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ヒストリーオブ山下達郎 第11回 運命的に人と出会った一年間

<大滝さんは本当にロックンロールの人なんだね>
大滝さんへのインタビューはなかなか面白かった。知らないことがずいぶんあった。(鈴木)慶一のCCRってのが一番笑ったな。でも大体認識は同じような感じだね。若干の違いはあるけど別にそれほど本質的なことじゃないし。
大滝さんの「自分がエリー・グリーンウィッチで、山下はバリー・マン」っていうのは、実に面白い見解だったね。大滝さんは本当にロックンロールの人なんだね。
大滝さんがマンフレッド・マンに反応したのは、まぁ実にあの当時日本のリスナーの一般的な尺度からすれば、大滝さんもまた異端だったというか。
マンフレッド・マンの♪Do Wah Diddy Diddyなんてのも、めちゃくちゃマニアックだよ。僕の世代ではせいぜい八木誠さんがDJで流していた程度だからね。
僕が八木さんを聞いたのは「パックイン・ミュージック」になってからだから、だいぶ後。ましてやエキサイターズなんて全く流れなかった。
この前NHK松尾潔くんと番組をやったときにレイ・チャールズの話になったのね。レイ・チャールズで一番僕が影響受けたのは、もちろん♪What‘d I sayなんだけど、でもレイ・チャールズの♪What’d I sayは当時聞けなかったんだ。すでに日本盤が廃盤だった。あの頃アトランティックは日本はビクターからポリドールへ移ってたんだけど、アトランティック時代のレイチャールズのレコードは(ポリドールには)なかった。日本では洋盤は手に入らなかったしね。
♪What’d I say、僕の場合は初めて買ったロイ・オービソンのシングル♪つむじ風に乗ってBorn on the wind、そのB面が♪What’d I sayだったの。シングル100円セール、池袋の丸物デパート、今のパルコで。それで中学3年のときにはアマチュアバンドで♪What’d I say をドラムを叩きながら歌っていた。でもレイ・チャールズのバージョンを初めて聞いたのは高校以降。「History of rhythm and blues」って言うアトランティックのオムニバス・アルバムがシリーズで出始めて、それにレイ・チャールズが系統的に入ってた。
話がそれたけど、大滝さんはもうちょっと前から聴いてたわけだから、よく岩手でそんなの聴けたよね。三沢基地FENか。まぁいずれにせよ相当のマニアだよね、大滝さんも。

<ファースト・コンサートではアンコールを用意していなかった>
大滝さんが言う「73年のベストテン、ワーストテン」話ね。しかし、演奏よりもそういう余談ばかり覚えているというのが、大滝さんらしいよね。僕はそのチャートまでは覚えていないけど。ナレーションが入ってないんだよ、あの時録音したテープには。
あの当時はオープンリールだったので多分録音時間が心配で回しっぱなしにできなかったのでは。リールが終わっちゃうとダメだから。それでナレーションをカットしたんだと思う。
まだPAなんて殆ど無かった時代で、あの時はギンガムという、加藤和彦さんがミカバンドでイギリスから持って帰ったWEM(ウェム)のPAを基礎に設立した会社、その機材を使ってコンサートをやったんだ。PAのオペレーターが誰かも全然覚えていないけど。会場にワンポイントマイクを置いてオープンリールの民生機テレコで録音した。
コンサート練習は、まだ並木の家でしていたと思う。並木の家から村松くんの車で、楽器を運んでいったような記憶がある。この時、僕が弾いているのは鰐川所有のグレコレスポールモデル、並木がハワイ旅行に行った時に七千円で買ってきたギブソンのピックアップに交換して。まだ自分のギターは持っていなかった。
村松くんはこの時すでにストラトキャスター。73年の夏前にジプシー・ブラッドのギタリスト、ヒョコ坊(永井充男)から買って。
野口もこのときはまだ自分のドラムじゃなくて、借り物じゃなかったかな。鰐川は並木のムスタング・ベース。本当はジャズベースが欲しかったけど、まだそれほど金銭的余裕もなかったからムスタングしか買えなかった。この時には、シンペイ(木村真)って言うパーカッションのプレイヤーが入っていたはず。だけどお客はどれぐらい入ったのかな。
この時に演奏した♪SHOWは、まだ全然今の形じゃなかったし、なんたってこの時はアンコールを用意してなかった、全くそんな予測がなくてね。
それでよく覚えてるけど♪港の灯り、って曲が最後で、その曲の一番最後に♪Do you wanna danceがくっついてたのね。
