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ヒストリーオブ山下達郎 第17回 バンド解散と「ナイアガラ・トライアングル」 1976年

オールナイトニッポンのパーソナリティーが始まるんだよね>
76年1月18日、玉川区民会館「下北沢から51年」コンサート。顔見せの感じだったよ、出演者がずいぶん多かった。どういう企画意図かも知らない。僕らは出演時間直前にただ行って、演奏して帰ってきただけ。下北沢ロフトとは関係ないイベントだったと思う。
この年の1月といえば、このコンサートの3日後くらいにオールナイトニッポンのパーソナリティーが始まるんだよね。1月21日からだね。水曜日の2部だから深夜3時から。話はPMP(現フジパシフィック音楽出版)から来たんだと思うよ。急に話が来た。76年1月から10月までやったの。
10ヶ月でクビになった。マニアックな選曲だったからね。何度もチーフプロデューサーに呼ばれて怒られた。かけている曲が一般向きじゃないって言われてね。「公共放送なんだから10曲かけたら7曲は誰でも知ってる曲にしろ」って。「誰でも知ってる曲って何ですか?」って聞いたら、だからビートルズとかそんなのだよ、って。嫌なヤツだったよ。
僕の前に水曜日の2部だったのは、伊藤政則さんがカッコマンという名前でやっていたね。僕の時の1部は最初はニッポン放送の田畑達志アナウンサーで、4月に月曜日の2部に移るんだけど、その時は1部がトノバン(加藤和彦)だった。で、トノバンも僕と同じ時期に辞めたみたい。
あの頃の2部は録音で、実際の収録は夜8時くらいから始めて、午前1時前後にアップする、という感じだったね。
生まれて初めてのラジオレギュラー、番組は2時間だけど収録には時間がかかった。この時のディレクターが佐藤輝夫さんでね。彼とはその後もラジオの番組で関係が続いていく。今も現役で、桑田(佳祐)くんの「やさしい夜遊び」の構成なんかをしている。佐藤さんとはもちろんその時が初対面で、DJ初体験の僕にとってはラジオの先生で、色々と教えてもらった。喋り方にダメが出まくって、「えー」が多いとか、発音がはっきりしないとか、論旨が伝わりにくいとか、すごく厳しかったんだ。それで時間がかかったの。
でも選曲に関しては佐藤さんはほとんど何も言わなかった。チーフプロデューサーに文句を言われた時もかばってくれたんだ。だから彼も僕が辞める時に外されてしまった。その後2年くらい佐藤さんはオールナイトニッポンの仕事はしなかったね。その間はアメリカに行っていたそう。
僕のオールナイト2部の内容は「サンデーソングブック」と大差ないよ。だけど、時代が今とは全然違うもの。僕自身もまだ無名だったからね。ホントに毎週のように文句言われたね。呼びつけられて。その意味では、今のサンデーソングブックなんて夢のようだよ。
その上、選曲だけじゃなくて、オンエアする楽曲の権利関係もうるさく言われた。聴取率週間にはニッポン放送の系列音楽出版社であるPMPの楽曲がどれぐらい流れているか、って言うリサーチがあるんだよ。それでもっとPMPの曲をかけろって圧力があるの。
でも当時出していた邦楽の曲なんぞかけるのは絶対に嫌だったから、PMPの洋楽管理楽曲を調べて、ドゥービー・ブラザーズとかイーグルスとかリトル・フィートとかを探して、かけていたんだ。イーグルスのTake it to the limitなんてのをね。
そんな内容の上に、オンエアが3時から5時だから聴取率なんて大してなかったけど、そこはさすがに全国ネット、その後、業界に入ってくるようなマニアックなリスナーが聞いててね。80年代に入ってからは、ずいぶん色々なところでそう言われた。でも当時はそんなこと知る術もない。だからしまいには居直って、夏前くらいからは4時台の1時間は、毎週ビーチ・ボーイズのアルバムを丸ごと1枚ずつかけていって、結局当時の最新作「15ビッグ・ワンズ」まで20枚近く、全部かけた。
           

<「ナイアガラ・トライアングル」で4曲録音>
オールナイトを担当し始めた頃にやっていたのは「ナイアガラ・トライアングル」(3月25日発売/日本コロムビア)のレコーディングとミックスだね。
「トライアングル」の企画を大滝さんから聞いたのは前年、75年の9月かそこいらでしょう。レコーディングが始まったのが11月上旬だから。
実はその時点で、シュガー・ベイブにはソニーから誘いが来ていた。僕はそっちに行きたいなと思っていて、ナイアガラと再契約する気はなかったんだ。スタッフもそういう意向だったし。でもまぁ「ティーンエイジ・トライアングル」って言うコロピックスの企画物アルバムがあって、そういう企画なんだと思った。
