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ヒストリーオブ山下達郎 第7回 自主制作アルバム(3)ADD SOME MUSIC TO YOUR DAYのエピソード

<充実した“ごっこ”だったアルバム制作>
両面に6曲づつで計12曲。収録時間を長くしてしまうと音が悪くなる、ってくらいの知識は本を読んで知ってた。だから片面15分からせいぜい18分、あの時代のアナログLPの普通サイズ。
カッティング・レベルの具体的、専門的知識までは分かるわけがない。
とにかく我々は「マニファクチャード・バイ・東芝音楽工業」ってクレジットがあるだけで、もう嬉しくってたまらなかった。
マスタリング? カッティングも見たわけじゃないし。立ち合ったのは曲順に並べる作業だけ。それだって十分に珍しかったからね。ホームレコーディングだから、音質的には大した事なかったけど、あの時代に見よう見まねでやったにしては上等でしょう。CD化したときにはちゃんとデジタルリマスターしたけど。
当時の日本のレコードは同じアルバムでも日本盤と洋盤を聴き比べると、洋盤の方が圧倒的に音が迫力あったの。聴くと明らかに違った。そういう専門的な分野になると当時はわからないことだらけで、素人には情報なんて伝わってこなかったからね。
だけど実はプロの業界だって、どうして日本盤がカッティング・レベルが低いのか、そういう原因がわかっていても、解決するための機材や技術力がなかったんだよ。だからどうしようもなかった、後で知ったことだけど。
カッティング・レベルは国によってかなり違っていた。特にリミッターの良し悪しに、すごく影響されていた。でも、あの時の僕らにとってはそんな技術的なことより、何といっても東芝って言う「ブランド」が憧れだったんだよね。ビーチボーイズビートルズベンチャーズと一緒、ジャケットの装丁だって市販されているものと同じ。当時はそれまでのペラペラな薄めのジャケットから「A式」といって、厚手のボール紙に、アート紙を貼り付ける形の、重厚なものに変わっていた時期で、それだけだって当時では大騒ぎだった。プロとアマの差が、昔はとにかく大きかった。レーベルもちゃんとしてるし、それはもう感動しましたよ。それこそ、ごっことしては一番真に心に迫ったごっこじゃない?

<家紋がヒントとなったレーベル・デザイン>
ジャケット・デザインは金子辰也のデビュー作かな、彼も学生だったから。
金子は東武東上線の志木に住んでいた。成増の2つ先。ちなみに僕の家は成増の2つ手前だった。だから当時、並木の家には金子が一番入り浸りだったの。金子は殆ど住んでたと言ってもいいくらい。
並木の家に居続けて、絵を描いたり、シルク・スクリーンの作品を作ってたり。だから、その意味では僕なんかと同じで、彼にとっても並木の家は最高の「場」だった。ジャンルは違っていたけど、要するにこれから何かを始めると言う人間の、自分でいろいろ模索している姿勢は同じだったんだよ。そういう環境とか、人間関係がなかなか面白くてね。金子自体もあの当時からアイディアがあるやつでね。
ジャケットが一色なのは単純にお金の問題。モノクロにすると4色カラーより格段に安価でできたの。だからモノクロ。
デザインはもう完全に金子にお任せだね。その当時の並木の家にあったものというかね。並木はかなりのベジタリアンだったんで、野菜と白ワインと人とミルクをあしらったんだね。金子は美大志望だったので、デザインの基礎知識があったからね。版下もちゃんとそれらしく仕上げてあったから。
それもごっこなのよ、デザインごっこ。それはシュガー・ベイブまで続くんだけどね。みんながごっこだったっていうか、みんなそれを楽しむ感じだったよね。
プロとしてやっているような錯覚に惹かれるじゃない。だから、大学のプロデュース研究会みたいなサークル活動と何も変わらないんだけどね。ただなんていうかな、僕らはそれがごっこだと言うことを知っててやっていたんだよね。そこが別に自分の存在基盤じゃないって言うことだね。予行演習と言うのかな。
