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ヒストリーオブ山下達郎 第9回 シュガーベイブ誕生

<当時、いろんなミュージシャンのライヴを観ていたよ>
1972年、行った来日コンサート。
ツェッペリンプロコル・ハルムテン・イヤーズ・アフタージェームス・ブラウン、それから共立講堂で見たフリー。いろいろ観た中であのフリーと、高校1年の時にサンケイホールで見たホリーズがベストだね。ホリーズは、グラハム・ナッシュがアコギを弾きながら歌っていたけど、当時はボーカルアンプしかなかったからアコギなんか全然聞こえなかった。だから実際にはギター1本、ベース、ドラムスの3リズムと三声のハモリだけなんだけどほんとにすごかった。1曲目が♪ストップ・ストップ・ストップで全くレコードと同じ、あれは感動的だった。
72年の箱根アフロディーテも行ったよ。Pink Floydは初期のシドバレットがいる頃にはヒットソングとして聞いていたけど「原子心母」あたりはそんなに好きじゃなかった。
箱根に来た時は「おせっかい」が出たあたりで、最後にエコーズをやったんだけど、あれにはブッ飛んだな。当日の朝は土砂降りで。でも始まる頃に雨が止んできて、Pink Floydの演奏が始まって暗くなって、エコーズの時に霧が出てきたと思ったら、会場の後ろから月がわーっと出てあの自然の演出はすごかったね。あれだってSEを使っているけど、楽器はドラム、ベース、ハモンド、ギターの4つをの音だけ。それであんな音を出していた。コンセプトはハッタリくさいんだけど演奏にグルーヴがあったから素晴らしいと感じたんだよね。
日本の音楽では、もうちょっと前かもしれないけれど渋谷のフォーク喫茶「青い森」で3人だった古井戸を見てる。あと西岡恭蔵さんを渋谷「BYG」の地下で見たのが大きかった。
それから早川義雄の「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」も聴いていたし。いつも言うけど、はっぴいえんどはバーンズの人がやっている、ってことだね。
西岡恭蔵さんを見たのは多分、全部浪人時代以降だと思うんだ。それまでは日本のロックなんて新宿のサンダーバードってディスコでやってるカバーもの、モップスとかそういうのしか見てなかったんだけど、西岡恭蔵がBYGで1人でやってるのを見たときは、まだロン毛でもなくって、象狂象の名前で、ヤマハのギター1本で弾き語りをしてた。村上律とジョイントだったかな。♪プカプカを初めて聞いたの。並木と2人で行って、感動したんだよ。それでディラン・セカンドのアルバムを買ってきたの。ライブは暇だったから見たんだけどね。
「青い森」も飛び込んだら古井戸がやっていた。その時に古井戸は♪かくれんぼ、とか♪春よ来い、とか自分たちの曲よりもそういうのばかりやっていて、その2曲が良かったんで、並木がはっぴいえんどを買ってきた。
大きいレコード屋さんに行けばURC関係は結構あったよ。並木は邦楽に対する興味も結構持っていて♪帰ってきたヨッパライは出ると同時に買ってきたし、RCサクセションも良いって言ってたね。
西岡恭蔵さんはエンターテイメントじゃないんだよね、一切。ひたすら淡々と歌い続ける人なんだ。ビジュアル的にもどっかの学生みたいな、もっさりした感じで、ガタイが大きくて、小太りでね。だけどその歌の世界が実にいいの。歌はうまいし、作曲能力もすごく優れていた。
古井戸の加奈崎さんも歌は下手じゃないから、彼が♪かくれんぼを歌うと、かなり説得力があったんだよね。
