ってそういうもんなんだよ。
   
<アランに発音を矯正された数週間はカルチャーショックだった>
80年の「オンスト」は、86年に「オンスト2」を出すときに「オンスト1」として再発売された。実は「オンスト」は歌詞の聞き取りが、いまいち不正確な部分があったのと、僕の英語の発音が悪いところも多かった。僕の英語は耳学問だから、あの時点ではあまり正確な発音じゃなかった。それをBIG WAVE(84年6月発売)の時にアラン・オデイに徹底的に矯正された。それで「オンスト2」を作るときに、1の方も歌を全部入れ直した。 だから今流通している「オンスト1」は歌を入れ直したバージョンなんだ。歌が不満なんじゃなくて、英語の発音がまずかったから入れ直した。それが一番大きな理由。アランに発音を矯正された数週間はけっこうカルチャーショックだった。 英語の発音の基礎っていうのを、30歳を超えてようやく仕込まれたんだよね。うちの奥さんに言わせたら「今頃わかったの?」ってことになるんだろうけど。そういう話をした事は無いけど、うちの奥さんは高校生の時、留学する前の一年間、東京に通って、英語の先生についてたんだけど、最初はABCの発音から始めるんだって。なにそれって思ったんだけど「A」って言うと「違う!」。「B」って言うと「違う!」って言われる。それがカルチャーショックだったんだって。
外国人が、そんなことを厳密にやってるとも思えないんだけど、でもアランは「君は日本人だから、ちゃんとやらなければダメだ」って言う。一時が万事そういうことでね。Beachなんかだと「”ch”をちゃんと言え」とか「”The”はなんのためにある?」とかね。アランは厳しいんだw「日本人はみんなLとRの発音ばっかり気にするけど、もっと重要なことがある」って。「日本人は冠詞の”a”とか“the”とかが弱い」とかね、そういうことをいろいろ指摘された。その時のアランはすごかったよ。
一番言われたのは、僕はラティーノ(米国に住んでいる、スペイン語が母国語の中南米出身者やその子孫)の英語に近いんだって。Summerとかの”er”や、Throatとか。日本語の子音の発音がスペイン語に近いのかな。そういう言語学的な英語の世界っていうのは、84年にアランに徹底的にやられるまで、大して関心もなかった。僕の英語なんて、完全に雰囲気英語だったからね。でも、うちの奥さんみたいに、自分ではできるけど、人には教えられないっていう人もいてね。彼女は自分ではSummerの発音ができるんだけど、人にこうしなさいとは言えないわけ。「私は通訳じゃない」っていつも言うけど。アランはね、けっこう先生的なところがあって、とにかくやっつけられた。それで「オンスト」の最初の(歌)を改めて聴くと、これではダメだな、ということでね。
僕の英語を褒めてもらえるというのは、それはアランのおかげ。英語の発音にはコツがある。だからそのコツが一回わかればできるんだ。でも、僕の発音が完璧だっていうのは、あくまでも教材的な英語なんだよね。それだけが良いってことじゃない。だってラッパーの英語は完璧じゃないでしょ、ちゃんと思いが伝われば良い。「それってマジ?」なんて、それは日本語かっていう。でも、伝わるからね。
   
<「ハイティーン・ブギ」のときにはもう移籍は決まっていた>
80年といえば近藤真彦、マッチのデビュー。80年の終わりが「スニーカーぶる〜す」で。82年に僕は「ハイティーン・ブギ」をやった。この時には僕のレコード会社移籍は決まってた。表立っては発表してないけど、 役員は全部知っているという状況。
80年から81年、その頃小杉さんはもう歌謡曲はやりたくなかったらしいんだけど、RVCがマッチを獲ろうということになった時に、小杉さんがジャニーズと関係があったので、マッチが来たら、小杉さんがディレクションをやるって話になったのね。 でも無条件では嫌だから、プロモーション・フィーのフィードバックと、RCAのスタジオを立てるっていう条件を出した。結局マッチが来て、小杉さんがディレクションをしたんだけど、その約束は守られなかった。それが81年のこと。それでRCA(RVC)を辞めたんだ。
