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ヒストリーオブ山下達郎 第8回 シュガーベイブ前夜 1972〜73年

<ディスク・チャートで新しい音楽仲間と出会う>
僕が運送屋でバイトしてた時、他のメンバーも別のバイトをやってた。
鰐川のお兄さんがガラスケースのリース会社に勤めていて、僕以外全員そのリース会社でバイトしてた。デパートの売り場、食品売り場や衣料品、あと催事場とかに商品を並べるガラスケース。あれって組み立て式なんだ。枠とガラスの天板、横板っていうのが全部別になっていて、それを搬入して現場で組み立てる。終わったらまたバラす。そういう作業をするバイトなの。
昼間に会社に電話をすると、何時にどこのデパートって教えられる。水曜日が休みのデパートだったら火曜日の夜とかね。ずっと他の連中がそのバイトをやっていて、のちに僕も合流したんだけど。
72年の秋の事だけど、ちょうどその頃誰かのバイト現場が四谷だったんだ、2、3人での。そいつらがバイトの帰りに、新しく四谷にロック喫茶ができたと聞いて行ったのが「ディスク・チャート」。
今(2004年現在)もあるジャズ喫茶「いーぐる」だね。以前から四谷にあったジャズ喫茶「いーぐる」が区画整理で移動することになって、近くのビルの地下に新しい店を作ったの。でも移転開始までにまだ1年ぐらい余裕があって、その間、新しい場所を空にしておくのはもったいないって言うんで、ロック喫茶にして営業したんだね。期間限定の店だね。
で、Add Some〜関係の友達がその店に行ったら、ちょうどビーチ・ボーイズの「サーフズ・アップ」がかかっていたの。その当時ビーチ・ボーイズのレコードをかけるロック喫茶なんて皆無だったから、これは珍しいって言うんで、彼らはその店のカウンターの人に話しかけた。カウンターにいたのが土井くんと言う長崎出身の人。
「ディスク・チャート」は、のちにシュガーベイブのマネージャーになる長門芳郎君が店を任されていた。長門くんも長崎出身、長崎時代の友人が大学で何人か上京していて、土井くんは長門くんの高校の後輩で、その縁でバイトをしていた。他には小宮やすゆうと言うシンガーソングライターとか、西口純一、後に「クジラの歌」って言うレコードを出す人なんかもいて、みんな長崎出身だったんだ。
で、店に行った友達が、その時にカウンターの土井くんに話しかけた。普段だとカウンターには小宮くんとか長門くんがいるんだけど、彼らはほとんど客とは交渉を持たなかったらしいのね。だから、その時にたまたま土井君だったっていうのが、また運命なんだけど。僕の友達と話が弾んでね、今度自主制作盤を作ったからって、数日後にAdd Some〜を持って行ったんだよね。それを聴いて長門くんが電話をかけてきたの、「何枚か欲しい」って。
それで僕は初めて「ディスク・チャート」に行って、長門くんと対面したの。
その時に話したのがLovin’ Spoonfulの話でさ。長門くんは長崎でLovin’ Spoonfulのファンクラブをやっていたほどのスプーンフル好きだったんだ。自然とカマストラ・レーベルの話になって、僕はイノセンスのアルバムを持っていって、彼はソッピース・キャメルを持っていたから、貸っこして聴こうと。そこから付き合いが始まった。ちょっと寒くなっていた頃だったかな。
長門くんと小宮くんと一緒に「フィルモア最後の日」の映画を、その翌週に見に行ったりね。長門くんは南阿佐ヶ谷の6畳一間に4、5人で同居していたんだけど、そこにも遊びに行ったよ。
で、仲良くなって1ヵ月ぐらいした頃に、長門くんから「実はウチの喫茶店で毎週水曜日の夜中にセッションやってるから来ないか」って言われたの。それで行ってみたら、そこにいたのがター坊(大貫妙子)、野口明彦矢野誠さん、山本コウタローさん。それから当時武蔵野たんぽぽ団にいた若林純夫くん、それから徳ちゃんこと徳武弘文くん、さっき言った小宮やすゆう君に西口純一君。そういったメンツ。他にもたくさん人がいた。
ター坊はその少し前まで「三輪車」って言うフォーク・グループをやっていて、レコードを出す寸前まで行ってたんだ。だけどグループが解散したんで、彼女の面倒を見てほしいとディレクターの矢野さんから頼まれて、長門くんたちのところに連れてきたんだ。だから矢野さんがそのメンバー人脈の中心かな。あと(のちにプロペラレコードでアルバムを出す)日野原幼紀さんも時々セッションに来てた。
それでター坊のオリジナル曲をみんなでアレンジして、デモテープを作ったりしたの。72年の後半はこの「ディスク・チャート」のセッションが大きかったな。その後、僕がそこに村松くんと鰐川を連れて行って、それでバンドを作ることになる。