早川義夫は♪サルビアの花かなぁ。でも僕はジャックスが結構好きだったから。考えてみれば、♪かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう、って、殆ど♪イマジンの世界だよね。ピアノ以外何もない。あれはなかなか大したもんだと思うけど、きちっと評価されてないんだよね、サブカルチャーだから。ああいうのを何でも「フォーク」で括っちゃったのがいけないんだよ。そういう偏見が生まれてしまったんだよね。
僕の周りでは、加川良三上寛遠藤賢司友部正人あたりは一通り聴いていたからね。
若林くんの関係で武蔵野タンポポ団もよく見たし、あれが♪珈琲ブルースの高田渡かと思ってね。彼らのスタンスっていうか目線は我々とそんなに変わらないんだよ。
ただ音楽は違うからね。僕らがやっていたのはトライアドじゃないから。聞いていた音楽の趣味が違うの。
彼らはBob Dylanとかフォーク・ブルース、ミシシッピー・ジョン・ハートとか。
だけど我々はビーチ・ボーイズラスカルズラヴィン・スプーンフルだったと言う。だから中川五郎の♪僕のベッドにおいでよ、みたいな向こうの曲を日本語に引き寄せようとする動きはあの時代の必然だったんよね。
そういう流れの中から西岡たかしの♪遠い世界に、とかフォークルのようなオリジナルの素晴らしい曲が生まれている。はしだのりひことシューベルツの♪風、なんかも曲としては名曲だと思うよ。
高校時代には僕も同じようなことをしていた。友人のガールフレンドに詩を書くのが好きな子がいて、後はもうひとり中学からの友達で詩を書いてる奴もいて、そういう詩に曲をつけたりしてたんだよね。
鰐川と2人でアコギ2本で♪黄色いあかり、なんて言うオリジナル曲をやってた。スウィング・ワルツでね。今もデモテープを持ってるけど。並木はこれがお気に入りで「なんでシュガー・ベイブでレコーディングしないんだ?」って言ってた。
♪黄色いあかりはシュガー・ベイブではやっていない。シュガー結成以前に作った曲はシュガーでは1曲もやっていない。それまでの気分次第で作った作品と、シュガー結成以降のものは明らかに創作の意思が違った。
♪黄色いあかりはスイング・ワルツで「ブラックホーク」の薄暗い電灯を想起して作った詩だったの。高校生だったら誰でも書いてた程度の曲だよ。
まぁあの時代の状況が理解できないと、僕らがあの時代に音楽を始めたときの感覚は、おそらく理解できないだろうね。それはいつの時代もそうだけどね。
ヒップホップの連中も結構凄惨な日常の中からああいうものを掴み取ってやっているんだと思う。でも僕らにはそれらの本当の奥の奥までは理解できないから、ああいう表現に対する心からの共感は持てないと思う。それと同じことだね。
70年安保の直後の虚脱状態の中で僕らが迫られていたのは、乾いていくのか濡れていくのかって言う選択だった。乾くんだったら徹底的に乾かなきゃだめだし、濡れるなら徹底的に濡れなきゃと。それこそ大駱駝艦(だいらくだかん/72年創立の日本の舞踏集団)に行くのか、シュガー・ベイブに行くのかって言うねw
そんなに哲学的な事は考えていないんだけど、自分の体がそう動かざるを得ないっていうか。そういう時代の空気感なしにはシュガー・ベイブがどうしてああいう形になったか、説明してもわからないんだよ。それがしばしば音楽ライターには非常に恣意的なものに見えたわけ。コマーシャルの成功を目論んでやっているとか、よく関西のミュージシャンに言われたもんだよ。シュガー・ベイブってすごい金持ちの坊ちゃんがやってるんだと思ってたって。
冗談じゃないよ。確かにキャラメルママやミカバンドみたいな東京第一世代は確かに中流以上の子息だったけど、僕ら第二世代は全然そうじゃなかった。地方からの東京幻想と実際の東京との落差、あったね。だからやるのは何でもよかったんだ。僕は音楽、あんたは芝居、君は物書き、私は絵、みたいなさ。要するに給料取りで満員電車に揺られて、と言う生活がなければなんでもいいって言う感覚があった。