ジャケットの柄は原寸ではなくて多分もう少し小さい家を拡大したんだと思う。でもね、ちゃんとトンボ(印刷後に紙を裁断する位置を示す目印)を切ってセンターの位置がどうだってやっていたからね。多分そういう印刷屋さんに渡すためのデザインのやり方は知っていたんだと思うよ。
レーベルのデザインのサーフィン・ラビット・スタジオっていうのは、一番最初は家紋の絵柄から。家紋帳に「月に波にウサギ」って絵柄の家紋があって「ウサギが波乗りやってるよ」って、それで並木がサーフィン・ラビットにしようって言ったの。金子がそれに基づいてレーベルのイラストを描いた。だからその家紋帳が並木の家にあった。並木が結婚式か何かで家紋を確認する必要があって、それで家紋帳を調べて見つけたんだ。オリジナルはもうちょっと写実的というか鳥獣戯画的なデザインだったような記憶があるな。並木もその後に文化服装学院に行くようなやつだから、そういうものに対する審美眼があったんだね。
B面の後ろ向きのウサギは金子が考えた。ちょうどターンテーブルに乗せるための穴をお尻の穴に見立ててね。それは金子のアイディアなんだよ。知っている人もいると思うけど、金子は何よりプラモデルのエキスパートなんだよ。金子のジオラマは有名。だからプラモデルの箱とか、そういう工業デザインの影響はかなりあると思うよ。当時からプラモデルマニアだった。僕もプラモデル好きだけど金子にはとてもかなわない。出会った頃から金子はすごかったから。こっちは趣味だけど、向こうは趣味なんて生易しいものじゃなかったからね。
彼はその後ジオラマの世界ではかなり名が知られる存在になった。テレビ東京の「テレビ・チャンピオン」のジオラマ・コンテストでも2回優勝しているしね。
金子はものすごく温厚の性格。その後結婚した奥さんも実に温和な人でね。あの頃知り合った僕の友人で、今でも付き合いがある人たちって、みんな温厚で、その上、夫婦仲がいいんだよね。後にシュガー・ベイブのマネージャーになる長門くんとか、シュガーベイブのドラムの野口、金子もそうだしね。みんな平和な家庭だよ。そういう奴は皆、性格が温和でいい。人間としての徳がある。

<アルバムは殆ど仲間内で配ってしまった>
このアルバム、僕が持っているのはもう1枚だけ。100枚あって、4人だったでしょう。1人20枚持ちで、20枚は保存用にしようと言うことかな。で、それぞれ自分の20枚を売るって言う。参加してくれた人にも配って、実際には10枚ぐらいしか残っていなかった。
でも自分が8番を持っていると言う事は1から20を僕が持っていたのかなあ、そんなことないだろうな。その辺は記憶がはっきりしないけどね。
通しナンバーは金子が紫のボールペンで1枚ずつ書いたんだよ。あれから現在まで仲間内以外でオリジナルの100枚を持っているのを確認できたのは、及川恒平さん1人だけだな。彼があのアルバムをどこから手に入れたのか知らないけど、及川さんは自分のアルバムのジャケット写真にこれを載せてるからね(1975年に発表された及川恒平ソロアルバム「懐かしい暮らし」の裏ジャケット写真、左下にAdd some〜が写っている)。ほとんどは仲間内にただで配っちゃったからね。1,350円も出して買ってはくれなかったしね。(制作費135,000円を100で割った値段)。
こういうものに興味がない連中がほとんどだったから、だから出てこないんだろうね。今はどこかに行っちゃったとか、そういうのだろうね多分。並木は1枚も持ってないって言ってるし。
僕ももうずいぶん前に1枚になった。この業界に入ってから少しだけ残ってたのも、何年かのうちに全部分けてあげちゃったから。あの当時は僕らの他にも、自主制作盤っていうのがある程度は作られていたんだよ。だから僕らの作る前に、参考のために何枚か手に入れてみたんだけど、もう捨てたくなるようなばっかりでさw ブルーのビニール盤とか、装丁や作りは凝ってるんだけど、とにかく内容が「歌か?コレ」みたいなねw
メンバーの写真は金子が撮っていたの。金子は写真が好きだったから。撮っているのは殆ど金子なんだ。
