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ヒストリーオブ山下達郎 第5回 自主制作アルバム(1)ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY

<大学では「なんか違うとこに来たな」と思った>
大学は全部で4つ、全部法学部を受験、音楽著作権でも勉強しようと思ってたから。運よく3つ目まで合格。でも、3つ目の大学の入学金払い込み期日の翌日が、最後に受けた第一志望の合格発表の日だった。で、父親が「どうするんだ。第一志望に受かる自信はあるのか?」「あるわけないだろ。ここまで来たのも奇跡なんだから」「ふたつも払う余裕はないからどっちか決めろ」って、で、決めた。明治大学
でも今から思うとほんとにいい加減な青春だったよね。カタギじゃないよね。この年になってしみじみ思うけど、やっぱカタギっていうのはちゃんと大学四年で出て、就職をどうしようかって真面目に考えて、リクルートスーツに身を固めて、会社訪問に行って。僕なんか、そういう発想すらなかったしね。
でも、よくよく眺めてみると、レコード会社の社員はみんな大卒なんだよね。この業界、レコード会社をはじめとして、プロダクション、出版社、普通のサラリーマンからすればかなりヤクザだし、実際いろんな人がいるけれど、大体の人が大卒なんだよね。最近は特にそう。レコード会社も入るときには大学を出ていないと、今は新卒はほぼそうだよね。だからといってこの商売、大卒だからって何の保証にもならないんだけどね。
まぁ何度も言うけど、カタギで一生を送りたければ、どんな大学を出ているかはかなりの重要な問題だけど、ミュージシャンの世界は大学なんて全然関係ないからね。むしろ僕の場合なんか、20歳で学校を辞めて、早い時期にミュージシャンのキャリアをスタートさせたのが、あとですごくプラスになったもの。
大学の入学式は京王線の明大前にある和泉校舎でやったんだよ。帰りに明大前のパチンコ屋に入ったら、何だか知らないけど、やたらとむちゃくちゃ出てね、人生で一番出た日。それだけとりわけ記憶に残ってるw
明治大学には付属高があるから、下から推薦入学で入ってくる人がたくさんいるのね。その中にはヤンキーがかなりいてね。東京ではツッパリって言ってたな。あの頃から、僕はもうかなりのロン毛だったんだけど、座ってると後ろから髪を引っ張るんだよ、ツッパリが。「何するんだよ、お前」って言うと、「お前髪、長げえな」ってw 向こうは悪気は別にないんだろうけど。大学生になるくらいのヤンキーだから、別に怖くもなんともないんだけど、でもなんか違うところに来たなぁって、感じだったよね。
明治に行ったのは三校で一番偏差値が高かったから。単純です、そんなの。でも本当のことを言えば、そんなに深い理由なんてなかったんだよ。
だって何度も言うけど、僕はもともとは理系志望で、大学の学部に関しても、宇宙物理学の講座とか、天文台に就職するのに有利な大学とか、そういう知識の方がもともとはあったんだ。中学生の頃から、そっちに進もうと思って、色々と当たりをつけてはいたんだもの。だけどそっちがダメになっちゃったから、もう別に何でもよかったんだよ。法学部には、それほど思い入れはなかったんだ。惰性だね。ただ不思議なもので、僕は進学校でずっとやってきた人間だから、高校に行きたくないとか、大学に行きたくはないとかは全くなかった。行けないんじゃないか、とは思ったけど。大学行くもんだっていう意識は、はっきりとあったんだよ。それに、日本の大学は入ってしまえば、もう後は出たも同然だと言う意識もあったから。卒業なんかしなくたって、入ってしまえばもう卒業半分、約束されたようなもんだから。欧米の大学はそう簡単に出られないし、出られなきゃ、何にもならないけど。まぁそういう時代だったというか、時代の価値観だったって言うかな。変な時代だったよね。
もっとも今考えてみると、大学なんかどうでもいいなんて思ってたのは、全体からすれば、ほんのひと塊でしかなかったんだろうね。きっとああいう時代の空気とは関係なく、ちゃんとガリガリやっていた人がたくさんいたんだろうね。高校時代にも「生徒の権利の確立」とか言って、全校生徒集会をやっているときに、学校に出てこない奴がたくさんいたんだよね。そいつらは学校に来ないで家で勉強しているか、塾に行っているか、そういうメンタリティーも、この年になると、わからないでもないけどね。カタギとしてちゃんとやっている人。でも今になって、リストラされたりしてね。それは冗談として、やっぱりあの時代に大学をちゃんと卒業したっていう人は、それなりに尊敬するね。

   