そういうのをサブカルチャーと言うのかもしれないけど。あの頃はすでにヤンキーもいたしね。文化人類学的にそういうものをちゃんと分析しきれてないんだね、まだ。

<ディスク・チャートのセッションは、バンドが始まって自然消滅した>
「ディスク・チャート」での人間関係で、一番僕と趣味が合ったのが長門くんなんだよね。僕がラスカルズ長門くんがLovin’ Spoonfulだからね。ニューヨークのイタロ・アメリカンと言うファクターは強固なんだよ。なんだかんだ言いながら、長門くんと僕の関係で進行したんだね。
だから長門くんは当然マネージャーをやりたいと思っていた。彼は長崎の出身で、割と育ちが良くて、おっとりしたところがあるの。あと彼は今でもそうだけど、とにかく記憶力が良い。レコード屋に行っても長門くんはジャケットのクレジットをいちど見ると、もう忘れないから。こないだ見たシングル版はあそこの店の何番目とか、そういう人だったから、あの頃はいつも長門くんと一緒にいたね。
バンドは海のものとも山のものとも、皆目見当がつかなかったよ。何度も言うように別にオーディションでも、プロダクションとの契約でも、どこかへの売り込みでも何でもなかった、ただの自称のプロだからね。
73年8月に長崎で初ステージで、その時まで何ヶ月間か練習していたんだ、並木の家で。だから年が明けてから野口がドラムに決まったんだね。
「ディスク・チャート」でのセッションは、結局徳ちゃん(徳武弘文)がコウタローさんの仕事が始まって忙しくなったのと、僕がター坊をバンドに引っ張り込んじゃったから、自然消滅だね。まもなく「いーぐる」が移転してきて「ディスク・チャート」の名前もなくなった。矢野さんもその頃からアレンジャーとして仕事をするようになった、亀渕友香とか。
バンド名は僕が決めたの、時期は72年の暮れぐらいかな。ヤング・ブラッズの曲名からね。バンド命名作業は実はすごく難しい。考えれば考えるほど悩む。平凡じゃないもの、だからといって仰々しいのも嫌だしね。活動するならヤング・ブラッズみたいなスタンスがいいかなと思ったの。
それを大滝さんに言ったら、スタンスまで考えてるっていうのはなかなかだ、とか言われたけどw
バンドのレパートリーは初めて描いたのが♪夏の終わりに、その次が♪風の吹く日に。これはター坊に歌ってほしくて書いた。でも地味な曲。自分の曲はあまりなかったんだよ、73年の時点では。
ター坊は♪時の始まり、って言う「グレイ・スカイズ」に入っている曲を書いていた。でも♪午后の休息はやっていなかったな。
その頃ター坊は日テレの「遠くへ行きたい」に出たんだ。渡辺文雄さんと北海道に行った。その時に船に乗って2曲歌うってことになって、1曲が小宮くんの♪港のあかりって言う曲で、これはシュガー・ベイブでやっているけど。それにもう1曲歌わなきゃいけないって言うんで、そのために僕が♪光の中へ、って言う曲を書いた。
番組に出たのは多分ター坊の「三輪車」メンバーだった林謙司と言う人がテレビ番組制作の世界に入っていたから、その関係だと思うよ。これも彼の関係だと思うけど、よみうりホールでやるファッション・ショーのバックで歌を歌うって言うんで、僕もエレキギターで演奏して、彼女がアコースティック・ギターで歌うっていうのがあった。その時にはター坊のオリジナル曲を何曲かと♪光の中へ、も歌ったの。
結構いろんなことをやってたんだよ。で、そんなふうに73年の前半、ひたすら練習をしていた時に伊藤銀次から電話がかかってきたの。