まだ僕がソロになるって事は考えてなかったけど「パレード」をシュガー・ベイブのセカンド・アルバムに入れようとは思わなかったし、「遅すぎた別れ」はキングトーンズ用に書いて、そのままにしておいた曲だからね。
バンドをやりながらソロを作る、そういう感覚だった。で、2曲書き下ろして2曲は有りもの。で、その当時よく坂本くんと一緒にやっていたので、大滝さんのバックもシュガー・ベイブに坂本くんが入った形でやっていたし。だからこれも坂本くんとやろうと思っていて。
どれもギターサウンドじゃなくて、キーボードがかなりウェイトを増している。特に「ドリーミング・デイ」なんかそう。これはユカリ、寺尾、僕、坂本の4リズムで全てレコーディングされている。そんな感じだから「パレード」なんかは全くアレンジを変える形でやろうと思っていたし。4曲あるけどバラバラなんだよね。
「ドリーミング・デイ」
最初のアイデアは、デルスの♪Distant Loveって曲があってね。”Our Distant Love”〜ってフックがあるんだけど。それともうひとつ、ジョニー・ムーアがリードを取ったドリフターズの♪Fools Fall In Love、そっちのイメージもあった。
それにセカンドラインのリズム、大滝さん譲りの。で、大好きな循環コードで、全体的な歌い方はディオン。あとは自分がブラバン時代から持っていたラテン感覚とか、そういうものをごた混ぜにしたっていうか。この曲は自分では意外とよくできていると思う。
それで詩はター坊に頼もうと思った。このアルバムの詩は、これがター坊でしょ、「パレード」は自分で、「遅すぎた別れ」は銀次で、「フライング・キッド」は吉田美奈子。詩に関しては、自分の周りの才能ある人たちを網羅してるんだよね。大滝さんは「遅すぎた別れ」は僕が推敲してると、ずっと思っていたんだけど、語りの部分は100%銀次が作っている。DOWN TOWNみたいなコラボレーションじゃないんだ。「ドリーミング・デイ」はこのアルバムの企画が大滝さん出て来た時に作った曲だと、当時のライナーにも書いてあるけど。こういう曲調はシュガー・ベイブでも、ソロになってからもやらなかったからね。もし海外レコーディングをせずにアルバムを作ってたら、こういうオールドなポップ路線に行ったと思う。「サーカスタウン」のレコーディング経験が自分にとってあまりに大きかったので、急激にコンテンポラリーにシフトしたけど、のんびりやっていたらおそらく「ドリーミング・デイ」とか「パレード」とかほんわかした感じで行っただろうね。
ター坊には詩についての注文は何もしなかったけど、すぐ書いてきてくれた。あの人こういうのうまいんだ。言葉が全く邪魔しない、こういう素直な語感の詩は、今も昔も少ないんだよ。明るいんだけど暗いと言う、都会の東京人のメンタリティーがよく出てる。これは素晴らしい詩だね。いつでもステージでやりたい曲。
「パレード」
リアレンジというかリテイクして成功した数少ない曲で、これも一種の洒落でね。ジェリー・ロスのアレンジというか、そういうものをそのまま「パレード」にはめ込むっていうかね。
今から考えるとジェリー・ロス、ジミー・ワイズナー、ジョー・レンゼッティとかってフィリー(フィラデルフィアサウンド)なんだよね。当時はこれらの人ってみんなニューヨークの人たちで、ニューヨーク・シャッフルだと思い込んでいたんだけど、とんでもない、フィリーなんだよね。つまり僕は10代にフィリーを浴びるように聴いて育っていたということになる。だから実はシカゴよりはるか前にフィラデルフィア・ソウルの影響を受けていて、こういうところに出るわけだと。
これは自分で言うのもなんだけど、よく出来たオケなんだ。間奏後のコード展開など坂本くんに協力してもらって、僕はこう行きたい、それならこう言うのもいいのでは?と、彼と一番うまくコミュニケーションが取れてた時期だね。
さっきも言ったように、このアルバムのレコーディングは僕に関しては全曲4リズムなんだよね。しかも全部福生で録ったの。だから僕にとってはシュガー・ベイブよりもこのレコーディングの方が福生の情景とすごく密接でね。実は福生45スタジオでリズムを録ったのって、僕にとってはこの時だけなの。シュガー・ベイブも45でやってるけど、あくまでオーバーダブ、かぶせなんだよね。スタジオの記憶ってのは、歌った記憶よりも演奏の記憶の方が大きいんだよ。