  

<ディスク・チャートでのセッション>
セッションは喫茶店のテーブルと椅子を全部どかして、フロアを空けてやるの。僕が最初に行ったときには、そこでター坊の1枚目のアルバム「グレイ・スカイズ」に入っている♪午后の休息、って言う曲を徳ちゃんがベースからギターから一手に引き受けてやっていた。で、後はみんなでボンゴやタンバリンといったパーカッション、それにコーラスをやってね。それをテレコに録音してた。
ピアノは店にはなく、だから矢野さん自身は直接演奏には関わっていなかった。来たり来なかったりで、紹介しただけみたいな感じ。
矢野さんは当時アレンジャーとして売り出し始めていて、皆で彼の仕事をスタジオに見に行ったりした。矢野さんはその後、僕たちをコーラスに使ってくれるようになった。一番最初は、ただ見に行っただけだけど、小泉まさみだった。(小泉まさみとこんがりトースト/ポプコン出身のフォークグループ。75年に♪妹の部屋がヒット。シンガーソングライターとしても才能を発揮し、75年にアグネスチャンのアルバムに提供した♪ハローグッバイが、81年に柏原よしえによって歌われ大ヒットした)。
彼(小泉)のレコーディングで徳ちゃんがギターを弾いてたのかな。それから小宮くんとみんなでコーラスをしたりね。
小宮やすゆう君はジョン・セバスチャン(The Lovin spoonful)が好きな人で、風貌もどことなく似ていた。彼はすごくいい曲を書いていたから、後に小宮くんの曲をシュガー・ベイブで何曲かやることになる。レコーディングはしなかったけどライブではかなり彼の曲を取り上げていた。小宮くん達には僕らのファースト・ライブにも出てもらったしね。
だから「ディスク・チャート」では小宮くんのデモテープと、ター坊のデモテープ、後は若林くんの「雪の月光写真師」なんていう曲。彼はあの曲をソロで春一番とかで歌ってたけど、そういうデモテープをよってたかって作ってた。
(70年♪走れコウタローがヒットした)山本コウタローさんがどうしてそこにいたのかは知らない。マンドリンを弾いていた姿が記憶があるな。
何しろあの場所では、徳ちゃんがアレンジとか演奏とかのリーダー格だった。彼はその後コウタローさんが「少年探偵団」と言う自分のバンドを組んだときに、メンバーになったんだ。
コウタローさんは「はちみつぱい」とも関係あったらしくて、それで、かしぶち哲朗(ドラムス)和田博巳(ベース)岡田徹(キーボード)、それに徳ちゃんのギターと言う4リズムと、コウタローさんと若林くんのボーカルで「少年探偵団」と言うバンドができたんだ。
確か少年探偵団はビクターで1枚シングルが出てるよ、タイトルは忘れたけど。
その頃コウタローさんはラジオ関東で番組を持っていてね。その関東の番組はフォーク中心なんだけど、それでも割と音楽主体でね。コウタローさんがAdd Some〜に興味を持って、その番組でかけてくれたんだ。ちょうど徳ちゃんがゲストだったのかな。それは73年に入ってのことだったと思う。それでその放送局のディレクターが僕たちに興味を持ったりもした。
だから、ほんとにあの自主制作レコードが全てだったんだよね。それを聞いてくれた人がアプローチしてくるとか、それを媒介にしていろいろな人と仲良くなるとか。だからAdd Some〜がなかったらおそらく僕はプロになってないんだろうね。
「ディスク・チャート」のセッションは見てただけ。でも、そのうちに我慢できなくなって割り込んで行ったんだと思う。それはター坊がよく言うでしょ。横に座って何かうるさいこと言ってた奴がしゃしゃり出てきて、俺がやるとか言って、そのうち真ん中に座ってやり始めたって。その通りなの。もうその頃は表現衝動の塊で。正直言って自主制作盤のバンドはコーラスも含めてお世辞にも上手いとは言えなかったし。「ディスク・チャート」でもうちょっとテクニックが上の人たちに出会ったんだよね。
徳ちゃんはその頃からギターが上手かったし、何よりスタイルに個性があった。小宮くんの曲もすごく優れていたし、ター坊の曲もすごく良かったしね。
何よりもフィフス・アベニュー・バンドとかオハイオ・ノックスとか、そういういわゆるニューヨークとかロサンゼルスのラヴィン・スプーンフル関係のファミリーから始まった音楽を聴いている人が世の中に、僕の他にもいるんだと思ってね。それこそトレード・マーティンとかアル・ゴルゴーニとか、そういうものを言葉だけでなく実践として共有できる人たちが初めて出てきたの。そういう接点のある初めての人たちで、しかも音楽的に優れていたから、やっぱりそういう仲間に入れてもらいたかったよね。大体目立ちたがり屋だったから。
野口明彦は(長崎人脈じゃなくて)また全然違うところから入ってきて。元々彼は高校では野球部で、その後はカメラマンのアシスタントになったり、それと並行してフォーク・グループの真似事をしたりしていた。彼は苦労人でね、僕と同じ年だなんだけど、既にいろいろな仕事を経験していた。多分矢野さんの紹介で「ディスク・チャート」に来るようになったんだと思うけど、この辺は本人に聞いてみないとわからない。
それでバンドを作ろうと思って、前の仲間から村松くんと鰐川を引っ張り込んだ。2人は楽器のテクニックがあったし、それにター坊と野口を加えてバンドを作ったんだよ。