72年秋にAdd Some 〜が出来て、それを、機材を借りたお礼に本多信介に持って行った。「はちみつぱい」が新宿の練習スタジオで練習していた時に。そのアルバムを信介がアンプの上に置いたらさ、ベースの和田博巳君が見てたのを覚えてる。それを和田くんが高円寺南口のロック喫茶「ムービン」でかけたのかな。
とにかくそれが73年の春で、初夏に銀次が電話をかけてきて「2枚欲しい」って。それが5月か6月かな。
その時ちょうど同じ時期にギタリストのヒョコ坊(永井充男)がストラトキャスターを売ってくれるって言ってきた。ヒョコ坊はまだ「ジプシー・ブラッド」にいた。村松くんとヒョコ坊の関係はよく知らない。誰かの紹介だったと思うけど。以後、村松くんはシュガー・ベイブでこのストラトキャスターをずっと使っていく。
僕はもともとドラムだったから、エレキギターを1本も持っていなかった。当時はエレキはとても高くて、しかも当時電子ピアノを買ったばかりで、経済的に余裕がなかったので、最初は鰐川の持っていたグレコレスポール・モデルを借りて、それに並木がハワイから買ってきた6000円のギブソンのピックアップをつけてもらって弾いてた。

<ピアノを買ってから作る曲が変わった>
練習は本当は毎日でもやりたかったけど、その頃は並木の家の周りも建物がずいぶん経ってきて、しかもドラムスをバンバン叩くから週2回から3回位かな。それも昼間。でも、よく我慢してくれたよね、母屋の人たちも。僕はバイトで生計を立てて。例のガラス・ケースとかね。後はレコード屋、あれはもうちょっと前だったかもしれない、その辺になるとちょっと記憶が危なっかしい。
シュガー・ベイブのスタイルは成り行き、最初から強烈な個性なんて出しようがないよ。僕にとっては♪SHOWが明らかな転換点かな。そのちょっと前にピアノを買ったの、といってもエレピアンと言う電子ピアノ。僕の実家は木造2階建てで、本当はアップライトピアノが欲しかったんだけど床の強度が足りなかった。で、コロンビアのエレキピアノだったら置けるって、それで月賦で買って曲を作り始めたんだ。それで♪SHOWを作ったから、確か73年秋だと思う。キーボードは全くの我流で、別にキーボード・プレーヤーになりたいわけじゃなかった。曲を作るためにどうしてもピアノが欲しかった。
やっぱりコード・プログレッションを有機的に把握できるのはピアノだからね。曲をちゃんと作るんだったら、やっぱりピアノじゃなきゃダメだから、どうしても家にピアノが欲しかったの。で、エレピアンだったらヘッドホンでも聞けるしね。そこから作風がガラッと変わったんだよ。それまではギターで作ってたからね。
ギターは基本的にフォームで弾く、つまり一番握りやすい和音の手の形でやっているから、音の配列としては結構いい加減なのね。でもそのいい加減さがギターの特殊な響きを生むわけ。だからテンションの方が下にあったりする。それはギターの特徴で、それを逆に利用することによって独特の味が出るんだけど、キーボードっていうのはもっと多彩な音の重ね方ができる。そうしないとやっぱり編曲まで視野に入れた曲作りはできない。
オーケストレーションをちゃんと勉強した作曲家だったら、ピアノさえ使わずに作曲アレンジができるけど、でも僕は素人だから、少なくとも視覚的にボイスチェンジとか、そういうものを把握しないとできなかった。
特に分数和音の世界はピアノじゃないと成立させにくい。それでピアノ買って直後に♪SHOWを作ったのはよく覚えてる。♪パレードはギターと半々かな。それから先はずっと僕の場合9割ピアノ。
そのエレピアンは実家を出る時までずっと使っていたから「ムーングロウ」までは全てそのエレピアンで作曲してたのね。