この4曲は全部福生で録ってダビングは他に行ったりしたけど、本質的にはNIAGARA MOONと同じ音色だね。ブラスもすごくシンプルに4サックス1トランペット。ペットとアルトサックスをユニゾンにして、柔らかい、あんまりアタッキーじゃない効果を出してる。この時にアルトのソロを初めて岡崎資夫さんにやってもらっていた。この人にはのちに「スペイシー」から「ゴーアヘッド」を経て「ムーングロー」までのソロをたくさん担当してもらった。トム・スコットが好きな人で、あまり有名じゃないけど、音色もフレーズもすごく良くて、この「トライアングル」の延長でサックス・ソロを岡崎さんに頼んで行くんだ。
「パレード」は愛着のある曲だね。SONGSのインタビューでも言ったけど、当時シングル向きの曲を持って来いって言われて書いた曲なんだけど、このアレンジだったらほんとにシングル切れると思った。そしたら20年近く後に「ポンキッキーズ」でシングルに出来たよ。あの頃はこれ1日で書いてたもんなぁ。エネルギーあったよなw  イントロの坂本くんの一発芸ピアノっていうか、あれだってその場の即興だからね。コラボレーションがいいよね。普通の展開じゃつまんないからエキサイティングでアバンギャルド福生で一発録り。リズム隊を全員で4人で2回やって、そんなことで曲全体を意図的に長くしたんだよw
「遅すぎた別れ」
そもそもは74年の話なんだけど、キャラメル・ママ雪村いづみとか、いしだあゆみとか、あの頃やっていた一連の歌謡界の流れで、キングトーンズをやると言う企画が出てて、僕のところにオファーが来て、銀次と2人でやることになって、まず「ルイード」にキングトーンズを観に行った。それがすごく良かったんだよね。それで3曲書いたんだけど、最初に書いたのがこれ。チャイ・ライツのHave You Seen Herみたいな語りの曲を作ろうと言うことになって、銀次がまず語りのセリフを考えて、そういう内容だって言うんで、僕が曲の構成を作って、途中の歌の部分に、また銀次が詩を足した。
笹塚のシュガー・ベイブの事務所の隣に、矢崎さんていうPA屋さんが住んでいて、そこでデモテープを作ったの。あの頃矢崎さんの所には風の正やん(伊勢正三)とかも来て、デモテープをとっていた。で、誰が「語り」をやるかってことになってロバート・レッドフォードの解説文を全員で読んだところ、銀次が一番雰囲気があったんで、彼がしゃべることになった。
その次にDOWN TOWNと「愛のセレナーデ」を書いた。そうやって3曲作ったんだけど、キングトーンズの企画自体が立ち消えになっちゃった。しかも書いて持っていったのは僕らだけだったというw
真面目なんだよ、僕ら。もったいないんでDOWN TOWNはシュガーに使って、「遅すぎた別れ」はシュガーでやるにはちょっとアダルトだから、しばらく放ってあった。それを「トライアングル」の時に「ここでやらない手はない」って銀次が言い出してやったんだ。エンディングのSE「ああ、ベルが鳴った」ってやつね。ああいうアイデアは、元のデモテープを作った時から既にあった。「トライアングル」のはちゃんとしたSE素材を使ってるけど、デモテープのSEは笹塚の駅で録ったのを使ってた。
「フライング・キッド」
コレは非常に変な曲でね。アヴァンギャルドというか、実験的なものにこの頃すごく興味があってね。クラッシックの現代音楽からフリージャズまで、それこそローランド・カークとか、アルバート・アイラーとか、サン・ラとか、山下洋輔トリオとか。そういうものを耳にすることが多くて、ポップだけど実験的なものをやってみたかったんだよね。
それがどれぐらいのクオリティーで出るかをやってみたくて。分数和音とかにも興味あったから。これと同時期に作っていたのが「永遠に」で、美奈子の「フラッパー」に入ってる曲。ああいうコードが複雑な曲とか、分数和音で結局語りなんだか、歌なんだかよくわかんないって言うね。「これってロッド・マッケンとか、そういう何かの出来ないかな」って美奈子に言ったら「じゃ、フライング・キッドって飛行機だろうけど、福生の朝の空みたいな感じの歌にしよう」ってことになって、話し合いながら作ったの。
歌もメロディーも何もないから、曲を聴きながら作った詩を自分でしゃべったり歌ったり、だからこれ歌入れに結構時間かかっている。大滝さんは呆れてたけど、まぁ今から聞くと、アイデアが完全に先走ってるというかね。計画倒れというか。でも今でもこういう試みが結構あってさ、だけどこういうポップなフィールドではあんまり成功しなかった。何故かと言うと、自分の声の特徴と合わない部分があるから。もっと無機的な声だといいんだけど、僕がやるとキャラに合わない。だから誰かにやらせれば良かったんだね、今から考えると。