ちょっと我々は諧謔的なんだよね。シニカルなところがあった。やっぱり70年安保の精神的廃墟の後の復興だからさ。ナルシズムはないの。というかナルシズムなんてほとんどなかったな。むしろ殉教的な優越感と言うのかな、そこいらの連中とは違う、って言うような、そういう感じかな。大体こういうもので恥ずかしいのは、自分たちだけが盛り上がってるやつだよね。そういう自己満足はないと思うよ。だからいわゆるラブ& ピース、ハッピネスのロックとかさ、それこそ明治公園でインターナショナルをロックでやっているような馬鹿とかが居たじゃない。端的に言えば批評性だよね。批評性だけが命だったから。今でもそれだけは変わらないな。僕の人生は結局それでずっと来たような気もする。
芸事、特にストリート・カルチャー、歌舞伎とかね。もともと歌舞伎役者が河原者だった時代は、そういうことを脱却して評価を獲得したいと言う意思が働いてたんだよね。それは相撲もそう。だけど、歌舞伎も相撲もだんだんエスタブリッシュされちゃうと質的に変化していく。今の相撲なんて、その最たるものだよね。
だから芸事っていうのはそういう原点とエスタブリッシュメントの間を行ったり来たりするんだろうね。だから音楽もきっと、今のエスタブリッシュメントとは全然違うところから何か新しいものが出てくるんだろうね、絶対に。

<このバンドでダンパをやったりしてた>
達成感? まぁあの時はバンドを解散しようと言うことで、その先をどうしようとかもわからなかったからね。でもまぁ、ごっこが行き着いたと言うことで、なんらかの達成感はあったね。
このバンドでのライブ活動はしてないなぁ。正確に言うとダンスパーティーとかはやったんだよ。友達に頼まれて武蔵美で。
曲はチャック・ベリーのようなロックンロール、後はストーンズのジャンピング・ジャック・フラッシュとか。ちょっとひねってThe Lovin’ Spoonfulの♪Summer in the cityをハードロック仕立てでやるとかね。クイックシルバーメッセンジャー・サービスとか。だから一般的なものからカルトなものまでレパートリーはたくさんあったんだけど、要はただの遊びだから。ダンパって大体対バンがあるからさ、こっちが40分やって、向こうが40分やって。ストーンズの♪南ミシガン通り2120、って言う(インスト)曲があるけど、これで20分とかね。まぁトップ40が好きだったから、一般的な曲はいくらでもできたんだよ。ジャンピング・ジャック・フラッシュもワンコードでいくらでもできたしね。
歌は殆ど僕ひとりでやらされた。ブルースから何から何だって。ジョン・メイオールとか、ジェフ・ベックとか。前にも言ったけど、高校3年の時は村松くんのバンドのベースは鰐川だった。リードギター村松くんで、彼の友人がドラム。僕はボーカル。
違う高校のバンドを自分の高校の文化祭に連れてきて、教室でジェフ・ベックとかツェッペリン、後はジョン・メイオールで覚えたブルース、アルバートキングとか、ソニー・ボーイ・ウイリアムソンの曲だね。ハーモニカの必要に迫られて、その時代にハーモニカ始めた。今みたいにどういうスタイルとか、そんなの全く無かったんだよ。
だからポール・マッカートニーの中にペギー・リーとリトル・リチャードが一緒に入っていたり、ジョン・レノンの中にガール・グループが入っていたりしたのが、また混じってビートルズになるみたいに、若い自分はそうじゃないとダメなんだよ。今みたいに最初からポリシー決めろとか、形を決めろとか、それはいけないんだね。だから最近タワレコ行っても、フロアによって客層が全然違うんだね。ロック系ヒップホップ系だとファッションから違う。あれは良くないよね。
新宿の中古レコード街にもよく行ってるんだけど、最近はどうしても行く店が限られてくるんだよね。昔は全部の店に行けたけど、今は絶対に行かない店があるからね。でも久しぶりに行くと楽しいよ。

<バンド解散後運送屋のバイトをした>
Add some music〜のクレジットでマネージメントが並木になっているのは、それはもうお世話になってるしね。勧進元にもなってるよ。最初にお金を払っているのは並木だからね。分担金は全員払ったよ、1人35,000円。で、一応連絡先があったほうがいいだろうって。別にプロになるわけでもないけどせっかく作ったんだから、それで並木の家の住所を入れた。オリジナルには並木の家の電話番号まで書いてあったんだけど、そしたらある日電話かかってきたんだよ、伊藤銀次から。