レーベルの特質というのはいろいろあるんだけど、基本的には独立採算で、予算は他の部署とは別枠になっている。で、それに見合った自由裁量権を持っているの。でも当時のエアーレーベルには、そこまでの自由は許されなかった。RVCは外資だから、アメリカ側がOKすればいいはずなんだけど、当時の日本的な企業体質がそれを許さなかったのかな。やっぱり独占したいから囲い込みをするっていうか、そういう体質があった。それで日本のレコード会社はダメになっていったんだけどね。エアーレーベルはスタッフが10人足らずだったし、なんたってRVCは演歌や歌謡曲の勢力が強かったから。それに加えて、社長交代とかいろんなファクターがあってね。だから「ハイティーン・ブギ」をやる頃には、そういうところにいてもしょうがない、って状況になっていったんだよ。
       
<コンサートでは音を全部ラインで出すことにした>
80年の終わりから81年の頭は、いちばんツアーをやったとき。あのツアーは本当に過酷だったからね。だって4連チャンで乗り打ち(連日違う場所でのライヴ)とかさ。それこそ朝の8時40分の電車に乗って、3時間揺られてその街について、会館の食堂でカツカレー食べて、リハーサルをやっての繰り返しでしょ。で、ホテルは狭いビジネスホテルで、毛布1枚の乾燥しきった部屋。あの頃の機材車が4トン車1台だったんだよ。4トン車1台だとセットなんてもちろん無理だし、何よりPAが十分に積めない。ウーハー(低音用スピーカー)が片側4発しか積めないのね。ウーハーが片側4発じゃ、 札幌厚生年金会館ホール(現ニトリ文化ホール)とかの2,000人以上の会場だと、とても音がうしろまで届かない。それをどうしようと、椎名(和夫)くんと二人で考えて、音をアンプじゃなくて全部ラインで出すことにした。マイクで録るのはドラムとピアノだけにして、ギター、ベース、キーボード類は、全部ラインで直接、卓に送って、音を出した。楽器からPAに直に繋いでるから、効率が良い。要するに音量を稼げる。結果アンプを使わないことになるから、余計な音の回り込みがなくなった。
あの時代のモニターマンは田島(啓資)くんていう人で、今はアルフィーPAセクションの社長をやっているけど、彼は僕が人生で知っている中でも、one of the bestモニターマンだった。アンプから音を出さずに、ステージ上のモニタースピーカーからの音だけで、ライヴがやれた。 そういう音場が作れたの。彼は本当に上手かったから、それでやれたんだ。ステージ上の余計な音の回り込みがないから、本当に洋楽のライブみたいな音がした。客席への音出しをやっていたPAミキサーの長曽我部(久)くんもうまかったし。
  
< ライヴは根気強く、何回もやっていこうと思ってた>
地方の客の入りは、全然(ダメ)だった。 いつも言ってるけど、1,700席の会場で1,200人くらいの入り。全国的にそうだった。新潟のように最初からいっぱい、時折そういう場所もあったけど、やっぱり宮崎とか熊本だとか1,500のキャパで1,000人。金沢の厚生年金ホール(現・本多の森ホール)は 1,700席なんだけどそこで600人だったのね。今でも覚えてるけど、守衛さんが出てきて「今日はよく入ってるな」って。他はもっと入ってなかったんだねwそんなもんだったんだよ。