  

シュガー・ベイブのメンバーが集まる>
最初は野口はいなかったんだよね。ター坊、村松くん、鰐川と僕の4人でまず始めて、ドラムはオーディションで決めようと、72年の冬からずいぶんオーディションをした。
だけど、これと言う人が来なくてね。喫茶店に張り紙をしたりとか、そういう今でもよくあるパターンで募集して、電話がかかってきた人をオーディションするんだけど、ことごとくダメでね。そしたら最終的に野口がやりたいって言い出して、それで野口にした。
73年の初詣は、村松くんとター坊と僕とで明治神宮に行ったのを覚えているから。その辺がいよいよシュガー・ベイブの始まり。でもその頃はバイトしながらやってたんだよね。
「ディスク・チャート」のセッションがなかったらバンドは絶対にできていなかった。でもソロをやろうって考えはなかった。考えたら、今まで僕がやってきたのは全てバンドだもの。ずっとアマチュアバンドを組んで、それでやってきた。ブラスバンドもアンサンブルだし、作詞作曲して、ギターの弾き語りで1人で歌って、なんて言う発想はなかったね。60年代にはシンガーソングライターなんてほとんどいなかったから。グループサウンズにしろ、すべてバンドだったからね。
あの頃はバンドの方が一般的だった。もっとも同じ頃に鰐川と2人で誰が仕事を入れたか分かんないけど、池袋パルコで何回かライブをやった記憶があるんだ。キャット・スティーヴンスのカバーとかの他にオリジナルも歌ってね。でも、そうやってても「生ギター2本で何かやれる?」とか思ってたもん。
それは池袋パルコの上の階にあったイベントスペース、そこで「ガロ」なんかもやってたよ。普通のフロアが一段高くなっていて、向こう側に確かラジオのサテライトもあった記憶がある。何時からこんなことありますよ、って告知があって。単純に何かやってると人が集まるじゃない、デパートの屋上と同じ。パルコは屋上がなかったから7階だか8階のそういう催事場でやっているだけでね。何回かやった記憶はある。

  