小宮くんは曲の中に既成の曲の断片を織り込むのが好きな人で、港の灯りは最後♪Do you wanna danceで終わるんだけど、並木のところで練習しているときに、それをレゲエにして遊んでたんだ。
まさかアンコールが来るなんて思わなかったからしょうがなくて♪Come go with meを僕がやった後、ぱっと思いついてそのレゲエのパターンを始めたら、みんな気付いて、ついてきた。それでキメから♪Do you wanna danceに行くって言う、アンコールをいかにも用意したような形で終われた。
そこで、なるほどこういうのは常に準備してなきゃいけないのねwと学習した。夏の長崎のコンサートからこの日までたいした場数踏んでなくて、まだシアターグリーンやジャンジャンもやってなかった。
長崎の時はアンコールは覚えてないなぁ。長崎ってお客さん何人いたのかな。この73年秋は山本コウタローさんのスタッフが回してくれた文化祭の仕事が何本か、それくらいしかなかった。ニューミュージックマガジンの北中さんがこのタワーホールのライブのレビューを書いてくれて。それはよく覚えてる。
でも僕はまだ20歳だもん。小僧だよね。形が全くできてないね。自分の曲が3曲、小宮くんのが3曲、大滝さんの♪指切り、ター坊はまだ1曲だもん。あと♪風の吹く日は、だってター坊が歌っているのに、詩曲は僕が作っている、変な形だからね。

シュガー・ベイブ1stコンサート]
01.SHOW
02.それでいいさ(作/小宮やすゆう)
03.想い(作/小宮)
04.夏の終わりに
05.時の始まり(作・歌/大貫)
06.風の吹く日は
07.指切り
08.SUGAR
09.港の灯り(作/小宮)
10.Come Go With Me
11.〜Do You Wanna Dance

<大滝さんと会わなかったら、僕らはどうなっていたかと思うよ>
タワーホールのライブはシュガー・ベイブとしては5本目位だよ。今のインディーズものと対して変わらないよ。9.21の前に2回位しかやってない。新宿ラ・セーヌのステージは鮮烈に覚えているよ。ヴォーカルアンプがないとやらせてくれなかったから。村松くんが持ってたやつを運んだ。
9.21のあとにジーガムのCM? あれはどこで録音したかなあ、ジャンジャンの地下のスタジオ? やったことは記憶してるけど。あと年明けるか明けないかの頃に「三ツ矢サイダー」を始めたんだ。
9.21が終わって、しばらく大滝さんとは会わなかった。大滝さんの方も何か虚脱したんじゃないかな。その時にはココナツ・バンクがトラブってたようだし。コマコが抜けるとか、抜けないとか。銀次も色々あったでしょう、おそらくね。ココナツ・バンクはもう名前が有って無いようなものになったんじゃないかな。
あの頃、まだ大滝さんの事務所は風都市だったけど、あの事務所は商業経営の根本的なものが全く欠落してたよね。
例えば、僕だって運送屋でバイトして、給与計算とか明細とか残業いくらとか、そういう書類をもらって確認して、今月はちょっと苦しいから残業代は勘弁してとか、そういうことを一応説明されて、給料もらって。そういうの、全くあそこの事務所はなかった。
こっちも20歳で、しかもドロップアウトだから会社組織とか事務所とかわからなかったけど、それでも一応会社なんだから、もうちょっとちゃんとしてると思ってたよ。
風都市にシュガー・ベイブも入ったけど、それも大滝さんと出会った縁だよね。でも、今から考えると大滝さんと会わなかったら、僕らはどうなっていたかと思う。
このちょっと前に、ラジオ関東のディレクター経由で誘われたけど、僕はフォークは嫌だから断ったんだ。メジャーに行ったら、どうなるか位は予想できてたわけ。あの時は東芝の人が来たんだよ、確か。もう名前も顔も忘れているけど。
だから、いつもシュガーベイブの話をするときに、メジャーな会社に行っていたら、きっとチューリップとかクラフトみたいになっていただろうって。それも運命で、当時の状況でも一番底の所に居たわけでしょ。でも、そのおかげでクラフトにならなくて済んだわけだから。
でもクラフトの三井(誠)くんだって、すごく作曲能力があったし、この頃、徳ちゃんが手伝っていた小泉まさみさんもいい曲を書いてた。それなりにみんなポップセンスがあったけど、あろうことか僕は最もサブカルチャーなところに行ったんだよな、今考えると。
それも運命だよね。ここからユーミンとかの仕事に関わるあたりまでの1年位の間は、完全に人脈が人脈を呼ぶって言うのかな、そういうのも完全に運命だよね。だけど、この頃のアングラな時代状況は、いくらうちの奥さんに説明してもわからない。

<大学に復学したけど、9月からもう行かなくなっていた>
ロックと言う言葉を「ミュージック・ライフ」で読んだり「ウッドストック」とか見ながらイメージして、なんとなくそんなもんじゃないかな、って言う幻想はあったわけw