こんな感じで「トライアングル」では、自分がこれから先どういうものをやるかって言うのを意識したかな。スタジオ・ミュージシャンとやるときに「どういう音楽にするか」というのを、75年の夏ぐらいには漠然と考えていたから。実際にスタジオ・ミュージシャンでレコーディングしようという考えもあったけど、この時点ではまだ黒木真由美とか、他人のためのレコーディングもCMも、ほとんど全部シュガーベイブ+ゲスト・キーボードと言う形でレコーディングをやっていたから、それをもうちょっと前に進める意図はあった。
逆に銀次はセルフカバーだったでしょ。当時の彼は曲が書けない状態じゃなかったのに、なんでだったのかなって、僕は今でも疑問で。このアルバムの時はお互い交流がなかったんで、今もそれは聞きそびれている。
大滝さんはエンジニアだから全部参加してたけど、僕は自分のことだけで、他が何をやっているかあまり知らなかったし。でもあの時、力が一番入っていたのは多分僕だったと思う。
「遅すぎた別れ」なんてのは、まさにこの企画のためにあるような曲だったしね。何をやってもいいって言うから。僕は大滝さんに何をやるとも言わなかったけど。多分シュガー・ベイブのセカンドはナイアガラではやらないだろうと、その時には思っていたから、福生で学んだことのまとめみたいなのを作ろう、って言う気持ちはあったよね。
音が仕上がって来たときの気持ちは、さっきも言ったように、銀次はもうちょっと新しい曲をやったほうがいいんじゃないか、って思った。「日射病」と「ココナッツ・ホリデイ」と「無頼横丁」。「幸せにさよなら」は新曲だとつい最近まで思っていたんだけども、これも昔のストックだと先日大滝さんから聞いて驚いた。大滝さんは録音担当兼務で忙しいからしょうがないけど、とにかく「ナイアガラ音頭」一点豪華主義で行ったんだと思った。「ナイアガラ音頭」はインパクトあったね。これもいろんな奴がいろんなことを言ったけど、僕はすごいと思った。これは大滝さんじゃなきゃ絶対できない。すごくアナクロなところと、コンテンポラリーなところが同居している。大滝さん本来のはっぴいえんど時代から培ってきた旧と新を、うまくコンバイン(混合・融合)するって言うか。途中でオークランド・ファンクに行くところとか、ああいう洒落をやったら天下一品だよね。

 
<この頃は本当に毎日仕事のスケジュールが入っていたんだね>
オールナイトを始めた頃は「トライアングル」のレコーディングとミックス作業にかかってたよね。
1月30日にブラスのかぶせ。目黒のモウリ・スタジオって書いてあるから、これは「パレード」のブラスのかぶせだね。「ドリーミング・デイ」のブラスのかぶせは福生でやった。
その前日の1月29日に「三ツ矢サイダー‘76」のCMやってるね。これで生まれて初めて「ひとりアカペラ」が世に出たんだ。
ライブのほうは1月28日に仙台電力ホール。これは「トロピカル・ムーン」だね。
で、1月31日から2月1日まで大滝さんと一緒に神戸サンダーハウスに出ている。けっこうなスケジュールだよね。この辺はずっと大滝さんのバックをやってたんだね。でも本当に打ち合わせとかじゃなくて、仕事のスケジュールがコンスタントに入っていたんだね。だからようやく何とか食べられるようになってきたんだよ。で、ちょうど2月の頭から「ナイアガラ・トライアングル」のミックスをしている。
2月16日にカッティング。発売が3月25日。で、シュガー・ベイブが解散すると宣言したライブが、2月24日都市センターホールだね。でもこの日だって、ライブの後にスタジオ仕事やってるからね。すごいよね。
だからシュガー・ベイブからソロにシフトしていった時期が1月から2月なんだ。小杉(理宇造)さんに初めて会ったのは2月の初め、RCA(RVC株式会社)で。知り合いの用事に付き合ってRCAに行ったら、僕の顔を知ってた宣伝マンが「紹介したい人がいる」って。それでやって来たのが小杉さんだった。
小杉さんはその時点でシュガー・ベイブのライブを見ていたのかな。解散ライブに牧村憲一さんが声をかけたのは、後で知った。
僕はその時点ではソニーに行く話が進んでいたんで、牧村さんはター坊のソロを売り込むために小杉さんを連れて行ったんだけど、小杉さんは男性シンガー志向な人なので僕に興味を示したの。その後ソニーの話が取りやめになって、小杉さんとやることになるんだ。
当時小杉さんはRCAの邦楽ディレクターで「桑名正博」とかもう既に始めていた。後は「ジュリエット」って言うロックバンドなんかをね。

  

<自分の求めるサウンドとかよく言うけど、そんなものはね、所詮偶然の産物なんだよ>
シュガーベイブ解散の兆候は2月に入ってからかな。新宿かどこかの喫茶店でみんなで集まったのが。仙台や神戸の時はまだそんな話はなかったし。とにかくいきなりなんだよ。ユカリがバイバイ・セッション・バンドにも入りかけていたんだよね、その頃。