シュガーベイブはコーラスを武器にしようと思った>
バンドを作ろうと言ったのは僕。
村松くんは実家がメガネ屋さんで、高校を出て眼鏡学校に2年に行ってから就職して、僕がバンドに引っ張り込もうとしたときには新小岩の東京ワコーの支店長代理をやっていたの。
鰐川は凄く真面目な奴で、現役で電機大学に入っている。中学の時に病気で1年ダブっているので、浪人なんかできないからと、ちゃんと勉強して大学に行ったの。
そういえば、徳ちゃんも理系で、ちゃんと大学を卒業してるんだよね。コウタローさんのバックをやってた時も、試験があるからって休む人だったから。そういう真面目な奴はいたの。
鰐川もいずれは大学に帰ろうと思えば帰ったんだろうけど、ちょっとモラトリアムでさ。彼は音楽が好きだったから、ちょっとやってみたいなと言う気持ちがあったんだろう。そう考えてみると思い出す事はずいぶんあるね。
具体的にスタジオの仕事と関連していくのが74年から後だからね。72〜73年にかけては、まだ準備段階だったね。
演奏テクニックにはそんなに自信もなかったけど、とにかくコーラスが好きだったからね。コーラスの幅を広げるには絶対に女性が必要だと思って、それでター坊に声をかけたんだよ。
ター坊はいい曲を書いていたし、女と男の2人のリードボーカルで、それにハーモニーもあれば、結構幅が出るんじゃないかって考えたんだ。だから「サンシャイン・カンパニー」とか漠然とそういうのを意識してたのかな。
あの頃はター坊も「フィフス・アベニュー・バンド」なんかを聴いていたからね。
三輪車っていうのはフォーク・グループでね。北原白秋の詩に曲をつけて、やってたりしたそう。あの頃は僕が19歳だからター坊は18歳か。高校出て彫金をやりたいと言って、美術大学志望だった。だけど、美術よりも音楽のほうに行く結果になった。
ター坊が書いた♪午后の休息は非常に端正な、あの時代のアメリカン・フォーク・スタイルの曲。アレンジも素晴らしく、良い出来だったんだよね。ボンゴ1個とベースと、アコースティックギター2本で、いわゆる日本のフォークじゃない、メジャーセブンスコードが使われていたの。
小宮くんの曲もメジャー・セブンスのおいしさがふんだんにあった。だから、あの集まりは本当にコード・プログレッションや音のセンスに関しては、すごく進んでいたんだよ。
こんな話をしていると、あの頃の「ディスクチャート」のフロアとか、間接照明の中でゴルゴーニ・マーティン&テイラーのレコードがかかってる感じとか、色合いがすごく鮮明に記憶に蘇るね。
水曜日のセッション。午後11時ごろまでお店をやって、その後、夜中から朝まで。だから喫茶店がまだやっている時間に入って、待っていて、終わったら片付けを手伝って、椅子を動かして。
お客さんはあまり居なかった。だってかけてる曲が、全然当時の流行とは違うからね。あの時代はハードロック系の新宿の「サブマリン」とか、後はやっぱり渋谷「ブラック・ホーク」とか。そういうところはウェイトレスの容姿ひとつから選んでいたからね。だけど、かかる音楽の質と言う意味では、僕にとっては「ディスクチャート」にかなう場所なんてどこにもなかった。だから、客が来なかったw

<音楽しか食べる道は無いだろうと思った>
どうして徳武君や小宮君とはバンドをやらなかったか? やっぱり村松くん、鰐川とやりたかったんだろうね。その辺の微妙な事情は考えたことなかったなぁ。
徳ちゃんはナッシュビル・カントリーの人で、これもまた当時にしては超絶的にユニークな選択なんだけど、僕とは明らかに志向が違っていた。しかも徳ちゃんはすでにコウタローさんとやってたし。
小宮くんとやらなかったのは、僕はきっとね、東京の人間とやりたかったんだよね。地方の人と出会うのはこの時が初めてだもん。だから彼らが長崎弁で喧嘩をする姿とか見て、すごく新鮮だっただけどね。おそらく純粋な地方出身者と、僕はあの時初めて接したんだと思うの。
結果的に僕が一緒にやってきたのは、ほとんど東京の人間なんだよね。現在のステージも土岐さん以外は全員東京、しかも23区だからね。選んだわけじゃないんだけども結果的にいつもそうなる。ネイティブ東京の匂いを欲するんだろうね多分。あんまり深く考えた事は無いけど。だから結局引っ張り込んだメンバーも、ター坊は浜田山、野口も中野坂上の生まれだし。結果的にね。
でも小宮君はそういう意味ではシンガーソングライターで、あくまでも1人でやりたい人だし、西口純一くんも全く同じでバンド志向がなかった。でも彼らを含めて、あの仲間にあの時巡り会えたと言うのは、かなり得難い経験だった。
曲は書きましたね。最初に書いたのが♪夏の終わり。とにかく曲がないから小宮くんの曲をやったり、後はカバーも。
バンド結成当初はまだオリジナルどころじゃなくて、一番最初に練習したのはキャロル・キングの「ライター」って言う1枚目のアルバムの♪宇宙の果てまで(Spaceship Races)、それとジョー・サウスの♪Devil May Care これは全く有名曲でも何でもない。この2曲を練習用にして、それでドラムのオーディションもしたの。この2曲にしたのは好きだった、それだけ。
ター坊がCarole Kingをやりたいって言って、僕がジョー・サウスをやりたいって。
その頃はアトランタのサザンロックに耽溺(たんでき)してたから、ドラマーのオーディションは随分やったんだよ。何人やったかなぁ。ひとりも合うのがいなくてさ。
自分でドラムをやりながらリード・ボーカルっていうのはやっぱり難しいからね。それまでのアマチュア時代はドラムを叩けるのが僕ひとりで、ギターは遊びでしかなかったけど、プロになるんだったら、リードボーカルは前でなきゃ、と一応は思ってたんだよね。
もっと本音は、ドラマーとしての自信がなかった、それに尽きるな。
プロになる? ごっこだよ、ごっこ。でも、これしか食える道はないだろうなと思ってね。とにかく音楽はやってみたい、歌を歌ってみたい、オリジナル曲は作ってみたい、ってそういうのはあったからね。

【第8回 了】