大滝さんと最初にあった頃には本当に色々な人に会ったね。
あと覚えているのは、大学のビッグ・バンドに行った友達が電話をかけてきて、キャバレーでバイトしてるけどトラ(臨時)でやってくんないかなって。8ビートばっかりだから、とか言われて行ったらとんでもない、ベニー・グッドマンとかなんだよ。一日でクビになった。でも、そういうところで見るミュージシャン、本当にみんなヤクザな感じだった。
前にも言ったけど、何人かドラマーをオーディションした時にも、来たのはとにかく今のインディーの底辺の、そのまた下みたいなヤツでさ。たいして上手くもないんだよ。でも、もう飢餓の目って言うかな。異様な目つきで。ある者は水しか飲まない、飯食うと腹がでかくなるから、って。何やってるかって言うと、ディスコのハコバン。なんでそいつがオーディションに来たのか分かんないんだけど、そういうのも何人か来たんだけど、腕はともかくこういうのとはやれないな、って感じだった。
メンバー募集は人づて。張り紙はしなかったと思うけど、もしかしたらヤマハにしたかもしれない。3人オーディションしたんだけど、精神的に合わない。そういう意味では大滝さんも銀次も、みんな知的なんだよね。だからミュージシャンって言う以前に、会話が成立する。長門くんや小宮くんも皆そういう感じだった。
だから僕らはサブカルの最たるところに行ったけど、それこそあの時代のキャバレーとかディスコとか、そういう世界のミュージシャンはみんな酒と博打の匂いしかしないし、そういうのは嫌だったしさ。
そういうところでは類は友を呼ぶっていうか、それは長門くんの選球眼の正しさだったんだよな。長門くんがいなかったら絶対そういうベクトルにはならなかった。
だから、長門くんのインタビューも面白かったけど、その頃こっちはそんなことも何も考えてないからw食えるか食えないかも分からなかったし、ただ他に別にやりたいこともない、精神的には今のプータローと何も変わらないよね。
唯一何かあるとすれば、知的じゃなきゃ嫌だったんだよね。肉体労働をやってバンドをやってる奴もいたんだよ、実際に。でも、まだこの時、僕は大学を辞めていなかった。75年に退学届を出しに行くまではね。
72年に入学して、ひと月位で休学して、73年に復学。復学してから夏休みまでは行ったんだよ。で、大学は9月に試験じゃない。結局その時に9.21に参加して、9月にはそのまま行かなくなった。
一年休学して、バイトしてお金貯めてアメリカへ行こうと思った、って話をしたよね。それでバイトしているときにシュガーベイブを作って。でもその頃は、こんなもんで食えるかどうか分からないから、一応復学しようと。
それで復学して、刑法総論とかフランス語とか真面目に3カ月位は出たんだよ。ちょっと仲良くなりかけた友達もいて、バンドを作っていなかったら、あのまま大学へ行ってたかもしれない。
でも9.21に出ることになって。
シュガーベイブを作るって言ったのは、72年の暮れから73年の頭。復学した4月の段階では、まだ野口がドラムをやるかどうか、わかんなかった。野口がドラムをやるって言ったのはそのあと、夏の長崎のコンサート(大震祭Vol.4/73年8月23日長崎NBCビデオホール)のほんの数ヶ月前なんだ。
そういう意味ではまだすごくファジーだった。
風都市に入ってからも、給料が出なくて、ぐしょぐしょになって。何ヶ月か経った頃に矢野誠さんが仕事くれたり、CMの仕事がもらえるようになったりで、だんだん食えるようになった。で、これで良いかなと思い始めて。でも、バンドじゃそんなに長くないな、って最初からそれは思ってたから。
風都市って言う組織や、市ヶ谷のあの事務所に関しては、今でも皆目わからない。僕にとっての風都市っていうのは、その後も大滝さんのマネージメントをすることになる前島兄弟だったから。
当時は松本隆さんとも一度も口を聞いたことがないし、細野さんはティン・パン・アレイの仕事でコーラスをやるようになってから、ようやく少し話したけど。(鈴木)茂だってほとんど話してないし。ようやく74年から75年になるあたりから、だんだんと話をするようになる。

松本隆の詩でシュガーベイブ?>
73年12月の青山タワーホール、ファースト・コンサート。♪SHOWと同様、♪SUGARもこのコンサートのために作ったの。曲が足らないから長い曲にしようってw。とにかく野口がドラマーとしては経験不足だったんで、簡単なパターンじゃないと出来ない。だけど簡単なパターンでもエイトビートじゃつまらないので、割と変則的なパターンをやったっていうか。
まぁこれは完全にこの頃の大滝さんの「ココナツ・ホリデイ」に見られるような、トリッキーなドラムパターンに影響されたというか。