最初はユカリが辞めると言ったんだ。喫茶店で話した時は村松くんと僕とユカリがいた。ター坊はいたかなぁ。3人でしゃべったのは覚えている。
召集したのは(マネージャーの)柏原卓じゃないかな。そこまでは覚えていない。3人で話したのは覚えているけど。何しろユカリが「辞めたい」って言い始めて「これはあんたのバンドやから」ってね。
それで僕は白けちゃったの。何度も言うようにシュガー・ベイブは確かに僕のワンマンバンドだったけど、そういうあんたは何か自分でやりたいこと、どうしようかとか言ったことがあるのか、って思ってね。それで白けちゃったんだね。
言い合いにはならないよ。そういう感じじゃないもん。ユカリとは別に激しいやりとりをしたわけじゃなくて、話自体はとても静かなの。だって、ユカリが辞めると言ったらもう駄目だもの。ユカリはそういう性格だからね。それは僕も分かってたから。
今から考えるとね、このヒストリーを始めて色々蘇ってくるんだけど、とにかく若かったっていうか、22、3歳の話でしょう。お互いそんなに深い斟酌(しんしゃく)なんてできるはずもないんだよね。だから、それこそ寺尾がそんなにインテレクチュアルな奴だとか、そういうことをさえも全然知らなかったしね。ずっと後になって、へえ、実はそうだったんだって。
だから他人の事までおもんばかる余裕なんかなかった。相手の立場とか考えてなかったよね。バンドをやるって言っても、やっぱり自分の好きなことをやろうと言うことだしね。だけど自分の好きなことが本当にできたかって言ったら、それも疑問なわけ。結局、演奏力だったり客の反応だったり、そういう要素が色々と絡み合った結果でしょ。
だから自分の求めるサウンドとかよく言うけど、そんなものはね、所詮偶然の産物なんだよ。最近浪曲をよく聴いてるんだけど、浪曲って一人一節と言って、自分自身で独自の節回しを編み出せなきゃ、一人前とは言わないんだ。だけど自分の節を作るためには、いきなり無から有はできないわけ。それこそ他人の節を聞いて、真似したり研究したり、後は広沢虎三みたいに講釈師のところに通って「清水次郎長伝」を教えてもらったり、みんなすごい苦労をして、自分の形を作り上げているんだよ。
だから、我々なんかが21、2歳で「自分のサウンド」とか言ってもさ。後から考えると若気の至り、サイコロ振ってるようなもので、どんな人と出会ったか、とかの要因で決まったりしてるんだよね。
その意味では、どうして解散したのかって聞かれたら、なるべくしてなったとしか言えないね。たまたま出会った5人で1年ぐらいやって、その後に違う5人でまた1年ぐらいやって。そういう中で出てきた音がたまたまそうなったって言うだけで。
その後、青山純伊藤広規が出てきた80年代から先は、それはそれなりに自分の音だって言えるものを作れたけど、それだってそのメンバーそれぞれの音の集合だからね。あのメンバーじゃなかったら、どういう音になっていたのかわからない。
まぁ純粋にひとりで全部やってる時代が何年かあって、その時はコンピューターのお世話になっている、それは完全に自分しか関わってないから「自分の音」とも言えるけど、それだって使っている機材やシンセなどの楽器が違っていたら、その音じゃなかったかもしれない。何より重要なのは、いくら「自分の音」ができたと豪語したって、聴衆がそれを求めなきゃそれで終わりなわけで。後から最もらしい理由をつけてるけど、そんなのほとんど結果論なんだよね。
30年この商売をやっていて、周りではやめたヤツ、足を洗ったヤツもたくさんいるのね。でも必ず異口同音に「あの頃は楽しかった」って言う。そんなもんなんだよ。一度やめてまた戻ってくるヤツもいるし。そういうところではまぁ僕自身は、例えばオフィスとかスタッフとかクビにしたり、自分でやめたりしたことを、そんなに後悔した事は無いけど、人によってはやっぱりやめなきゃよかったって言う。だから人の離合集散なんて、後から最もらしい理由はいくらでもつくけど、その時はわかってないことが多いんだよ。
最近つくづく思うのは、僕って本当にサブカルチャー出身の人間なんだ、って。歳をとってきて、人間関係や人の好みなんかが、どんどん昔のノリに戻ってる感じなんだ。出自がサブカルチャーだから、今のヒップホップの人たちとかと同じ空気感なんだよね。
途中でおかげさまでブレイクしてからは、妙にメジャーなところに属しているように思われているけど、シュガー・ベイブの世界ってほんとに小汚いライブハウスの世界なんだよね。下北沢あたりの小さなライブハウスなんかで、今も展開されている世界と全く変わらないんだ。
だからあの頃に考えていたことなんて、将来のビジョンとかさぁ、戦略論とかでは全然ない。行き当たりばったりというか、この次の仕事をどうやってやるか、それをどうやってこなすか、って言うだけ。