アルバム出してから、各自いろいろな道に分かれて。並木は大学を1年で止めて文化服装学院に73年に入り直した。そうなるともう忙しくてバントなんてやれないから。並木はなかなか向上心があって、50歳近くになって建築設計士の免許を取ったり、そういうところがあるんだよ。
実際にレコードが出来上がったのは10月位かな。作ってもまだ自分がプロになろうとは思わなかったな。
で、72年秋になってレコードができてきて。それから冬にアメリカに行きたくなったんだよね。この72年ていうのは本当に激動の時期だった。まさに人生の転換期だったよね。
いろいろなミュージシャンが来日してLed Zeppelinも72年。大滝さんがソロアルバムを出したのも72年の秋かな。
そうだ、思い出した。僕は夏にレコード屋さんでバイトをしたんだ。東長崎の駅前にあったレコード店で。お店だけじゃ儲からないんで、日本橋あたりの商社の地下食堂の前に出店して、給料日払いの1割引みたいな感じで出張販売をやっていたの。週に2回行くんだけど、その頃出たのがカーペンターズの「ソング・フォー・ユー」と、吉田拓郎の「元気です。」。その2枚がまるで羽が生えたように売れるんだ。「ソング・フォー・ユー」を問屋に10枚注文して、くるのが2枚。「元気です。」なんか、もう注文しても入荷するかどうかわからない。とにかくその2アイテムばかり売れるの。それはよく覚えている。その2枚に興味は全然なかったけどねw
一番突っ張ってた頃だもの。ロックンロールじゃなきゃ嫌だったから。まして和製フォークなんて冗談じゃなかった。まだ歌謡曲の方がマシだった。
それで秋口からそれまでみたいなポツポツというバイトじゃなくって、まとまったバイトをして、まとまったお金が欲しくなって、それで運送屋のバイトを始めたんだ。涼しかったからもう10月位かな。
街のどこにでもあるような運送屋、トラック5台しかない位零細の。運んだのは印刷用の紙だね。朝の7時に空のトラックに乗って草加の倉庫に行くのね。そこで紙を積んで配達して、それで午前の部が終わり。倉庫に帰って、それからもう一度午後の便。朝、日光街道草加までは大渋滞で2時間近くかかるから、7時に出ても着くのが9時位になるんだよね。それで今度は積んだ荷物を墨田区江東区の町工場に運ぶのね。
帰る頃にはいつも夜だった。僕が乗っていたのは2トン・トラックだったけど、25キロの紙を100本積んで、2トン半と言うような過積載がごく普通だった。そういう場所の町工場は、リフトなんか使えるような場所じゃないから、手積み、手おろしでね。とにかくそれがきつかった。それでも春先までやったかなぁ。半年やったら手が上がらなくなってきてね。
だから大学は72年の7月から休学したのかな。4月から6末までは行って。
休学はアメリカに行くためのバイトに集中するためだったけど、結果的に大したお金にはならなかった。まだ子供だったからね。19歳でしょ、世の中のこと何にも知らなかったから。結構ナイーブだったんだよね。
レコード屋にしろ運送屋にしろ、零細業者だったから、残業なんて全然つけてくれなかった。大体手積み手おろしなのに助手をつけてくれないんだもの。全部1人でやれって言う、それで日当が2000円だよ。あの運送屋はきつかったなぁ。まぁ今から考えるといい勉強だった。そう簡単には金は入らないって言う。
レコード屋のバイトを選んだのは当然として、なんで運送屋にしたかって言うと、ラジオが聴けるじゃない。1日中FENを聴いていられるから。あの頃はカーラジオにFMチューナーなんてなかったからAMオンリー。民放ラジオをつけると朝から晩まで1日中、ぴんからトリオの♪女のみち、が流れてた。
FENスティーリー・ダンの♪Do It Againと、キング・ハーベストの♪Dancing in the Moonlight、あとギルバート・オサリバンの♪クレア。日光街道の渋滞。
だから、この3曲を聞くと日光街道を思い出すんだよw
【第7回 了】