<何をやってもリアリティがなかった>
大学に入って、初めの2年は一般教養でしょう。専門科目だって、刑法総論あたりから始まって。それで教科書を買わされたりするんだけど、それがその教授の本という、お決まりのコースだよ。講義も、大教室でぼそぼそと何を喋ってるんだかよくわからない。で、前にも言ったけど、前のほうに何人かいて、間が十数列か空いてそのあとに大勢いるって言う。だから真面目って事は何を意味するのかって言うと、こういうつまらない時間を許容できることなのかな、と思ってね。
小さい頃からお袋に言われてたんだよ。大学っていうのは勉強しに行くところじゃない、友達を作りに行くところなんだ、って。だからせいぜい良い大学に入って、そこで得た友達が一緒の友達になるから、なるべく良い友達を得るためには、いい大学に入らなければならない、って。そういうことを僕は小さい頃から、サブリミナルのように叩き込まれていたわけ。教育投資が唯一の向上手段だった。いわゆるワーキング・クラスの親が、子供を説得するにはそれが一番有効だったんだろうね。
でも、とにかく高校時代に70年安保のあの激動期を体験してしまっているから、まったりした感覚じゃ、とても生きていけない。リアリティっていうか、目的意識っていうか、自己実現のために、何か確たる目標がなければ、人間は生きられないわけで、そういうものが具体的であればあるほど、努力できるんだけど、僕の場合はそういうものがまず一瞬に瓦解して、その中から新たな目標みたいなものを、無理矢理再構築しているでしょ。だから何をやってもリアリティがないの。
理系から文系の進路変更も、学問の面でやりたかったことが、全く不可能になったのが大きい。幼い頃の目標が見事に壊れて、それはもう再生不能だった。で、その時に自分の中に唯一残っていたのが、12歳の時から継続してきた、音楽体験なんだよね。楽器も弾いていたし、音楽にはある意味で勉強以上に情熱を注いでいた。幸いにも、それが昔と変わらずあったの。だからミュージシャンになるのは、僕にとってただ一つ残されていた道だったんだろうね。それはケモノ道だったけど。あの頃の世代で、僕と同じような体験をしている人は、多かれ少なかれ似た感じじゃないかなぁ。大学でもう少し我慢していればわかんなかったけど、大学で友達が出来かけた時に、バンド作って大学辞めちゃったからね。
結局大学よりバンドの方が面白かった。だからさっきも言ったけど、大学に入ったことについては、よく入れたなっていうのが正直な気持ち。入れたことで一安心して、安心したら、急に力が抜けたっていうか。そうしているうちに、何か違うことをしたくなったんだ。そこが馬鹿っていうか、19歳でしょ。で、アメリカに行きたいとか思い始めたんだよ。ああ、それは(自主制作アルバムの)Add Some Music to Your Dayを作ってからの話かな。

   

<やってきたことを何かの形に残したかった>
大学に入ってホッとしたというの、は僕だけじゃなくて、並木なんかも同じでね。高山は、その時代はほとんど没交渉になっていて、その頃のバンドは、並木の高校の同級生や、その友達といった陣容でやっていた。彼らは鰐川を除いて、僕と同じで一浪で大学に入ったの。大学に入ってホッとしたというのは、みんな同じだったんだよね。でも多分、彼らにはそれほど音楽に対する執着がなかったから、あくまで趣味で、みんなでバンドをやっていたんだけど、そろそろやめて、各自のやりたい道に進もうかって話になっていた。でも僕と並木はそれこそ中学生の時だから6年以上続けてたでしょ。もったいないからやめるにあたって、何か形に残そうと言うことになったの。せっかくこんなビーチボーイズだとか、マニアックなことをやって。

ヤマハのライト・ミュージック・コンテストなんかにも一応出たことあるし。そのコンテストのアセテート盤が残ってる。こないだ調べてみたら、出場したのは69年のことだった。だから70年安保の真っ盛りの時に、そんなところに出てたりしたんだよ。だから、僕の学生運動なんて、いい加減だったんだ。当時の学生運動は、あとで物凄く美化された部分もあるからね。だからライト・ミュージック・コンテストに出演をしたのは違う時期だったような印象があったんだけど、コンテストに出たのが69年の10月の終わりか、11月の初め(高校2年)。その頃には11月16日、17日の羽田闘争(佐藤首相訪米阻止闘争)があったんだよね、そんな時に、平気でバンドをやっていたんだから、まぁ大した事はないんだよ。
でも、バンドで自分たちがやってきた事は、非常にマニアックでカルトだっていう意識があったから、それを何らかの形で残そうっていう気持ちがあった。そんなわけでレコードを作ろうと思ったものの、どうやって作ればいいのかわからない。ところが、たまたま知り合いの知り合いに、東芝レコードの特販課とコネがある人がいたの。その人は今でいう制作会社をやっていたんだね。特販課というのは、例えば小唄のお師匠さんが弟子に配るレコードなんかを請け負うレコード会社のセクションで、知り合いのその会社でも、そんなアイテムを東芝の特販課を通じて、制作していた。実にグッドタイミングでルートが見つかった。で、レコードを作る値段を聞いたら、マスターを持ち込めば100枚作って135,000円だって言う。それで、本気で始めたんだよ。バイトして金作ってね。