共演がダウン・タウン・ブギウギ・バンドで嫌だなぁとか、CMで「東洋現像所(イマジカ)」とか「日本天然色」に行って、当時はビデオもないし、カラー・コピーもないから、試写室でフィルムや手書きの絵コンテ見せられて、コピーライターや広告代理店から歌詞を渡されて、こういう感じでって指示されて、数日後にスタジオで演奏して、フィルムと合わせながら「雰囲気どう?」って確認する。
当時の僕にとって唯一確かなものは、家でピアノの前に座って曲を作っている時間だったんだ。どういう曲を作ろうかなんて考える時。特にコマーシャルの場合はスタジオに行く前の晩に15秒バージョンとか30秒バージョンとかって作るわけ。その時になかにし礼さんなんかよく言う「天から降ってくる感じ」ってのがあってね。その「天から降ってくる感じ」が面白いんだよ。
で、どんな曲にしようかなって「三ツ矢サイダー」みたいなものを作る。その瞬間だけは確かなリアリティがあった。今でもその瞬間の記憶だけが一つ一つはっきりと残ってるんだな。それ以外の、例えば荻窪ロフトで焼きうどんを食ったとか、ライブの前にどうしたのとか、そういう記憶はほとんど脱落してるの。ステージの上で何をやっていたかと言う記憶さえも、あまりない。
鮮明に記憶に残っているのは、家でピアノの前に座って、最初のメロディーを考えだす瞬間、それだけは今でも鮮明にあるんだよね。「サーカスタウン」を作った時の記憶とか、WINDY LADYを作った時の記憶とか、そういうのは妙にきちっとある。あの高揚感がなかったら、多分僕は音楽を続けてなかったと思う。
シュガーベイブを解散することになっても、僕がそんなにショックを受けたなかったのは、そういうCMとかの仕事もあって、ある程度食えるようになっていたからなんだ。これは大きい。これが74年初めの頃の、食うや食わずの状態の時に解散、となっていたら、結構やっぱり落ち込んでいたか、パニクってたか、どうしようって、怒るかしてたかと思うけど。
まぁいいやと思ったの。(新しいバンドを作るのも)もう面倒くさいなと思った。それよりもコマーシャルやスタジオの仕事の方が楽しかった。SONGSが出て10ヵ月位だったでしょ。その間の、自分では全く予想外の、的外れでくだらない批判というか、誹謗中傷というか、そういうメディアへのストレスもすごくあったんだ。「ニューミュージック・マガジン」とかね。「ミュージック・ライフ」で「歌がなければもっとマシだ」とか書かれて。若かったから、そういうのは結構キツかったんだよね。今だったら「アホ!」って逆に馬鹿にできるけど。あとは何がロックで、何がロックじゃない、などと言う当時の教条的な風土。
それは「ニューミュージック・マガジン」とか「ロッキン・オン」あたりから生まれたと思うけど、そういうのを鵜呑みにして、湧いて出た観客の質の悪さ、野外イベントでの客のから騒ぎとか、しらけ方とか、そういうものへの嫌悪も激しくてね。
でも、それが当時のサブカルチャーを支える中心勢力だったから、抗いようもなかった。ライブでお客さんが増えていくことについても、なんで増えてるのか、わかんないんだもの。レコードがリリースされた途端に客がどっと増えてさ。70年代的な発想で言えば自然発生的なって言うことなんだろうけど、結局は音楽の空気を理解したり、共有できる観客が当時もそれなりには居たんだよね。
他にもバンドはいろいろあったけど、彼らに比べても、ライブハウスでの動員はトップクラスだった事は何度も言ったけど、でもそれは後から考えるとそうだったと言うだけで。当時は仕事のスケジュールもいい加減だったんだよ。荻窪ロフト、下北沢ロフト、高円寺次郎吉といった東京のライブハウスを毎月まとめて連続で組んでね。そんなに毎月新曲が増えるわけじゃないから、結局いつも同じ曲をやるの。そういう日常性があった。それでも毎回、どこでもいっぱいになったんだもん。だからかえって仙台で(鈴木)茂の代理出演で、4曲やった時とかの記憶の方が、新鮮に残ってたりするんだよ。しかも、その時の方が演奏が良かったりするのよ、徹夜明けのライブなんだけど。ひどいよね。そういう意味では煮詰まってたかもしれない。
でも、救いは何とか経済的に自立できていたこと。いつも言うけど、一番暗かったのが、風都市に入って給料が出なかったりした74年前半、それに比べるとこの頃は生活的にはまだいいから、記憶がそれほど醜悪じゃないな。
それにCMとは言え、ものを作る場がコンスタントに与えられて、その他にもコーラスや作曲の仕事が来るようになったでしょ。そういうのはやっぱりちょっと明るさとしての記憶にあるんだよ。