お客さんの入りがそうでも、一所懸命やってましたよ。オフコースがライヴごとに200人、300人、400人と増やしていった話とか、アリスが年間320本ライブをやった話とか、そういうのは死ぬほど聞いてるからね。初めはそういうもんなんだ、やっぱり本数をやらなきゃダメなんだって、全国のイベンターが全員、異口同音(いくどうおん)に言ってたから。 だから、根気強く何回もやっていこうと思ってたよ。でもね、後で桑田佳祐くんとそういう話をしたことがあるんだけど、サザンオールスターズも、春と秋にツアーをやってた時代には、宮城県民会館(現・東京エレクトロンホール宮城)で2日やると、1日目は2階席に空席があったって。やりすぎだったんだね。だけど、それを超えないと本当の意味で、お客さんが入るようにはならないんだ。そういうセオリーが、昔ははっきりあったの。だからセオリーにのっとってやって、駄目だったから、そこで止めるとかね。そういう見切りもはっきりしてたんだ。今はそういうことがファジーっていうか、計画性とか戦略が全然ない。多分ライヴをわかってないんだよね、みんな。
昔ほどみんなライヴの本数をやっていないというか、できないんだよ。経費が昔より一桁が増えてるからね。とにかく諸経費が高騰している。イントレ(足場)や照明や何かの機材とか、凝った演出とか、そういう経費が上がりすぎているので、ホールツアーを10本やってもペイしない。かといって、チケット代をやたら高くもできないし、今は景気も悪いからスポンサーもつけられないでしょ。下手すると、やればやるほど赤字になる。悪循環なんだ。あの時代、景気が良かったのか悪かったのかわからないけれど、そんなふうにみんな戦略を立てながらやってきて、本当にお客が入るようになった。今はそういうプロセスすっ飛ばして、結論だけで始めちゃうんだよね、みんな。そこからライヴが変になってきたんだよ。
今ドームコンサートでも、経費のかかりすぎで、利益が出る事はほとんどないって言うからね。でも、なぜそれでも、みんなドームでやるかっていうと、 ビッグスターというイメージ。どっちがセットに金がかかっているかというような競争意識。セットを豪華にしないとお客さんが来ないっていう恐怖感。そういうもので競い合ってるから、後戻りできないんだろうね。
これもいつも言ってるけど、50本、60本のライブを全国のイベンターと組んで、くまなく回していくっていう、今の僕のやり方みたいなのは、もう旧態然としたスタイルだけど、こういう形が一番健全で、 全員ハッピーなんだよ。セットにお金がかかってますね、って言われるけど、こういう規模でやっていれば、ある程度投資しても、ちゃんと利益が出るんだよ。そういう現実を誰も言わないけど。
   
< ライヴをやりながらマーケティングを勉強した>
この頃は、最終的に僕は、スタッフになると思っていたからね。だからホール・ツアーをやっているときは、いつも実券がどれだけ売れただとか、動員がどうだったかってことも、教えてもらってた。例えば、1,700席のホールで1,200枚しか売れてなかったら、タダ券でいいから動員をかけて、絶対満席にしろって、事務所が言うことが多いんだ。
でも僕のライヴでは動員を一切かけなかった。「今日は実券が何枚出てる」っていう情報を、必ず教えてくれたんだけど、それは小杉さん達が、将来僕がスタッフになった時、ものを作るときの実質的な原価を、把握している必要がある、その勉強になるからって。
でも当時、僕と同じようなことをやっている例は、 全くなかった。逆にチケットの実売枚数なんか、出演者に教えちゃダメだって言われてた。ステージから降りるときには、みんな拍手で迎えて、気持ちよくさせとけばいいって。実際に、ある事務所の社長に言われたことがあるんだ。「うちのあいつには絶対教えるなよ」って。ステージの原価計算とか、ギャラをいくらとってるとか、パーセンテージがどうだとか、そういうビジネス的な真実を絶対に教えちゃいけないって、釘を刺されたことがある。それは事務所の経営方針の違いだから、そっちはそうでもこっちは違うんだって。
結局、僕はそうやって教えられていくと、コンサート・ツアーってもののマーケティングが理解できるようになる。ミュージシャンのギャラから始まって、機材費、会館の費用とかの制作費、そういうものが把握できるようになるわけ。レコードに関しても、ライヴ会場の即売はどういう仕組みになっているのか、とかね。各地のホールでのレコード販売権をどのレコード店が持っているかとか。そういうことを、現地のセールスマンに習うんだ。