    

<アルバムが作れたのはYESマシーンのおかげ>
1972年、19歳、計画し始めたのは6月くらいで、録音は8月から9月。
まず並木のお兄さんが持っていたティアックの19センチ4トラックのテープレコーダー。当時はカセットがようやく出始めた頃だったけど、音質はオープンリールが圧倒的に勝っていた。テープ幅6ミリのオープンリール、19センチ4トラック(一秒間に19センチのスピードでテープが進み、往復でステレオ録音ができる)っていうお馴染みの企画。それと僕が持っていたソニーの同じ19センチ4トラックのテープレコーダー、これはティアックよりずっと安いやつだったけど、その二台を使ってレコーディングしようということになったの。
一番問題だったのは、楽器やマイクのバランスをとって、ミックスしたりイコライジングする録音ミキサーがなかったこと。特にステレオの場合、楽器の音をセンターに定位させるということが、あの時代にはすごく難しかったの。でもこれも運命で、ちょうど計画の直前にヤマハが、YESマシーンという日本初の多目的ミキサーを出したんだよ。

YESマシーンについては、Add some music to you a dayのライナーにも書いてあるけど、何が革命的だったかと言うと、それぞれのチャンネルにボタンが2つ付いていて、右のボタンを押すと音が右、左のボタンを押すと音が左、そして2つとも押すと真ん中に定位する。三点定位でシンプルなんだけど、この機械が出たおかげで、初めてセンターに音がまともに置けるようになったんだよ。しかもYESマシーンはマイクとLINEのギターの入力インピーダンスのセレクトがあって、イコライザーまでついてた。あれは本当に素晴らしいマシンだった。値段はミキサーとスピーカー二台の3点セットで80,000円位だった。当時のサラリーマンの月給、ひと月半くらいかな。
僕らはヤマハのアマチュアバンドのサークルにいたから、ヤマハの池袋店にはちょっとコネがあったんで、スピーカーなしで、ミキサー部分だけ売ってもらったの。並木がそれを買って、後はテレコ2台でマイクはそれまで使っていたコンデンサーの安いやつが何本かあったので、それを使ってレコーディングを開始した。ノウハウは全く我流だけど、僕自身は、録音は高校の1年の頃からやっていたから。いわゆる宅録だね。あとは高校のブラバンで一緒だった友人がオーディオマニアで、マイキングやイコライザーの知識は、そいつから教えてもらったり、放送部の友人にもそういうのがいたし。
だからそれまでもバンドの録音は随分録っているんだけど、それらは全てモノラルだった。それがこのとき初めてスタジオで録音できた。感動したね〜w YESマシーンがなかったら、まずできなかった。後はリバーブをどうするか問題があったけど、あの当時19センチの4トラックレコーダーっていうのは3ヘッドで再生ヘッドにすると、音が漏れて出てくるんだね。その漏れてくる音をマイクでもう一度拾う。これでフィードバックが起こってエコーが生まれるんだよ。
これも我流で、結構試行錯誤して良いポイントを探したっけ。あとは村松くんが持っていたELKのモノラルのエコーチェンバーを借りたね。借りたと言えばあと本多信介にギターアンプを借りた。いろいろあったなぁ、そう考えると。

    

<ちょっと長い寄り道 本多信介との出会い>
本多信介は、当時「はちみつぱい」のギタリスト。彼との出会いは、浪人の時だったから71年だったけど、僕はよく渋谷の「ブラックホーク」に通っていたんだよ(有名なジャズ喫茶で、60年代の終わり頃からロックをかけるようになった、ロック喫茶のはしりのひとつ)。当時のブラックホークは、白人のシンガーソングライターのアルバムなんかがよくかかっていたのと、後はブリティッシュ・トラッドで、これが、かなり辛いものがあったw だけど、それでも当時僕は毎日のように行ってた。ウェイトレスに一目惚れしてねw