バンドとして次のステップに行こうと言うのはなかった。だから、このヒストリーはこれからソロの時代になるけど、ソロになろうと言うことだって、そんなに自覚的じゃなかったもの。なんでもいいや、っていう感じだった。来る仕事をこなしていく。
で、牧村さんはマネージャーとしてやる気でいたから、ソロでやるのは当然の方向性だって感じだった。そういうダイヤモンドの原石をたくさん並べて磨けば、誰かが光るだろう、っていうのが本音だったとは思うけどね。だからone of themだったんだ。でも、今だったらおそらくソロはやらないな。芸能界は嫌だから。
だから今思うと、ここから「ライド・オン・タイム」までの4年は一体何だったんだろう、っていう感じだね。まぁ修行と言えば修行期間だけど、さっきも言ったように、さしたる自覚なんかなかったんだよ。
今の若い子みたいにアーティストになりたいだの、アイドルになりたいだの、バンドやるだの、そういう自覚的なアクションを起こしたヤツがどれだけものを作るかと言ったら、それも疑問でね。
だから、世の中はままならないんだよ。大体嫌々、他にやることがないからやってるヤツが、生き残ってたりするんだぜ。僕に限らず、あの頃はきちっとした目的意識なんてなかったんだ。そんないい加減な人生なんて、今の子供たちには理解できないかもね。あるいは今も同じかも。でも、あの当時は時代がそうだった、っていうのが全てでね。

  

<このあたりの何ヶ月間で、人間関係がガラッと変わるんだよね>
76年2月かな、新宿の喫茶店で話してバンド解散が決まった。それは多分都市センターホール(2月24日)のちょっと前だったと思う。だから都市センターのステージで唐突に解散を発表したのは、そう言うことだったと思うよ。多分その1週間か、2週間前だったと。都市センターでやってから解散コンサート(3月31日、4月1日)までライブはやってないハズだよ。
この頃は「ナイアガラ・トライアングル」をやっていたから、それはそれで忙しかった。
2月21日にTBSラジオで馬場こずえさんの「こずえの深夜営業」が入ってるけど、おそらくこの前に「トライアングル」のプロモーションが始まっていたんだよ。だから解散発表をした2月24日って言うのはプロモーションの真っ最中だったんだね。で、このあとも(斉藤)哲夫のコーラスとかター坊と一緒にやってるし、仕事はやってるんだ。ただしライブはこれでやめ、っていう。解散ライブは都市センターのあと、(柏原)卓がブッキングしたの。だから結構直前なんだよ。ロフトのスケジュールってどのくらい前に決まっていたんだろうね。
ただ卓はもっと大きなところでやりたかったんだよ。せめて厚生年金中ホールくらいのところで。だけど僕はシュガー・ベイブはライブハウスで始まったんだから、ライブハウスで終わろうって言ったんだ。
追加公演もその日に決まった。31日の整理券があっという間に無くなって、表にまだ客が溢れてて、卓の独自判断で、翌日の予約も取ってみたら、それもあっという間に無くなっちゃったの。
それでライブが始まる時に「実は明日の予約を取っちゃった」って言うから「それじゃあ、しょうがないじゃない」って。それでやることになったの。翌日も(偶然?)空いてたのは元々そう言う作戦だったのかもしれないね。
でもね、あの時は結果オーライでね。1日目と2日目とで全然雰囲気が違ったんだ。最初の日はイベント好きの、いつもと感じの違う客でね。「おらー、やれー」っていう雰囲気がいつも以上で、それは残っている録音を聞くとうかがえるよ。翌日はいつものお客さんだったから、しんみりしちゃってね。そういう感じだったから結果良かったなと思って。常連は(そんなに混まないだろうと)みんな高を括って来たんだよね。
解散ライブの内容は行き当たりばったり。でもね、ユカリになってから♪SHOWとかああいう曲をやらなくなってたんで、やっぱり♪SHOWをやらなきゃいけないんじゃないかと思って、前の年のサード・ライブで1曲目に♪SHOWをやってたんだよ。それで、その延長で2、3曲レパートリーが増えているね。(解散ライブの)リハはやった記憶はある。
解散コンサートで思い出したけど、その直前に芝ABCホールで「ナイアガラ・トライアングル」のコンサートをやっている(3月29日)。なんかささくれたライブだったな。
最初は銀次のバイバイ・セッションバンドで、次が僕で、それから大滝さんと言う順番。僕のセットは最初に弾き語りをやったんだよね。クラッシックス・フォーを1曲やって、フリートウッズの「ミスターブルー」。それから「パレード」と「ドリーミング・デイ」をやって「遅すぎた別れ」で銀次に語りをやってもらって、最後は遊びで「ミッキーズ・モンキー」だったかな。そんなセットリストだった。