当時僕は27、8歳だったでしょ。 現地のセールスマンも同じくらいの歳の人が多かったの。僕はディーラー・コンベンションという、小売店の人たちとのミーティングを79年から始めてたから、セールスマンも大体みんな顔見知りではあるんだけどね。地方にプロモーションに行くと、例えば博多の営業所だと、セールスマンが博多にいるのは、月の内5日か6日ぐらいなんだよ。 あとはみんな九州各地を回っている。当時は店の数が多かったから、各テリトリーで、月に20日くらい、 安い宿に泊まって、集金や受注をしながら周って行くの。ライヴの即売には、そういう人たちが来るんだ、ご当地のセールスマンだからね。そういう人たちと、宮崎とか鹿児島の屋台で飲むと、いろんな話を聞かせてくれるの。どこのお店がどうだとか。「じゃあまた明後日の鹿児島でね」とか「じゃあ、また秋にね」とかそういう感じで、彼らとは長い付き合いがある。そういうところで、僕は勉強したんだ。なんでそんなことを勉強したかっていうと、将来のためだったの。それだけじゃなくて、すごく面白い体験だったけどね。
そういうことをするミュージシャンは珍しいと思う。だからね、よくインタビューで「1位獲った気持ちは?」とか聞かれるんだけど、そんなの全くないの。「なんでそんなに平常心で、何事もなかったようにいられるんですか?」とかね。だけど、僕はそういうことで興奮したりするような教育を、受けてこなかったんだよ。どんなに頑張ったって、1位を獲れないこともあるし、思いがけずラッキーってこともある。それをいちいち人と握手なんかしたってしょうがない。だから、僕は本番15秒前に舞台袖で、みんなで輪になってとか、そういう事は絶対にしないし、できない。それが平常心と言うなら、そうなんだろうけどね。特にマスコミと呼ばれる人たちは「1位獲ってどうですか」とか「フェスで3万人集まってどういう気持ちですか」って聞いてくるけど、そんなのないのよ。音作ってるのと、演奏してるので精一杯なんだから。
でも、そういう反応って多分わかってもらえないんだろうね。そうやって自分がサバイブできているのが不思議だけど。でも、僕はそういう教育を受けてきたので、ものに対して無駄な感動とか、無駄な落胆をしなくて済んだ。それで精神的に、そんなアップダウンがなかったんだ。だからものを作れたんだ。精神的にダウンすると作れなくなるからね。 自分の責任じゃない所でダウンしたら、ダメじゃない。だからインターネットで罵倒されて、それで作るのをやめる人がいるっていうのは、よくで理解できる。
僕の時代は、それがなくて済んだのは大きいな。だけど、僕の場合なんかまだ良い方で、セールスマンなんか、ほんとに大変なんだよ。足を使ってシコシコ周るしかない。店側の選択とメーカーの戦略は違う。売れなかったら返品だし、売れて欠品すれば怒られる。あの経験がなかったら、そんなこと知らなかったからね。そういうことも現場のセールスマンが酒呑んで、話してくれるから。RVCの本社に行ったって、良い事しか言われないし。だからそれこそ消化率とかさ、そういう話を新しく来たスタッフに話すと、奇異な目で見られるんだよ、「なんでタレントがそんなこと知ってるんだ」って。
逆に、みんなが知らなさ過ぎるの。 そういうことを教えないほうが、うまく使えるからね。売れてないから、そういうことを知っても関係ない、という気分もあるかもしれない。でも、そういうことに対しての疑問が出てきたのは、売れない頃に印税を全くもらえないとか、給料もらえなかったとか、そこいら辺からだからね。「ぴあ」に取材された「100Qインタビュー」で、「若いミュージシャンにアドバイスすることがあるか」って言うから、「契約関係だけはちゃんと勉強しておけ」「お金のことをおろそかにすると、大変なことになるから、ちゃんと勉強しろ」って答えた。そんなこと言ったって、わかるやつはなかなかいないんだけどね。
【第30回 了】