ブラックホークでのブリティッシュ・トラッドと言えば聞こえはいいけど、自己満足というか変に偏った選曲で。その時期、ちょうどニッティ・グリッティ・ダート・バンドの「アンクル・チャーリーと愛犬テディ」がよくかかっていたんだけど、それ以外の彼らのアルバムは、1枚もかからないんだ。彼らの初期のアルバムは、まだ日本では1枚も発売されてなかったからね。僕は彼らの1枚目と2枚目のアルバムを持っていたんだよ。彼らのデビューシングルの「雨を降らせて(Buy for me the rain)」はスティーブ・ヌーナンの曲なんだけどね。スティーブ・ヌーナンは、ジャクソン・ブラウンと非常に近い関係のシンガーソングライターで、ジャクソン・ブラウンの曲もまたニッティ・グリッティのレパートリーで、僕はここで初めてジャクソン・ブラウンの名前を知ったんだ。そんな具合に、初期から聞いている身には「アンクル・チャーリーと愛犬テディ」っていうのはニッティ・グリッティとしてはかなりイメチェンの作品だったんだよ。
ニッティ・グリッティ・ダート・バンドはもともとはジャグ・バンドでね。僕が彼らを初めて知ったのは、高校1年の頃に「リコシェ」っていう、彼らの2枚目のアルバムの紹介のために、FENの深夜に、メンバーのジョン・マキューエンがゲストで出てきて、2時間くらいのスペシャル番組をやったんだよね。そしたら、ちょうどそれを聴いた何週か後の「ゴー・ゴー・フラバルー」にニッティ・グリッティ・ダート・バンドが出て来て。そこでライブで「雨を降らせて」を歌ってたんだけど、それがとても素晴らしくてね。それで東芝から出ていたシングルを買ったんだ。日本盤はそのシングル1枚しか出てなかったから。そしたらそれはアル・キャップスのアレンジで、スタジオミュージシャンの演奏だったんで、今から考えるとかなり違和感があったんだけど、それでもニッティ・グリティ・ダート・バンドに興味が湧いて。だから、僕はニッティ・グリッティの関係で、ジャクソン・ブラウンやスティーブ・ヌーナンを追いかけ始めたんだよね。だから、ブラックホークで「アンクル・チャーリーと愛犬テディ」をありがたそうにかけているのを見て、なんでえ、と思ってたんだ。

だからある日、ニッティ・グリッティの1枚目か2枚目だかを持って行って、これかけろって言ったの。うさん臭そうにされたけどブラックホークにはなかったから、一応かけてくれたわけ。その日、店を出たら男が一人追いかけてきたんだ。「さっきかかったニッティ・グリッティは、あなたが持ってきたんですか?」って、それが長谷川くん(アルバムAdd some music 〜のジャケットに「親愛なる長谷川君に心から感謝します」ってクレジットされている)。彼はジェファーソン・エアプレインやグレイトフル・デッドといったサンフランシスコ物のコレクターで、下北沢の六畳一間の、レコード以外なんにもない、アパートに住んでいた。彼は長岡から上京して、浪人していたんだけどね。そこで彼と知り合って、その後喫茶店で終電まで盛り上がっちゃったのね。なぜ喫茶店に行ったかと言うと、ブラックホークじゃ話ができないから。あそこは話していると怒られる店だったからね。
長谷川くんは、とにかくそういうウェストコーストものと、シンガーソングライターものの生き字引みたいな人だったんだよね。で、長谷川くんと本多信介が麻雀友達だったんだ。それで長谷川くんに信介を紹介されて、知り合った。彼は「はちみつぱい」のギタリストだと聞かされたけど、まだその時点でははちみつぱいは名前だけで音は知らなかった。それでAdd Some Music 〜を作るときに、信介に小さなギターアンプを1台貸してもらったの。だからアルバムができたときにアンプのお礼として、本田信介に1枚あげたんだよ。そのレコードが、はちみつぱいのベーシストだった和田博己くんのところに行って、和田くんがマスターだった高円寺のロック喫茶「ムービン」でかけてた。そこで伊藤銀次が聞いて大滝さんのところに行くことになる……
だから、そのブラックホークのウェイトレスが可愛くなきゃ、僕は信介とも会わなかったわけだから、縁は異なものだよね。バカだよね、ほんとにw だけど、あんまりレコードのかけ方が偉そうだったから、少し意地悪してやろうとニッティ・グリッティのアルバムを持って行った、という。だからすべてはレコードなんだよね。
ニッティ・グリッティの2枚は高田馬場のタイムっていう中古レコード店で買ったの。高校2年の時かな。高田馬場のタイムではいろんなものを買った。あそこにはかなり欲しいものがあったんだよ。ニッティ・グリッティのレコードが欲しくて、寺内タケシのレコードを売った事はよく覚えてるよ。タイムに初めて行ったのは、高校に入ってからかな。そのFENの番組があった直後だと思うから。まだ中古レコード屋さんはそんなに一般的じゃなくて、ハンターには時々行ってたけど、高田馬場はあんまりテリトリーじゃなかったから。でも初めて行ってみたらあったんだ、2枚とも。興奮してね。それからタイムにはよく行くようになったんだけど。でも、あそこは買取の値段が安かったんだよねw
【第五回 了】