その後「ライド・オン・タイム」がチャートに入ったときに、RCAの当時の社長が昔ビクターピアノの社長だったんで、お祝いにアップライト・ピアノをくれたの。それを、その後ずっと今まで使っている。アルバム「ライド・オン・タイム」以降の曲は♪クリスマスイブを初めすべてそれで作っているの。ちょっと最近古くなって調子が悪いんだけど、でもゲンのいいピアノなんで、今でも仕事場にはそのピアノが置いてある。
ター坊も最初ピアノがなかった。だから、渋谷の三浦ピアノって言う練習所のあるピアノ専門店に行って弾いたり、鍵盤を絵に描いて、机に貼って、それで練習してたって言う、涙ぐましい世界だった。彼女も最初の頃の曲はピアノよりもギターで作ってたんだけど、シュガー・ベイブになってだんだんキーボード主体になってきたの。で、後にはエレクトリック・ピアノを買って、それでどんどん複雑な曲を作るようになった。
スパルタ練習? スパルタって言う意味では、今でもやろうと思えばしちゃうけど。でもメンバーが上手ければ、その要求に応えられるわけ。だから青山や伊藤広規にも散々やったけど、彼らはちゃんと要求に応えられたんだよ。シュガー・ベイブの頃はそういうテクニックはないし、まだ僕もアンサンブルの本質がそれほどわかっていたわけじゃなかった。
今だったら、例えばター坊のキーボードをどうやって出すかって工夫したりするだろうけど、あの頃は自分の演奏だけで精一杯で、周りの音まで気を配る余裕なんてなかった。だから当時の音を聞くと「こんなことやってたんだ」って思うよ。人の音なんか何も聞いてない。それで下手だとか上手いとか言ってるだけだったんだよね。
それに練習も、時間を割くのはコーラスの方が多かったんだよ。今出ている「ソングス」には♪夏の終わりに、のデモ・テープ・ヴァージョンが入ってるけど、あれだって歌いながら弾いてるんだよ。バカだよね。

<長崎のコンサート、そして大滝さんとの出会いへ>
73年夏、長崎には僕とター坊と村松くんが車、長門くんたちは電車で行ったのかな。3人で神戸まで車を運転して行って、そこからフェリーで小倉まで行って、また運転して。よく行ったよね、若さだよね。
で、長崎のライブやって、夏休みで遊びに行ったようなもんだけど。それで帰ってきて、長門くんが仕事を入れようといろんなとこで頑張るんだけど、その次に入ってきたのは今は無き「ラ・セーヌ」なの。「ラ・セーヌ」はボーカル・アンプと楽器のアンプがないと入れないの。村松くんが結構楽器持ちで、テスコのバイキングって言う100ワットのヘッドが2つと、エルクのボーカル・アンプのヘッドだけ持ってたの。何故か。
「ラ・セーヌ」は新宿。歌舞伎町に入っていて、コマ劇場の近くにタローって言うジャズ喫茶があって、その側。その時は対バンがひとつあって、こっちはレパートリーがないので、その時なぜかローラ・ニーロの♪アップ・オン・ザ・ルーフをやったの。でも不思議なことにお客がいたんだよ。
その頃大滝さんとのコンタクト? その辺のいきさつは長門くんに聞かないとわからないんだよ。
長門くんが動いていた事は確かなんだけど。伊藤銀次を先に引っ張り込んだのか、よくわからないんだけれど、とにかく僕は長門くんに連れられて福生に行ったの。それが8月の頭だったような…。
長崎のライブが終わって(1973年)9.21のはっぴいえんど解散コンサートの前に、練習を結構したからね。だから8月中頃かもしれないなぁ。
とにかく長崎が終わった後、それは長門くんが自分で考えて、結局「ミュージックマガジン」とか、ああいう雑誌に載らなきゃだめだと。そういうのに載っけるために何か一番効果的か、って。
そういうところ、彼は意外と政治的なのかもしれないね。それで大滝詠一しかないって言うことになった。そしたら大滝さんが乗ってきたんだよね。
でも、その辺の話、僕は長門くんとしたことがないんだよ。
【第9回 了】