結局、その後リズム・パターンっていうのは、どこまでいってもあの時代の、細野さんと大滝さんのせめぎ合い。あれがなければ、今のアレンジメントのドラム・パターンには、たどり着かないよね。
73年から77年にかけての細野さんの「トロピカルダンディー」や「泰安洋行」、大滝さんの「NIAGARA MOON」や「ゴー・ゴー・ナイアガラ」「ナイアガラ・カレンダー」に行くくらいのヘンテコなリズム・パターンの応酬。お互いがお互いを見ながらやっていたよね。あれが計り知れない参考資料になった。
それでシュガー・ベイブは初めはモロその影響受けていたけど、だんだんそこから逸脱を目論んで、16ビートにしたの。ていうか、シカゴのハネたビートに耽溺していった。
だから♪SUGARなんてモロそれで。
人間的な部分では、大滝さん自身が直接何かを言ってくる事は、今も昔もそうなんだけど、ほとんどないの。人を介して長門くんが呼ばれて、みたいな感じだと思うよ。
まあ風都市がこの時点では内部分裂が起こっているわけでしょ。9.21はまさに内部分派の抗争な訳だから。
それで結局、大滝派と細野派と松本派に三分割して、松本さんはもう年明けから作詞家になっていく。そういう中で大滝さんは自分のアイデンティティーをどう置こうかと。
だけど、考えたらはっぴいえんどは誰が見切りをつけたのか、って言う問題があるじゃない。でも、大した動機じゃないんだろうね。どんなことでも、みんな後からはいろいろ言えるけど、スタッフがきちっとしたビジネスプランとかを持っていたら、ひょっとしたらもっと続いていたかもしれないしね。
僕らのバンドをどうにかするってのとは、またちょっと違う。僕らは食うことの切実感がどうしようもなくあったからね。
大滝さんがシュガー・ベイブにいろいろ注文してきたことで、一番強力だったのは、松本さんに詩を書かせるって始まった時。
でも、僕はメンバーにその話を持っていって、真面目に5人でミーティングしたんだよ。その時に野口が「俺は別に売れるんだったら何でもいい、お袋食わせなきゃいけないから」って。なんかグッときてさ。その時、松本さんが本当に書いたら従ってたかもしれないけど、松本さんが書かなかったから、やめになったんでね。
大滝さんが「シュガー・ベイブをファースト・コンサートのあたりから自分の新しいプロジェクトに引き入れようと考えた」って、インタビューにも書いてあるけど、ココナッツ・バンクが解散したから僕らはその代わりだよね。
まぁ演奏力に問題がなかったと言うのは、お世辞半分だと思うよ。あの人は演奏技術ってことに関してはとりわけシビアで、それはキャラメル・ママが標準だったせいなんだよね。だから、それ以下で満足できるわけないもの。でも僕のキャラメル・ママに対しての印象はちょっと違ってて、歌の不在に対して、すごく懐疑的だった。演奏だけではそれ以上に成り立つわけがないと思ったわけね。
その9.21のリハーサルの話もあるけれど、キャラメル・ママがやっているのは一種のリズムパターンで、その先はどうなるんだ?って。それを自分たちができるとか、自分たちが演奏するか、ってのとは別問題としてね。歌はどこなんだって?って。
別にリズムセクションとかいなくったって、例えば古井戸はギター3人だけど、音楽としての説得力が立派に成立してる。それこそ西岡恭蔵さんが一人でやる♪プカプカの方が、スタジオ・ミュージシャンのテクニカルな演奏よりも人の胸を打つんだと言う。
僕はスタイルとしてフォークは嫌いだけど、音楽としての説得力は厳然としてあるわけでさ。
でも、大滝さんはどう考えてたんだろうね、あの人は不思議な人でさ、歌手でありながら、楽器演奏に対する憧れがとても強かった気がする。
僕はブラスバンドでやっていたから、楽器演奏に関してそんなに強い思い入れがなかったからね。そういうところの差がすごく大きかった。別にロックンロールバンドでも良かったと思うんだけど、そこがやっぱり違うんだろうね。
大滝さんは当時ミーターズリトル・フィート、後はビリー・プレストンなんかを聴いていたのを記憶してるけど、ああいうテクニカルなものにアーシーな要素が加味された世界に、すごく憧れていたような気がする。
シュガー・ベイブが風都市に所属するのは74年で。73年12月17日のライブが終わってから「風都市に入らないか」って話になったの。「1月1日付けを持って入社して、以降は給料払います」って長門くんが言われて、僕が説得して、村松くんがそれまで勤めていた会社を辞めた。
ヤマハの新宿音楽センターで練習できることになって、これで並木のところにも迷惑かけないで済むから良かったね、って、僕と村松くんとター坊の三人で明治神宮に初詣に行ったのを覚えているよ。
【第11回 了】