その日もABCホールが終わった後に、モウリ・スタジオに行ってCMをやっている。明治の「レモンドライ」、今でも覚えている。
やっぱりこの2 〜3月は激動だったね。このあたりの何ヶ月間で人間関係がガラッと変わるんだよね。大滝さんともここで離れるし、バンドも開催するでしょ。事務所もやめて、総取っ替えで新しいスタッフになるの。変わらないのはCM関係のスタッフだけって言う。
    
<この頃は生きている実感というか、そういうのが希薄だった>
解散コンサートが終わってからは何もなし。もうこの頃は、牧村さんが色々と動いていて、小杉さんがそろそろ出てきて、デモもどっかで録ったんだよね。
吉田美奈子のバックというのがあったね。美奈子のバックをやるようになったのは3月になってから。六川正彦って言う、彼はその後、美乃屋セントラル・ステイションに行くベーシスト。今でもちゃんと現役でやってる。あとは緒方泰男ってキーボード奏者とか、みんないい奴らだったよ。
緒方とはレコーディングは無いけど、CMを結構手伝ってもらった。あと下北沢ロフトでソロになった直後のライブ(76年7月30日、31日)とか、スペシャル・ジャムって言って山岸潤史のセッションなんかで、一緒にやった。
シュガーベイブの他のメンバーのことは全然気にしなかった。何しろ生活の実感ってのが無いんだよ、生きてる実感というか、そういうのが希薄だった。なんか浮き草のように漂っているというかね。
でもCMは違った。コマーシャルに対しては、仕事をしていると言う感じがあったんだよ。
いつも口癖みたいに言ってきたけど、自分のものを作るより、人のことを手伝う方が得意だって。そういう第三者のアイデアとかコンセプトに対して、それを何かに加えるとか、そういう方が得意なんだよね。だからコーラスのアイデアとか、コマーシャルとか、共同作業で、色々な人が介在してくる仕事の方があの当時は楽しいというか、要するにリスクがなかったからね。
反対に「自分の歌う曲を書いて持って来い」とか言われると、すごく重くなる。作っても、またケチつけられるだけだとか、そういう被害者意識の時代かな。それがずいぶん後々まで続くんだよね。だから、自分のレコードはいつも尻を叩かれて作っていたんだ。スタジオには遅刻するし。だから本気で真面目に曲を突き詰めて書くようになったのは、結局ブレイクしてから後なんだよね。
特にバンドの解散前後は随分とモチベーションが下がっていて、そうなるとなかなか曲が書けなくなった。DOWN TOWNの頃はまだ創作意欲ははるかに旺盛だったけど、それでもキングトーンズと言う依頼に応えようと思って書いていたから、ああいう曲ができたんだね。言ってみれば他人向けの仕事の方が、責任感がより出たんだよね。
それにずっと後に「ライド・オン・タイム」でブレイクする頃には、責任の意識やあり方が全然変わっていたからね。たくさんの人が自分の仕事に関わっているし、何より聴いてもらえる基盤が圧倒的に拡大した。そうなるとモチベーションが大きく変わって、スタジオにも遅刻しなくなって、小杉さんはじめスタッフに奇跡だって言われたw、人生なんてそんなもんさ。
人間って怠惰だったり勤勉だったりするのは、環境や人間関係の要素がとても大きいんだよ。もともと僕自身はそれほど勤勉な人間じゃないと自分で思っていた。だけど本当の意味での責任感が求められるようになってきたら、それまでと全然違う自分が出てきて、以後はそれのおかげで続けて来れたって言うことかな。
自分でも意外だったけど、僕にもそれなりに社会性とか協調性があったんだね。古今亭志ん生師匠なんか酒ばっかり呑んでたけど、落語だけは稽古熱心だったとか、そういうひとつでも強力な取り柄があれば何とかなる。
最近よく思うけど、特に職人の世界って生活不適合な人間が多くて、だけど職能の一点ではものすごく秀でている、そういう人ばかりなんだよね。昔はそういう社会人として出鱈目でも、仕事がずば抜けていれば、それで許されたんだけど、今は横並びの社会道徳を押し付けられるから、しばしば本当にいい才能が潰されたり、世に出られなかったりする。
自分の若い頃を回想すると、よくもあんなぐうたらな生活でやってたなと思うんだけど、仕事している時は、特に人の介在している仕事の時は、真面目にやってるんだよ。どんなクズみたいな仕事でも手を抜けなかった。それってすごく大きな要素でね。
だから僕がもっと本当のサブカルチャーの世界にいて、やってる音楽のパンクとかだったら、もう完全にドロップアウトしていたね。他人のことなんか全く意に介さなかったし、気をつかうなんてこともなかったよね。周りだって将来の展望なんて持ってるやつの方が珍しかったし、持つようなやつはダメだったんだよw 時代だよね。
【第17回 了】